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ニュースー歴史・日本のナイチンゲール 大関和

ニュースー歴史「看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール・大関和」




    桜井女学校の看護婦生徒とアグネス・ヴェッチ

前列真ん中にアグネス・ヴェッチ、両サイドの右に大関和、左に鈴木雅、
「日本で最初の看護婦を育てあげたのは、スコットランドから来たアグ
ネス・ヴェッチだった」(ドラマではバーンズ)




看護教師バーンズは、厳しい先生だった(エマ・ハワード)





「朝ドラ・【風薫る】が面白い」
生徒たちに「This is not nursing」(こんなのは看護になっていません)を繰
り返し、シーツ交換・掃除・換気とエプロン縫い・洋髪化など、地味な反復だ
けで看護の根幹を叩き込んでいく。生徒たちに陰で「天狗」「ナイチン地獄」
と呼ばれながら、半年後には日本語を披露して生徒を驚かせる。
この強烈なバーンズは、実在の人物をモチーフにしていると考えられる。
モデルはスコットランド・エディンバラ生まれの看護婦・アグネス・ヴェッチ
である。


「人物」
ナイチンゲール方式を学んだ才媛。ヴェッチは、天保13年(1842)、スコット
ランドのエディンバラに生まれた。明治7年(1874)、設立されたばかりの旧エ
ディンバラ王立救貧院病院看護学校に第一期生として入学する。同校はロンド
ンの聖トマス病院に設けられたナイチンゲール看護学校の卒業生によって設立
された、いわばナイチンゲール方式「分校」にあたる。
卒業時のヴェッチの成績証明書に残された評価は飛び抜けて高かった。
「性格は一番優れている。まったく正直、特別に優しく親切である。
彼女は病棟を家庭のようにする技術をもっている」
ヴェッチ自身が、「病棟を家庭のようにする」思想で育ち、その思想を日本に
もち込んだ。『日本医史学雑誌』ゟ
卒業後は、エディンバラ王立救貧院病院、続いてロンドンのセント・メアリー
病院、新エディンバラ王立救貧院病院で勤務。明治14年(1881)に自らの希望
で病院を退職し、宣教医をしていた兄を頼って清朝に渡った。
明治20年(1887)9月、日本政府の招聘を受け「お雇い外国人」として来日。
10月27日から帝国大学医科大学附属第一医院の嘱託として勤務し、看病法
講義と看病術実地練習を担当した。


明治19年(1886)に設立された日本で最初期の看護婦教育機関・桜井女学校付
属看護婦養成所の生徒たち。(看護婦という職業は現在では看護師と呼称され
(大関和・鈴木雅・桜川里以・広瀬梅・小池民・池田子尾の6名が記録に残る)





「ナイチンゲール方式を指導するヴェッチ(バーンズ)先生と生徒たち」
吊り下げ教示板には、
1,空気を正常に保つ 2,病気の予防 3,患者の回復を助けるの文字が見える


「中学受験で有名な女子校のルーツ」
ヴェッチを迎え入れた「桜井女学校附属看護婦養成所」(ドラマでは梅岡女学
校付属看護婦養成所)のモチーフは、明治19年(1886)11月に設置された、
日本で3番目の看護婦養成所である。桜井女学校は、現在、中学受験で「女子
御三家」の一角とされる女子学院の前身のひとつで、明治9年(1876)創立。
ミッションスクールの先駆的存在だった。
明治20年(1887)9月、日本に招かれて訪れ、翌月、帝国大学医科大学第一病
院の看護教師として着任した。1年間、同病院で看護教育に当たる中、当時滞
日していた宣教師のメアリー・トゥルーが創設した桜井女学校からの大関和
(見上愛)鈴木雅らの依託生を同病院の看護婦や副看護婦と合わせて指導し、
看護方法の講義のほか、西洋式の看病術を病院で実地に教授して、日本の看護
の近代化に大きく貢献した。





   休憩室でもバーンズ先生の訓示はあった。(左は松井エイ)



ドラマ・「風薫る」
来日からわずか1年1ヵ月。それがヴェッチが日本の地を踏んでいた全期間だ。
その1年で、彼女は日本最初のトレインド・ナース6人を含む看護婦28人を
育て上げ、ナイチンゲール看護を日本に根づかせた。明治21年(1888)10
月26日の卒業時の集合写真には、中央のヴェッチを挟むように、向かって左
隣に鈴木雅(ドラマでは直美)、右隣に大関和(りん)が並んでいる。
 先んじて明治18年に、高木兼寛が設立した有志共立東京病院看護婦教育所
(現・慈恵看護専門学校)、明治19年に新島襄が同志社で開いた京都看病婦
学校があり、それぞれ、ナイチンゲール方式の教育を受けたアメリカ人看護婦
リード、リチャーズが指導にあたっていた。



看護婦養成所の舎監・松井エイ


「桜井女学校附属看護婦養成所」は3番目の開設だが、教師ヴェッチの赴任は
設立翌年の明治20年(1887)秋。それまでの約1年、英語が堪能だった生徒・
峯尾えい(松井エイ)が臨時教師として、英語のテキストを訳しながら授業を
進めていた。実技に関わる範囲は、お手上げ状態だったというから、ドラマで
生徒たちが翻訳作業に苦戦する設定は実情に近い。





                大 関 和 と 鈴 木 雅




大関和(見上愛)は28歳、鈴木雅(上坂樹里)は29歳。
明治20年1月、洋館の校舎で授業が始まる。教育課程は学課1年・実習1年
の通算2ヶ月。第一期生は8人。最年長は鈴木雅、次いで大関和。雅は夫を病
で亡くした未亡人、和は、黒羽藩家老の家に生まれ離婚を経た身。いずれも子
をかかえての挑戦だった。






        大山捨松と和と雅




 は離婚後、上流階級との交流を経てキリスト教に入信、牧師・植村正久
説得で入学を決意した。海外のトレインド・ナースに関する情報は、大山捨松
ら欧米帰りの女性たちからも得たとされる。ドラマで捨松(多部未華子)が看
護婦に偏見を持っていたりんたちの、背中を押す存在として描かれるのは、こ
うした史実の延長線上にある。

