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川柳的逍遥 人の世の一家言
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筋書きはいま踏切の鐘が鳴る  森中惠美子

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「子 規 庵」 (空襲で焼失ー昭和25年再建)

子規が亡くなるまで、10年間住んだ旧前田候下屋敷の長屋。

≪愛用の机は、伸ばせなくなった左足を入れるため、一部がくりぬかれている。

 庭の土蔵には硯や筆、衣服などの遺品が保存され、

 また、有名な糸瓜も、毎年植えられている≫

東京予備門に通っていた子規は、常磐会宿舎で、

明治21年から4年間寮生として暮したあと、本郷真砂町根岸に移り住む。

根岸に引っ越して来た子規は、『日本』の記者として”日清戦争従軍を希望”していた。

だが、陸羯南に反対されたため、与謝蕪村の再評価に熱中。

従軍記者に欠員が出たこともあり、根負けした羯南は、

子規に清国行きを許可する。

期待などしてませんのでご自由に  井上一筒

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「日本」新聞/学芸記者時代。(明治28年)

しかし、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなもの」に終った。

従軍からの帰路、甲板で大喀血し神戸で入院。

須磨で、転地療養したのち帰郷し、

松山中学校の英語教師として、

赴任したばかりの夏目漱石と同居することとなった。

その家を、日清戦争から凱旋した真之が見舞う。

子規の病状は悪化するばかりで、ついにカリエスを発症。

≪このころ、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』を詠む≫

気がつけば埃を噛んでいたようだ  壷内半酔

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世の中は、ロシアを中心とする三国干渉に遭い、

近い将来、戦争になるだろうという風潮の中。

秋山好古は、佐久間家の娘・多美と結婚後、陸軍乗馬学校校長に就任。

秋山真之は、日清戦争後、大尉に昇進、海軍軍司令部・諜報課に配属となり、

同課にいる広瀬武夫と邂逅し、同居する。

その後、海外派遣士官となった真之は、アメリカに留学する。

アメリカに発つ前、真之は根岸に子規を見舞う。

今生の別れと思った子規は、

”君を送りて思うことあり蚊帳に泣く” 

と詠んだ。

人間のいろはを問えばとうがらし  倉橋悦子

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松山市立子規記念博物館には、

正岡子規と秋山真之とが直接交わした書簡が、7通だけ残されている。

残っている7通の真之の書簡うち、最初の書簡は、

真之が海軍兵学校への転校する時に、

短歌で子規に別れを綴ったものである。

真之は、海軍に入ってからも、子規に書簡を書き送っている。

絵ハガキに添えて真之から届いた文面の一例。

「英国公使館付の駐在武官となり、アメリカからイギリスに渡る」

子規も、相当な数の書簡を、真之に送っているはずだが、

残念ながら、今は残っていない。

こんな時無口な友がありがたい  山口ろっぱ

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明治30年、真之は、海軍留学生として世界に飛躍することになった。

一方、結核にかかった子規は、病状が進んで寝たきりになってしまう。

子規は、真之が旅立つ日に、

”君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く”

という句を詠んだが、その”思うところ”は何なのか、不明である。

って吐く吐くのがちょっと面倒で  森田律子

あとで、この句を知った真之は、

「世界をあれほど見たかった好奇心のかたまりたる」

子規の身を思いやりながら、

「政治こそ、男子一代の仕事」

と信じた友人の身中を思っている、真之の心境を、

司馬遼太郎は、次のように書き込んでいる。

「若いころの壮志をおもうと、まだ三十というのに、人生がすぼまる一方であった。

 やがて死ぬ、と覚悟しているにちがいない。

 なにごとを、この世に遺しうるかということをおもうと、

 あの自負心の強い男は、真之のはなやかを思うにつけ、

 あの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。

 真之は、そうおもった」 (「渡米」)

こうなれば持ち味だけで生きてやる  井上良子

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     律・菅野美穂

海外の真之は、

「遠くとて 五十歩百歩 小世界」

という年賀状を送るが、

それは、真之の思いやりだったのだろう。

そうした年賀状などを励みとしながら、子規は病床で名句を生み出していく。

”正岡子規 絶筆三句”

