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川柳的逍遥 人の世の一家言
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手鏡の罅は警告かも知れぬ  笠嶋恵美子


ミャンマーといえば熱心な仏教国である。
その仏教国ミャンマーでは、日本の「鎌倉大仏」が人気で、大仏付近の
土産物屋さんでは、ミャンマー観光客によって、ミニ鎌倉大仏が大量に
買われている。
    
       土産用ミニ鎌倉大仏
ミニ鎌倉大仏は、ミャンマーでは、本物の大仏を拝んでいるのと同じな
のだ。さらには日本の鎌倉大仏の前で、土下座して拝むミャンマーの観
光客もいるほどだ。
ところで、奈良の大仏でなく、なぜ鎌倉大仏なのか?
鎌倉の大仏にお祈りをすると願いが叶うという噂。
さらに具体的に、鎌倉の大仏のミニチュアを毎日拝むと、
いつか日本に行けて本物の大仏を拝めるという噂もある。


人間を続けています揺れてます  合田瑠美子


「鎌倉殿の13人」 源頼朝と鎌倉大仏と亡霊と
 


            征夷大将軍の院宣
 

「頼朝とはどんな人?」

「顔が大きく、容貌は美しい」 『源平盛衰記』
「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」
『平家物語』「征夷大将軍の院宣」の使者・中原泰定頼朝と対面
した印象を述べている。
背が低かったと泰定はいうが、頼朝の着用した甲冑から計測して、
5尺5寸(165cm)はあったとされる。
これは、当時の平均よりも高い部類になる。
顔が大きいというのは、分りにくいが、男前で女性にもてたようだ。
性格は、「けちんぼ」(倹約家)「女性が好き」(浮気性・嫉妬深い)
で、「情け容赦のない冷酷政治家」であったらしい。
その性格を、九条兼実の日記『玉葉』が、次のように書き残している。
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」と。


善と悪捩じれて仮面出来上がる  大西將文
 

その性格を、九条兼実の日記『玉葉』が、次のように書き残している。
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」と。
 
 〔けちんぼ・質素倹約〕
側近の藤原俊兼の贅沢な衣服を見た頼朝は、俊兼の小袖を刀で切り裂き
「お前は才能に富んだものなのに、倹約と言うことを知らない」
「今後は華美を止めよ」と、説教して奢侈を戒めた、ことがある。


いい人のポーズのままのお説教  美馬りゅうこ


     
        源 義高            源 行家


〔容赦のない冷酷政治家〕
 頼朝反対派を抑える手段として、上総広常 (佐藤浩市)に罪を着せ
  梶原景時(中村獅童)殺害させた。
 木曽義仲の子・義高(市川染五郎)を向後の憂いを払うように殺害。
③ 弟・範頼(迫田孝也)を伊豆配流直後に殺害。
  さらに白旗を挙げ助命を乞う叔父・義広、行家を誅殺。
④ 平家追討後の宣旨に関わる変わり身の早さ
⑤ 成敗文明ー後白河擦り寄る義経を平泉へ追い、自害に追い込む。
 理非裁決ー義経を裏切って、忠節を誓った藤原泰衡の騙し討ちにし、
  平泉藤原氏を滅ぼした。


人間の貌か毎朝確かめる  森吉留理恵


 〔浮気性・嫉妬深い〕
 政子 (小池栄子)に屋敷を破壊された亀の前(江口のりこ)
 八重 (小四郎の嫁にすり替える)
 大進局(伊達入道の娘、御所の女房衆)
 静御前(義経妻にやきもちを焼き、静御前を横恋慕)
 
 
色男多少しつこいとこがある  北原おさ虫


〔和歌を詠むなど風流な一面も〕
「新古今和歌集」頼朝の歌がある。
道すがら富士の煙もわかざりき晴るるまもなき空のけしきに
(頼朝が旅途中、富士山は晴れるまもない空もようのなかで…
 噴煙を帯びてはっきりとみえなかったー残念だー)
この時、頼朝の脳裏に天下が過ったのだろう…?
頼朝と政子の次男・三代将軍・実朝は、この血を継いだらしい。
もう一句。
みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ
(陸奥の国磐手信夫群ではないが、言わずにたえているなど私には
 理解できません。壺の碑の「ふみ」ではないが、手紙に想いを
 書いて送ってください)


のんびりと春の草食む夢を追う  前中知栄



           壇ノ浦の亡霊  (歌川国芳画)
左上、亡霊と絡み合うヘイケガニ、右、薙刀を持つ平知盛。


「頼朝と大仏」

治承4年(1180)12月28日、平重衡の「南都焼討」によって、
東大寺は灰塵と帰した。
翌治承5年、後白河法皇が、東大寺の再建計画に俊乗坊重源を任命し、
復興事業が開始させた。
しかし、最新の技術で厳選された資材を使って再建するには、
巨額の資金が必要であり、重源は資金集め苦慮していた。
3年後に重源の苦労を聞き知った頼朝は、鍍金料千両の金を寄進し、
翌年には、米一万石、砂金一千両、上絹一千疋を寄進するという、
積極的な協力を行った。
さらには、中原親能・畠山重忠・梶原景時ら頼朝の重臣たちが、
大仏の脇の「仏像3体」の製造費を負担したという。
文治元年(1185)銅造盧舎那仏坐像(大仏)の開眼供養が行われた。
頼朝は、鎌倉から数万の軍勢を率いてこれにかけつけた。
そこに要人警護として和田義盛梶原景時が、頼朝の行列や公卿の列に
並び、三浦義澄・江間小四郎らが、その警護を務めた。
頼朝の華々しい御家人たちのデビューであった。
そして10年後、「大仏殿」が完成した。


水玉がやる気を出して水滴に  森田律子


頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養において、大仏を仰ぎ見た頼朝は、
「このような大像を東国にも建立して、護持を祈る」
ことを望んだ。(『鎌倉大仏縁起』 )
しかし、頼朝はそれを果たすことなく、4年後に亡くなってしまう。

頼朝の上洛に付き従っていた侍女の稲多野局(いなだのつぼね)は、
頼朝の「鎌倉大仏建立」の意志を継ぎたいと考えた。
彼女は、頼朝の所願を果たすため、鶴岡八幡宮に祈願し、深沢の里の
総国分寺の傍らに庵を営んで、資金調達に努力した。
これに妻の北条政子も助力した。
金銅の大仏を鋳る大願をたてた稲多野局は、五代将軍・藤原頼嗣に請い、
造立を許されるのである。


音域を増やせば抱けるものがある  保田邦子
 


           髑髏・亡霊   歌川芳虎画
左、亡霊となった平知盛が、薙刀を振りかざし源氏軍と対峙している。


貴族社会であった日本で初めて武士による政権を作り、関東を制圧し、
鎌倉幕府を作り、その後680年にもわたり、武家政権の礎を築いた
頼朝だが、「大仏建立を願った真意」は、何だったのだろうか?
その死因が謎に包まれている。
鎌倉大仏が建立された頃、付近には、死後に出会う十王を祀る円応寺
(新居閻魔堂)があった。
鎌倉大仏は「極楽」、長谷観音「救済」円応寺「地獄」とともに、
浄土信仰に基づく情景を、構成する寺院群の一つだったという……。


