忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1] [2] [3] [4] [5] [6]

枯れてほしいものを残してみんな枯れ  島田握夢



「詠史川柳」―天保の改革

天保の改革は、合巻の代表的な戯作者二人を「風俗に拘わる」として葬りさった。また版元にも苛酷であった。版元鶴屋「田舎源氏」の評判を得て一時傾きかけた家をやや持ち直したが、この改革で「其板を失ひ忽ち没落せり」という憂き目に遭った。好色本を画いた絵師、国貞国芳英泉にもお咎めの手は伸びた。歌舞伎役者・遊女・女芸者等の錦絵は風俗に拘わるので、新規の出版はもちろん既刊のものも今後は一切売買禁止。団扇絵も同断。合巻については、芝居の趣向取りや登場人物の役者似顔は禁止。ひたすら忠孝貞節・児女勧善の主旨に徹すること。また表題・上包の色摺も禁止された。

見たくないでも見たくなる蛇の穴 藤井寿代

この改革は天保12年5月15日、幕閣の人事異動から始められ、老中に就任した水野忠邦の采配にはじまる。ここでは、天保13年12月末、53歳の為永春水が風紀粛清に触れたという疑いで北町奉行所に出頭を命じられたところから、天保の改革を見てみる。春水の取調べは遠山の金さんの綽名をもつ遠山景元である。歳末多忙の際なので一応の取調べのみで、ひとまず年を越すことになった。が、いかに我々が知るところの遠山の金さんが取調官の長だからとはいえ、テレビドラマのような具合にゆかない。

銘水の味を損ねる紙コップ  岸田万彩

それどころか随分と厳しい訊問だったようである。なにしろ、改革の推進者の水野忠邦のこの改革における意気込みは凄まじく、それは例えば「烏頭大黄(うずだいおう)の激剤相施し申さず候ては、とても効験得がたく候」と言うように、かなりきつい目の薬を飲まさねば、成果は出ないということで、寸分の仮借もない。なお、春水召喚の半年ばかり前、合巻『偐紫田舎源氏』柳亭種彦が死に追いやられている。偐紫田舎源氏の内容や歌川国貞の挿絵が、将軍・家斉や大奥をモデルにしているのではないかと詰問され、絶版にされたのが因で種彦は自殺したのである。

もういいよそしてだあれも浮いて来ず 嶋沢喜八郎

同じころに、歌舞伎の七代目・市川団十郎が江戸十里四方追放になっている。七代目は「大江戸の飾海老」おおえどかざりえび)と呼ばれて江戸市民の誇りでもあった千両役者だった。さらに幕府は、「風俗矯正・質素倹約」の実をあげるためといい、たとえば、「川筋の日覆船(ひおおいふね)は寒中といえども簾を巻き上げておくこと」というような馬鹿げた命令も出している。男女の客が簾を下げたままいかがわしい行為に及ぶことが多いので、それを防止したいというのだ。ほかにも、野菜の促成栽培やもやし豆まで贅沢だからという理由で禁じている。

その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子 

このような騒ぎの最中に奉行所からの差紙が舞い込んできたのであるから、春水が驚いたのは無理はない。ひょっとすると種彦の二の舞いになってしまう。翌天保14年は正月下旬から北町奉行所の吟味が再開された。そして吟味中に手鎖、6月16日に裁許落着、現実に題材を求め風俗に害をなす人情本を書いたというかどで、春水の人情本版木が大八車に5台分没収焼却された。桜の刺青と共に権力を背中に背負った遠山の金さんにとってみれば、「これにて一件落着」の台詞ですべておしまいになるのであるが、裁かれたほうはそうはいかない。すべての厄介は、裁判官が「一件落着」と言ったところから、新たに始まる。春水は憂悶を発して苦しみ、その年の12月22日、神田多町の自宅でついに死んでしまう。

