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川柳的逍遥 人の世の一家言
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もみ洗いですかつまみ洗いですか  前中知栄
 

 
                  孔 夫 子


「人を見るに細心なれよ」
孔夫子(孔子)が説かれてある遺訓、悉く「視、観、察」の三つを遂げ
ようとすれば勢い、探偵が人に接する時のように細かくばかりなって
しまい、甚だ面白くない。
 しかし、私としては、随分、念にも念を入れて、充分その人を観察し
た積もりでありながら、後日に至り、その人に意外の行動があるのを知
って、自らの不明を愧(は)じることがしばしばある。
人を観るという事は、実に、難中の難で、決して容易なものでは無い。
就中、その人の安んずる所を察するのが、最も困難である。
困難ではあるが、人の真相を知ろうとすれば、何よりも最も注意して、
その人の安んずる所を、察するのに力を致さねばならぬものである。
その安んずる部を知りさへすれば、九分九厘までは、その人の全貌を知り
得る事になる。


疲れたら千年杉の声を聞く  望月 弘
 
 
「青天を衝け」栄一語る、維新時代の人物像


ーーーーーーー
「徳川慶喜」               草薙 剛
慶喜公は、一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る
処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何と謂おうが、他人が何と
非難をしようが、そんな事には、一向頓着せられなかつたものである。
これが、「恭順の真意」を、幕軍の者どもへ打ち明けて御話しにならず、
突然、大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せられる
に至つた所以だろうと思う。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、
「知る人は知つてくれるから」と、いふ態度に出られる方であつた。


血圧計低くなるまで測る人  ふじのひろし


ーーーーーーー
「西郷隆盛」               博多華丸
大西郷は偽らぬ人。まづ、西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い
肥つた方で、平生は、「何処まで愛嬌があるか」と思はれたほど優しい、
至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、ひとたび意を決せられた
時のお顔は、また、丁度、それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威
厳があるか測り知られぬほどのものであつた。
「恩威並び備わる」とは、西郷公のような人を謂つたものだろうと思う。
(恩威=いつくしみと、人を従える威光)


ちょうどいいブスとは私のことです  森光カナエ


維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして、いささかも偽り飾る
所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。
西郷公は決して偽り飾るといふ事のない、「知らざるを知らず」として
通した方であるが、その為、又、思慮の到らぬ人々からは、往々、誤解
されたり、真意が果して、何れの辺にあるか、理解されなかつたりした
ものである。これは一に西郷公と仰せられる方が、至つて寡言の御仁で、
結論ばかりを談られ、結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き、
余り多く、口を開かれなかつた為であろうかとも思う。


反対の声も静かに聞いている  津田照子
 

ーーーーーーー
「大久保利通」              木場勝巳
大久保公は、西郷公江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過
ぎず、「仁半忍半」という如き傾向の方であつたが、いづれかと申せば、
仁よりも、寧ろ忍に近い方で「仁四、忍六」の塩梅であつたように思う。
「仁五忍五」であつたと申上げたいが、何というか私は、そう申上げか
ねるように思う。
大久保公に、果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたかどうかは私
には分からないが、兎に角、大久保公は細かい処に気が付き、鋭いとこ
ろのあると同時に、又、計略のあつた人である。
(天、徳を予に生ず=天が、人に授けてくれた徳)


着流しは猫侍でございます  くんじろう


私が大久保公に、初めて御目に懸つたのは、明治4年であつたように思
うが、オランダから、万国電信同盟へ加入しないかと政府へ照会があっ
たので、その可否を決める前に、「私の意見を聞きたいから遇ひたい」
と言って来られたことがある。
当時、大蔵省の役人であつた私は、これに旨く答弁をする自信もなく、
当惑うばかりだったので、「詳細は追つて、大蔵省の改正掛に於て調査
の上、お答えする」と述べ、引き退ったものである。
後日、大隈重信侯へこの事を話すと「堂々たる大文章なんかで答へたら
飛んでも無い馬鹿を見るぞ。貴公が答えられないことぐらい、先刻承知
しながら、大久保は、これを機会に渋沢とはどんな人間か、評判だけで
は解らないから、一回、遇つて知つて置こうと、わざわざ貴公を喚んだ
のだろうよ」と、大隈侯は、笑つて大久保公のお人柄を語って居られた。


一念を通した性に悔いはない  碓井祥昭


     
「木戸孝允」
木戸孝允卿、「維新三傑」のうちでも、大久保卿とは違ひ、西郷公
も異つた所のあつた御仁で、同卿は、大久保卿や西郷隆盛公よりも文学
の趣味が深く、且つ、総て考へたり、実行に移すことが組織的であつた。
しかし、器ならざる点に於ては、大久保、西郷の二傑と異なるところが
無く、凡庸の器に非ざるを、示すに足る、大きな趣のあつたお方である。
木戸孝允公なども、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失
があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものだろうと思う。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


「維新三傑」
維新三傑のうちにあつても、大久保公とか木戸公とかのように計略の多
い方々は、如何しても「義に勇む」という処が少かつたように思われる。
これに反し、「計略智謀」には乏しいが、何方かと云へば、蛮勇のある
ような方は、義に勇む人々が多いものである。
明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて、その結果、過失に陥るまでの傾
向があつた御仁は、誰かといえば、西郷隆盛公などが、即ち、その人で
あろうかと思われるのである。
「明治10年の乱」が起つた事なども、畢竟、西郷公が部下や自分を頼
って来る者に対して、余りにも、仁に過ぎた所、と言わざるを得ない。
西郷公は、飽くまで、他人に対するに、仁を以て接せられた方で、遂に
一身をも、同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に、彼の10年
の乱を見る始末となつたのである。


場ちがいへそそくさ帰ることにする  山本昌乃


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「岩倉具視」               山内圭哉
岩倉具視公は、京都の公卿には、珍らしい策の持った方で、三条実美公
が朝廷を長州へ結び付けることに骨を折られていた一方で、朝廷を薩州
へ結び付けることに骨を折り、薩州の志士と往来したり、又、これより
先き、孝明天皇の皇妹・和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を
請い「公武合体」を策したりしたお方である。
岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らな
いが、公も「征韓論」のことから、明治7年1月14日、高知県人・
市熊吉以下5名の刺客に、赤坂喰違いで危うく刺されようとしたことが
ある。維新前後にも猶、刺客に窺はれたのは、しばしばあつたとの事だ。


悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代


※ 勝安房守も刺客には、しばしば狙われたのだが、勝伯は、刺客に襲
われても、危険を顧みず、堂々として面会したとの事である。
勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らないが、
岩倉公にしろ、勝伯にしろ、兎角、策のある人が要路に立つと生命を狙
われる傾向にあるようだ…。


ポルシェなど要らぬもうすぐ霊柩車  新家完司


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「勝海舟」                遠藤憲一
勝伯は達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが、大久保、西郷、
木戸の三傑に比べれば、いづれかといえば、器には近いが、器までには、
行かなかつたように思う。
大政奉還後、徳川家は、静岡に居て七十万石を天朝から賜はっていた頃、
榎本武揚の函館戦争の頃で、神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、
私が仏蘭西から帰朝してから、しばしば、勝伯とは会っていたのである。

当時、徳川家朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるよう
になったのも、つまるところ、勝伯の力であった。
又、勝伯を殺そうとするものが、幕臣の中に数多くあるにも拘らず、
何れも、勝伯の気力に圧せられて、近づくことも能わぬなどと、伯の評
判は、実に、嘖々として喧しいもので、私も亦、当時は些か自ら気力の
あることを、恃みにしていた頃だから、気力を以て鳴る勝伯とは、好ん
で会つていた次第である。
然し、当時の私と勝伯とは、全然段違ひで、私は勝伯から小僧のように
眼下に見られ、「民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のような解らぬ人間
が居つたんで、さぞ困つたろう、然し、お前の力で幸い体面を傷つけず、
又、何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた」
などと賞められなんかした。


手の内を見せる私の秘策の秘  青木敏子


       
「大隈重信」               大倉孝二
世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には、一切、耳を傾けず、
自分一人でばかり喋って、他人に聞かせる人との二種類がある。
明治中央政府における大隈重信侯の場合は、他人の言を聞くというより、
他人に自分の言を聞かせる、のを、主とする御仁であった。
とにかく、こちらの談話の終るまで、黙つて聴いて居られず、中途から
横道に談話を引き込んで、聞かせようとされる癖がある。
 それでも件の談話に取りかかる前に、予め、注意を致して、聴いて下
さるよう御頼みして置けば、聞かせるばかりにならず、聞いてもらえ
ることの出来るようになる、のである。


