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無題

温泉宿の軒先の唐辛子  森田律子





一乗谷ー蘇る戦国時代の城下町


「長良川の戦」で敗死の斎藤道三に味方した明智光秀は、敵対した義龍
の軍勢に追われ、生国である美濃を離れ越前に逃げた。弘治2年(15
56)である。何故、越前なのか。土岐氏の居城・大桑城の城下町には
「越前堀」があり、また越前の優れた技術を美濃が導入していた友好国
でもあり、最も安心できる安定した隣国であったからである。
同時に越前・一乗谷の朝倉文化は、周防・山口の大内文化、駿府の今川
文化と「戦国三大文化」と並び称され、光秀には、親しみやすかったの
ではないかといわれている。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花



それに加えて、永禄9年の時点で、光秀と朝倉家との間に医学を通じて
接点があったこと、前年に、将軍の足利義輝が三好三人衆に殺されて、
近江にいる弟の義昭が自分を助けるよう諸将に要請し、光秀はこれに呼
応して田中城に入ったと思われることなどがある。



大匙ですくった酢の行き処  河村啓子



『遊行三十一祖京畿御修行記』





「麒麟がくる」 光秀ー越前にて


「明智光秀は越前国にいた。根拠は『遊行三十一祖京畿御修行記』」
「明智軍記」をはじめとする光秀の没後に成立した伝記類では、光秀
斉藤義龍に美濃を追われ、朝倉義景を頼って越前へ逃れたというものが
多くある。従来、この話の信憑性は不確かなものであるとされてきた。
ところが、これを裏付ける史料がある。『遊行三十一祖京畿御修行記』
といって、遊行上人(時宗の総本山遊行寺住職)の31代目である同念
上人が、天正6年(1578)7月から翌々年3月までの間に、東海・
関西各地を遊行した際の状況を近侍者が記録したものだ。原本は伝来し
ておらず、寛永7年(1630)に書き写された細切れの写本があるの
みである。


またひとつ終の住処の候補地か  下谷憲子




 





この『遊行三十一祖京畿御修行記』の天正8年正月24日条には「同念
上人が、従僧の一人を光秀の居城である坂本城へ遣わせた際、光秀が、
かつて称念寺門前に住んでいたので、旧情を温めるべく、その僧を坂本
城に留め置いた」という内容が記されてる。称念寺は、越前を代表する
時宗寺院なので、光秀は遊行上人方の訪問に懐かしさを覚えたのだろう。
条の一部に『惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、美濃土岐一家牢人た
りしか、越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住』
(光秀は義景を頼り称念寺門前に10年住んだ)とあり、光秀が越前に
いたことが確かめられる。ただし、そこに10年滞在したが、朝倉義景
に仕えたという記録はない。


偶然が三つ私が光りだす  津田照子
 
 




       針葉方・口伝


 

「医学にも精通していた光秀。そして光秀は」
近年熊本県で新たに発見された『針薬方』は、明智光秀の初期の活動を
示す史料として注目を集めました。これは足利義昭に仕えた米田貞能(
さだよし)が、永禄9年(1566)に書き写した医学書ですが、その元
の本はそれ以前のある時期に、光秀が近江の高嶋田中城に籠城していた
ときに「口伝」したものとされます。
さらに本文中に「セイソ散 越州朝倉家の薬」と見えます。中世後期の
『金痩秘伝下』には、「セイソ薬」とほぼ同じ材料で作る「生蘇散」
いう付け薬が紹介されており「深傷にヨシ」とあります。



論客よ君スキップはできるかね  徳山泰子




平面復原地区の中の医師の屋敷跡




屋敷跡では、薬の調合道具や「湯液本草(とうえきほんぞう)」という医
学書の一部が発見されています。当時は、戦乱で荒廃した京都から多く
の公家や僧侶、学者、芸能者などが一乗谷に下向してきており、手厚い
もてなしを受けていた。一乗谷には、発掘調査による出土遺物から医師
の屋敷と特定された場所があります。また、戦国期に一乗谷で医学書の
伝授が行われていたことも判明しています。したがって一乗谷では医学
がかなり普及しており、朝倉氏が薬剤を同時開発する素地は整っていた
といえるでしょう。本文に「朝倉家の薬」とうたわれていることから、
朝倉家中では、セイソ散が戦場必携の「定番薬」だったのだろう。
本書の発見によって、これまでの朝倉氏研究で知られていなかった「セ
イソ散」
の存在が明らかになりました。光秀と越前の繋がりを考える上
で、本書が重要な史料であることは間違いありません。


キミが蒲鉾ならボクは板になる  酒井かがり





光秀は朝倉家のセイソ散を知っていた





『湯液本草』の炭化紙片や薬の調合などに使われたとみられる乳鉢や匙
が出土した屋敷を、医師の家と推定しています。『湯液本草』は中国の
医家、王好古が1241年に著した医薬書で常用薬が厳選され、効能などが
簡潔にまとめられています。また、同屋敷からは、中国製などからの輸
入陶磁器が多数出土したことも、特筆すべきことといえます。当時とし
ても骨董品として扱われた憂品が存在します。


[セイソ散の作り方]
① (右上)芭蕉の巻葉
② (右下)スイカズラ
③ (左上)黄檗(キハダ)
④ (左下)山桃の実と皮
※ それぞれ「霜」すなわち黒焼きにして粉砕する。この4つの材料を
油をつなぎとして、それぞれ同じ分量を調合すれば、完成。春冬は等分
でよいが、夏は多めに入れるのがポイント。


マツキヨで買った薬くさい理論  雨森茂樹










特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の第51次発掘調査地に「医師の屋敷跡」
特定された区画がある。そこからは薬研・乳鉢・薬匙などの道具が出土
した。中でも決定打となったのは『湯液本草』(中国の医学書の写本)
の断簡である。火を受けて切れ切れな状態で、奇跡的に残った。
一乗谷には、医療を「生業」とする人が存在したのである。また一乗谷
で医学書の伝授が行われていたことも判明している。ともかく、一乗谷
では医学・医療が一定程度以上の水準で普及しており、朝倉氏がセイソ
散のような家伝薬を、独自開発する素地を十分整っていたのである。


放り投げた下駄から波が始まった  くんじろう


『金痩秘伝集』という針井流の金痩医術書がある。その書には、以下の
人々の手を経て伝えられたとある 細川高在(たかのり)→② 
地(智)十兵衛→ 越前桜井新左衛門尉→ 同 円蔵坊→ 越後
成就坊→ 同 蓮秀坊→ 関上弥五右衛門→ 善方半七

 注目は②→③である。③の桜井新左衛門尉は朝倉氏の重臣である。
永禄11年(1568)5月、足利義昭朝倉義景邸御成の際の記録・
『朝倉亭御成記』には、義景の「年寄衆」の一人に「桜井」がみられる。
金痩医術書の奥書に、光秀と朝倉家臣が併記されたこと自体、興味深い。
光秀の医学知識も相当なものであったことを示している。大したレベル
でなかったなら、ここに書かれていないだろう。それよりも何より「針
葉方」「セイソ散」
も含め、朝倉氏の地において、二つの医学書に光
秀の名が確認できたことは、不明部分のの多い光秀を見つけるための大
きな史料となった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄






   朝倉義景


【朝倉氏の歴史】
・元亀元年(1570)4月、織田信長は、三好氏と朝倉氏を敵として
天下の儀の成敗権を義昭に認めさせ、4年にわたって朝倉氏を攻撃した。
「元亀の争乱」である。戦場ではよくあることで、浅井・六角の裏切り、
本願寺顕如との対決が加わり、この年の戦は信長にとって厳しいものと
なった。
元亀2年、信長方は、前年朝倉氏に協力した比叡山延暦寺と坂本日吉
社を焼き討ちして見せしめにした。一方の朝倉義景は、信長の越前攻撃
に備えて敦賀に滞在、湖北と湖西の両方面に備えた。
元亀3年、信長は浅井氏の居城・小谷城に本格的な攻撃を決行。義景
自ら出陣して、小谷城の大嶽(おおづく)に6か月にわたって籠城した
が、兵糧の不安から、同年12月に越前へ帰陣した。
 ・元亀4年、信長は湖西を攻め、義景は3月から5月まで敦賀に在陣。
湖西と小谷城の両方に対処した。信長が岐阜に帰陣した隙に小谷入城を
図るが失敗、逆に退却の途中刀根坂で信長方に大敗を喫する。 義景は
一乗谷に帰陣するが、信長は府中龍門寺に着陣して、軍勢を一乗谷に遣
わせ、8月18日から20日まで3日3晩にわたって一乗谷を谷中一宇
残さず放火し、破壊した。義景も20日に自尽。享年41。


返された鍵を裁断機にかける  清水すみれ




 
・(その後)天正元年(1573)、義景の母・光徳院と遺子の愛王丸
は生捕りにされ、身柄は府中の信長のもとに護送され、信長の部将丹羽
長秀に預けられて、26日、今庄の帰(かえる)の里で刺し殺され、堂
もろとも火をかけて焼かれた。ここに朝倉氏の嫡流は絶え、ここに朝倉
氏は滅亡。戦後処理で信長は、最初に信長方に寝返った大功を認めて、
前波長俊を越前の守護代に任じて一乗谷の館にすえ、部将の滝川一益・
羽柴秀吉・明智光秀の3人に越前の戦後処理を命じ、それぞれの代官が
北庄に駐留した。多くの朝倉氏同名衆は生き残って本領を安堵されたが、
苗字を変えられて、朝倉氏は解体した。


鰓が震えている忍び泣いている  雨森茂樹


・信長や一向一揆によって越前を制圧された朝倉氏の一族が、手をこま
ねいて滅亡したわけではない。
朝倉氏の同名衆の朝倉景嘉は、上杉謙信を頼って越後へ下向し、上方へ
馬を進めるつもりだと天正2、3年ころの書状に記している。
朝倉宮増丸は天正6年、朝倉氏同名衆の鳥羽景富の子・与三景忠を家督
に立てて朝倉氏を再興することを、毛利氏の勢力に期待して備後の鞆に
滞在していた足利義昭に要請している。
このように朝倉氏再興を計る朝倉氏一族もいたが、頼りにした謙信
利氏、足利義昭らは、急死や信長の強さには歯がたたず、それらの試み
は、すべて失敗に終わった。

蓮だってたまに反抗して開く  山本昌乃


(そして一乗谷の今)商人や寺社は信長政権下でも、その役割を認め
られて、柴田勝家の北庄城下に引っ越し、一乗町、一乗魚屋町などの町
が形成される。一乗谷の大規模寺院・西山光照寺、心月寺、安養寺など
も北庄城下の周縁部に移転され、今に至っている。
朝倉氏の時代に築かれた商業や宗教活動の伝統は、絶えることなく近世
の城下町に引き継がれている。

引き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

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「葛飾北斎」ー北斎漫画

額縁の栓を今すぐ抜いてくれ  河村啓子




 
(各画像は拡大してご覧ください))
       北斎漫画百面相


「漫画とは、事物をとりとめもなく、気の向くまま、漫ろに描いた画」
『北斎漫画』初編序にて、北斎自身が述べている。( 漫ろ=そぞろ)
「『北斎漫画』は、文化11年(1814)より順次刊行され、北斎没
後の明治11年(1878)に15編が出されるまで、常に人気も高く、
後刷本も大変人気のロングセラーとなった」

時刻表にはなかったバスがやってくる 竹内ゆみこ


「葛飾北斎」 北斎漫画







『北斎漫画』の総図数は4千ほどで、よくもこのように多数の図柄を思
いついたものだと驚嘆させられる。そこには、人物鳥獣画魚介、草木に
山水日常目にする光景から伝説の物語、幽霊や妖怪まで、通常思い至る
範囲をはるかに越えた、ありとあらゆるものが描かれている。当初は、
絵を学ぶ人の手引書や図案集を意図した。いわゆる絵手本として制作さ
れたらしいが、その再版の多さからしても、絵を志す者だけが、鑑賞者
ではなかったことが分かる。北斎もまた、弟子や絵を学ぶ者に教示する
というよりは、「見る人を喜ばせたくて仕方がないとでもいうように」、
頁をめくるごとに、次々と奇想天外でユーモアあふれる図で、鑑賞者を
迎えるのである。

ボンレスハムに毎夜聞かせている理論 森田律子


 「風に悩む人々」

特に秀逸なのは、人物の仕草を題材にした図で、人間の営みとは、この
ように滑稽なものであったかと気づかされ、つい笑ってしまう。
風に悩む人々の図「風に悩む人々」では、本来であればすまして歩いて
いてもよいはずの人々が、風に翻弄され、抵抗むなしく滑稽な姿に変貌
する様子が可笑しい。もちろんいくら風が強いといっても、ここまでの
姿になることは、現実的にはあまり考えられないのであるが、北斎独特
のユーモアセンスと想像力を持って、誇張して描き、見るものを笑いに
誘うのである。

画布すべて私色に染めてゆく  中田 尚


  「縦横」


北斎は身の回りで起こること、知り得ることのすべてを、ユーモアとい
うセンサーでキャッチして、必ず滑稽な造形に変えられるような、才の
ある絵師であったのだろう。おそらく自らの発想を、自ら面白がり、時
に笑いながら、筆を進めていたに違いない。もっともあり得ない人気の
図に、達磨が縦と横に顔をつぶしている「縦横」がある。このバカバカ
しく可笑しい城に、北斎は、やすやすと入ることができる。絵で人を笑
わせるということは、どの浮世絵師でも出来ることではない。どこから
思いつくことなのか、その想像力たるやもはや無限、北斎の自在な発想
の動きには、様々なツールや情報を持っているはずの現代のクリエータ
ーたちも太刀打ちできないのではないだろうか。


坊さんを連れて主治医が顔を出す  井上一筒
 



 「ジャポニズム」
北斎が影響を与えた)
  ↓


伏羲・神農 日本の知識に対する寄与

 
「北斎漫画」三編 (文化12年)
中国の神話に登場する伝説の帝王。
人類の始祖伏羲(ふつぎ)(右)医療と農耕の祖神農(左)





