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川柳的逍遥 人の世の一家言
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見解の相違へ揺れている芒  笠嶋恵美子




   ムキクリ
甘いもの好きの信長が10話でも食べていたムキクリ

「麒麟がくる」 ご飯を食べる作法がダメだった信長





   信長と竹千代
 

「戦国時代に味噌は欠かせない」
先ず「麒麟がくる」10話の筋を少し。尾張へ入った光秀(長谷川博己)
菊丸(岡村隆史)に出会い、、味噌を並べていた菊丸に、「すべての
味噌を城に届けてほしい」と頼んだ。信長は濃い目の味付けをしてある
料理が好きで、特に大根の味噌漬けやネギ味噌、焼き味噌など、味噌を
使った料理が大好物と光秀は知っていたからだ。かつて信長が上洛をし
た際、京料理のプロが自信をもって出した料理を「水くさい」と激怒し
た話は有名。とにかく信長は、味噌が好きだっただけではなく、味噌の
重要性を知っていた。戦いに明け暮れる日々、重い鎧をつけて、戦場を
駆けまわり、汗をかく武将や兵士には、塩分は欠かせない。そこで味噌
が重要になるのである。信長の兵士たちの腰の印籠には、常に「味噌」
「山椒」「ムキクリ」「きんかん」が入っていたという。

湿り気がある健康な鼻の穴  新家完司

大豆を発酵させて作る味噌は、塩分が含まれているため、保存性が高く、
味噌汁に芋類や野菜などを入れることで、腹持ちを良くする。
さらに味噌には、大豆由来のタンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない貴重品なのだ。仙台の伊達政宗は、
味噌の自給を目指し「御塩噌蔵」を製造していた。政宗が兵士たちの食
事に欠かせない健康食・味噌を重要視していたことがわかる。また甲斐
武田信玄も、長野・信州味噌の起源となる軍用の味噌を製造している。

まずは塩のみでいただくリコーダー  きゅういち
 
 

ご飯を食べる作法は、室町幕府が作ったもので、小笠原流・伊勢流とい
った礼法の流派が形成され、包丁や箸使いの所作があみだされた。この
室町礼式は、現在の私たちもそれに倣っており、婚礼の結納などのやや
こしい形式は、この時代に出来上がった。足利幕府は、南北朝の争乱の
中から出て来た粗野な大小名どもを、礼式で拘束しようとしたのである。
実力の時代といった戦国時代の、歴とした守護大名の家に生まれた筋目
の人々・武田信玄今川義元でも煩瑣な礼式の体得者である。つまりは
「躾」が出来ている。ご飯を食べるにも、箸をどのあたりからつけるか、
それはもう、実に煩瑣な決まりの食べ方があって食べていた。

鰐の生き肝は湯気の立つうちに  井上一筒
 




貉(むじな)の汁かけ雑穀めし

ところが信長の家は、守護大名の家ではない。尾張の守護大名・斯波家
の執事のようなことをしていた織田家で、いわば成り上がり大名である。
甲斐の武田家や駿河の今川家などのようないいうちではない。だから織
田家は室町風という公認のお行儀というものが、家風としてはない。そ
ういう織田家であるところへもってきて、信長という人が、性格として
煩瑣な堅苦しいマナーを受け付けるわけもなく、頭から覚える気もない。
思考が取り決めによって縛られていないから、飯というものは、かきこ
むだけで、とにかく腹が膨れればいいのだ。出は信長と同じでも、何事
にも食欲旺盛な明智光秀は、義昭のもとで仕官していたとき、そうした
室町作法を積極的に学び吸収したようである。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

「小笠原流ご飯の食べ方」
① 汁の中の魚の骨は、折敷に置くのは良くない。
② 飯を食べるときは茶碗の左右、向かい側から一箸ずつ飯をとり、
  一口にして食べる
③ 箸を添えて汁を吸う
④ 饅頭は、3分の1を箸で割って、餡をこぼさないようにして口に運ぶ
⑤ 料理人は、魚や肉の美味しい部分は上座の人へ提供する
⑥ 食事に対して賛辞を送る

4、5本はいつも晒に巻いている  くんじろう




  (拡大してご覧ください)

当時の最先端であった惟任日向守会の本膳と後段(再現)
 

「明智光秀、天正6年正月11日、惟任日向守茶会」
『天正6年元旦、安土城にて” 許し茶湯 "の許可者が総覧された。信長は、
限られた家臣にのみ茶道具を下賜して茶会を主催する権利を与えた』
(ご飯の食べ方がダメでも、茶道具の蒐集が趣味だった信長は、礼式に
沿わねばならない「茶会」の開催を許した。出来上がった城と自慢の茶器
を諸国の諸将に見せるためである。主は明智光秀。
永禄8年に室町流礼式を学び覚えた光秀の一世一代の晴れ舞台になる。

ええねんと何でも受けるお人好し  山本昌乃

天正6年元旦、安土城の信長の下へ五畿内および近隣諸国の諸将が信長
への新年の挨拶のため出仕。信長は挨拶を受ける前に一部の諸将を招き、
茶道具を下賜して、茶会を主催する権利を与えた。選ばれたのは、織田
信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・
長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁の12名。
茶頭は松井友閑がつとめた。安土城天守閣の障壁画も完成しており、
諸将は信長への挨拶を終えると殿中を巡り、狩野永徳が描いた三国の名
所を描いた絵や信長が収集した名物の数々を見て、感嘆するのみだった。

正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝




 タケノコ飯と和え物


この日、光秀が拝領した茶道具は、八角釜だった。信馬から釜を与えら
れたので取りあえず、茶会は開いてみたものの、光秀は、軽い身分から
出たため茶の湯の作法を知らず、このとき代行を立て、宗及の手本を見
て見よう見まねであったのかもしれない。一方で、光秀は、このときす
でに名物・八重桜を所有しており、永禄11年(1568)以来めきめ
きと上達を見せた連歌同様、茶席での作法にも、十分通じていた可能性
もある。自らもそれなりの知識と技術を持ちながら、堺の豪商・天王寺
屋宗及の粋人ぶりを持ち上げたのか…社交に不慣れであるにしては、彼
が用意した料理は見事なものだった。