も足も出ずに機を待つだんご虫  荒井加寿


ただ、大隈侯に就て、感心させられるところは、あの通り、他人に聞か
せるばかりで、容易に他人の談話を聞かうとされぬ割に、他人がチヨイ
〳〵と話したことを、存外よく記憶して居られることである。
 ついでに言えば、大隈伯は、すこぶいる楽観的で、何ごとに対しても、
その弊(害)を考えられず、その社会に及ぼす効益のみを挙げて、
悦ばれる傾向がある。


お笑い届けますアツアツ届けます  田口和代


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「五代友厚」              ディーン・フジオカ
私の知つて居る維新ころの人で、「仁か佞(ねい)」か一寸判断に苦
しまねばならなかつたお方は、五代友厚氏である。
(佞=こびへつらうこと 仁=他人に対する親愛の情あること)
五代氏は、なかなか目上(長上)に取り入ることの巧みな人で、大久保
利通公などへは、能く取り入つて居つたものである。
碁の相手もすれば、煎茶などもして、人触りの実に巧いものであつた。
さりとて、全くの幇間(ほうかん)に流れて、いたずらに、目上の意見
に附和雷同するのでもない。そこの呼吸が、実に妙を得て居つたもので、
同じ幇間でも、船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく、一物を胸
に蔵した、佞らしき処のあつた幇間である。
或は、実際に、五代氏は「佞の人」であつたかも知れない。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


五代氏も、私が、官界を退いて身を実業界に投ずるころに、矢張り官途
に志を絶つて、実業に従事するようになったが、主として、大阪に居を
構へ働いた人である。五代氏が、官界を去ったのは、自ら期する所があ
ったためか、ひょっとして、官界に居られぬような事情になったためか、
その辺のことは、詳しく分からない。が、私が官界を退いて、実業界に
力を尽すことになると、五代氏は「渋沢は、東京でしっかり活動てくれ、
私は大阪の方で活動するから……」 などと能く申されたものである。
 いささか解り難いが、要するに、己れを晒すことなく、他人に対して、
その人を用いて自分が利そうとか、或はまた、その人に接して、自分が
快い気分になろうとか…、言うような私心を持つこと、なのだろうか?
と思う。


赤ちゃんの頃が一番もてました  秋山博志
 
 
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 「岩崎弥太郎」              中村芝翫
このお方は、多人数の共同出資によつて、事業を経営する事に反対した
人である。「多人数寄り集つて、仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、
成績の挙がるもので無い」と、いうのが意見で、何んでも事業は、自分
一人でドシドシ運営してゆくに限るという主義であつた。
私は、「弥太郎の何んでも、自分が独りだけでやる」という主義に反対
であつたから、自然と万事に意見が合わなかつた。
明治6年に、私が官途を辞めてから、弥太郎は、私とも交際して置きた
いとの事で、松浦という人を介して、私の兜町の居宅へ訪ねて来られた
ことがある。在官中、交際した事はなかつたが、それ以来、交際するよ
うになつた。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は、
「合本組織」を主張し、弥太郎は、「独占主義」を常に主張し、その間
に非常な差違があつたので、ついにそれが原因で、明治12,3年以来、
確執が2人の間に生じたのである。


アナログの世界で小さくいばってる  靏田寿子


これは明治13年に私が、東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張っ
て見せ、明治15年には、品川弥二郎さんが、「三菱の海運界に於ける
専横を許さず」、共同運輸会社の設立に参画し、三菱会社に挑戦したか
らである。

それでも私は個人として、別に、弥太郎を嫌い、憎く思っていたわけで
はないが、善い事につけ悪るい事につけ、私の友達である益田孝、大倉
喜八郎、渋沢喜作などが猛烈な岩崎反対派で、「岩崎は、何んでも利益
を自分一人で壟断しようとするから怪しからん」と、意気巻き騒ぎ立て、
ことごとく、弥太郎を憎んでいたものだから、私を、その仲間の棟梁で
でもあると思い違い、弥太郎は、私を非常に憎んでいたようである。
結果、明治13年以来、弥太郎が18年に52歳にしてその人生の終焉
を迎えるまで、仲直りもせず終ってしまった。


恐竜が滅びたことを忘れない   西寺桂子


                                                                      
「平岡円四郎」                                            堤 真一
平岡円四郎と云う人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
ったつたと思う。私ども、栄一・喜作の二人が、京都に出て来た理由を
問い訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡さんは、
両人が一揆を起そうとして果さず、出京したことも既に知って居られて、
その事は、早や幕府の方にも探知され、両人が果して、「平岡の家来な
るか否か」を、その筋より一橋家に問合せに来て居る事情までも話して
呉れたのである。


生きる知恵手塚漫画に教えられ  前中一晃

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自分史に便利な消せるボールペン  掛川徹明



        徳川吉宗の葬儀が行われた上野東叡山


徳川吉宗大岡越前守との関係は<切っても切れぬ…>ものであった。
越前守が千九百二十石の旗本から一万石の大名格となったのは、吉宗の
引き立てによるもので、越前は、吉宗のその抜擢にこたえ、片腕ともな
って職務に精励したのである。また、越前は吉宗政治を支えると同時に、

町火消の創設、小石川養生所の設立、サツマイモの栽培普及など、江戸
庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、遠島や追放
刑を制限、囚人の待遇改善に取り組み、咎人への残酷な拷問を取りやめ、
時効の制度を設け、連座制を廃止したりと、画期的な改革を推進した。



  江戸の町奉行・大岡忠相


 晩年には、大岡越前は、町奉行から奏者番へ転じ、寺社奉行を兼務した。
 奏者番という役職は、専ら、武家に関する典儀を司るのだが、大岡越前
の場合は、大御所の吉宗と将軍・家重との間に立ち、種々の重要な案件
や意見の疎通を図り、老中・若年寄への進言を行ったというから、名実
ともに幕府の重臣となっていたのである。吉宗の越前守への信頼は、絶
大なものであった。
 
 
エンドロールの先に流れている銀河  赤松ますみ


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑩



           江戸の絵巻①



「大御所、本所に御放鷹(ごほうよう)あり、西尾隠岐守忠尚陪遊して
 鴨を得たり」
寛延4年(1747)の春、徳山五兵衛が、小田原で尾張九衛門を捕え、
現地において取り調べを行っているころ、大御所・徳川吉宗は久しぶり
で、本所へ狩りに赴いている。一時は、健康を損ねていた吉宗が、元気
を取り戻したことになる。しかし、死は着実に吉宗へ迫っていた。
まもなく吉宗の病気が再発し、五兵衛が江戸へ戻って間もなく、<大御
所の御病気は、非常に重い>との声が、五兵衛の耳へも入ってくるよう
になった。そして、ついに6月19日に至って、吉宗は危篤に落ち入り、
翌20日の朝、68歳の生涯を閉じた。


もうすぐの真冬がそっと置いてある  中野六助


大御所・吉宗の葬送は、閏6月10日(7月10日)に行われた。
江戸城から、上野東叡山の幽宮へ向う葬送の列に、名奉行と謳われた
岡越前守忠相も加わっている。このとき大岡越前守は、町奉行から寺社
奉行に転じていたが、ことさら吉宗の恩顧を受けていた越前守は、自ら
の病患が重く、顔面蒼白となりながらも威儀を正し、粛然として、最後
のお役目をつとめた。75歳の大岡越前守は、このとき、結核症状が全
身におよび、腹部からの出血もひどかったらしい。越前守は10月に至
って寺社奉行を辞し、12月19日に病没している。


でかしたと節くれだった指が言う  藤村タダシ



             江戸の絵巻②


吉宗葬送の当日、徳山五兵衛は盗賊改方の与力・同心をひきい、葬列が
すすむ前後を、密かに警備することを命じられている。吉宗の葬送が終
わってのち、本所の屋敷へ戻って来た五兵衛は、小沼治作に、
「これにて、われらの世は終わったようなものじゃ」
しみじみと、そう言った。
<わしが…このわしが、この手で、あの大御所様の御頭を、打ち叩いた
ことがあろうとは、世の人の夢にも思うまい>
小沼治作にも、このことだけは洩らしていない。
吉宗にしても、あのとき、五兵衛の姿を見てはいるが、布で隠した面体
は見られていない。一時、<もしや、御存知では…>と、思うことがな
いではなかった。
<初めて、本所見廻り方>を務めていたころのことだ。
しかし、
<今にして思うと、やはりお気づきではなかったようじゃ>
あれやこれ、将軍吉宗を偲ぶ五兵衛であった。


