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川柳的逍遥 人の世の一家言
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粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな


「西郷どん」 薩摩藩家老・小松帯刀

薩摩藩の家老・小松帯刀は、天保60年(1835)10月14日に生まれた。

坂本龍馬、土方歳三、松平容保、松平容保、篤姫らと同じ生まれ齢である。

小松は藩主・島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、

藩主・忠義の父・島津久光のお側用人となって公武合体活動に参加。

歴史的に小松帯刀の名は、西郷隆盛大久保利通の陰に隠れがちだが、

その実、薩摩藩の在京重役のトップで久光不在のときは、藩の最高決定

権をもつ。

久光の側詰兼側役、さらに江戸家老、国家老に昇進したとき、

まだ弱冠28歳だったというから、いかに優秀な人材だったかがわかる。

 鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

西郷・大久保の手綱を握っていたのも小松だった。

小松は島津久光と義理ながら、甥にあたる。

久光との強固な縁も、小松の政治的な地位や実力を裏付けていた。

 英国の外交員・アーネスト・サトウは、小松を次のように書いている。

「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、

そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、

それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。

顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌を損なっていた」

外人の目にも小松の大きさが、分かるほどのものだった。

人間が描けない色で花が咲く  寺川弘一

小松は朝廷や公卿の間でとても人気があり、頼りにされていた。

西郷・大久保よりも家柄がよく、人柄がよかったからだろう。

例えば、小松が帰国しようとしたら、近衛忠煕(ただひろ)忠房父子は書状で、

「父子ともに痛心している昨今、小松が滞京していないと大きい差し支え

があり、当惑すること限りない」

と懸命に帰国を引き留めようとしている。

 また小松は、一橋慶喜からも信任されていた。

上の近衛父子の書状の追記に「一橋も帯刀を厚く頼りにしており、

あれこれ相談にのってもらいたいと言っている」 と書いている。

 第三章を水として生きてゆく  日下部敦世

元治元年(1864)、禁門の変前後まで、薩摩藩は慶喜と良好な関係にあった。

同年11月、幕閣が慶喜を更迭して江戸に召還しようとしたとき、小松は

「薩は橋公に組(与)して天下両立」

も辞さないと、慶喜を擁護の姿勢を示している.

その一方、禁門の変で長州勢が禁裏御所に接近したとき、

慶喜が薩摩藩に出陣を命じても、朝廷の命令がなければ出陣しないと

拒絶して断固たる態度も示している.

薩摩藩は「朝廷第一主義」を藩是とした

左足北北東に置く履歴  河村啓子 

「小松帯刀 京都邸お花畑」の画像検索結果
幕末に薩長同盟が結ばれた地とも言われる京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸
御花畑おはなばたけ」の詳しい場所や規模を示す絵図と文書などが、鹿児島、京都で
見つかった。現在の京都市上京区の森之木町など3町にまたがる約5900
平方メートルの広大な敷地だった。

しかし慶喜は、結局、幕府の利害に拘束され、一会桑勢力の中心となって

第二次長州征伐を強行して薩摩藩との対立を深めた。

 薩摩藩は「一藩割拠」へと舵を切る。

そのために軍隊の洋式化と海軍の充実を図る。

小松は海軍掛として責任者となった。

一方で、同じく幕府と対決して「一藩割拠」策をとらざるを得なかった

長州藩と接近する。

長崎にいるとき伊藤俊輔と井上聞多と会見、その依頼を受諾して、

薩摩藩名義で軍艦と小銃を購入するなど援助した。

そうした交流の積み重ねにより、慶応2年(1866)1月「薩長同盟」

締結される。

場所は京都の小松屋敷(御花畑)だったことにも、

小松の重要な役割がわかる。

 止まり木に止まり木なりのお作法で   山口ろっぱ

 ここに小松の人柄と器の大きさを示すエピソードがる。

禁門の変において小松は、西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。

作戦会議のため、西郷は自宅へ初めて小松を迎える際、わざと寝転がって、

小松を待った。小松の器量を試すためである。

普通ならその西郷の無礼な態度に、怒って帰ってしまうところである。

ところが小松は違った。

怒るどころか小松は、枕を持ってこさせ、西郷の疲労を気遣うように、

ゆっくり眠らせてやろうとしたのである。

これに西郷は、慌てて飛び起き自分の非礼を詫びたという。

(だが、成長したこの時期の西郷がこんな態度をとることはありません)