「いきなり英語の教本の翻訳」
ドラマでも描かれたように、教科書はすべて英語の看護書で、和訳しながら学
んでいくのが授業の根幹だった。看護史研究では、明治期の養成所で広く用い
られた教本のひとつとして、米国コネチカット看護学校編・『ハンドブック・
オブ・ナーシング』が知られ、その内容は、ナイチンゲール『看護覚え書』
思想と多くの点で一致する。生徒たちにとって、英語の専門用語を日本語に置
き換える作業は、過酷だったが、それは同時に、ナイチンゲール思想を日本語
の体に通す最初の作業でもあった。





  直美を見守る宣教師メアリー(アニャ・フロリス)

そして秋、ヴェッチが第一医院に着任。マリア・ツルー(宣教師メアリー)が、
桜井の生徒たちを、第一医院で実習させる手配を事前に整えていたためで、
ヴェッチは、桜井と第一医院の両方を担うことになった。





「直美が授業を通訳」
授業はもちろん英語で、最も英語が堪能だった鈴木雅が通訳を務めた。
第一医院に近い駒込西片町(現・東京都文京区西片)の借家を寄宿舎にして、
バーンズと生徒たちの共同生活が始まる。教師と生徒が一つ屋根の下で寝食を
ともにし、家事を分担しながら人格と協調性を育む。これがナイチンゲール方
式の核心であり、バーンズが、寮の家事まで生徒に踏み込んで指導する場面の
根拠でもある。
当時、病院で働いていた「看病婦」の多くは寡婦で、読み書きや算術といった
基礎教育を受けていない人がほとんどだった。日本において「教育を受けた看
護婦」
はまだほぼ存在しなかったのだ。そこに、観察と記録、衛生と環境整備
を看護の柱に据える「ナイチンゲール方式」が持ち込まれた衝撃は、現代の感
覚で測れるものではない。バーンズが繰り返す「This is not nursing」の重さ
は、まずこの落差から発している。

「ヴェッチの姿に明治の皇后のお言葉」
帝国大学医科大学附属病院の外科8号室に、大腿骨膜炎の重患の男児が収容され
た。骨と皮ばかりに痩せ衰え、室内には臭気が立ちこめる。施しようがないよう
に見える病室に、ヴェッチは平然と乗り込んでいった。
佐藤医長の許可を得て、隣の7号室を打ち抜いて看護婦の控え室を作り、徹底的
に清潔法を施す。痩せ衰えた病児を母代わりとなって日夜介抱する看護婦の姿に、
訪問した明治天皇の皇后(昭憲皇太后)も感動を抑えられなかったと、後に『昭
憲皇太后 附女四書』
が伝えている。
「環境を整える」「観察する」。ヴェッチが生徒に体で覚えさせようとしたナイ
チンゲール看護の二本柱を、ヴェッチ自身が現場で実演していたのだ。





    明治天皇皇后(昭憲皇太后)

大関和は、桜井女学校附属看護婦養成所卒業生として、昭憲皇太后に拝謁する
栄誉を受けました。




「大関和は卒業生総代、皇后に拝謁」
10月26日、桜井女学校附属看護婦養成所の卒業式が行われた。
当初の生徒8人のうち2人は退学しており、残る6人が日本初のトレインド・
ナースとなる。大関和は、皇后に看護法研究生総代として拝謁し、卒業後は、
そのまま第一医院の外科の看病婦取締(看護師長)に、鈴木雅は内科の看病婦
取締に就任した。

ヴェッチは雅の卒業証書に「Miss Suzuki has won her task as Interpreter
most officially and I consider her give to fitted to teach a class of nurse.
(鈴木さんは、通訳者としての仕事を完遂した。彼女は、看護教師としても
適している)」と署名入りで書き添えた。卒業時の集合写真でヴェッチが和
と雅を左右に座らせたのは、自らの弟子のなかでも特に優秀で、信頼を置く
二人を傍に置きたかったからだろう。
そして11月、ヴェッチは任期満了で帰国する。なおドラマでは、半年後に
流暢な日本語を披露するが、史実のヴェッチが日本語を話せるようになった
形跡はない。本人なりに勉強し聴き取れる言葉も増えていただろうが、英語
「実演」で看護の本質を伝えて去っていった、というのが実像に近いかも
しれない。

「日本滞在は1年だけだったが……。」
ヴェッチ離日後、和は、第一医院で看病婦の二交代制など待遇改善を求める
建議書を提出するが、医師たちに受け入れられず、第一医院を去る。
その後は新潟・高田の知命堂病院の看護婦長などを経て、東京に戻った。
も明治24年(1891)に第一医院を辞し、慈善看護婦会(後の東京看護婦
会)を創設して、初の派出看護婦会を立ち上げた。
は後に雅から経営を引き継ぎ、明治42年(1909)には、大関看護婦会を設立。
看護婦の質的向上と社会的地位の向上に生涯を捧げた。
日清戦争での日本赤十字社看護婦の活躍、そして、スペイン風邪と関東大震災
の襲来する未曾有の困難な時代を経て、看護婦は「卑しい職業」から「なくて
はならない専門職」
へと、社会の見方を一段ずつ押し上げていく。

「故郷で百歳の長寿を全うしたヴェッチ」
ヴェッチ自身は、離日後も世界各地で活動を続け、晩年に故郷エディンバラに
戻り、昭和17年(1942)に100歳という長寿で世を閉じた。
 バーンズの「あなたたちの手は、家族の数百数千倍の人を助ける手なんです」
というセリフは、ヴェッチが、日本で蒔いた種が、たちの手を経て、確か
に何百、何千の患者の手元に届いたことを思い出させる。
短い滞在が、日本の看護界に大きな足跡を残し得たのは、ヴェッチが教えたのが
看護「技術」ではなく、患者の傍らに居る者としての「在り方」だったからにほ
かならない。

         

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ニュースー「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ

ニュース奈良「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産登録へ




   構成資産の一つ、高松塚古墳の西壁「女子群像」




日本の古代国家誕生の歩みを示す宮殿跡や寺院跡、墳墓で構成される遺跡群
「飛鳥・藤原の宮都」(奈良県橿原市、桜井市、明日香村)が、国連教育・
科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しとなった。
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「登録」を勧告
したと、文化庁が6日発表した。
登録されれば、国内の世界文化遺産は、2024年登録の「佐渡島の金山」に続
き22件目、奈良県内では「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」
紀伊山地の霊場と「参詣道」とあわせて4件目となる。





   高松塚古墳の東壁「青龍図」



これらは、今からおよそ1400年前の、6世紀の終わりから8世紀の初めの約
100年という短い期間に、日本が、中国や朝鮮半島の国々と、交流を行ない、
政治制度や最先端の建築や土木技術を取り入れるとともに、それまでの文化
と技術とを融合し「宮殿・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」の形やそれぞれ
の位置関係を急激に変化させ、律令制度に基づいた日本独自の、天皇を頂点
とした「中央集権国家が誕生」した過程を証明できる唯一の遺産です。





           初代天皇・神武天皇
日本の初代の天皇である神武天皇が、紀元前660年に現在の奈良県橿原宮で
初代天皇に即位した。この伝承をもって、日本の建国と考えられている。



「日本国の誕生」
 ”あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいまさかりなり”
「あおによし」「なら」にかかる枕詞。「あおに(青丹)」は染料の原料
となる土で、古くからこの地域の特産だったらしい。奈良が極彩色に彩られ
た建造物で埋め尽くされた様に、ぴったりの表現である。

西暦710年、元明天皇は、都を平城京に遷した。その後、784年に桓武天皇に
よって長岡京への遷都が実施されるまでの70年あまり、奈良は日本の都だっ
た。645年の「乙巳(いつし}の変(大化の改新)」以降には孝徳天皇が難
波、天智天皇大津に都を置き、飛鳥の地を離れて、新しい政治拠点としての
都市を造るつもりだった。
だがそれは、理念にとどまり政変が起きたため長続きしなかった。
672年、天武天皇「壬申の乱」に勝利すると、都は再び、大津から飛鳥へ
元明天皇までの四代の天皇は、この地にとどまった。
奈良は飛鳥の北に位置する別の盆地であった。当時の宮廷にとっては、かなり
遠方であったこの盆地に都を遷すことによって、元明天皇という女帝を頂点に
戴く政府は、新しい時代の開始を象徴的に宣言したのである。
そう、彼らが治めたのは「日本」という名の国であった。
 指導者は、藤原不比等。彼を中心にして編纂された法典が、702年に刑部親王
の名で公布される。「大宝律令」である。
この法典完成に併せて派遣された遣唐使が、初めて「日本」という国号を名乗っ
たのだ。「日本国の誕生宣言」であった。





       藤原京・朱雀大路跡

        朱 雀 大 路




目抜き通りであった朱雀大路は、道幅が80㍍近くもあったという。
これほど広い道がなぜ必要だったかといえば、儀式のためである。
朱雀大路は、外国の使節にこの道を通らせることは、日本が一人前の文明国
であることを知らせる良い機会だった。
このような平城京の構造は「都とはかくあるべし」というモデルとして続く
「長岡京」「平安京」にもだいたい踏襲された。
ところが、日本政府が奈良に移転する直前、飛鳥にはすでに巨大な都が存在
していたのである。その都の名は「藤原」という。




中国では、帝王は、国土の中央に都市を建設し、そこに宮殿を設けて全国を統
治するという理念があった。この理念は、新しい国造りを進める周辺国にも影
響を及ぼした。日本の「藤原京」はその好例である。
天武天皇「壬申の乱」で甥の弘文天皇を打ち破り、近江大津宮から「飛鳥浄
御原宮」(あすかきよみのはらみや)に遷都した。天武天皇はやがて、単なる
「宮」ではなく、都市域をかかえた中国風の文明的な「京(みやこ)」の建設
を志す。しかし、彼の代には実現せず、この事業はあとを継いだ妻の持統天皇
のときに本格化する。





           藤 原 京




「飛鳥・藤原の宮都」
南から見た図。5km四方の京域に十条十坊が敷かれたと言われる。
中央には1km四方の藤原宮。北には耳成山、南西からは緩やかな丘陵が延び
ていた。藤原京はこれまでの飛鳥の都と異なり、日本で初めて条坊が敷かれ、
官人をはじめ、人々が集住するよう設計された都城である。
後方に見えるのは、大和三山の一つ耳成山(みみなしやま)。




694年、造営事業尚なかばであるにもかかわらず、飛鳥浄御原宮からこの新
しい都への引っ越しが行われた。『日本書紀』ではこれを「荒益京」と表現
しているが、「藤原宮」という呼称にちなんで、現在では「藤原京」と呼ば
れている。
16年後の710年には、平城遷都となってしまい、かつ藤原京は、その後、都市
として機能していなかったため、その実像は長いこと謎に包まれていた。
北に耳成山、西に畝傍山(うねびやま、東に天香久山と場所が大和三山に囲ま
れているため、「京」とはいっても東西1㌔、南北3㌔程度の小規模な都市で、
それゆえ、すぐに大規模な平城京が造営されることになったのだろうと、想定
されてきた。学校の教科書においてもその程度の藤原京認識であった。
ところが、1990年代以降の発掘調査によって、町を東西に貫く幹線道路が見つ
かり、どうやら5㌔四方はある巨大な都だったらしいと判ってきた。
その場合、大和三山は、京の外側でなく内側にとりこまれていたことになり、
平坦な場所に都市を築くという常識から外れているが、この常識を七世紀末の
日本政府が持っていたかわからないのだから、あり得ない話ではない。
教科書では、平城京に比べて小さな扱いしか受けていないが、今後さらに調査
が進んで実情がわかってくると、今度は私たちの側の「常識を覆す」可能性を
秘めている。もしそうなったら橿原市は「神武天皇の都」という伝説ではなく
「持統天皇の偉大な都」という事実になっているかもしれない。

