- 2018/12/13
- Category : 雑学
西郷どんー㉟
にんげんは風を起こしてかき混ぜて 森井克子

城 山 の 戦 い
「西郷どん」 私学校②-西郷の城山
明治10年2月6日、作戦会議が行われ、具体的な進攻案が議論
される中、熊本鎮台司令長官の前歴を持つ、桐野利秋の主張する
「このたびの出兵は大義を天下に天下に問う義戦であり、奇襲戦
法は義兵の名を辱める。相手はとるに足らない農兵であり、鎮台
がたとえ百万の軍隊をもって対抗するも一蹴するのみ」という意
見で一致し、熊本攻めが決定した。そして2月15日、1万3千
の藩軍は、上京訪問の名目で鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本
城へ向かった。同22日、薩軍は総攻撃をかける。守勢になった
政府軍3千5百人は、熊本城に籠城を決意する。
熊本城は加藤清正が実戦に備え造った城である。周辺は見通しが
効き120ある井戸は常に水をたたえ、畳はかんぴょうや芋作る
など、籠城対策にも充分であった。
モアイ像の一つになっている時間 竹内ゆみこ
「熊本城など青竹棒でひとかき」と気勢を上げた薩軍だったが、
続々と送り込まれる援軍や物量、そして通信網を駆使した政府軍
に、薩軍は次第に追い込まれていった。この戦闘中、雨が多く、
「薩軍に困るもの3つあり、一つに雨、二つに赤帽、三つに大砲」
とうたわれたが、薩軍の先込銃は雨に弱かった。
政府軍の主力小銃は、後装式のスナイドル銃で雨に強かったが、
薩軍の主力銃は、エンフィールド銃で火薬入れを持ち歩かねばな
らなかった。政府は抜刀隊を投入して戦機を好転させ3月20日
に総攻撃を仕掛けた。田原坂の薩軍を前後から挟み撃ちにする作
戦に出て、これが成功を収め、熊本戦線はついに17日におよぶ
激闘に終止符がうたれたのである。
原罪を詫びてリンゴの皮を剥く 岡谷 樹
北と南で敗れた薩軍8千に対し政府軍は3万の兵力になっていた。
肥後平野で行われた城東の合戦で薩軍は保田窪(ほたくぼ)健軍
で有利に戦いを進めたが、御船では大敗し、天然の要害、人吉に
集結して再起を図ろうとした。過酷な山越えをおこない人吉に集
結したが、結局、政府軍は7方向からこれをこれを攻略する。
士気の下がっていた薩軍はあっさりと敗走した。
人吉陥落後、薩軍は都城に再結集したが、政府軍は包囲網を築い
て追い詰めていく。ついに都城が陥落すると、薩軍3千名は佐土
原、高鍋、美々津と敗走し、本営の延岡も陥落する。延岡を奪還
しようと延岡の北方にある和田越に布陣する。ここで西郷自らが
初て陣頭指揮に立った。対する政府軍は5万の大軍になっていた。
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多勢に無勢あえなく和田越の戦いにも敗れて、西郷は全軍に向け
解散令を出した。これ以上、負け戦に若者の命を費やすことに耐
えられなかったのである。ここに薩軍に呼応して参加した各地の
士族隊は次々と投降したが、私学校党の600名は西郷と運命を
共にすることにした。
しかし周りの山々は政府軍が厳重に包囲しており、袋のネズミ状
態であった。そこで辺見十郎太や河野主一郎は、標高728㍍の
可愛岳(えのだけ)を突破することを提案する。
しかし可愛岳は断崖絶壁の天険で、足腰の強い薩摩人も震え上が
るほどのとこである。
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8月17日午後10時に山越えを決行、闇夜の行軍は困難を極め
た。西郷も駕籠から降りて急斜面をよじ登ったが「よべ(夜這い)
のようだ」と言って、周りを笑わせたという。翌朝4時に頂上北
部に到着したが、政府軍は「まさか可愛岳を越えてこないだろう」
とすっかり油断していた。その隙をついたのである。ラッパを吹
き鳴らして突撃してくる薩軍に、政府軍は不意を衝かれ慌てて退
却した。この時、政府軍が放棄した食糧、銃器、弾薬、砲一門の
奪取に成功している。薩軍は可愛岳を突破し、その後も艱難辛苦
の行軍を繰り返して、奇跡的に逃げのびた。
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彼らを支えたのは、西郷への崇敬心と薩摩隼人の誇りだった。
そして望郷の念もあったか、故郷鹿児島に戻ってきた。
しかし、やがて城山に追い詰められていく。立て籠もった薩軍は
総勢372名、それを包囲する政府軍は5万で、ネズミ一匹通さ
ない厳戒態勢であった。籠城は20数日にも及んだ。
薩軍は城山の岩崎谷に11個の洞窟を掘って応戦した。
薩軍諸将は西郷の助命を模索したが、時期遅く政府軍の総指揮官
山形有朋から、自決を勧告する文書が送られてきた。9月24日
それが政府軍総攻撃の日であった。前日の夜、西郷を囲んで諸将
が決別の宴を催した。明日の定めを知り、大いに酒を酌み交わす。
全員討死を決意し、斃れるまで戦い続けることを誓いあった。
24日午前4時、総攻撃が開始される。午前6時、岩崎谷の洞窟
の前に西郷、桐野、村田、別府、辺見ら40数名が集結した。
谷を下り、岩崎谷の入り口で全員斬り死にし、有終の美を飾るた
めである。銃弾が飛び交う中を突撃したが途中、桂久武が銃弾を
受け落命。「この辺りでどげんでしょう」と辺見は自刃を問うた
が、西郷は「まだまだ」と答えている。しかし島津応吉邸の前で
西郷の身体を銃弾が貫いた。腹部と股部に銃弾を受けた西郷には、
もう立ち上がる力は残っていなかった。
「晋どん、もうここでよか」側近の別府晋介に告げ、西郷は襟を
正して皇居の方向に遥拝した。
介錯を頼まれた別府も足に重傷を負っている。
それでも「先生、ごめんやってもんせ」と呟くと、最後の力を振
り絞って刀を振り下ろした。
西郷隆盛51歳。維新の巨星の壮絶な最期だった。
喪の席に着信音が鳴り響く 赤松ますみ
【付録】 司馬遼太郎の一言
西郷という、この作家にとってきわめて描くことの困難な人物を
理解するには、西郷にじかに会う以外になさそうにおもえる。
われわれは他者を理解しようとする場合、その人に会ったほうが
いいというようなことは、まず必要はない。
が、唯一といっていい例外は、この西郷という人物である。
星がひとつ運河を突き抜けていく 徳山泰子