堕ちるだけ堕ち大仏の手に溺れ  てじま晩秋


「頼朝の死因」

建久9年(1198)12月、頼朝は、相模川の橋供養に列席した帰路
に落馬し、その時の怪我により、翌年の1月に亡くなった…とされる。
『吾妻鏡』は、頼朝から6代将軍・宗尊親王までの時代の出来事を、
記録したものである。
にもかかわらず、頼朝の死は、それから13年も経ってから記録されて
いる。そのうえ、死後3年間の記録が、記述されていない。
武士でありながら落馬して死んだとは、褒められたものではないが、
将軍である頼朝の死に、13年間も触れないのは不自然である。


心臓に毛が生えたのも同じ頃  ふじのひろし


頼朝の死因は、他にあるという考え方もある。
、「脳卒中や糖尿病」などの病死なら隠すことはない。
北条政子が頼朝の「浮気に激怒」し殺害に及んだ、という考え方もある。
が、頼朝が浮気相手の邸へ忍んで行く時も、側近が近くに控えているし、
政子は頼朝を愛していたので、殺すまではしないだろう。

なかでは、「亡霊の仕業」だという考え方もある。
橋供養の際に、上に記した理不尽な裁断に加え、義経安徳天皇など、
指揮官として頼朝が殺害してきた人々の亡霊が現れ、驚いた馬が暴走し
落馬して死んだというものである。
当時の人々は、「怨霊」というものを信じ、恐れていたので13年間
その死に触れなかった…のではないかというのである。
だが、現代人には、この考え方も納得できるものではない。


ご遺体は半壊 ミント味の樹海  くんじろう


もう少し突っ込めば、その頃、朝廷内で起きていた「派閥争い」である。
親幕派と反幕派が内部抗争を繰り返し土御門通親(つちみかどみちちか)
が率いる反幕派が勝利したという事実だ。
土御門といえば、あの陰陽師・安倍晴明の末裔である。
頼朝の不審な事故死と怨霊の噂、そして、朝廷で幕府に、頼朝に憎悪を
燃やす安倍清明の子孫。
「あの安倍晴明の子孫だから、何をするかわからない」
「平家や義経の怨霊が、鎌倉に祟っているのだ」
と、迷信深い当時の武士たちが震えあがった、こともあり得る。


巡り合えたところで洗濯物を干す  谷口 義


「頼朝伝説」ー糊売り婆さんのお願いに。
 
頼朝が鎌倉に入った頃の事。
頼朝は、鎌倉には谷戸が多いので、その数を調べることとした。
その方法は、谷戸ごとに「のろし」を上げさせて数えるというもの。
一番高い山に登って<のろし>を数えていた頼朝は、
長谷の谷戸で五色の煙をたなびかせている<のろし>を発見した。
さっそく、家来に命じて調べさせた。
すると一人の婆さんが
「<麻のから>と<胡麻のから>を燃やしていた」のだという。
<五色ののろし>に感心した頼朝は、婆さんを呼び出して褒美をとら
せることにした。
「何がよい」
と、聞くと、糊を売ることを生業とする婆さんが望んだのは、
「鎌倉での糊の販売の独占権」
というから、頼朝はすぐに婆さん以外の者が、糊を売ることを禁止した。
やがて、婆さんは大金持ちになった。
婆さんは、金持ちになれたのは、「仏様のおかげ」と考えた。
そこで婆さんは、今度は長谷の谷戸に大きな仏像を造ることを思い立ち、
頼朝に「仏像建立」の手助けを願った。
頼朝は、その奇特な志に感心し、大金を出して助力したという。


物よりも時間くださいごほうびに  立蔵信子



  鎌倉市長谷にある浄土宗の寺・高徳院

  本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」と通称される大仏(阿弥陀如来像)で、
台座を含めた高さは13.35m、重さは122tという巨像で国宝に指定される。
右の頬には金粉が残り、金像であったことがうかがえる。

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あの人が好きで嫌いで春嵐  吉松澄子
 

 
                                 かるたあわせ鎌蔵武勇六家仙
左上から時計回り→鎌倉武者に風刺言葉とともに。
江間小四郎 (いしのうへにもさんねん)
政子御前  (おいてわ子にしたがへ)       
北条時政  (えんの下の力もち)
九郎義経  (ほねおりそんのくたひれもうけ)
源実朝   ( みからでたさび)
大江広元  (えてにほにあげ)


 「まさかの小四郎が」
鎌倉幕府の第二執権となった北条義時(江間四郎義時)は、権謀のかぎ
りをつくして政権を牛耳った策略家として知られる。
ことに父・時政を出家させて伊豆に幽閉し、幕府の実権を握ってからの
義時の行動は、冷徹そのものである。
すなわち、侍所の和田義盛一族を滅ぼし、実朝暗殺にも一枚かんでいた
と思われ、源氏の正統が絶えた将軍家には、九条道家の子・三寅を迎え
て継がせ、自らは、権力をほしいままにした。
そして、承久の乱では、朝廷を制圧して、敵方の所領三千余カ所を没収
して新補地頭をおき、幕府の威力を全国にいきわたらせたのである。


モザイクをかけてあるから人でしょう  米山明日歌
 


  
   比企比企尼         比企能員
 

「鎌倉殿の13人」 新垣結衣ラブ


しかし、この冷徹な義時は、女性に関しては、意外なほど純情であった。
建久3年(1192)9月、義時は30歳で結婚した。
当時としては晩婚である。
相手は比企能員の兄・比企朝宗の娘で、もとは頼朝の女官だった。
女癖の悪さには定評がある頼朝の女官だったところが気にかかるが、
姫前(ひめまえ)と号する女性を正室に迎える。
比企氏は、頼朝の乳母・比企尼が、20余年にわたって、伊豆配流中の
頼朝の生活の面倒をみたことから、比企氏一族は重用され、政界の一勢
力であった。
姫前は容貌はなはだ美麗、頼朝のお気に入りで、権威無双とさえいわれ
た女性である。
(ドラマでは「比奈」の名前で登場する)
義時はこの女性に想いをかけ、1両年にわたって、しきりにラブレター
を送って求愛したが、彼女に受け入れられず、思い悩んでいた。
(このあたりは、ドラマの新垣結衣八重とダブル)


棒読みになってしまったプロポーズ  橋倉久美子


そんな義時の想いを知った頼朝が、仲人になって話をまとめ、決して離
婚しないという起請文を義時にかかせた上で、彼女を娶せたのであった。
【余談】 「ご盛んな頼朝の色好み」
頼朝義時姫前の仲を取り持つ前年の、建久2年正月、頼朝45歳の
時である。頼朝が政子に隠して寵愛していた大進局という女性と、その
間に生まれていた6歳の男の子の存在が妻の政子に露見してしまった。
彼女は伊達常陸入道の娘で、鎌倉御所に出仕していた女房衆であったら
しい。
嫉妬屋の政子に知られてしまえばおしまいだ。
頼朝は、大進局に伊勢国の地頭職を与えて鎌倉から遠ざけた。
なおその子は、まもなく出家して仁和寺に入り、貞暁と称したという。
このように浮気性な殿のお側に務めたと聞けば何かと邪推していまう…。


私という欠片を入れてシチュー鍋  雨森茂樹
 




ドラマ「鎌倉殿の13人ー」の4月17日の放送で、
北条義時(小栗旬)の妻となった八重(新垣結衣)が、のちに鎌倉幕府
3代執権となる北条泰時(坂口健太郎)を出産する、場面があった。
三谷幸喜氏ならではの新説・脚本である。


