にんげんは風を起こしてかき混ぜて 森井克子
城 山 の 戦 い
「西郷どん」 私学校②-西郷の城山
明治10年2月6日、作戦会議が行われ、具体的な進攻案が議論
される中、熊本鎮台司令長官の前歴を持つ、桐野利秋の主張する
「このたびの出兵は大義を天下に天下に問う義戦であり、奇襲戦
法は義兵の名を辱める。相手はとるに足らない農兵であり、鎮台
がたとえ百万の軍隊をもって対抗するも一蹴するのみ」という意
見で一致し、熊本攻めが決定した。そして2月15日、1万3千
の藩軍は、上京訪問の名目で鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本
城へ向かった。同22日、薩軍は総攻撃をかける。守勢になった
政府軍3千5百人は、熊本城に籠城を決意する。
熊本城は加藤清正が実戦に備え造った城である。周辺は見通しが
効き120ある井戸は常に水をたたえ、畳はかんぴょうや芋作る
など、籠城対策にも充分であった。
モアイ像の一つになっている時間 竹内ゆみこ
「熊本城など青竹棒でひとかき」と気勢を上げた薩軍だったが、
続々と送り込まれる援軍や物量、そして通信網を駆使した政府軍
に、薩軍は次第に追い込まれていった。この戦闘中、雨が多く、
「薩軍に困るもの3つあり、一つに雨、二つに赤帽、三つに大砲」
とうたわれたが、薩軍の先込銃は雨に弱かった。
政府軍の主力小銃は、後装式のスナイドル銃で雨に強かったが、
薩軍の主力銃は、エンフィールド銃で火薬入れを持ち歩かねばな
らなかった。政府は抜刀隊を投入して戦機を好転させ3月20日
に総攻撃を仕掛けた。田原坂の薩軍を前後から挟み撃ちにする作
戦に出て、これが成功を収め、熊本戦線はついに17日におよぶ
激闘に終止符がうたれたのである。
原罪を詫びてリンゴの皮を剥く 岡谷 樹
北と南で敗れた薩軍8千に対し政府軍は3万の兵力になっていた。
肥後平野で行われた城東の合戦で薩軍は保田窪(ほたくぼ)健軍
で有利に戦いを進めたが、御船では大敗し、天然の要害、人吉に
集結して再起を図ろうとした。過酷な山越えをおこない人吉に集
結したが、結局、政府軍は7方向からこれをこれを攻略する。
士気の下がっていた薩軍はあっさりと敗走した。
人吉陥落後、薩軍は都城に再結集したが、政府軍は包囲網を築い
て追い詰めていく。ついに都城が陥落すると、薩軍3千名は佐土
原、高鍋、美々津と敗走し、本営の延岡も陥落する。延岡を奪還
しようと延岡の北方にある和田越に布陣する。ここで西郷自らが
初て陣頭指揮に立った。対する政府軍は5万の大軍になっていた。
感情を製氷皿に注ぐ夜 渡邊真由美
多勢に無勢あえなく和田越の戦いにも敗れて、西郷は全軍に向け
解散令を出した。これ以上、負け戦に若者の命を費やすことに耐
えられなかったのである。ここに薩軍に呼応して参加した各地の
士族隊は次々と投降したが、私学校党の600名は西郷と運命を
共にすることにした。
しかし周りの山々は政府軍が厳重に包囲しており、袋のネズミ状
態であった。そこで辺見十郎太や河野主一郎は、標高728㍍の
可愛岳(えのだけ)を突破することを提案する。
しかし可愛岳は断崖絶壁の天険で、足腰の強い薩摩人も震え上が
るほどのとこである。
人間は一人ぼっちが苦手です 能勢良子
8月17日午後10時に山越えを決行、闇夜の行軍は困難を極め
た。西郷も駕籠から降りて急斜面をよじ登ったが「よべ(夜這い)
のようだ」と言って、周りを笑わせたという。翌朝4時に頂上北
部に到着したが、政府軍は「まさか可愛岳を越えてこないだろう」
とすっかり油断していた。その隙をついたのである。ラッパを吹
き鳴らして突撃してくる薩軍に、政府軍は不意を衝かれ慌てて退
却した。この時、政府軍が放棄した食糧、銃器、弾薬、砲一門の
奪取に成功している。薩軍は可愛岳を突破し、その後も艱難辛苦
の行軍を繰り返して、奇跡的に逃げのびた。
格子の向こう花魁ですか神ですか 安土理恵
彼らを支えたのは、西郷への崇敬心と薩摩隼人の誇りだった。
そして望郷の念もあったか、故郷鹿児島に戻ってきた。
しかし、やがて城山に追い詰められていく。立て籠もった薩軍は
総勢372名、それを包囲する政府軍は5万で、ネズミ一匹通さ
ない厳戒態勢であった。籠城は20数日にも及んだ。
薩軍は城山の岩崎谷に11個の洞窟を掘って応戦した。
薩軍諸将は西郷の助命を模索したが、時期遅く政府軍の総指揮官
山形有朋から、自決を勧告する文書が送られてきた。9月24日
それが政府軍総攻撃の日であった。前日の夜、西郷を囲んで諸将
が決別の宴を催した。明日の定めを知り、大いに酒を酌み交わす。
全員討死を決意し、斃れるまで戦い続けることを誓いあった。
落城の前に献血しておこう くんじろう
城 山 の 西 郷
24日午前4時、総攻撃が開始される。午前6時、岩崎谷の洞窟
の前に西郷、桐野、村田、別府、辺見ら40数名が集結した。
谷を下り、岩崎谷の入り口で全員斬り死にし、有終の美を飾るた
めである。銃弾が飛び交う中を突撃したが途中、桂久武が銃弾を
受け落命。「この辺りでどげんでしょう」と辺見は自刃を問うた
が、西郷は「まだまだ」と答えている。しかし島津応吉邸の前で
西郷の身体を銃弾が貫いた。腹部と股部に銃弾を受けた西郷には、
もう立ち上がる力は残っていなかった。
「晋どん、もうここでよか」側近の別府晋介に告げ、西郷は襟を
正して皇居の方向に遥拝した。
介錯を頼まれた別府も足に重傷を負っている。
それでも「先生、ごめんやってもんせ」と呟くと、最後の力を振
り絞って刀を振り下ろした。
西郷隆盛51歳。維新の巨星の壮絶な最期だった。
喪の席に着信音が鳴り響く 赤松ますみ
【付録】 司馬遼太郎の一言
西郷という、この作家にとってきわめて描くことの困難な人物を
理解するには、西郷にじかに会う以外になさそうにおもえる。
われわれは他者を理解しようとする場合、その人に会ったほうが
いいというようなことは、まず必要はない。
が、唯一といっていい例外は、この西郷という人物である。
星がひとつ運河を突き抜けていく 徳山泰子
[4回]
PR