8のつく日今日はハライソ詰め放題  吉川幸子


翌年の正月になって、五兵衛は、老中の堀田相模守から呼び出された。
<ようやくに、お役目から解き放たれるらしい> と思った。
何といっても63歳になってしまい、昨年の小田原や奥州・川俣への出
張が躰にこたえている。
「小沼、これにてようやく肩の荷が下りそうじゃ」
「ようござりました」
小沼治作も、主人の解任を疑わぬようだ。
五兵衛の活躍で、このところ江戸市中も平穏であった。
58歳になった奥の勢以も、
「これよりは、ゆるりとお過ごしなされますよう」
と言ったほどである。


自由にはなった不自由にもなった  谷口 義



             江戸の絵巻③


ところが、堀田老中の許へ出頭してみると、「盗賊改方解任」のことで
はなかった。老中・堀田相模守が徳山五兵衛
「つつしんで、拝領いたすように」
と言って、手渡されたものは、一振の脇差であった。大御所吉宗が
「われ亡き後に、内々にて徳山秀栄へ…」
形見として下げ渡されたのである。
<大御所様は、わしのことを、お忘れではなかった…>
年齢をとった所為もあってか、五兵衛は帰邸してから、感涙に咽んだ。
「内々に…」
という一言が、特別の親密さが籠められているように思われてならない。


すくっても掬ってもおぼろ月夜  市井美春


五兵衛は帰邸した折に
「やはり、御解任にて…?」
問いかける小沼治作や、柴田勝四郎へ、
「何の、そのようなことがあろうか」
きっぱりと答えて、奥へ入っていったものだから
「はて…?」
小沼と柴田用人は、不審気に顔を見合わせた。
大御所の吉宗が、一人の幕臣へ形見分けをしたのだから、これが公式の
場であれば、<非常なこと>である。
だが、吉宗は、<内々のこと>として配慮されたのである。
「五兵衛よ。余とそのほうとの間には、余人には申せぬ秘密の出来事が、
いろいろあったのう」
吉宗の声が、冥府から聞こえてくるような、そんな気がした。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花



             江戸の絵巻④

五兵衛は、吉宗の形見の脇差について、家族や家来たちにも洩らさなか
ったが、長男の次郎右衛門頼屋へのみ、打ち明けている。
「大御所様が、わざわざ、かように父のことを御心にかけらるるは、父
もそれだけの働きをしているからじゃ…」
五兵衛は、醒めやらぬ興奮をおさえながら、誇らしげに倅に語った。
五兵衛が言いたかったことは、将軍・吉宗から受けた徳山家にとっての
名誉を代々の後継へ伝え、<名を汚さぬよう、お役に務めよ>というこ
とであった。


結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃


吉宗の葬送が終わると、五兵衛は、ふたたび火付盗賊改方の役職に精励
しはじめた。
「殿様は、近ごろ若やいでまいられたような」
76歳の用人、柴田勝四郎が倅の平太郎へ洩らしたように、その後も、
五兵衛は、数件の盗賊一味を捕縛するという活躍をみせている。
その柴田勝四郎は、依然矍鑠(かくしゃく)として用人を務めていたが、
ついに、この年、宝暦2年(1752)の11月5日に心の臓の発作に
よって急死をとげた。
柴田勝四郎の葬儀も済み、間もなく、宝暦2年の年も暮れた。大御所・
吉宗もこの前年に死去した。これまでの、五兵衛に関わっていたという
よりも、五兵衛の人生を<つくりあげてくれた、とも言うべき人びとが
つぎつぎに消え去り、いまは、勢以小沼治作のみになってしまった。


年ごとの変化やっぱり老化だね  安土理恵
  
 

             江戸の絵巻⑤

 
かくて、また、新しい年が明けた。宝暦3年である。
徳山五兵衛64歳。妻の勢以は59歳。小沼治作は74歳になった。
小沼は、以前と少しもかわるところがない。柴田勝四郎が死んだときも、
その亡骸に向って、
「御用人、いずれ近きうちに、そちらへまいりまするぞ」
などと語りかけたときの、小沼の老眼には、むしろ明るい微笑が漂って
いたほどなのだ。邸内の道場へ出て、徳山家の家来や盗賊改め方の与力
同心たちと共に、剣術の稽古に励む日常も変わらない。
<元気じゃのう> 五兵衛が呆れ顔になるのも、当然で、今でも短時間
の稽古なら、70を超えた小沼へ、打ち込める者はいないのである。


素粒子のことは知らぬが支障なし  新家完司



             江戸の絵巻⑥


<小沼は独身ゆえに、あのように健やかなのであろうか…>
<ああ、わしは、小沼よりも先に死ぬるにちがいない>
ある日、小沼治作が、居室に籠り、若い頃より間があれば、描き続けて
きた念願の絵巻に、没頭する五兵衛
「たまさかには、道場へお越しくださりませ」
躰を動かさないことに不満気に言ってきた。
「愚かなことを申せ」
「何が、愚かでござります」
「余命幾ばくもないというに、小太刀を揮って、汗をかいたところで、
 どうなるのじゃ」
「殿も、随分とお変わりなされましたな」
「何とでも申せ」
「あれほど、剣の道に御執心であられましたのに…」
「今は、絵筆に執心しているのじゃ」
「御勝手になされませ」
小沼も75歳となり、五兵衛に対してすっかり遠慮がなくなって、喜怒
哀楽の表情を露骨にする。


優柔不断をずばっと斬ってやろう  福尾圭司


「殿…」
「何じゃ」
「殿が剣をお捨てなされては、小沼寂しゅうございます」
「のう小沼、その方もわしも剣術は三度の飯より好きであった」
「なればこそ、私は…」
「まあ聞くがよい。よいか、小沼。今のわしには絵を描く楽しみがある。
 65にもなった老人の余生は、もはや残り僅かじゃ。
 わしは到底、その方の歳までは生きられまい」
「何を仰せられますする」
「さよう…」
言って、五兵衛は、両目を閉じ右手の指を一つ二つと折りながら
「さよう、あと4、5年の寿命ではあるまいか」
「殿、お躰に、何ぞ変わったことでも…」
「おもうてもみよ、65歳の老人に剣術が相応しいか、
 または絵筆がふさわしいか。その答えを改めて申すまでもあるまい」
五兵衛に優しく言われて、小沼治作は、
「恐れ入りましてございます」
そこへ、ひれ伏してしまった。


平凡という風呂敷の心地好さ  藤本鈴菜



           江戸の絵巻⑦


徳山五兵衛が江戸へ出奔していた期間は別にして、片時も離れずに付き
添って来ただけに、小沼治作は、心安だてに家来の身分を忘れることが、そ
れをまた五兵衛は、一度も咎めたことがなかった。
そのことに小沼は、いま思い及んだのだった。
「まことにもって、不躾なることを申し上げました。
 わが身分をわきまえず、まことに私めは…」
小沼の声は、震えていた。
「まあ、よいわ。わしはその方を…」
五兵衛は小さく苦笑を浮かべて、
「家来とは、思わぬ」
と言った。思わぬ言葉に小沼は、
「何と、仰せられまする」
「そのほうと呼ぶのも、今日から止めにいたそう」
「………?」


鏡の中に他人のような私  ふじのひろし


「小沼、今のわしは、おぬしを、わが友と思うている」
「と、殿…」
「おぬしが道場で一同に稽古をつけているときの、元気な気合声は、
 この居間にいてもわしの耳にはいっておるのじゃ」
「お、恐れ入り…」
「おぬしの気合声を耳にしながら…まだ、小沼治作が健やかにしていて
 くれる。わしの死に水を取ってもらえると思えば、何とも言えぬ安ら
 かな気持ちにもなってまいるのじゃ」
たまりかねて、小沼は男泣きに泣き出した。
この日から後、小沼治作は、五兵衛の耳へ剣術のことを、一言も入れぬ
ようになった。いつの間にか、夏が去り、秋風が立つと病気ではないが、
五兵衛は、日中も書見の間で、うつらうつらと一日を過ごすことが多く
なった。絵筆をとる気分にならないときもある。


リバーシブル今日のあなたに合わせます  津田照子



            江戸の絵巻⑧


宝暦6年の年も、あと半月ほどで終わろうというある日の午後、暖かい
日和ゆえ、居間の縁側へ毛氈を敷きのべ、五兵衛は、半切に軽く墨竹を
描いていた。60を超え、お役御免の身となった自分に、絵を描く楽し
みが残されていたことを、五兵衛は<ありがたい>ことだと思っている。
さて、手本もなしに、墨竹を描き終えた五兵衛が、縁側へ立ち上がり、
奥庭の木の間から落ちかかる日の輝きに、眼を細めたとき、突然、眩暈
をおぼえた。
ぐらりとよろめいたことは覚えているが、後は、おぼえていない。
気がつくと、五兵衛は庭へ落ちていた。さいわい誰にも見られなかった
らしい。<醜態じゃ>と思いながら<もはやわしもいかぬか> と呼吸
を整えつつ、寂寥感を感じた。
1年ほど前から、自分の躰が急に衰え始めたことを自覚している。
それでいて、医師に診せようとは思わなかった。