 やさしくて忘れるほうを選んでる  三好光明

「小松のエピソード」

①   安政3年(1856)4月23日から二週間、小松は千賀と千賀の父を

も連れて、新婚旅行を霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。

    慶応2年(1866)龍馬が寺田屋事件で負った傷を癒しに、お竜と

  出かけた新婚旅行が最も古い記録とされているが、実際は小松帯刀

  夫婦の方が、それよりも10年早い記録なのである。

②    久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の離島から鹿児島への帰還

と戻ってからの久光との再会に、最も尽力したのが実は小松である。

④    龍馬の新政府の人事構想の中で小松は、西郷や大久保、桂らを抑えて、

筆頭に挙げられていた。

今日こそは静かにしとこ思たけど  一階八斗醁

北斎漫画ー太った人

「付録」 お虎

西郷は太った女性が好きだったようで、様々な逸話が残っている。

お虎という愛人がいたが祇園のお茶屋・奈良富の仲居だった。

 一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪で、その豪快さを西郷は愛した。

 あだ名は「豚姫」で、大柄な女性だった。

西郷がお虎を使って、敵の情報を探らせたという話も残っている。

 また東征軍を率いて京を発つとき、お虎は別れを惜しんで、

京から大津まで駕籠をうたせて見送ったという。

西郷は非常に喜び、褒美に30両を贈ったのだった。

 会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ

江戸城無血開城のあと、お虎にある任務を与えている。

 それは江戸に行き、赤坂氷川町の勝海舟邸に3万両送り届けるというものだった。

 その頃、旧幕臣は勝のことを「江戸城を明け渡した裏切り者」だと決め付け、

勝海舟を斬ろうという声が持ち上がっていたからである。

西郷はそんな勝のために逃亡資金3万両を手配し、お虎に届けさせたという。

 (ただそんな大金をどうやって運んだのか…などなど疑問の残る)

