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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鼻をみただけで飲兵衛だと分かる  新家完司

(画像は拡大してご覧下さい)

「戦国四方山話ー③」

「幸村は焼酎好きだった」

酒には大きく分けて「醸造酒」「蒸留酒」がある。

焼酎はウイスキーやブランデーと同じ蒸留酒である。

焼酎の正確な起源は分かっていないが、

11世紀頃には、中東や東南アジアなどで作られていたといわれている。

日本に伝わったのは14~15世紀頃と考えられ、ルートには諸説ある。

一つはシャム(タイ)から琉球経由で日本全土にもたらされたとする説。

琉球と交易があった朝鮮王朝の歴史書・『李朝実録』に、

15世紀後半に、すでに琉球に蒸留酒があったことが記されている。

発酵は爪の先から始った  立蔵信子

一つは、15世紀の初めに朝鮮の太宗から対馬領主・宗貞茂

送られた焼酎があり、やはり「李朝実録」にその記述が見られるという。

スペインの宣教師・フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)

布教のために初めて日本の地を踏んだが、その3年前、

ポルトガルの商人・ジョルジュアルパレスが薩摩を訪れている。

アルパレスは、ザビエルの依頼で書いた日本についての報告書の中で、

日本人が米から作る蒸留酒「オラーカ」を飲んでいると記している。

オラーカは、アラビア語の焼酎を意味する「アラック」に由来する。

まばたき三回しっかり水気切りました 笹田かなえ

永禄2年(1559)の八幡神社(鹿児島県大口市)の改修工事の際に、

塗り込められた「焼酎」に関わる木片が見つかっている。

これが、「焼酎」の文字が使われた一番古い記録といわれている。

「永禄二歳八月十一日    作二郎
                     鶴田 助次郎

其時 座主ハ大キナこすでをちやりて 一度も焼酎ヲ不被下候。

何共めいわくな事哉」

(ここの主人は大変ケチで、一度もねぎらいの焼酎を一杯も飲ませて
 くれなかったと工事に関わった大工が愚痴って書いたもの)

※ この頃の焼酎は米焼酎で芋焼酎が出てくるのはこれから150年後。

焼酎の湯割りに塗す今日の瑕  通 一遍

真田幸村はよく知られている通り、関が原の戦いの際、

父親の昌幸と西軍に加わり信州上田城で徳川秀忠と戦った。

本線で味方が敗れたため、父子ともに処刑されるところであったが、

東軍にいた兄・信之の奔走によって助命され、

高野山の麓・九度山配流された。


ここで慶長19年(1614)に大阪に入城するまでの年月を過ごすのだが、

その間、幸村から真田家に宛てた書状が何通か残っていて、

信之の家臣・河原左京という人に出したものがある。

空き部屋があります 頭の中心に  浜 知子

書状の主な内容は、「この壷に焼酎をつめて賜りたい」というものである。

「お手持ちがなければ、ついでのときで結構だが、壷の口をよく締めて、

   紙で貼って欲しい」 

などと細かい注文がある。


以前もらったときに、気が抜けてしまったことがあったのだろう。

追伸にも「焼酎の儀 頼み申し候」と再度の要望があり、

幸村は相当な焼酎好きであったようである

お月様を味わったのはどなたです  和田洋子

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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


「狸親爺」

「秀吉の枕元で家康が秀頼の補佐を約束したのは汚い。腹黒いやり方だ」

と、よく言われることがある。

「家康狸親爺説」がそんなところから出てくるわけだが、

豊臣家および三成サイドに立てば、それが正論だろう。

しかし家康にしてみれば、高い器量のある秀吉だから臣従したのであって、

実力ある者が天下を盗るという戦国の習いに照らしてみれば、

「秀頼より自分が上」という意識があった。

従って、戦国は終わったと考える三成と、

戦国はまだ続いていると考える家康の意識のずれが、

関が原の戦いを呼び込んだと考えられる。

身のうちに白の領分黒の領分  雫石隆子

家康が戦で仕掛ける取り口は、いつも「いいがかりをつける」である。

その矛先が上杉景勝であった。

三成が佐和山へ蟄居させられたのを目の当たりにした景勝は、

直江兼続とともに、8月初旬に京を発ち、22日に会津に帰国した。

そして領国の仕置きを表向きの理由に、翌慶長5年(1600)2月にかけて、
             こうざし
兼続に命じて新たに神指城を築城、領国内の城の普請や道路整備を行い、

