川柳的逍遥 人の世の一家言
煮くずれているが男爵芋である 福光二郎
佐野善左衛門政言・江戸城中にて刃傷におよぶ 「江戸のニュース」
若年寄・田沼意知が殿中で刺される 天明四年三月二十四日
若年寄の田沼意知は、老中の田沼意次の長男で、三十六歳の働き盛りだった。
その意知が、殿中で刺された。事件は、この日の正午過ぎに起きている。 意知が、執務を終えて、御用部屋から新番所前の廊下を通って、桔梗の間に
さしかかったところ、控えていた一人の男が突然立ち上がり、 「申し上げます、申し上げます」
と低い声で言いながら、脇差を振りかざして肩口に斬りかかってきた。
たまらず意知は逃げたが、男は意知を追い、逃げきれず倒れた意知の股間を、
二突き三突きした。近くにいた大目付の松平忠郷らが、この異変に気づき男 を取り押さえた。男は旗本の佐野善左衛門。凶行の動機は、もとは紀伊徳川 家の鉄砲足軽の出の意次が、先祖を粉飾するために、佐野家の系図と七曜旗 を善左衛門から借りたにもかかわらず、何度督促しても返却しなかったから… ということだった。 意知は、この傷がもとで四月二日に死亡。翌三日、善左衛門には、切腹が命 じられ、のち浅草の徳本寺に埋葬された。 この事件であるが、賄賂を取ってのし上がった田沼父子は、同情されずそれ
に鉄槌を下した善左衛門を「世直し大明神」として世間はもてはやした。 しかし、善左衛門がそのような決意に至る過程が何とも不自然なため、裏で
善左衛門を、そそのかしたり、けしかけたりした人物が、いたのではないか、 との説もある。 湿っています言いたいことも言えぬまま 竹内ゆみこ
下野國田沼山城守田沼實秘録 田沼意知殿中殺傷事件の顚末書
蔦屋重三郎ー田沼意知城中で刺される
異例の出世を遂げた田沼意次の田沼家は、もともと佐野家の家来だった。
政言(まさこと)は、飛ぶ鳥をも落とす勢いの田沼家のおこぼれを、昔のよし
みで貰いたいと、思ったようだ。当時、田沼は、賄賂を貰って政治を動かして いるとされていたから、政言も、田沼意次の息子で、若年寄の意知に金を渡し、 出世への道筋をつけてほしいと頼んだ。 しかし、政言は、相変わらず新番士のまま、石高も変わらない。なんどか問い 合わせてみたようだが、変わらない。 その上、佐野家の系図も、意次のところに行ったまま返ってこない。
そうした状況に耐えきれなくなった政言は、天明4年3月24日、江戸城内で
意知を斬りつけ、その傷が原因で、意知は翌日亡くなった。 江戸城内での刃傷沙汰というと、「赤穂事件」のきっかけとなった浅野内匠頭
が吉良上野介に斬りつけた事件だけかと思われがちだが、江戸時代を通じて、 他にも数件起きている。 栴檀の高さだうっとおしい森だ 井上恵津子
早々と江戸のニュースが採りあげたように、天明4年(1784) 3月24日の正午
過ぎに事件が起こった。執務時間が終り、執務を行っていた御用部屋から下城 しようと城内の廊下を歩いていた若年寄の田沼意知は、中ノ間から桔梗の間へ 向かう廊下で新番士の佐野善左衛門政言に意知が斬りつけられた。 意知は、脇差を抜き防ごうとするが防ぎきれず、肩などを斬られ近くの桔梗の
間に逃げ込む。後にこの事件で処罰された者が21名であるため、これぐらい の人数が、事件現場周辺にいたと考えられる。 最初に意知が刺された時点で、周りの者が佐野を取り押さえ、彼が医師による
適切な治療を受けられれば、亡くなることはなかっただろう。 しかし、桔梗の間で意知は倒れてしまい、股を刺された。
刺し傷は三寸五分から六分で骨に達し、この傷による出血多量が死因になった
と伝えられている。大目付の松平対馬守忠郷(ただくに)が佐野を取り押さえ、 目付の柳生主繕正が、佐野の手から脇差を落とした。 この事件から9日後の4月2日に意知は享年36歳で死亡。
翌日の4月3日に佐野が切腹させられた。
天啓が下りてつくつくほうし泣く 寺島洋子
「佐野の刃傷事件の記録に『徳川実記』はどう書いたか?」
『4月17日には、大目付と目付は、「佐野が狂信して犯行に及んだ」とし、
「同僚におかしな様子なら注意して観察し、場合により自宅で治療させるよう」 にという趣旨の触れを関係各所に出し、「佐野の狂信」とし、巷で流れる政治 テロ説を改めて否定した。 もっとも、佐野が「ある幕府高官もしくは大名の指図で実行した」と自白したと
しても、公にすれば、黒幕である人物を処罰する必要が生じる。 これだけの事件なら、黒幕は切腹、黒幕が武家の当主であるなら、その武家は、
改易という厳しい処分を下すことになる。改易になった武家に仕える者は、浪人 になり、黒幕の武家の親戚も、連座という形で何らかの処分を下すことになる。 公にすれば、影響を受ける人物の数が多く、事件の影響を最小限に留めるため、
公にせずに「佐野の発狂」という個人の犯行して幕引きを図ったものである』 となる。
真に受けてしまった奴の口車 松浦英夫
「追而」
幕府の記録には、「意知が脇差で防いだ」と記載されている。
意知が逃げ回り一方的に刺され殺されたのでは、「武士としてあるまじき行為= 不覚をとる」ことである。武士は事件の被害者であっても、相手から逃亡し、 背後から斬られることは、「不覚」であり、事件被害者であっても御家断絶か 御役御免など厳しい処分が下されることもあった。 本当に彼が防いだかは定かではないが、体面上そういうことにしておかなければ、
彼の武士としての名誉が守られない。 辻褄の合わぬ話に夜が更ける 高野末次
「世直し大明神」 意知が斬られた翌日から米価が下がったこともあって、佐野は「世直し大明神」
とあがめられたという。 『蜘蛛の糸巻』という随筆によると、佐野は「世直し大明神」とあがめられて、
香花を手向ける者も数多く見られたという。一方で、意知の葬列において石を 投げる者まで現れた。田沼父子の権勢への反感が、それほど強かったというこ とだろう。町の狂歌師たちは、こぞってこの事件を題材に歌を詠んでいる。 「剣先が田沼が肩へ辰のとし 天命四年やよいきみかな」
「金とりて田沼るる身のにくさ故 命捨てても佐野みおしまん」
なお、この時の傷がもとで意知が亡くなったため、政言は4月3日、切腹を申し
付けられた。
田沼意次・意知父子が系図の件で密談を交わす べらぼう27話 あらすじちょいかみ 「願わくば花の下にて春死なん」
蔦重(横浜流星)は、吉原細見だけでなく挿絵入りの青本を作ろうと、鱗形屋
孫兵衛(片岡愛之助)と共にアイデアを考え、ネタ集めに奔走する。 そんな中、須原屋(里見浩太朗)から『節用集』の偽板が出回っていると聞き、
蔦重の中に、ある疑念が生じていた…。 一方、江戸城内では、松平武元(石坂浩二)が莫大な費用がかかる日光社参を
