ハンガーに下がったままのうしろ髪 みつ木もも花
「西郷どん」 大久保との別れ
明治7年1月9日付けの旧庄内藩士・酒井玄蕃の筆記がある。鬼玄蕃
といわれた酒井は、庄内藩が西郷に傾倒して、藩主以下、次々と鹿児
島を訪れる中で、「明治六年の政変」で下野してまもなくの西郷を訪ね、その談話を筆記したものである。「荘内藩士酒井了恒(玄蕃)、
栗田元輔、伊藤孝継の三人、菅氏の旨を受け、鹿児島に赴き、辞職後
の意中を問ひ、征韓論議の顛末を徴取するを得た」と始まり「此の直
話は・・・」へと続く。そこには征韓論をめぐるナマナマしい真相を
あきらかにすると同時に、西郷の胸中が面々と綴られている。西郷が
征韓論者ではなかったと、勝海舟も『清譚と逸話』の中で述べているが、この後のページで紹介したい。
地図にない島です花は咲いている 津田照子
西郷の征韓論である。西郷は「遣韓論」として、単身乗り込んで相手
と交渉することに自信を持っていた。例えば、勝海舟とやってのけた「江戸無血開城」である。だから韓国へも丸腰で行くと主張していた。この点にブレはない。ではなぜ、その問題を巡って紛糾し「明治六年
の政変」となったのか。西郷は、声高に征韓を主張していない。三条
実美に送った手紙の末尾には、「只今私共事を好み、みだりに主張する論にてはこれなく・・・断然使節を召し立てられ、彼の曲分明に公普すべき時、何卒私を遣わされたく、決して御国辱を醸し出し候は万々これなく候につき、至急ご評決成し下されたい」と希望を表明している。
シーソーに蓄積された片想い 渡邊真由美
ところが三条は西郷の手紙の前半の内容の方を重視し、西郷を「征
韓即行論者」と思ってしまった。その文面とは「朝鮮の一条、ご一
新涯より御手をつけられ、もはや五六年にも相立ち候わん。然る処、
最初親睦を求められ候儀にてはこれある間敷、定めてご方略これあり
たる事と存じ奉り候。今日彼が驕誇侮慢(きょうこぶまん)の時に至り、始めを変じ因遁の論に渉り候ては、天下の嘲りを蒙り、誰あって
国家を隆興すること得んや」とある。この文意は、まず三条の意向を
さぐり、西郷は対朝鮮強硬論に傾いているように見せるものであった。自分を使節に決めさせるための脅しみたいなものであった。三条は元
来、生真面目な性分だけに、この征韓論が廟議にかけられてこのかた、痛々しいほどに痩せてしまった。まともな思考のできる状態ではなか
った。この部分で三条は西郷が征韓論者であると流布してまわった。
雨戸は開かないし時々鋸が響く 島田握夢
西郷が一見人が変わったように健康に気をつけはじめたのも、征韓論という一大希望を、国家と自己の人生の向こうに見出したからであった。西郷にとって生死の問題であった。だが、この西郷の悲壮感が大久保との亀裂を生むこととなる。幕末での西郷・大久保は、一対のものであった。ところが維新後、新国家建設の段階になると、互いにこれほど違った政治的体質をもったものも稀ではないかと気づくようになった。図式的にいえば、大久保のもとに新官僚群が集まっている。西郷のもとに意気と気概のある壮士的気分の者たちが、風を慕って集まっていた。両人とも徒党をなすことを意図しなかったが、自然に党派ができた。
鐘の鳴る方へ傾く陽も月も 嶋沢喜八郎
大久保が帰国した早々、西郷はしきりに大久保の邸に遊びに来た。そこで西郷は自分の西洋観を語った。「西洋は遠近を攻伐しあって今日の盛大を築いた。武を恐れては国家は成り立ちませぬぞ。一蔵さァ」と征韓論をいうのである。大久保は、にべもなく、西郷の議論に反対した。大久保はこの点、一歩も退かなかった。それには西郷もあきれ「尊王攘夷の一蔵が、ひとたび天下をとると、ああも腰抜けになるものか」とはたの者にこぼした。大久保の方も又、西郷の頑質にあきれ「吉之助さァは、ああいう物分かりの悪い人ではなかった。どうかしたのではないか」と思った。ただ両人の悲劇は、立場が立場だけに天下を二分する議論になってしまっていることだった。
顔よりも尻尾こんなに物を言う 竹内いそこ
大久保は、西郷のその頑質こそ国家を亡ぼすものと思った。これを何
とか阻止しようとした。仲間が帰ってくるまで政治活動を起こさなかったが、しばしば「西郷は困ったもの」と、大久保は訪欧中の薩人たちに書き送った。たとえば西郷の従弟で幕末には西郷の手足になって働いた大山巌が、このころ陸軍少将の身分を捨て、一書生としたフランスに留学中だったが、大久保はこれに対し、「国家のことは、一時的な奮発とか暴挙とかでもって愉快を語るものではありません」と、暗に西郷のことを語っている。この後、大久保は東京を離れることにした。東京にいては人が訪ねてくる。もし会えば多少の意見を述べねばならぬかも知れず、意見を述べれば拡大されえ世間に聞こえ、西郷ら征韓派を無用に刺激せぬとも限らないからである。大久保は8月16日に東京を発った。その夜には、温泉に浸かっていた。
初めからミシン目の付いていた二人 松島巳女
イケメン藩主・酒井忠篤
【付録】 庄内藩の忠義
庄内藩は譜代の名藩であり、幕府から江戸市中警護を命じられ慶応3
年(1867)末には江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしている。
この時、薩摩藩士40数名が死んでいる。戊辰戦争では会津藩ととも
に激しい抵抗を行った。
よって鶴岡城が接収された時、藩主も家臣も報復による厳しい処罰を
覚悟していた。だが官軍参謀の黒田清隆は、軍門に下った庄内藩主を
丁重に待遇した。家臣たちは予想もしなかった寛容な処置に感激し、
明治2年菅実秀(すげさねひで)が上京して黒田を訪ね、礼を述べた。
その時「寛大な処置は西郷の指示」だったことを知り、西郷の温かい
人柄に心打たれたのだった。翌年の秋、謹慎が解けた旧藩主の酒井忠
篤(ただすみ)は藩士70数名と共に鹿児島を訪れ、西郷の教えを受
けた。西南戦争が起こったときも多くの庄内藩士がいたが、西郷は、
彼らを巻き込みたくないと国に帰した。それでも、数人の庄内藩士が
西南戦争に参加し、戦死を遂げている。
ボクの今あなたの胸が現住所 ふじのひろし
[3回]
PR