海舟は、お虎のことを「どうも言うに言われぬ良いところがあった」と書いている。

お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだ

そしてその3年後に亡くなったという。

また西郷が愛した女性に井筒の仲居・お末もいた。

お末も大女だったという。

ちなみに愛加那も大柄だっただったらしい。

3番目の妻・イトは痩せているという例外もあるが…。

次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志

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希望という名の電車が走らない  菱木 誠

1863年頃からの出来事を期した瓦版

「西郷どん」 池田屋事件

薩摩藩の国主・島津久光による赦免を受けて鹿児島へ戻った西郷は、

早速、京における薩摩藩軍の責任者として京都に赴くことになった。

京に着いてからは、市民の薩摩藩に対する敵対に驚き、それを改善する

べく京都での薩摩藩の活動を取り締まっていたが、幕末の情勢はそれだ

けで許すほど甘くはない。

「八月十八日の政変」で京を追われた尊攘急進派は、失地回復をもくろみ

地下活動を行っていた。

それに対して京都守護職、京都所司代、新撰組
は、テロ行為を目論む不逞

浪士たちの取締りを強化した。


そんな中、西郷は険悪になっている長州との和睦を真剣に考えていた。

自ら大坂の長州藩邸に出向き、和睦について話し合おうとしたのである。

ところが西郷は誤った認識をしていた。

セメントをヘクソカズラが割って生え  岡本なぎさ

薩摩が長州と敵対関係になったのは、幕府の策謀のためであり政略では

なく誠を尽くして話し合えば、長州の誤解は解けるはずだと考えていた。

しかし今の状況は、久光大久保が公武合体策を推進した結果であり、

その路線を改めない限り、長州との協調はなかったのである。

離島にいた西郷は、そのことに気付かなかったが、久光は認識していた。

よって西郷のこの行動は認められず、計画だけで終わった。

明日なら飛べると思う水たまり  瀬戸れい子

元治元年(1864)6月5日のそう早朝のことである。ある商人が新撰組に

捕えられたことから
事態は急変する。男の名は古高俊太郎で、

桝屋喜右衛門という変名を使っ
て志士達の武器調達を担当していた。

新撰組副長の土方歳三が屯所・前川邸の土蔵で拷問にかけ、桝屋のあら

ゆる物を隠し得る隅々まで調べたところ、同志からの手紙が多数発見され、

恐ろしい計画が露見したのである。

その内容は、市中に放火し混乱に乗じて公武合体派の中川宮京都守護職

松平容保を襲撃し、孝明天皇を山口城に連れ去るこおと。

その実行日
は6月22日頃とする、というものであった。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ

 
 浪士が籠もる部屋へ突入をはかるる新撰組4士

その日の夜、志士達は古高を奪還するかどうか、池田屋で相談していた。

そこに新撰組が突入した。


池田屋の2階には、長州、土佐、肥後など20名以上の諸藩の志士がい

たが、新撰組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のたった4人

多勢に無勢であったが、志士たちは、近藤隊が少数であるとは知らず、

寝込みを襲われた感で、逃げ惑うことしかできなかった。。

やがて応戦する志士に近藤らは苦戦を強いられたが、危機一髪、別働隊

の土方歳三
隊24名が池田屋に到着し決着がついた。

志士側は多数の死者を出し、20余命が捕縛された。

鍵穴に潜む地獄と天国と  上田 仁

西郷はこの時、伊地知正治、吉井友美、木場伝内と伊丹にいた。

兵庫に向う途中の宿で池田屋事件の報を聞いた。

深夜2時頃、会津藩の捕縛の情報を得て、急いで京に戻った。

一ヵ月後の7月19日、早朝、長州軍が御所めがけて進軍を開始した。

世にいう『禁門の変』の火蓋が切って落とされたのである。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ


   禁門の変

【付録】 「八月十八日の政変」

長州藩の下関での攘夷戦は最終的には失敗に終わったが、依然として三条
実美ら尊攘急進派の公卿が朝廷を牛耳っていた。真木和泉らも国
を挙げて
の攘夷と倒幕計画を画策し、過激な運動を行っていた。

この状況にあって、中々攘夷を実行しない幕府に業を煮やした孝明天皇は、
公武合体派の会津・薩摩に期待をかけ、宮中内でのクーデターを画策する。
そして8月18日の早朝、会津・薩摩の兵を宮門を固めさせ、公武合体派
の公卿らによる御所会議を開いた。そこで大和行幸
の延期、三条実美らの
参内や外出等の禁止、長州藩の堺町門警備の
解任が決められた。
尊攘急進派の公卿や長州勢は、京都から一
掃されることとなったのである。
世に言う「七卿落ち」である。


沈黙を破り空気を入れ替える  高浜広川

この政変によって公武合体派が完全に御所を掌握し、孝明天皇は今まで
詔勅は、尊攘急進派に強要されてののもので「朕の真意ではない」と告白。

島津久光は、9月12日に1万5千人の軍勢を率いて嬉々と京にのぼった。
この時大久保も行動を共にしている。さらに一橋慶喜や松平春額、宇和島
伊達宗城、土佐の山内容堂も上洛し、雄藩の諸侯が連合して朝廷の実験
を握り幕政に関与しようとした。公卿や幕府は抵抗をしたが、12月末に

慶喜、春額、宗城、容堂、容保らが朝議参与となり、翌元治元年は、久光
加えられ、六候による参与会議の形態が誕生した。ところが発足してす
ぐに
内部対立が生まれ、わずか3ヶ月で空中分解してしまう。みな我が儘
殿様育ちで議論が進まず、牽制し合うだけで妥協点を見出すことが出来
なかった。


