- 2023/06/14
- Category : ポエム&川柳
家康ー家康の側室②
薬って効くんだ眠くなってくる 荒井加寿
阿茶に宛てた家康直筆の手紙
「義直の病状がますます快方に向かったとの由、めでたくも嬉しくも
思います。疱瘡であっても軽症であると聞いて安心もし、めでたくも
思い、嬉しく思っている」と、疱瘡の病に臥す義直を見舞う。
「英雄色を好む」
------戦国の乱世を勝ち抜いてきた三英傑・信長、秀吉、家康のうち、
女性にあまり関心をもたなかった信長を除き、秀吉は血統書つきの
女性にあまり関心をもたなかった信長を除き、秀吉は血統書つきの
「ブランド美人」を好み、家康は「後家」を好んだ。
さらにいえば、家康は「出産経験」のある女性を好んだという。
戦国時代、政略結婚により同盟を強化したとはいえ、
「側室」は自分の好みで、選ぶことが多かった。
秀吉は出自のコンプレックスゆえに身分の高い女性、また美少女が好み、
子孫を多く残すという「結果」よりも、その「過程」を重視した。
一方、家康は、晩年を除いては、秀吉と真逆の子孫を多く残す「結果」
だけを求めた。
「側室」は自分の好みで、選ぶことが多かった。
秀吉は出自のコンプレックスゆえに身分の高い女性、また美少女が好み、
子孫を多く残すという「結果」よりも、その「過程」を重視した。
一方、家康は、晩年を除いては、秀吉と真逆の子孫を多く残す「結果」
だけを求めた。
長寿への薬君とのレモンティー 堂上泰女
細かにいえば、家康の正室は2人、今川義元の姪・築山殿と豊臣秀吉の
妹・朝日殿。好みではなく、どちらも政略結婚だった。
妹・朝日殿。好みではなく、どちらも政略結婚だった。
一方で、側室の数は………というと、定かではない。
好みのタイプを集めて19名とも、それ以上ともいわれている。
丈夫で健康的。生命力に溢れてたくましい女性。
そして、未亡人、敢えていえば、出産経験者。
無事に一度出産した経験があれば、子を産む確率が比較的高いと判断し
たのだろう。そんな中で、家康が理想とした一押しの女性は、飯田直政
の娘・阿茶の局といわれる。
たのだろう。そんな中で、家康が理想とした一押しの女性は、飯田直政
の娘・阿茶の局といわれる。
いっこうに古くならないお月さま 新家完司
あ 茶 の 局 (橋本周延画)
家康ー家康の側室ー②
阿茶------武田氏の家臣・飯田直政の娘として誕生。
父の直政は、武田氏の家臣だったが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、
今川氏の家臣へと転じた。
今川氏の家臣へと転じた。
阿茶は初婚ではない。 19歳のときに、神尾忠重に嫁いでおり、
忠重との間には、一男一女をもうけている。
つまり、阿茶局は、「未亡人」で「出産経験あり」なのだ。
そのうえ、武芸と馬術に優れていたという。
信長の命によって、正室の築山殿と長男・信康を殺害せざるを得なくな
った年である1579年(天正7)阿茶が25歳の時に、運命の糸が引
き合わせるように家康の目に止まった。
った年である1579年(天正7)阿茶が25歳の時に、運命の糸が引
き合わせるように家康の目に止まった。
「(家康に)「側室として召し出される」と、『神尾氏旧記』『当院古
記』に記されている。
記』に記されている。
目の玉の光で分かる好奇心 青木ゆきみ
「家康が最も信頼した阿茶との出会い」
阿茶を見初めた天正7年は、家康にとって最悪の年だった。
家康が、8月築山殿殺害、9月信康切腹を命じた年である。
家康38年の人生の中で、一番辛く厳しい出来事が、彼を襲ったのだ。
子と妻を一気に消去するという悲劇-------皮肉にも、その原因を作った
のは自分である、そして「死」を命じたのも自分なのだ。まさしく、
『人の一生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず』
の心境だった。
この人生最悪の時に、家康は阿茶と出会ったのである。
なにか琴線に触れるものがあったのだろう、家康はあ茶との出会いで、
心に一風の安らぎを感じたようである。
思えば、考え方や価値観が大きく異なった、前正室の「築山殿」。
そのせいで、息子を死なせてしまった自責の念。
そんな悲しみに暮れたときに出会ったのが「阿茶局」だった。
そんな悲しみに暮れたときに出会ったのが「阿茶局」だった。
岬までグルコサミンと会話する 水品団石
「そこに名言}
「残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている」
「今日は岡崎から夫に会える」
と、築山殿は、極上の晴れ着を身に着けていたのだとか…。
少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。
報告を受けた家康は、(一説に)
「なんとか築山殿を逃がせなかったのか」と、介錯人を責めたとも