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず

をととひの へちまの水も 取らざりき

点滴を曳きずり春の海へ漕ぐ  東おさむ

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真之が帰国した明治33年8月、その頃から、

子規の病状は急速に悪化して行き、

明治35年9月19日、子規は遂にこの世を去る。 (享年34)

子規は、臨終の時まで、真之との思い出を抱くように、

真之から贈られた、毛の蒲団を肌身離さなかったという。

葬儀の日、真之がやって来たのは、

子規の棺が家を出て、間もなくであった。

「余談ー香川照之・後日談」

『龍馬伝』は、ソリッド(堅物)な、硬い感覚の撮り方です。

『坂の上の雲』は、やわらかい坂の上に広がる、うす青い空の色のような、

 温かさにつつまれた作品です」

原点の大地へ帰りゆく命  中川正子

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柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

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 子規生涯最後の写真

≪一般的によく目にするこの写真は、病気のため、起き上がることができず、

 寝たまま撮影したという≫

正岡子規は一体、どんな状況下でこの「柿食えば・・・」の句を生み出したのだろうか。

当時の気象記録や、子規の随筆などの資料から見てみると、

そこには、不思議な符号と、知られざる美少女の面影が浮かんでくる。

松山で共同生活していた夏目金之助(漱石)から、旅費の援助も受けて、

子規が念願していた”大和路への旅”は、明治18年10月19日松山~始まる。

送られて一人行くなり秋の風 

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旅装姿の子規

広島~須磨を経由して大阪へ、そこから奈良へ向かい10月30日帰京までの道中、

秋風や囲ひもなしに興福寺

般若寺の釣鐘細し秋の風

大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩い、

柿赤く稲田みのれり塀の内

人もなし駄菓子の上の秋の蠅

と詠んだ。

≪この時、柿食へば・・・の句を詠んだとされるが・・・’実はそうではないようだ’

ともし火や鹿鳴くあとの神の杜

鹿聞いて淋しき奈良の宿屋哉

軸足をずらし優しい風を待つ  倉地美和            

≪よっぽど一人旅が寂しかったのだろうか・・・宿屋で淡い恋心らしきものが生まれる≫

・・・東大寺南大門近くの旅館・「角貞」、部屋に落ち着くと、

ほんに可愛い女中がやって来て、子規の大好きな富有柿を剥いてくれた・・・。

秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味

その時の様子を子規は、随筆の中で回想している。

『下女は、直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に、山の如く柿を盛りて来た。

 此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。

 生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。

 やがて柿はむけた。

 余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。

 柿も旨い、場所もいい。

 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。

 彼女は初夜が鳴るといふて、尚柿をむき続けてゐる。

 余には、此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。

 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が、初夜を打つのであるといふ。

 そして女は障子を開けて外を見せた』
 
長き夜や初夜の鐘つく東大寺

美味しい美味しい柿。

しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。

冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。

・・・子規はどんな目で、この娘を眺めたのだろうか?・・・

このとき、‘柿食へば・・・法隆寺’の句がうまれている。

「東大寺」ではなく、なぜ「法隆寺」になったのか、なにか秘密にしておきたい事情、

 もしくは、子規の純情のあらわれだったのだろうか・・・?≫

・・・子規がこの句を詠んだ明治28年10月26日の天候は、‘雨’だった。

≪10月26日、この日を「柿の日」と制定される≫

時雨が続いて、底冷えがするそんな日に、

病身の子規が、震えながら、柿を齧り付くとも考えられない・・・

いく秋をしぐれかけたり法隆寺

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子規庵の縁側に座る子規(第一回蕪村忌が行われた時の写真)

「疑問点」

子規の’柿食へば’よりも早く、愛媛松山の「海南新聞」に掲載された句がある。

鐘撞けば銀杏散るなり建長寺

柿食えばの句に類似しているが、子規の作ではない。

作者は、夏目漱石。

漱石の句は9月6日に、そして子規の句は11月8日に同じ海南新聞に載った。

子規が真似たか・・・・・な!?