提案する。田沼意次(渡辺謙)は、予算の無駄遣いを理由に、徳川家治(眞島 秀和)に中止を訴える…。 窓枠で切りとるどこにもない景色 宮井いずみ
一方、江戸城内では、財政が持ち直したことを受け、老中首座・松平武元(石
坂浩二)が日光社参の復活を提案します。対して予算の無駄遣いを理由として 田沼意次(渡辺謙)は、将軍家治(眞島秀和)に中止を訴えます…。 さらに将軍になると考えられていた嫡男・徳川家基(奥智哉)も、日光社参を
望んでいると言い、家治は話をはぐらかしてしまいました。 その後、意次は、各家から届いた日光社参取りやめの嘆願書を示すも、家基が
<意次は、幕府を骨抜きにしようとする奸賊>とまで考えている事実を告げた。 家治は、ついに実施を決めてしまいます。 酸欠のまんま 角取れないまんま 中村幸彦
やむなく老中たちの前で、実施決定の旨を告げた意次。
その話を聞いた武元は、暗に「成り上がりの田沼が、大名行列の作法を知って
いるのか」と揶揄。すると意次は、「高家・吉良のように指南してほしい」と 軽口を叩きますが、その表情からは笑みが一瞬消えるのでした。 スパイスが効きすぎているいる一行詩 西田雅子
佐野善左衛門政言 (矢野悠馬) 一方、そのころの田沼屋敷では。
意次の息子・意知が旗本の佐野善左衛門政言と名乗る男と面会することに。
意知の前で「ご覧いただきたいものが」と、家系図を広げた政言。
続けて「田沼家の祖先は、かつて佐野家の末端家臣であり、その家系図は
田沼家の由緒として好きに改ざんしてよい。 その代わりよい役職が欲しい」と意知に伝えると不気味な笑みを見せる。
しかし、江戸城で家柄を揶揄されてきたばかりの意次。
その話を聞いて、政言が持ってきた家系図を、そのまま庭の池へ放り投げる
と、意知に対して「由緒などいらん」と言い放つのでした。 すがりつく腕の力は持っている 吉川幸子 PR 未生流えんぴつ五本挿して夏 井上一筒
小野篁は、平安時代の偉大な漢詩人。この名前を取った教科書で、子どもが漢字 を覚えるための本です。近世初期から幕末にかけて多数の版が作られ、町人の間 でもおなじみの存在でした。だからこそ多くの人に通じるパロディーの面白さが あり、春町の趣向を生かして後年、式亭三馬は「小野愚譃字盡(おののばかむら うそじづくし)」という滑稽本を出しています。 遠い日の偶然からの第一章 山崎夫美子
『小野譃字盡』(国文学研究資料館所蔵) 冒頭に述べた通り、漢字学習のための教科書でもある『小野篁歌字尽』という 本は、江戸初期に作られ、後期まで版を重ねました。 文化3年(1806)に出た式亭三馬の『小野字尽』(おののばかむらうそじづく し)は、この本のパロディーで、第一項には、人偏に「春・夏・秋・冬・暮」 が書いてあって、「春うはき、夏はげんきで、秋ふさぎ、冬はいんきで、暮は まごつき」としています。旁が同じものもあります。 「汀・灯・釘・町・打」の歌は「水みぎは、火はともしびに、金はくぎ、田は
まちなれば、手をうつとよむ」です。 この歌は、「睨み返し」や「掛け取り漫才」など歳末の落語で、パロディーで
あることを離れて、滑稽な歌として枕に使われるようになりました。 ゴキブリも牛丼が好きなんだな 市井美春
蔦屋重三郎ー『小野篁歌字尽』ー③
絵の漢字を読む=〔たゆふこうしもうさんぶつつけ〕
九十匁がたゆふ(太夫)。こうし(格子)六十匁。三分ちうさん(昼三)。
家出の漢字は、揚げ代をもって遊女の階級を表す。
解説=
太夫の位は、宝暦年間に現われたが、揚げ代は【九十匁】、格子は格子女郎。
同時にこの格式はこの当時にはない。揚げ代は【六十匁】。
【昼三】の揚げ代は、「昼三分・夜三分」。この当時、画面のような道中が、
ゆるされるのはこの階級。仲の町の通りを客を迎えに行くわけで【しげみや、 アノ、ぬしが来てか見てきや】と言っている。「ぬし」とは、お目当ての客、 「あの方」といった感じ。「しげみ」は、「禿の名」である。 【ぶつつけ】は、交じり見世にいる揚げ代【一分】の遊女。
もう少しこのままがいい落ち椿 津田照子
絵の漢字を読む=〔大はたきのたまくかんどう〕
毛氈をかぶりますのがおう(大)はたき。酒がのたまく。薦(こも)が勘当。
「下り、諸白あり」という看板の掛かる居酒屋の店頭の景。
解説=
昼から舛で【かぶる】ごとく【酒】を飲んでいる【のたまく】がいる。
【のたまく】とは、わけのわからぬことを、ぐずぐずくどくど、言うくらいに
出来上がった酔っぱらいのこと。 【総体不景気な、ふさ〳〵しい屋台骨だ。今度見やれ、仕方がある】といった
ごとくを並べるわけである。 【毛氈をかぶる】とは、特に親や主人の前をしくじることを言う。
こうなると、当時の通言で【人はたき】、則ち、勘当されたりすることになる。
放蕩のあげく【毛氈をかぶる】仕儀となり、【勘当】された【薦被り】(乞食) が画面下方にいる。【あんな話を聞いても、昔恋しや、腹は淋しや。お余りを くださりませ】と若いのに哀れである。 失敗の記憶ばかりだマンボウだ 宮井いずみ
絵の漢字を読む=かねばこさかてこけぶさきやく
早く空くやつがかねばこ(金箱)。飛ぶさかて(酒代)。惚れるがこけに。
帰るぶざきやく(武左客)。
吉原への道、夜の景。漢字は「早」を部首としてこじつける。
解説=
放蕩に遣い散らしはじめると、【早く空く】のが【金箱】である。
左端の粗末な姿をした若い男がその末路。
【昔は、やりが迎ひにでたが、いまは長刀あしらいより、ぞうりが長刀なりに
なった】と、ぼやく。昔は遣り手までが、丁重に迎えに出てくれるくらいのお 大尽だったものが、今は体よく適当にあしらわれる(長刀のあしらい)。 「長刀草履」は長刀の刃のごとく、片方が擦り減った草履のことである。 画面中央には、【酒代】(チップ)をたんまりはずまれたのであろう、四つ手
駕籠が【飛ぶ】がごとく【早く】走っている。世の中金次第なのである。 【コレハさへ、やつさ、コリヤコリヤ】とは、駕籠かきの掛け声である。
画面右は【武左客】二人連れ。「武左」は武左衛門の略。田舎侍の野暮さ加減を
罵ってかく言う。またの名を「浅葱裏」。武家屋敷の長屋には、門限があるので、 【早く帰る】のを習性とする。【先頃、彼が方より、かくのごとくの玉づさをさ しこした。よつてそれがしかく熱くまかりなったと云々】と、四角張った言葉で 惚気る。「玉づさ」すなわち、手紙は遊女の手管の初歩。この程度で夢中になる、 まさに【早く惚れる】、遊びを知らぬ【こけ】(野暮)。 【なか〳〵われらおよばぬこと。まことに貴殿は当世の大通だ】と、相槌を打つ
連れも同類である。 芍薬を脱ぎ散らかしている吐息 黒川弥生
絵の漢字を読む=やぼつうむすこおやじ
金の死ぬのがやぼ(野暮)に。生かすつう(通)。無くすがむすこ(むすこ)。
番おやぢ(親爺)なり。 解説=