門番に6匹もいる招き猫  木口雅裕




 
  生鶴汁と鮒の膾


光秀の側近には、進士貞連(しんじさだつら)という人物がいる。この
人物はのちに細川幽斎とともに田辺城に籠城しており『綿考輯録(めん
こうしょうろく)によると、貞連はもとは光秀の譜代衆で、山崎の戦
のあとも光秀に従った最後の七騎のうちのひとりである。
(『綿考輯録』は、貞連の父を進士美作守だと記録している)
美作守というと、進士晴舎(はるいえ)である。進士晴舎はルイスフロ
イス「内膳頭」として記録している室町幕府の有力御家人で、足利義
輝に仕えて、三好筑前守義長朝臣邸などへの「御成」を司った人物だ。
進士晴舎は、のちに嫡子ともども永禄の変で亡くなるまで、当代で料理
の式法に通じた人物だった。

人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子






鶉(うずら)の焼き鳥


当時、将軍が臣下の邸宅を訪問することは「御成」と呼ばれた。御成は
将軍にとっては世間に主従関係を知らしめるための機会であり、大名に
とっては家門の名誉、面目にかけて盛大に行うものだった。
その際の献立は、決して簡単に決められるものでなく、御成を司る役割
には、料理と有職故実に関する豊富な知識が求められた。またしきたり
に従い、滞ることなく朝から晩までつづく、饗応料理の手配を行うこの
職務は、決して一名で務まるものではなかった。というのも、当時の
膳料理は客一名に対して、三膳から六膳提供するもので、それらは客の
身分に応じて用いる膳を変え、用いる魚によって掻式(かいしき・器に
盛る食べ物の下に敷くもの)を変え、汁・吸い物は、用いる実によって
吸い口を変え、膳のうえに決まった配置で、皿を並べなくてはならない
代物だったからだ。

負けず嫌いな包丁の薄化粧  中村幸彦




   
   しょうの実          薄皮饅頭


にもかかわらず、御成への参加者数は10人や20人では済まない。
つまり進士晴舎のような饗応の責任者は、決して乱すわけにはいかない
スケジュールのなかで、ゆうに百を超える数の皿や、膳の盛り付けが、
故実通りであるか細かく点検しなければならなかった。加えて、酒や茶、
引き出物、能の手配といった仕事もあった。このことから、進士晴舎
単独でこの職務にあたっていたのではなく、御成の成功の陰には進士家
の一門を挙げた働きがあった。さて、そんな光秀が天正6年正月11日
朝に用意した膳を見てみよう。

愛は入れないでお鍋が焦げるから  高橋レニ





   本膳の説明

① とち折敷(おしき) 縁の一ヵ所を桜の皮で綴じたもの。
② 鮒の膾 膾は三鳥五魚の一つで格の高い美物。
③ 生靏汁 靏は鶴のこと。こちらも三鳥五魚の一つ。
④ アヘモノ 当時の定番料理で。
⑤ 飯タケノコ 季節(旬)を先取りした初物で。
⑥ 大かわらけタヒテ タヒテとは「塗って」のこと。
⑦ ウツラ焼鳥 盛り付けの脚の向きは鷹狩、網取かで異なる。
⑧ 土筆ウト ウトは独活のこと。
⑨ 薄皮のマンチウ ここに出ている饅頭は甘い近世的なもの。
⑩ イリカヘ ローストした榧(かや)の美。

燗番が燗見るたびに酒が減る  みぎわはな





  後段の説明

⑪ 木具 足打 
⑫ サウメン、レイメン 冷たい素麺。山椒の粉をつけて食べた。
⑬ セリ焼き 酢で芹を煮たものだが、焼きと言った。
⑭ 浮煎ノ吸物 すり身を用いた料理は心尽しのもてなしを表す。
⑮ 印籠ニ味噌 山枡 ムキクリ きんかん デザート


台本通りアップルパイを焼いている  西澤知子

光秀が用意した料理は、各膳の上の皿の数が陽数(奇数)となっている。
そういった細かな故実に従いながら、四条流由来の格式の高い料理と武
家料理、季節の品を取り合わせて味のバランスをとり、流行をとりいれ、
茶事用の簡素な膳ながら、幕府将軍の御成と同じ構成で手配してある。
また、後段に記録された木具の足打は、主人や貴人が見えた時に用いる
もので、殿上人ではない宗及に対しては、最上級の敬いにあたる。
こうして天正6年は、光秀が水を得た魚のように接待上手ぶりを発揮し
始める年となった。

影武者は影武者なりにそれらしく  岸井ふさゑ

【戦国時代の食】
庶民は、粟・稗・黍(あわ・ひえ・きび)といった穀物を食べ、白米を
口にすることはなかった。おかずは山菜や野草を使った料理が中心で、
たまに猪の肉や魚などを食したが、かなり貧しい食生活であったようだ。



【兵糧丸】
忍者が常備した兵糧丸は、きびだんごのような形をした携行食品で、忍
者の知恵で戦国時代の一般兵士たちも、戦場へ赴くときは、糧食として
配給されていた。「麒麟がくる」で、お駒が食べている画面があった。
 
 
 
 
  
 

