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川柳的逍遥 人の世の一家言
口約束は忘れたふりがちょうどよい 青砥たかこ
京都/天橋立の智恩寺に奉納されている赤穂事件を題材にした最古の絵馬 江戸の師走に起こった大事件ー吉良邸討ち入り
「赤穂義士真観」 長安雅山著 赤穂市立博物館蔵
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた場面。
内匠頭の後ろからあわてた様子で駆け寄るのは梶川与惣兵衛。
江戸のニュース 元禄十四年三月十四日
赤穂藩藩主浅野内匠頭が江戸城中松の廊下において吉良上野介へ刃傷に及ぶ。
この日の朝「御使の刻限」(勅使登城の時間)が早くなったと聞き、(梶川)
は高家肝煎の吉良上野介義央を探して奔走する。やっと見つけた吉良と立話
をしている時に吉良の背後から「この間の遺恨覚えたるか」と言って斬りつ
けたのが勅使饗応役の浅野内匠頭長矩だった。「この間の遺恨」とはなにか
浅野は取り押さえられた後、大声で「上野介のことはこの間から遺恨があっ
たから今日討ち果たしてやったのだ」と何度も叫んでいた。ともあれ浅野は
本気で怒っていた。(梶川与惣兵衛談)
内匠頭は当日の夕方、殿中刃傷という大罪により即日切腹、赤穂藩は取り潰
し(改易)となった。田村邸での切腹にあたっては、側近の家臣に宛てて「
「この段兼ねて知らせ申すべく候へども今日やむを得ざること候ゆえ知らせ
申さず」との言付けを番人に託している。
かげろうがゆびのまたからたちのぼる 笠島恵美子
堀部安兵衛高田の馬場の決闘
江戸のニュース 元禄七年二月十一日 赤穂事件の伏線となった高田馬場の決闘
赤穂事件の伏線の一つとなる事件が、この日に起きた。
中山安兵衛が叔父の伊予西条藩士菅野六郎佐衛門へ助太刀、江戸牛込高田
馬場で村上庄左衛門らを倒した。村上側は助っ人を含めて八人、菅野側は
助っ人を含めて四人である。発端は口論だったようだが、真相は講談など
にある仇討ではなく果し合いであり、また安兵衛が倒したのは三人で十八
人斬りではない。安兵衛はこれで一躍有名にばって、赤穂藩士堀部弥兵衛
の養子となり、四十七士の一員として討ち入りに参加、切腹した。(享年
三十三)安兵衛の諱は武経。越後新発田藩士の父親が病死したために浪人
となって江戸へ下り、直新影流の堀内源左衛門の道場に入門、剣の修行を
して師範代を務めるほどの腕前であったという。同門の菅野六郎左衛門と
叔父・甥の契りを結んでいたことから、義に殉ずる覚悟の助っ人である。
安兵衛は、赤穂藩に馬廻二百石として召し抱えられた。これには家老の大
石内蔵助の推挙があったという。馬廻は戦場では主君を警護する親衛隊で
あり、家臣の中では上級職である。ちなみに養父弥兵衛は隠居して隠居料
五十石取となった。その後、安兵衛は江戸留守居役となり鉄砲洲にある江
戸藩邸にあったが、事件発生当初から吉良邸討入を主張、御家再興をを目
指す内蔵助の説得に努めた。
血しぶきを上げて心臓走ってゆく 森 茂俊
杉野十平次の蕎麦屋 (尾形月耕画)
格子の向こうには俵を突き上げる玄蕃とおぼしき人物が描かれている。
「江戸集結」
さてお家断絶から討ち入りまで家臣団は一丸ではなかった。とりわけ弟大
学による浅野家再興を第一に考える大石良雄らと、江戸在住で仇討決行を
急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。ここで重要な役割を果た
したのが吉田忠左衛門だ。吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受
けひと足先の元禄十五年三月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に
身を寄せた。ここには前年十一月に大石が最初に江戸入りした大石が時も
投宿している。吉田は七月に新麹町六丁目に転居し、ここが続々と江戸入
りする同志のとりあえずの落ち着き先となる。
くたくたになるまで愚痴を聞いてやる 清水すみれ
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央の在宅
情報である。やがてお茶会が催される日には本所の屋敷に戻ってくること
がわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で、吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は小笠原長重(老中・岩槻藩主)に仕えていて、この小笠原家と吉良
家も礼法をつかさどる家同士で交流があった。宗徧には中嶋五郎作という
町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎(荷田春満)という国学者が
住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に出入りしたいた。
こうした吉良人脈に、大石三平と大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流が
あった。また大高源五は宗徧の弟子になっていた。
迷わせてください気泡入りガラス 酒井かがり