親の前を偽って吉原へ出掛けようとする息子。漢字は金偏で「人種」を表現。
質屋であろうか、帳場格子に「質蔵之掟」という札の付いた鍵がぶらさがって
いる。「紙類品々」と書かれた包みが前に積んである。その奥、帳場格子の向 こうに【親父】がいる。脇には銭の束。とかく【金を無くす】工夫を日々案じ ている【放蕩息子】にとって【親父】は【金の番】そのもの。 目を盗んで、遊びに出るにも相応の知恵がいる。
【今晩、名主様へ謡講に参じます。遅くは泊ってまいります】と言っているが、
謡講をダシにするのは、かなり使い古された手という感がある。 「うたい本おやぢをばかす道具なり」の川柳もある。
親父は、【なんだ名主様へ、舞台子を呼ぶ。人のいたみ(費用負担のこと)な らば行ってみろ】と、通じていない上にあくまでケチ。 迎えにきた悪友が店先にいて、【首尾はどふぞしらん】と、うまく抜け出せる
や否やを窺っている。目ざとくそれを見つけた丁稚が、【モシなんぞ、お買い なさるのかへ。おは入りなさりませ】とは、とんだアクシデント。 真四角になろう成ろうとして楕円 石橋芳山
絵の漢字を読む=おやかたしんぞうはつさくきん〳〵
花色がおやかた(おやかた)。赤いのがしんぞう(新造)。白が、はつさく
(八朔)。黒が、きん〳〵(金々)。すべて衣偏にまつわる言葉を吹き寄せる。 解説=
【花色】は縹(はなだ)色。黒に染め返しがきくので経済的な染め色である。
【親方】は、この場合妓楼の主人。派手な稼業に見えながらも、これくらいの
倹約を自分に課さなければ経営は成り立たない。 【新造】は【赤】系統の仕着せの振袖を着る。
【八朔】は、八月一日の吉原の行事。遊女は全て【白】無垢を着る。
画面はその八朔の夜のようだ。【きんきん】とは、当世風の風俗で身形・髪形
を整えてある様をいう流行語。まさに【きんきん】然とした【黒】仕立ての通 人がただいま到着。通を気取って、遊里通いをする人士たちは【黒】ずくめで きめたがる。【遅くなって急がせたら、いつそ暑い。アノ子、水を持ってきて くりや】と言っている。後ろにいる遊女が、扇で風を入れてやっており、脱が せた羽織を相方の遊女が【干しておきんしやう】と受け取る。 画面右端の新造は【ヲゝ笑止】と、この男の様子を可笑しがっているが、新造
は、箸が転がっても可笑しがる年齢なのである。 連れは武士のようである。 【身ども、大きに待かね山の芋田楽、サア〳〵ひとつきこしめせ】と、強烈に
古い洒落を言って、駈けつけ三杯をすすめる。 裏地なら真っ赤な嘘で固めてる 木口雅裕
絵の漢字を読む=ねんかけくるわつきみえんづき
親里がねんあけ(年明け)色里がくるわ(くるわ)。芋がつきみ(月見)に。
披くゑん(縁)づき。新案の漢字は「里」字を部首にこじつける。 解説=
【年明け】とは、遊女の年季を勤め終えること。年が明いた遊女は【親里】へ
戻ることができる。 【色里】が【廓】であるのは説明の要なし。【月見】は、吉原の紋日のひとつ。
【里芋】を供えるのは、九月十三日の後の月。
画面は、しかるべきところに【縁付き】して、奥様となったもと遊女が【里び
らき】で親里にやってきたところを描く。 【里びらき】とは、里帰りのことである。立派な奥様らしい出で立ちで、供の
小僧に持たせている土産も相当なものであるが、遊女時代の癖が抜けていない。 【今日、里開きながら来んした。うちでもよろしくとサ】という挨拶に、 【ヤレ〳〵里開きはよいが、もふ、「来んした」とは言やんな。兄も今まで内
にいたものをサ】と、つい飛び出た遊女言葉を母親が咎めている。母親は団子を 作っているところ。丁度今日は【月見】の日なのだろう。 ときめきに色は着けずにおきましょう 大沼和子
絵の漢字を読む=みうけかみさんしうとまごひご
千秋がみうけ(身請け)。万歳おかみさん。千箱がしうと(舅)。
玉がまご(孫)ひこ。祝言の時によく謡われる謡曲「難波」の詞章「千秋万歳 の千箱の玉を奉る」に 出て来る言葉を、漢字に仕立てて目出度くこじつけた。
解説=
【身請け】【かみさん】【舅】という読みと、案出の漢字に対応関係はない。
【身請け】されて【かみさん】になり【舅】に恵まれ【玉】とも言うべき、
【孫ひこ】に恵まれて一家は栄える。 黄表紙は、何があろうとも、最後は、めでたしめでたししで終わるのを約束と
している。【めでたい〳〵、鶴の羽重ね、千秋のと、むだ字尽くしで舞ひ納む】 という祝言の書入れで、この黄表紙も締めくくられる。 化ける日の白装束を縫っている 平井美智子
べらぼう25話 ちょいかみ
天明3年(1783) 浅間山が大噴火して噴煙による日照不足や長雨で、東北地方が
大凶作となる。この大凶作による物価の高騰で大坂の貧民が米屋や商家を襲撃、 さらに打ち壊しは、江戸や長崎など諸都市へ広がった。 江戸城中では、この危急の状況に、田沼意次(渡辺謙)や幕府の重臣たちは頭
を抱えていた。取り敢えず、意次は、商人たちに米の値下げを命じるものの、 素直に従うとは考えられない。短絡的な対処にすぎないと分っていながらも、 今出来ることを急ぐしかないと判断した、が…。 雨の日のバケツは雨の音で泣く 清水すみれ
戯作者や絵師ら出入りする者の多い耕書堂では、米の減りが早く、重三郎(横 浜流星)も苦労していた。そんなところに、幼い頃に自分を残して姿を消した 蔦重の実母、つよ(高岡早紀)が、店に転がり込んできたのだ。突然の再会に 重三郎は怒りをあらわにし、追い返そうするが妻のていが間に入りつよを庇う。 聴けば、つよは不作のあおりを受け、やむなく江戸へ舞い戻ってきたとのこと。
その後、つよは、店の座敷で来客の髪を結いはじめる。 重三郎は、その勝手な振る舞いに眉をひそめるものの、つよは「代金はとって
ない」と言い張る始末。ていは、その髪結いの時間を活用して、店の本を手渡 していた。これに閃いた重三郎は、本の販促に新たな形として取り入れていく ことを思いつくのである。 水飲み場三カ所持っている小鳥 井上恵津子
一方江戸城では、意次が、高騰する米の値に対策を講じるも下がらず、幕府の
体たらくに業を煮やした紀州徳川家の徳川治貞(高橋英樹)が、幕府に対して 忠告する事態にまで発展する…。 【さて26話の「三人の女とは」誰のことを言うのだろう?】
一人目はつよ=ていは形だけの妻と言いながら、蔦重の実母。蔦重が7歳の時
に離縁し、蔦重を置いて去った。髪結の仕事をしていたこともあり、人たらし。 対話力にたけており、蔦重の耕書堂の商売に一役買う。 二人目はてい=ていは形だけの妻といいながら、重三郎の商売を支えてきた。
ていは「自分に女房としての器がない」と、出家へ思い悩む一方、重三郎の口 から出てくるのは、「誰とも添う気のなかった俺が、選んだただ一人がていだ」 と、真っ直ぐな言葉でていを説く。 三人目は?、誰のことなんだろう?