散り際を模索している影法師  細見さちこ
 
 

そして宝暦6年の年が明けた。徳山五兵衛67歳である。
絵巻はほぼ完成した。<これでよし、これでよし。いつ、死ぬる日が来
てもかまわぬ。さあ、いつにても来い>の思いを、五兵衛は胸に畳んだ。
この年の夏の暑さも相当なものであったが、五兵衛は無事に乗り切った。
ところが、秋風がたち染めて、間もなくの或朝、目覚めて半身を起こし
た途端、またしても激しい眩暈が五兵衛を襲った。
<あっ…>おもわず、低く叫び、五兵衛は、突っ伏してしまった。


ヘソの尾か竜巻なのか暴れだす  田口和代


目覚めると横に医師の遊佐良元が脈をとっている。妻の勢以もいる。
長男の次郎右衛門がいる。小沼治作も家来たちも、五兵衛の床へ集まっ
てきていた。
それから1ヵ月ほどして、五兵衛は、床をはらった。
いったんは衰えた食欲も出てきたし、血色も見違えるほどよくなった。
医師の遊佐良元も
「もはや、大丈夫…」
と受け合ってくれた。
床上げの日の午後に、小沼治作が居間へやって来て、
「御本懐、おめでとうござりまする」
神妙な顔で祝を述べたとき、五兵衛はくすりと笑い
「小沼、心にもないことを申すな。おぬしには、よう分かっているはず
 ではないか。なれど、たしかに気分はようなったわ。良元殿の手当て
が効いたのであろう」
小沼は黙って頷いている。


神さまの目配せスルーしてしまう  美馬りゅうこ



            江戸の絵巻⑨
 
 
「のう、小沼、蝋燭の灯が尽きようとする直前には、最後の炎をあげ、
 一瞬、ぱっと燃えさかるとか…いまのわしがそれじゃ…。
 これより、残り少なくなった明け暮れを、神や仏が楽ませてくれるの
 であろうか…」
時代は、9代将軍・家重の世になって、大きく移り変わろうとしている。
五兵衛次郎右衛門に、こう言った。
「これからは大変な世の中になろう。おぬしが気の毒じゃ。何事につけ、
せせこましく、息苦しく生きていかねばならない。こころしておけ
もはや、今の五兵衛秀栄には、時勢の変転に、心をくばっている時間も
ない。そして五兵衛は、ぷっつりと絵筆を捨てた。
そして毎日、居間に座り込み、奥庭を眺めては瞑想にふけり、夜に入る
と書見の間に引きこもり、かの絵巻をながめることが日課となった。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花
 
 
この年が暮れ、また新しい年が明けた。宝暦7年である。
新年を迎えた五兵衛の体調は良好であった。
春がすぎ、梅雨の季節となったので、医師の遊佐良元は3日に1度、
かならず来邸して診察をおこなった。
梅雨の季節も元気に迎え、良元も<これならば大丈夫>と太鼓判をおす。
夏が来た。依然、五兵衛は食欲もあるし、血色もよかった。
体調が、少しおかしくなったのは、秋も入口にある8月10日(今の9
月22日)である。
目覚めのときに眩暈を感じ、三日感覚ほどで、その症状が続いた。
そして8月18日となった。
午後になって、勢以が持ってきた土産のカステーラを二片ほど食べたが、
間もなく気分が悪くなり、吐いた。


ダリのヒゲああ永遠は無いと知る   齊藤由紀子


おどろく勢以
「なに大丈夫じゃ。少し眠ろう」
五兵衛は寝所に入り、身を横たえ、半刻(1時間)ほど眠ったようだが、
突然、激しい頭痛に目覚めた。躰中の力という力が、すべて消え去った
ようで、頭痛は依然として激しい。
次郎右衛門夫妻をはじめ、家来たちが次の間へ入って来ようとしたが、
五兵衛は、勢以に、「居間には誰も入らぬように」と命じ、
書見の間にある、鍵をかけた手文庫を持ってこさせ、
「わしが、息絶えるまでに焼き捨てよ」
と申しつけた。
手文庫には、合間合間に五兵衛が、描きためた秘密の絵巻が入っている。
それを残して<死ぬるわけにはいかない>のだ。


目にしみる涙は遠き日のために  奥山節子
 

 
   歌沢節 横ぐしお富

女江戸中期には多くの侍・市民は習い事をした。
男たちが女師匠に歌沢節
の稽古を受けているのもその一巻である。
歌沢節とは、江戸時代後期に端唄から派生した歌曲。
五兵衛が、趣味とした絵画も、遊蕩時代に習い覚えたものだったようだ。



次郎衛門柴田用人も、小沼治作さえも遠ざけた五兵衛は、家来2人を
呼び入れ、奥庭に面した寝所の障子をあけさせ、庭の土を掘り、そこへ
薪を組み、手文庫を放り込み、「急ぎ、燃やせ」と命じた。
夕闇が淡く漂う奥庭の一隅の穴から、紅蓮の火炎が燃え上がるさまを遠
くから見ていた家来や侍女たちは、<いったい何事が?>と息を呑んだ。
手文庫が完全に灰となるのを見届けてから五兵衛は、ぐったりと臥床に
横たわり、
「皆みなを呼ぶがよい。別れを告げたい」
と言った。


墓石の蜥蜴そろそろ旅支度  くんじろう
 
 
  <こうなる前に、わしの手であの絵巻と櫛の始末をいたしたかったが……
ついに、いまこの時まで、未練を残してしもうた。なれどこれでよい>
土気色にかわった五兵衛の顔には、安堵と放心の色が浮かびあがった。
遊佐良元が駈けつけてきたのはこのときである。
次郎右衛門夫妻や孫たち、分家から小左衛門貞明。小沼治作や用人・
柴田平太郎も五兵衛の枕頭へ集まって来た。
「勢以…これへ…。長年、苦労であったのう」
「いま一度…いま一度、四十余年前に戻って、初めより、やり直しとう
ございました」
五兵衛の耳元へ、涙声で、ささやいた。


こわれかけのレコードのよう子守歌  森光カナエ



          武士の葬儀


次郎右衛門小左衛門が顔を寄せると、
「次郎衛門、小左衛門。正道を踏み外したはならぬぞ」
と父親らしい一言をあたえ、小沼治作が、
「私めも、間もなく…」
ささやくと、両眼を閉じた五兵衛が、
「待っているぞよ」
頷いたが、すぐに昏睡状態となり、夜に入り息絶えた。
ときに、徳山五兵衛秀栄、68歳であった。

小沼治作は、翌年の2月10日に死んだ。五兵衛を追ったとも…)
食を絶ったともいわれ、または、前日まで変わりなく暮らしていたのが、
翌朝となって眠ったまま、息絶えているのを発見されたともいう。
いずれにせよ、五兵衛亡きあと張り合いをなくした小沼は、魂の抜けた
亡骸同様だったという。

 
かぎろひの旅の終わりは彼岸花  内田真理子

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あと一段見落としていた僕の足  武市柳章
 


            小伝馬町牢屋敷


小伝馬町牢屋敷の広さは、敷地2618坪(うち奉行の役宅480坪)
周囲には濠が巡らされ、表門は南を向いている。表門から入って「宣告
場」「張番所」があり、「獄舎」は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷
6、5坪、士分・僧侶を入れる揚屋が9坪、百姓町人以下の大牢15坪、
同婦人の女牢が12坪と四ヶ所に分かれており、他に、「拷問場」「処
刑場」「検死場」、病囚のための「薬煎所」「役人長屋」となっている。
日本左衛門は、延享4年(1747)1月7日に京都町奉行・永井丹波
守尚方に自首し、裁かれたのち、江戸に送られ、北町奉行・能勢頼一
って、小伝馬町の牢に繋がれた。
(日本座衛門の自首は、大坂町奉行・牧野信貞の説もある)
 
 

        牢内の図 (徳川幕府刑事図譜)
 
 
エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑨


日本左衛門が、延享4年(1747)1月、自首してきた。
京都町奉行は、永井丹波守尚方であったが、その役宅へ日本左衛門は町
駕籠を乗りつけたらしい。黒紋付に麻の裃をつけ立派な大小を腰に帯し、
堂々たる風采であったが、すっかり痩せ衰え、杖をつきながら、右の足
を引き摺っていたいたようだ。
奉行所には、日本左衛門の人相書きも廻っていたし、京都市中の探索も
疎かにしてはいなかったが、それだけに意表をつかれ与力・同心たちは
あたふたと落ち着かない様子だったようで、日本左衛門は、
「わざわざと名乗り出たるからには、逃げ隠れをいたすわけもござらぬ。
 お心静かになされ」
と、さも愉快気に言い放った。