 ゴッホ「ばら」
ヨーロッパの伝統では、花瓶の花を描くのが基本。野生の花をクローズ
アップして描くのは、北斎の花鳥画に学んだ視点といわれている。
 
 
北斎「牡丹に蝶」
北斎は花鳥画の名手でもあった。ゴッホが感嘆したように、北斎は葉の
一枚、花びらの一片まで細やかに描き分けている。






サントヴィクトワール山(セザンヌ)


 駿州片倉茶園ノ不二



しかし人間の滑稽な姿を描いていても、北斎の絵が決して下品さや嫌味
を感じさせることがないのは不思議なほどである。18世紀半ばには、
ヨーロッパに伝えられた『北斎漫画』「ジャポニズム」の熱狂を導き、
欧米の画家や工芸などに大きな影響を与えたことはよく知られているが、
しばしば北斎の絵は優雅であるとさえ評される。それは画品というべき
ものであろうが、人間の滑稽さでいえば、それをただ、揶揄するのでは
なく、常に温かい眼差しを備えた観察眼が、愛すべき存在としての人間
を肯定的に捉えているからだろう。
※ 『北斎漫画』は北斎在命中から、シーボルトの著『NIPPON』
をはじめヨーロッパの出版物に転載され、19世紀のヨーロッパで大流
行しジャポニズムの端緒になった。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕



旅を行く北斎
(葛飾応為画)




「北斎、名古屋への旅」
北斎がはじめて尾州名古屋の地を踏むのは、文化9年(1812)53
歳の秋のことである。売れっ子作家・曲亭馬琴の『椿説弓張月』で、斬
新かつ残酷な挿絵で一躍注目され人気者となった北斎だったが、馬琴と
制作上の意見の食い違いで、喧嘩別れをして、挿絵の注文が激減、かわ
って絵手本や一枚版画の依頼が多くなり、北斎としては一大転機を迎え
たときであった。この年、いわば江戸の絵画教師として,絵手本『略画
早指南』初篇を敢行した北斎は、生涯初の関西旅行に出発、帰路名古屋
に滞留した。名古屋で北斎を歓待したのは,牧助右衛門信充という15
0石取りの尾張藩士で、号を墨僊(ぼくせん)といった。名古屋城下鍛
冶屋町に住む墨僊は、自身の居宅を北斎に提供、同時に北斎の門人とな
った。墨僊は、熱烈な北斎の支持者で、江戸詰めのとき、喜多川歌麿
入門、歌政の号を持つ浮世絵師でもあった。
 
 

脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川
 





高力猿猴庵の描いた絵


この折の名古屋滞在が,何日ほどであったかははっきりしないが、尾州
本屋・永楽屋東四郎の提案で、絵手本第二弾『北斎漫画』初篇の下絵を
描いた。北斎と永楽屋を結び付けたのは、江戸の蔦屋重三郎だった。
無論、墨僊も永楽屋東四郎と懇意にしていたに違いない。いずれにしろ、
東都の人気絵師・葛飾北斎の名古屋入りは、尾州の本屋、貸本屋、文化
人たちの話題を浚ったことは確かだ。そして、少年時代、貸本屋の小奴
として働いた経験を持つ北斎が、日本一の蔵書を誇る胡月堂大惣を訪れ、
文化サロン大惣に集う文人や画家たちと交流を持った。とりわけ『尾張
名陽図会』の著者、 猿猴庵(えんこうあん)こと高力種信とは、この折
に知り合ったものと思われる。高力は、墨僊の画友であり同じ尾張藩士
で、馬廻り役から大番にまで進んだ人物だが、尾張の地誌、風俗を記録
した著作で知られている。後に『尾張名所図会』の挿画を担当する小田
切春江は、高力の弟子である。


懸命に生きる一回きりの旅  山谷町子


 





北斎が墨僊の家で下絵を描いた『北斎漫画』初篇が永楽屋から刊行され
たのは、2年後の文化12年のことであった。
「目に見、心に思う ところ筆を下してかたちをなさざる事なき」
とは、『北斎漫画』第三輯の序に書かれた太田蜀山人の言葉である。
読本の挿画とは違い、本文の制約を受けることなく、眼に触れる森羅万
象の形姿をスケッチし、人物表現、自然風物、鳥獣中魚、お化け、など
寸景などを当代の天才絵師北斎は、自由闊達に描き出して見せた。
(好評を博した『北斎漫画』は、第二輯を北斎改め葛飾泰斗の署名で、
翌文化13年、やはり永楽堂から刊行された。

カシミヤの手ざわりですね美辞麗句  笠嶋恵美子



   北斎の描いた動物たち




北斎が、文化9年秋から名古屋鍛冶屋町の墨僊邸に何か月滞在したかは
不明だが、『北斎漫画』初篇300余図の版下絵を描いたとすれば、同
年師走近くまでいたのではないだろうか。とにかく翌10年2月6日に
は、北斎は江戸の自宅から墨僊宛に新年の挨拶状を送っている。絵手本
『北斎漫画』は二編以降、毎年一冊か二冊、ほぼ定期的に刊行され、文
政2年(1819)第10編を出して、一応、当初の計画を終了する。
しかし、続編を希望する読者が多く、結局15編まで続く。
(完結したのは、北斎没後30年目の明治11年(1878)で版元の
永楽屋東四郎も4代目善功になっていた)



僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ








絵手本とは、門人たちに与えるための肉筆の教本である。それが版元に
よって出版されるに至ったのは、文化年間に入って北斎の門人が急増し
たこと、読本挿画画家としての北斎に熱烈な私淑者が多かったからであ
る。門人は、孫弟子も入れ、ピーク時で230人余りといわれ、私淑者
はその何倍かを数えただろう。名古屋の主な門人は、居宅を宿舎として
提供した墨僊を筆頭に、墨僊の門人で、やはり150石取りの尾張藩士
沼田月斎、本業は大工の東南西北雲、履歴は不詳の北鷹ら数人であった。
また、漫画のルーツである。百面相や人物表現では、後輩の広重、国芳
らにも大いなる影響を与えている。


広重も北斎もいる夏の雲  矢沢和女



北斎のお化け




「北斎、名古屋再び」
文化14年(1817)春、北斎は2回目の関西旅行を敢行、再び名古
屋へ立ち寄った。永楽屋の要望による『北斎漫画』版下制作のためで、
滞在は半年に及んだ。この時も墨僊邸を宿舎としたが、当時、永楽屋で
小僧をしていて、後に別家した永楽屋佐助の証言によると、途中からは
花屋町の借家にいたらしい。小僧として、版下絵をもらい受けにいくだ
けの佐助の目には、敷きっぱなしの床の横で、制作に没頭する58歳の
北斎は、ただの薄汚れた老人としか映らなかったに違いない。このとき
北斎が描いていたのは、第8編の版下絵であった。その8編の序に緯山
漁翁はこう書いた。
「戴斗翁、劫(むかし)より画癖あり、唯食唯画而巳(のみ)遂にもて
葛飾一風を興して画名声に高し於茲(ここにおいて)其門に入りて技を
学ぶ者多し翁これに教えて曰く「画に師なし唯真を写事をせば自ら得べ
北斎漫画によって北斎は葛飾一風を世に示した。