【芋茎縄】
普段は縄として使い、万が一の際に非常食にもなる。
芋がらは里芋の茎を細かく裂いて皮を剥いて干したもので、 煮ても炒め
ても、和えても美味しい らしい。各種の栄養分を多く含み、カビなどが
生えなければ、かなりの長期保存が可能な食品。
食し方。ちぎって鍋に放り込み、水を入れて沸騰させると、染み込んだ
味噌が溶け出し、芋の茎が熱湯によって柔らかくなる。
煮込むことすら許されない状況であれば、芋茎縄を直接かじって生命の
維持に欠かせないカロリーと塩分を補給することも可能。普段は縄とし
使いながら、非常時には食品になるため、全くムダがない。戦国時代に
重宝された芋茎縄は、まさに一石二鳥、最強の存在なのである。
 

【味噌汁】
腹持ちを良くするため、芋類や野菜などを入れる。味噌は、塩分が含ま
れているため保存性が高く、タンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない食べ物だった。
携帯する際は、乾燥させて固形にしたり、焼いて味噌玉にし、必要に応
じてお湯に溶かして食したという。いわば今の即席味噌汁である。



 
ぜったいに嫌あんたと鍋をつつくのは  安土理恵

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白には戻らない思い込んだ黒  松浦英夫




織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)
上洛後、信長は大の相撲ファンになった。




「麒麟がくる」 信長とはどんな人

百年にも渡って戦乱が続いた戦国時代。この混乱を鎮めて世の中に新た
な秩序を取り戻す人物が現れることを、人々は望んでいた。その期待を
担って、彗星のように戦国の世に現れた天才児、それが織田信長である。
信長は天文3年(1534)に尾張守護代・織田信秀の長男として生ま
れた。母は土田御前。幼名は吉法師。弟・妹に信勝、信包、信治、信時、
信興、お犬の方、お市の方など。天文15年、12歳のときに古渡城で
元服し、翌年に三河国に初陣を飾る。美濃の斉藤道三の娘・帰蝶と結婚。
道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性
が高くなる。父・信秀の没後は、18歳で家督を相続し「上総守信長」
と称した。その後は同族との争い、周辺との戦いに明暮れることになる。

雲梯の途中で夢をみてしまう  井上一筒

信長の父・信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長
にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えず、弟・信勝(信行)と
の継承問題で火が吹き出しかけていた。やがて天文21年8月、信勝の
いる清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とする。萱津
の戦いである。この戦は、信長の勝利で終わった。これに関わった清州
城の信勝との抗争は、生母・土田御前の仲介により、一時、和解したが、
信勝は再び、謀反を企てたため、信長は誅殺をした。
このことなどが、信長の「あとを絶たない戦い」の、その典型である。

反省は何だったんだ練りがらし  前中知栄




さて信長とは、どんな人物なのだろうか。

「尊大」
 信長「上総守信長」を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が
「上総介」を称したことを意識したからである。すなわち、今川氏の
称する「上総介」よりも「上総守」が上位であると、信長が考えたの
だろうと推測されている。
 信長公記の天正10年正月の下りに、「御幸の間」つまり天皇の
ための部屋が、「安土城本丸御殿」にあるという記述がある。さらに
この時期、信長と朝廷との連絡役、武家伝奏という役目を担っていた
勧修寺晴豊の日記『晴豊記』に次のような記述がある。
「行幸之用意馬鞍こしらえ出来」(行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
天皇を招いて、自分の膝元に置く、そういう信長の考え方は、朝廷の
「権威」を、ないがしろにするものとも受け取られた。
 天正10年2月、信長はさらに思い切った要求を朝廷に突き付け
た。暦の変更である。朝廷の暦は、「宣明歴」を基礎とした京歴を用
いたのに対し、尾張などで使われていたのは、「三島歴」という。
暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ。いわば神
聖にして侵すべからざる事柄であった。その暦を、信長は尾張のもの
に統一しようとしたのである。

破り方をみてもA型だと分かる  竹内ゆみこ




髭も立派な顔は面長で鼻筋が通ている信長の肖像画
こちらが外人の絵師に描かせた本当の信長の顔らしい。


「印象」
背丈は中くらい、華奢な体躯でヒゲは少なく、声は高目、名誉心に富み、
睡眠時間は短く早起きで、正義においては厳格であった。貪欲ではなく、
非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
また極めて清潔好きであり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来
とも親しく話をした。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
一面憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては、甚だ大胆不
敵で、万事において人々は、彼の言葉に服従した。(フロイスの日記ゟ)

半ば枯れ半ばは青き心の臓  佐藤正昭






  バテレンの衣装

「ファッション」
少年期の信長は、馬術・弓・鉄砲・兵法の稽古、泳ぎの鍛錬のほか、鷹
狩りなども好んで行なっていた。一方、服装は、動きやすいように上衣
の袖を外し、七分の袴、腰帯は縄紐で、水の入った瓢箪や火打ち袋など
をぶら下げ、派手な朱色の大刀を差していた。また月代を剃らない髪は、
束ね赤い糸でくくり、茶筅のような髷にしていた
30歳の後半には、南蛮の衣装を好み。日常的にマントや襞襟を着用し
ている。信長が安土で催した祭りでは、御馬廻衆が爆竹をならしながら、
信長自身は黒い南蛮笠(山高帽)を被って、奇抜な出で立ちであったと
『信長公記』にある。安土城の煌びやかな天守の室を見るように、信長
はことさら、派手好きだったことが分かる。

理不尽を諫める言葉見つからぬ  合田瑠美子

「うつけ」
うつけとは常識外れの行為をいう。父・信秀の葬式の日に信長は、相も
変わらず茶筅髷、大太刀は縄で巻いて、見すぼらしい格好で現われた。
そして仏前の前にたつと、抹香をわしづかみにして位牌に投げかけて、
どたどた帰ってしまったという。一方、弟の信勝は、折り目正しい服装
作法で威儀を正していた。その場の誰もが、信長の行為を「やはり大う
つけだ」と口々にしたという。その以前に信長は、僧侶に父の回復の祈
祷を願い、僧侶は父の病気が回復すると保証した。しかし、信秀は回復
せず、数日後に亡くなってしまった。そういう腹立ちがあったのだろう
と一僧侶が語っている。