武器を調達し浪人を召し抱えた。

これは明らかな戦闘準備であると家康は考えた。

加えて越後の堀秀治・出羽の戸沢政盛が、「景勝に謀反の企てあり」

との
報告が家康のもとに届く、さらに景勝の重臣・藤田信吉が、

兼続と対立して家康のもとへ出奔し、「謀反の気配」とちくった。

あなたとの境にゴーヤ植えている  寺島洋子

この頃、家康は秀吉未亡人・北政所に代わり、大坂城西ノ丸に入り、

政務を執るようになっていた。
                                 さいしょう じょうたい
そこで家康は「ここぞ」とばかりに、
京都豊光寺の僧・西笑承兌を通じて、

慶長5年4月1日付で、
景勝に書状を送りつけ上洛を促した。

この家康の書状に真っ向から挑んだのが、直江兼続である。

彼は返書として激越な文言の書状をしたため、家康に送り返した。

これが「直江状」である。

家康は重ねて景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝は拒否、

ここに正式に「豊臣家への謀反」を理由とした会津討伐が決定する。

朱の紐を引っぱり修羅へ直線に  上田 仁

景勝は出羽・仙道方面の守備を厳重にし、迎撃体勢を構築した。

一方、家康は6月18日に伏見城を発ち、江戸城にて再度軍議を開いた後、

7月21日、江戸を発ち会津へと向かう。

会津では景勝が仙道諸将に檄を飛ばして決戦の意を固めさせ、

8千の兵を率いて長沼に陣して家康を待った。

しかし、家康は会津へは来なかった。

石田三成「打倒家康」に向けて決起したからである。

伏見城将・鳥居元忠から、その報が家康に届いたのは、

7月24日、下野小山に着陣した日である。

世にいう小山評定といわれる軍議を開き、家康は軍を西へ取って返した。

上杉征伐への出陣は、三成に仕掛けたみせかけの罠であり、

それにまんまと引っかかった三成であった。

敵と味方に埃を分けなさい  酒井かがり

「直江状」(新潟県立歴史博物館蔵)

上杉家が軍備増強や領内の整備、城の改築したことに対し、
「謀反の兆しあり」と家康が言いがかりをつけてきたことに対する返書。

「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ、

色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、

どんな間違った風説がたとうとも何ら不思議ではない。

また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を

一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。

景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、

およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、

我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具をととのえ、

人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。

道を整え河川を修復するのは、領民のため以外に何があろう。

一国の領主として当然のことではないか。

それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?