最初のお茶会の情報は十二月五日だったが、これは将軍の柳沢邸御成りに
重なって直前に中止される。しかし次の情報はすぐ来た。十四日の昼、大
石三平が羽倉の手紙に「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」とあっ
たことを伝える。また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの
情報をもたらす。大石良雄は二つの情報から判断して十四日夜の討ち入り
を決断した。
吉 良 邸 討 ち 入 り 江戸のニュース 元禄十五年十二月十四日
赤穂浪士の討ち入り
旧家老で四十四歳の大石内蔵助良雄の指揮のもと、七十六歳の堀部弥兵衛金丸
から十五歳の大石主税良金までの四十七人の旧赤穂藩出身の浪士は、この日の
夜から翌十五日の早晩にかけて本所松坂町の吉良邸に表門・裏門の二手に分か
れて討ち入り、吉良義央(よしなか)の首を取り、当主左兵衛義周(よしちか)
に傷を負わせ、吉良家家臣十六人を斬り殺し、二十人に手傷を負わせた。一方
浪士側には一人の死者も出さなかった。火消装束に出で立ちは、二十年前の寛
文十二年 (1672) に起きた浄瑠璃坂の敵討ちを見習ったものという。
主君浅野長矩(ながのり)の恨みを晴らした一行は、徒歩で品川の泉岳寺を
目指した。途中で吉田忠衛門と富森助右衛門の二人を大目付千石伯耆守久尚の
屋敷に派遣し、「浅野内匠家来口上」を持参させた。一行は泉岳寺に到着する
と長矩の墓前に義央の首を供え、討ち入りの報告と焼香をすませた。大目付か
ら報告を受けた幕閣は、上杉家に討ちを出すことを禁止するとともに、泉岳寺
に待機していた浪士四十六人(泉岳寺に向かう途中に姿を消した吉田忠左衛門
の足軽寺坂吉右衛門については逃亡説と使者説とがある)を肥後熊本藩細川家
と伊予松山藩松平家と長門長府藩主毛利家と三河岡崎藩水野家の四家に分けて
預けた。
引き上げ途中、両国橋東詰で足止めをくらう46人の義士 土足で入る他人の夢の中 蟹口和枝
討ち入りは成功した。吉良邸を出た四十六人は無縁寺(回向院)に入ることも、
船に乗ることも断られ、武装したまましばらく両国橋東詰に屯する。
このとき彼らが最も警戒したのは上杉家による反撃だった。ところが上杉軍は
来なかった。
蛞蝓がのぼって濡れている梯子 くんじろう
後にお預けとなった細川家から出した大石の書状(細川広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに無益になったの
はおかしい、と書いた後、「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠
んでいる。生死を賭けた大仕事を時雨に喩える。大石の器の大きさを表したも
のである。書状の日付が二月二日、切腹二日前であること考え合わせると、そ
の思いは深い。
七色を掴んでからの筆選び 近藤真奈
「赤 穂 浪 士 の 切 腹」 江戸のニュース 元禄十六年二月四日
赤穂浪士の切腹。 細川家下屋敷(大石良雄ら十七人)・松平家中屋敷(大石主税ら十人)・
毛利家上屋敷(岡嶋八十右衛門ら十人)・水野家中屋敷(間重治郎ら九人)
に預けられた赤穂浪士の処分については、この日正式に四大名家へ切腹の
命が伝えられ、午後に目付と使番の二人が検使として派遣された。大石ら
四十六人の浪士の切腹は午後四時頃から六時頃の間に執行され、遺骸は泉
岳寺に埋葬された。一方、、切腹の命が四大名家に伝えられた頃、大目付
千石久尚から吉良義周へ吉良家改易と義周の隠居が伝達された。
浪士への処分は、幕閣内でも意見が割れていた。識者の意見も二分した。
朱子学者の室鳩巣は、「武士道の精華である」と賛美し、大学頭林信篤も
『復讐論』を著して義士を評価した。古学派の伊藤東涯、水戸学の三宅観
欄なども同意見であった。一方、柳沢吉保のブレーンでもあった古学派の
荻生徂徠は、この事件は仇討事件ではなく、主君の恥をそそぐものであっ
ても私の考えでしたことであり、大義名分からいえば不義であると述べた。
徂徠の弟子の太宰春台や山崎闇斎門下の佐藤直方などは浪士らの就職運動
だと論じている。将軍綱吉や柳沢ら幕閣首脳部は、喧嘩両成敗の論理も戦
国時代の遺風であり、平時の幕藩体制下には古い考えであるとみなし、徒
党を組んだ復讐を否定する法治主義の立場から切腹と結論付けたのである。
さびしいと感じてしまう哲学書 靍田寿子 PR ピリオドの棘をきれいに抜いておく みつ木もも花
「新吉原櫻の景」 (歌川豊国/東京国立博物館)
蔦谷重三郎の本屋人生は、この吉原からはじまった。
夏痩の小川の水をふとらせて むなきもふらすゆふ立の雨 蔦唐丸
むなき=うなぎは古名「むなぎ」が転じた
夏痩せのように流れが細くなった小川の水を再び太らせて(大きくして)
うなぎのような(太い)雨を降らせる夕立の雨よ
蔦谷重三郎ー「戯作者と絵師たちの辞世の句」
生きていれば必ず訪れれ「死」。人間の営みの、また輪廻の一過程に過ぎな
いと言えども、その感覚は生きている者にとってみれば未知の世界であり、
怖いのと恐ろしいのと感情が定まらないので、できれば旅支度を終えてから
逝きたいものだ。落語のお決まりのセリフで「俺ァ死んだことがないから、