義時の年表を繰ってみると、たしかに寿永2年(1183)北条泰時が、
義時の長男として生まれるとある。
幼名は金剛。母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は
不明とでてくる。
阿波局が八重のことなのかどうか…?
時に義時は21歳。姫前を正妻に迎える9年前のことである。
祖父の時政ら北条一族と共に、源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目
の頃である。
母とある阿波局は、源頼朝の政子の妹で、阿野全成の妻となった阿波局
(実衣)とは別人。
生れた子は、頼朝の一字を賜わり「頼時」と名付けられた。
義時が姫前と結婚して4年後の13歳で泰時は元服した。
烏帽子親は、源頼朝であった。(頼朝の死後に「泰時」に改名)
<あーややこしい>


人間を脱いで着ぐるみらしくなる  加藤ゆみ子
 
 
   
   伊藤祐親           伊東祐清


 以前にも書いたが、物語を少し振り返ってみる。
八重は、伊豆国伊東庄の豪族・伊東祐親の三女。
頼朝の最初の妻とされ、頼朝の初子・千鶴丸を出産した。
その時、頼朝は千鶴丸の誕生を大いに喜んだ、という。
が、喜ばぬものもいた。
八重の父・伊東祐親である。
京都から伊豆に戻った祐親は、小さな布団にくるまり
可愛い寝息を立てているややを見た。
「この子は誰の子か?」
祐親は、妻に尋ねた。妻は、
「八重が高貴な男性との間にもうけた子です」
と答えた。


何故だろう夫の茶碗また欠ける  林田千鶴子


「親が知らぬ婿というものがあろうか!」
と、祐親が激怒し、さらに追及すると「頼朝の子」だという。
祐親は愕然とし、頭は真っ白になった。
祐親は、平家方豪族として清盛からの信頼を受けている。
此度も流人・頼朝の監視役を任されている。
「源氏の流人を婿にとって、子まで生まれたとなると、
平家方より咎めがあった時、私はどうしたら良いか」
このことであった。


石になるコースと人になるコース  杉山太郎


祐親は家を守るためにどうするかと考えた。
出てきた答えは、
「千鶴丸をどこかに隠した上で、頼朝を殺害する」
だった。 頼朝の危機は、祐親の次男である祐清が、
「父が頼朝様を殺しにくると」知らせに奔った。
頼朝は、馬を駆って、北条時政の館に逃れ事なきを得た。
その後祐親は、八重を頼朝から引き離し、伊豆国の武士・江間次郎
嫁がせた。『曾我物語』
【このあたりのことを歴史家は】
「八重についての歴史上の資料はほとんどありません。
 伊東祐親の娘で頼朝との間に1児をもうける。
 そして祐親に2人の仲を裂かれ子供を殺された。
 史実として確かなのはここまでです」 らしい。


その後のこと聞きたくないが気にはなる  青木敏子



        八重姫御堂
静岡県伊豆の国市に真珠院という曹洞宗寺院がある。
その境内には、八重姫の供養堂が存在する。


義時八重と結ばれたと唱える論者は、ドラマの監督三谷幸喜氏を含め、
「この阿波局こそ、八重だった」
という人も多々いる。
義時が江間の領主となり、江間の人々と関係を持つようになったことと、
頼朝が、有力御家人やその子弟の結婚に乗り出していたことが、
推測の根拠となっているらしい。

北条義時の父は、時政である。
時政の先妻は、伊藤祐親の娘である。
すなわち北条時政の義父が、伊藤祐親だから、
祐親は、義時の母側のお爺ちゃんになる。

つきつめれば、八重は伊藤祐親の娘だから、義時の叔母さんである。
つまり、義時は、「叔母さんと結婚し、子をつくった」こととなる。
もしかして、八重を恋にはいたって純情な義時へ、妻の政子の悋気を恐れ
た頼朝が、小四郎に押し付けたのかもしれない。
(頭、ころころこんがりますねー)


破ること好きなお人の障子張る  前中知栄



「北条義時の八重ラブは、三谷幸喜氏の新垣結衣さんラブ」


悲劇の女性として描かれてきた八重に関心を持った三谷幸喜氏は、
「新垣さんに演じてほしい」
と、熱心にオファーしたという。
幸喜氏は、新垣結衣の大ファンなのだ。
「シナリオは、もうできていますから…」と言ったかどうか…、
「鎌倉殿」でも頼朝と八重との間に、子供が生まれることから、
新垣さんありきでシナリオ化する前に、八重=新垣が決っていたようだ。


反則のような笑顔で攻めてくる  平井美智子


八重は意志が強く、自分の思いに忠実に行動できる女性。
実際に会った新垣さん本人と重なる部分が多々あり、
「新たな八重像が広がった」
と、新垣への愛情度が膨らむ。 こんなことも
「僕は当て書きの脚本家。俳優さんありきで、その人にどんな役を演じ
 てもらったら面白いか、どんなセリフを喋ってもらったら楽しいか。
 そこから物語を作っていく…」

【NHK関係者の言】
「三谷さんはもちろん八重が身投げしたという伝承はご存じでした。
 とはいえ、八重が江間次郎という男性に嫁いだという別な説もあり、
 江間の領地が伊豆の北条館の目と鼻の先だったことから、
 義時と結婚するという今回のシナリオが誕生した」と、言っている。
 
 
あと少し明るい空を貼り付ける  稲垣康江


【恋は盲目】
幸喜氏は、頼朝と義時と結ばれる新垣さんを
「2人の英雄と結婚する美女・クレオパトラ」
と、評し、撮影後も
「自分が思い描いていた以上の八重さんでした」
と、ベタ褒めしている。 さらに
「新垣さんは稀有な女優さんだと思う。
…中略…
 ほんの小さな眉の動き、固く結んだ唇が少しだけ緩む瞬間。
 そういった細かい表情で、気持ちを表現する。
 これってとんでもなく難易度が高いこと…」
と、興奮気味に語り、さらに一呼吸おいて、
「きっと信じられないほど台本を読み込み、役を自分に落とし込んで
 いるのだろう」
と、褒めるをちぎりまくっている…幸喜氏である。


美しいものに出会うと出る涙  河村啓子


幸喜氏の熱烈なラブコールに新垣さんは
<難役にプレッシャーを感じていました>
といい
<全部、報われました>
と、はにかみの笑顔を覗かせていたらしい。
幸喜氏には、このはにかみ顔さえも、夢の中にも出てくるのだろう。


眩しいと言われ照れてる影法師  下林正夫



  教導立志基廿五 北条泰時 小林清親

危険を冒して弟を救った泰時「大事の前の小事」と批判した者に
対し、泰時は、「弟を救うことは、自分にとって小事ではない」
と、答え、周囲のものを感服させた。


「義時の長子・三代執権・北条泰時とは」


泰時は、優れた人格で、武家だけでなく公家からも人望が厚かった。
その治世は善政だったとされ、泰時の制定した「御成敗式目」は、
室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされ、
多大な影響を与えた。
父・義時や伯母・政子と同じように、北条のためには、容赦のない面
もあったが、訴訟で負けた武士に親身になったり、
弱者救済に尽力したりと、人情ある清廉な人物だった。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山進