鼻にツンとくる水溶性悪意  くんじろう





信長のはでな甲冑


「戦術」
「攻撃を一点に集約せよ無駄な事はするな」という「桶狭間の戦」で吐
いた信長の名言がある。
永禄3年(1560))5月、信長26歳。今川義元が尾張国へ侵攻を
始める。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、4万
人にも余るという大軍であった。織田軍はこれに対して、兵力はわずか
数千人。今川軍は、松平元康(後の家康)が指揮を執る三河勢を先鋒と
して、織田軍の城砦に対する攻撃をかけてきた。信長は静寂を保ちつつ、
今川軍が三河と尾張の国境である「桶狭間」にさしかかるのを待った。
そして、午後1時、幸若舞『敦盛』を舞った後、号令をかけた。信長は
今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。この勝利は、ひとえに
信長が若い頃、うつけを演じ、国境を知り尽くした成果であったという。

キャベツ畑でまどろむ戦場の薬箱  宮井いずみ
 





金ヶ崎の戦いで秀吉は名を高めた


「勇気ある撤退」
信長がすごいのは、追い詰められた時にとった行動である。
味方と思った人間に裏切られたらどうするか。元亀元年(1570)の
越前・金ヶ崎の戦いで、義弟の浅井長政が背いたとの情報が入ったとき、
信長は最初は信じなかった。しかし、次々に同様の報告が入ったため、
即座に退却を決意して、金ヶ崎城に秀吉ら殿軍を置き、退却したという。
この金ヶ崎の戦いで、信長がかろうじて京都に戻ったときの従者は、わ
ずか10人ほどだったという(継介記・信長公記ゟ)

型どおり進めなかった裁ち鋏  石橋能里子

「礼儀」
帰蝶信長に嫁がせる斉藤道三、「うつけ者」と評されていた信長は
どんな風で訪れて来るのか、影で様子を伺っていた。そうしたところへ
信長は800人程の鉄砲隊や槍持ちの配下を引き連れ、自身は茶筅髷の
襤褸着を着たなりで、会見場所である正徳寺門前に馬上から下り立った。
これを目のあたりにした道三は呆れ、家臣たちも「大うつけ」と囃した。
しかし、いざ会見の場に現れた信長は、正装に着替え岳父になる道三に
低調な挨拶をしたという。まだ20歳の若造であった信長だったが、そ
れを見た道三は、驚きと同時に信長を只者でないと判断した。そして、
家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐ
ようになる」と述べたという。(信長公記ゟ)

語尾だってたまに意地悪するようだ  北原照子

「冷酷」
信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。
そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。
例えば、天正9年(1581)4月10日のこと。
信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長が翌日まで帰
って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に
城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出
を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。
また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗された
という。(信長公記ゟ)

素面では出来ない蛸の殺し方  笠嶋恵美子





信長から寧々への返信


「優しさ」
美濃と近江の国境近くの山中という所では、「山中の猿」と呼ばれる体
に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き
来する信長は、これをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の
上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与
えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が
飢えないように毎年、麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」
と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな
感涙したという(信長公記ゟ)

寒いのは季節などではなくこころ   新家完司

「フェミニスト」
 信長はある日、秀吉の妻・ねねから「夫の女性問題で悩んでいる」
という手紙を受け取った。それに対し信長は、「まったくとんでもない
男だ。あなたほどの素敵な女性に、あの禿げ鼠(秀吉)は何という奴か
きつく叱りおく」と返信をした。
 天正6年(1578)、お弓衆の邸宅から出火して火事が起きた。
信長「妻子を安土に移していない者がいるからだ」と考え、すぐに名
簿を作らせて、妻子の同居実態を調査させた。すると、お弓衆60人と
お馬廻衆60人合わせて120人もの該当者がおり、信長はこれらの者
を叱責し、子の信忠に命じて、尾張国の彼らの邸宅を焼き払い、宅地内
の竹木までも伐採させた。彼らの妻たちは取るものも取りあえず安土へ
引き移った。信長は罰として、彼ら120人に安土城下に新道を築かせ、
完成したところで、全員を許したという。(信長公記ゟ)

幸福は非売品だと神がいう  ふじのひろし

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一冊の落書き帳であるこの世  新家完司





   明智軍記


「麒麟がくる」 信長に接近する光秀







『明智軍記』によれば、明智光秀は弘治3年(1557)29歳の時に
諸国遍歴の旅に立ち、永禄5年に帰還したとある。どこからどこへ越前
・朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るという形になっている。だが、
5年間の遍歴にもかかわらず、どういう経路で、どこを遍歴したかは、
何一つ記されていない。義景は、朝廷を大事にする当代随一の武将だ。
義景が資金を出して、光秀に「諸国の事情を視察」するよう命じた可
能性もある。


千切れ雲はてなマークをもったまま みつ木もも花


明智軍記には、「弘治3年から永禄5年」とあるから、その間の主要な
出来事を書き出すと。
永禄3年 毛利元就 長門を平定。
元禄元年 木下藤吉郎(秀吉)信長に仕える。
永禄2年 織田信長 入京し将軍義輝に謁す。
     上杉謙信 入京し将軍義輝に謁す。
     宣教師ヴィレイラ京都で布教。
永禄3年 今川義元を倒す。(桶狭間の戦)
永禄4年 信長、斉藤義光を美濃に攻める。
永禄5年 徳川家康、信長と同盟を結ぶ。
永禄6年 ルイスフロイス、日本での活動が始る。