わからないが、こんなんだったら、若い時分にいっぺん死んどくんだった」
というのがあるが、まさにその通りである。
まだやりたいことがあったり、出来れば死にたくない者たちにとってみれば
「死」は理不尽で容赦ない。それでも何かを残そう、伝えようとするから、
人びとは「辞世の句」を詠んだ。
今では終活ノートとかいう風情皆無なものを書かされて、それも時代が進む
につれて必要なことで、風情とか言ってる場合ではないかもしれなう。
精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに 太田のりこ
「山 居」
山さとも茶菓子ハさらに事かゝす まつ風のおと落雁の声 馬琴
「辞世の句」には、立派なものが多い。
人生を全うし、生きてこれたこと、周りへの感謝が込められている。
死を前に達観している。
人の因果因縁、勧善懲悪を追求した曲亭馬琴の辞世の句は、
「世の中の役を逃れてもとのまま かへすぞあめとつちの人形」
馬琴は74歳で両目が不自由となり、口述筆記で『南総里見八犬伝』を完成
させたのは75歳だった。八犬伝の後、新たに美少年ものに挑戦するも未完
で馬琴は逝く。しかし「生きる役目を終えて、魂は天に、身体は土へと還る」
と詠んだこの句には、大作を描き上げられたという満足と安堵がみえる。
堕ちてゆく時は火球と決めている 山本早苗
葛 飾 北 斎
馬琴が逝った半年後に、葛飾北斎も死出の旅に出る。
「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」
人魂になって夏の草原を気ままに飛んで行こう。
百歳まで生きようとした北斎だが、死期は悟っていたいたかもしれない。
「しょうがねェやな、人間一度は死ぬぬんだ」
という声が聞こえそうだ。
夏の原の向こうで、馬琴とまた仲良く喧嘩しながら絵をえがいてほしい。
永遠にさようならでもありがとう 福尾圭司
十 返 舎 一 九
馬琴も北斎も死を受け入れており、これを粛々と、飄々と詠んでいる。
ところが一筋縄ではいかないのが、粋と洒落を追求したクリエーターたちだ。
晩年の食客であり、重三郎が頼む仕事を何でもこなしたという十返舎一九は、
重三郎の死後に『東海道中膝栗毛』で旅行ガイド戯作という新しい分野で、
成功を収める。そんな彼が詠んだ辞世は、さすがの滑稽本作家で洒落が効い
ている。
「此の世をばどりゃおいとまと 線香の煙とともに灰左様なら」
ドヤ顔で「あばよ」とと言う旅装束の一九が見えるようだ。
遺言はさらりと未練匂わせず 新家完司
朋誠堂喜三二
こうした自分の死をもコメディにしようとした人物は、他にもいた。
「死にとうて死ぬにはあらねど御年には 御不足なしと人の言ふらん」
八十歳近くまで生きた朋誠堂喜三二の辞世の句。
「俺は確かに長生きだけど、死にたくて死ぬんじゃねェんだよ」
とぼやきが聞こえるようだ。
淋しくてまた死んだふりしています 高橋レニ
式亭三馬・浮世風呂
時代は下るが、京伝や馬琴の次世代の作家として、式亭三馬がいる。
十返舎一九と並ぶ滑稽本で一時代を築いた。
「善もせず悪も作らず死ぬる身は 地蔵笑わず閻魔叱らず」
実に平凡な人生だったなァ、みたいなことを言っているが、三馬は京伝や馬琴
を怒らせたり、筆禍を受けたり『浮世風呂』『浮世床』といった日常の滑稽の
他に仇討や勧善懲悪譚を書いたり、あやしい「江戸の水」を売って儲けたりな
ど、それなりに好き放題やっていた。
彼を知る者は「嘘つけ!」と笑って、被せ気味に突っ込んだだろう。
痛いとこ取れたらすぐに行くからね 安土理恵
太 田 南 畝
天明期の文壇の重鎮、太田南畝は多くの人物を見送ってきた。
吉原で共に散々遊び倒し、改革とともに去った恋川春町、ライバルとして意識
しつつも同志だった朱楽菅江、いつの間にか懐に入ってきた版元の蔦谷重三郎
無名の頃に目をかけた喜多川歌麿。自分より早くに逝ってしまった。
「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
最後の最期で正直な感情を吐露する南畝。
しかし、狂歌師南畝のことなので、言外には、
「まぁ、生まれた時から決まっていたことだし」
と年貢の納め時を詠んだのかもしれない。自分の死をも笑い飛ばしてしまう。
それは当の本人にとっての問題で、他人からしてみれば戯作に描かれる滑稽の
ネタでしかない。自分たちも、そのネタで飯を食ってきたではないか。
だからこそ詠める、ヤケクソの句。そして後世に至るまで「粋な最期」として
語られる。
カタログの海老にはひげがあったはず 原 洋志 「拍子木と幕引き」
蔦屋重三郎は、寛政9 (1797) 年5月6日に48歳で死去した。
脚気であり、江戸の出版王も病には勝てなかった。
この日、重三郎は「午の刻(現在の12時)に死ぬ」と言い、家の者に、今後の
ことを指示し、妻にも礼と別れを告げたという。
辞世の句は遺していない。ただ、最後の言葉は伝わっている。
「場上末撃柝(げきたく)何其晩也」(場はあがれるに、未だ撃柝せず何ぞそ
の遅い「きや」=場が上がるとは場面が終わることで、撃柝とは拍子木をいう)
「芝居が終わったのに、まだ拍子木が鳴らないなんて、遅いじゃないか)
こう言って笑って目を閉じ、夕方に息を引き取ったという。
番号札ときどき軽い咳をする 荒井慶子