重三郎が、かつて本気で惚れた花ノ井・瀬川のことか。重三郎の心の奥には、
今もなお、瀬川が、比べようのない特別の人として住んでいる。 それとも誰袖のことか。
行き先をじっと思案の赤蜻蛉 前岡由美子 斜めから見てもトックリヤシである 井上恵津子
「開化の化ハ、ばけると読むなり」 「廓ばかむら費字盡の誕生]
喜多川歌麿と朋誠堂喜三二に励まされた春町は、「耕書堂」にやってきて、
「恋」「川」「春」「町」の4つの漢字を偏(へん)にして、「失」という
漢字を旁にした見たことのない漢字について解説します。
「恋」に「失」で『未練』、「川」に「失」で『枯れる』、「春」に「失」
で『はずす』、「町」に「失」で『不人気』。 つまり、この4つの造字は、「恋川春町」という作家の根暗な本性そのもの
を表しているというのです。 ただこれらの造字は『小野篁歌字尽(おののたかむらむだじづくし)』とい
う往来物をヒントにして書いたと「皮肉屋」の恋川春町は言います。
そこですかさず蔦重は、吉原を題材とした「春町文字」を作ることを提案。
そうして出来上がったのが、漢字遊びの青本「廓愚費字盡(さとのばかむら
むだじづくし)」です。
いちびりの成れのはてです蒟蒻は 新川弘子
蔦屋重三郎ー『小野篁歌字尽』ー②
「化 が 真 ん 中 に」
「開化の化ハ、ばけると読むなり。人に化るにはよくよく心得べし、片ハ人と
云字。つくりはヒ(さじ)と云字也。此人ヒ(このひとさじ)にて、世の中へ すへひ出さるれバ仕合よし、すへられねば、たちまち片仮名のヒの字イの字に なる也。貧乏を、一生かたに荷(にな)ひ、ピイピイ風車も売れぬ身となる、 御用心御用心」 小野ばかむらの歌に ” 能化(よくばけ)よ化そこのふて狐にも おとる尻尾を出さぬ用心 ”
今日生きる私なりの時刻む 佐藤 瞳
絵の漢字を読む=〔大いちざ 大いざ〕 お揃いの中で吐くのが おういちざ(大一座)。客をおつ取巻くが(大いざ)。
【大一座】の座敷の景。
【解説】=大一座とは団体客のこと。騒々しく燥ぐのが常で、葬礼帰りが多い。
よって次のような句もある。「大一座 黒豆のある へどをはき」 画面は、そのまま漢字の解になる。漢字のなかで「敵」とあるのはすなわち
「敵娼」(あいかた)で相手の遊女のこと。
「笑止どうしやうのふ」と困惑した様子。仲間の客は【あんまりふざけるから こんなこつたろうと思った】と介抱し、うしろから吉原名物の酔い醒ましの薬 「袖の梅」を授けている。 【大いざ】のいざとは、揉め事のこと。とかく吉原では、遊女の応対に端を発
して客が癇癪を起こすことが多い。その時は、漢字のごとく大勢で取巻いて騒 ぎを鎮めるのである。禿が遠くから様子をうかがっているごとくなのが可笑しい。 これからが本音の会議酒の席 前中知栄
絵の漢字を読む=〔みたてふるきまりきぬきぬ〕
隔たるがみたて(見立)。振られるうしろむき(後ろ向き)。
横がきまりに。送るきぬぎぬ(後朝)。 画面は妓楼の二階の朝の景。 もてたやつ。振られたやつ。漢字は「男」「女」の二字の組み合わせ。
【解説】=【見立て】とは、張り店をしている遊女たちの中から、相手を選び
出すこと。よって男女間の距離が【隔たっている】。【きまり】は、字の形で 意味を察したい。で、【後朝】は、画中中央の図そのままの構図である。 女が男を送っている。【くだんの魂胆で、今朝は早く帰らねばならぬ】と言う
客に対して【まだ早ふありんすのに、そんなら三日にはならずへ】と、遊女は 別れがたい様子である。右端には迎えに来た茶屋の男が【アノ子、お頭巾が落 ちている。よこしてくださへ】と言っているが「アノ子」とは禿を呼ぶ時の語。 客は自分の持物に気を配る余裕もなく、今朝の別れの情に上の空である。 画面左は見事振られたやつ。【よしここで振られても二丁目じやもてる、今度
は茶碗で引ッかけよ】などと言って手酌であおっている。「二丁目」とは、江 戸町二丁目で、別の妓楼のことを引き合いに出している、というわけ。 相手の遊女は【好かんのふ ばからしい】とそっぽを向いて甚だ冷淡。 【振る】の漢字はこの景を象る。
糸口に漬物石が乗っている 松下放天 絵の漢字を読む=〔にわかどうろうくさいちひけすぎ〕
夕方の人がにわか(俄)に、夜とうろ(灯篭)。朝がくさ(草)市。
絶へるひけすぎ。吉原年中行事の一つ、俄かの景。案出の漢字はすべて人偏で、 吉原仲の町における人の集散をテーマとしている。 【解説】=【俄】は、九郎介稲荷の祭礼で秋八月の行事。仲の町の通りで吉原
の芸者等によって歌舞や寸劇が演じられ、【夕方】から見物人が群衆する。 画面は、派手な万燈をもって練り歩く若い衆と、右下には見物の人波。
右端の金棒を持っている番太郎(吉原の警備人)は、【とんだ、こゝへ登って たまるものか。ばかばかしい】と、「埒」(らち)の上によじ登って見物しよ うとしている子供を叱っている。引手茶屋から悠々と見物する遊客は、【今年 はよつほど案じが味だの。ドレドレ】と満足気である。 茶屋の女将は、【向うへ、たしかげんこさんがお見えなんす】と、通りの向こ うに目をやっているが「げんこさん」は男の連れの表徳であろう。 【灯篭】は、往年の名妓・玉菊の追善として、お盆の時期に行われる行事。
趣向を凝らして贅沢な灯篭が、仲の町の茶屋の軒先に吊るされ【夜】、火の打っ たものを見物に人が出盛る。 【草市】は、陰暦七月十二日、お盆の精霊棚へ供する青物を売る市で、早【朝】
より仲の町に立つ。吉原の営業は、今の午前零時頃である。 この閉店時間を「ひけ」という。 【引け過ぎ】には、賑やかだった仲の町も【人】が【絶】えるのである。
時刻む音聞きながら無為の時 清水英旺
絵の漢字を読む=〔うらみまぶいけんぐち〕
胸倉取るがうらみ(恨)に。徳がまぶ(間夫)。油がいけん(意見)。
おみくじがぐち(愚痴)。宵の口舌の景。案じの漢字は「取」字を取合わせる。
【解説】=部屋(寝室)から廊下に飛び出しての修羅場。遊女が男の【胸倉】
を取って【恨み】のたけをぶつける。【知るめへと 思っていなんしやうが、 モゝゝゝ、よふく知っていゝす。ばからしい】と、男が他に馴染みを作った と非難している。男は【そんな悪気はとんと、さつはりよしにしな川。川崎、 保土ヶ谷まで行ったから、2,3日こなんだのサ】と、無沙汰の言い訳しきり である。「よしにしな」に「品川」を掛けている。 【コレコレ、案じの小紋が皺になる】と、女の掴む手を気にしている。 小紋は当時の流行、自分でデザインして、染めさせた特注品だというのである。 遊女の膝元には【おみくじ】が散らがっている。これは、相手に寄せる思いの あまり気弱くなっている証拠で【愚痴】の始まりとなる。 この二人、かなり深い仲となっているようで、このように、遊女の心をものに
した男は【間夫】と呼ばれる。金銭を度外視して遊女の方から逢いたがるわけで、 まさに【徳を取る】身の上。このように深みにはまり込むと、しまいには【意見】 され【油を取】られることになる。
ハシビロコウも感情を持つ恋をする 加藤ゆみ子
絵の漢字を読む=〔いりとりもんびまへかきたてる水どうじり〕
火に鍋がいりとり(煎り鳥)。降るがもんびまへ(終日前)。
掻き立てるかんざし(笄)。見るすいどじり(水道尻)。