【御成敗式目】
泰時は、武家最初の法典である『御成敗式目』を制定した。
貴族の法律である律令は難しい言葉で書かれている。
武士の中には、漢字が読めない無学な者もいた。
まして法律なんか尚更、読めない。
「もっと簡単な言葉で書かなきゃダメだよ」
「法律を分かりやすくしないと、誰も守らないよ」
と、公平な裁判を行うための基準とした。
御成敗式目は、恩領の売買を禁じたほかは、御家人がその所領を自由に
処分するのを認めていたが、仁治元年からは、恩領については、
質入までも禁止し、私領についても、御家人以外への売買を禁じた。


人の世に明りが灯る人の手で  前田楓花


【政治】
義時・政子時代の独裁政治を廃し、合議政治への転換を図った。
【交通網の整備】
 鎌倉の交通網を整備した。和賀江島という港を材木座の海に築き、
流通をよくした。
 鎌倉北東の朝夷奈口を整備し、武蔵の六浦と鎌倉を結んだ。
【鎌倉の僧徒に対して】
僧兵のように、顔を包んで市内を横行することを禁じ、
念仏者が魚鳥を食い、女人を招き寄せ、党類を結び、酒宴を好む、
ことを禁じた。
【順徳上皇の皇子と土御門上皇の皇子の皇嗣問題に干渉】
承久の乱の際、順徳上皇が討幕に積極的であったことを嫌った泰時は、
皇位問題に干渉して、土御門皇子(後嵯峨天皇)を推戴した。
この処断は、順徳の外戚であった九条家と幕府との亀裂を深めた。


にんげんを外してならぬ滑走路  井上恵津子



     『英雄百首』の泰時 歌川貞秀


【総合的・北条泰時の評価】
泰時の政治は、世の賞讃を以て迎えられ、堯・舜の再来とまでいわれた。
反面、摂政・近衛兼経は、泰時を「極重悪人」と評しており、
まったく悪評がなかったわけではない。
しかし、後世でも、北畠親房から頼山陽に至るまでが泰時を讃え、
「武家が皇室から政権を奪った」
ことを非難する中で、泰時だけを例外と見ている。
※ 堯・舜=中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子・堯と舜。
  即ち、賢明な天子の称で「明君」ということ。


クレヨンで描くと人はみな笑う  真鍋心平太

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真水を知らないままで育つ蓮の花  靏田寿子



                安宅の関所付近で遊ぶ子らを呼ぶ弁慶
 
 
「院宣は時代時代の旗の色」

変幻自在で狡猾な後白河
<この際、兄弟喧嘩をさせ相討ちで源氏を滅ぼそう>
という策略にはまり、「頼朝追討」の院宣を受けてしまったことに、
義経の零落が始まった。
頼朝は怒り心頭に達し、ただちに全国に義経殺害を発令。
「兄ちゃん俺にそんな心算はない」のに…言い訳も聞いてもらえず、
もとより兄と戦争などする気のなかった義経は、弁慶や家臣・静御前
らととともに逃亡生活に入った。


バーコード軽いジョークに乗せられる  美馬りゅうこ
 

 
薄墨の笛を吹く笛の名手義経 (葛飾北斎画)
 

「鎌倉殿の13人」 義経伝説
 
 
「義経ー10」 弁慶と勧進帳


逃避行の吉野山中で、女嫌いの弁慶は主の義経に、
「これから先の道中を考えると女の脚ではむりがあります。
 この辺りで、静さまと別れましょう」
切り出した。本音は、足手まといだと言うのである。
しばらく義経は躊躇ったが、
「弁慶の言うことがもっともで、危険も伴う」
と思い、それを静御前に告げると、
その美しい瞳から、止まることもない涙を零した。


つまらない顔をしないできれいだよ  市井美春


吉野で別れた静御前は、山を下る途中、義経から貰った財宝を、
家来たちに持ち逃げされ、途方に暮れているところを執行僧に捕えられ、
鎌倉の頼朝の前に送られた。
頼朝は、義経の居場所を厳しく尋問したが、答えようもなく、
元白拍子の彼女は、自ら舞いを願い出て、鎌倉・鶴岡八幡宮は頼朝の前
で、工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子に合わせ、
<吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき >
と、吉野山で別れた義経を恋い慕う歌を、堂々と歌い舞った。
吉野の白雪を踏み分けて山深くお入りになってしまった義経様が恋しい
~と、歌ったのである。


踊りますあなたとならば喜んで  前中一晃



 
鶴岡八幡宮ー頼朝の前で舞う静御前
 

静御前の舞いに、頼朝は不機嫌になった。
「関東の万歳を祝すべき祭典に当たって反逆の義経を慕い、
 その上別れの曲を謡うとは、 反抗的で奇怪千万なり!
 手討ちにいたす!」
と、激怒し、刀の柄に手をかけた。
頼朝の焼きもちに、火を焚きつけるようなことになってしまった。
 
源氏の繁栄を寿ぐ舞台は、一転、不穏な空気が漂った。
そこへ頼朝の隣に坐していた妻の政子
「女心が分からない、野暮な佐殿(すけどの)」
と、頼朝をなじり、憮然としてその場に腰をおろした。
そして続けて、
「私お気持ちは今の静御前と同じです。
 もし彼女が義経の長年の愛を忘れたように舞うならば、
 それは女の道に背く行いでしょう」
と、言って頼朝を諭した。


春はあけぼの光と遊ぶ花一輪  藤本鈴菜


政子の取りなしで、その場の騒然はおさまり、
頼朝も静の心情を解し静の舞いを賞でた。
 『吾妻鏡』には、静御前の舞いの場面について、
「誠にこれ社壇の壮観、梁塵もほとほと動きつべし」
(~梁の塵を動かすほどの見事な舞であった)
と絶賛している。
その後、静御前は、京で尼になったとも、奥州に逃れた義経を追い、
途中の武蔵の栗橋で病死したとも伝わる。


ピンからキリこの手の届くこの辺り  津田照子



見栄を切る弁慶と七つ道具 (葛飾北斎画)


「武蔵坊弁慶」 安宅の関


静御前に鎌倉でそんなことがあったころ。
陸奥国奥州平泉を目指す義経一行は、北陸路をたどり、
加賀国安宅関に近くまで来た。
離れたところから見ても、関所の厳しい警備に隙がない。
門前には、切り落とされた山伏の首が晒されている。
それには一行は驚愕した。
その近くで遊ぶ松葉かきの子どもたちのところへ来て、山伏姿の弁慶が
「この関は、山伏を通してくれるだろうか?」
と訊ねた。
「通してくれるよ」との子どもの答えに、
笑顔をみせ弁慶は、褒美に扇を与え、関所へと向かった。


撃たれないように進もうジグザグに  新家完司


一行が関所に入ると、鹿爪らしく坐す関所奉行の富樫泰家が、
一行の先導をする武蔵坊弁慶に、
「どこから来たのか?」
厳しい口調で訊いてくる。弁慶はすかさず
「加賀です」と、答えた。
「我々は、頼朝殿の命令で検問を強化している。
 少しでも怪し気ば者は、通してはならぬと厳命されておる」
と、脅すように言う。
「で…、その方らそこへ何をしに行くか」
「自分たちは東大寺再建のために、諸国を巡り勧進をしております」
と、弁慶が応えると、富樫は義経を睨んで、
「本物の山伏というなら、勧進帳を持っていよう。
 そこの若いの読んでみよ」
「勧進帳」は所持しているものの、中身は白紙で義経は読めない。
頭の中が真っ白になりオロオロしていると、機転を利かせた弁慶が
「お前が字を読めないから疑われる」
と言うと、巻物を広げると、白紙の勧進帳を朗々と読み上げた。