蔦谷重三郎の初黄表紙
自分の死を予言して葬式まで始めたのに、死ねない落語に『ちきり伊勢屋』が
ある。占い師に「親の因果で2月25日生九つに死ぬ」と言われた伊勢屋の旦那
伝次郎は、どうせ死ぬならと善行で余生を送り、冥途の土産にと遊び倒した。
金を使いきって予告の前日、芸者幇間をあげてどんちゃん騒ぎの通夜をやり、
当日は葬式を済ませ棺桶に入り、今か今かとと待つが一向に死ぬ気配がない。
待っているうちに腹が減ったので鰻を食べて、煙草を吸ったり便所に行ってみ
たり待てど暮らせど死ねない。死ぬのを諦めて寺から50両借り、帰る家もなく
さ迷っていると占い師に再開する。もう一度見てもらうと「人助けをして徳が
積まれたので、80歳の長生きです」
自らの人生を芝居の舞台に見立てた重三郎は、死をも大団円に演出した。
ところが、予言は、大いに外れて死ぬ気配がない。
これを「鳴らねぇねーか、どうなってるんでぃ」と言ったのを聞いて、周りに
いた人たちは「ホントですよ」「ほら、もー格好つけるから」などと、一緒に
ひと頻り笑っただろう。
鐘を衝くこの世の過去がいとしくて 山本昌乃
蔦屋重三郎
きぬ〳〵は瀬田の長橋長びきて 四つのたもとぞはなれかねける
蔦唐丸(蔦屋重三郎) 想い人と別れる後朝には、別れが瀬田の長橋のように長引いて、
男女双方の両手の袂四(午前三時頃の意を掛ける)が離れられない事だ。 重三郎が充分に生きたかどうかはわからない。
しかし生き急いだ人生は、まさしく重三郎一代物語であった。
自分の人生を笑いで締めくくった重三郎は、生きることこそエンタメであれと、
考えていたのかもしれない。
さみしさの発展形になる夕陽 中野六助
「さようなら」 本望をとけしそひ寝もけさはまた かねをかたきとおもふ別路 十返舎一九
山々の一度に笑ふ雪解に そこは沓沓爰は下駄下駄 京伝
早乙女の脛のくろきに仙人も つうをうしなふ気つかひハなし 蜀山人
我もまた身はなきものとおもひしが 今はのきはぞくるしかりけり 恋川春町
南無阿弥陀ぶつと出でたる法名は これや最後の屁づつ東作 平秩東作(へづつ)
執着の心や娑婆に残るらん 吉野の桜さらしなの 朱楽菅江(あけら かんこう)
狂歌師もけふかあすかとなりにけり 紀の定丸もさだめなき世に 紀 定丸
あの世へのていねいすぎる道しるべ 青砥たかこ
昨日まで人のことかと思いしが 俺が死ぬのかそれはたまらん 蜀山人 故郷にあだ名を付けた山がある 井上恵津子
「堪忍袋緒〆善玉」 国立国会図書館 絵師であり、後に戯作者としても名声を得た山東京伝(左)のもとを執筆
依頼に訪れた蔦谷重三郎(右)の様子。
蔦 屋 茂 三 郎 ✦「ありがたやま」
18世紀の末、天明期と寛政期の江戸は、浮世絵の黄表紙・洒落本・狂歌な
どの大衆文化が一頂点を極めた時であった。そうした中でこれらの出版文化
の創造に貢献し「江戸文化の演出者」と称すべき役割を演じたのが版元・蔦
谷重三郎である。その人となりは「功智妙算」と称賛され、作品の企画力や
経営手腕、そして人の能力を見抜く眼力に人並外れた才能を発揮する稀にみ
る逸材だった。
僕がまだ道頓堀だった頃の 雨森茂樹
『身 体 開 帳 略 縁 起』 ✦「蔦谷重三郎自作の黄表紙」
蔦谷重三郎(蔦唐丸)の黄表紙が三点ある。
うち一点の寛政10年(1798)年刊『賽山伏狐終怨』(にたやまぶしきつねの
しかえし)は、蔦重死後に刊行されたもので、蔦重作らしく装ってはいるが、
曲亭馬琴の代作である。おそらくは、蔦重の遺作と見せかけて、初代が築き
上げてきた蔦屋のイメージを保持しようとしたものであろう。
それを除く『本樹真猿浮気話』『身体開帳略縁起』の二点の黄表紙にはとも
にご丁寧に「蔦唐丸自作」という署名が巻末に座る。
「自作」の文言を戯作の署名に見ることは稀である。
これらの作品はこの版元の趣味の産物ではない。
騙された振りをするのも良しとする 東 定生
蔦屋の店のカラーを定着すべく図った、極めて戦略的な経営方法の産物とい
った方がよいだろう。
(近年でも文壇・論壇に登場し、さらにはテレビコマーシャルにも起用され
て文化の主導者的なイメージを定着させた書店主もいた。
また俳句の世界で名を上げ、さらには映画監督としてメガホンを握ることに
よって自社の名を世間に周知せしめた版元もいた)
蔦重にしても、黄表紙を「自作」するような、前衛を地でいく版元という印
象を世間に定着させようとしているのである。
「黄表紙」というメディア自体が備える宣伝・広告効果は大きく、蔦重はそ
れを巧みに利用しているのである。
裏も表も舌の根までも見せている 大場美千代
蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。蔦重の家紋がみえる。 蔦谷重三郎ー蔦重としての第三期・四期 & 終焉
喜多川歌麿の最初期、作品出版の機会を彼に与えたのは、江戸版元界の老舗
西村屋与八だったが、ここには歌麿より一歳年上の鳥井清長がいた。
清長は早熟の天才画家で、早くから希望の星として二村屋の熱い期待を集め
ており、歌麿は、自然とその後塵を拝する形とならざるを得なかったようで
ある。そんな失意の青年に手を差し伸べたのが蔦谷重三郎である。
重三郎の炯眼は歌麿の天分と将来性を透視したようで、彼の才能が大輪の花
を咲かせるまで時間をかけて育てるという方針をとる。