≪漱石の俳句は、「子規を囲む会」で生まれたか、

あるいは’子規が選んだ句ではないか’と、NHKは解説する≫

建長寺の句が、子規の頭のどこかにあり、法隆寺の句をつくるとき、

「それが無意識に媒介になった」と考えられるというのだ。

長けれど何の糸瓜とさがりけり  漱石

明治29年の作、この句に、子規は二重丸をつけた。

子規は、「明治29年の俳句界」で、子規門の俳人として、

「漱石は明治28年始めて俳句を作る。

 始めて作る時より、既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」

との評する。

いわゆる、「柿食へば・・・」の句は漱石に、指導する意味において、

暗黙の中で建長寺の句を、

自分のものと比較させるように、しむけたのかも知れない。

漱石は子規にとって、友人であり、弟子であり、恩義のある人なのである。

そして、「柿くへば・・」の句は、

≪また療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石の、「鐘撞けば・・・」の句への、

 返礼の句ともいわれているが・・・~((((( ~ 〓~)□~((((-_-;) ウツセミノ術≫

行かばわれ筆の花散る処まで  

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  子規と漱石の二人句

ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影  子規

半鐘と並んで高き冬木かな   漱石

ありがとうの数だけ友情が芽生く  前田咲二

『正岡子規』 (1867~1902) 

日本を代表する俳人。

短歌や随筆、評論なども創作し、日本の近代文学に大きな影響を与えた。

秋山真之の一年年上ながら、小学校から中学、大学予備門まで同学年。

その後、真之は中退して、学費のかからない海軍兵学校へ。

子規も肺結核を発病後、帝国大学文科大学国文科を中退して新聞記者へと、

二人は別々の道を歩むことになった。

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     33歳の子規

≪病床にあっても俳句・短歌・小説と創作意欲は旺盛だった≫

子規は、寝たきりになってからも、門人の「高浜虚子」「河東碧梧桐」らが、

口述筆記するなどして、創作活動を続けた。

無宗教で、戒名も、「無用に候」「葬式の広告など無用に候」

本人が書き残した墓誌には、「月給四十円」と結んでいる。

死ぬときに飾るものなど残さない  森中惠美子

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越えるなと言われた線が動き出す  黒川孤遊

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    坂の上の雲・船出

『日清戦争「武士道の精神」にみる美談』

日清・日露に活躍した将官には、

戊辰戦争や西南戦争に出動した経験の持ち主が、

非常に多いという事に気づく。

いわば、これらの男たちは、幕末まで”武士として”育ち、

明治日本の近代化と並行して、”軍人として”の道を歩み始めたのである。

ということは、日清・日露戦争には、

「まだ、武士道の精神が生きていた時代に行なわれた対外戦争」

という一面が見えてくる。

草に寝て空をわたしの空にする  宮崎ただじ

たとえば、旧薩摩藩に生まれ、薩英戦争に参加して、

イギリス海軍の強さを、間近に見せつけられた『伊東祐亨』(いとうすけゆき)という、

豪放磊落な薩摩人がいる。

これを契機として海軍を志した伊東は、

西南戦争に際しては、軍艦「日進」の艦長として薩軍追討に参加。

日清戦争がはじまると、連合艦隊の初代司令官として、

黄海海戦、威海衛突入戦で、清国の北洋水師を、鎧袖一触してみせた。

☆ 鎧袖一触(がいしゅういっしょく)

(鎧の袖を少し触れた程度の力で敵を倒す意から、相手をたやすく打ち負かすこと)

司馬遼の風武士を連れてくる  夏井誠治

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    伊東祐亨

そして、北洋水師の提督・丁汝昌が敗北の責任を取って、

服毒自殺したと報じられた時。

伊東はその柩が、不潔なジャンクに載せられて、故郷に運ばれると聞くや、

戦利品として、捕獲したばかりの運送船・「康済号」を清国側に返還し、

これに、「丁汝昌の遺体と遺品を載せて送るように」指示した。

そればかりか、「余裕があれば将士を乗せてもよい」と付言した。

腐葉土の中にも半跏思惟像  井上一筒

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   北清事変講和条約

大日本帝国憲法のもとでは、

宣戦講和や条約締結は、天皇の大権に属するから、

いかに司令長官とはいえ、戦利品の一部を勝手に敵国に返すことは許されない。

というのに、あえてこのように命じたところに、

伊東なりの武士道の精神があったのだ。

この美談は、博文館発行の『日清戦争実記』に大きく報じられ、

一夜にして伊東は、英雄としてもてはやされることになった。

しかし彼は、つぎのような和歌を詠むばかりであった。    

”もろともに建てし功をおのれのみ世にうたはるる名こそつらけれ”