国境をまたぐと飢餓の臭いする  菱木 誠

「神功皇后」の画像検索結果

≪神功皇后≫ 

茶筅髪三韓までも掻き回し

神功皇后仲哀天皇の皇后だが、天皇急死の後、神言によって新羅を攻め、三韓(高句麗・新羅・百済)を征服して凱旋する。茶筅髪は江戸時代の髪型で神功皇后の時代にその髪形があったわけではないが、川柳独特の「時代ごちゃ混ぜ」の句で、茶筅で茶をかき混ぜるように三韓を掻き回したというのである。この時皇后は、妊娠中で凱旋後九州で出産。のちの弓矢神とされる応神天皇である。

新羅攻め前御鎧のご注文

新羅攻めの前に妊婦用鎧をきっと注文されるたのだろう。

勝ち給うはず腹中に弓矢神

何しろお腹の中には弓矢神がおられたのだから、戦勝されるのは当たり前なのだと。

黙っているだけで華やかなオーラ― 荻野浩子

≪仁徳天皇≫

御製(ぎょせい)にも漏れしかまどの一人者

ある時、仁徳天皇が高い山に登って四方の国をご覧になると、炊事の煙が見えない。これは民が困窮しているからだと気づいて、三年間税の取り立てを免除された。そのため宮殿は荒れ果てたが、三年後に再び国中をご覧になると、煙がいっぱい立ち上り、みんな豊かになったのだと喜ばれた。「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ民の竃はにぎはいにけり」新古今和歌集をふまえている。

ありがたい御代は竃に立つ煙

三度づつ御製に叶う有り難さ

これは仁徳天皇を称えるふりをして、実は徳川の治世を礼賛している。べんちゃらをしているのである。最初の句は、一人者の竃は、御製に漏れた存在であるから、めったに炊事の煙なんか立てないというのである。

煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗 

拍手[3回]

PR

うしろの正面不動明王にらみおり               田口和代

拡大してご覧ください
 山東京伝黄表紙

寛政の改革は、天明7年(1787)から寛政5(1793)にかけて、享保の改革を下敷きに老中・松平定信が行った幕政改革である。改革における禁止条目は、増加することはあっても減るようなことはない。先の享保の改革では、まだ緩やかだった取り締まりが、寛政の改革でいっそう厳しいものになる。

「詠史川柳」-寛政の改革

田沼政治を覆した白河藩主・松平定信は、御三家や11代将軍・徳川家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の強力な推薦を受け、1787年6月老中に就任、寛政の改革を開始した。定信は8代将軍・吉宗の孫であり、新参成り上がりの田沼の政治に対し、不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。定信は、けっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。

コンパスで描いた円はつまらない 
竹内ゆみこ

この寛政の改革のひとつの眼目は、出版に対する強烈な弾圧であった。書物および草紙類の新規出版禁止。禁じたものは、『当世を一枚絵等にすること、通説以外の異説を題材にすること、風俗に拘わる好色本、無用の手を加えた高価なもの、古代を装って不束なことを展開する子供向け草双紙、浮説を写本にして貸し出すこと』義務付けられたのは、『華美贅沢にならないよう質朴を守ること、奥書には、作者と板元の実名を記すこと』もっともどうしても出版したいというのであれば、『奉行所へ伺いを立て許可を得ること』というものであった。

黒子がいいそれが一番よく似合う 
桑原スゞ代

ともあれ今後、書物・草紙屋は、相互に吟味して制禁書物類の密かな流通を見逃さないようにする。また手許に送られてきたら、必ず奉行所へ届け出てその差図を受けるように命じられたのである。この取締り方針は基本的には、享保7年11月の触書を踏襲している。それに現存する諸大名や旗本の先祖について書くことも禁止されたし、博奕及び遊里の趣を書き表すことも厳禁された。

すたすたとやってくるのは冬だろう 山本昌乃

 
 偐紫田舎源氏

これで女郎買いをおもしろおかしく書いて人気を博していた洒落本は息を止められた。寛政の改革に好意的だった「文武二道万石通」の作者・喜三二も、戯作の筆を折ることを余儀なくされ、同じ傾向の「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶにどう)の作者・恋川春町にいたっては、切腹したという噂が伝わっている。山東京伝「錦の裏」で手鎖50日に、また為永春水は、長い吟味の後、翌13年2月に手鎖50日に処せられ、翌14年2月14日に病死している。柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』は十三年の正月出版は叶ったものの旗本の組頭から「高屋彦四郎(種彦)其方に柳亭種彦という者差置き候由、右の者戯いたすこと宜しからず、早々外へ遣わし、相止めさせ申すべし」と断筆を迫られ、その6月19日には病死している。

