- 2026/06/21
- Category : アルバム(風景)
ニュースー歴史・日本のナイチンゲール 大関和
前列真ん中にアグネス・ヴェッチ、両サイドの右に大関和、左に鈴木雅、
ネス・ヴェッチだった」(ドラマではバーンズ)
「朝ドラ・【風薫る】が面白い」
り返し、シーツ交換・掃除・換気とエプロン縫い・洋髪化など、地味な反復だ
けで看護の根幹を叩き込んでいく。生徒たちに陰で「天狗」「ナイチン地獄」
と呼ばれながら、半年後には日本語を披露して生徒を驚かせる。
この強烈なバーンズは、実在の人物をモチーフにしていると考えられる。
である。
ランドのエディンバラに生まれた。明治7年(1874)、設立されたばかりの旧エ
ディンバラ王立救貧院病院看護学校に第一期生として入学する。同校はロンド
ンの聖トマス病院に設けられたナイチンゲール看護学校の卒業生によって設立
された、いわばナイチンゲール方式の「分校」にあたる。
もち込んだ。『日本医史学雑誌』ゟ
病院、新エディンバラ王立救貧院病院で勤務。明治14年(1881)に自らの希望
で病院を退職し、宣教医をしていた兄を頼って清朝に渡った。
明治20年(1887)9月、日本政府の招聘を受け「お雇い外国人」として来日。
10月27日から帝国大学医科大学附属第一医院の嘱託として勤務し、看病法
講義と看病術実地練習を担当した。
属看護婦養成所の生徒たち。(看護婦という職業は現在では看護師と呼称され
1,空気を正常に保つ 2,病気の予防 3,患者の回復を助けるの文字が見える。
校付属看護婦養成所)のモチーフは、明治19年(1886)11月に設置された、
日本で3番目の看護婦養成所である。桜井女学校は、現在、中学受験で「女子
御三家」の一角とされる女子学院の前身のひとつで、明治9年(1876)創立。
ミッションスクールの先駆的存在だった。
院の看護教師として着任した。1年間、同病院で看護教育に当たる中、当時滞
日していた宣教師のメアリー・トゥルーが創設した桜井女学校からの大関和
(見上愛)や鈴木雅らの依託生を同病院の看護婦や副看護婦と合わせて指導し、
看護方法の講義のほか、西洋式の看病術を病院で実地に教授して、日本の看護
の近代化に大きく貢献した。
その1年で、彼女は日本最初のトレインド・ナース6人を含む看護婦28人を
育て上げ、ナイチンゲール看護を日本に根づかせた。明治21年(1888)10
月26日の卒業時の集合写真には、中央のヴェッチを挟むように、向かって左
隣に鈴木雅(ドラマでは直美)、右隣に大関和(りん)が並んでいる。
(現・慈恵看護専門学校)、明治19年に新島襄が同志社で開いた京都看病婦
学校があり、それぞれ、ナイチンゲール方式の教育を受けたアメリカ人看護婦
リード、リチャーズが指導にあたっていた。
看護婦養成所の舎監・松井エイ
設立翌年の明治20年(1887)秋。それまでの約1年、英語が堪能だった生徒・
峯尾えい(松井エイ)が臨時教師として、英語のテキストを訳しながら授業を
進めていた。実技に関わる範囲は、お手上げ状態だったというから、ドラマで
生徒たちが翻訳作業に苦戦する設定は実情に近い。
の通算2ヶ月。第一期生は8人。最年長は鈴木雅、次いで大関和。雅は夫を病
で亡くした未亡人、和は、黒羽藩家老の家に生まれ離婚を経た身。いずれも子
をかかえての挑戦だった。
大山捨松と和と雅
説得で入学を決意した。海外のトレインド・ナースに関する情報は、大山捨松
ら欧米帰りの女性たちからも得たとされる。ドラマで捨松(多部未華子)が看
護婦に偏見を持っていたりんたちの、背中を押す存在として描かれるのは、こ
うした史実の延長線上にある。
んでいくのが授業の根幹だった。看護史研究では、明治期の養成所で広く用い
られた教本のひとつとして、米国コネチカット看護学校編・『ハンドブック・
オブ・ナーシング』が知られ、その内容は、ナイチンゲール『看護覚え書』の
思想と多くの点で一致する。生徒たちにとって、英語の専門用語を日本語に置
き換える作業は、過酷だったが、それは同時に、ナイチンゲール思想を日本語
の体に通す最初の作業でもあった。
桜井の生徒たちを、第一医院で実習させる手配を事前に整えていたためで、
ヴェッチは、桜井と第一医院の両方を担うことになった。
「直美が授業を通訳」
第一医院に近い駒込西片町(現・東京都文京区西片)の借家を寄宿舎にして、
バーンズと生徒たちの共同生活が始まる。教師と生徒が一つ屋根の下で寝食を
ともにし、家事を分担しながら人格と協調性を育む。これがナイチンゲール方
式の核心であり、バーンズが、寮の家事まで生徒に踏み込んで指導する場面の
根拠でもある。
基礎教育を受けていない人がほとんどだった。日本において「教育を受けた看
護婦」はまだほぼ存在しなかったのだ。そこに、観察と記録、衛生と環境整備
を看護の柱に据える「ナイチンゲール方式」が持ち込まれた衝撃は、現代の感
覚で測れるものではない。バーンズが繰り返す「This is not nursing」の重さ
は、まずこの落差から発している。
た。骨と皮ばかりに痩せ衰え、室内には臭気が立ちこめる。施しようがないよう
に見える病室に、ヴェッチは平然と乗り込んでいった。
に清潔法を施す。痩せ衰えた病児を母代わりとなって日夜介抱する看護婦の姿に、
訪問した明治天皇の皇后(昭憲皇太后)も感動を抑えられなかったと、後に『昭
憲皇太后 附女四書』が伝えている。
チンゲール看護の二本柱を、ヴェッチ自身が現場で実演していたのだ。
栄誉を受けました。
ナースとなる。大関和は、皇后に看護法研究生総代として拝謁し、卒業後は、
そのまま第一医院の外科の看病婦取締(看護師長)に、鈴木雅は内科の看病婦
取締に就任した。
most officially and I consider her give to fitted to teach a class of nurse.
(鈴木さんは、通訳者としての仕事を完遂した。彼女は、看護教師としても
適している)」と署名入りで書き添えた。卒業時の集合写真でヴェッチが和
と雅を左右に座らせたのは、自らの弟子のなかでも特に優秀で、信頼を置く
二人を傍に置きたかったからだろう。
流暢な日本語を披露するが、史実のヴェッチが日本語を話せるようになった
形跡はない。本人なりに勉強し聴き取れる言葉も増えていただろうが、英語
と「実演」で看護の本質を伝えて去っていった、というのが実像に近いかも
しれない。
建議書を提出するが、医師たちに受け入れられず、第一医院を去る。
雅も明治24年(1891)に第一医院を辞し、慈善看護婦会(後の東京看護婦
会)を創設して、初の派出看護婦会を立ち上げた。
看護婦の質的向上と社会的地位の向上に生涯を捧げた。
の襲来する未曾有の困難な時代を経て、看護婦は「卑しい職業」から「なくて
はならない専門職」へと、社会の見方を一段ずつ押し上げていく。
戻り、昭和17年(1942)に100歳という長寿で世を閉じた。
というセリフは、ヴェッチが、日本で蒔いた種が、和や雅たちの手を経て、確か
に何百、何千の患者の手元に届いたことを思い出させる。
看護「技術」ではなく、患者の傍らに居る者としての「在り方」だったからにほ
かならない。




