川柳的逍遥 人の世の一家言
火遊びの煙ゆらゆら心電図 みつ木もも花
家康 築山殿
徳川家康の正室。築山殿の実名は不明である。 テレビドラマや小説など、現代の創作では「瀬名の名」があてられるが、
当時の史料はもちろん、江戸時代前期に成立した史料にも、瀬名の名は みられない。江戸時代中期の元文5年(1740)成立の『武徳編年集成』
巻三に「関口或いは瀬名とも称す」と、記載されている。
一般的には築山殿、「築山御前」、または「駿河御前」ともいわれる。
「築山」の由来は、岡崎市の地名である。
たんぽぽも私もここが着地点 吉道あかね
松本潤 (家康) 有森架純 (築山殿)
家康ー築山殿事件の疑問点 ① 「家康はなぜ正室・築山御前を引き取ったのか」
1557年(弘治3)家康の最初の正室となった築山殿は、今川一門の
関口氏純の娘で、母は義元の妹と、いわれる。
1559年(永禄2)には、嫡男の松平信康を、翌年には、亀姫を産ん
でいる。父・関口氏純は「桶狭間の戦い」の後、今川から離反した家康 と「通じているのではないか」と義元の嫡男・氏真に疑われ、妻ととも に自害に追い込まれる。 今川家に人質のような形で身柄を拘束された築山殿は、子どもたちを守
り続けていたが、やがて人質交換で母子三人そろって岡崎に引取られる。 だがなぜか築山殿は、岡崎城には入らず、城外の西岸寺に居住した。
このことから、すでに築山殿は、家康に離縁されていた、あるいは二人
の関係が悪くなっていたと見る人もいる。 そうであれば、なぜ人質交換によってわざわざ築山殿を引き取ったのか。
信康と亀姫だけを引き取るということもできたはずである。
偏頭痛雨の匂いもする序章 加納美津子
関口氏純 (渡部篤郎) 妻・真矢みき
② 「信康の正妻・徳姫がもたらした悲劇」 家康は、築山殿の両親である関口夫妻に対する罪の意識を持っていた
のではないだろうか。自分が今川と手切れをしたために、彼らは命を落
としたわけだから…。その贖罪意識もあって、築山殿と離縁することも なく、人質交換で手元に取り返したのではないのだろうか。 1570年(元亀元)、家康は、遠江の浜松城を新たな居城とした。
嫡男の信康が岡崎城に入ると、築山殿も生母として追従する。
家康が浜松城で築山殿が岡崎城で、離れて暮らしているなか、
1579年(天正7)7月16日、家康にとって寝耳に水の事件が起る。
信長から家康に、「築山殿と信康に謀反の疑いがある」と通告してきた
のである。
訴え出たのは、信長の娘で信康の正室・徳姫だった。 さまざまな憶測が飛び交うなか、徳姫の訴状に正誤はなかったのか。
同年、築山殿は処刑され、まもなく信康も二俣城で自刃という、
大きく忌わしい結末が一つの「謎」を投げかけてくる。 悪口はビフィズス菌で中和する 新家完司
③ 「4年前の大賀弥四郎事件が…」
信康の家臣が甲斐・武田家と内通し、信長の逆鱗に触れたことがある。
この内通事件の張本人とされているのは、信康家臣の中根政元だった、
と言われている。
その父・中根正照は、二俣城を守っていて武田勢に城を開け渡した後、 「三方ケ原の戦い」では真っ先に討死にをした 武勲で誉れ高い人物だ。この正照の娘が、大賀弥四郎と結婚した。
つまり、中根政元と大賀弥四郎は義兄弟になる。
その後武田勢を岡崎城に引き入れようと画策した弥四郎が失敗すると
その4年後に義弟の政元が、弥四郎の遺志を継いで築山事件が起きた。
この一連の事件が「築山事件」に結びつけられたとも考えられる。
壁障子すり抜け陰口が届く 大久保眞澄
五徳 (久保史緒里)
徳川家臣団内部では、浜松の家康に近侍して、対、武田戦争に積極的だ った層と、岡崎の信康に近く、武田との対決に消極的だった層があり、 両者の間で意思の疎通が図られていなかった。
そうした家臣団内部の動揺を受けて武田方への内通を図ったのが、政元
ということになる。 そして、徳姫がそのことを知るに至り、信長に注進した。
「信康と築山殿が勝頼に内通している」という話は、こうした家中の情勢
を背景にしたまぎれもない事実だったと思われる。 うつむいていたから見えた靴の向き 加藤当白
④ 「長男に自分と戦う覚悟はあるのかと迫った家康」
その後の経過を、松平家忠の『家忠日記』尋ねてみよう。
浜松を出発した家康は、8月3日に岡崎城に入り、信康と対面し事情を
聴取する。しかし信康は、ことの真相の肝心なところは口を濁した。
8月5日、家康は西尾城へ移って戦支度をし、信康は、大浜城へ移されて
いる。これはいったいどういうことなのか。 家康は、 「もし 信康が信念に基づいて行動を起こすなら、いつでも相手になる、
戦でそれを示せ」 と、信康に告げたのではないか。
開き直ればすとんと腑に落ちる 浜 純子
松平信康 (細田佳央太)
「自分は西尾城に行く、お前は大浜城に行って戦の準備をしろ」と、 信康はすでにひとかどの武将であり、岡崎には直臣たちもいる。