トトロとすれ違う暗渠の中ほど  
井上一筒

その他では、出版社・蔦屋重三郎は身上半減の罰金、その出版を容認した書物行司ふたりは商売を禁止された上、現住地から追放された。この厳しい改革の中で狂句や川柳がのうのうと風刺を書いていることが許されるわけがない。こうして風刺や滑稽を効かせた575は、詠史川柳へ逃げるほかはなかったのである。

一八〇度の転身をして返り咲く  
清水久美子
  拡大してご覧ください
≪素戔嗚尊≫(スサノオノミコト)

どっちらも好きで大蛇(おろち)はしてやられ

天照大神岩戸隠れの原因を作った素戔嗚尊は、神の国から下界へ追放されるが、そこでは「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」という偉業をなしとげる。八岐大蛇は八頭八尾を持ち、身体には苔や木が生え、長さは八つの谷や丘にわたり、毎年現れては娘を食べるという怪獣である。スサノオは八塩折(やしおおり)という強い酒を作って八つの酒器に入れ、大蛇がやってきてその酒を飲んで眠ったところを見計らって退治したのである。句は、大蛇が女も酒も両方とも好きだったからやられたのだという。

神代にもだますは酒と女なり

昔も今もとこの句の解釈は不要だろう。スサノオが退治た大蛇切り刻んでいると、尻尾から剣が出てくる。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)で岩戸隠れのときに作った勾玉・鏡とともに「三種の神器」とされる。

名案がある荒縄を置いてゆけ くんじろう

【知恵袋】

素戔嗚尊は「古事記」では須佐之男命。伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国の穢れを落とすために日向の檍原で禊を行なった際、左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオの三貴子が生まれた。イザナギは、その三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。

見込みある男飛びだす土砂降りへ 柴本ばっは

「日本武尊」の画像検索結果

≪日本武尊≫(ヤマトタケルノミコト)

女形その始まりは日本武

景行天皇の第三皇子である小碓尊(オウスノミコト)は、勅命によって西方の賊・熊曽建(クマソタケル)の平定に出かけ、女装して宴席に潜り込み討ち果たす。その時、熊曽建が皇子を称え日本武尊の名をこう奉ったといわれている。

御神徳氷で草の火を鎮め

日本武尊は続いて東国の平定に向かうが、相模国の草原の中にいた時、地元の国造(くにのみやつこ)が日本武尊を焼き殺そうと火を放った。その危機に日本武尊は、草薙剣で風上の草を払い、火打石で風下の草に火をつけて脱出をしたという。(氷は剣のこと)

ピンチでも平常心という強さ 神野節子

拍手[2回]

サイダーを飲んでくるりと裏返る  石橋能里子

拡大してご覧ください

「詠史川柳」―享保の改革

江戸は政治の中心地でしたが、文化の伝統がなかったので、元禄
時代までの江戸の文化は、上方中心のそれには叶いませんでした。
しかし宝暦の頃を境に、京阪中心の文芸はその勢力を江戸に譲る
ことになります。いわゆる文運東漸です。
この時期には、黄表紙・洒落本・狂歌・川柳等々遊戯的、享楽的気
分の濃厚な軽文学が新たに登場して、江戸文芸はにわかに活況を
みせはじめていました。