遊女と二人きりの座敷を楽しむ客。工面の苦しい紋日前の遊女。
漢字はすべて火偏。
【解説】=【煎り鳥】は鴨肉を使う。画面右、遊女と客が仲良く調理をしている。
【火】鉢の上に小【鍋】を乗せて、二人だけで味わう「家庭的」な雰囲気は、
最高のご馳走である。遊女は【雪が入ったから、いつそ油がはねんす】と言っ ている。その遊女の左手にご注目、【笄】で行灯の灯心を【掻き立て】ている。 かんざしは、箸代りに仕えるほか、このような便利な用途がある。 客は【このあとはまた煮花といこう】と言いながら火鉢の炭を起こしている。
「煮花」とは、茶の煎り立て。
画面左、廊下に出ている遊女は【紋日前】と見える。
【紋日】は「物日」ともいい、五節句と吉原独自の行事とを取り合わせた特別
の日。この日は、揚げ代が普段より高く、遊女はこの日には、必ず客を確保し なくてはならない。それが出来ない遊女は、「見上がり」といって、揚げ代を 自分で出さなくてはならない。まさに、その前は【火の降る】ような状況で、 それを乗り越えるために血のにじむような思いをする。 【せめてこの分はおやりなさりやせ。そうないと、この物前は駆落ちでもせね
ばなりません】と出入りの商人が取り立てに来ている。 遊女は【どうも今日は工面がァ、なんだから、アノ、そうしてみてくんなんし】
と苦しげである。
最後の漢字【水道尻】とは、吉原仲の町のどん詰まり、ここに【火の見】が建っ
ていた。 背後からいつも時計の音がする 前田一石
『諸国名所百景』ゟ「信州浅間山真景」 (国立国会図書館蔵) 「べらぼう25話 ちょいかみ」
「恋の行方」
柏原屋から丸屋を買い取った蔦重(横浜)は、須原屋(里見浩太朗)の持つ、
「抜荷の絵図」と交換条件で、意知(宮沢氷魚)から日本橋出店への協力を取 り付ける。そんな折り、浅間山が大噴火をした。明和3年7月である。 轟音と激しい揺れが襲い、薄暗く江戸を灰が包んだ。
重三郎は「こりゃあ恵みの灰だろ…」と、大荷物を担いで日本橋の丸屋のてい
のもとへ向かった。重三郎は、店の売り渡し証文を見せ、丸屋の整理をしてい たていに「ここは俺の店なんで、一緒に店を守りませんか」と話しかけた。 が、ていは重三郎を無視して、「灰が入らないように」と使用人のみの吉に戸
を閉めるように申し付けるのだった。 灰煙の中、桶を運ぶ蔦屋重三郎 点線で囲むとりあえずの気持ち みつ木もも花
閉め出された重三郎は、丸屋の屋根に登ると、瓦の隙間に灰が入りこまないよ
う女郎たちの着古した着物で屋根を覆い尽くし、さらに、樋が詰まらないよう 古い帯で巻きはじめた。 その様子を見ていた鶴屋と村田屋は、自分たちの店も蔦重と同じように屋根に
布をかけ始め、日本橋通油町の店々もそれに倣った。 「桶に灰を溜めときゃ掃除すんの楽ですよ」
と、言いながら重三郎は、灰を溜める桶を丸屋の店先で売り始めた。
夕方、閉まっていた丸屋の戸板が開いていた。
中には土間に水を張った洗い桶とおむすびが用意されていた。 重三郎は、大喜びでおむすびを食べ、楽しそうにみの吉(中川翼)と話が弾んで いた。その様子をてい(橋本愛)は、奥の部屋から聞いていた。 我が道を行くと言っては又迷い 青木敏子
噴火騒動も一段落した江戸町に出た二人の思いは 翌日、鶴屋(風間俊介)は、早急に灰を川や空き地に捨てよ、との奉行所の指示 を店々に伝えて来た。重三郎は「バケツリレー方式で川に捨てていけば効率的だ、 通りの右と左でチームを組み、競争しよう」、と提案。 さらに勝ったチームには、10両の賞金を出すという重三郎の提案に鶴屋も、
15両と張り合い、灰捨て競争は、大いに盛り上がる。 ラスト1桶、鶴屋が一歩リード。残り2桶残っている蔦重は、負けじと2つの桶
を持ち川に飛び込むが、泳げない重三郎は溺れてしまう。 助けられた重三郎は「30も越えたんで、そろそろ泳げるようになってるか、と
思ったんだけど…」この言葉には、思わず鶴屋も笑った。 勝負は引き分けになり、鶴屋の会所で宴会が開かれることになった。
立入禁止とぼけ上手な左足 森田律子
宴会を抜けて重三郎が丸屋に行くと、ていが一人で店の床を拭いていた。
それを手伝い始めた重三郎に、ていは、「蔦重さんは『陶朱公』という人物は
ご存知ですか?越の武将だった范蠡(はんれい)です…」 「戦から退いた後、いくつかの国に移り住んで、土地を富み栄えさせた人物で
范蠡(陶朱公)です。蔦重さんにも同じような才覚がある」と、例え話を聞か せます。そして「私が店を譲るならそういう方にと思っておりました」 「自分は、明日店を出ていき出家するつもりだけれども、みの吉たち奉公人を
働かせてほしい」と頭を下げる。 (浅間山の大噴火で江戸に灰が降り。蔦重は、通油町の灰の除去のために懸命
に働いた。その姿に、門前払いしていたていの心が揺れ動くのだった) 雑巾が乾いてからの顛末記 福光二郎 丸めてみたり拡げてみたりがらくた有情 荻野美智子
黄表紙「廓 愚 費 字 尽」 滑稽・へりくつ・諧謔が堂々まかりとおる黄表紙の世界。
一冊まるごと読み解けば、ナンセンスの裏に潜む江戸の機知に脱帽させられる
こと請け合い。 ここに出てくる漢字は、どんな分厚い辞書にも載っていない、見たこともない
漢字ばかりです。黄表紙の作者が知恵を絞って、洒落っ気たっぷりに創作した 漢字ですが、意味あるものをこさえられているので、一字一字目を凝らして、 読んでみてくんなんし。 真冬から春へくるりとモネの庭 宮原せつ
式亭三馬・小野譃字盡
恋川春町 『廓費字盡(さとのばかむらむだじづくし)』
天明三年(1783)正月蔦重刊、恋川春町画作。
「竹冠」に「愚」は、式亭三馬の造語で「ばかむら」と読みます。
(とっかかり「竹冠」に「愚」なんて字はありません)
【解説』=往来物として盛んに刊行された『小野篁歌字尽』のパロディで、部 首を揃えた漢字を、いくつか一行に並べて、その読み方を歌にして示すという 形式をなぞる。漢字のほとんどは、新たに作者が案出したもので、部首と旁の 奇抜な組み合わせや、ひねりの効いた読み方で、機知的な笑いをかもし出す。 それらは全て、吉原の遊びやその周辺の事情にこじつけられ、画面の「絵解き」
を行なう。また、逆に漢字の解釈のヒントを、絵が読者に与える仕掛けともなっ ています。 作り笑いで良いと甘茶のお釈迦様 藤本鈴菜
『小 野 篁 歌 字 尽』
春つばき 夏はえのき 秋ひさぎ 冬はひいらぎ 同じくはきり
平安の歌人・小野 篁(おののたかむら)は、木偏の「春夏秋冬」をこう詠んだ
江戸時代の寺子屋で「往来物」という初歩の教科書の教材として使われた。
漢字を属性ごとに並べて、読み方を和歌のリズムで覚えさせたという。
ついでながら、魚偏でみますと、
春さわら 夏はふぐにて 秋かじか 冬はこのしろ 師走ぶりぶり
何つかむ絵本をめくる小さい子 矢橋菌徒 蔦屋重三郎ー式亭三馬・『小野篁歌字尽』
『小野篁歌字尽』(おののたかむらうたじづくし)は、往来物の一種として、
江戸時代には盛んに刊行されていた。 部首を揃えてその旁の異なる字を並べ、その読み方を、和歌の形式で調子よく
覚えさせるというもの。ここに掲げたのは山本義信筆のものである。 序 (恋川春町)
