どうみてもへのへのもへじではないか 桑原伸吉
一草も月日のむらはなかりけり 桂小五郎
「西郷どん」 逃げの小五郎
変幻自在で多彩、そうしたイメージからる桂小五郎.は、
鞍馬天狗のモデルだともいわれる。
小五郎は天保4年(1833)6月、長州の藩医の子に生まれ、
禄高150石の桂家の養子になった。
学問を好み、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学び、
「事をなすに才あり」と評価された。
松下村塾の門下ではなかったが、塾にはよく顔を出し、
塾生の高杉晋作や久坂玄瑞らとも親しく、
ともに尊攘運動をリードした。
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龍馬が姉の乙女らに宛てた慶応元年(1865)の手紙には、
「長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」
と褒めちぎっている。
西郷隆盛、大久保利通と並ぶ維新の三傑・桂小五郎には、
「逃げの小五郎」という異名があった。
長州が「朝敵」として孤立、苦境に陥っていた頃である。
京都留守居役として藩の外交を任された桂は、
京都に残って情報収集に努め、
潜伏しつつ再起の道を見つけようとする。
長州藩の討幕運動を進めるリーダーとして、幕府側から命を狙われ、
危険を察知すると、戦わず逃げることに徹したからだ
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京都三条大橋の下に隠れていたという、英雄らしくない逸話も残る。
それにしても、三条大橋は江戸に繋がる東海道の終点、
橋に繋がる三条通りは、当時の京都のメインストリートだ。
血眼になって捜す新撰組ら追っ手を警戒していた桂が、
なぜそんな危険と思しき場所に隠れたのか。
整備された今の鴨川と当時の鴨川は、まるっきり景色が違う。
河川敷が整備された今と違い、当時は川幅が広く中州がいくつもあった。
そこに掘っ立て小屋を建てて住む人や友禅染の水洗いする人もいて、
紛れることが出来た。
また市街の3分の2を焼いた「禁門の変」の後で、
避難民も河川敷に多くいたのも利点になった。
交通の要衝なので各地の情報を得るには格好の場所である。
そこで情報を探っていたとも考えられる。
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変装し名前を変え、身分も偽って、桂は逃げることに徹した。
自らの剣で人を殺しいたことがないと伝わる。
弱かったからではない。
19歳で江戸に出た小五郎は練兵館で斉藤弥九郎から神道無念流を学び、
道場の塾頭を務めるまでになった。
剣の達人だった。
しかし、「出来れば逃げよ」というのが、
殺人否定に徹底した師・斉藤弥九郎の教えであった。
自然、斉藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを、
「逃げることに」集中した。
司馬遼太郎は次のように桂小五郎を評している。
「生きてこそ忠義を尽くせるという思いが強かった。
時流を読むことに優れ、生き延びたからこそ、
新しい時代をつくることができた」
そして
「革命家でありながら、長州人に多い思想への陶酔体質は持っておらず、
ごく常識的な現実認識家である面が強い」とも
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【付録】 幾松
「桂小五郎は身長が1㍍74あったとされ、当時としては大柄だった。
残された写真を見てもわかる通り、男前で、鼻筋が通り、
眼もと涼しい、苦みばしった美男」と司馬遼太郎は書いている。
小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある。
小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、
女性関係も派手だった。
美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。
小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、
わずか3ヶ月で離縁している。
この妻との間に、子どもがいたものの早世。
小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。
一波乱起きそう月が歪みだす 笠嶋恵美子
その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、
隣家の娘・千鳥と知り合う。
小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、
志士活動のため上洛。
千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、
乳飲み子を抱えたまま、京都へ向かった際に、
「蛤御門の変」の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。
(子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる)
よろしいですかと良心を片付ける 山口ろっぱ
一方、そんな事情を知らない小五郎は、
京都で三本木の芸妓・幾松に惚れ込み、
大金を払って彼女を落籍する。
すでに志士として、名を知られていた小五郎は、
常に命を狙われる毎日だったが、幾松の存在は彼の心を和ませた。
次のような有名な話が残っている。
新撰組が料亭に踏み込んだ時、舞を踊りつつすばやく小五郎を逃がしたり、
蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、
加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた。
ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、
騒動を起こすも、奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだった.
小五郎は幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、
幾松が、浮気に寛容だったことも、
二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。
命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。
のちに長州に落ちのびた幾松は、潜伏中の小五郎に、
高杉晋作の「藩政クーデター」の成功を伝えるために、
単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。
火の章で弾む女は粘土質 上田 仁
出石(いずし)では荒物屋を営み身を隠した
一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、
城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。
幕末当時の「献身と浮気への寛容」さから、
小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。
維新後に、木戸孝允と改名した彼は、
幾松を正妻に迎え、松子と名乗らせる。
幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、
小五郎としては、文句をいえない。
それでも二人の夫婦仲は良く、
幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている。
世の中は桜も月も涙かな 桂小五郎
「桂小五郎(木戸孝允)の功績」
龍馬の斡旋で薩摩藩士・小松帯刀、西郷隆盛らと薩長同盟を結ぶ。
うめと桜と一時に咲きしさきし花中のその苦労 (木戸孝允)
薩長同盟を詠った歌である。(梅は長州、さくらは薩摩)
王政復古後は、五箇条の御誓文の草案の作成に関与。
薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が版籍奉還の建白書を提出したが、
その実現に木戸が一役買った。
廃藩置県でも西郷と並ぶ参議として重責を担った。
大久保利通、板垣退助らと大阪会議(明治8年)を開き、
立憲制を布くとの方針を定める。
西南戦争では事変処理にあたった。が、途中病死。
(木戸孝允 辞世)
さつきやみあやめわかたぬ浮世の中に なくは私しとほととぎす
次の世も生きてゆくなら鳥か魚 柴田比呂志
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