ひょっこりと障子の穴から旅に出る  通利一辺


このような時代に光秀が諸国遍歴をしたとしたら、いかなるコースを辿
るだろうか。越前を発ってまずは山城国・京都へ。都の現状と荒廃ぶり
を確認したあと摂津国・大坂へ商都の現状を視察。そこから海路安芸国
へ向かい厳島神社を参拝したのち、毛利元就の治世を観察し、日本海側
に出て出雲大社を参拝したのち海路越後へ行き、上杉謙信の治世を視察。
そこから陸路南下し、信州の善光寺を詣でたのち、甲斐国に入って武田
信玄の治世を視察する。と想像をめぐらしてみた。


わけあってスマホは持たず巡礼に  雨森茂樹




永禄8年三好三人衆の花押
下野入道(三好宗渭)、主税助(岩成友通)、日向守(三好長逸)
よる花押の連署。


永禄8年(1565)乱世はいよいよ極まる。
三好義継、松永久秀らが、将軍・義輝を暗殺したのである。その瞬間に
将軍不在、足利幕府が消滅したのも同然になった。ときの帝正親町天皇
が、ひとり乱世にさらされたのである。後醍醐天皇の遺言を借りれば、
「いまこそ、賢才忠臣が謀りごとをめぐらし」…「天下を平定」しなけ
ればならない時である。諸国遍歴の道中において、湯屋の主に求められ
「太平記』について語った光秀、その胸中に去来する思いを一言でいえ
、「賢才忠臣いずこにありや」ということだろう。
明智光秀という武将が歴史に登場するのは、このときからである。光秀
38歳であった。そして、彼が最初に期待を抱いたのは織田信長だった。
信長32歳である。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし


「光秀、歴史の1ページに」
細川藤孝のところでも少し触れたが、明智光秀の存在が確認できるのは、
室町幕府13代将軍・足利義輝と弟・15代将軍義昭に仕えていた武士
たちの名を記した『光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚』と、題された
史料で、義昭の「足軽衆」に見える「明智」が、光秀を指すと考えられ
ている。この史料は義輝が死去した後の、永禄10年頃の状況を記した
ものとされ、細川藤孝は「お供衆」という数段上の身分であった。光秀
がいつ頃から、義昭に仕えるようになったのかは不明だが、近年に発見
された史料によれば、永禄8年頃の光秀は、近江国高島田中城(滋賀県
高島町)に籠城していたらしい。(針薬方)


思い当たる節に包帯を巻いておく  谷口 義


この時、義昭は兄の義輝三好三人衆らに殺害され、若狭の武田義統
(よしむね)の元に逃れていたが、のちに朝倉義景を頼って越前へ移
っている。おそらく光秀は、流浪中の義昭に接近して気に入られ、足
軽衆として抜擢されたのだろう。その前後に義昭は藤孝を取次として
尾張の織田信長との間で、京都復帰に向けた交渉を進めていく。義昭
の直参となった光秀も、この頃から藤孝の下で、信長との交渉を担う
ようになった。そして永禄11年7月、義昭は信長を頼って美濃へ移
り、藤孝・光秀もそれに従った。同年8月に信長が藤孝に宛てた書状
には、「詳細は明智に申し含めました。義昭様にによろしくお伝えく
ださい」とあり、光秀が使者として信長の元を訪れ、義昭への伝言を
頼まれていたことがわかる。この時、信長との接触が、のちに光秀が
躍進するきっかけとなった。


カリスマの自負がどうにも止まらない  徳山泰子




  
  ルイスフロイス       日本史

「ルイスフロイスが語るー光秀と信長の人となり」
光秀について信長の宮廷に惟任日向守殿(これとうひゅうがのかみ)
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する奉仕して
いたのであるが、その才略、思慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受ける
こととなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあ
って彼はよそ者であり、ほとんどの者から快く思われていなかったが、
寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。


袖すり合っただけなのに舌の先  赤松蛍子


信長についてー
美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、もっとも私を驚嘆
せしめましたのは、この国主(信長)が、いかに異常な仕方、また驚く
べき用意をもって、家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありま
した。すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らはきわめ
て凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにして、ただちに
消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が
きわめて抑揚のある声で、返事しました。彼の一報告を伝達する者は、
それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るかのように
行かねばならぬと言って差し支えがありません。


鶴の一声猫も杓子も動き出す  前中一晃


【余禄】 太平記について
永禄8年5月、将軍足利義輝三好義継、松永久秀らによって暗殺され
たという報に接したとき、明智光秀は加賀国山城にいた。そこで光秀は、
湯屋の主人の求めに応じて『太平記』を語ってきかせたという。
たった一人の湯屋の主人に『太平記」を聞かせたというのは、明智軍記
の作文ぽいが、大事なことは光秀が『太平記』のことを思い浮かべたと
いうことである。戦国未明から慶長・元和まで、戦乱を生き抜いた武将
たちにとって『太平記』は治世と兵法の指南書でもあった。
(その後、軍楽的な評論が発達し、それを修正した『太平記評判秘伝理
尽抄』を台本とする講釈が、諸藩で盛行している)


悟りを開く半眼の目玉焼き  蟹口和枝


(『明智軍記』に「永禄8年5月中旬、光秀は小瘦を煩い加賀国山城へ
湯治に赴き。途中、三国湊を遊覧し吉崎より船にて山代に到着。10日
ばかりで平癒する」とある)
同19日 そこで越前の飛脚から義輝殺害に報を受ける。この夜、湯屋の
主人の所望により『太平記』を物語し、翌日越前一乗谷へ出立する。
『太平記』はあの「建武の中興」を実現した後醍醐天皇の波乱に満ちた
生涯を中心にした歴史物語。将軍暗殺の報に接して、光秀自身が『太平
記』のことを語りたくなったのではないか。


袋とじに籠る野暮の顛末  山口ろっぱ

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むしりとったイボがまたまた顔を出す  宮井元伸



真ん中の右奥で長い刀を振るっている女性が濃姫(帰蝶)