右腕は残業 左には団扇  中村幸彦


「佐助の回想録」
花屋町の家へ版下絵を受け取りに通っていたとき、
「先生はいつごろ江戸へお帰りですか」
と佐助が尋ねると
「オレはもう江戸へは帰らぬよ。この名古屋は真によい所で、オレの身
体には、時候も食い物もあっているから、ここがオレの死に場所だな」
と北斎は答えたそうである。これを聞いて佐助は、何となく嬉しくなっ
たが、それから間もなくして、北斎は伊勢に旅立っていった。


福耳の持ち主もいるホームレス  藤原紘一








「120畳の紙に大達磨を描く」
紙の大きさは縦18㍍、横10㍍、日時は10月5日早朝、場所は西本
願寺別院(西掛所)の東庭。版元は事前にチラシを配っておいたから、
貴賤老幼の見物客は夥しい数にのぼった。







「北斎、だるせん」
名古屋にて二度目の滞在の折、北斎は城下の人々を驚かせる一大パフォ
ーマンスを行った。百二十畳の紙の上に達磨の大画を群集の前で描いて
見せた。北斎にとって群衆での大達磨制作は、これが初めてではない、
文化元年4月、45歳のとき北斎は、江戸音羽の護国寺境内で、やはり
120畳の紙の上に、達磨半身像の大画を描いている。
因みに「だるせん」とはダルマ先生のこと。このパフォーマンスの反響
に気をよくした北斎は、江戸の本屋と組んで本所合羽干場では馬を、ま
た両国回向院では、布袋の大画を描いている。つまり名古屋の大達磨は
4度目のパフォーマンはだったことになる。
 

絵に描いたダルマ時々会釈する  青木公輔
 
 
 
 


集合所の軒に添って杉丸太の木組みが作られていて、両端の丸太の先端
には滑車が仕掛けてあり、料紙の上方につけられた軸に、細引きの綱を
つけ、滑車で引き上げられるようになっていた。両側を夥しい観客が囲
む中へ、北斎は襷をかけ、袴の裾をまくって現れた。昼過ぎより描き始
めた画は、まず鼻を、次に左右の眼、続けて口、耳、頭と描き進められ、
毛書で月代、髷を描いた後、棕櫚箒(シュロほうき)に薄墨をつけて隈
取とした。次に代赭(たいしゃ)色を淡く、棕櫚箒でのばすのである。
大画が小車で引き上げられたのは、夕方であった。滑車の音を響かせな
がら引き上げられたとき、群衆の中から沸き上がったどよめきと喚声は
凄いものだったらしい。このパフォーマンの後、あまり日をおかないで
北斎は名古屋を出立した。旅程は名古屋から伊勢に入り、伊勢から紀州
を廻って大坂、京都へ歴遊した。

スゴーイで片付けられる凄い技  永井 尚

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「麒麟がくる」光秀と秀吉

ポジションは茸の笠の裏の闇  相田みちる



   応仁の乱(『真如堂縁起絵巻』真正極楽寺蔵)

「麒麟がくる」-光秀と秀吉の違い

「応仁の乱」(1467~77)、この10年のたわいない争いの後、
社会の上下が崩れ、やがて下が上にあがり、百数十年の戦乱のあげく、
ある者は天下人の夢を追い、また出自のはっきりしないものが、いつし
か政治の中枢にまで上り反逆者になったり、ついには、浮浪児にような
境遇から身を起こした者が、天下を掌中に収めるという、目に見えて運
命が動いた時代、それが「下克上の戦国時代」である。もし応仁の乱が
なければ、明智光秀の悲劇も豊臣秀吉の奇跡もなかった。ここで表と裏
のようなの性格で、ともに信長の配下にあった光秀と秀吉を検証する。

王様になるか石つぶてになるか  月波与生






信長の思想は、同時代の人間とは違っていた。まず他人の門地を問わな
かったことである。その生涯の後期、野戦軍を五個軍団に分けていたが、
五人の中、サムライらしい節目を持っていたのは、柴田勝家丹羽長秀
だけだった。この2人については、智謀より野戦指揮官としての勇猛さ
を信長は買っていた。勢力がやや大きくなると、滝川一益を抜擢し一方
を束ねさせた。一益は忍びの出身だったから、諸国の事情に明るく、偵
察の能力に期待した。しかし器量はあくまでも野戦型の武将だった。
むろん勝家や長秀と同様、才覚というような照り映えするものは持って
いなかった。
【門地】 いえがら


この釘を抜いても何も変わらない  吉川幸子

四番目が豊臣秀吉である。
彼は信長にとっての第二段階である美濃進出の準備期から出頭人になっ
た。門地などはなく、いわば浮浪児あがりで、信長によって泥の中から
拾われ、実地のなかで信長の教育を受けた。信長好みの気魄はあったが、
個人的な武芸があったわけではない。信長は、結局、人間を道具として
みていた。道具である以上、鋭利な方がよく、また使い道が多様である
ほどいい。その点秀吉という道具には翼がついていた。
【出頭人】主君の側にあって政務に参与した者

凡人は鈍感力でできている  井上恵津子





坂東彦三郎の秀吉

秀吉は早くから信長の本質を見抜いていた、この徹底した唯物家に奉公
するために我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。ただし彼は自分
韜晦(とうかい)しながら、いつの時期からか密かに自分の天下構想
を持つようになった。信長は死まで秀吉のそういう面に気づかなかった
に違いない。道具が構想を持つはずないと思い込んでいた。
【韜晦】 自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。


聞く耳を持てばなんでもないはなし  荒井加寿

やがて信長秀吉という道具に、多面性を見出していく、早くから経理
や補給という計数の才を見出し、ついで土木の才も見出した。計数と土
木の才は、当時も国主級の大将に不可欠なものとされていた。信長は当
然、秀吉を恐れたはずだが、当の秀吉は主人の嫉妬を買わぬよう、でき
るだけその才を秘め、剛毅で質朴な前線指揮官であるべくふるまった。
また大功をたてるつど、その果実を信長に惜しげもなく還元した。信長
は秀吉の無私ともいうべき気前良さに幻惑され「大気者」(たいきもの)
とあだ名して無邪気に喜んだ。
【大気者】小さなことにこだわらない、度量の広い者。


虫も飼い騙し船押す腹の中  星出冬馬

その上、秀吉には取引の能力があった。たとえば美濃攻めのとき、尾張
の山野をうろついている無所属の武将団と取引して自分の配下に入れた。
ただし、それらをいちいち信長にお目見えさせ、織田家の直参というこ
とにし、自分が一時あずかるという体裁にした。代表的な例は蜂須賀小
らで、彼らのことを当時の用語で「与力」といった。だから法的には
秀吉は小六らと同格だった。それが、織田家の軍制の原則ではあったが、
秀吉は信長に自分の勢力がふくらんでいるようには見せたくなかったの
である
【与力】侍大将・足軽大将などに付属した騎馬の武士