地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。
この時、反省と後悔をして家康が残したものなのかどうか。
『己を責めて 人を責めるな』の言葉が胸に刻まれた。
際限のないものと知る黒の濃さ 加藤当白
「小牧・長久手の戦いに同行して」
腹に子を宿しながら戦場に馬にまたがり同行したあ茶は流産した。
それが理由か分からないが、のちに子どもが産めない身体となったが、
家康の寵愛は変わらずに続いた。
駿府城へ隠居する際も、側室の中で唯一連れて行ったのが、
心より信頼をする「阿茶局」だった。
心より信頼をする「阿茶局」だった。
そこで聡明な阿茶局は、家康から奥向きのことを任され、大奥の統制に
尽力した。また、政治の重要な場面でも、大きな力を発揮した。
尽力した。また、政治の重要な場面でも、大きな力を発揮した。
ずっとずっと平和の音のある蛇口 岡さくら
大 奥 (橋本周延画)
1589年(天正17)、家康が最も愛した於愛の方(西郷局)が死没
1589年(天正17)、家康が最も愛した於愛の方(西郷局)が死没
したので、生母代として阿茶局が秀忠、忠吉の養育を任されることにな
った。 中院通村の日記には、
阿茶局は、秀忠の『母代』と記録されている。
実際に、秀忠の実母・西郷局が亡くなって、家康は阿茶局に秀忠を育て
させた。秀忠の母親代わりだった阿茶局は、和子にとってもまた必要な
させた。秀忠の母親代わりだった阿茶局は、和子にとってもまた必要な
存在だったようだ。
その後も阿茶局は、和子の懐胎・出産のたびに上洛し、常に和子の不安
に付き添っている。
その後も阿茶局は、和子の懐胎・出産のたびに上洛し、常に和子の不安
に付き添っている。
なるようになるさと象の鼻ぶらり 宮井元信
「和睦の使者として」
『阿茶局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた
御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高
院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して、御和睦の事ども、すべて
思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし』
御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高
院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して、御和睦の事ども、すべて
思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし』
『徳川実記』
(等高院=若狭小浜藩の藩主・京極高次の正室)
(等高院=若狭小浜藩の藩主・京極高次の正室)
1600年(慶長5))、関ヶ原合戦が勃発すると、小早川秀秋は西軍
を裏切って、家康の東軍に味方した。 一説によると、
両者の仲介を行ったのが、阿茶局であるといわれている。
を裏切って、家康の東軍に味方した。 一説によると、
両者の仲介を行ったのが、阿茶局であるといわれている。
1614年(慶長19)、大坂冬の陣では、徳川家と豊臣家が和睦を結
ぶことになった。阿茶局は、家康の意向を受け、本多正純とともに大坂
ぶことになった。阿茶局は、家康の意向を受け、本多正純とともに大坂
城へ講和の使者として立った。そこで難攻不落の因とする「堀の埋めた
て」を淀君に認めさせ纏めたのが、阿茶局である。
て」を淀君に認めさせ纏めたのが、阿茶局である。
その後、板倉重昌とともに大坂城へ向かい、豊臣秀頼・淀殿から誓紙を
受け取った。
受け取った。
「方広寺鐘名事件」---------家康が秀頼に梵鐘の4文字・「国家安康」に
難癖をつけた事件である。弁明のために駆け付けた豊臣方の家臣・片桐
且元に対面し外交担当を引き受けていたのが、阿茶局であった。
難癖をつけた事件である。弁明のために駆け付けた豊臣方の家臣・片桐
且元に対面し外交担当を引き受けていたのが、阿茶局であった。
もしかしたらと釘一本を持ち歩く 柴田桂子
雲 光 院
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
家康の辞世である。
1616年(元和2)、家康は鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま床に
臥して、持病も悪化させ4月17日に没する。
当時、側室は主が亡くなると慣習にならって落飾したが阿茶局は、
家康の遺言により、落飾することなく、出家しないまま「雲光院」
と号した。
そして家康死後も、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府と朝廷の融和政
策を進めるなど手腕を発揮した。