前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。

我々は心ない人々の告げ口に、

いちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。


このような理不尽なことでわれらを咎められるおつもりならばそうされよ。

いつでもお相手をいたそう」

不本意なカウントダウンさせられる  山口美千代

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臍は出すもの心は奥に仕舞うもの  河村啓子


  天正大判
1588年に豊臣家より発行された大判。純金165gで作られており、
戦国後期には非情に珍しかった。
江戸時代には慶長大判と並行して使われていた。


「戦国よもやま話ー②」

「高台院と三成」

豊臣秀吉の正室・高台院。秀吉が没し、未亡人になってからの彼女は、

石田三成と仲が悪く、「関が原の戦い」でも、東軍の加藤清正らと

通じていた
とされているが、近年、この解釈に疑問が唱えられている。

通説では豊臣家の将来を見かねた高台院が、徳川家に頼って

生きていくことに決め、加藤清正福島正則、小早川秀秋らに

関が原の戦いで東軍に加担するように仕向けたとされている。

これで豊臣政権を守るために挙兵した三成の立場をなくしたわけだ。

だが昨今、高台院X三成親密説が浮上してきているのだ。

2人が親密だった論拠はいくつかある。

かもめーる ほんとのことは積み残す  岡谷 樹

まず、三成の娘が高台院の養女になっていたこと。

険悪な仲であればこの関係は考えにくい。

次に、高台院の甥、兄弟の多くが西軍として関が原の戦いに参加し

領地を没収されていること。

高台院が東軍に通じていたとするなら、秀秋以外の救済にも、

手を回しただろう。


そして、親密だったとされる高台院と東軍の加藤清正の関係だが、

これも信憑瀬のある資料はない。

臍の緒が鼠の餌になっていた  新家完司

では何故、不仲説が流れていたのか。

それは徳川幕府成立後に、「三成を悪人に仕立て上げよう」とする

動きが、あったことに起因している。

豊臣家滅亡後もその存在を認められていた高台院に対し、

三成は徳川家に生涯刃向い続けた人物。

三成を悪とし高台院と不仲だったことにすれば、

都合がよかったのである。

1トンの四角い夢にうなされる  井上一筒

「直江兼続と伊達政宗」

上杉家家臣として上杉景勝の側近を務めていた直江兼続は、

家康を激怒させた
直江状」の筆者としても有名で、

真面目で義と愛に篤い人物だった。


対して政宗は伊達家から奥羽きっての戦国大名にのし上がった人物で、

華美な様相を好む派手な男だったと知られる。

いかにも噛み合わなそうなこの2人、やはりというか実はというか、

仲の悪さを示すエピソードをいくつか残している。

その時代嘘は手頃な値であった  中野六助

兼続が景勝の代理として大坂に上った際、

大名が集まる間で政宗が大名たちに「天正大判」を見せびらかしていた。

やがて兼続のもとにもそれが回ってきたが、

兼続はそれを素手では触らず、
開いた扇子に乗せて眺めていた。

それを見た政宗は兼続が遠慮しているのかと思い、

「苦しゅうない、手に取られよ」
と声をかけるが、

兼続の口から返ってきたのは、とんでもない言葉だった。


「ご冗談を、不肖兼続の右手は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。

   左様に不浄なものに触れるわけには参りません」

そうして兼続は、その大判を政宗の膝元に投げて返したという。

手始めに青首大根真っ二つ  安土里恵

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はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる



「戦国よもやま話」

「島左近とは」

石田三成が、島左近を含む大名たちを引き連れて大坂城天守に登り、

そこから四方を見渡し、城下の繁栄を見て言ったとされる言葉がある。

「天下擾乱の時、大器で知謀に優れた秀吉公が出て群雄を次々と従え、

五畿七道を掌握なされた。

今もなおこのように繁栄し、民の喜ぶ姿が見られ、またその歓声を聞く。

秀頼公の永世を祈らぬ者などいるはずがない」

これを聞いた大名たちは口々に「その通りだ」と同調した。

金平糖ほどの角なら二つ三つ  山本早苗

しかし、三成の重臣・島左近は、佐和山に帰ってから三成に言った。

「そもそも権力者の所在地には、昔から身分を問わず人は集まって参ります。

つまり、たとえ繁栄していると言えども、必ずしもそれは権力者の人徳に

よるものとは限りません。

人々は利のある方に就くというだけなのです。

城下を二、三里も離れないうちに、雨も満足にしのげない茅屋が建ち並び、

衣食も十分とは言えず道に倒れて餓死する者も多くいます。

今、豊臣家は安穏としているときではなく、御家安泰の道を武備にだけ

頼るのはいけません。

流れ星だからって甘えるんじゃない  前中知栄

まず将士を愛し、庶民を撫してその心を悉く掴むときには、

二心を抱く者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、たとえ力を頼んで

謀反する者が出ても、一檄を飛ばせばたちまち秀吉公恩顧の将士が馳せ

集まって逆賊は或いは降伏し、或いは誅されるでしょう。

これを頭に入れず、ただ城下の繁栄に驕り下々の憂苦を思わず、

武備にのみ力を注ぎ城壁塹壕の補修のみ行っても、徳や礼儀をもって、

その根本から培養していかないと、甚だ危険なことになります」

この言葉を重く三成が受け止めておれば、もう少し長く生きれた。


原罪のあさきゆめみし合歓の花  森田律子

「島左近とは」
              しま きよおき
通称・島左近、実名・島清興島(勝猛、友之、清胤、昌仲とも名乗った)

筒井順慶、定次に仕え、豊臣秀長・秀保に仕え、関一政に仕えた。

順慶の子・定次が酒色に溺れ、政治をかえりみなかったので、

左近はその元を去り、流浪の果てに近江に赴き、江南の高宮の近くに

草案を営み、引き篭っていた。

その後、武名によって羽柴秀長に仕える機会を得、

朝鮮の役では秀長の子・秀保に従って戦功をあげ、

秀保の死後、石田三成の家臣になる。

このとき三成が左近に出した驚きの条件は禄高2万石を用意するであった。

三成は自身の禄高の半分を与えるから家臣になってくれと頼んだのである。

左近の実像は史料的に見えず、石田家臣としての存在自体にも懐疑的で

あったが、
近年発表の『石田三成文書』によって、

島左近が三成の重臣だったのは間違いない事が明確となった。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝



「本多正信」

本多正信は、元亀元年(1570)の「姉川の戦い」に参戦してのち、

家康の側近として抜群の信頼を得る。

その関係はしばしば「水魚」に例えられ、
家康は正信を「友」と呼び、

正信が帯刀して家康の寝室に、
入ってもいいと言われたほど。

また、正信には家康の考えていることが手に取るように分かり、

家康が欲しい反応を即応で見せることから、

海外の文献では、正信を超能力者であると指摘していることもある。

その活躍は、家康が豊臣政権によって与えられた新領地・関東の経営から、

秀吉没後から徳川家康が天下人になるまでに行われた謀略まで。

毛筆のかすれに悪意忍ばせる  嶋沢喜八郎

「方広寺鐘銘事件」のほとんどは正信が献策したものともいわれている。

1603年、徳川家康が初代将軍として江戸に幕府を開くと、

正信は家康の側近として国政に関わり、さらに二代・秀忠が将軍となると

秀忠付の年寄として幕政をリード、大坂の陣でも高齢の身をおして、

数多くの策を立てた。

とにかく家康は過剰なまでに信頼しており、

関ヶ原の戦後処理・家臣の叱責についても正信の助言に従っていたという。

その功績は大きかったが、一方、謀略・内政に携わるものの常として、

武将たちからの評判は悪く、彼らの嫉妬を避けるためか長く加増を望まず、

晩年にようやく2万2千石を受け取っただけだった。

権謀術数に精通し世渡り上手であった正信は、

「出る杭が打たれる」ことを、身を持って熟知していたからである。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