ひとりふたりと抜けてく座布団の寂寥 杉浦多津子

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頬杖のあとが三日もとれません  森田律子


  佐藤一斎

西郷が沖永良部島で同じ流罪にあっていた薩摩藩の学者・川口雪篷
佐藤一斎(言志四録)を教えられ、その後一斎は西郷の心の師となった。

「西郷どん」 西郷復帰

大久保一蔵島津久光が趣味の碁を自身も習得することによって接近し、

その人間性を徹底的に分析した。
                 くすぐり
その結果、主君の自尊心を擽り乍ら
思い通りに操る方法を確立させた。

そして薩摩藩の内政についても、実験を掌握することができた。

そこで大久保は西郷の復権を画策し、久光に西郷の赦免を働きかけた。

しかし久光は西郷赦免に強く抵抗する。

兄・斉彬と比較して、自分に辛らつな評価を下したことを忘れていない。

初対面の場では、自分を「地ゴロ(田舎者)」とまで呼んだ。

西郷は、久光より十歳年下でもあった。

屈辱を味合わされたことで、どうしても感情が先走る。

西郷への複雑な感情は終生消えることはなかった。

うなだれる時間は記録更新中  山口ろっぱ

その頃、薩英戦争の顛末を風の便りで知った西郷は、鹿児島から遠く

離れた絶海の孤島・沖永良部島で地団駄を踏んでいた。

居ても立ってもいられなくなった西郷は、琉球にいる藩士の米良助右衛門

に次の
ような書状を送っている。

「7月、鹿児島湾にイギリスの軍艦が来襲して戦争になったと聞いた。

大変な世上となり、嘆息するしかない。詳報を知らせてほしい」

獄中にいる身が戦況を知っても詮無いこととは思いつつ全藩主・斉彬公の

大恩を受けている身として、薩摩藩が被った災難を傍観してはいられない。

西郷は沖永良部島を脱出して鹿児島に向いたい。

藩の危機に駆けつけるため、禁を犯しても島抜けを計ろうという思いを

胸に秘めていた。

伸びきったゴムでそれでも走るのか  山本早苗


  薩英戦争図-1

一方、西郷アレルギーを持つ久光も藩内の西郷待望論は抑えきれなかった。

大久保も根気強く久光を説得した。

一時は幕府への発言権を得た久光だったが、一橋慶喜の巧みな政略により、

幕府への影響力をもがれ、西郷の必要性を再認識させられていた。

元治元年(1864)2月、ついに久光は西郷赦免に同意した。

28日、西郷は沖永良部島から鹿児島へ戻った。

3月4日には、鹿児島を出立し、京都へ向った。

西郷を京都に迎える大久保たちは、久光との関係を危惧していた。

再び久光の逆鱗に触れる言動に及んでしまうのではないか…と。

綻びを置いてゆくから胸騒ぎ  山本昌乃

だが二度目の配流生活は西郷を大きく変えていた。

佐藤一斎「言志四録」を読み、自省して禅を学び、心を落ち着けること

に努めた結果、慎重な性格も兼ね備えるようになっていた。


3月14日、京都に到着した西郷は、19日に久光に拝謁。

軍部役兼諸藩応接役に任命される。

朝廷、幕府、有力諸藩との交渉役を務めると同時に、

一般有事の際は、薩摩藩兵を指揮する役目が課された。

薩摩藩の京都代表部の地位に就いたのだった。

西郷は、38歳になっていた。

詰め放題です雨上がりの匂い  雨森茂喜

こうして西郷の言動が久光の不興をかうこともなく、大久保たちの

危惧は杞憂に終わる。

その後、西郷は、大久保とともに練り上げた薩摩藩の基本計画に対し、

情勢の変化に応じ、自分なりのアレンジを加えながら混迷を続ける

幕末政局に対処した。

西郷と大久保の関係は、二人三脚というより、大久保が黒子に徹し

西郷は舞台役者として主役を演じていくことになる。

4月18日、久光は後事を家老・小松帯刀や西郷に託して京都を去る。

以後は小松の指示を仰ぎながら、西郷が薩摩藩代表として政治活動を展開。

西郷の動きが薩摩藩・幕末の政局を大きく揺り動かしていくことになる。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ


  薩英戦争図-2

【付録】 薩英戦争

薩英戦争にきっかけは、文久2年(1862)8月に起きた生麦事件である。
東海道神奈川宿近くの生麦村で、久光の行列が騎行中のイギリス人を
殺傷してしまうという、突発的な事件だった。
この事件に、イギリスは軍事的威圧のもと謝罪と賠償金10万ポンドの
支払いを幕府に呑ませた。
続いてイギリスは、薩摩藩に犯人の処刑と賠償金の支払いを求めたが、
交渉は難航する。しびれを切らしたイギリスは、薩摩藩の蒸気船三隻を
拿捕に踏み切る。これを見た薩摩藩は文久3年7月2日開戦を決意する。

かげろうのまんなかへんを跳ぶ虚数  小川佳恵

天保山砲台からの砲撃を合図に、イギリス艦隊への砲撃を開始した。
薩摩藩の大砲は旧式砲だったが、命中弾が多く旗艦ユーリアラス号では
艦長まで戦死する。イギリス側も激しく応戦した。
薩摩の大砲とは比較に
ならない射程距離をもつ、アームストロング砲を
駆使することで薩摩の大半の砲台
破壊に成功する。城下も焼失させたが、
7月4日には、鹿児島湾を去ってしまう。

弾薬や燃料が欠乏し、戦闘の継続が難しくなったからである。

納豆にからまれたので帰ります  中川喜代子


 アームストロング砲

その後戦闘が再開されることはなかった。
薩摩藩側は戦死者5名、負傷者
十数名、イギリス側は戦死者13名、負傷者
50名。薩摩藩は来襲したイギ
リス艦隊を退けた格好だが、彼我の軍事力の
差は認めざるを得なかった。
薩摩藩は砲台の壊滅など再戦は無理と判断し、
イギリスと和平交渉に入る。

結果、犯人の捜索と処刑、賠償金2万5千ポンドの支払いに合意した。
犯人については、行方不明ということで処理され、イギリスもそれ以上追及
することはなかった。賠償金は幕府が立替える形でイギリス支払われたが、
薩摩藩が立替分を幕府に返却することはなかった。

責め際が甘かったのか返り討ち  北原照子

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虹消えた後は私の彩で描く  みぎわはな


   和宮の婚礼

「文久2年の出来事」
坂下門外の変 老中安藤信正暗殺未遂 (1月 )
皇女和宮と第14代将軍・徳川家茂の婚礼 (2月)
薩摩藩・島津久光上洛 (4月)
徳川慶喜・将軍後見職に就任 (4月) 
武蔵国生麦村にて生麦事件起きる (8月)