息できるほどには空けておく隙間  松浦英夫





中村芝翫の光秀

第五番目の司令官である明智光秀もまた、信長が土のなかから見出した
人物である。流浪お牢人だった。姓からみると、その出は美濃の明智家
だが、今はその痕跡を辿ることもできない。光秀は、信長にとって、
具としては出色だった。数万の大軍を指揮できるばかりか、京都の公家
や将軍家、幕臣たちと交際する能力という他の将にないものを持ってい
た。その時期、信長にはそれが必要だったのである。が、こまったこと
に、当の光秀には「道具である自覚」が少なかった。まず彼はそのまわ
りに美濃人をあつめて、一種独立色の濃い軍団を持つようになった。
ついで、自分の古典的な教養を隠そうとはしなかった。
子飼いの秀吉さえ薄氷を踏む思いで信長に仕えているのに、光秀は鈍感
だったとしか思えない。

比叡山の肩のあたりの温湿布  山本早苗

信長は、ある時期から兵士を公称した。当時の慣例として、征夷大将軍
になった幕府をひらくことができるのは、源氏にかぎられる。ただし、
鎌倉幕府の先例では、執権家は平氏ということもある。初期の信長が、
衰弱した室町将軍家を擁して執権たろうとしたために、平氏を公称した
のだろう。ところで室町将軍家を廃してしまえば、どうなるのか。平氏
だから織田幕府は開けないのである。当然、先例を平清盛にもとめて、
公卿になり、関白・太政大臣として、律令体制も上に乗らねばならない。
しかし律令体制は、亡霊のように実体がない。信長としては、
論理の帰結として、新たな中央集権体制を考えざるを得ない。

ビッグバン夢見てるのか楕円形  岩田多佳子

信長の野望の最終の行き先は、一貫しているが、この強烈な自我の拡大
は、後半の一時期、一見弛んで、他の政治的表現をとった。日本の中央
を制覇した時、五人の軍団長に、それぞれ領地を与えて見せたのである。
いわば、部分的に封建制を布いた。諸将が切り取った分の何割かを封国
として与えた。たとえば、秀吉は近江の一部をもらい、光秀は丹波をも
らった。長は、その後も諸将を前線へかりたてた。秀吉については、巨
大な中国の毛利氏と対決させた。毛利攻めのある段階で、秀吉は安土城
で信長に拝謁し「私は、中国を斬りとっても領地はいりません。それを
上様にさしあげます。ただ一年分の年貢を頂き、ぜひ、九州を斬りとら
せてください。九州をとれば、又それを献上し、年貢を一年分頂戴して、
今度は朝鮮を攻めさせてください」
秀吉は、自分が無欲であることを証明したかったのである。

見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁

これに対し、光秀は可愛いばかりに鈍感だった。
光秀は信長が意図していることがまるで見えていなかった。彼はせっせ
と丹波の領国を磨き上げた。百姓本位の政治をし、万が一の基金対策を
するなど、当時としては理想に近い封建政治を布いた。古い体制の破壊
を目論んでいた信長は、そういう光秀が片腹いたく気にもいらなかった。
のちに信長は光秀から丹波を召し上げて、他に大きな領土を与えること
をほのめかして、毛利攻めの応援を命じている。信長としては光秀を官
僚として扱っているのだが、封建主義の光秀にとっては拠って立つべき
領国が消滅する。その結果として「本能寺の変」が起こるのである。
                       (この国のかたちゟ)

身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

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脳のお話し-2 脳との付き合い方

冗談ですまなくなった物忘れ  靏田寿子







「将棋の一手 その時、脳は?」

対局の中盤の盤面を4秒見せ、「攻めるべきか、守るべきか」を2秒間
で直感的答えてもらった。その間の脳活動を計測すると大脳の中心部に
ある「帯状皮質」と脳表面にある「前頭前野」が活動していた。


逆風に立ち位置変えて待つ一手  小林満寿夫


「脳のお話し」-2 こんなときだからこそ









脳との付き合い方
「最も大事なことは、人生を楽しむこと、幸せを感じること、
それが全てです」 
オードリーヘップバーン

『日常会話というのは、ボクシングでいえばジャブである。
無駄なような積み重ねの後、だんだん核心に近づいていくのである』
    阿久悠 (「作詞入門ゟ」)

人間の脳は心を支配する。新しいものを見れば脳は活性する。
人間らしさは「大脳皮質」に宿る。 大脳皮質の本質は、知性です。


幸せの真っただ中で気がつかず  中岡千代美







『モーツアルトは演歌を作れない』  茂木健一郎
天才作曲家といわれるモーツアルト。しかし、いかにモーツアルトが
天才だとしても、彼がさままざまな音楽に接していたことなしには語
れないだろう。例えば彼が、トルコ軍隊がウイーンを占領した後のト
ルコ風音楽の流行の中で「トルコ行進曲」を作曲している。
その経験、学習がなければ、その名曲は生まれていない。
創造性は、体験が基礎となって生まれるモノ。モーツアルトの曲の中
「演歌」がないのは、彼が演歌を聞いたことがないからである。




正解を探して白紙のままの僕  柴田桂子








『人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。同時に無限の可能性を秘めている』
ブレ―ズ・パスカル
蓄積されたものは「大脳皮質」の中の「側頭葉」で徐々に様々な意味や
価値に変換される。すなわち側頭葉は体験したものを整理したり、それ
を変化させて意味を付け加えたりという作業をする。
この「変換作業」は常に自発的に起こっているが、一つの情報を活用す
る上で重要な働きをしているのが「前頭葉」で、人間が人間として存在
するために最も重要な場所である。いわば前頭葉は、頭の統合作用を受
け持つ領域で、側頭葉に蓄積された情報を整理活用する場所なのである。
つまり、いくら有益な情報が側頭葉にインプットされていても、前頭葉
が働かなければ、それらの情報は意味をなさない。
図書館で得た知識をどう活かすか意欲の部屋。


前頭葉湿った話止しましょう  前川和朗








『感動することをやめた人は、生きていないのと同じである』
アインシュタイン
人は生きていく中で、実に多くのものに出会っている。沢山の人たちに
出会い、初めての街や風景に出会い、味わったことのない美味に出会う。
その一つ一つに感動を覚えることで、人生は輝く。
もしも目の前にある新しい出会いに気づかなかったら、折角の新しい発
見に感動することがなかったら、私たち人間は輝きを失ってしまう。
ただ肉体が活動しているだけで、精神は死んでしまっている。


頭とは別行動をとる手足  前中一晃


『人間の脳は生きている限り活動を続けている』 茂木健一郎
脳の中には約一千憶の神経細胞があり、いかなる時もこの細胞は活動を
続けており、学び続けるという性質を持っている。
私たちは、長時間仕事をした時など「少し頭を休ませよう」などと言っ
たりする。しかし実際には、脳は休んでいるのではない。考えることを
止めただけで、何もしないでボッとしている時でも脳は考え続けている。
眠っている時でさえも、脳細胞は常に活動をしているのである。
このように脳が活動することで、体験したことを蓄積し、その意識がな
くても、脳に痕跡を残していくのである。


