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川柳的逍遥 人の世の一家言
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プッシューと生裏切り者は喉かわく  柳本恵子





   家康おもてなしに出された「安土饗応膳」 (復元)
「川角太閤記」に光秀が家康に饗応した料理が生臭いと信長に
よって捨てられたとの記述がある。
信長はこの悪臭に大変立腹し、光秀を接待役から外し堀秀政に変えた。




「絵本太閤記」には、光秀を叱責する場面が描かれた。




    森蘭丸にも命じて殴打させえた




「光秀が「信長にはついていけない」と考えた時」
徳川家康を安土城で接待することになった、光秀がその饗応役だった。
ところが、突然、解任された。
饗応役は5月15日~だが、その前日の14日、信長の三男・信孝が、
丹波の国衆に宛てた四国動員令は、光秀の領国丹波に、光秀を飛びこ
して出された。(『人見文書』)
この件で光秀は、信長に苦情を言った。
これに信長は、腹を立て、咎め折檻した。 (フロイス『日本史』)


き上手うまくカーブが投げられぬ  村山浩吉




「光秀、信長の蜜月時代」
光秀は、はじめから信長の家臣ではなかった。
若き日の光秀は、室町幕府に仕えていたといわれる。
義昭が信長の援助を受けて上洛し、将軍に任官するころ光秀は、信長と
室町将軍・義昭の2人を主人として仕えることになる。
光秀は、都の文化人と交流し得るだけの高い教養を持った人物で公家衆
や幕府衆に人脈をもつ唯一の存在であった。
そのこともあって、信長から非常に重用され、良好な関係を保った。


生い立ちは聞くな野暮です影法師  下林正夫


内に外に光秀の働きに対して、信長は、坂本城主としただけでなく、
その周りの志賀郡を所領として光秀に与えた。
これは、信長家臣の中で、「一国一城の主」第一号であった。
信長の能力本位の人材抜擢のおかげで、光秀は、とんとん拍子の出世を
していった。(ちなみに「一国一城の主」第二号は羽柴秀吉である)
近江の坂本城を、預かるという大抜擢のためだけではなく、有能な政治
家である信長について行けば、古い秩序を復活させることができると期
待し、光秀は、義昭が追放されたのちも信長に仕えた。



世渡りの止めとあらば四方拝  高橋 蘭





      天皇の御前で行われた京都馬揃え


1575年(天正3)光秀は、丹波攻めの総大将となっている。
天正9年2月28日には、京都御所横で繰り広げられた信長軍団の軍事
パレードともいうべき「京都御馬揃え」でその総括を任されている。
信長が光秀に采配を託したのは、光秀を高く評価していたからである。
このこともあって、同年6月2日付の「明智光秀家中軍法」では、
光秀は「瓦礫沈淪の身だった自分を引き立ててくれた」信長に感謝の
気持ちを記しているほどであった。
 では、信長の命令を忠実に実行し、信長からの評価を得ていた光秀が、
信長からなぜ、離反していくことになったのだろうか?
【天正十年の数々の事件】が信長への叛意を芽生えさせることとなる。

ひとつの日またひとつの日の最新の  斉尾くにこ


家康ー光秀が謀反を決めた日





          安 土 城




信長の夢の象徴ともいうべき安土城
その姿からは、天下統一のあとに信長が考えていた新しい日本の体制が
どのようなものであったかを、伺い知ることができる。
また「信長公記」には1582年(天正10)正月のくだりに、
「御幸の間」つまり<天皇のための部屋>が安土城本丸殿にあるという
記述がある。
(最近の発掘調査によって、安土城には天主のかたわらに、天皇の
 御所である清涼殿に似た建物が建てられていることがわかった)


欲しいなとわざと聞かせる独り言  前中一晃





           安土城天主の館

さらにこの時期、信長と朝廷との間の連絡役・武家伝奏という役目を担
っていた勸修寺晴豊の日記『晴豊記』の正月7日に、次のような記述が
ある。
『行幸の用意馬鞍こしらへ出来』 (行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
おそらく信長が天皇を安土に招くつもりで、行幸の準備が進められてい
たのだろう。
天皇を招いて自分の膝元に置く、そういう信長の考えは、朝廷の権威を
ないがしろにするものとも受けとられた。
(天皇が行幸することによって、天下人である信長の権威の前に、
 天皇が平伏していくという構図が可視的にアピールされることになる。
 ましてや、国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なくされていた
 体制が見えてきていた時であった。
 伝統的な幕府体制の復活にかけていた光秀にしてみれば、大変なこと
 が起こりはじめている…、と考えたことだろう)