天明期に全盛を迎えていた清長の美人画と、未完の段階にある歌麿を重三郎
はあえて競わせようとはせず、狂歌絵本の挿絵という別の世界でその非凡な
天性を生き生きと飛翔させるのである。
何事を為さんと飯を食っている 新家完司
『婦人相学10躰』 喜多川歌麿 寛政3 (1791) 年、山東京伝作の洒落本三部作が幕府の出版禁止令に抵触し
て重三郎は財産の半分を没収され、順風満帆だった蔦屋の看板にも翳りが現
れ始める。これを乗り越えるべく彼は浮世絵出版の比重を高めていくのだが
この熱意に応えて『婦人相学10躰』や『歌撰恋之部』など、従来の美人画の
粋を次々と生み出し、あらためて版元・蔦谷重三郎の名前を人々に知らしめ
たのが歌麿である。美人画家としての歌麿の名声は、これらの作品によって
一挙に高まり名実ともに浮世絵界の第一人者として君臨するすることになる
のである。一方、重三郎も歌麿美人画の大成功によって財産没収の痛手から
ある程度回復できたのと同時に、歌麿を擁する立場から美人画出版界の覇権
も手中にする。
プロテインが育てた蛙の太もも 通利一遍
「市川蝦蔵の竹村定之進」 (東洲斎写楽)
役を演じる役者の化粧の奥にある素顔までを描き出そうとした写楽の役者絵
は、江戸の人々に大きな衝撃を与えた。これは第一期の作品。
✦「歌麿から写楽へ」
しかし、人間の欲望には限りがない。美人画出版で大当たりをとった重三郎
が、浮世絵界で美人画と並ぶ代表的なジャンルの役者絵を次の目標に定め、
その野心を強めていったのは当然なのかも知れない。
ちょうどこの寛政初期は役者絵界で新旧交代の動きが強まっていた時だった。
大衆はそれまでの勝川派の役者絵に代わる新しい作品の描ける絵師を求めて
おり、その動きを感じ取った版元たちは、新進の歌川豊国をめぐる争奪戦を
繰り広げていた。これに対して、蔦谷重三郎は豊国にあまり関心を示す様子
はなく、別の役者絵師を探すことに熱心になっていた。
そして寛政五年ごろ、重三郎はついにその眼に適う人物に出会うことになる
のである。それが東洲斎写楽である。
何事を為さんと飯を食っている 新家完司
『当 時 全 盛 美 人 揃』 早速、重三郎は写楽による画期的な役者絵出版の準備にとりかかった。
この企画は第一回は28点、二回目は38点の作品を、一挙に売り出そうと
いう内容で、歌麿の場合を大きく上回る模様だった。
こうなると収まらないのは歌麿である。長年にわたり重三郎とパートナーと
しての信頼関係を築き、さらには先のようにその作品の大成功により美人画
界の帝王の地位を獲得して、蔦屋の経営にも多大な貢献ができたということ
に強い自負心と誇りを抱いていた歌麿からすれば、自分以上の存在が蔦屋に
あることなど絶対に容認できなかっただろう。
ましてや、それが新人の絵師ときては、こうして、二人の間には冷たい風が
吹きはじめ、ついには、歌麿は写楽と蔦屋による役者絵出版に対する対抗心
を剥き出しにしながら、他の版元と提携して『当時全盛美人揃』(若狭屋版)
などの力作を発表することになるのである。
たかの爪たくさんいれておきました 西澤知子
「大腹中の男子」と称され、ものに動じない性格の重三郎であれば、歌麿の
大人げない行動にも、おそらくは冷静に対処し、新たな企画の実現に向け着
々と段取りを進めていたと思われる。
寛政六年五月から翌年正月までの間に四回にわたって発表された写楽の役者
絵作品は、その意外性に満ちた前衛的表現によって、江戸市民に賛否両論の
大きな渦を巻き起こすことになった。このうち第一期の大首絵、第二期の全
身像作品では、浮世絵史上を代表する多数の名作が、綺羅星のように輝いて
おり、まさに圧巻である。
(しかし、第三・四期に入ると用様相は一変する。
ここには第一・二期作品であれだけ精彩を放っていた画家の魂は光を失い、
抜け殻としての写楽の姿を見るだけである)
だとしても固定電話はダリの髭 安い紀代子
「山姥と金太郎 耳そうじ」(喜多川歌麿)
✦「きり札を失った焦り」
第一・二期の出版を通じて重三郎は、江戸の人々からある程度の手応えを
感じていたのだろう。彼はこの判断をもとにしながら第三期の企画を立案
したが、それは一度に約70点にも及ぶ作品を出版するという常識を超え
た内容で、このすべてが、写楽に依頼されることになったわけである。
第三期の大胆な企画には、圧倒的多数の写楽作品によって、役者絵市場を
一挙に独占・支配してしまおうという狙いがあったと推察されるが、重三
郎の焦りにも似た気持ちが強く作用したことは否定できない。
さらに重三郎のあまりの性急さは、写楽にとっては過剰な負担以外の何物
でもなかった。それはプレッシャーとなって、彼の創造意識を削ぎ取り作
品の、作品の芸術性も喪失させる結果を招いてしまったのである。
結局、写楽はもとの武士の生活に逃げてしまい、蔦重との蜜月期間は10ヵ
月という短い月日で終局となった。
優しさは日持ちをしない内緒だよ 柴田比呂志
一方の歌麿は、蔦重と組んだ作品によって一躍、時代の寵児となってもて
はやされ、次第に蔦重との距離を保つように
なってゆく。鼻っ柱の強い歌麿にとって、恩は御、内容に関わらず「歌麿」
の名で作品が売れるようになったからには、蔦重の傘の下にいるだけで満
足できるはずもない。また蔦重とて歌麿ひとりにオンブしていると見られ