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タンポポが照らすこの世の底あたり  新家完司



「江戸川柳で綴る石田三成」

秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行頭の石田三成が対立します。

三成は秀吉によって発掘された人。

近江・長浜の在の寺の小僧をしていた時、秀吉が鷹狩りの帰途に立ち寄り、

お茶を所望したところ、佐吉と称していた三成が応対して、

最初は大きな茶碗に温かい茶を多めに、

次は中ぐらいの茶碗に少し熱い茶を半分くらい、

三杯目は小さな茶碗に熱い茶を少し点じて差し出しました。

これで効果的に喉の乾きは癒され、機転に感心した秀吉は、

佐吉を連れ帰り小姓として側に置きました。

「佐吉めは仕合わせ者」と和尚云い

三成は理財に秀で、太閤検地を取り仕切り、土面符という紙幣を発行し、

小田原攻めや九州征伐、朝鮮出兵では将兵の動員、食料輸送等の計画を

策定しました。

それは到底余人ではなし得るものではなく、

秀吉の全面的な信頼を受けて出世し、

温い茶でだんだんあつき御取り立

―あつき熱いと厚いの両意。

三成は豊臣政権の維持のため、天下取りの野心をちらつかす家康を

除こうとしました。 

家康にしてみれば、秀吉存命中に尾張の小牧・長久手の合戦ですでに

小牧山長く久しい御手柄

―長く久しいは長久手に利かせて。

豊臣氏に勝っているので、いつまでも天下を認めるわけにもいかず、

両者の緊張は日を追って度を増しました。

家康は三成の挙兵を促すために、上杉討伐を名目に京畿を離れました。

三成はチャンス到来とばかり毛利輝元、小早川秀家ら西国大名を糾合して、

慶長5年(1600)7月に挙兵。

家康は同年9月、三成が待ち受ける美濃の関が原に到着。

本来、豊臣につくはずの加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田長政、

藤堂高虎、など太閤の恩顧の大名たちは、三成に対する個人的な憎悪から

徳川に加担しました。

三成が朝鮮出兵などで、これら武将をアゴでつかったことが、

若衆から悪方に石田也

になってしまい、三成の盟友の小西行長も商人の出なので、

武闘派の加藤や福島からすると

小癪さは小西石田がくしゃみする

―小が両韻。癪とくしゃみが近似韻。

9月15日午前8時、東軍7万4千、西軍8万6千が関が原に集結して、

いよいよ天下分け目の火蓋が切られました。

ところが西軍の総大将の毛利輝元は大坂城から出てこず、

息子の毛利秀元、島津義弘、長曽我部盛親、小早川秀秋などの大大名は、

戦いに加わらず高見の見物。

攻め合いになると石田は皆掛け目

―掛け目は、碁盤の上の石は欠けてに

温い茶のようにはいかぬ関が原

それでも西軍の大谷刑部、島左近、真田幸村、宇喜多秀家、小西行長

など
が奮戦し激闘は4時間に及びましたが決着がつきません。

松尾山に陣を張る西軍の小早川秀秋が、どちらにつくかが分け目となり、

三成は西軍に加勢するよう盛んに使者を出して出撃を促すも動きません。

家康も自分に味方すると思っていた秀秋が、撃って出ないので豪を煮やし、

そこで松尾山に向けて鉄砲を撃ち込みました。

驚いた秀秋は1万7千の兵を西軍目掛けて突進させ、

これにより激戦は午後2時に終わりました。

尻から金と打たれて石田負け

裏返る金で石田の敗れ也

一句目の金は金吾中納言こと、小早川秀秋。

一句目二句目とも将棋の石田組という陣形にかこつけて。

松風に石も飛び散る関が原

―松風は徳川宗家の松平に利かせて。

御扇子は武運の開く旗印

―徳川の旗印は馬、跳躍するので「武運が開く」

秀吉の正室の寧々(ねね)は、秀吉の寵愛をほしいままにした淀君を、

よく思っていませんでした。

淀君とその子の秀頼を庇護する三成に対しても敵愾心を持ち、その分、

家康に好意的でした。

太閤恩顧の武将たちが家康についたのは、寧々の内々の工作で、

秀秋も彼女の意向を受けて、早くから家康に内応していました。

してみると、秀吉を巡る女の闘いが、関が原の勝敗を左右したといえ、

歴史とは意外、案外そんなものです。

天下を手中にした家康は寧々に感謝し、京都に桃山建築の贅をこらした

高台院という隠居所を建て住まわせ、彼女が76歳で天寿を全うするまで、

大名格の禄を与え遇しました。

関が原から行方をくらました三成は、近江の古橋で捕まり、

行長、安国寺 恵瓊とともに洛内外引き回しの上、六条河原で処刑されました。

夢でしたちょっと酸っぱい味でした  嶋沢喜八郎

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