『信長公記』の著者・太田牛一は、織田信長の側近として仕えた武将で、
本能寺の変後一時隠棲するが、ほどなくして豊臣秀吉に仕え、晩年に信
長の一代記として84歳までに『信長公記』を書き上げた。
牛一は、戦国乱世にあって、見るべきものを、すべて見てきた男である。
この第一級史料としても有名な「信長公記」にさえ、信長の正妻・濃姫
(帰蝶)に関する記述は、ほとんどない。以って帰蝶は謎の多い女性と
いわれる。

諸説あります かのこりょうらん  酒井かがり


「麒麟がくる」 帰蝶は謎だらけの女性





   濃姫(川口春奈)


「濃姫」とは、「美濃から来た姫」という意味で、名前ではない。
でもってここからは、帰蝶の名で進めていきたいと思う。
数少ない帰蝶に関する記録を布いていうならば、日本滞在中に信長から
丁重なもてなしを受けたルイス・フロイスの一文である。フロイスは、
信長が帰蝶のために建てた「濃姫の館」を訪れ、、庭園を見た後、金で
彩られた濃姫の部屋を訪れ、「他を圧倒する素晴らしいもの」と率直な
気持ちを「日本史」に記している。

ちゃんと名はあります花も咲かせます 八田灯子





金箔御殿ニュースを報じる新聞

【朝日新聞デジタル2016年2月20日01時13分のニュースから】
織田信長が、かつて斉藤道三の居城であった稲葉山城(後の岐阜城)の
ある金華山のふもとに妻である帰蝶のために「金箔瓦の御殿」を建てた
裏付けとなる金箔瓦の破片や庭園跡が、発掘調査でみつかったと2016年
2月19日、岐阜市教育委員会が発表した。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、著書「日本史」の中で、庭園
を見た後、金で彩られた二階にある濃姫の部屋を訪れたと書いている。
この話を裏付けるような瓦の出土である。
また、造成時期の異なる石垣がみつかり、信長が当初の計画を変更して
まで、妻、濃姫の御殿を建てたのではないかと思われるという。1567年
に美濃を攻略した信長は、入城してすぐに工事を始めたが、途中で設計
を変更して、庭園に隣接するよう濃姫の御殿の敷地を拡張したとみられ
ている。(本当は、帰蝶と信長は仲睦まじかった?…)

四角い仁鶴ほんとはまあるい師匠やでー オオカダキキ




 
    濃姫のための居館


 残された池と、今回発見された池の形状が似ているから、庭園に隣接
する中心建物に濃姫の部屋があったと推定。市教委は「濃姫の部屋には
中国製の金の幕が掛かっていたとされ、(金箔瓦が使われていた点と)
豪華さという面でも符合する」としている。
今回の調査では、中心建物を建てるため大規模に敷地を拡張した痕跡を
発見。盛り土で高さ3.5m以上かさ上げするなど、大掛かりな工事を
行っていた。史跡岐阜城跡整備委員会委員長で滋賀県立大の中井均教授
(日本城郭史)は、「断定はできないが、フロイスの記述から、信長が
奥方のため、複数の庭が見渡せる一等地に御殿を築いたと想像できる」
と語った。(本当は信長は、恐妻家だった?)

意味深なふくみ笑いの片えくぼ  堀川正博




【名前】

濃姫の名は、帰蝶と先に書いたが、これは、江戸時代の『美濃国記』
いう書物に書かれた名前で、後世につけられたものであり、古文書群の
中心的な家伝史料である前野家文書『武功夜話』には、「胡蝶」と記さ
れている。また「あっち(安土)の方」という呼び名もある。
『美濃国諸旧記』では、斎藤道三(利政)が天文17年(1548)に
稲葉山城を子・義龍に譲って出家。鷺山城に居を移した翌年、この城か
ら古渡城の信長のもとに嫁いだため鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれた。

耳掃除ばかりしている春の欝  笠嶋恵美子





 土岐頼純(矢野聖人)

「帰蝶はバツイチ」
元々、美濃国の守護大名は、土岐氏、斉藤道三の主君であった。土岐
氏が家督相続をめぐり争っている隙に、道三は国主の座を乗っ取り土岐
氏を追放し、これにより事実上の美濃国の実権を握った。この事態に美
濃の治安は乱れ、国は荒れたが、道三は息子の義龍土岐頼芸の落胤で
あるとして、美濃国主に据えることで安定をはかった。その時に守護大
名だった頼芸は、織田信秀を頼った。それに応えて、斉藤軍と交戦中だ
った信秀は、頼芸の甥であり、朝倉孝景の保護にあった頼純(よりずみ)
を味方にして美濃へ侵攻。そして頼芸は甲揖北方城を奪い、頼純は革手
城への復帰をはたした。

真っ黒な貨車で戦がやってくる  嶋沢喜八郎

苦戦を強いられた道三は、頼芸信秀の切り離しを考え、信秀の嫡男で
ある信長帰蝶の結婚を約束し、朝倉家と土岐家の婚儀も整えて、和睦
することになる。和睦の条件に、土岐頼芸が守護職を頼純に譲ることが
盛り込まれ、頼純に道三の娘・帰蝶が、人質として(表向きは 美濃守護
土岐頼純の正室)嫁ぐことになる。 帰蝶はまだ12歳のときであった。
しかし、頼純と帰蝶が結婚して一年後、頼純は24歳で急死したために
帰蝶は、道三の元に帰されることになる。

どこか哀愁どこか投げやりハーモニカ  雨森茂樹





織田信長(染谷将太)