「西郷どん」 文久2年の出来事

「所詮、わしと久光公とは性が合わぬ」と覚悟し西郷は鹿児島に戻った。

そこで久光の命により文久2年(1862)西郷は、大島吉之助と改名させら

れた上で、最初は徳之島、やがては沖永良部島に流されることになった。

半年前まで滞在していた奄美大島での生活と異なり、今回は流人としての

生活であるから、藩からの生活費の保障はなかった。

西郷が徳之島につくと、奄美大島から愛加那が子供を伴ってきていた。

徳之島の渡海途中に2人目の子・菊草も生まれており、西郷はひととき

家族との生活を楽しんだが、いい状況はそんなに長くは続かない。

すぐに沖永良部島での厳しい生活が待っているのである。

言い勝って胸のあたりに水たまり  嶋沢喜八郎

鹿児島から一番遠い島に流されたのは、暗に「西郷よ、飢え死にせよ」

という久光の意志が込められていた。

久光の気持ちを察した藩の保守層は、残った西郷の家族に謹慎を命じ、

知行など、全部没収してしまった。

それだけ久光の怒りは、大きかったのである。

沖永良部島に着いて西郷は牢に入れられた。

牢は風雨にさらされやすい
劣悪なものであり、

心身への負担が非常に大きかった。


牢内ではさすがに健康を害し、西郷の印象であるでっぷりした体型も

見る影をなくしていたというほどである。

転落はあのこつんから始まった  寺島洋子


太った面影も消えた西郷

しかし、沖永良部島での西郷は奄美大島に渡った時とは、ガラリと人が

変わったように、もう島民たちに対し偏見も蔑んでみる気持もなかった。

最初から、苦しい生活をしている島民たちに同情をした。

今度こそ鹿児島へは戻れない覚悟の上で、彼は島民たちの生活向上に

力を尽くし、学問をどんどん島民たちに教え、また生活向上のための知恵

を与え、労働には自分も参加した。

そんな西郷に感動した現地の役人・土持正照が、まともな座敷牢を造り

住まわせるようにした。

やがて西郷の知己が役人として赴任してきたこともあり、西郷の生活は、

いい方向に改善された。

言い勝って胸のあたりに水たまり  嶋沢喜八郎

ある日、この島に西郷より先に流されていた川口雪蓬という学者が

西郷を訪ねてきた。そして川口は「上杉鷹山を名君にしたテキストです。

鷹山はそこに書かれたことを実行したと言われる本です。」
                                  おうめいかんいそう
といって西郷に一冊の本を差し出した。細井平洲の「嚶鳴館遺草」である。