るのは、片腹痛いことであったのだろう。
その結果、重三郎は、歌麿のみならず、写楽までも失い、美人画と役者絵
出版の覇権を同時に獲得するという夢も、泡のように消えてしまったので
ある。
非通知で過去から石を投げられる 中林典子
歌麿が描いた山東京伝
✦「蔦谷重三郎ー寛政元年~終焉まで」
寛政元 (1789) 年 (39歳)
・「寛政改革」始まる。
・歌麿『潮干のつと』。恋川春町『黄表紙・鸚鵡返文武二道』刊行。
寛政2 (1790) 年(40歳)
・蔦唐丸(蔦重)による黄表紙の初作「本樹真猿浮気噺」(もとき
にまさるうわきばなし)刊行。
恋川春町画作『無益委記』が創始した未来記形式の趣向を踏襲する。
・歌麿の美人画大首絵大ヒット。
寛政3(1791)年(41歳)
・洒落本の出版点数20点。
・山東京伝の洒落本出版により、身上半滅・手鎖50日の刑を受ける。
・葛飾北斎、絵師・勝川春朗として耕書堂の挿絵を描く。
寛政4 (1792) 年 (42歳)
・曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。
のらという大きな虹をしょっている 酒井かがり
十返舎一九 〈奥) 蔦屋に寄宿して笑いをふりまく舎一九
寛政5 (1793) 年(43歳)
・浮世絵界の美人画ブームがピーク。
・相撲絵、役者絵に進出。
寛政6 (1794) 年(44歳)
・写楽の大首絵出版。
・十返舎一九が蔦屋に寄宿。
・結婚を機に曲亭馬琴が独立。
寛政7 (1795) 年(45歳)
・本居宣長を訪問し「手まくら」江戸売出版。
・版元・蔦重として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽)刊行。
寛政8 (1798) 年 (46歳) この秋ごろより体調を崩す。
・この直前まで、新人浮世絵師のプロデュースを計画しており、
病に倒れるまでは財を蓄えつつ、再び浮世絵界を牽引しようとした。
寛政9 (1797) 年(47歳)
・3月危篤。5月6日、死没、死因は脚気。正法寺に葬られる。
(蔦重の妻は、文政8(1825)年10月11日に亡くなったとされ、戒名
は錬心妙貞日義信女。 ドラマの役名である「てい」は、この妙「貞」
から採ったものと思われる。
香典の袋の番号がさむい 井上裕二 生きてゆくこの世の壁に爪立てて 香月みき
「護 国 寺 観 世 音 開 帳・大 達 磨」
「江戸のニュース」
文化元年四月十三日 葛飾北斎が大達磨絵を描く
浮世絵師の葛飾北斎が「画狂人」とも称したように、浮世絵はもちろん、
黄表紙、狂歌本の挿絵まで、おびただしい数の作品を残した。
『新編水滸画伝』や『鎮西弓張月』の挿絵、枕画、七十一歳から始めた『富岳
三十六景』シリーズ、絵手本の『北斎漫画』など、その数は一説には、三万点
以上ともいわれる。
探求心が強く、狩野派や土佐派の日本画を学ぶ一方で、西洋画をアレンジした 司馬江漢からも、影響を受けた。 十九歳で勝川春章の門下となったが、三十五歳で破門されたのも、その貪欲
な姿勢が,保守的な先輩連中から煙たがられた原因だったのだろう。 しかし,北斎は破門されて、かえって自由闊達に活動したというのだからやはり
本物だった。
しばらくは余談が続く峠道 中野六助
四十五歳のこの年にも、奇行とも取られ兼ねない「画狂人」らしいパフ
ォーマンスを行って、人々を驚かせている。『武江年表』には「三月よ
り護国寺観世音開帳あり、四月十三日画人北斎本堂の側において百二十
畳の継紙へ達磨を描く」とある。
平成二十三年福岡市博物館で「大北斎展」が開催された際、この大達磨
絵が原寸大で再現されて話題を呼んだ。
嘉永二 (1849) 四月、九十歳で没、生涯で九十三回も転居したというい
のも、北斎らしいエピソードとしてよく知られている。
五十年後わたしは何処に居るだろう 加藤ゆみ子
隅 田 川 春 雪
隅田川のっ西岸から眺めて光景。江戸の春は雪景色から始まる。
「来てみればむさしの国の江戸からは北と東のすみた川かな」
蔦谷重三郎ー葛飾北斎の狂歌絵本
牛込の毘沙門天へ参詣する人々
門前には,飴細工の男がいる。薄墨の効果をよく知悉した作画である。
喜多川歌麿や東洲斎写楽と比較すれば、葛飾北斎と蔦谷重三郎との関係は必
ずしも強固なものだったとはいい難い。にもかかわらず、ここで北斎を取り
上げるのは、主として狂歌絵本に関しては、蔦重と北斎は、深い結びつきが
あるからである。
蔦重自身は、寛政3 (1792) 年の身上半減の刑から立ち上がるために、まず
歌麿を使って美人画界に旋風を巻き起こし、さらに写楽を登場させて役者似
顔絵に新機軸を打ち立てたが、その八面六臂の活躍の無理が祟ったものか、
寛政9年に惜しまれながらこの世を去ってしまう。
その後の蔦屋は、番頭だった勇助が二代目重三郎を継いで、初代の残した出
版計画を実行していった。
二番手をキープするのも楽じゃない 井上恵津子
隅 田 川
この書のもっとも美しい場面。隅田川の波風に逆らって急速に上って
ゆくのは、吉原へ通う猪牙(ちょき)である。
初代の時代、北斎は山東京伝の黄表紙に挿絵を描くことで、この稀代の版元
と関係をもったのだが、それは寛政4年のことであり、このころは、蔦重が
永年いわば、子飼いのような形で育てていた歌麿を、一気に売り出しにかか