飾りボタンはためらい傷なのだろうか  前中知栄




 


『人は存在するものだけを見て「なぜそうなのか」と考えるが、
 私は存在しないものを夢見て<なぜそうではないのか>と考える』
ジョージ・バーナードショー
創造性は、ゼロから生まれることはない。どのような新しいものを生み
出す時でも、必ずその元になる「体験や知識」というものがある。
人生経験のない五歳の子に恋愛小説は書けない。
だが「創造性は伝染するものだ。大いに伝えていこう」


三ミリの違いでなかったことにされ  河村啓子








『年配の人たちは「これは何?」と尋ねる。
でも少年は「これで何ができるの?」と尋ねる』  
ティーブ・ジョブズ
自分の感じる時間と、実際の時間を同じくらいに感じられる年齢のボー
ダーは19歳頃という。子どもは見るモノ見るモノが新しい経験だから、
感動し楽しむことが出来るが、大人になって見たことのある景色は、経
験予測できるから、いまさら感動しない。
子どもの感性とうまく付き合うことで、トキメキが少しは共有できるよ
うになる。
「トキメキやワクワクを忘れてしまった大人たちの一年は、アッと言う
間に過ぎて行ってしまう」


つれ添ったつっかい棒も少し老い  山本昌乃


『やってしまった後悔はだんだん小さくなるけど、やらなかった後悔は
だんだん大きくなる』  林真理子
年老いるとトキメキを感じることが減る。時間の経過をどう感じるかは
心理学で「時間評価」の問題といわれている。ヒトには心的時計といえ
るものがあり、これが実際の時計よりも速く進めば「まだ1時間しかたっ
ていない」と感じるし、逆に心的時計が遅く進めば「もう1時間過ぎた」
と感じる。
退屈な会議で何度も時計を見る場合、時間がなかなか過ぎないと思うよ
うに、時間経過に注意を向けるほど、同じ時間でも、長く感じられる。
これが、子どもと大人の違いに関係している可能性もあるそうだ。
子供には待ち遠しい行事が多いのに対して、大人になると慣れ親しんだ
刺激の少ない出来事ばかりのため、時間経過に注意を向ける回数が減り、
その分時間の進行が速く感じられるという。


秒針の無い時計で計る二十秒  くんじろう


『自分自身でいよう。他人でいることは誰かがもうやっている』
他人の心が分かるということが、なぜこれほど難しいことなのか。
感情などが瞬時に伝わるという共感回路をもちながらも、なかなか他人
の心を理解することができない。実はその理由は、人間にしか持ち得な
いある特性があるからだという。
その特性とは「ポーカーフェイス」のこと。
つまり心に抱いている感情と、表に出てくる顔の表情に食い違いがある
ということである。


今ここで抜いたら竹光がばれる  倉 周三







『世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある』  
ニーチェ
他の動物は感情の動きと表情が一致している。怒っている時は牙を剥き
出しにするし、喜んでいる時は体でそれを表現する。
ところが人間は、心の動きを表に出さず、隠してしまうことができる。
ものすごく怒っているのに、冷静な表情をつくることができる。
こうした表情の操作ができる人間だから、互いに気持ちが分かりあうこ
とが難しくなる。他人を思いやる気持ち、互いに分かり合おうとする気
持ち。それはまさに、見かけとは違う心の状態を、いかに推測できるか
ということになる。人と人との関係は、初対面のときから分かり合える
ものではないから推測のしようもない。しかし時間を重ねて関係が深ま
ってくるにつれて、互いの心を推測し合えるようになる。
いずれにしても人間の脳は、他の動物より複雑なもの。


わたくしを破ると春になりました  柴田園江


『世に最も輝き、かつ最ももろきもの二つあり。
一つは女の顔、一つは陶器』  スウィフト
男性は「論理的思考」が強く、女性は「感情的、情緒的」な傾向がある
と最近のデーターで分かってきた。
脳には「右脳」「左脳」があり、右脳は、主に感情やイメージを司り、
左脳は、論理的思考を司る。この右脳と左脳をつなぐ「脳梁」(のうり
ょう)というものがあり、橋ともいわれるその脳梁が女性の方が男性よ
りも太いことも分かってきた。
つまり女性の方が、右脳と左脳の情報伝達が、スムースに行えることが
できるということになる。
例えば、考え事をしている時、一般的に女性は右脳と左脳を均等に使っ
ている。これに対して男性は、ある部分を集中して使う傾向がある。
男は論理的、女は感情的というのが実験によって分かってきたのである。
さらに最近では、人間関係の捉え方でも、男女で違うことが解明された。


目分量ですが青空をいちまい  吉松澄子







『束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。悲しみがあるからこそ、
私は高く舞い上がれるのだ。逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ』 マハトマ・ガンジー
共感回路の使われ方。
「共感回路」とは、人が痛みを感じていたら自分も痛みを感じる。
人が喜んでいたら、自分も嬉しい気持ちになる。
他者との共感を生むという回路が脳の中にあり、感動を受ける上で重要
な役割を果たしている。この共感回路の働きが、男と女では違う。
女性はどんな時にも、共感回路が働いており、男性の場合は、社会的な
状況に応じて、この回路をONにしたりOFFにしたりできる。
すなわち人の痛みに男は、ずるく鈍感なのである。


いっそのこと納豆にでもと思う  雨森茂喜


『あらゆる偉業の出発点は、目的を明確にすることから』
クレメント・ストーン
共感回路の実験。
数人が集まりゲームをさせる。ゲームでズルをすると微量の電流を流す
という罰を与える、という実験である。
仕掛人としてズルをする人は決めてある。ズルをして電流が流されると、
ズルをした人は当然痛がる。みんな多かれ少なかれ共感回路が働く。
ここで女性の大半は、自分も同じ痛みを脳が分かろうとする。
一方、男性の方は「アイツは悪いことをしたのだから、少々、痛い思い
をするのは当然だ」という論理を導き出し共感回路のスイッチをOFF
にしてしまう。


終電の終着駅で待つ始発  近藤北舟


『痛みなしでは、何も増えない』 フランスの外交官
これはおそらく、男性が社会秩序を維持するという役割を担てきたため
だろうと解釈される。正義や秩序を守るためには、それを犯すものには、
時に非情にならなければならない、いちいち共感回路を働かせていては、
秩序や法が守れないのである。
ただし男性社会であった警察官も、最近は女性が増えてきているように、
男女の間に職業の差はなくなってきている。社会的な役割も減少してき
ている。共感回路を自らの意志でOFFにできる女性が増えてきている
証である。実感。


ロキソニンまぶたの裏のツボに貼る  井上一筒







『楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ』
ウィリアム・ジェームズ
「身体は脳の支配下にある」と思われがちだが、本当は逆で、「カラダ
が主導権」を握っている。進化の過程を思い出せばわかる。脳とカラダ
のどちらが先に発達したか。もちろんカラダである。カラダのない動物
はいない、が、脳のない動物はいくらでもいる。脳は進化の歴史では、
新参者なのだ。「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」「
る気が出たからやる」のではなく「やるからやる気が出る」のである。