愚(ばかむら)は篁(たかむら)の九代の后胤(こういん)かんも天目ひやも、 よく飲みぬけにして、又大通もそこのけにて高慢きん〳〵己(うぬ)ぼうゆへ、 人みな己野愚と笑ふ。その身は町にいりながら、また能(よく)おり〳〵お江 戸に通ひ小野小町にちぎりをこめ、則、恋川はる町をうむ。はる町人となるに およんで「父・馬鹿むらむだ字を案じて、あたへて曰く、これをさくら木にち りばめてはつ春うぬのほまちにしろと、よって画てたわけを弘ちゃくすと云 十代の作者 恋川春町
もやもやが晴れる引き摺ることはない 佐藤 瞳
絵の漢字を読む=はないきさかりいきつく
花はかみ(紙)。身形(みなり)はいき(意気)と読みにけり。勤めはさがり。
果はいきつく。 【解説】=絵と合わせてどうぞ。
吉原遊女屋の座敷における通人の遊びを描く。台のもの(画面中央にあるデコ
レーション過剰なオードブル)が運ばれてきた。この台のものは一分(現在の 2万円位)の値でかなり高値である。画中右の、【身形】の【いき】な遊客が 運んできた若い者に、紙を一枚与えようとしている。 これは「紙花」と称して、小菊紙の懐紙を【花】(ちっぷ)の代用として与え
る吉原の風習で、一枚一分に相当する。紙花を貰った者は、茶屋を通して清算 する。したがってと読む。若い者は【琴浦さんよろしうへ】と 遊女に取り成しを頼んでいる。 画面右下、【ここで帰られては大かぶりの】と若い者をからかっている法体の
男は、江戸神、すなわち素人の太鼓持ちであろう。 台のものは、客の注文に応じて取り寄せるのではなく、勝手に運ばれてきてし
まうものなのである。それに対して遊客が【長す】(長す(男の名、長なんと かいう類の名前の下を略し、敬称「す」を付けた)と、たしなめている。 遊客の後ろで【一ツ飲みなんせ【紙】を【花】と、イヤヨ】と酒を勧めている
のは新造(新人の遊女)である。 遊女の左にいるのは、引手茶屋の女将であろうか【早く替えてきさつしゃいナ】 と、禿(遊女の使う幼女)に酒のお代わりを指示している。 引手茶屋は、吉原仲の町通りの両側に軒を重ねて営業しており、客の遊興の面
倒をみる。【遊女の勤め】(揚げ代)も茶屋を通しての【さがり】(掛け)と なる。かように派手な遊びをし尽くした【果】ては、代々の財産も使い果たし て【いきつく】ことにもなろう。 瀬戸際であしながおじさんの援助 井上恵津子
絵の漢字を読む=しのぶほんといやつけるいしやさん
忍ぶかさ(笠)。絵本がほんといや(本問屋)也。禿がつける。籠がいしや
(医者)さん。 【解説】=吉原大門口の景。漢字は全て門構えとなり、大門に関係のある事物
が噴き寄せられる。編【笠】は、人目を【忍ぶ】姿。中央の男がそれである。 遠国の高位の武士と見受けられる。【承ったより豪華な地でござる】などと、
初めての吉原見物にたいそうご満悦な様子。お供の武士はその下役であろう。 着流しの冴えない衣装に、これまた野暮な髪形をしている典型的な田舎武士で ある。この男が【コレがかの蔦屋サ。国方への土産を求めよふか】と指差して いるのは、大門口にあった【本問屋】蔦屋重三郎の店である。 障子に、富士山形に蔦の葉の商標が見える。店先に積み重ねられている商品が
黄表紙で、これは田舎への恰好の江戸土産となる【絵本】である。 画面右端。二人の【禿】が大門に【つける】(見張りをする)様が描かれている。
これは馴染みの関係がすでにありながら、他の遊女にも渡り歩くような不義理を した客を掴まえようとしているのである。 吉原の出入口はここ大門一カ所しかない【逃がして叱られさつしやんなよ】
【ナアニサ】と気合は入っている。
大門をくぐって廓内に【籠】で乗り付けられるのは【医者さん】だけである。
籠かきが【頼む〳〵、エゝあぶねへ】などと言って、今大門をくぐるところ、 後ろについているのは、薬箱を背負った医者のお供である。 もう少しこのままがいい落ち椿 津田照子
絵の漢字を読む=「つねるまついんきよしんじう」
指二本寄せるがつねる。折るがまつ(待)。遣うが隠居(いんきょ)。
切るがしんぢゆ(心中) 【解説】=老人客と若い新造の床の景。漢字はみな、「指」に縁のあるものを
こじつける。朋輩女郎が寝間着姿で訪ねてきている。 【ぬしや ァ、おとなしくもねェ。きるからひて(意味不明)、よくわっちらが
を連れてきてくんなんせん、憎らしい】と、彼女の馴染みを連れて来てくれな かったことを難じて老人客の腕を【つねっ】ている。 彼女は【指折り】数えて来訪を待っていたのであろう。
老人は【フワウ/\、ぱやまった/\/\、まつたよしおき(「新田義興」の 洒落)大明神かけて今度は(連れて)くるよ】と、フガフガ明瞭ならざるもの 言いで弁解している。 この老人の左手の行方に注目、【指を遣う】のが【隠居】という字の解となっ
ている。年を取っても手だけは達者なわけである。 新造は、【アレサ、くすぐってへわな】という反応。
『新造をおもちゃに隠居して遊び』(柳多留)という川柳もある。
【指を切る】のは【心中】の一つで遊女の手管の代表的なもの。
ときめいた場面でちゃんと涙出る 古賀由美子
絵の漢字を読む=こわいろたいこぢまわりしゃれ
言偏(ごんべん)に似るがこわいろ(声色)。茶がたいこ(太鼓)、
毒がぢまわり(地回り。上下がしやれ(洒落) 【解説】=仲の町の引手茶屋での遊び。引手茶屋は画中に見えるように、腰折
れの鬼簾(おにみす)と縁先の床几が特徴。 誘客を中心にして向かって、左側に遊女と茶屋の女将。そして右側に芸者が二 人いる。扇を手に持っている芸者は【声色】を遣っている。その文句は 【兄は一万、弟は箱王、元服なして、十郎介なり、五郎時致、ハテ珍しい】で、 これは、曽我狂言のいわゆる「対面」の場の科白である。 客は【イヨ/\/\、秀鶴、恐ろしいの木。三ぱい小たてに飲もふ】と、この 芸にご満悦である。秀鶴は中村仲蔵の俳名でその物真似をしているのがわかる。 「恐ろしい」に「椎の木」を言い掛け、兄弟の父・裕康の最期「椎の木三本小 楯に取り」を効かせている。茶屋の女将も【よく似てやすねェ】と感心しきり。 外を行く下駄履きの柄の悪い風俗の二人連れは【地回り】、吉原を徘徊し、遊女
らを冷かして歩くのを日課とする。【毒を言う】(悪口雑言)のが得意技である 彼らも、【えゝ、いまいましく恐ろしい、親ァねへか】と言っている。 【いまいましく恐ろしい】とは、彼ら一流の乱暴な褒め方「素晴らしい」といっ
た意味である。「親はないか」とは、芸を褒め称える常套句。 残った漢字について解説すると、【たいこ】は太鼓持ちのこと。
【茶を言う】(冗談を言う)のが商売。回りの人間を【上げたり下げたり】して
【洒落】る。 出汁の効いた少し不幸がちょうどいい 黒田るみ子
絵の漢字を読む=ちょきやねぶかさいかわせかき
寝るがちよき(猪牙)。 騒ぐがやねぶ(屋根舟)糞かさい(葛西)。 ごたごたするが川せがき(施餓鬼)也。
両国橋下の隅田川。往来の景。
【解説】=猪牙とは、猪牙舟のこと。吉原通いによく使われた快速船である。
画中、橋にかかろうとしている小舟がそれ。朝子の舟での帰路、舟中で【寝】て
睡眠不足と疲労とを解消するのである。山谷掘の船宿は、帰り客のために蒲団を 積み込む。画中の客はこれから北に向かうところ。 【船衆、ちょっと太郎に寄りたい】などと船頭に言っているが、太郎とは向島の