兵法にあるのだろうか泣き落とし  ふじのひろし


なにはともなく縄を打ち、日本左衛門を白洲へ引き出すと、
「何ぞ、腰にかける物を下さらぬか。それがし、遠州の見附宿にて、
 お役人の頭と見ゆるお人に、右の太股を斬り払われ、その傷が、
すっかり拗(こじ)れてしまい、歩むことも坐ることもかないませぬ」
と言い出た。
調べてみると、なるほど右の太股が化膿し、そのあたりが、まるで毬の
ように腫れあがっている。見附宿の捕物陣を単身で切り抜け、諸方を逃
げ隠れしていた日本左衛門は、全国手配の犯罪者として、医者の手にか
かるわけにもいかず、自分の手で膿を除いたり、薬を塗ったりして何と
か逃げ延びていたという。


時効などさせない神さまの手錠  荻野浩子
 


       江戸のお裁き

 
京都町奉行・永井丹波守は、
「腰をかけさせるがよい」
許可を与えてから吟味を開始をした。
「いずこに潜みおったのか?」
日本左右衛門は、
「まず伊勢の古市に…、それから、長門の国の下関まで落ちのびました」
と、言った。
果たして本当だろうか。
この間に伊勢の古市に住んでいた中村左膳という者が捕らえられた事件
がある。中村左膳は、古市の遊女を斬り殺したらしい。
尾張の浪人で、日本左右衛門一味ではない。
中村左膳と日本左右衛門は、ずっと以前からの知り合いであったので、
「古市の中村宅へ潜みおりましてござる。ところが、慣れぬ他国の下関
にいても落ち着きませず、ふたたび伊勢の古市に戻ってまいりましたが、
中村左膳が、お縄にかかってしまい、匿ってくれる者もなく…」
と、おおまかな経緯を語った。


影だけがどんどん伸びる逃亡者  赤松ますみ


ともかく日本座衛門は、曖昧で詳しいことは何も語らない。
長門の下関の何処にいたのかと訊かれても
「さて、忘れてしもうてござる」
悪びれもせず答える。
伊勢の古市にも居られず、それから京都へのぼり、この日まで何処かに、
潜伏したいたのだが、
「その場所は?」
との訊問に対して、
「橋の下、寺の境内、あるいは諸方の木立をえらび、潜みおりました」
「いずこの橋の下じゃ?」
「さて、京の町は不案内にて、ようわかりませぬ」
「野宿していた者が、どうして、真新しい黒紋付や麻裃を身につけるこ
 とができよう」
行く先々で、日本左右衛門を匿った者がいるにちがいないのだが、
しかし彼らは、おそらく一味の盗賊ではなかった者だろう。


信楽のタヌキの頃を引きずって  中野六助


自首してきたとき、日本座衛門は、懐中に十両の金を残していたという
から、<日本左右衛門のこれまでの逃亡を助けたのは、金の力と言って
よいのではないか>、その金も尽きかけ、このままでは傷が悪化し、
ついには命取りになることを悟り、
「どうせ死ぬなら」
こちらから名乗り出て、<日本左右衛門らしい悪の最後を遂げよう>
そう決意を固めたもの、と、奉行・長井丹波守は推し量り、
「こやつ、いかに締め付けようとも、この上の事は白状いたすまい」
と結論づけた。


もうろくという字を思い出している  黒田忠昭


最後に、日本左右衛門は、しみじみとした口調で
「それがしは天下未曾有の大盗とあって諸国へくまなくお手配にて
かくなってはもはや大綱と申すものと存じました。
わが腹を搔っ切ろうかとも考えましたなれど、
醜い死体を他人に見せるよりは、
自ら大綱にかかり恢恢疎にして漏らさぬとの金言を真のものといたしたく
かくは出頭つかまつってござる」
「…」

「それに…それにまた見附にて斬りはらわれたる太股の傷が、
かほどに悪くなろうとは思いませなんだ、盗賊と申すものは
お役人より何より、己の手傷・病に弱いものでござります」
 
 
団栗がコロンと落ちただけのこと  合田瑠美子



          打 ち 首


その後、日本左衛門は江戸の北町奉行所へ護送され、さらに吟味をうけ
たが、京都町奉行での吟味と同様の結果となった。
そこで、<いたしかたなし>ということになり、延享4年3月11日に、
獄門を申しわたされた。
当日、江戸市中を引き回しの上で、処刑されるのだが、何故か、火炙り
にも磔にもならず、引き回しののち、ふたたび、伝馬町の牢内へ戻され、
其処で首を打たれることになった。


自分史の最期は「ん」で締め括る  梶原邦夫
 

 
                             市中引き回し


処刑の当日、市中引き回しの馬へ乗せられたとき、上体を厳しく縛られ
日本左衛門が付き添っていた役人に、
「見附宿にて捕物の采配をお振りなされたお方の御名を、冥途の土産に
 聞かせていただきとうござる」
「火盗改方、徳山五兵衛殿じゃ」
「とくの、やま、ごへい、どの…」
すると、日本左衛門こと浜島庄兵衛は、
「はて…?」
何やら、しきりに首を傾げているので、役人が
「何とした?」
「いや…その御名を、ずっと以前に耳にいたしたような…」
「何を申す。そのほうどもの関わり知らぬお方じゃ」
「はい……はい……」
処刑の日の日本左衛門は、いかにも神妙であった。


悔いのないきれいな灰になるつもり  津田照子


五兵衛から受けた太股の傷も、医薬の手当てによって、どうにか軽快と
なり、顔色もよく、いくらかは躰も肥えたようである。
「あれが、日本左衛門だ」
「ざまを見ろ」
「あんな悪党は、滅多にいないということだ」
「押込み先で、女を手篭めにするなぞは、まったくもって、犬畜生にも
 劣る奴だ。石を投げてやれ」
「投げろ、投げろ!!」
群衆が引き廻される日本左衛門に石を投げつける。
この大盗の罪状を書き記した紙幟と捨札を先頭にかかげ、槍・捕物道具
を手にした40人ほどの警護がついているけれども、石を投げる群衆に
は知らぬ振りをしている。縄つきのまま馬上にいる日本左衛門の顔は、
血だらけになったという。


かくしてシラタキは白髪ネギに負けたんだ 山口ろっぱ
 
 
徳山五兵衛秀栄の名は、日本左衛門の処刑と同時に江戸市中へ広まった。
見附宿の捕物の鮮やかな手際もさることながら、みずから強力の日本左
衛門とわたりあい、
「生け捕りにしようというので、何とわざわざ、日本左衛門の太股を斬
 ったというのだから大したものだ」
「その場では逃げられたものの、結局、徳山殿より傷のために自首をし
 て出たと申すのだから、生け捕りにいたしたも同然じゃ」
「いずれにせよ、見事な働きではないか」
「年少の頃には、かの堀内源左衛門より薫陶を受け、赤穂浪士の堀部安
 兵衛とも同門であったそうな」
「ほう……さようでござるか。なるほど、なるほど」
などと幕臣の間でも、えらく評判になった。


喝采を遠くで聞いたとろろそば  柴辻疎星
 

 
                                  盗 賊 追 捕 の 図


大御所・吉宗からは、別に何の沙汰もなかったが、老中、掘った相模守
を通じて、<遠路を苦労であった>との言葉が、五兵衛の耳へもたらさ
れた。吉宗はこの年、64歳になっていたし、やや健康を害しているら
しい。
徳山五兵衛の火付盗賊改方就任は、日本左衛門逮捕のためであったが、
あまりにも評判が高くなったためか、幕府は五兵衛を解任しなかった。
五兵衛は、
「まだ、このお役目を務めねばならぬのか…」
幾分、うんざりしたものだったが、江戸市中での盗賊追捕をやりはじめ
てみると、次第に気が乗ってきて、立てつづけにそれと知られた盗賊の
首領を2人も捕えた。


雑巾になるまで使い切る命  笠嶋恵美子


となると、解任の望みはいよいよ遠くなる。
「60の声を聞こうというのに、このような忙しい思いをせねばならぬ
とは…」
五兵衛は毎日のように、小沼治作へ零した。
それならば、何も一生懸命にお役目を務めなくても、怠けていればよさ
そうなものだが、兇悪な賊どもが1人でも消え、絶えるならば、それだ
け江戸市民の難儀が減ることなのだから、遣り甲斐がなくもない、とい
う考えに落ち着いてしまう。