富士山の肩にマフラー巻きつける  松下ヒロス

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日英の蜜月関係にロシアが嫉妬している様子を描いている。
                              (1902年英『パンチ』誌)

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日英同盟は清国と韓国において互いの権益を承認保護し合う。

「日英同盟」

日清戦争に敗れた清国は、

大国にもかかわらず、弱体だったことが暴露される形となり、

ロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどの列強が、

一気に中国へ進出してくる状況を迎えた。

特にロシアには、悲願があった。

”凍らない港”の確保である。

≪結果、ロシアは、満州北部横断の東清鉄敷設権と旅順・大連・金州の租借権を獲得。

 フランスは、安南鉄道延長権、広東三省等の鉱山採掘権と広州湾の租借権を、手に入れ、

 ドイツは、膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権・鉱山採掘権を、手に入れた。

 イギリスもまた、九龍半島と威海衛の租借権を、手に入れている≫

抹茶椀水の甘さを知りつくす  亀山 緑

こうした列国の中国進出を怒った民衆が、反乱を起こした。

「義和団の乱」である。

義和団というのは、農民を中心とする宗教的秘密結社で、

「扶清滅洋」(ふしんめつよう)をスローガンに、

明治33年(1900)蜂起し、鉄道を破壊したり教会を焼いたり、

北京の外国公使館などを襲撃したりした。

≪当時、清国の利権は列強諸国に食い荒らされ、とくに鉄道の敷設によって、

 地方では、重い税金をかけられ、清国の農民は死ぬ苦しみを味わっていた≫

石ひとつ投げて波紋を見届ける  吉岡 修

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このとき、地理的にも一番近い日本は、

すぐ鎮圧のための軍隊を、出そうと思えば出せたのだが、

「列国を困難に陥らしめて後、これを救うのが得策」 (桂太郎)

という”作戦”によって、すぐには派兵しなかった。

事実、その作戦は当たり、イギリスからは日本軍の出兵を求め、

財政援助まで申し出てきたのである。

結局、日本は1万2千の兵を送り、義和団鎮圧を成し遂げた。

≪翌34年、「北京議定書」が調印されることになった。

 この一連の動きを「北清事変」とよんでいるが

 日本の「極東の憲兵」としての位置づけを、列強も認めはじめる出来事だった≫

戦国の世に爪だけは静かなり  壷内半酔
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この北清事変を通して、日本とイギリスとの間は、さらに接近する形となった。