初蝶は何色と問う無人駅  前中知栄



     弁慶、主人義経を打つ (三代歌川豊国)


あまりに堂々と読み上げたので、富樫は納得して通行を許可した。
だが、一難去ってまた一難。
富樫は弁慶の迫力におされて通行を許したが、強力に変装した義経
真近に見て、違和感を抱いた関の従者が、奉行の富樫に進言してきた。
「一行は、もはやここまでか」
と、覚悟を決め、戦闘態勢に入ろうとしたとき
弁慶は、寸瞬、機転を利かして
「礼を失する態度をとったは、また、お前か!」
と叱って、義経を杖で打ちはじめた。
それを見た富樫は、流石に
「主人に手をあげるような家来はいるまい」
と弁慶たちに詫び、通行を許した。


わたくしの鬼門へたっぷりの万両  山本昌乃



      蒙古兵を迎えうつ北条宗時


「伝説」 チンギス・ハーン


「義経は奥州藤原氏に討たれたのではなくて、
 秋田や青森を通って、北海道まで行ったそうですね」
「いやそれどころか、大陸に渡って、ジンギスカンになったというじゃ
 ありませんか」
人の生死は、その場にいた人でなければ、確認できない。
もしかしたら、彼は生き延びたかもしれず、
秋田や青森さらに北海道に渡ったかもしれない。
渡らなかったという証拠がない以上、完全に否定することはできない。
これが「伝説」というものである。


取り急ぎウサギの耳に化けておく  くんじろう


だが、この伝説は全くの作り話だ。
たまたま生存時代が重なることと、源義経「ゲンギケイ」とよめば、
ジンギスカンに似てくることから、冗談好きの学者のこじつけである。
が、この珍説が面白いから、一時、話題を呼んだ。
この珍説をうんだ背景を考えてみると、
ちょうど日本が、大陸侵攻を試みる少し前に起こった。
鎌倉幕府8代執権・北条宗時の時代である。
いわゆる「蒙古襲来」である。
文永11年10月(1274)と弘安5年の5月(1281)の2度
来ている。


手の内をすこしあかして立ち向かう  佐藤正昭


義経が生きているとすれば、114歳になっている。
すなわち義経のジンギスカーン伝説はありえないこととなる。
が、強いてこじつけて考える学者がいるかも知れない。
ハーンが義経の息子か孫と考えると、ハーンの戦好きと執拗さを思うと、
「義経爺ちゃんの恨み、果たさでおかりょうか」
なのである。
神風に押し返されても、また攻めてきた執念をみても、そう思えてしまう。


夕日がきれいあなた戻ってこないけど  佐藤 瞳
 

 



 「義経ー合縁奇縁」 金売吉次
 
 
首途八幡神社、金売吉次(かねうりきちじ)の京都邸宅跡にある。
首途は、「かどで」と読む。
元服前の牛若丸と呼ばれていた義経が、
吉次とともに奥州へ旅立った場所である。

吉次は、鞍馬寺へ参詣のおりに牛若丸と出会った。
その時、黄金に繁栄する奥州平泉の話がでた。
義経が、平泉に興味を抱いたことは間違いないが
義経から、奥州へ行ってみたいと吉次が頼まれたのか。『平治物語』
吉次から、義経へ話を持ちかけたのか。『義経記』
やがて、2人は奥州へ旅立つことになった。
今は石畳になっているが、義経はこの道を本堂へ歩いたのだろう。
2人は旅の途中、下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会して、
平泉につくと吉次は、藤原秀衡を紹介し、義経は初対面を果した。


失った時を求めて旅に出る  菱木 誠


金売吉次とは、義経がまだ元服をしていない牛若丸時代、平泉の藤原秀
に引き合わせた人物であり、義経が奥州藤原氏を頼って平泉に下るの
を手助けした人物である。
そして、「奥州平泉藤原氏三代の栄華を担った」人物である。
吉次は「橘次」とも表記され、
『平治物語』では「奥州の金商人吉次」であり、
『平家物語』では、「三条の橘次と云し金商人」である。
『源平盛衰記』では、「五条の橘次末春と云金商人」となり、
『義経記』では、「三条の大福長者・吉次信高」として登場してくる。
いわゆる、実在の人物なのだ。


天秤に愛とお金をぶら下げる  山田恭正


 
      金売吉次を説明する金売神社


吉次は、自邸のあった「首途八幡神社」を起点として、
奥州から金やその他の貴重な物産を運び、逆に京都の物資を奥州に運ん
でいたー商人である。
当時、奥州藤原氏は、金や奥州の特産物・絹やアザラシの皮や馬などを
京に運び、逆に、仏像や教典、常滑焼きなどを、奥州に輸入することを
頻繁に行っていた。
そのためにも京都には、彼らが滞在する屋敷や厩、倉庫などが絶対に不
可欠であった。


B面に思いがけない人の味  五十嵐定幸


吉次の邸は、平安宮の背後に位置しており、外交的な面で地勢的にも、
まさに絶好の地であった。
藤原氏の京都拠点である平泉第(大使館)である。
そこへ人物を配置し、連日、京都の情報を探り、ある時には、朝廷や力
のある公家には、それ相応の進物などをしながら、奥州の平和維持の為
に、努力していたに違いない。
そうなると、深読みをして、吉次は、単なる金商人という人物ではなく、
平泉の外務省高官のような、役割を負っていた可能性も考えられるので
ある。


朧夜や吉次を泊めし椀の音  成美義家



  鬼の前で笛を吹く義経


「伝説」 無敵の巻物


義経が平泉で修行しているときのことである。
義経は「大日の法」という「巻物」の話を、藤原秀衡から聞いた。
「日本の国は思いのまま」になるという巻物である。
それは「千島」の喜見城の都にあるという。
島には、牛頭・馬頭・阿防羅刹・夜叉鬼などの鬼が住んでいるが、
義経は、巻物を手に入れるために島へ渡ることにした。
島へ渡り、笛の名手の義経が「名笛・薄墨」を吹き始めると、
鬼の大王が、大層に気に入り、意外にも義経は歓待された。
宴席を持ち、友好的な会話ができた。
そこで義経は「大日の法」の伝授を願った。
しかし大王は、「それについては ダメダメ」と、頑なになる。


信号がすべて赤だったとしても  蟹口和枝
 
 
大王には、あさひという美しい愛娘がいて、
義経はその娘のために「想夫恋」という曲を奏でてやった。
甘い笛の音に酔った姫は、「巻物を持ち出して欲しい」と、
義経に頼まれ、それをそっと持ち出し、渡すのだった。
そして義経は、三日三晩かけて「巻物」を書き写した。
移し終えると、巻物の文字は、消えてなくなってしまった。
娘は「これは不吉なことが…」と恐れ、
「このまま逃げてください」と、言った。
義経は、逃げた。
それを知った大王は、真っ赤になって怒り、義経を追撃するが、
巻物の力で、逃げ切ることが出来た。
しかし、娘は殺されてしまった。