川口は首を傾げる西郷に言った。
西郷はその本を読んだ。

本に書かれていたのは、


「藩主や藩士のために藩民がいるわけではない。藩民のために、

藩主や藩士が存在するのだ」

西郷は驚き、目から鱗が落ちた。こんなことは考えたこともない。

その夜、西郷は天を仰いだ。無数の星が輝いていた。

「西郷よ、民のためにもう一度立ち上がれ」と告げているようだった。

このとき「敬天愛人」の思想が閃いたときだった。

水際に立って明日を考える  岸井ふさゑ


   生麦事件

一方の島津久光は無位無官の立場ではあったがなかなかの政治家だった。

文久2年4月、計画通り勅使を立てて勅使の供をして江戸城に乗り込んだ。

そして、自分や藩の希望を強引に押しつけた。

人間面でも大きな改革を求めた。幕府は腹を立てた。

しかし勅使がいるので、虎の威を借りるキツネのような久光に対しても

文句が言えなかった。

同年8月、久光は意気揚々と京都へ引き揚げた。


その途中、鹿児島にとっては大事件となる「生麦事件」が起こる。

武蔵国生麦村で行列を横切ったイギリス人を斬殺した事件である。

このことが誤解されて諸国に伝わった。

つまり、「久光は攘夷を実行した」という評判である。

きわどさを選んでしまうハッカ飴  美馬りゅうこ

当初の上洛こそ、幕府人事の変更などの成果を収めたものの、

その後は、尊攘志士を押え切ることができず、更には幕府、朝廷、

雄藩との
折衝にも苦労していた。

久光は尊攘志士の暴発を抑えるために会津藩と手を組んで、

「八月十八日の政変」を起こしたものの、勤皇派とみられていた薩摩が、

会津と組んだことで、薩摩藩自体が諸勢力から「信用ならない」という

目で見られるようになった。

ともかくも政治の前面に出てきた久光だったが、大きな不足があった。

人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一

それは西郷の存在だ。鹿児島藩内のもならず京都・大坂・江戸でも、

「西郷待望論」は渦巻き、絶えなかった。

政治面に厳しい立場に追いやられた久光に対し、「西郷さんを呼び戻せ」

というシュプレヒコールは大きくなっっていく。

久光もバカではない。

やはり自分の野望を遂げる過程で、西郷を抜きにしてはとても薩摩藩が

まとまらないことを身に染みて知っていた。

久光はしぶしぶながら「西郷を呼び戻せ」と命じた。

西郷は戻ってきた。

レンコンの闇から生還を果たす  山本早苗


   坂下門外の変

鹿児島で西郷を切望していたのは、精忠組と呼ばれるグループである。

「誠」を信条とするこのグループは、あまりにも野望を露骨にした

政略を
展開する久光に嫌悪感を覚えていた。

彼らもまた、「斉彬公は違った」と口々に唱えあった。

これが久光の癇の虫にさわる。

久光が何よりも嫌ったのは斉彬との比較だ。

したがって、久光は考えた。

「西郷を使って、自分に悪感情を持つ連中を手なずける必要がある」と。

そうしなければ、自分の幕閣参加の野望が実現されないからである。

身の丈を知らぬ天狗の転び癖  上田 仁

戻ってきた西郷は、もう久光に面と向って罵るようなことはしなかった。

彼は成長していた。

「大きなことをするためには、小さなことは我慢しなければならない

場合がある」と悟っていた。

小魚が大きな魚になり、その大きな魚に磨きがかかっていたのである。

久光は西郷に「軍賦役を命ずる。京都に在駐せよ」と命じた。

他藩との意見の調整や、諸事の斡旋役をつとめる外交官である。

西郷は承知した。

城から退る西郷の後ろ姿を睨みながら、

久光は、銜えていた煙管をガリガリと噛み続けた という。

技ありも一本もない日曜日  くんじろう

【付録】 「南洲遺訓」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は為し得られぬ也」
という言葉が「南洲遺訓」の中にある。西郷はこの言葉の実行者だった。
自分では一切私利私欲もなく「敬天愛人」の心情を基に、生涯の生命を
燃焼し尽くした。2回の島流しで得られたものは、この言葉の体感であり、
その実行力を身につけたことではないだろうか。その芽を育てるために、
肥やしになったものが沢山ある。何といっても、島流しはこの世で言えば、
地獄に落ちたことだから、彼には、そこから這い上がる力と勇気を持って
いたということである。

考える機会あたえてくれた水  立蔵信子

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シーザーの気持が分かる冷や奴  瀬渡良子


  大久保満寿(利通の妻)