「飛鳥・藤原の資産」
 「飛鳥・藤原」は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)に、中国大陸や朝鮮
半島との緊密な交流のもと、日本で初めて中央集権体制が成立した過程を示す
「19件の資産」で構成される。
政治や儀式の場で後代にも影響を与えた「飛鳥宮跡」や中国の都城にならった
藤原京の中心に位置する「藤原宮跡」、極彩色壁画で知られる「高松塚古墳」
「キトラ古墳」、巨石を用いた石室が見られる「石舞台古墳」など、外来文
化の導入と日本固有の伝統との融合を示す遺跡が含まれる。





    主な構成資産と所在地


✦ 19件の資産とは次の通り
① 飛鳥宮跡   ② 飛鳥京跡苑池    ③ 飛鳥水落遺跡
④ 酒船石遺跡  ⑤ 飛鳥寺跡      ⑥ 橘寺跡
⑦ 山田寺跡   ⑧ 川原寺跡      ⑨ 石舞台古墳
⑩ 菖蒲池古墳  ⑪ 牽牛子塚古墳    ⑫ 藤原宮跡
⑬ 大官大寺跡  ⑭ 本薬師寺跡     ⑮ 天武・持統天皇陵
⑯ 中尾山古墳  ⑰ 檜隈寺跡      ⑱ 高松塚古墳
⑲ キトラ古墳

     
飛鳥宮跡

飛鳥京跡苑池 
酒船石遺跡
石舞台古墳

牽牛子塚古墳
藤原宮跡

天武・持統天皇合同陵
キトラ古墳
高松塚古墳

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ニュースー松竹座閉館

ニュースー松竹座閉館






       「道頓堀 川作繁栄の図」 小信図





「道頓堀五座」
道頓堀はご存じのように、慶長十七年(1612)に東横堀川と西横堀川の汚濁
を解消するために、私財をなげうって河川開削に着手した成安道頓の名前に
由来しています。新しく開発された地域は道頓と名づけ、人工の川もまた道頓
堀川と名づけられた。
そして、15年後の寛文三年(1626)に、別の場所にあった芝居小屋が、道頓
堀川の南側に移転したのをキッカケに、次々と芝居小屋が寄り集まった。
我もわれもと、乱立が激しくなるとお役所の登場となります。最初に名代を許
されたのは、「中之芝居」「角之芝居」「筑後之芝居」の3軒。
その後、最盛期には、歌舞伎が6座、浄瑠璃が5座、からくり1座の合計12
軒がありましたが、天保十三年(1842)の天保の改革によって、「中之芝居」
「角之芝居」「筑後之芝居」「若太夫之芝居」「竹田之芝居」の5軒に絞られ、
「道頓堀五座」と呼ばれ
て親しまれ、周囲には芝居茶屋が建ち並び、大変な賑わいをみせました。





          明治期の芝居町・道頓堀
上空に靡く旗は「蛸吊り」と呼ばれ道頓堀の各店が贔屓の役者の名前を描いた。


その後、明治時代になって、中之芝居が「中座」となり、角之芝居が「角座」
筑後之芝居が「浪花座」、竹田之芝居が「弁天座」になって、ここに江戸末
期に焼失していた角丸芝居が「朝日座」と名を改めて復興され、これが明治
「道頓堀五座」となりました。
 大阪松竹座は、大正12年(1923)日本初の鉄筋コンクリート造りの活動写
真館として開場。平成6年(1994)5月に71年の歴史に幕を下ろすも、3年
後の97年2月から「演劇専門劇場」として新築再開場すると、歌舞伎興行
や関西ジュニア、松竹新喜劇、ОSK・日本歌劇団のホームとして親しまれて
きましたが…大正生まれの「松竹座」は、「道頓堀五座」には含まれません。





とんぼり五座




「明治期の道頓堀を描いた絵」
ちなみに、通りを渡るように上空に貼られた旗は「蛸吊り」と呼ばれ、道頓
堀の各店が、ひいきの役者の名前などを描いて貼り出した物で、旗の製作費
から、その維持管理まで(雨が降ったらかたずけないといけない)を実費で
出して貼りめぐらした事で、その年間維持費は相当な額だったらしく、その
旗の多さは、道頓堀に店を出した者のステータスとなっていたようです。





朝日座

浪花座

弁天座




「そんな名残りの道頓堀はどうなったか」
昭和初期までに五座は全て松竹の経営下に入る。一部は映画館へ転換した。
戦後になると、朝日座が、東映に売却され大阪東映劇場となり、弁天座は
文楽座と改称して人形浄瑠璃の常打劇場となった。
しかしその後、人形浄瑠璃は、松竹の手を離れ、劇場名は2代目朝日座へと
改称された。角座は演芸場へ転換し、演芸ブームの中で隆盛を誇った






中座





「昭和末期以降」
娯楽の多様化や施設の老朽化に加え、都心部の常住人口の減少や地価の高騰
といった要因が重なり、多くの劇場が次々と閉館に追い込まれていった。
まず昭和末期に朝日座角座が閉館し、平成に入ると松竹は残っていた中座
浪花座も相次いで閉鎖した。映画館の入った商業ビルとして復活していた
角座も含め、松竹は、五座の敷地をすべて売却し、道頓堀五座は事実上姿を
消した。なお、中座の解体途中には爆発事故が発生し建物が崩壊、隣接する
法善寺横丁にも大きな被害が及んだ。






角座





「その後」
平成25年(2013)7月28日には、松竹芸能が角座跡地を賃借し、お笑い劇場
「DAIHATSU MOVE ・道頓堀角座」を開場し、五つ櫓の一つである角座が
復活した。しかし、平成30年(2018)7月22日、借地契約満了に伴い閉館
「角座」は心斎橋へ移転した。
現在、道頓堀での歌舞伎や商業演劇は、五座とは別系統の劇場である大阪松
竹座が担っているが、その大阪松竹座も2026年(令和8年)5月をもって閉鎖
されることが決まっている。