キャベツ畑で育つ次の十年   山口ろっぱ


あとで知るところによれば、娘は江ノ島弁財天の化身で、正当な日本を
築く武者のために、大王に近づき、義経のような人が千島に渡ってくる
のを待っていたのだった。
ある夜、天女は義経の枕元に現れ、自分の死を告げた。
天女の死を知った義経は、丁重に菩提を弔った。
その後、義経は「大日の法」を自在に操り、平家を滅ぼし、
源氏の御代としたのだ、という。 


補助線を引いても謎は謎のまま  合田瑠美子



      義経の悲劇ー北国落ち絵巻


「司馬遼太郎 義経を〆めくくる」


義経の困った点は、というより「日本人の判官びいき」の困った問題は、
われわれ日本人が、頼朝の鎌倉政権が確立したおかげで、ちょっと
人間らしい生活を持つことができた、という点をみないことでず。

頼朝のやったことは、「日本市場革命」かもしれません。
頼朝こそ、律令社会の矛盾から当時の日本を救ってくれた革命の恩人
なんです。
このことを見ずに、その邪魔者であった義経にだけ同情の涙をそそぐ。
あれだけの武功をたてた義経が没落していく…。
これがどうにも悲しい…。
ここに日本人のメロディーが始まるわけで、
それではやはり困るんじゃないかと思うのです。


オニバスの上で思案中のカエル  荻野浩子

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不器用な男が不器用に消える  くんじろう



 「加賀国安宅新関武蔵坊弁慶勧進帳読吟欺冨樫趣陸奥之図」 歌川芳虎


「義経の失敗はこういうこと」

 義経は企業でいえば、海外における大きなプロジェクトを、
まかされた現地の総責任者なのだ。
現地に行ってみれば、思いがけないハプニングが起こる。
その場で処理しなければならない場合もあるだろう。
が、大事なことは、本社と相談、その指示を仰ぐべきである。
まして、そのプラントに対する支払いが行われた場合、
現地で山分けす
るなどはもってのほか…。
が、義経は、それに近いことをやってしまった。
反省も進歩もない。人を使うどころか、反逆者にもなる無知である。
頼朝にしてみれば、「こいつはダメだ」なのである。


「鎌倉殿の13人」 「義経破滅への逃避行」
 


      木曽街道69次上松 歌川国芳

何を見ているのか、義経家来・江田源三が「松の木に上って」
遠景をのぞんでいる。



「義経ー9」 義経終焉


「義経暗殺」

「平氏打倒」の悲願を胸に立ち上がった義経は、
天才的な戦術で数々の戦に勝利し、一躍、その名を天下に轟かせた。
しかし、ある日から、義経の運命は一変、兄・頼朝は義経の功績を認め
なかったばかりか、反逆者として追放され、逃亡者の身となっていく。

文治元年10月、京の都に戻った義経は、突如、襲撃を受けた。
頼朝が、「義経暗殺」のために差し向けた軍勢の仕業である。
「兄・頼朝のため、命も顧みず平氏と戦った自分が、なぜ、
 このような仕打ちを受けるのか」
度重なる屈辱に加え、命までも狙われるに至って、
義経はついに、兄・頼朝に反旗を翻す決意をかためた。


ぼうふらのくねくね容赦ない殺意  前中知栄
 

そこで義経は、朝廷に働きかけ「頼朝追討」の宣旨を入手した。
頼朝追討の大義名分を得た義経は、ともに平氏と戦った西国の
武将たちに決起を呼びかけた。
しかし、義経に応える者はなかった。
この時、頼朝は義経に従うなという命令を西国に発していた。
頼朝の力は、すでに朝廷の権威をも凌ぐほどになっていたのである。
さらに頼朝は、朝廷にも圧力をかけている。
すると朝廷は、今度は逆に、義経の官位を剥奪し、追討を命じる宣旨を
下したのである。


突然に角封筒という出会い  山本早苗


朝敵となり、追われる身となった義経は、わずかな家臣たちとともに
京を脱出し、山伏姿に身を変え、山中に身を潜めながら、
流浪する日々が始まったのである
そこにはかつての英雄の面影はなかった。
一行は、吉野山や比叡山に身を潜めたあと、北陸へと逃れたが、
頼朝の追及の手は全国に及び、義経たちを追い詰めていった。
<最早、逃げられる場所はただ一つ、藤原秀衡のいる奥州平泉…>
義経一行は一縷の望みを胸に、平泉をめざした。
しかし、義経が平泉に向ったことが、さらなる波乱を巻き起こした。
平氏を倒した頼朝の次なる狙いは、奥州藤原氏だった。
義経が奥州に入ったことは、頼朝の奥州攻略に格好の口実を与えること
になったのである。


下り坂雲見る余裕更になし  柴本ばっは


文治2年4月、藤原秀衡のもとに、頼朝から一通の手紙が届いた。
<奥州から朝廷に献納する金や馬などの貢ぎ物を、鎌倉を経由して届け
 るよう> 命じる書状である。
藤原氏にとって、貢ぎ物は朝廷との関係を保ち、奥州の自治を黙認させ
る命綱だった。
頼朝はそれを断つことで、朝廷と奥州藤原氏の結びつきを、弱めようと
したのである。さらに頼朝は、秀衡の領土である奥州にまで、実質的な
支配の手をのばしはじめていた。


無理数を並べて今日を引きずって  森田律子


同じ年の暮れ、義経一行は奥州に辿りついた。
しかし義経は、平泉の手前で足を止めた。
<もし今、秀衡殿が自分を受け入れれば、頼朝がだまってはいまい。
 となれば、奥州、そして恩ある秀衡殿を戦に巻き込む> 
ことになる。
義経はこのまま立ち去ることも覚悟で、秀衡に使者を送った。
義経到着の知らせに、秀衡も悩んだ。
頼朝の手は、確実に奥州に迫りつつあった。
しかし、奥州の繁栄をむざむざ頼朝に奪われることは、
藤原氏にとって耐えがたい屈辱である。
そもそも奥州藤原氏の配下には「奥17万騎」という強大な兵力がある。


十指みる私のこころ問いただす  津田照子
 


     義経奥州藤原平泉館にて、秀衡親子と対面して
一段上に秀衡、その隣が義経。下段に国衡・泰衡がいる。


思い悩んだ末、藤原秀衡は罪人となった義経を、あえて平泉に受け入れ、
鎌倉軍に対抗することにした。
<優れた軍馬と刀剣で武装する17万もの奥州軍>
<そこに平氏を滅ぼした猛将、義経の戦術が加われば、強大な鎌倉軍と
 いえども、恐れることはない>
秀衡はそう確信した。
秀衡は、義経を自分の館に迎え入れ、心づくしの酒宴を開いた。
義経は、1年以上にも及ぶ流浪の旅からようやく解放された。
<昨日まで偽山伏の姿に身をやつしていた私が、ようやく還俗し、
 一人前の武士に戻ることができた>

と、義経の伝記・『義経記』に記されている。


神様の決めたフロアで踊り切る  鶴見美佐子


「義経自刃の1年7ヶ月前」

頼朝との戦いの準備を進めていた秀衡の身に、思いがけない不幸が、
ふりかかった。
秀衡が突然、病の床に伏してしまったのである。
容態は日に日に悪化していった。
死を覚悟した秀衡は、
義経と2人の息子・泰衡・国衡を枕元に呼び寄せ、遺言を伝えた。
「3人一味して、頼朝を襲うべきの籌策をを廻らすべし」
<お前たち3人で頼朝を倒す計略を考えろ>
というのだ。
3人は死を目前にした秀衡の目の前で、起請文を書き、火にくべた。
そしてその灰を飲み干し、力を合わせて、頼朝と戦う強い意志をしめし
たのである。