こそっと何を聞いたのだろう笑うてはる  通利一辺




「おまけ」‐①
『明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学ぼう』

これは大変有名なガンジーの名言ですが、ガンジーは1869年生まれ。
この言葉が活字に最初に出たのは、1867年と発言をする人がいる。
脳はときどき誤作動をするから、真実はどうなんだろう。


「おまけ」‐②
『心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる』
山下智茂(星稜高校野球部監督))


間延びした記憶が元に戻らない  嶋沢喜八郎

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「麒麟がくる」進撃の信長、躍進の光秀

兵法にきっとあるはず泣き落とし  ふじのひろし





  尾州桶狭間合戦 
義元に正面対峙する服部小平太、背後から義元にくらいつく毛利新介


主人公の厳しい人間性をプロローグに持ってくるフランス映画のように、
信長の生きる指針を映す幼い頃のエピソードが『名将言行録』にある。
信長が幼名・吉法師のころ、庭先で遊んでいると小蛇が出た。
吉法師がその小蛇を掴んで近臣の者に「このようなことを勇というのか」
と尋ねると、近臣は「小蛇など恐れるに足らぬものです」と答えた。
すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、
もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか」と吐いたという。
大人である近臣たちは、恐縮し頭をあげれなかった』
この吉法師が語った言葉に繋がる信長の名言があ。
『理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ』


「麒麟がくる」進撃の年信長、躍進の光秀(年譜で綴る)




 
織田信長(染谷将太)


【織田信秀、病死する】 
信長18歳の天文21年(1552)3月、信長の父・信秀病没。
信秀は42歳、まだまだ働き盛りの最後であった。信長公記には、
<備後守殿疫病に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、
御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化>とある。
信秀の後継者問題については、信秀は後継者として信長をと、認めてい
たものの、「信長様の品格は当主としてどうか」と家内の間で紛糾する。
しかし継承順位のしきたりを重視する時代、結局は三男・信長が後継者
となり、四男の弟・信勝が末盛城に入ることになる。
「信長の教育係・平手政秀の死去」
天文22年1月、傅役(おもりやく)の政秀、信長を諌めて自害する
<平手中務丞、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験
なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候>

家系図にずらり繋がるろくでなし  新家完司


【斉藤道三、息子・義龍との戦に敗れる】
弘治2年(1556)4月、道三、「長良川の戦い」で敗死する。 
その勢いをもって、同年、義龍は明智城を攻め落城させる。
『明智軍記』によると、城を失った光秀は、逃げるように諸国遍歴の旅
に立ち、永禄5年(1562)に帰還する。
越前の朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るとなっている。
そこに 10年程、称念寺門前で暮らす。その10年の間に煕子と結婚、
永禄6年(1563) に 娘の(ガラシャ)が誕生している。


取りあえず地下まで降りるエレベーター  中野六助 





  最後の今川義元



【信長の桶狭間】
永禄3年(1560)5月19日、今川家の総帥・今川義元が「桶狭間
の合戦」で尾張の織田信長に討ち取られる。義元を討ち取った信長は、
その後、清洲から熱田へ通じる街道に”義元塚”というのを築かせ、供養
のために大きな卒塔婆を立てたという。そして信長は戦利品として義元
が所持していた秘蔵の名刀「義元左文字」を愛刀にしたという。
(『信長公記』)
人質だった竹千代(家康)は、解放され三河に戻ると、松平家の総領と
して統治を開始する。その後、信長は家康と同盟を結び、天下布武に向
けて進撃が始まる。信長名言はこの桶狭間を語るように。
『戦に勝るかどうかと兵力は、必ずしも比例しない。比例するかそうで
ないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ』


接戦を制して湧いてきた自信  吉岡 民





   永禄の変

三好三人衆らが将軍足利義輝を襲撃し殺害。


【三好義継、三好三人衆、義輝を襲撃」
永禄8年(1565)5月9日、足利義輝暗殺。「永禄の変」である。
ルイス・フロイスの著書・『日本史』によれば、
『三好三人衆の暴挙を警戒し、二条御所の堀や土塁等を堅固にし、事件
の前日には、御所からの非難も考えていた。しかし近臣が「将軍の権威
を失墜させる」と反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行
ったため、義輝も不本意ながら御所に戻った』という。
三人衆の兵力は約1万。義輝側は数百人程度。義輝は剣豪・塚原卜伝
弟子で剣豪であり、また近習たちも猛者揃いであったが、余りにも多い
敵の数には、奮戦むなしく命を散らす結果となってしまった。
弟・義昭にも危険が迫り、細川藤孝ら幕臣とともに、若狭の武田義統
もとに逃れ、永禄9年 に朝倉義景を頼って越前に来る。光秀が細川藤孝
の家臣として義昭の足軽衆になる。事件の翌年永禄10年のことである。


悪事決行白い手袋はめながら  城後朱美





   浅井長政


【信長、岐阜を拠点とする】
永禄10年(1567)戦国時代も半ば、信長は美濃国を手中に収め、
岐阜を拠点とする。岐阜と京の間にあり、強固な基盤を築いていた戦国
大名・浅井長政に対し、信長は妹のお市を嫁がせて同盟を結ぶ。

【光秀、いよいよ歴史の表舞台に登場」
永禄11年、義昭の側近となった光秀は、周辺の些細な出来事まで信長
に報じている。こうした光秀の尽力が功を奏したのか、義昭は、7月に
信長の元に迎えられ、9月には、上洛に向け信長は、義昭を奉じて軍事
行動を開始する。いわゆる、この時期の光秀は、義昭の側近筆頭として
周囲から認知された証しである。


しゃっくりが止まらぬままに幕上がる  指方宏子





   朝倉義景


【信長、上洛】
永禄11年(1568)、室町幕府の再興を唱え、信長義昭を迎えて
上洛。15代将軍の座についた義昭は、恩賞として副将軍の地位を与え
ようとするが、信長は拒否。次第に将軍義昭をないがしろにし、権勢を
振るい始める。京に上った信長は、諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶を
するために、京に馳せ参じることを命令するが、越前国を支配する朝倉
義景は信長の命令を無視する。
「上洛のエピソード」
『あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守が
信長に面会し、熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上すると申し出た。
すると信長は「お心はありがたいが、いずれ天下を取るであろうから、
それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言ったという。
赤沢加賀守は帰って皆にこのことを伝えたところ、「国を隔てた遠国か
らの望みで実現しまい」と大笑いしたという。しかし、それから信長が
足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった』『信長公記』


政論が大好物の天邪鬼  松浦英夫



「麒麟がくる」お妻木役は誰に?