「緞 帳」
松竹座の緞帳にデザインされているのは、華芙蓉や葵を様式化した「唐華」
かつて、日本のブロードウェイと呼ばれた道頓堀で「凱旋門」と称された
松竹座は映画に歌舞伎にとハイブリッドな劇場だった。
松竹座の正面外観




「変遷する松竹座」
松竹座は、道頓堀に日本初の鉄筋コンクリート造りの洋式劇場として、大正
12年(1923)5月10日に新築落成し、同年5月17日に開場式が行われた。
定員1141名。テラコッタを使用したネオルネッサンス様式の、正面大玄関の
特徴あるアーチを持つ劇場建築で、イタリアのミラノにあるスカラ座をモデ
ルにした。
 第二次世界大戦後は、松竹映画の封切館として再開したが、その後は洋画
ロードショー館に転向。1970年代以降は渋谷パンテオン/丸の内ルーブル系列
の映画館として、『タワーリング・インフェルノ』・『ジョーズ』・『E.T.』
『ラストエンペラー』『ボディガード』など数多くのヒット作や大作を上映。
また2階には、松竹芸能の本社事務所がテナントで入っていた。
平成6年(1994)5月8日に映画館としての役割を終え、劇場へ改装するため
閉館。最後の上映作品は『風と共に去りぬ』であった。
平成9年(1997)に完成した現在の建物は、回り舞台や花道などの舞台機構を
備え、客席数は約1千席。歌舞伎を軸に松竹新喜劇やOSK日本歌劇団、アイ
ドル主演の舞台など様々な公演が行われてきた。



松竹座の正面外観(2005年8月撮影)

春のおどり




平成9年(1997))に松竹百年の記念事業として正面外壁を維持しながら建て
替えられ、同年2月26日に新築開場した。
松竹制作の歌舞伎や新劇、松竹新喜劇、を中心に、ジャニーズ公演、歌劇、
ミュージカル、コンサート、落語会等も上演されている。
また、平成16年(2004))には66年ぶりに大阪松竹歌劇団の後継にあたる
OSK日本歌劇団によるレビューとして『春のおどり』が復活、それ以後、
毎年恒例となっている。
令和5年(2023)は、大正12年の劇場創設から100年を迎え「大阪松竹座開場
100周年」
を記念する公演を行った。






松竹座閉館を惜しんで押し寄せた御客さん





令和7年(2025)8月28日、松竹は設備の老朽化を理由に大阪松竹座での興行
を令和8年(2026)5月公演で終了すると発表。
その後、劇場や飲食店などが入ったビルも閉館することとなった。
大阪市役所には、大阪松竹座の存続を求める意見が多数寄せられたほか、同年
9月、12月と相次いで、道頓堀での劇場機能の存続を求める署名活動が開始
され、新聞、ラジオなどマスコミも特集を組むなど、反響が大きくなっていっ
た。
令和8年(2026)3月31日、松竹は同日付のプレスリリースで、これまでの発
表通り、同年5月を以て公演を終了するとしつつ、新たな文化芸能の発信拠点の
実現に向け取り組むと発表。それを受け、大阪松竹座の存続が一転して決定した
とする報道が一部で行われたが、大阪市と共に松竹と対話を重ねてきた大阪府の
吉村洋文知事は、建物の存続に関して報道は正確ではないとした。同年4月3日、
「さよなら公演」が開幕し、5月26日最後の公演・「御名残五月大歌舞伎」
もって閉館した。











4月から2カ月続いた「御名残公演」の悼尾は、人間国宝の片岡仁左衛門が監修
を務める「當繋藝招西姿繪」(つなぐわざおぎ にしのすがえ)」が飾った。
「江戸から駆け付けた」という設定で中村勘九郎、中村七之助らも舞台に上がり、
東西の人気歌舞伎俳優が有終の舞を披露して幕は閉じた。
鳴りやまない拍手に幕が上がると、俳優陣の中央に「とうとうこの時を迎えるこ
とになりました」と仁左衛門が登場。
「この2カ月、どうなることかと、多くの方が驚かれたと思う。あまりの高額の
入場券!」と切り出すと場内は爆笑。
「しかし、おかげ様で連日大入り。やはり道頓堀の松竹座の底力を改めて感じる
ことができました。決して今日で終わるわけじゃございません。必ずもう一度、
道頓堀に松竹座のやぐらが上がると確信しております」と結んだ。

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ニュースー皇位継承問題

ニュースー女帝問題について






仲哀天皇、神功皇后、建内宿禰を描いた絵
成務天皇が亡くなると直系がいなくなり、ヤマトタケルの御子の
仲哀天皇が即位します。 仲哀天皇は神功皇后との間に応神天皇が
うまれます。



      仲哀天皇





「愛子天皇はあるのか」
近年、愛子さまの即位を望む声が、インターネットやメディアで盛んに見ら
れます。NHK等の調査でも、国民の7割が女性天皇を容認しています。
一方で、女系天皇まで許容するかどうかには意見が割れています。






          「玉依姫(たまよりひめ)」
玉依姫は海神(ワタツミ)の娘で、姉の豊玉姫が産んだ鵜茅葺
不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を養育し、のちにその妻
となって初代・神武天皇を生んでいます。
各地の玉依姫を祀る神社では、女性の守護神として信仰を集めています。
玉前神社、海の女神として信仰される玉依姫命を祀る。
下鴨神社・上賀茂神社、賀茂の玉依姫を祀る
鳥飼八幡宮、 神武天皇の母である玉依姫命を祀る。




日本の皇室は「万世一系」、つまり初代・神武天皇から連綿と続く男系での
血統を守ってきました。
男系=父親をたどって受け継がれる血筋のことです。子供の性別に関係なく、
父親がその家系の血を引いていれば「男系」になります。
実際、過去の女性天皇もすべて「男系」の血筋であり、「女系天皇」は一度
も存在しません。例えば、女性天皇である推古天皇も、父親が天皇(男系)
であったため「男系の女性天皇」です。
江戸時代までは側室制度があり、比較的多くの男子皇族が生まれていたため、
男系継承が維持されてきました。