対武田戦争を継続するという「自分の方針に従わないのなら、正々堂々
と家臣を率いて戦で勝負しろ」と、信康とその背後にいる家臣たちに迫 ったのではないか。 「このわしと一戦交える覚悟があるのか!」
と威嚇することで、逆に信康に賛同した家臣たちの戦意を挫こうとした
のではないか。 ともかく家康が直に対処したことで事態は収束した。
大文字で利点小文字で注意点 田口勝義
頭に血が上った信康の家臣たちは、下手に説得すれば逆上して、武力蜂
起に及ぶかもしれない。 しかし、歴戦の強者である家康に「俺を倒してからやれ」と凄まれたら、 家臣たちもふと我に返る。 それがこの事件の家康の狙いだった。 ところが、家康が浜松から岡崎に乗り込んできた段階で、もう信康に従
う家臣はいなかった。すでに築山殿や信康の計略が失敗したことは明白 そこで家康は、8月9日に信康を浜名湖の東岸に位置する堀江城に移し、
そして、翌10日には、三河の国衆を集めて「信康には味方しない」と、 約束する起請文を書かせ、乱を収めてしまった。 煮え切らぬ返事に一味唐辛子 菱木 誠
織田信長 (岡田准一) ⑤ 「築山殿が武田家に密書を送ったという説は史実か?」 武田方への内通については、築山殿が唐人医の西慶という人物を通じて
武田方に内通していたとされている。それも事実だったのではないか。
実際には「長篠の戦い」の直前、つまり4年前の大賀弥四郎事件の時に、
すでに築山殿は、勝頼に密書を送っていたのではないか。 <三河一国を信康に安堵してくれるなら、武田方に寝返ってもいい>
という起請文を勝頼に送っていたのではないか…? しかし、長篠の戦いに敗れた勝頼は、その起請文をネタに信康をゆすっ
ていた可能性がある。 「信長に知られたらどうなるか。徳川家は破滅だぞ」と、
信康はこのとき、築山殿を断罪し、場合によっては、切り捨ててでも、
家康にことの次第を報告するべきだったのである。 仲直りしてそして二つの楕円形 指方宏子
だが信康は苦楽を共にしてきた母親を切り捨てられなかった
しかし、今川家での年に及ぶ人質時代を含め、ずっと苦楽をともにして
きた母親をなんとか助けたかった。 しかし信康の妻・徳姫は、それを許すことはできなかった。
ことの真相を明らかにするには、父の信長に訴え出るほかない。
そして、事件が発覚したという筋書きができあがる。
これも想像の域を出ないが、武田家は信玄存命中から、将軍・足利義昭
と通じて信長と対峙している。築山殿は今川家の出身だから、将軍家に 親近感を持っていたはず。 そして、天皇に任命された征夷大将軍が、武家政権を率いて全国統治を するという旧来の秩序に、正当性を感じていたはずである もしかすると、信康もそうした教育を受けていたかもしれない。
すでに天正元年には将軍・義昭を京から追放した信長よりも、武田方に シンパシーを抱いていた可能性もある。 祭り後のふんどし風に揺れている 高橋レニ
松平信康
⑥ 「家康の嫡男・信康はなぜ将来を期待されながら切腹したのか」 家康と信長の同盟は、家康の嫡子・信康と信長の娘・五徳の結婚により
結ばれた。信康は有能な武将で将来を期待されたが、1579年21歳
の若さで切腹させられた。
原因は、信康の母と武田家の内通、信康自身の不行跡、五徳の讒言など
諸説あり、「家康の悲劇」の一つとされてきた。
(近年は信康の家臣がクーデターを企んだため、家康に粛清されたなど、
家康自身の意思だったとする説も提起されている) 自分史を奔る一本の濁流 大野たけお
西来院に眠る 築山殿の墓碑 ⑦ 「妻と息子を殺すのか? 家康の苦渋の決断」 家康は、信長の命を受けてやむなく妻と子を殺害したのか、それとも、
自発的に殺害を命じたのか。 いずれにしても、最終的な判断を下した のは家康本人である。大賀弥四郎事件の段階で、すでに家中が分裂して いたことも、家臣や築山殿が武田方に内通していたことも、すべて事実 ならば、その責任は主君である家康にある。 しかし、弥四郎事件は、一部の者が謀反を企んでいたということで幕引 きにされた。 ところが、長篠の戦いを挟んで、あらためてその事実が浮上し、信長の
知るところとなってしまった。家康としては、自らの決断で、すべてを 処断する必要があったのだろう。8月29日、築山殿は遠江の佐鳴湖に 近い小藪村で処刑され、信康は9月15日に二俣城で切腹して果てた。 築山殿の死後、家康の正室は豊臣秀吉の妹・朝日姫だけになる。
正室はこの2人だけで、それ以外に記録に残るだけで20人の側室が
いたと言われる。彼女たちは全員が「側室」、つまり妾ではなく継室と 呼ぶべき正式な妻もいた。 ----- 安部 龍太郎 ------
決断の境界線は滝だった 真島久美子 PR |
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