天文13年(1544)、道三信秀が和睦した条件の一つに「帰蝶
が信長に輿入れするという項目がある。天文16年から翌年にかけて、
道三と信秀は大垣城を巡って、相変わらず戦いを続けていた。
しかし、なかなか決着が付かず、再び和睦の話になり、先年の縁組の約
束が持ち上がる。それに奔走したのが、信長の傳役・平手政秀である。
道三方は「信秀は病気がちとなっていたために、誓約の履行を督促して
きた」(美濃国諸旧記)と書き、信秀方『信長公記』には、「政秀の胆
力と政治力で、和睦と信長と帰蝶との縁組みがまとめられたと書いて、
道三の息女は信長に降嫁した」と記している。
 こうして天文18年2月24日、媒酌人を明智光安に15歳の帰蝶は、
信長に嫁ぐこととなった。
(平手政秀とは、信長の教育係で、奇行の絶えない信長に切腹をして諫
めたという人物で、さすがにこれには参った信長も「政秀寺」を建立し、
政秀の霊を弔ったという記録が公記に残る)

うす墨のはがきに泣いたあとがある  桑原すゞ代

※ エピソード
帰蝶信長に嫁ぐことが決まって、父・道三「信長が噂通りのうつ
けならば、これで刺せ」と短刀を渡すと帰蝶は「もしかしたら、これで
父上を刺すかもしれません」と答えたという。これは創作で帰蝶の気の
強さを江戸の作家が、このように表した。
信長には、11男5女(長男・信忠は、生駒吉乃の子で帰蝶の養子)
いたと伝わる。が、帰蝶との間には、子はひとりも出来ていない。信長
は敵愾心を露わにする帰蝶に心を許さなかったのではないか、と江戸の
作家は二人の仲を推測したのであろう。
兄妹に当たる斎藤義龍の死後、義龍の妻が持っていた壺を信長がしつ
こく要求したとき、帰蝶は自害をほのめかして強く抵抗した。
斎藤氏時代からの家臣の美濃衆を代表し、夫に毅然とした態度をとった
という話もある。
信長帰蝶は、本当に不仲だったのか? 冒頭の信長から帰蝶へのプレ
ゼント「金箔瓦の御殿」は、何を意味したものだろう。謎である。

アインシュタインならここでベロを出す 中村幸彦

「帰蝶のその後」
信長と結婚後の帰蝶にはいろいろ説が飛び交っている。
例えば、離婚された説。若年での死亡説。
離婚した時期は、信長の側室・生駒吉乃が懐妊した弘治2年頃ではないか
と推察され、父・道三が死去し、信長家との婚姻同盟も、意味が失われた
ため、母・小見の方の実家である明智光安の明智城に離縁して、返された
のではないかと推測されている。その後、斎藤義龍は、明智家を5ヶ月後
に攻撃しており、明智城が落城した際に、濃姫22歳にして、明智一族と
運命を共にしたともいわれている。

ニトリで迷子になったアラジンのランプ  高橋レニ





  濃姫衣鉢塚

「一方、帰蝶長寿説」
実際のところ濃姫に子供がいたのかどうかは不明だが、公家・山科言継
が書いた『言継卿記』という日記によると、「信長本妻は女児を生んだ」
と記されている。(徳姫か、四女のうちの誰かわからないが…)
また、信長と吉乃との間の子である信忠を養子にして、信長の跡継ぎにし
たことも書かれている。これらのことから帰蝶22歳離婚の説は消える。
そして信長の次男・織田信雄の家臣団等を記した名簿『織田信雄分限帳』
には、「あつち殿(安土殿)」という記載があり、それが帰蝶ではないか
とされている。その安土殿には、600貫もの化粧料(領地)が与えられ
ていたとも記されている。安土城は、天正7年(1579)に完成した。
この時点で帰蝶は45歳である。
天正10年の明智光秀の謀反・本能寺の変で帰蝶は、信長と運命を共にし
たとも伝えられる。帰蝶48歳である。
また、信長一族の供養塔(京都大徳寺・総見院)にある養華院という女性
の墓とされる五輪塔が、帰蝶のものではないかといわれている。葬られた
時期は、慶長17年(1612)だとされており、それが帰蝶だとすると、
彼女は推定78歳までいきたことになる。

判断は多分他人がしてくれる  秋田あかり

拍手[3回]

右腕であり木枯らしのようであり  岩田多佳子





 細川幽斎(藤孝)


「明智光秀」無二の親友・細川藤孝


細川藤孝明智光秀が惚れこむに値する男だった。光秀にしてみれば、
諸国遍歴の旅に出た頃から(弘治3年~永禄5年)探し求めてきた同志、
盟友にようやくにして出会えた人物なのである。
藤孝は幕府奉公衆の三淵晴員(みつぶちはるかず)の二男として生まれ、
6歳のとき、晴員の兄・細川元常の養子となった。元常の家系は、管領
細川頼之の弟・頼有の末裔で、代々和泉守護を務める家柄である。元服
のとき、義晴の嫡子・義藤の一字を与えられ、藤孝と名乗った。
(義藤はのちの足利13代将軍・義輝)


カニカマは蟹の棚には並ばない  村山浩吉




 
幽斎の肖像画(田代等甫筆)
慶長17年、夫人の光寿院の指示で制作。


藤孝は学識が深く、まれに見る教養人だが、何よりも、足利幕臣の中で
忠節無比の武人といってよかった。足利義輝暗殺後、幽閉されていた
利義昭を計略をもって、興福寺から救い出したのも藤孝だし、近江から
若狭へ、若狭から朝倉義景を頼って、越前へと義昭を案内し、労苦をと
もにしてきたのも藤孝だった。ここで光秀と出合った藤孝は、彼の前で
将軍家の衰微を嘆き、義昭が大和から近江・北陸へと漂白した一部始終
を語り聞かせたという。二人の生涯にわたる交流はこのときに始った。