「女系天皇」とは、母親が天皇または天皇家出身で、父親が民間人や他家と
いう場合に、その子どもが、天皇に即位するケースです。
例えば、愛子さま(天皇陛下の長女)が、天皇に即位した場合は「女性天皇
(男系)」ですが、愛子さまが民間の男性と結婚し、その子が天皇になれば
「女系天皇」となります。
重要な違いは、「男系」が父方をたどって神武天皇(初代天皇)にたどり着
くのに対し、「女系」は母方をたどる血筋になるという点です。





       21年前の有識者会議の議論の行方




「男系か女系かの争点」 
【男系血統にこだわる派の意見】
① 世界最古の男系血統の伝統を守れる。
② 父系で辿れる「天皇家の血」を途切れさせないことができる。
③ 世界的にも類を見ない歴史の重みを次世代へつなげられる。
【反対の意見】
① 国民の多くが、「民間で育った人が突然皇族になる」ことに違和感を
  覚える可能性がある。
② 現代社会において、伝統のみを強調することが、時代に合わなくなっ
  ている側面もある。
③ 旧宮家の方々が皇族としての役割を受け入れるかどうか、本人たちの
  意志や適性も大きな課題。

「女性・女系天皇の容認派」
【男系男子原則の緩和・女性天皇・女系天皇の容認】
女性皇族が、結婚後も皇族の身分を維持できるようにする
女性皇族が民間男性と結婚し、その子が皇位継承者となる場合も認める。
【賛成の意見】
 現代の価値観(男女平等や多様性)に合致し、国民の支持も強い。
  (NHK等の調査で7割が女性天皇に賛成)。
② 歴史上、女性天皇が有能で長く在位した実績もある。
 男子を産むことへの、過度なプレッシャーから女性皇族・親王妃を
  解放できる。
【反対の意見】
① 「女系」になれば、万世一系(父系)という連続性が途絶えてしまう。
② 世界最古の王朝という権威や日本独自の伝統が失われる懸念。
 現在の「皇室典範」や、これまでの社会的合意を覆すには慎重な議論
  が不可欠。



「歴史」
政府から「立憲制度」の調査を命じられた伊藤博文は、ウイーン大学の権威・
シュタイン教授に学び「男系男子を基本としつつ止むを得ない場合には、女系
で継ぐ」と考えていました。
実際,明治19年(1886)に発表した「皇室典範」の草案「皇室制規」では女系を
容認している。しかし、法制官僚の井上毅が強く反対し、伊藤の女系容認論は
見送られました。
最近では、小泉政権時代、当時の有識者会議が女性女系天皇の容認を柱とする
報告書をまとめ、翌年の国会に「皇室典範改正案」が提出される見通しになっ
ていました。想定されていたのが、愛子天皇の誕生です。
その後、紀子さまが懐妊され、06年9月、皇室で41年ぶりの男子悠仁さま
を出産されました。そこで女性・女系天皇の議論は立ち消えになったのですが、
先送りせず、並行して検討を続けておくべきでした。






             天皇のお住まい




「ちょっと穿ると」
※ 大正以降は一夫一妻制が確立され、側室は昭和に廃止。
1947年戦後初の皇室会議で、十一宮家、五十一人の皇室離脱が決定し、
皇室はスリム化に大きく舵を切ったのです。
記紀(古事記・日本書紀)に記された皇室の祖とされる皇祖神の天照大御
は女神です。だとすれば、天照の子孫である初代・神武天皇は、女系天
になるのですよね。


「こんな話も…」





       神功皇后




「卑弥呼をモデルにした"女帝の処遇"」
現在の歴代天皇の系図(皇統譜)では、第14代天皇の次に第15代として
即位したのは応神天皇ということになっています。
当時はまだ、天皇号もなかったのだから、応神天皇は、歴史学的には、応神
天皇の生前の実名・誉田別(ホムダワケ)と表記されるべきだろう。
(ただ、昔は第15代天皇とされる人は、応神天皇ではなかった。気長足姫
{オキナガタラシヒメ)東風諡号(しごう)で、神功皇后だった。
彼女は仲哀天皇の后で応神天皇の母だった。東風諡号でも「神宮天皇」と表記
されず、皇后である。
にもかかわらず『日本書紀』では、彼女を天皇と同格に扱い、夫の死後70年
間にわたって日本を統治したことになっている。



「この時期の日本を女性が統治していたことにしたのはなぜか」
それは、中国の歴史書『三国志』との辻褄を合わせるためだった。
かの有名な「魏志倭人伝」である。
そう7~8世紀に『日本書紀』を編纂した人たちは、神功皇后が魏志倭人伝
で卑弥呼と呼ばれている女王だったことにしたのだ。
『日本書紀』はきちんとした漢文で書かれているため、中国や韓国の人たち
も読むことができた。
その場合、あちらの史書との矛盾は少なくしておいた方が良い。
さもないと書物全体の信憑性を疑われてしまう。
そこで卑弥呼という名の女性を、皇統譜のなかにオキナガタラシヒメとして
位置づけたのである。



ところが江戸時代に徳川光圀が編纂させた『大日本史』では、彼女は息子の
摂政であって即位していないとみなして天皇代数から外した。
その後、この主張が正式に採用されて、現在では仲哀天皇のあとすぐに応神
天皇が即位したことになっている。それでも、朝鮮半島に遠征してそこの王
たちに、日本への服属を誓わせたことや、息子の応神天皇に歯向かう大和の
勢力と内戦を闘った功績により、明治後期から昭和初期にかけての教科書で
は、今だに大きく取り上げられていた。



「戦後の教科書に神功皇后は登場しない」
「魏志倭人伝」の記載に基づいて、邪馬台国のことが紹介され卑弥呼の名が
載っているにもかかわらず、卑弥呼をモデルに初の女帝として、記紀に登場
する彼女の名はない。
(それは、歴史学の発展により、記紀の信憑性が薄れたためばかりか、対外
戦争の指導者という神功皇后のイメージが教育には相応しくないと配慮され
たためだろう)
もちろん、歴史的事実としてはそれで正しい。けれど、記紀編纂者たちが讃
えた彼女の業績の記憶が、将来の世代に受け継がれなくなっていくのは寂し
いかぎりである。彼らが考えていた日本国の成立過程を、神功皇后の伝承か
らうかがうことができるのだから。