った時期にあたる。その後、歌麿が押しも押されもせぬ浮世絵の「名人」と
なってからは、写楽という画号の人物による新しい役者絵を世に問うことに
蔦重が没頭したためか、北斎を取り分け、引き立てようとはしなかったよう
である。しかし、蔦重は次のスターとして曲亭馬琴と北斎に目をつけていた
と思われるが、その事業に手をつける前に死んでしまった。
(ここに紹介する狂歌絵本と一つの狂歌集は、いずれも初代の蔦谷重三郎の
死後によるものだが、その品格のある描写と繊細な色彩表現には、歌麿の狂
歌絵本に勝るとも劣らぬ北斎の意気込みを感じることができるものである)
神々が素顔に戻る神無月 中井桂子
「北 斎 画 本 東 都 遊」 新吉原、仲の町には、このために選ばれ植えられた桜に花が満開。 左端、大門外に続く五十間道には、蔦重の最初の店があった。 初め墨摺一冊本の「東遊」として寛政11(1799) 年刊行。
享和2(1802) 年に色摺三冊本の『画本東都遊』と改題。
北斎の空間把握が既に相当の高みにあることが知られる。
梅 屋 敷
臥龍梅で有名だった亀戸の梅屋敷である。柿澄人の狂歌に、
「いくとせをふりてかこゝに臥龍梅みきはうろこになりてみゆらん」
とある。
長 崎 屋
長崎から江戸に参府してきたオランダ人たちの場所である長崎屋。
元 結 匠
元結を製造する職人。西洋文化と日本文化の描きわけである。
三囲(みめぐり)の稲荷
右下に稲荷社の鳥居の上部がわずかにのぞく。
川の向こうに見える小山は聖天宮のある待乳山。
野ざらしの地蔵は修行中だろう 安井貴子
雨に降られて帰りを急ぐ人々 『画本東都遊』や『東都名所一覧』と較べると、やや硬質な画風が生起し
はじめているようだ。うしろ姿の人物、傘などで顔の見えない人物など、
後年の北斎画の特徴の萌芽がうかがえる。
野良仕事に向かう人々
朝もやのなかを野良仕事に出かける人々であろうか、もやのなかに見える
森と伽藍は護国寺と推定されている。
ほととぎすの声を聞きながら、女たちの野宴の態
高田のあたりを描いたものであることは、散らされた狂歌から類推する
ことができる。
待っててね釣り針丸くするからね 森井克子 「潮来絶句」
出版は享和二年(1802)とされるが確証はない。当時流行していた潮来節
を記し、それを著者・富士唐麿が狂詩に変えて詠んだものに、北斎が、派手な 色を極力避け、ほとんど「紅嫌い」のような彩色で絵をつけた。 潮 来 節
「しばしあはねばすがたもかほもかはるものかよこゝろまで」
狂詩「暫時不相見(ざんじあいみざれば)容顔異平生(ようがんへいせいにこと
なり)容顔不寧異(ようがんただことなるのならず)漸々異心情(ぜんぜんにし
んじょうことならむ)
ちょっとした言葉の行き違いから喧嘩となって、背中を向け合う若い二人。
その喧嘩の発端はつまらぬ嫉妬だったようである。
男が帰って行くのを見送りもせず、女はただ泣くばかりである。 淡い色彩が女の悲しみを心憎いばかりに表現している。 ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ 造花にも生まれ故郷があるポエム 前中知栄
青楼仁和嘉 女芸者部・大万度 吉原の女芸者による俄(にわか)狂言を題材にしたもの。大首絵で画壇に雄飛 する直前の作品で蔦重御用の彫師・摺師の腕の冴えを見ることができる。 寛政5 (1793)年から6年の作。全12枚からなるこのシリーズは、歌麿の色
彩感覚と構図感覚の非凡さを示して余すところがない。
子の刻から亥の刻までの十二時に、吉原の女たちの生態を描きわけるこの作
品ではひとり立ち、あるいは二人から三人までの遊女をすべて全身像で描き、
その十二枚のことごとくが、、それぞれ細心の注意をもって構図される。
野卑な色彩は意識的に排除されており、ほとんど「様式美」と名づけてもよい
ような女たちの美しさを作り上げている。
積分をして5を足すとキミの頬 井上一筒 十二枚、まったく間然するところのないこのシリーズは、もともと特別の注文
によって作られたもの、とする説が生まれるほどに、最高の彫刻技術が駆使さ
れた作品である。歌麿がかくも完璧な吉原の日常を描くことができたのは…、
蔦重のおそらくは推薦で狂歌仲間「吉原連」に名を連ねたことが大きかったに
違いない。
この作品のあと歌麿は、蔦重とは距離を置き、若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田
屋、松村屋、鶴屋など、多くの版元から錦絵を出すようになった。
もちろん蔦重には、歌麿が離れてしまうのは、手痛かったはずである。
ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて 太田のりこ
蔦谷重三郎ー歌麿・「青楼十二時」
子の刻
遊女の十二時は子の刻からはじまります。上級の遊女はおそらく床着に着替え
ているところか。お付きの女性は打ち掛けを畳んでいる。吉原の街の営業終了。
これを「引け」と呼びました。
丑の刻
夜中の午前2時頃、目が覚めてお手洗いに行くのでしょうか。電灯のない時代
なので、遊女は手元に小さな火を灯しています。睡魔と戦いつつ、暗闇の中、
足先で草履を探しているような細かい仕草の描写は歌麿ならではの技。
寅の刻