静電気頬の産毛を波たたせ  くんじろう


光秀は、有職故実に詳しく、砲術や築城術の知識にも通じ、和歌を詠み
連歌に興じ、茶の湯にも通じた教養人であり、当代屈指の文化人であっ
藤孝と、学問や芸能の面においても共鳴するところがあったという。
そこにもって、藤孝の最大の関心事である足利幕府再興のための協力者
を誰にするか、並いる戦国武将のうちで、識見、実力ともに信頼できる
のは誰か。この重大事を問うにふさわしい人物として、藤孝は光秀とい
う男を選んだ。諸国遍歴の旅を5.6年経験してきたという、この男の
人物評価ー甲斐の武田信玄はどうか、越後の上杉謙信はどうか、西国の
毛利元就はどうかーなどをぜひ聞いてみたいと思ったのである。


書籍より現場に落ちている宝  村岡義博





足利義昭(遠藤賢一)


「義昭、朝倉義景の酒宴で」
 『朝倉始末記』によれば、南陽寺は、朝倉館の東北方二丁余のところ
にある。蓬莱手法の石組みで構成されたその庭園は、京都北山の金閣寺
のそれを真似たというが、風光佳絶の庭内には、糸桜がいまを盛りと咲
きほこっていた。その下に緋毛氈をのべ、酒席をこしらえさせた朝倉義
は、義昭を主賓とし、細川藤孝らとともに、歌会にうち興じた。義景
のかたわらには、愛妾の小少将が、糸桜模様を白く染め抜いた紫の小袖
を着て、艶然たる微笑を義昭に投げかけた。



どの顔が好き三面鏡を困らせる  市井美春






朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)


しかし、征夷大将軍に任ぜられたいという欲望の執念に燃えている30
歳の足利義昭に警戒すべきは、女色であることを告げたのは、いまや、
かれの股肱の臣ともなっていた細川藤孝である。
義昭は、さりげなく、取り澄ましていた。
ー中略ー義景は誇らしげにうち笑み、義昭と藤孝らも嘆息を洩らしたが、
酒席の末席にあった明智光秀は口辺に、やや皮肉な微笑を漂わせていた。
-中略ーかりに三好、松永らの二条の新館夜襲といった椿事が勃発しな
かったとしたならば、越前の朝倉家の新参者にすぎない光秀は、将軍へ
は、もちろんのこと将軍の舎弟にも目通りなど、許されるはずもないか
らだ。そう考えるにつけても、光秀は足利義昭の亡命に懸命に尽力をし、
朝倉館まで亡命の供をしてきた細川藤孝のことを、尊敬しないわけには
いかないのである。


神さまのアドレス書いてある御籤  美馬りゅうこ


将来を頼むに足りる武将は誰か、という問答で、二人は若い織田信長
白羽の矢を立てた。やがて芝蘭結契(しらんけっかい)を望むべく光秀
は信長を訪ね、義昭のことと足利幕府の再興の必要性を説き、その協力
を要請した。かくして永禄11年7月25日、義昭一行が美濃の立政寺
に入り、同27日に同寺で信長と義昭が初めて面談することになった。
そして、同年9月26日、信長一行が義昭を奉じて京都に入り、10月
18日、義昭が晴れて将軍に補せられ、22日には、御所に御礼のため
に参内している。ときの帝は正親町天皇(おおぎまち)である。
この帰路の過程で光秀と藤孝の信頼関係はかたまった。
(※ 芝蘭結契ー良い影響を受ける賢者との交友)


らくだのコブもきりんの首も晴れが好き  森中恵美子





細川藤孝(眞島秀和)


信長が動き、再興なったかにみえた室町幕府だったが、将軍義昭の数々
の愚行によって、わずか五年で幕をおろす。
光秀が義昭と信長の二君に仕えたのに対し、藤孝の立場はあくまで将軍
の側近であった。しかし義昭と信長の対立が深刻化した後も、中立的な
態度を守り、義昭が挙兵した際は、信長の功績を説いて諫め、容れられ
ないとみるや居城の勝龍寺に蟄居した。この態度が評価され藤孝は義昭
の追放後、正式に信長の家臣となり、織田家の武将として河内や紀伊を
転戦。天正5年(1577)からは光秀の与力として嫡子・忠興ととも
に丹波・丹後の攻略にあたった。


望まれて進んだ一歩が美しい  山本昌乃


信長は指令を下す際、平定の暁には光秀に丹波を、藤孝に丹後を与える
ことを約束し「両人は常に睦まじく、ともに打ち出でて攻め伏すべし」
と命じたという。
信長の期待通り、2人は手を携えて赫々たる武勲をあげた。
天正5年10月には、三日三晩の激闘の末に丹波亀山城を攻略。
光秀が城主に就任し、翌年4月に催された連歌会では、藤孝が「亀の尾
のみどりも山のしげりかな」と発句を詠み亀山の繁栄を言祝いだ。
その数か月後には、信長の口添えで忠興との婚姻が成立し、両家の絆
はいっそう深まった。
同8年には光秀の協力の下で丹後南部の平定を完了。藤孝は宮津城に拠
点を移し、丹後12万石の大名になる。


君となら黙って歩きたいまぶた  中村幸彦


だが2人の蜜月関係は光秀の謀反によって終わりを告げる。本能寺の変後、
光秀は各地の大名、武将に協力を呼びかけた。しかし、もっとも頼みとし
ていた細川親子は応じることなく髻(もとどり)を切って信長への弔意を
示し、忠興は、妻のを大逆人の娘であるとして丹波三戸野に幽閉した。
光秀に対する事実上の絶縁宣言であった。
驚いた光秀は父子に覚書を送り、家老や武将を出して自分に協力してほし
いと呼びかけ、摂津または但馬・若狭を恩賞として与える旨を約束したが、
細川家の存続を優先する藤孝が翻意することはなかった。藤孝は中国から
軍を返してきた秀吉に使者を送って、光秀に与しないことを誓い、秀吉は
山崎の戦いの1ヵ月後、藤孝父子に「自今(いまより)以後、疎意有り間
敷く」という聖書を送り、その身上を保証した。


武士だった遠い昔を知る墓標  宮井元伸

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