【光秀、信長への仕官】
本来、義昭の側近であるはずの光秀が、信長にも仕えるようになった時
期は、厳密に不明である。事実『信長公記』の永禄11年9月の「義昭
信長の上洛」の箇所に光秀の名は記されていないが『細川家記』の記述
などから上洛の直前に仕えたとみるのが、適切と思われる。
信長への仕官に関連して、細川家の『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)
には光秀が細川藤孝に語ったとされる「我ら、彼室家に縁ありて、頻(
しき)りに招かれ」という話が収録されている。
彼は信長、室家は正室濃姫(帰蝶)。通常、濃姫の母である小見の方は、
光秀の叔母とされる。それが事実ならば、信長が正室の血族であり、有
能な光秀のスカウトを試みたとしても不思議はない。
(ただし近年は『多聞院日記』の天正9年(1581)8月21日条な
どを典拠として、光秀の妹・お妻木(ツマキ)が信長の側室だったとみ
る研究者が増えている。あるいは光秀に縁のある「彼室家」とは、濃姫
ではなくツマキのことなのかもしれない)


有情無情流し心に句読点  須磨活恵


「信長に非凡の才能を認められた光秀」
永禄12年春、信長明智光秀、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政の4人
に京都や周辺の政務を担当させた。4人による活動で、特筆すべきは、
「違乱停止」を命じている点である。信長は以上の4人とは別の5人
佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚)とを、交代で政
務を担当させていたことが判明している。いずれにしても、本来は義昭
の側近であり、信長の家臣としてまだ数年の新参者・光秀が信長の重臣
である長秀らと肩を並べて、重要な職務を任されている点は興味深い。
(違乱停止=法に違反し秩序を乱すこと)ここんも信長の名言がある。
『人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん』

受けて立つ覚悟が出来た武士の顔  槙坂政子




「麒麟がくる」浅井長政役未定


【信長、越前に侵攻】
永禄13年(1570) 4月20日、信長は3万の軍勢を率い越前に
侵攻。先陣を木下秀吉、信長盟友の徳川家康がつとめる。不意を打たれ
朝倉勢は壊滅状態となるが、浅井長政が朝倉方について信長に叛旗を
翻したために、信長の大軍は補給路を断たれて孤立。
「その時、信長の行動」
4月28日、信長は軍勢を残し、戦場から姿を消す。2日後、京の都に
姿を現し、かねてより命じていた御所の修理のようすを視察。その後、
本拠地岐阜へ舞い戻り、長政討伐の大号令を発して軍勢を招集。
「その時、織田軍の行動」
取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始、織田軍の殿(しんがり)
となった木下秀吉、徳川家康、明智光秀の3武将が一致団結、朝倉軍の
追撃をかわして、撤退の道を切り開く。


死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成




 光秀、信長の戦に活躍


【武将としての光秀】
永禄12年(1569)1月4日の「本圀寺の戦」を皮切りに、光秀は
翌元亀元年(1570)4月の「越前征伐」6月の「姉川の戦」9月か
らの「志賀の陣」に従事する。このうち越前征伐では金ヶ崎城に残留し、
秀吉とともに浅井・朝倉方の追撃を撃退した。
『実は『なお、金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれるこの戦いでは、
秀吉の活躍が強調されることが多いが、これは秀吉の軍功を過剰に強調
するべく、『太閤記』などの著者が光秀の働きを削ったからである。
実際には、光秀も浅井・朝倉方の撃退に軍功を挙げている。さらに若狭
の諸城を無力化させるといった、手際の良い手腕をみせた』


臨時ニュースキャベツの芯がえらいこと  雨森茂樹





  森可成


「その後の光秀」
元亀元年(1570)6月、 姉川の戦いでの勝利も束の間、浅井・朝倉
は9月に森可成が守る宇佐山城へ猛攻を加え、可成を討死に追い込む。
 天王寺方面にいた信長はすぐさま反転して、敵方の京都侵入を防ぐが、
敵方はなおも隙あらば京都へ攻め入る構えをみせた。
そこで信長は、光秀らを山城勝軍山城へ入れて警戒させたが、敵方が撤
退した後、討死した可成にかわる宇佐山城主に光秀を抜擢している。
無論、光秀が抜擢されたのは、4月の越前遠征以来の軍功が評価された
ものである。さらに同2年9月に信長は、悪名高い「叡山焼討」を敢行
するが、焼討後、没収した比叡山、日吉神社の領地を光秀や佐久間信盛
に与えている。そして、信長は防護力に弱い宇佐山城を廃城とした上で
本格的な城郭近江坂本城を構築するように光秀に命じる。
(因みに、森可成は森蘭丸の父である)


ト書きにはここで「クシャミ」と書いてある 
                         嶋沢喜八郎


  五カ条の条書



「五カ条の条書」
義昭が将軍になって2年後の永禄13年4月(元亀に改元)正月23日
の日付で、信長は義昭に1通の条書を出した。
1、「御下知の儀、皆以て御棄破あり」
(これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること)
1、「天下の儀、何様にも信長に被任置」
(天下のことは、すべて信長にまかせること)
要するに、義昭の行動を監督下に置こうとしたものである。
1、「諸国へ御内書を以て、仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞かせ
られ、書状を添え申すべきこと」

(諸国への御内書を送る場合は、信長の添状を副えること)
1、「公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞、御褒美を加えられたく候
と雖も、領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、上意次第に
申し付くべきのこと」

(忠節の者に恩賞を出すにも所領のない場合は、信長が提供する)
1、「天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事」
(禁中のことは、丁重にしなければならない)


瓢箪を磨いていると葉書あり  高野末次


信長義昭の政治行動を制限する「五カ条の条書」を突き付けたとき、
光秀は朝山日乗とともに証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せることを、義昭に誓わせた文書に光秀が署名
したということは、とりもなおさず、光秀が信長の天下取りを支持する
立場を明確にしたことを意味する。
さらに、翌2年末頃と推定される自筆消息で、光秀は義昭に「御暇を賜
りたい」旨を申し出ている。この直前、光秀は信長から近江坂本城主に
任じられており、織田家中でも、別格の扱いを受け始めていた。
ここに至って光秀は、将来性の乏しい義昭と訣別し、信長の将来にかけ
ることを決意したと思われる。


語尾に付く笑いはきっと護身術  下谷憲子





   足利義昭


「義昭のあがき」
元亀3年(1572)4月の河内出兵の際の軍事編制では、信長方の
久間信盛・柴田勝家らと別に、光秀の名が「公方衆」としてあげられて
いる。信長義昭の2人の主君を持つところに、他の織田家臣とは異な
る光秀の特殊な立場があった。
元亀4年2月、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、義昭が挙
兵すると光秀は、公方衆の拠る近江石山城・今堅田城を攻撃して、反義
昭の姿勢を明確にした。そして、同年7月、義昭は槙島城の戦いに敗れ
「室町幕府は滅亡」、光秀はようやく両属関係に終止符を打った。
一方、義昭は復讐心に燃え、全国の大名「信長打倒」を呼びかけた。
義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携して、
信長包囲網を形成。3年に亘り、各地で激しい合戦が相次いだ。
信長名言『恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる』
              
近日「進撃の信長」-2へ続きます。


理想論だったと思う今思う  津田照子

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