転んだらデコに移動の力こぶ  ふじのひろし


文治3年10月、秀衡はこの世を去った。
<いかに親の嘆きや子の思いといっても、秀衡殿との別れに勝るものは
 ございません>
こう言うと義経は、人目をはばからず、号泣したと伝えられている。
義経は、反逆者として追われる自分を、只一人受け入れてくれた秀衡の
恩に報いるためにも、頼朝と戦う決意を新たにした。
この決意を伝え聞いた頼朝の家臣は、頼朝の、
「一挙に踏みつぶしてくれん」
と逸る気持ちを押しとどめている。
「戦上手の義経の指揮に従って、平泉の兵が戦えば、奥州を手に入れる
 ことは百年経っても、二百年経っても、不可能でしょう」
義経率いる奥17万騎に、義経を支援する西国の武将たちが加われば
鎌倉が危うくなるという事態に、頼朝は方針を変え、奥州藤原氏の内部
分裂を謀る作戦に出た。


天辺と底辺少し違うだけ  新家完司


頼朝は朝廷に、「奥州藤原氏の当主・泰衡が義経を匿う罪は重い」とし、
「泰衡追討」の宣旨を願い出たのである。
これには泰衡も、衝撃を受けた。
<朝廷に反逆者とみなされれば、奥州自治の根拠をうしなうばかりか、
 全国の武装たちを敵に回すことになる>
家臣の間からも、
「義経を引き渡すべきだ」
という意見が上がり始めた。
<義経を差し出すべきか、あくまで父・秀衡の遺言を守り、
 義経とともに戦うべきか>
泰衡の心は揺れ動いたが、朝敵になることを恐れた泰衡は、
朝廷に書状を送った。
「義経を尋ね進ず」 と。
<義経の居場所を探し出し、身柄を引き渡します> という意味である。


私の根っこにも少しあるマグマ  古田祐子


これは時間を稼ぐための苦肉の策だった。
しかしこれを知った頼朝は、さらに朝廷に圧力をかけた。
「泰衡が請文、いささかも御許容の限りにあらず。
 速やかに、追討の宣旨を下さるべし」
(泰衡の手紙を信じてはいけません。どうか速やかに、
 泰衡追討の宣旨を、お下しください)と、言い
さらに頼朝は、奥州出兵の期日を朝廷につきつけた。
泰衡は、追い詰められた。
<義経殿を大将にして、頼朝と戦うことは、亡き父の悲願である。
 しかし、このまま義経殿を匿えば、我が藤原氏は朝敵とされる>
泰衡は、最後の決断を迫られた。
このころ義経が何を考え、どう動いたのかという記述はない。
頼朝の朝廷工作によって、
「奥州藤原氏が追い詰められ、自らの身にも危険が迫っている」
ことを知りつつも、義経は平泉を離れようとはしなかった。


雲海がそっと言い訳包み込む  靏田寿子



        奥州17万騎もむなしく


文治5年(1189)閏4月30日、
義経の館を泰衡の軍勢数百騎が取り囲み、矢を射かけた。
すべてを知った義経は、残った家臣に館に火をかけるように命じ、
一人、そのなかに籠った。
父とも慕った秀衡の恩に報いるべく、兄・頼朝との対決を決意した義経
 だったが、その志は、恩人秀衡の息子・泰衡によって絶たれたのである。
燃えさかる炎のなか、義経は自刃した。31歳だった。


牛の眼が濡れていたならそれは海   竹村紀の治


【終焉】

義経の死から一ヵ月後。
頼朝は、泰衡が送った「義経の首」を鎌倉に入れることを拒絶している。
そして、大軍を率いて奥州へ出陣した。
それは義経が討たれた今、
「奥州追討はすべきでない」
という朝廷の制止を押し切っての出兵だった。
激しい抵抗もむなしく、義経なき奥州軍は敗北し、
泰衡は敗走の途中に家臣に討たれた。
文治5年9月3日、平泉は陥落した。
ここに百年にわたり、繁栄を誇った奥州藤原氏は滅んだ。


カーテンコールなしで天寿は閉じました  美馬りゅうこ

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耳垢は一括寄進しておいた  井上一筒



    天狗を打ちまかして天狗になった牛若丸


「永井路子さんをところどころ織り交ぜて」

鎌倉時代のナンバー2として、北条義時を挙げ、
源義経を挙げなかったことに、不審を抱く方あるかもしれない。
「義経こそは輝かしいナンバー2ではないか」
「彼が挫折したのは、頼朝に妬まれたためだ。頼朝が悪いのだ。
  そんな兄貴を持った義経が不運なのだ」
義経は単に不運だったのではない。
彼にはもともと、ナンバー2たる性格が欠如していたのである。


謎解きを始める排水溝の泡  小林満寿夫


「鎌倉殿の13人」 義経の欠点 


ーーーーーー
      義 経             義時    義経


「義経ー8」 義経の何でそうなるの


源平合戦も終わりの見えた時、義経頼朝に無断で、
朝廷から左衛門尉・検非違使丞(けびいしじょう)という官職を貰い、
後を追いかけて、従五位下に叙せられ、太夫尉と呼ばれるようになった。
大臣や納言という高級官僚ではないが、武士にとっては憧れの的ー、
頼朝を激怒させたのは、まさにこのことであった。
頼朝は、東国武士の行状は眼代(目代)に逐一報告させている。
後に公平に恩賞を与えるためだ。
 だから、頼朝は出陣に当たって
「恩賞は後でまとめて朝廷に申請する。抜け駆けで貰わないように」
と、いい含めていた。 また朝廷にも同じように、
「個別に恩賞を与えないでくれ」
と申し入れている。
これは、頼朝の心が狭いからではない。
統一して恩賞を配分しないと、苦情や仲間割れが出るからだ。
そのことを義経は理解していなかった。


約束などしてましたっけカプチーノ  山本昌乃


頼朝を怒らせてしまったことがもう一つある。
今でいうところの無頓着の義経が、ついふらふらとその気になってしま
って、朝廷から任官をご褒美としてもらっているのを見ていた東国武士
たちも、「われわれも」と官位を望みはじめ、事実、十数人が任官して
しまった。
とかく人間は、オオカミの下さる肩書には弱い、頼朝との間に取り交わ
された約束は、フイになりそうな状態が現出したのである。


閂を外せば秋がなだれ込む  嶋沢喜八郎


ーーーーーー


頼朝は鎌倉で真っ赤になって、そのとき任官した人々へ投げつけた言葉
がふるっている。
「眼ハ鼠、眼ニテ、只、候フトコロ任官稀有ナリ」
(鼠のようなきょろきょろ眼が任官などとは珍しい)
「音様シワガレテ、紅鬢(こうびん)少々で刑部ガラナシ」
(しわがれ声で、紅鬢も格好悪いあいつ、刑部烝って柄かい)
日頃物静かな頼朝、すっかり取り乱している。
そして、
「お前ら、勝手に朝廷に仕えるがいい。もう東国へ戻るな。
 本領は召上げだ。帰ってきたら断罪だぞ」
と、凄んでいる。
※ 紅鬢=後頭部の部分の髪
  刑部烝(ぎょうぶのじょう)=律令制下の省の一つ