真っ直ぐに生きて付録の中にいる  吉川幸子


火付盗賊改方の長官として、徳山五兵衛秀栄な名は、江戸府内において
<だれ知らぬものはない>、ことになった。盗賊どもも恐れをなしたか、
一時は、江戸府内に盗賊の跳梁が絶えた。
そういうこともあり、寛延2年(1749)の秋になって、
五兵衛は盗賊改方を解任になった。後任は別になかった。
「やれやれ」
五兵衛は60歳になった。小沼治作は70歳である。
しかし小沼は、いよいよ元気で、
「このようなことを申し上げては、如何かと存じますが、近ごろ私は、
 このまま、もう死ぬことはないのではないかと、そのような気がいた
すこともござります」
などと言い出したりして、五兵衛を呆れさせた。


一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


ところが、
2年後の寛延4年の正月、ふたたび「火付盗賊改方」を仰せつけられる。
幕府がまたも徳山五兵衛を必要としたのは、諸方盗賊どもの跳梁がはじ
まり、ことに相州から甲州にかけて、<尾張九右衛門>と名乗る盗賊が
現れたことによる。


走ることはない私の道だから  佐藤正昭

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奈落から聞こえる泳げたいやき君  森 茂俊



           享 元 絵 巻
尾張の徳川宗春の政策によって栄えていた名古屋の町。



 8代将軍・徳川吉宗

 かつては暴れん坊将軍と言われ、テレビでも大活躍した将軍・吉宗
寄る年波には勝てず、延享3年(1746)に、命にかかわる大病を患
っている。当時は中風と診断された、脳卒中である。右半身麻痺と言語
障害の後遺症が残った。
中風発症から4か月後、症状が落ち着き、床も上げた後のこと。吉宗は、
しきりに、何かをしゃべるのだが、側近は理解できない。しばらくして、
大御所は大好きな「鷹狩り」のことでは、と訊ねると「そのことじゃ」
と答えたという。<このことから、吉宗は自分の意思を言葉にすること
はできないが、側近の問いかけを理解して、反応することができるので、
典型的な運動性失語であったと診断>された。
 この病は、リハビリで改善されると聞いた吉宗は、リハビリに清心した。
御側御用取次であった小笠原政登によると、朝鮮通信使が来日した時に
は、小笠原の進言で江戸城に『だらだらばし』というスロープ・横木付
きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽
しんだという。その後も、小笠原と共に吉宗は、リハビリに励み、江戸
城の西の丸から本丸まで歩ける程まで回復したという。
そのころ徳山五兵衛は、日本左衛門一味捕縛に、東海道を上っていた。


老いぼれて肋骨歌を歌いだす  通利一辺


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男-⑧
 


            見 附
見附の本来の意味は「見張り所」「警備」で江戸時代、東海道では、
形式的な入り口を設けた。


日本左衛門捕縛に同行する小沼治作が、戦況の報告のために、五兵衛の
一間に入ってきたときのことである。
「殿…」
小沼が生唾を飲みこみ、何かを言い躊躇っている。
「いかがした?」
「は…」
「何ぞ、異変でも起こったのか?」
「いえ、実は…ただいまこの本陣裏にて、召し捕りましたる賊どもの人
 体を、つぶさに見てまいりましたが…万右衛門宅にて捕えましたたる
 老婆のことのことにござりますが」
「その老婆が、何といたした?」
「向こうは、私めに気づかぬ様子でしたが、まさに…」
「まさに…?」
「誰とおもわれまするか?」
「わからぬな」
「お玉でござります」
「お玉……まことか?」
「紛れもございませぬ」


結末に咲いてる花はきっと赤  清水すみれ


正徳5年(1715)徳山五兵衛が初めて、本所見廻り方を拝命した年
の初夏のこと。26歳の五兵衛が網笠に表をか隠し、小沼治作を連れて
市中の見回りに出た折、両国橋の西詰で、佐和口忠蔵と共に歩んでいる
お玉を見かけたことがある。すぐに五兵衛は、小沼に二人の尾行を命じ
たのだが、その時の驚きを、今も忘れていない。
佐和口忠蔵と何やら親し気に語り合いつつ、村松町の方へ行くお玉の、
見違えるばかりに成熟した後姿を、五兵衛は脳裡に思い起こした。
お玉は、たしか五兵衛より二つ三つ年下であるから、今は、54,5に
なっているはずだ。


浮雲に繋がる時のコンセント  みつ木もも花


「お玉ですが、いかがなされます。これへ連れてまいりましょうや」
「……」
数舜、五兵衛は沈思したのち、
「まぁ待て。その前に、そのほうに申すことがある」
五兵衛が、小沼の耳元へ、日本左衛門の顔貌について語ると、
小沼は、<えっ!>と驚きも隠さず、白髪が興奮にふるえはじめた。
「これは、何としたことで」
「驚いたか?」
「驚かずにはおれません」
「いかに思う」
「これは、殿のお考え通り、まぎれもなく佐和口忠蔵の子でござ りましょう」
「…それで、今度はお玉のことじゃ」
「は…」
「日本左衛門は、佐和口とお玉との間に生まれたのではあるまいか」
「……」
「いまふと、そう思うたが…」
「ま、まさに…」


直撃を顎にくらった黒あざみ  河村啓子


それから徳山五兵衛は、かなり長い間を沈思していたが、
「やはり、わしは会うまい、会わぬほうがよい」
「心得ました」
「それで、な、」
「はい」
「お玉のみは、別に押し込めておくように、取り調べも致すなと、磯野
 源右衛門へ申しおいてくれい、なれどこのことは口外いたすなよ」
「畏まりました」
と、言い慌ただしく、小沼治作は、五兵衛の部屋を出て行った。


うしなった方からやってくる答え  徳永政二
 

         護 送 篭


捕えた者の取り調べは、江戸へ護送してから行われる。
まず、見附の万右衛門、赤池法印、菅田の平蔵、白輪の伝右衛門の4名
は、江戸へ送られ、残る7名は、駿府へ送りとなり、公儀の裁決によっ
て処刑をされることになる。
万右衛門宅にいた老婆は、奥庭の土蔵へ押し込められたままである。
「そっと、顔をお改めになさいましては?」
と、小沼はすすめたけれど、五兵衛は、
「いや、やめておこう。かくなってみれば、何事も、辻褄が合うように
 おもえる」
「なれど今もって、佐和口忠蔵やお玉の仕業が、尾を引いておりましょ
 うとは…」
「二人が生んだ子は、尾張家の御七里を勤めていたとか申す、浜島友右
 衛門とやらが、密かにもらい受け、我が子として育てたのであろうか… 
 そのように、思われてならぬ」
「さすれば、いまもって尾張家は、天下を騒がす企みを…?」
「いや、それはない。いまの尾張家は、ひたすら将軍家と公儀に、恭順
 いたしておる」


残したくない足跡がついてくる  下谷憲子


「日本左衛門は、実の父親が、佐和口忠蔵であることを知っておりまし
 ょうか」
「知っていよう」
五兵衛の答えに、ためらいはなかった。
「見せたかったぞ、小沼。わしに立ち向かってきたときの日本左衛門を
 、な」
「さほどに」
「強い。やはり、佐和口の血を引いておるのであろう」
5日後、4名の賊を護送する徳山五兵衛一行は、見付の本陣を出発し、
東海道を下って行った。


一日の終わりに思い出す名前  中野六助
 


    日本左衛門手配書

  人相書之事 十右衛門事   浜嶋庄兵衛
 一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし 三尺九寸程
 一 歳弐拾九歳 見掛三拾壱弐歳ニ相見候
 一 月額濃引疵壱寸五分程
 一 色白歯並常之通    一 鼻筋通り
一 目中細ク    一 皃おも長なる方
 一 ゑり右之方江常かたき籠在候
 一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
一 逃去り候節着用之品
    こはくひんろうしわた入小袖
    但紋所丸之内橘
    下ニ単物萌黄袖紋所同断
    同白郡内ちばん
 

お玉については、見附・袋井の両本陣の主へ
「かの老婆は、盗賊どもとさして関わりないと判明したゆえ、我らがこ
 こを発して、3日後に追い放つがよい」
徳山五兵衛は、そのように言い渡し、
「何やら、哀れにもおもえる、これを渡してやれ」
金包みを、田代八郎左衛門へ委ねた。
こうして日本左衛門一味の捕物は終わった。
取り逃がした日本左衛門については、幕府が全国に人相書きをまわし、
手配を行っている。
「今度、何処かで悪事を働けば。一も二もなく足がつき、捕えられてし
まうだろうよ」
と、五兵衛は小沼に言った。