そして家康死後も、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府と朝廷の融和政
策を進めるなど手腕を発揮した。
1620年(元和6)、秀忠の五女・和子が後水尾天皇に入内する際、
母代わりで入洛し、後水尾天皇より従一位を授けられ、一位局・一位尼
と称された。
と称された。
1632年(寛永9)、秀忠が亡くなると、阿茶局は正式に落飾した。
1637年(寛永14)、阿茶局は静かに眠るように亡くなった。
享年83であった。墓所は、雲光院にある
点滅が続くヒト科の現在地 樫村日華
故 老 諸 談
「側室・お梶の方」
「家康が信頼した側室に非常に頭のよいお梶の方という女性もいた」
「大坂の陣」に同行した側室は、阿茶局だけではなく「お梶の方」
という側室も家康は連れていっている。
天下分け目の「関ケ原の戦い」にも同行し、勝利を手にした家康は、
よほど嬉しかったのかお梶に、
「今後は『お勝の方』と名乗るよう」と、命じたという。
お梶の方の聡明さを物語るエピソードが『故老諸談』に所収されている。
家康が、大久保忠世、本多正信、鳥居元忠ら数人の家臣と語らっていた
ときのこと。
ときのこと。
微笑みがプリズムになる虹になる 高橋和男
「家康との問答」
「この世で一番美味しいものは何か」
と、家康はその場にいた家臣たちに尋ねた。
それぞれに家臣たちは自分の考えを披露した。
家康は、同席していたお梶の方にも同じ問いを投げかた。
お梶の方は、
「塩にございます」と、答えた。
「塩……?」 怪訝な顔をする家康にお梶の方は
「美味いという基準は塩加減にございます。
どれほど良い料理であれ、塩によらずに味が調うことはございません」
と答えを返した。 [
「なるほど」と、膝を打ちかけた家康だが、
「なるほど」と、膝を打ちかけた家康だが、
「では、この世で一番不味い食べ物は何か」と、問うた。
これにも家臣たちは夫々さまざまな食べ物あげるが、お梶の方は、
「いちばん不味い物は、塩にございます」と、答えた。
隙のない男の影を踏んづける 高浜広川
「先の答えと同じではないか!」と、言う家康に、お梶の方は、
「食べ物の不味いという基準も塩加減にございます。
どれほど良い料理であれ、塩を入れ過ぎますと食べることなど、
かないませぬ」
との答えに家康も家臣一同も、納得し首肯した。
「男だったら、さぞや優秀な大将になったであろう」
と、後々にも家康は言をもらしたのだった。
押しピンをはずすと君は蝶になる 和田洋子
「家康の女中三人衆」
家康の正室は2人だけだったが、正室に近い立場に置かれた側室が複数
いた。 家康が№1に愛した西郷局は別にして。江戸入り後は、英勝院、
養珠院、相応院の3人が、家康の「女中三人衆」と呼ばれ、他の側室と
別格に扱われていたことが『多聞院日記』から窺える。
養珠院、相応院の3人が、家康の「女中三人衆」と呼ばれ、他の側室と
別格に扱われていたことが『多聞院日記』から窺える。
① 英勝院 (お梶の方)
待望した男児を産まなくとも、阿茶局とお梶の方という極めて聡明な
2人の側室を家康は重用した。
2人の側室を家康は重用した。
お梶もまた、家康60代のときに生んだ市姫を伊達政宗の嫡男と婚約
させるが、わずか4歳で夭折。他に子はできなかった。
させるが、わずか4歳で夭折。他に子はできなかった。
だが11男・頼房の実母・お万の方が亡くなると、家康は頼房をお梶
の養子にして教育も指示した。
の養子にして教育も指示した。
頼房はのちに御三家の「水戸藩」を創設することになる。
お梶は倹約家で、小袖が洗いざらしでも新調しなかったと伝わる。
お 万 の 方
② 養珠院 (お万の方)
② 養珠院 (お万の方)
家康10男頼宣と11男頼房の母である。
お万の方という名の側室は2人いるが、先の次男・秀康の母のお万で
はなく、頼宣と頼房の母の方である。
はなく、頼宣と頼房の母の方である。
頼宣は徳川御三家である「紀州徳川家」の初代であり、孫に8代将軍・
吉宗へと血脈を繋ぎ、頼房は、同じく徳川御三家である「水戸徳川家」
の初代である。 頼房の子が水戸黄門様の光圀へと繋がっていく。
吉宗へと血脈を繋ぎ、頼房は、同じく徳川御三家である「水戸徳川家」
の初代である。 頼房の子が水戸黄門様の光圀へと繋がっていく。
お 亀 の 方
③ 相応院 (お亀の方)
1594年(文禄3)家康が53歳の時、給仕に出た女性があった。
その身体の豊かさと美しい容姿に加えて、聡明さに家康は気に入り側室
として仕えさせるようにした。 その女性が当時21歳、お亀である。
として仕えさせるようにした。 その女性が当時21歳、お亀である。
お亀は、家康54歳のときに、仙千代を出生するが、6歳で早逝。
そして家康59歳のとき、九男義直を生んだ。
この義直が、徳川御三家の筆頭である「尾張徳川」の初代となる。
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