五分五分のバランス崩さない二人  居谷真理子




「暦問題」
1582年(天正10)信長はさらに思い切った要求を朝廷に突きつけた。
「暦の変更」である。
天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に閏年があった。
しかし、信長の出身地尾張では、天正10年2月を閏月にする暦がつか
われるなど、地方によってまちまちだった。
朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、
尾張などで使われていたのは「三島暦」という。
その暦を、信長は、尾張のものに統一しようとしたのである。


額縁を突き破ってくる黒豹  徳山泰子


暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば神聖
にして侵すべからざる事柄であった。
「暦の制定」は、当時の天皇に残された唯一最大の権限である。
信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限
侵害を狙ったものと考えられる。
その権限を侵そうとする信長の行為は、多くの人に衝撃を与えた。
光秀もまた、その1人であった。


あの人が来たら大きくなる騒ぎ  松浦英夫



古い秩序の回復をめざす光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信長
行動に危機感を強めた。
そんな光秀と朝廷の一部とが、連携を取りつつあったと推察できる資料
がある。
勸修寺晴豊の日記「天正十年夏記」6月17日のくだりは、明智光秀
家臣・斎藤利三が護送されているのを見て記されたもの、光秀と公家が、
「信長暗殺」について相談していたともとれる記述である。
(信長打談合衆=信長を討つために談合をしていた衆がある。
 天下の政道を正しきにかえすには、もはや尋常一様の手段では、
 不可能と存ずる…と、檄する声がきこえてくる)


十年日記に挟んでおく花弁  森田律子





     長宗我部元親           明智光秀


暦の問題が起きてから三か月後の天正10年5月、信長光秀を決定的に
追い詰める出来事を起こした。
長宗我部氏に最後通牒を突きつけて、四国への遠征軍を編成したのだ。
5月7日、信長は、四国の処分案を明らかにした。
長宗我部氏の勢力圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝
三好氏に預け、土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。



そんなアホなと過去形で言えたなら  藤本鈴菜


遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。
『三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ六月二日に
 渡海あるべし……』 (『細川忠興軍功記』)
 このままでは長宗我部氏は滅亡してしまい、光秀の立場も危うくなる。
長宗我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を憂
いて光秀に謀反を促した。という記述が残っている。
『斎藤内蔵助(利三)は、四国の儀を気遣いに存ずるによって也。
 明智殿謀反の事、いよいよ差し急かるる』 (『長宗我部元親紀』)
明かに、長曾我部氏と斎藤利三が、何らかの連絡をとっていたことを窺
わせる内容である。
光秀は重臣からも「信長討つべし」と、いう突き上げを受けていたので
あった。本能寺の変まで3週間を残すところであった。


鉛筆を変えて直線下剋上  上田 仁





   「明智光秀家中軍法」
光秀一代の事績を編年体で記述した軍記。
史料的価値は乏しいが、参考になるところもある。



「一昨日自明明智所魚津迄使者指越」
(一昨日、明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた)
             北陸上杉家の記録『覚上公御書図』
(一昨日とは、6月1日、つまり本能寺の変の変の前日のこと)
魚津城は当時、上杉家の勢力圏であった。
光秀は、「本能寺の変の前」に信長の敵・上杉氏に使者を送っていたの
である。 その使者の伝えた内容とは、
『御当方、無二御馳走申し上げるべき』
(上杉家は、最大限の援助を申し上げるべきである)
言葉遣いから、上杉が援助すべき相手は、将軍義昭だったと推測される。
即ち、光秀は、かつて信長と敵対して都を追放された義昭のために、
上杉氏が働くように伝えたのである。
光秀は、この時すでに信長に反逆し、諸大名と連携して義昭を担ぎ上げ
「時代をふたたび室町の世に戻そう」と、考えていたようである。

直角が三角形を離脱する  加納美津子





愛宕百韻(ときは今天が下知る五月哉)を詠む




覚上公とは、上杉景勝のこと。書状には、光秀の名前が記されている。
日付は6月3日、「本能寺の変の翌日」に綴られた上杉家の家臣同士の
手紙である。
それにしてもこの書状をいつ、認めたのだろうか。
当時の交通事情では、使者が上杉氏のもとに到着するまでには、どんな
に急いでも3,4日かかる。場合によっては、一週間程度の日数を要し
たと考えられる。
ということは、光秀は、6月1日よりかなり前に「信長打倒」を決意し、
諸大名に呼びかけていたということになる。
すなわち、「本能寺の変」は決して突発的な事件ではなく、
極めて計画性の高い大がかりなものであったことがわかる。


断捨離を迫るどんど焼きの煙  古田裕子

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