川魚料理で有名な料理茶屋中田屋のことで、葛西太郎の愛称で親しまれていた。 【やねぶ】は、屋根舟の略で通人用語。屋根舟は川遊びなどにも利用される低い 屋根の付いた4、5人乗りの舟である。 画中下方に見える、苫葺の屋根のある小舟は【葛西】、舟の愛称を持つ隅田川の
名物【糞舟】である。葛西は当時江戸へ野菜を供給していた近郊農業の地である。 ここの農家は、江戸市中の家主との間で野菜との交換契約を結び、そこの糞尿を 汲み取って、肥料として農地に運んでいた。 その葛西舟と行き違う屋形船の吉野丸【いつそ胸が悪くなった。臭い臭い】
【それは屋形に初めて乗りなすったからサ】という声が聞こえてくる。
この屋形船は【川施餓鬼】を行っているところで、船上にはそのための祭壇と多く
の人が【ごたごた】乗り込んでいる。 漢字はそれを抽象(かたど)っている。
火星行き船アンパンを積み忘れ 井上一筒
「黄表紙廓愚費字尽」絵解きは次号②へも続きます。
「べらぼう24話 あらすじちょいかみ」 日本橋通油町で地本問屋を営んでいる丸屋小兵衛(たかお鷹)の買収を巡って、
蔦屋重三郎(横浜流星)と吉原の親父たちが動き出します。 扇屋宇右衛門(山路和弘)は,扇屋に揚代のツケを溜め込んでいる茶問屋・亀屋
の若旦那を抱き込んで、丸屋を買い取らせようとしますが失敗。 「吉原者」である蔦重による買収を危ぶむ日本橋通油町の商家たちから、かえっ
て警戒されることに…。 ならばと言うことで、駿河屋市右衛門(高橋克実)と扇屋宇右衛門は,、丸屋が、
あちこちに出している借金の証文を買い取って集めます。 丸屋の店の権利は、吉原が持っているとして丸屋に乗り込もうとすると、
鶴屋喜右衛門(風間俊介)が、仲介して大坂の書物問屋・柏原屋(川畑泰史)と、
丸屋のてい(橋本愛)がまさに店の売買契約を結ぼうとしているところ。
朝顔が咲く直前は闇の中 奥田航平
吉原の親父たちから出される借金の証文に加えて、蔦重は、ていに自分と縁組を
して「丸屋耕書堂」を一緒にやろうと言い出します。
しかし、蔦重の「色仕掛け」がまずかったのか、かえって、ていの気持ちは頑な
ものに。丸屋の権利はそのまま、柏原屋に移ってしまいます。
なくときのBGМは空のうた 西田雅子
兄・松前道廣(えなりかずき)が琥珀の直取引を持ちかける
誰袖(福原遥)が根気よく 廣年に誘いの文を出し続けているところに、廣年が
久しぶりに文字屋に登楼。しかし今度は兄・松前道廣も一緒です。 しかも道廣は大胆にも、大文字屋市兵衛(伊藤淳史)と一緒に琥珀の直取引をし
ないかと持ちかけます。誰袖が廣年に持ちかけても、一向に進まなかった話が、
道廣の登場であっさりと道が開けました。 松前藩が、抜荷をしている証拠を探し回って上知を行いたい意知(宮沢氷魚)は、
このやり取りを隣の座敷で聞き心の中で快哉を叫びます 泥くさく勝ちを狙ってゆくつもり 吉岡 民 補聴器が拾うとんでもない話 山本芳雄
露 西 亜 船 「フヴォストフ事件」
文化元年(1804)、ロシア側の正式な大使としてレザノフがやってきます。
ラクスマンが受け取っていた長崎への入港許可証を持ってきました。
しかし幕府はラクスマン一行に対して行ったような丁重な対応はせず、
レザノフに対して非礼な対応を取ります。
レザノフを実質的に半年間幽閉しただけでなく、結局通商を認めません
でした。レザノフは、正式なロシアの大使であるにも関わらずです。
帰国したレザノフは、2年後、日本に対しての報復を行います。
部下であるフヴォストフに松前藩領であった樺太の襲撃を命じます。
聞く耳は一つも持ってないみたい 津田照子
幕府の無礼な扱いを受けたラクスマン一行 「意次が目指した財政再建と外交政策」
意次が老中となり幕政の実権を握ったのは明和9年(1772)、54歳のとき
である。 これをきっかけに意次は自らの政治的才能を開花させ、功利的で重商主義的
な政策を次々と打ち出すことになる。
当時、幕府は財政難にあえいでいた。年貢を増やそうにも吉宗の時代に新田
開発をやりつくしており、限界があった。そこで意次は商業資本を積極的に
利用して財政を立て直そうとした。
蝦夷地の開拓計画も壮大だった。北海道の十分の一を開拓して新田畑を造る
という大規模なもので、開拓後はロシアとの貿易までも計画していた。
当時は、ロシアの脅威が声高に叫ばれていた時代で、意次はロシアと国交を
結び貿易を行うことで日本を守ろうとした。
このことから、当時としては珍しい外国にも目を向けていた政治家であった
ことが分かる。
蔦屋重三郎ー花魁・誰袖
誰袖は、生没年や成り行きの実態は不明だが、田沼意次の時代に吉原に生きた
実在の人物として小さくも史実に残る。
新興勢力として知られる吉原の妓楼大文字屋の花魁である。
大文字屋は、かつて西海岸に店を構えていたものの、次第に繁盛し京町一丁目
に転居するほどの隆盛を見せていた店である。 その看板として名を馳せたのが誰袖であり、「呼出し」の格式を持つ最上級の
花魁であった。新造や禿を従え、豪華な衣装に身を包んだ彼女の花魁道中は、 吉原の名物として人々の注目を集めたことだろう。 誰袖の名が江戸中に広まったのは、勘定組頭であり老中・田沼意次の腹心だっ
た土山宗次郎によって、千二百両という莫大な金額で身請けされたことによる。 お隣を覗けば十桁の通帳 森 茂俊
誰袖は、吉原の華やかさを象徴する花魁でありながら、その存在は江戸の政治
や文化の転換点とも密接に結びついていた。 身請けという一見華やかな出来事の背後に、権力、贅沢、そして失脚、という
ドラマが潜んでいたのである。 あんたを閉じ込める万華鏡の中 井上一筒
蝦夷地には、金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が管轄 している。だから、幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げる必要 がある。そこで意次の嫡男の意知が、松前藩の「落ち度」を探すことになった。 意知がまず繰り出した場所は吉原だった。
平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として紹介 された、勘定組頭の土山宗次郎が花見会を行うので、そこに参加したのだ。 ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。
花園のところどころにある沼地 みつ木もも花
「文 武 二 道 万 石 通」
駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた
左中央が疑惑の金一億二千万両で身請けされた花魁誰袖
花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。
だが「べらぼう」の誰袖は、土山の横にいながら花雲助こと田沼意知に見惚れ、
そちらに近づこうとする。
意知は、松前藩の元勘定奉行で、いまは藩を離れている湊源左衛門との密談に
熱中していた。湊からは、「藩主の松前道廣が横暴のかぎりをつくし、藩とし
ても抜け荷(密貿)をしている」という話を聞き出していた。 その話を誰袖は、十文字屋の者に盗み聞きをさせていたのだ。