生きるとは許す訓練かもしれぬ  杉山太郎


徳山五兵衛は、日本座衛門一味の盗賊どもを護送する途次、小田原藩の
牢獄へあずけておいた寅吉爺佐藤浪人を引き取り、これを密かに釈放
してしまった。与力・磯野源右衛門小沼治作が、護送の一行が江戸へ
去るのを見送ったのち、小田原の本陣へ残り、寅吉と佐藤浪人の始末を
行った。小田原藩へは、
「かの両名には罪なきことが判明いたしたので、解き放ち申す」
と、徳山五兵衛秀栄の名をもって申し入れ、2人の身柄を引き取ったの
である。磯野と小沼は、2人を酒匂川の茶店まで連行しここで釈放した。
磯野源右衛門は、
「こたびの事を、よくよく思い極め、これより先は、少しでも世のため
 になるように働けよ」
と、言った。
寅吉は、磯野と小沼が茶店を離れるまで<この場で、首でも打ち落とされ
るのではないか…>と思っていたようだ。


許そうと決める大きな深呼吸  秋田あかり


護送の一行へ追いつくために、足を速めながら、磯野源右衛門小沼に、
「両人とも、狐に化かされたような顔つきであった」
「まったく、そのようでありました」
「のう、小沼殿」
「はい?」
「このことを、何と思われるな?」
「寅吉と浪人を解き放ったことでござあるか?」
「いかにも、あの両人は、日本左衛門一味に関わる者どもに違いない。
 それを解き放つというのは…どうしても分からぬ」
「殿のやることは、時に分からぬことが、しばしばございますからな」
あらかたの事情を知る小沼だが、こうとしか答えようがない。


いつ呼吸しているのやらよくしゃべる  青木敏子


「なれど、殿には殿に、深い御存念があってのことでありましょう。
 これが町奉行所などとはちがい、盗賊改方のお頭としての、
 臨機応変のなされ方なのではござるまいか」
と、小沼が付け足した言葉に、磯野源右衛門
「さ、その臨機応変が、よく分からぬのだが……」
「人の世の事は、分からぬことばかりでありますな」
磯野は、合点のいかない首を振りながらも<お頭のなされたことだ、
よも、間違いはあるまい>と、思い込むことにきめた。


たらればは言わないことに決めました  安達悠紀子



         お 裁 き


日本左衛門一味の取り調べと処刑が、すべて終わったのは、
この年の12月下旬のことであった。
だが、日本左衛門は捕まってはいない。
徳山五兵衛は、老中・堀田相模守へ委細を報告し、
「首魁の日本左衛門を取り逃がしましたること、申し訳のしようもござ
 いませぬ」
と、詫びた。
しかし、病の癒えた大御所・吉宗は、堀田老中から事情を聞き取り、
「ようも、してのけたものよ、さすがに徳山じゃ」
 「大御所は、至極、満足しておられたご様子であった」と堀田老中は
五兵衛に伝えた。
そして、この年も暮れ、延享4年(1747)の年が明けた。
その正月7日。何と、日本左衛門こと浜島庄兵衛が、京都の町奉行所へ
自首してきたのである。


エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお

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ご同輩あなたも工事中ですか     髙瀬霜石



「東海道五十三次 ・藤枝宿問屋場」(安藤広重)

問屋場の建物の中で座し、事務をとる問屋役。狼藉者が登ってこれない
ように、床は人の肩ほどに高くしてある。そして、馬の背から荷をおろ
す者,荷物を重そうに担ぐ者,汗をふく者など,労働人夫の世態を細か
く描写されている。

【問屋場】 慶長6年(1601)、徳川家康は東海道に宿(駅)を置
き、人や荷物を運ぶために馬を配置(伝馬制)し、その事務を取り扱う
場所を、「問屋場」といった。ここには責任者である「問屋」その補佐
をする「年寄」「記録係の帳付」「人足や馬の手配」をする「馬差」
どが詰めた。主に仕事は、荷物の目方を計り,賃銭をきめ,人馬の継立
てや、貨物運送の斡旋をした。また、この貨物を担うために、馬や力の
ある人足を抱え,役人がこれを統率した。継立=次立→53次の語源


よいしょって外人何て言うのやろ  磯島福貴子



7 平塚  8 大磯   9 小田原  10 箱根  11 三島  12 沼津 13 原 14 吉原
15  蒲原  16  由井 17  興津  18   江尻 19   府中  20   鞠子  21 岡部 
22  藤枝  23  嶋田  24  金谷  25  日坂  26  掛川  27  袋井  28  見附 
 

 
「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑦


三ヶ野村の金兵衛は、何を白状におよんだのか…。
それは徳山五兵衛にとっても、思いがけぬことであった。
五兵衛は、見付宿の手前の袋井宿本陣に拠点を定め、日本左衛門一味の
情報を集めた。一味の金兵衛という男を捕らえ尋問し、越後の浪人くず
れの盗賊で今弁慶と呼ばれる大男、坊主くずれの赤池法印養益、菅田の
平蔵、白輪の伝右衛門など一味の盗賊二十名ほどが、万右衛門宅へあつ
まるということを知った。


天上も天下も悪い奴がいる  新家完司


日本左衛門逮捕の一行は、袋井の本陣の裏手から出て行った。
それより少し前に五兵衛は、「人足20名ばかり出してほしい」と問屋
田代八郎左衛門に依頼している。問屋場へ集まったその人足20名を
田代八郎左衛門と与力・岩瀬半兵衛池田、小池の2同心を従えて、別
の道を北へ進む。一旦は、袋井の宿場を北へ離れておいてから、道を西
へ取り、人足一行は太田川のほとりで待機した。
問屋場は、宿場の公設機関であった、大名行列の宿泊や人馬の発給、公
用書状の輸送、助郷人夫の取り扱いなど、宿駅の事務を管理する所だ。
田代八郎左衛門は、問屋場の年寄役を務めている。八郎左衛門によれば、
集めた20名の人足たちは賃金が多いので、大喜びをしているという。
労働の内容は「お上の御用」としか聞いていない。


空白の脳にさせない好奇心  宮原せつ


やがて、五兵衛一行があらわれ、五兵衛から
「今夜、皆に手伝ってもらうのは、見付の万右衛門を捕えることじゃ」
と聞いて、人足たちは、顔を見合わせ、驚きあわてた。
その不安気な人足たちの顔を見て五兵衛は、
「安心をせよ、お前たちが傷ついたりするようなことにはならぬ。
 皆にしてもらわねばならないことは、いざ打ち込みとなったとき、
 万右衛門宅を高張提灯の灯りで照らしてもらうこと、夜の闇の中での
 捕物ゆえ、照明がなくては、どうにもならぬ。一味の無頼どもを一人
 残らずひっ捕らえるためにもな」
さらに
「万右衛門は、見付のみならず、駿河から江戸まで手をのばし、若い娘
 たちを騙したり、勾引(かどわかし)たりして、これを諸方の娼家へ
 売りわたしていることが、判明したので、御公儀もすててはおかれず、
 われらを差し向けたのじゃ」
五兵衛の説明に人足たちは納得した。


ネジ山がすれて減ってもネジはネジ  小谷雪子
 


                     見附宿
 
見附宿の高札場の先の小道を右に入り、4,5丁も行くと人家も絶えて
しまう。万右衛門宅は、小道から右へ切れ込んだ奥にあった。
三井同心の報告で小屋に20名ほどの者が入ったという。
背後は竹藪で道もないので、人が入り込むこともない。
そこで、盗賊どもが出した見張りの男は。表口にいたのである。
そこは母屋の前庭で、左手に物置小屋があり、見張りの男は、その小屋
の戸を開けっ放しにして縁台に腰をかけ、股の間に小さな火鉢を置き、
煙草を吸っている。
<なるほど、此処からなら前庭も母屋もすっかり見わたすことができる
というものだ> 母屋の雨戸は締め切ってあるが、その隙間からわずか
に灯りが洩れていた。母屋からは笑い声も聞こえていたし、見張りの男
もさほどに神経をつかっている様子もない。


障子の穴から催眠術をかける  井上一筒


そのとき、物置小屋の外に人の気配がしたようなので、見張りの男は煙
管を煙草盆へ置き、
「だれだ、粂か?」
腰をあげて訊いた。見張りの交替が来たと思ったらしい。
外の男が低い声で何やら言った。
「何だ…、おい…」
見張りの男が戸口から外へ出た。出た途端に頚筋をしたたかに撃たれ、
前のめりになった男の口を、素早く押えて、物置小屋へ引き擦り込んだ
のは、三井同心であった。


間違いもなくカラスに遊ばれた  山口ろっぱ
 


           裁着袴 (たっつきばかま)