             神功皇后と卑弥呼



 神功皇后が『魏志倭人伝』に登場する女王・卑弥呼であるという説は
、江戸時代から続く歴史学・神話学上の代表的な仮説の一つです。
古事記や日本書紀の記述と、中国の正史における邪馬台国の記述の整合性
を説明するために提唱されました。
この説は『日本書紀』の編纂者が、大和朝廷の正当性を高めるために3世
紀の邪馬台国の女王・「卑弥呼」やその後継者「台与(とよ)」の事績を、
14代仲哀天皇の皇后である「神功皇后」の物語に投影させたという見方
が主流です。






       推古天皇
推古天皇は、欽明天皇(第29代)の第三皇女で第三十三代天皇となった
人物で、「日本最初の女性天皇」です。母親は「蘇我堅塩媛」(ソガノ
キタシヒメ)、大臣・蘇我稲目の娘で、蘇我馬子は、叔父にあたります。



「さて日本で最初の女帝は推古天皇です」
592年に即位し、東アジア初の女性君主としても知られています。
事績: 甥である聖徳太子を摂政に登用し、冠位十二階や十七条の憲法の制定
など、中央集권的な国家体制の基礎を築きました。
※ 当時の混乱した政治情勢のなか、有力豪族である蘇我馬子らの要請に
より即位しました



歴代の女性天皇の一覧は以下の通りです。
第33代 推古天皇 (592~628年) 日本史上初の女性天皇。
第35代 皇極天皇 (642~645年) 後に重祚して斉明天皇となる。
第37代 斉明天皇 (655~661年) 皇極天皇が重祚(再び即位)。
第41代 持統天皇 (690~697年) 天武天皇の皇后。藤原京を造営。
第43代 元明天皇 (707~715年) 平城京へ遷都。
第44代 元正天皇 (715~724年) 女性天皇で唯一、独身で即位。
第46代 孝謙天皇 (749~758年) 後に重祚して称徳天皇となる。
第48代 称徳天皇 (764~770年) 孝謙天皇が重祚した。
第 109代 明正天皇 (1629~1643年)称徳以来、859年ぶりの女性天皇。
第 117代 後桜町天皇(1762~1770年 史上最後の女性天皇。
 女性天皇の多くは、本来の皇位継承者(男子)が幼少であったり、
政治的な空白期が生じたりした際に、次の天皇が成長するまでの「中継ぎ」
として即位しました。

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「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑤

逆らえぬものが空から降ってくる  新家完司
 



  石橋山の戦いで平家方に大敗し、臥木(ふしき)に身を顰る頼朝主従

 左大庭景親と弟・俣野景久頼朝が居そうな場所を中央梶原景時
指し示している。頼朝主従の顔が臥木から、その様子を見ている。

『吾妻鏡』によると、頼朝討伐の兵を率いる大庭景親は、相模国の豪族・
梶原景時「何としても、頼朝を探しだし、清盛様の前に引きずり出す
のだ」と、檄を飛ばす。大庭と梶原の兵は、蟻一匹見逃さぬように、
頼朝とその残党を、山中く
まなく捜索した。
一方、頼朝は「人数が多くてはかえって見つかりやすい」という
土肥実
の進言を受け、散々に別れて逃げることにした。
そして、ひとまず、臥木の陰の洞穴に頼朝とわずかな兵らが身を隠した。
その頼朝が隠れている洞穴近くへ梶原景時の探索隊がやってくる。
景時は、臥木の陰の洞穴に頼朝が潜んでいることを察知する。
「もはや これまで」
と、頼朝の命運も尽き自刃を考えた時、景時が「早まるな」と、制した。
そこへ大庭がやってきて「どうだ 頼朝の気配は…?」と、景時に訊く。
景時は「ここらより 向こうの山の方が、怪しいのでは」と、応えて、
大庭景親らを、臥木の穴から遠ざけ、頼朝の命を救った、という。


僥倖とは濁世に浴びる花ふぶき  大葉美千代


ーーーーー
             大庭景親(國村隼)

ーーーーー

             梶原景時(中村獅童)


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑤


源頼朝と姉の政子が結ばれた小四郎義時15歳の頃のことである。
頼朝は、意外なことを小四郎に言った。
「入道殿はわれの命を助けて下された。その入道殿を討とうなどとは、
 思ったこともないわ。われは政子と心静かに生きていきたい。
 それで十分満足なのだ」
小四郎には、信じられない言葉だった。
「しかし、入道殿は道を間違われたようだ」
と、頼朝は付け加えた。


なにもかも「人間だもの」で逃げるなよ  木口雅裕
 
 
  ーーーーー
              平清盛(松平健)
 
 
小四郎のその15歳の頃の、清盛入道を少し振返ってみよう。
治承2年(1178)、高倉天皇に皇子(安徳天皇)が誕生した。
高倉天皇の中宮・徳子は、清盛の娘であった。
誕生した皇子は、清盛の孫である。
このことにより、清盛は朝廷での揺るぎない発言力を確保した。

治承3年7月、清盛の後継者に決まっていた重盛が死去。
それを機に、後白河法皇は、重盛の知行国を召し上げ、
平家一門が相続することを認めなかった。
さらに重盛の喪中にもかかわらず、遊興に耽り、平氏の体面を傷つけた。
度重なる法皇の挑発的な振舞に、清盛の堪忍袋の緒は切れた。


右手には刀左手にはりんご  和田洋子


同年11月14日、清盛は兵を挙げる。
数千の大軍とともに、自ら後白河法皇の館に向った。
20日、清盛は法皇を捕え、幽閉した。
武士として、初めて政権を奪い取った清盛は、平氏政権を打ち立て、
江戸時代まで600年以上つづく武士の世の、礎を築いた瞬間である。
年が明けると清盛は、後白河法皇に代わり甥で娘婿の高倉天皇を上皇に、
その息子を安徳天皇とした。上皇19歳。天皇は3歳だった。