早咲き遅咲き一度はきっとは咲はずだ 森下よりこ

ことに川柳は、深い洞察力と機知によって、人間の喜怒哀楽を17文
字に凝縮させた文芸で、俳句のように季語や切れ字といった面倒な
約束事に拘束されることなく、多くの句材の中から、人事人情に関す
るものに滑稽・穿ち・軽み・風刺といった要素を加え庶民の間にまで、
その魅力の広がりをみせていました。
ところが「江戸の三大改革」という政治の介入により、罰則を恐れて、
リアルなものより、伝統や歴史の事件、歴史上の人物を詠みこんだ
川柳へと逃げこんでいくことになります。それが「詠史川柳」です。
詠史川柳とは、古典などに登場する往時の貴人や歴史上の有名人
などの行為を眼前に見る情景のように活写したもので、傍目では過
去のことを語っているように見せながら、滑稽と皮肉を隠し味にして、
政権への細やかにも不満と反抗を表現してみせたのです。

君らしく咲いてくれればそれで良い  杉山太郎

その裏事情。享保年間(1716~36)に「時々雑説、或は人の噂を
出版してはならぬ」という厳しいお達しが出ました。享保の改革です。
誰にとっても一番興味のある「時事問題や市井の恋愛や心中等々を
取り扱うことまかりならぬ」というのです。先に言うように、川柳しかり、
戯作でも芝居でも、すべて時代を鎌倉時代や室町時代に移行して、
場所は鎌倉、人物の名前も頼朝や弁慶、畠山重忠などに仮託する
ことになり、『忠臣蔵』では、吉良上野介高師直(こうのもろなお)、
浅野内匠頭塩冶判官(えんやはんがん)に仮託されたのは、こう
いう禁令を誤魔化す手にほかならなかったからです。

こうして誕生した詠史川柳やえ!と思う意外な歴史に触れながら、
今年の一年、話を進めていきたいと思っています。お付き合いの程
よろしくお願いいたします。

真っすぐの鉄条網はありえない 森田律子

≪天照大神≫

わっさりと岩戸開けんと四方の神

日本には神様は数々いますが、最高の神様は、やはり日の神・天照
大神でしょう。スサノオうの尊の乱暴な行動に怒った大神が、天の岩
戸に籠ってしまわれると世の中が真っ暗になりましたので、八百万の
神々が集まって岩戸を開ける作戦を開始しました。

うずめおどりが所望じゃと神つどい

「うずめ」「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)のことですが「おかめ」
の意味にも使われます。
『古事記』によりますと、かなり刺激的なお神楽だったようですから、
神々も拍手喝采だったようです。

天の戸をうすめにひらくにぎやかさ

あまりの賑やかさに天照大神は「なんだろう」と少し岩戸をお開けにな
りました。
お神楽に角行の利きほど日が当たり、お神楽をやっている神様に、
将棋の角の利き道のように日が当たると、いよいよ天手力雄神(あめ
のたちからのおう)の出番です。

神代でも女でなけりゃ夜が明けず

鏡を見ない一日だった独り部屋  瀬川瑞紀

≪天手力雄神≫

岩戸までその日戸隠し闇で行き、戸隠は天手力雄神のこと。
岩戸を開けた手力雄が、天照神が二度と岩戸に隠れられないように、
開けた岩戸を放り投げたところ、信州に落下して戸隠山になったという
伝説があります。

戸隠は手の這入るほど開くを待ち

腕限り天の岩戸を取って投げ

信州へ地響きがして日が当たり

戸隠は油の値段ぐっと下げ

その後は神楽も要らず初日の出

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子

拍手[3回]

 拡大してご覧ください

         

               
               


             かんばんの  達磨にめでて  札かえば 
                                      木戸あいらくも われとひらけり


                              
                     2019年 1 月 1 日
                           

                       了 味 茶 助

拍手[1回]

あなたより先に電車が来てしまう  河村啓子

 

明治10年9月、一つの大きな星が、距離5,630万km、
光度-2.5等あまりにまで接近し、輝きを放っていた。
当時の庶民はこれが火星である事は知らず、「急に現われ
た異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした
西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、「西郷星」と呼
ばれて大騒ぎになった。 やがてこれに便乗し、西郷星を描
いた錦絵が何種類も売り出されて人気を博した。また土星も
この時に火星の近くに位置していており、11月には、火星と
0度11分のところまで近づいたことから、つねに西郷の近く
にいた桐野利秋に因んで、それを「桐野星」と呼ばれた。