銀河系なのか排水口なのか  くんじろう


頼朝は、折角築き上げてきたものが、根底から覆されることに危機感を
抱いたのだ。
それにしても、この雪崩現象の発端は、義経の任官にある。
このことである。
「あいつさえ任官しなかったなら…」
頼朝は煮えくり返る思いだった。
このとき怒鳴りつけられた面々は、平身低頭で謝罪し、やっと許して
もらった。

ところが義経は、自分の重大な過失に気がつかない。
というよりも過失とは思ってもいない。
「太夫尉になるのは、我が家の名誉だと思ったから頂いたんです。
 わたしのどこが悪いの?」
こういう考え方だから、鎌倉へ帰って来ても、頼朝から対面を拒否され
たのである。


言い訳をすればするほど爪が反る  笠嶋恵美子


この任官などの知らせに、鎌倉にいた頼朝が激怒したことが、
『吾妻鏡』に、次のように記されている。
「秀衡が郎党、衛府を拝任せしむること、往昔よりいまだあらず」
(秀衡の郎党の者が、高い官位を賜るなど前代未聞である)
頼朝は義経が自分に無断で、しかも敵・藤原秀衡の家臣・忠信とともに
官位を受けたことを、源氏への「裏切りである」としたのである。
兄・頼朝の怒りを知らない義経は、平氏打倒の喜びをともに祝おうと
凱旋の途についたが、義経は頼朝に鎌倉入りを拒絶された。
義経にしてみれば「兄ちゃん 何で?」なのだ。
 

 膝に埋めておこう寒い風景  山口ろっぱ
 
 
衝撃を受けた義経は、兄の怒りを解こうと一通の手紙を認めた。
「腰越状」といわれるものである。
「私は平氏を滅ぼすため、ある時は岩石に駿馬を鞭打ち、
 大海に風波を乗り越え、命を顧みず戦ってきました。
 しかし、今は、兄上に長い間にお会いすることもできず、
 悲しみと涙で血がにじむ思いです」 
しかし、義経の思いは、兄・頼朝に届かなかった。
一度も面会を果たせないまま、義経は失意のうちに京へと向かった。
義経が自刃する4年前のことである。


1ミリの隙間埋めれぬまま別れ  上田 仁


 
       前9年合戦 後3年合戦


頼朝義経との仲違いの原因というのが、頼朝に断りなしに義経が朝廷
から褒美をもらったことが、「甚だけしからん」ということで、頼朝が
怒ったと思われがちだが、
それとは別に、頼朝にとって、奥州藤原氏という存在が、ものすごく気
がかりだった。
奥州は、源氏にとってゆかりの地というか、怨念の地というべき所で、
先祖の鎮守府将軍・源頼義、あるいは八幡太郎義家の時「前九年合戦」
「後三年合戦」
という戦争があって、本当は源氏は、その時に奥州を手
にいれたかった。
しかし、結局それは叶わず、かわりに平泉藤原氏が奥州を掌握したから、
頼朝としては、何としても先祖以来の宿願を果たして、奥州を手に入れ
たいという気持ちがあった。
 

膝に埋めておこう寒い風景  山口ろっぱ
 
 
話を少し戻す。
頼朝義経の富士川での初対面に、義経が佐藤兄弟を同行してきたこと
について…。
佐藤氏というのは実は、平泉藤原氏の先祖伝来の代々の家来である。
佐藤氏があるから、藤原氏があるというぐらい。
藤原秀衡の最初の奥さんは、佐藤氏出身の女性だった。
義経が初めに平泉で貰った奥さんも、佐藤氏ではないかという説もある。
秀衡の名代として義経が「頼朝の動きをずっと牽制している意図がある」
ということで、頼朝にとっては、非常に気味の悪い事だった。


瘡蓋の下は炎が立っている  和田洋子


「義経が兄に嫌われた原因、又、失敗を総ざらいすると」
1, 失敗の第一は、現状認識の欠如である。
 このときの頼朝の目指した戦は、単に平家への仇討ではなく、
 歴史的転換点にたった戦だった。
 そのことがよく呑み込めなかった義経は、平家を倒して、平家の様に
 出世することしか考えていなかったのだ。
大体、彼の行動は華やかすぎた。
 ナンバー2にスタンドプレーは禁物である。
 少なくとも、彼の名声のお蔭でナンバー1が、
 霞んでしまうようなことがあってはならない。
 たとえナンバー1がロボット的存在でも、それを表面に押し出して、
 自分は黒子に徹するべきなのである。


内臓にドンキホーテがもうひとり  通 一遍


2, 
組織の中の自分の位置づけができていなかった。
 義経は有能だがあくまでも組織の一員である。
 チームワークを無視して一人突出してはいけないのだ。
 ワンマンの独断は許されえないのに、
 才能にまかせてやりすぎてしまったのことである。


片意地の納めどころを見失う  津田照子


 
                            静御前


3,個人生活にも難点があった。
 1つは、都きっての名白拍子、静御前を恋人としたこと。
 白拍子というのは、男装の舞姫で、今ならさしずめ宝塚の男役スター
 といったところである。
 兄貴の頼朝が、田舎女の北条政子を妻にしているのに、天下のスター
 と浮名をながしては、反感を買うのに決まっている。


人間の心は足して二で割れぬ  但見石花菜


文治11年(1186)4月4日のこと。
 鶴岡八幡宮に召され、若宮回廊で頼朝を前に、静御前が舞を舞い歌っ
 たときの歌が残る。
”しずやしず 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな”
静よ静よと繰り返し、私の名を呼んでくださったあの昔のように
   懐かしい判官様の時めく世に、今一度したいものよ」
「この場で、赤面もなく、何という意味の歌を歌うのだ!」
頼朝の肚は煮えくり返ったに違いない。


不幸より感度が鈍い幸福度  ふじのひろし


4,さらに義経は、大納言・平時忠からも娘をあてがわれた。
 時忠は、清盛の妻の弟で大変な策士である。
 家の繁栄を築き上げた功労者で、壇ノ浦で捕えられたものの、
 どこでどうたらしこんだのか、都に戻ると、自分の娘を義経に娶めあ
 わせてしまった。
 蕨姫(わらぶひめ)というこれまた美女であった。
 時忠は平家の大物だから、都へ帰ると、能登に配流されることに決ま
 ったが、ふてぶてしく居直って、なかなか配流先にいかない。
 これは娘婿になった義経が「蔭で工作していたのではないだろうか」
 である。 
これが頼朝憤慨の一因になった。
 

ポンと背を押されて一線を越えた  桑原伸吉
 

「義経の-面を書き連ねたあとは、一寸+な源平エピソード」



                                            義経八艘飛び
 

 
剛の者である平教経(たいらののりつね)は、鬼神の如く戦い坂東武者
を多数討つが、知盛が、

「既に勝敗は、決したから罪作りなことはするな」
と、命じた。
教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経のいる船を
見つけてこれへ乗り移った。

教経は、小長刀を持って組みかからんと挑むが、
義経は、ゆらりと飛び上がると、船から船へと飛び移り、
八艘彼方へ飛び去ってしまった。
義経の「八艘飛び」である。

義経を取り逃がした教経に、大力で知られる安芸太郎が、討ち取って手柄
にしようと同じく、大力の者二人と組みかかった。

教経は、一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。


歯車を脱けてクラゲで生き延びる  原 洋志

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