イギリスは、果てしないロシアの南下政策を止めるには、

「日本の武力」が必要と考え、

また日本は、「イギリスの資本と技術」を高く評価し、

明治35年1月30日、ロンドンにおいて、

「日英同盟協約」が結ばれることになる。

当面する利害の一致で、結ばれた日英同盟が、

その後の、「日本の軍国主義的方向を決定づけてしまった」といえる。

かさぶたの剥がれるときを待てません  たむらあきこ

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あしたが見たくて地球儀を回す  森中惠美子

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坂本龍馬の柩が登った坂

「龍馬から坂の上の雲へ」

歴史上の人物で、「誰が好きか?」と聞くと、必ず上位にいる坂本龍馬

しかし龍馬は、明治という新時代を迎えたときは、それほど有名人でもなかった。

明治37(1904)年2月8日、「日露開戦前夜」のこと、

葉山の御用邸に昭憲皇后が滞在していた時に、

37歳ほどの武士が、白衣で皇后の夢枕に立ち、

「日本を勝たせて差し上げます」

と日本対ロシアの戦いの際の海軍勝利を誓ったという。

その話を聞いた、宮内庁長官だった伯爵・田中光顕が龍馬の写真を見せて

「この人でしょう?」

と問うと、皇后は、「間違いなくこの人物だ」と語った。

枕元に立って私を呼びにくる  谷垣郁郎

真偽のほどは判らないが、この話が全国紙に掲載されたため、

”坂本龍馬の評判”が全国に広まる事となった。

≪日本海海戦で大勝したことで、

皇后の御意思により京都霊山護国神社に、『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が建立された≫

ということは龍馬は、

それとなく、「坂の上の雲」にも登場していることになる。

困らせてみてよたまには好きですと  森田律子

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桂浜を望む龍馬像

高知県の桂浜には、龍馬の巨大な銅像が建てられ、

いまや県を代表する観光名所になっている。

その銅像が建てられ、お披露目されたのは、昭和3年5月27日のことである。

5月27日は、当時、「海軍記念日」だった。

明治38年(1905)のこの日、

東郷平八郎率いる「日本連合艦隊」が、

対馬沖でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、

日露戦争における日本の勝利が決定的となった。

「龍馬像の除幕式」は、この記念日に合わせて行なわれたのである。

引き際のよさで喝采受けている  八木 勲

すでにその頃、龍馬と海援隊の”幕末の活動”が再評価され、

人々にもかなり、知られるようになっていた。

龍馬の海援隊は、「日本の海軍の先駆者」としてあつかわれ、

海軍からは、駆逐艦・「浜風」が祝賀のため、来航した。

島国に今一斉のオーケストラ  徳山泰子

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四国は伊予松山に三人の男がいたー(ドラマ・スチール写真)

「坂の上の雲」-スタート

「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている」

あまりにも有名な『坂の上の雲』の書き出し、この長大な物語は松山から始まる。

作者である司馬遼太郎氏は、

主人公に松山出身の正岡子規、秋山好古、秋山真之の三人を選んだ。

子規は、俳句・短歌の革新者として文学史に不滅の名を残し、

好古は、日本の騎兵を育成し、日露戦争で史上最強のコサック騎兵を破り、

真之は、連合艦隊の参謀として、日本海海戦の作戦をたて、

バルチック艦隊に完勝した。

血の努力は伏せラッキーと言う謙虚  大堀正明

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秋山兄弟生誕地

≪空襲で焼失した生家を忠実に復元している≫

この三人が、松山市内の、歩いてもほど近いところに生まれ育ち、

子規と真之は、無二の親友であるというのは、明治日本の面白さだろう。

司馬遼太郎氏が書くように、

秋山兄弟がいなかったら、日露戦争はどうなっていたかわからない。

しかし、もともと好古は、学費の要らない師範学校から教師になり、

真之は、子規とともに文学を志し、東大に進学する予定だった。

違う時代に生れていたら、三人ともまったく異なる人生を送ったことだろう。

 ただの山やろか応神さんの陵  井上一筒

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    巨人と小人

明治は、国の運命と個人の運命が、分かちがたく結びついた時代だった。

国家予算、常備兵力が、十倍近い超大国ロシアを相手に、

日本は外交、経済、軍事すべて、すれすれの際どい交渉や、戦いを積み重ねて、

「ひやりとするほどの奇跡」を成し遂げた。

時代が彼らを、「日露戦争」という祖国防衛のための、

”奇跡の演出者”として招きよせたのかも知れない。

幕末には、坂本龍馬を求めたように、

いつの時代も、「必要な時に必要な人材が登場してくる」ようになっているようだ。

最高の神のジョークで生きている  鶴田遠野

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 昭憲皇后

『余談』

皇后の夢の話が載った新聞は、明治37年4月13日付の「時事新報」である。

タイトルは「葉山の御夢」。

龍馬のことでなくても、興味を引くタイトルだな( iдi ) ハウー

夕もや向うに姫が立っている  壷内半酔

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龍馬像除幕式に参加した”浜風”