ガラガラポン秋は詩人のためにある  雨森茂喜

「西郷どん」 勝海舟も見た西郷星

西郷が西南戦争を起こし、利あらずして退却を繰り返している
最中の明治10年8月23日、梅堂国政描く錦絵「西南珍聞俗称
西郷星之図』が出た。そのころ東京や大阪で話題を呼んでいた
毎夜東方のの空に出る「西郷星」の絵である。「毎夜8時頃よ
り大なる一星光々として顕わる、夜更るに随い明かなること鏡
の如し、識者是を見んと千里鏡を以って写せしが其形人にして
大礼服を着し、右手には新政厚徳の旗を携え、厳然として馬上
にあり、衆人拝して西郷星と称し、信心する者少なからず」『奇態流行史』にある。

キャベツ畑で育つ次の十年  山口ろっぱ

つまり、生きていながらも≪星≫になっていたということだが、地位や名誉にこだわらない西郷には若いときから本拠地は天の
ような感じがあった。だから現世の利益にはこだわらなかったとも言える。いわばこの「未完の大将」に人々は惹かれた。西郷の人生は晩年にまでは至らない。永遠の青春小説なのである。

少し時間下さい 胸をうずめます  太田のりこ

とりわけその若さ、ひたむきさに惚れたのが、勝海舟だった。
江戸無血開城を西郷と共に成功させた海舟は、明治14年に
「是南洲翁死後五回之秋也」として、次の漢詩を作っている。

惨憺たり丁丑(ていちゅう)の秋 
思いを回らせば一酸辛 
屍は故山の土と化し、
遺烈精神を見る。

旧幕臣を統制して一兵も西郷軍に参加させなかった海舟だが、
西郷を愛することにおいては、誰にも負けなかったのである。

君のこと好きです 広い意味ですが  前原正美

そして、それから二年後「友人海舟散人と署名して、また
漢詩を作った。

亡友一高士 剣を握って大是を定む  
衣を払って天真を思ひ 偉業は胸裏に忘る  
悠然躬耕を事とす 嗚呼南洲氏  

敵としては正理を闘わす可く  
共に謀っては国紀を輝かす可し  
世変足下に起こり  賊名の謗りを甘受す

この残骸を擲きし  希はくは数弟子に報いん

毀誉はみな皆皮相  誰か能く其の旨を察せん

唯だ精霊の在る有らば 千載知己を存せん

 

「毀誉はみな皆皮相  誰か能く其の旨を察せん」に、
私は、自分だけは分かっているぞという海舟の自負をみる。

 

泣ききって早く日めくり明日にしよ  喜多川やとみ 

 

【付録】 岩山トクの回想(西郷の想い出)

 

岩山トクは西郷の妻イトの妹で、義妹にあたるため生前の
西郷と親しく接したという。そのトクが西郷の話をしたも
のがテープに録音されて現存している。これによると西郷
は、味噌や醤油を作るのが上手だったという。明治時代に
武村に住んでいた頃、自分で作るのではなく倉の中で手ほ
どきをしたらしい。「男子厨房に入らず」の時代に西郷は
家事に関心があったようだ。またその時、お客さんが来て、
イトを女中と思い「西郷さんはいらっしゃるか」と聞くと、
イトも女中のように返事していたそうである。この頃、西
郷家には、たくさんの書生や見習いが住み込んでいたので、
イトは女中と勘違いされるような仕事をする必要はなかっ
たが、一緒になって家事を行っていたようだ。西郷が手ほ
きを行い、イトが皆と一緒に家事を行う姿を想像すると
微笑
ましい。さらに料理が出来ると、西郷はなんでも「こ
れは良
くできました。おいしゅうございますよ」と言って、
一つ一
つ褒めたという。それに対してイトは「(人前で褒
められ)
かえって、恥ずかしいじゃありませんか」と言っ
たが、西郷
は、いつも感謝の気持ちを言葉にしたという。
       これにて西郷どんおしまいです

 

振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子

拍手[2回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開