ややこしいところで咲いている私 井上恵津子
後日、田沼屋敷に呼ばれた土山は、意知に誰袖からの手紙を渡した。
そこには折り入って話があるという旨が書かれていたので、意知はふたたび
花雲助に扮して大文字屋に出向いた。
すると「誰袖は彼に、吉原に出入りする松前藩関係者や、松前藩の下で取引 する商人の情報を提供する」と、持ちかけた。 意知が「間者の褒美にカネがほしいということか」と問うと、誰袖は言った。
「カネよりもっとほしいものがありんす。花雲助さま、わっちを身請けして おくんなし」 挑発に乗るまい点滅の黄色 日下部敦世
誰袖という花魁は、かなりの策士であり、一途だった瀬川(小芝風花)と較べ
ると、比較にならないほどしたたかである。 もちろん、それは「べらぼう」というドラマに描かれた姿だが、史実の誰袖も
状況証拠からすると、かなりしたたかだった可能性はある。 めん鶏がのぞく椿の隙間から くんじろう
「赤蝦夷風説考」①
蝦夷地の重要性を田沼意次に認識させた工藤平助は仙台藩が誇る多才な
医者だった。
土山宗次郎は、田沼意次の権勢下で台頭した旗本で、明和9年(1772)に
意次が老中になったのち、安永5年(1776)に勘定組頭、すなわち幕府の財政
を管理する勘定所<今の財務省および農水省>の大臣にあたる勘定奉行の下で 組織を統括する役に抜擢された。
(「べらぼう」の第21回)で、三浦庄司が意次に、蝦夷地の開発とロシアとの
交易を提言したのは、仙台藩の江戸詰藩医だった工藤平助が天明3年に、対ロ
シアの海防の重要性などを書いた『赤蝦夷風説考』を読んだ結果だった。
じつは、その三浦を介して、意次に、この書物を提出しようとしたのが、土山
宗次郎だったとされる。
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子
「赤 蝦 夷 風 説 考」② 現実には『赤蝦夷風説考』のことは、土山宗次郎の上司で意次の側近でもあっ
た松本秀持を介して田沼に進言され、その結果、土山が中心となって、天明4
年(1784)には平秩東作らを、天明5年(1785)にも探検家の最上徳内ら何
人かを、蝦夷地に調査に向かわせることになった。 まさにそんな最中に、土山は吉原に頻繁に通い、誰袖を身請けしたのである。
脚本家はそこにヒントを得て、蝦夷地をめぐる駆け引きに加わり、自分が身請 けされるように、したたかに立ち回る誰袖像を創り上げたのだろう。
鶏頭の赤に触発されている 宇治田志寿子
史実の誰袖が、蝦夷地問題に関わったかどうかはわからない。
わかっているのは、土山が大田南畝らとつるんで吉原に通い詰め、
その結果、誰袖を千二百両かけて身請けした、ということだけである。
ただ、それは、土山が蝦夷地調査に邁進していたタイミングだったことは間違
いなく、教養がある誰袖も、蝦夷やロシアに関する話を聞かされていたと考え
るほうが自然だろう。
誰袖が「万載狂歌集」の「恋の部」に残した一首。
” 忘れんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき ”
(「忘れよう」と祈るようにして見ないようにしていた紙入れ-----かつて恋人
との思い出が詰まったその品を見た瞬間に、逆に恋しさが募ってしまう)
暫定という軸足がゆらいでる 目黒友遊
ちなみに、千二百両という金額は、土山が大文字屋に渡した金額ではない。
女郎を身請けする時は、祝儀を渡したり、祝宴を開いたりするのが一般的で、
そのために総額は、身請け金の2倍程度にふくらむことが珍しくなかった。
いずれにせよ、これだけの金額を、武士の窮乏化が問題となっていたご時世
に、一介の旗本が簡単に出せたとは思えない。
天明6年(1786)8月に田沼意次が失脚すると、蝦夷地開発計画も頓挫。
そればかりか土山は、公金横領の嫌疑をかけられ、その際、誰袖を高額で身
請けしたことも問題になった。身請けをふくめた吉原遊びに横領した金を使
った、という疑いをかけられたのである。
曇天を斜めによぎるトラクター 前中知栄
誰袖 土山宗次郎 「べらぼう23話 あらすじちょいかみ」
朝を迎えるや否や、重三郎(横浜流星)は大文字屋へ飛び込み、誰袖(福原遥)
に詰め寄ります。「なんで ” 抜荷 ” なんて言葉を出した!」と。 誰袖はさらりと笑い、「手遊びで青本のネタを考えただけ」と返します。
雲助(田沼意知=宮沢氷魚)との関係を匂わせるような様子に、重三郎は不安
を募らせます。そこへ大文字屋(伊藤淳史)が陽気な調子で登場し、
「ぬクけケにキ」なる謎の言葉を口にしました。
これは抜荷を意味する隠語で、春町や喜三二も用いた洒落言葉。
意味を悟った重三郎は、事の重大さに青ざめますが、誰袖と大文字屋は意に介
さず、不穏な企てを進めている様子です。 辻褄合わせお好みを焼くように 井上恵津子
一方で、重三郎のもとに須原屋から狂歌集『満載狂歌集』が百部届けられます。
この本がきっかけとなり、南畝と重三郎は一気に時の人となりました。
重三郎の名は江戸中に知れ渡り、「江戸一の利者」とまで称されるようになり
ます。 ある日、須原野のもとで蝦夷地の絵図を見ていた重三郎は、不穏な印や記号に
気づきます。
それは、幕府が禁じる密貿易------「抜荷」に関わる情報だったのです。
裏通り月下美人の香も似合う 井出ゆう子
重三郎 長谷川平蔵 その頃、長谷川平蔵(中村隼人)は、出世の機会を逃して燻っており、狂歌を
通じて土山宗次郎(柳俊太郎)に近づこうと目論んでいました。 酔月楼での土山と南畝(桐谷健太)の宴に参加した平蔵は、重三郎の案内で裏
口から接触に成功。「あり金はなき平」という狂歌名をもらいご満悦です。 酔月楼の裏では、意知と土山が重三郎を日本橋に誘い込もうと策略を巡らし
ていました。吉原の人気本屋を、蝦夷貿易に搦めて取り込もうというのです。
その一方で、誰袖は松前藩の家老に取り入り、琥珀の話を持ちかけていまし
た。巧みに取引の道を探る誰袖に家老はつい心を動かされます。
たとえばのはなし枯木に花が咲く 荻野美智子
田 沼 意 知 蝦夷地には金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が 管轄している。だから幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げ
る必要がある。そこで意次の嫡男の意知(宮沢氷魚)が、松前藩の「落ち 度」を探すことになった。意知がまず繰り出した場所は吉原だった。 平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として 紹介された、勘定組頭の土山宗次郎(柳俊太郎)が、花見会を行うので、 そこに参加したのだ。ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。 花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。 こと切れるまで人間やめられぬ 新海信二
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