『豆辞典』-「浜風」

日本海軍の、陽炎型・13番駆逐艦・浜風は、

「武蔵」「金剛」「信濃」の沈没に立ち会い、

自身も昭和20年(1945)坊ノ岬沖海戦で、「大和」と共に戦没した。

「陽炎型」は開戦時、「夕雲型」は中盤から海軍の期待をになって使用された。

が、本来の任務である「敵艦隊の雷撃」には、殆ど使用されず、

空母や輸送船団の護衛、

ガダルカナル島を初めとする島々への、輸送作戦に従事する。

≪艦隊決戦を主目的に計画/建造されたために、

 対空・対潜能力が優れているとはいえず、それらの作戦で、

次々と失われていったため、
終戦まで生き残ったのは”雪風”のみである≫

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里恵          

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土瓶蒸しすすり終えたら自首します  井上一筒

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「阪本氏を斬りたるは拙者なり」と書かれた紙面

「龍馬暗殺の真犯人は」

龍馬暗殺の実行者が京都見廻組であるとわかったのは、

見廻組隊士であった今井信郎の自供によってである。

見廻組で龍馬暗殺にかかわった隊士は、

「鳥羽・伏見の戦い」
でほぼ討ち死にするものの、

今井だけは生き延びて、会津で戦い、「箱館戦争」にも参加する。

ここで、旧幕府軍は完全に敗れ、今井の身柄は東京の刑部省に移され、

龍馬殺害を自供するにいたった。

レタス剥ぐ軽い秘密を剥ぐように  井上裕二

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    今井信郎

不思議なのは、その後の今井である。

本来なら、明治維新の立役者を暗殺したのだから、

その報酬として、厳罰が待っていそうなものだ。

ところが、今井に科せられた刑は、「静岡藩預かりの禁固」と軽かった。

時の刑部大輔・佐々木高行は、

土佐藩出身で、龍馬と面識があったにもかかわらずだ。

そして、明治5年(1872)には、今井は恩赦によって赦免されている。

 手管なんだろうか本意なのかな  山口ろっぱ

そんな不思議な成り行きとなった背景には、薩摩の西郷隆盛がいた。

西郷が裏で動いたため、今井に厳罰を与える事ができず、

また早期に、赦免されることになったという。

≪西郷が動いたことについては、今井の子孫も証言している≫

このあたりから、"龍馬暗殺の黒幕に西郷がいた"という説が生じているだ。

≪なぜ西郷がそういう動きをしたのか、その意図はいまもよくわかってない≫

歳月やひとりの面の裏おもて  森中惠美子

今井はその後、静岡県の初倉村で、名を 「吉野五郎」 と変え、

キリスト教に入信、かつて人を斬った者とは思えぬほどの、

穏やかな人物となった。

今井は初倉村に学校を建て、晩年には村長までつとめ、大正8年(1919)に没している。

豆を煮る時間 童話を書く時間  本多洋子

その一方、今井は晩年、

龍馬暗殺について、かつての自供を一部ひるがえした。

明治3年(1870)の初の自供では、

今井の役割は、階下での見張り役にすぎなかったのだが、

その後、「龍馬を斬ったのは自分本人である」 と語りはじめたのである。

これにたいして、龍馬に私淑していた谷干城は、

「売名行為である」と非難している。

今井がなぜ自供の一部を変えたのかは、わかっていない。

死去する前に、真実を洗いざらい語っておきたかったのか?、

売名行為だったのか?

当人のみぞ知るところである。

満月へ喉の手入れを念入りに  浜 純子

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   坂本一家(龍馬姻戚)

「余談ー今井の暗殺者説の疑問」

明治11年(1878)、龍馬の養子・高松太郎(龍馬の姉・千鶴の子)から、

「父(龍馬)の法要をするから出席してほしい」

という手紙が届き、

出席すれば、「命はない」という覚悟で、今井は法要に足を運んでいる。

高松はこの出会いを喜び、

「過去を忘れて新しい日本のために働こう!と言われた」

と今井の妻が語ったといわれる。

もし今井が、龍馬暗殺に関わっていないのなら、

殺されるかも知れない法要に、出かけるとはとうてい思われない が・・・。

尖ってはならぬと花筏に学ぶ  たむらあきこ

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撮影クランクアップの龍馬・福山雅治と岩崎・香川照之

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 龍馬伝・終了記念写真

呼んでごらんよ振り向いたのが犯人だ  八田灯子     

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