 
密偵の源六は、戸口に屈み込み、母屋の様子を窺っている。
「源六、大丈夫か?」
と、三井。
「へい、だれも気付いていませぬよ」
「よし、お知らせしてこい」
「合点です」
源六は音もなく走り去った。
三井は、気絶した見張りの男の口へ猿轡をかませ、用意の細引き縄で手
足を縛った。闇の中を二人、三人と盗賊改方の一行が前庭へあらわれた。
徳山五兵衛を含めて十一名である。
五兵衛は、自分と共に中へ打ち込む者として、磯野源右衛門、小沼治作、
柴田平太郎、辻駒四郎、山口佐七
の五名を選んだ。
腕に覚えのある男たちばかりである。
残る五名のうち、二名が裏手へまわり、三井同心を含めた三名が前庭に
待ち構えた。


波打ち際に朱いポストが立っている   嶺岸柳舟



              打裂羽織 (ぶっさきはおり)
 
 
「では、そろそろ、はじめようか」
五兵衛は、そういって打裂羽織(ぶっさきはおり)を脱いで密偵の源六
へわたし、袂から出した革紐を襷にかけた。
与力・同心たちは、いずれも裁着袴(たっつけばかま)をつけて足拵え
も厳重に、鉢巻をしめている。
「それ!」手で五兵衛が合図をすると、掛矢をつかんだ二人の密偵が、
足音をしのばせ、母屋へ近寄っていく。
雨戸を掛矢で叩き破って、打ち込もうというのだ。
五兵衛が樫の棍棒をつかみなおし、<よし>と合図すると、密偵たちが
掛矢を揮って、戸を叩き破った。五兵衛は、真っ先に中へ躍り込んだ。
博打はもう終わっていたらしく、屈強の男どもが酒を酌み交わしていた。


眼の前の大きい背なが盾である  赤星陽子


                               掛矢(大型の木槌)


いきなり五兵衛は棍棒を揮い、2人の男を倒した。57歳とは思えぬ身
のこなしで、また一人を打ち据えたかと思うと、
「日本左衛門 神妙にいたせ!」
天井が敗れ落ちるかと思うほどの大声を発した。
67歳の小沼治作は、裏手から逃げようとする盗賊どもの側面から打っ
てかかった。柴田平太郎も負けていない。勇ましい気合声をあげて賊ど
もと斬り合っている。
盗賊改方の奇襲に、賊どもは、度肝を抜かれあたふたするばかりだ。
前庭へ逃げた奴どもは、待ち構えていた与力・同心の峰打ちをくらって
気絶をしたり、膝のあたりを切り割られ、のた打ち回っている。


戦いも避けて通れぬ時がある  広瀬勝博


五兵衛は、乱闘の渦の中を抜けて、奥の間へ踏み込んだ。
日本左衛門と見えた男が、奥の間の闇の中へ逃げ込んだからである。
その闇の中から賊が一人、走り出て、五兵衛へ脇差を叩きつけてきた。
わずかに退った五兵衛が、すくい上げるように賊の右腕を撃った。
痛みを堪え、感心にも組み付いてきた賊の脳天を、五兵衛の棍棒が一撃
した。賊は昏倒してそのまま気絶した。
「日本左衛門、観念せよ」
五兵衛が、奥の間の闇へ声を投げた。
<たしかに、いる>
闇の底に、人が一人、凝っと五兵衛を見つめている。
乱闘は屋内から前庭へ移っていた。裏手へ逃げた者は一人もいない。
裏手の土間には、小沼治作が立ちふさがり、一人も通さなかったからで
ある。小沼は、土間の片隅に蹲っている老婆をみつけ、 
<逃げるなよ> 静かに声をかけた。
老婆は、虚脱したように、頭を両手に抱え、蹲(つくば)ったまま身じ
ろぎもしない。


負けないよ歌を忘れていないから  藤田めぐみ



     龕  灯 (がんとう)


五兵衛の方は、奥の間の曲者が潜む闇を睨みつづけている。
そして密偵に龕灯を持ってこさせ、灯りを奥の間へ照らさせた。
男が一人、立っている。
五兵衛は、<まさに日本左衛門と見た>。
堂々たる体格の、年齢は30前後というところか…。
身につけている衣装が、まるで芝居の舞台にでも現れるようなもので、
琥珀檳榔子(こはくびんろうじ)の小袖に橘の大紋をつけ、大脇差を
引っさげ、些かも臆せずに五兵衛を睨みつけている。
「日本左衛門じゃな」
五兵衛が声をかけた。
「いかにも」
悪びれもせずに、日本左衛門が答えた。
「もはや逃げ道はない。お縄にかかれ」
日本左衛門は声なく笑い、
「みごと、捕えるつもりならば捕えてみよ」
と、言い放った。
色白く、目の中細く、鼻すじ通り、と人相書にある通りの、立派な顔だ
ちである。龕灯の灯りを正面から受けて、怯む様子もない日本左衛門に、
ある男の顔が重なり合い、五兵衛は愕然となった。


誰もいない海でラジオが鳴っている  村山浩吉



   日本左衛門は色男


さすがの五兵衛も、息を呑んだ。
<こ、これは、生き写しとまでは言い切れないが、似ている>
若きころの佐和口忠蔵が、いま、徳山五兵衛の眼前に立っている。
<そうか…日本左衛門は佐和口忠蔵の子であったのか>
日本左衛門は、この一瞬の隙を見逃さなかった。
大脇差を五兵衛の足へ斬りつけてきたのだ。
五兵衛は身を捻り、辛うじて身を躱したが、袴の裾を切り裂かれた。
それから今度は、密偵の顔を切り払った。
絶叫をあげて転倒する密偵の手から、龕灯が落ちた。


見つめすぎたのか石の眠り  阪本きりり  


すかさず日本左衛門は、逃げにかかった。
前庭では、与力や同心たちがまだ盗賊たちと闘っている。
その斬り合いの渦の中を潜り抜けた日本左衛門が、裏手へ回りかけるの
へ、同心・堀口十次郎が横合いから走りかかって組み付いた。
堀口は、たちまち振り放され、日本左衛門の一太刀を肩口に受けてよろ
めいた。そこへ、五兵衛が追いついた。
日本左衛門は、斜めに飛んで裏手へまわり込み、五兵衛が打ち込む棍棒
を大脇差で切り払った。
五兵衛の棍棒が二つに切断され、日本左衛門は、竹藪の中へ躍り込もう
としている。
棍棒を捨てた五兵衛が走り寄りざま、腰を捻って抜き打った。
<もはや、にげられまい> 抜き打った一刀の手ごたえは、
確かなものであった。


ハライソに行ってもやはり風呂掃除  宮井いずみ


深い竹藪の背後は崖であり、その崖の上には、同心二名が待機している。
太股を切り割られた日本左衛門が、崖をよじ登ることなど出来るはずが
ない。すでに、この家を遠巻きにしている20名の人足たちは、高張提
灯に火を入れ、これを一斉に立ち並べ、蟻一匹も逃がすまいとしている。
これでは竹藪から逃げ出たところで。発見されないはずがない。
ところが、同心たちや密偵が竹藪の中を隈なく探し、さらに、竹藪から
外部への見張りも、ぬかりなく行ったにも拘わらず、怪盗の姿を見出す
ことはできなかった。
ついに、日本左衛門を捕えることは出来なかったのである。


雑音を拾ってしまう四分音符  津田照子


他の盗賊たちは、赤池法印、菅田の平蔵など大半は捕えられた。
見付の宿では、無頼者の万右衛門と件の老婆も盗賊一味として、捕らえ
られたというので、大騒ぎになった。
盗賊改方の方は、同心の堀口十次郎が、日本左衛門の一刀を受けて、
肩口に傷を負ったほか、密偵の源六が、これも日本左衛門に顔を切り割
られて死んだ。死傷者はこれだけであった。
あとはみな軽傷も受けていなかった。
さすがに選び抜かれた者たちだったといえる。が、日本左衛門に五兵衛
が立ち向かわなったら、さらに死傷者が出ていたかもしれない。


爆発のための言い訳考える  清水すみれ  


五兵衛が、本陣の奥の一間で、事後の策を考えているところへ、
小沼治作が、「殿」と、何ともいえぬ顔つきで入ってきた。
「おお小沼、捕えた盗賊どもの見張りに抜かりはあるまいな」
「それは、大丈夫にござります」
「ご苦労であった。つかれたであろう。しばらくは、休め」
と言って、小沼を見た五兵衛が、書きかけの筆を止めて、
「どうした?」
不審気に問いかけた。
それは驚愕のあまりに<言葉も出ぬ>といったような、それも徒の驚きで
はなく、主人の五兵衛と共通に分かち合える、意外な事実を、
どのように説明したらと、思い迷っているかのようであった。


唇が乾いて愛が語れない  阪本こみち

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