「西郷どん」 尊皇攘夷

江戸期、官学は朱子学だった。朱子学は尊王と攘夷に直結しているが、

当時、夷というものが国内におらず、近隣にもいなかった。

ところが、幕末ぺリーショック以来、にわかに「尊皇攘夷」という言葉が、

流行語になり、その大合唱が討幕運動へと転化していくのである。

この尊王攘夷という思想が急速に広まったのは、黒船の脅威もあるが、

孝明天皇が大の外国人嫌いであったこともあり、幕府の弱腰に対する批判

朝廷への期待に変わり、また幕末の日本が、何度も大災害に見舞われた

ことによる、生活苦を招く経済状況の悪化も幕府への不満と
なり、

朝廷期待の裏返しになった。


朝顔の蔓からぬっと湿度計  くんじろう

諸藩においても、特に下級武士の中の若い武士達は、現状への不満、

現状打開への意識から、尊皇攘夷活動へと身を投じるものが増えていた。

西郷大久保もそうした流れを汲んでいたのであり、彼らを中心とした

精忠組が有力な組織として島津久光の機構に組み込まれた。

このような時代背景のなかで尊王攘夷を大合唱する志士達は、朝廷のある

京都へ多数集まって来ていた。ただ当面、尊皇攘夷の為に
何をするという

プランがあったわけではなく、攘夷の邪魔になりそうな者達
を排除しよう

とテロを起こし、そのテロが波及して、京はテロが横行する街
と化した。

闇鍋の中で嗤っているダスト  中村幸彦

こうした状況の中で久光が上京する話が京にも伝わってくる。

多くの尊皇攘夷派は久光こそ尊皇攘夷の牙城と捉えており、

「これを機に、島津の殿様を頭に据えて倒幕をも実現しよう」

とより過激なテロ計画を立てるようになった。

しかし久光は攘夷は考えていたものの、倒幕ではなく公武合体を考えて

いたため、過激な尊皇攘夷が増えることは望んでいなかった。

ゆえに久光は、京都に着く前から尊皇攘夷派を抑えつけるように命じた。

ちりもほこりもぼくの財産だと居座った 神野節子

この事態に驚いた薩摩藩の尊皇攘夷派は、有馬新七、柴山愛次郎、

樋口壮介が中心となり、実力行使によって久光を無理矢理尊皇攘夷活動

に取り込むことを計画した。

具体的には関白・九条尚忠と京都所司代
を暗殺して、その首を久光の下に

持っていこうというのである。


この2人は朝廷と京都における幕府機関においての、公武合体派の中心

人物と目されており、特に和宮降嫁に貢献したことで尊皇攘夷派から

目の敵にされていた。

うす皮をはがすと欲が浮いてくる  靍田寿子

しかしこうした動きは、まもなく久光の知るところとなる。

ただ彼らは寺田屋に
集まっていることは分かっていたため、

まず彼らの決意を変えさせるべく
側近の大久保一蔵、海江田武次、

奈良原喜左衛門を次々と送り込んだが
交渉は不調に終わった。

彼らが説得に応じない場合、上意討ちも視野に


いれていた久光は、次の手段として腕達者な奈良原とは別に、

7人の剣術の優れた藩士を
寺田屋へ同行させていた。

寺田屋に乗り込んだ藩士は、志士側としばらく議論を交わしていたが、

なかなか拉致があきそうもなく遂には、「上意である」と斬りつけた。

よろしいですかと良心を片付ける  山口ろっぱ



斬り合いの末に志士側は有馬新七、柴山愛次郎、樋口壮介、西田直五郎、

弟子丸龍助、橋口伝蔵
の6人が死亡し、2人が重傷を負った。


久光側も1名が死亡、1名が重傷を負った。

尚、久光側の唯一の死者は、道島五郎兵衛であるが、有馬ともみ合いに

なったところ、有馬が「五郎兵衛もろとも、俺を刺せ」と仲間に叫んで

相討ちになったもの
である。

惨劇の末に寺田屋にいた志士達の大半は久光側に従い連行さ
れた。

このうち薩摩藩の者は謹慎処分を、真木和泉ら他藩
のものは追放された。

こうして一時的ではあるが尊皇攘夷派の主要人物
は京からいなくなった。

(因みに、西郷の弟・信吾(後の従道)は寺田屋騒動に参加したが、
 年少(19歳)だったため謹慎処分となっている)


あの頃はレールを食べて生きていた  井上一筒


利通の京都妻おゆう

【付録】 大久保利通の鹿児島妻、京都妻
安政4年(1857)12月、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の二女・満寿は、
御徒目付(おあかちめつけ)を務める28歳の大久保利通(当時・正助)と結婚。
満寿21歳であった。。新婚当初の大久保家は貧しく生活は厳しかった
が、
夫の利通は愛情深く満寿に接したようで、夫婦仲は睦まじかった。

ただ、満寿に関する史料はほとんど残っておらず、詳しい人物像はよく
分か
っていないが、利通が倒幕運動から明治新政府の樹立へ向けて各地に
飛び回り、留守となる家をよく守り、利通も満寿を思ってか、子煩悩で
大変家庭的だったという。安政6年には長男・利和(としなが)を生み。
4人の男児、1人の女児を産んでいる。
ふるさとは余白の多い時刻表 ふじのほろし
 冷徹で非情な人という印象のある利通には、意外にも京都妻がいる。
名は「お雄(ゆう)
おゆうは京都・祇園のお茶屋一力亭の芸妓である。
2人が知り合うのは、薩摩の仲間同士が斬り合うという寺田屋騒動から
間もなくのこと。おゆうは久光のこと西郷のことなど、悩みが絶えない
利通を精神的に支え、出入りの多い来客の接待から、身の回りまでのこと
すべてにわたり誠心誠意、利通に尽くしたという。

そして、おゆうとの間にも、4人の男児をもうけている。
戊辰戦争の勝利の決め手となった「錦の御旗」はおゆうが生地を調達して
作ったと言うエピソード
が残っている。
頷いているだけでいい苦労人  近藤北舟  
 明治6年(1873)利通が初代内務卿となり翌年、満寿たちも東京に移る。
利通は、本妻と実子は本邸に、おゆうと庶子は、高輪別邸に住まわせた。
明治10年、満寿は長女・芳子を生むと、利通はこの娘を溺愛した。
この翌年5月14日、利通は東京・紀尾井坂で士族6名の襲撃を受け死亡。
その後の10月、おゆうが利通の8男を出産するが、満寿は12月17日、
夫の跡を追うようにして世を去った。一方おゆうは長生きをしたとだけ伝わる。

 余談だが、利通の次男・伸顕の娘・雪子が吉田茂に嫁ぎ3女・和子を生む。
その和子が副総理・麻生太郎を生む。あの
寡黙な大久保利通の子孫に口の軽い
麻生太郎がいるとは、とても信じられません。

聞こえない振りもときには良いものだ  瀬川瑞紀

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