03:00〜05:00、まだ辺りは暗い時間帯です。姉さん風の遊女は、長い花魁煙管
で朝の一服。火鉢の前のお付きの女性は、お客に何か温かい茶でも出そうと準
備をしている。二人遊女は、客の話をするような、おしゃべりがはずむ。
しばらくは余談が続く峠道 中野六助
卯の刻
05:00〜07:00、夜が明け、泊まりの客を送り出す遊女。客に着せようとしている
羽織の裏には、達磨の絵が描かれている。達磨は指をくわえてちょっと物足りな
さ気。はたしてこの達磨は、遊女と客とどちらの心境を表しているのだろうか。
辰の刻
07:00〜09:00
客がひと通り帰って、ようやく体を休める遊女たち。どこかほっとした表情です。
とは言え、また昼の営業が始まるので、ここでは仮眠がせいぜい。
巳の刻
09:00〜11:00、吉原遊廓は昼の営業(昼見世)もあるため、この時間になると、
遊女たちは髪結いに髪を結ってもらい、入浴をして食事をし、身支度をします。
描かれているのは湯上りの遊女。お茶を差し出しているのは、見習い遊女(新
造)でしょう。
古時計メトロノームにして眠る 井上恵津子
午の刻
11:00〜13:00、吉原の昼見世は、夜に比べれば客足も少なく、比較的のんびり
したものだったようです。中央の煙管を持った遊女はおそらく花魁、襷掛けの
遊女は新造か、誰からか届いた手紙をみせています。それを見て花魁が何か話
しかえています。そんな二人にはお構いなしで、嬉しそうに鏡を眺めるのは禿。
新造が櫛を手にしているので、禿の髪を結ってやったのでしょう。
未の刻
13:00〜15:00、この刻限に描かれた遊女たちは、だいぶリラックスモード。
画面左端の冊子の上に見えているのは筮竹で、遊女の向かいには易者(占い師)
が座っているのでしょう。隣の新造が禿の手相を見て占いごっこに興じている。
やや前のめり気味で占い結果を聞いている遊女の姿がなんとも微笑ましい。
申の刻
15:00〜17:00、昼見世が終わると、いよいよ夜の営業(夜見世)の準備です。
「申の刻」では、遊女たち(赤い着物の遊女の後ろに、びらびらかんざしを挿
した禿の頭が見える)が、揃って出かける模様。引手茶屋で待っている花魁の
お客を迎えに行くのでしょう。花魁がお客を出迎えに行く往復路が、いわゆる
「花魁道中」です。華やかな遊女たちがしゃなりしゃなりと遊郭の通りを練り
歩く様は、見物の人々の目を釘付けにしました。
裏も表も舌の根までも見せている 大場美千代
酉の刻
17:00〜19:00、午後6時頃を「暮れ六ツ」と呼び、吉原の夜見世が始まる時刻
です。「暮れ六ツ」には、各妓楼で三味線が鳴らされ、提灯に火が灯されます。
歌麿も、立派な箱提灯の準備をしている様子を描いています。ちなみに、頭の
上に蝶々が羽を広げたような遊女の髪型は、兵庫髷の一種。日本髪は時代を通
じて非常に多くの種類が存在しますが、吉原の遊女たちはさまざまなアレンジ
を加え、そのバリエーションをさらに広げていきました。
戌の刻
19:00〜21:00、遊女が長い巻紙に手紙を書いています。今晩はお客がつかなか
ったのでしょうか。遊女たちは、吉原の外に出ることを許されず、お客を待つ
ほかありません。そのため、手紙はお客の心を繋ぎ止める重要な営業ツールで
した。白々しい愛の言葉を書き連ねても、苦境を露骨に訴えても、相手に引か
れてしまいます。とても難しいですね。遊女が、禿の耳元に何やら次の作戦を
伝えています。
亥の刻
21:00〜23:00、夜も更け、禿が遊女の隣でうつらうつらと舟を漕いでいます。
吉原では、客が遊女と二人きりになるまでに、なるべくお金を落とさせる仕組
みになっていました。遊女や妓楼のランクによって、遊び方のシステムや予算
は異なりましたが、相手が最高位の花魁となると、相応の手順と費用を要しま
した。宴席を開いて羽振り良く振る舞い、詩歌や音曲、書画などの教養を披露
し、一夜限りの殿様気分を味わうのです。客が殿様なら、花魁はお姫様です。
煙管片手に盃を差し出す花魁の姿は堂々としたものです。
プレゼンの途中に挟む自慢談 日下部敦世
東扇・中村仲蔵 勝川春章
「勝川春章と春好」
勝川春章は一筆斎文調とともに役者似顔絵の新機軸を出し、鳥井派風の画一的
表現に慣れていた当代人の耳目をひいた。『浮世絵類考』では、春章のことを
「明和の此歌舞伎役者似顔名人」に簡潔に記している。
役者を似顔で描くということは、役者という存在をリアルに捉えることを意味
するから、春章はこれを推し進めて、舞台以外の役者の日常を似顔で描いた
『絵本役者夏の富士』なども刊行した。
そうこうした彼の作画活動のなかで『東扇』シリーズは、すべて扇の形の中に
役者の似顔による半身像を描いたもので、いわば歌麿の美人大首絵や写楽の大
首絵の先蹤的作品といえるものである。
土足で入る他人の夢の中 蟹口和枝
市川高麗蔵の伊豆の次郎 勝川春好
春好は春草の高弟。彼は役者絵では師の似顔絵を、さらに発展させたことで重
要な位置にある。「市川高麗蔵の伊豆の次郎」は、まさしく写楽の大首絵の源
泉となったもので、半身像をさらに顔面のクローズアップへと進めた。
ただし、衣紋線までもが異様に大きくなり過ぎたきらいがある。
プロテインが育てた蛙の太もも 通利一遍
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