もう誰も反対しない咳払い  美馬りゅうこ



     厳島神社に納められた「平家納経」

その第一巻,栄華を願う金色の願文は、清盛の直筆と伝えられている。
「来世の妙果宜しく期すべし」と、記す。


平氏は全国の半分以上の国々を支配し、一門の者が言い放ったのは、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非者人なるべし」 (『平家物語』)
さらに清盛は、都を京から日宋貿易の拠点にと開いた福原へ移した。
「福原遷都」である。治承4年6月のことであった。
しかし、新しい都で清盛たちを待っていたのは、次々と起きる干ばつや
要人の病気であった。とりわけ、高倉上皇を襲った病は深刻であった。


突然に前に回った背後霊  井本健治
 
 
愈々、小四郎義時が18歳の時、頼朝が伊豆で旗揚げした。
平家は、義時の成長にあわせるごとく、高度成長を遂げた。
その平家政権にも、息切れの気配が濃厚になってきた。
その機を窺うように、後白河法皇の第三皇子・以仁王「平家討伐」
令旨を全国の源氏に発した。
令旨を受け取った頼朝は、しばらく静観していた。
ところが平家が諸国の「源氏討伐」に動き出し、伊豆目代も頼朝を襲う
気配が濃厚だった。
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは親衛隊になったが、その武力は貧弱そのもの。
これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、彼ら自身も考え
ていなかったのではあるまいか。


未解決のままで集めた綿ぼこり  郷田みや


   
    『頼朝旗起八牧館
山木兼隆夜討図』 (歌川国芳)
 
 
平治の乱の後20年間、伊豆の蛭ヶ小島で流人生活を送っていた頼朝が、
平家打倒のために蹶起し、まず手始めに伊豆国の目代(代官)山木兼隆
の館を急襲したのは、治承4年(1190)8月17日のことであった。
目代の山本館急襲には、時政はもちろん、兄の宗時もこれに加わった。
18歳になる小四郎義時の初陣である。
小四郎は初めて人を斬った。
その興奮は、その後の「石橋山の戦い」の間も、消えることはなかった。


受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ
 

ーーーーー
             畠山重忠(中川大志)


「小四郎、しっかりやれ。畠山や梶原に負けるな」
さて、このときの合戦は、最初はうまくいったが、まもなく平家に味方
する武士団に囲まれて惨敗する
。 「石橋山の戦い」だ。
北条一族も、頼朝と離れ離れになって戦場をさまようが、このとき血路
を開くべく、父と別行動をとった長兄の宗時は、討死をしてしまう。
これは、当時の武士の宿命のようなものだ。一族全滅を免れるために、
父と子、または兄と弟は、必ず二手に別れて行動する。
父に従っていた小四郎は、お蔭で討死をしないですんだというわけだが、
この間、彼がみごとな武者働きをしたという記録は全くない。
大体、彼は、戦場でのあざやかな戦いのできるタイプではないのである。


戦争の仕方ゲームで知っている  田中堂太


一度は敗けた頼朝が勢力を盛り返し、鎌倉に本拠を定め、さていよいよ
「木曽攻め」「平家攻め」にとりかかったときも、
これに従軍した小四郎には、これといって手柄になる話は全くない。
たとえば、一つ年上の梶原景季は、佐々木高綱と宇治川の先陣を争った。
一つ年下の畠山重忠も大活躍をしている。
熊谷直実は、平敦盛の首を挙げた。
熊谷直実などは、北条よりも、もっと所領の少ない小領主にすぎない。
こういう連中の武功が伝えられるにつけ、父親の時政は、やきもきした。


苦みだね大人の味も人生も  むかいただし


このとき時政は、鎌倉に残って頼朝の側近に侍している。
鎌倉の御所様の舅殿というので、少しずつ発言力は増しているが、何し
ろ小豪族の悲しさ、足利、千葉、小山等の大豪族には、睨みがきかない。
このあたりで小四郎がめざましい働きを見せて、
「さすがは北条殿の御子息」と、
褒めそやされ、鼻の穴をふくらませたいところだ、が、情けないことに、
小四郎は戦功には縁がない。
駄馬は先頭集団から遙かに遅れて、のこのこと、ついてゆくのみである。
それでも幕府の記録である『吾妻鏡』には、頼朝は、戦功を賞する手紙
を与えた十二人の中に、小四郎を加えている。
但し、大体『吾妻鏡』は、北条氏寄りの立場で書かれているから、
あてにならない。
とにかく『平家物語』などに語り伝えられるような武功物語は、小四郎
義時には皆無なのだ…。


見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁



 最初、頼朝挙兵を決意させたのは僧・文覚


「知恵蔵」
頼朝が挙兵の計画を行動に移したのは、治承4年4月、以仁王の令旨を
受けてからのことであるが、彼が、平氏打倒を意識したのは、これより
3年前の治承元年頃で、頼朝にその覚悟を決めさせたのは、神護持の
覚上人、だといわれている。文覚は、俗名を遠藤武者盛遠といい、
かつては院に仕える北面の武士であった。


3分でできた事3年悩む  市井美春


後白河法皇の怒りを受けて、伊豆韮山の奈古屋寺に流されていた文覚は、
頼朝の配所を訪れて挙兵をすすめた。文覚は、
「早く謀反を起こし、平家を打ち滅ぼして、父の恥を清め、また
国の王ともなり給え」と、
説いたが、頼朝は、警戒して応じなかった。
すると文覚は、懐中から白い布の包みを取り出し、
「これは、故下野殿(頼朝の父・義朝)の御首である。それがしが獄門
 から盗み出して隠しておいたが、伊豆へ流される際、そなたに進めよ
 うと頸にかけて持ってきた」と、
父・義朝のしゃれこうべを頼朝に手渡した。
頼朝は泣き泣きこれを受け取り、その後、2人は深く信じあったという。
(『源平盛衰記』)
『吾妻鏡』や『愚管抄』などにも、2人が、伊豆で親しく交友していた
ことが記されている。
                            つづく
 
妖怪がブランコを漕ぐ午前二時  武良銀茶

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