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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子



建永元年(1206)2月、実朝が義時の山荘で催した和歌会。
(この同じ年に公暁が、政子邸で着袴の儀を行っている)


「諫言は苦くても妙薬 甘言は心地よくとも毒薬」
 
奇妙なことに後鳥羽院は将軍・実朝に対して、しきりに官位を薦めた。
権中納言へ推挙(1213)以来、権大納言、兼左対象、内大臣、そして27
歳にして右大臣へと、実朝は異例の出世を遂げるのであった。
朝廷の後鳥羽院一派による「官打」である。
官打とは昇進させて早死に狙う院が謀った呪い…分不相応な官職につけ
ることで相手がそのプレッシャーに負けて、早死にすることを意図した。


してあげるやってあげるという目線  河村啓子
 
 
何とも姑息で陰険な策謀だが、後鳥羽院は実朝だけでなく、執権・義時
に対しても、興福寺や延暦寺に命じて呪詛を行ったといわれている。
それほど後鳥羽院は、鎌倉政権を嫌悪し、全面的に否定していたという
ことだろう。
政子や義時、そして京の事情に通じた大江広元は、実朝の昇進に危惧を
感じていた。広元は、義時と相談し、実朝に諫言するのだが、実朝
「源氏の正統が絶えようとしている今、せめて自分が高官になって名を
 のこすしかない」
と、退けたという。
聡明な実朝は、自身と源氏の嫡流の行く末を予感し、すでに諦めの境地
だったのかもしれない。


あなたへと堕ちる真っ逆さまに点  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 実時暗殺ーカウントダウン



「建保職人歌合」 
(国立公文署内閣文庫蔵)
陰陽道は鎌倉でも重要な役割を果たし、陰陽道たちは寺院の僧侶たちと
並んで祈祷をおこなった。


建暦3年(1213)、この年の正月も義時「正月垸飯」を勤仕した。
正月垸飯とは、正月3が日に行われ、有力御家人が日替わりで担当した。
垸飯を担当した者は、その後の「御行始」に同行することができる。
御行始というのは、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行
事のことだが、義時は、この頃から「政」に目覚めた将軍・実朝を警戒
し始めていた。
義時にとって、実朝をあくまでも飾り物の将軍であり、政の実権は執権
である自分にある。
考え方の相違は必然的に、2人の良好な関係を悪い方へと進んでゆく。


繋ぐ手は緩い手錠のようでした  真鍋心平太


そんななか5月2日、ついに事件が起った。
実朝の側近であり、最も信頼を置く侍所の長官・和田義盛の軍勢が突如
蜂起し、執権・北条義時の館を襲ったのである。
これは義時の罠だった。
義時は和田一族に謀反があるとして一族の者を捕らえ、和田義盛を挑発
していた。執権・義時に兵を挙げた義盛は、幕府への反逆者とされ、
鎌倉武士団に討ち取られてしまったのである。
(義時は、義盛に代り侍所長官・別当に就任、幕府の軍事力を掌握した)
実朝から軍事力を奪い、将軍の政治力を失わせようと考えたのである。
この事態に実朝は、危機感を抱いた。
<なんとしても北条氏を押さえなければならない。しかし父頼朝以来、
 源氏に忠誠を誓ってきた和田義盛は、もはやいない>
この時、実朝の脳裏に浮かんだのは、和歌によって繋がりを深めていた
朝廷の権威だった。


合点がいかぬとじゅんさいのヌメリ  山本昌乃


「和田の乱」から半年後、実朝のもとに朝廷からの勅命が届いた。
将軍の直轄領から「税を徴収する」というのである。
これに鎌倉武士たちは猛然と反発した。
もし将軍である実朝が、朝廷に税を納めることになれば、それは関東武
士が、朝廷から実力で奪い取った領地の支配権を、ふたたび朝廷に返上
することになりかねない事態となる。
 だが、この時、実朝は意外な行動にでる。
なんと朝廷の納税命令を受け入れたのである。
実朝の狙いは、朝廷との結びつきを強め、自らの官位を上げることだっ
た。源氏の名と将軍の権威を高め、北条氏などの有力武士団を押さえ込
むことが目的だったのである。


移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭



「玉藻前草紙」 常在院蔵
京文化に憧れた実朝は、陰陽道など鎌倉に京風スタイルを取り入れた。


さらに、実朝と鎌倉武士たちとの亀裂を深める事件が起った。
下野国の長沼宗政が幕府に謀反を企てた者を討ち取り、その首を携え、
鎌倉にやってきた時のことである。
反乱を未然に防いだことで「恩賞をもらえる」と思っていた宗政に、
 「なぜ将軍の私が命じる前に勝手にこの者を討ったのか、生きたまま
 捕えれば、本当に謀反の罪があるか確かめることができたであろう。
 お前の粗忽な振る舞いこそ罪である」
と、実朝は激しく叱責した。
これに怒った宗政は、不満を吐いた。
「将軍は、和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸を廃されようとしている。
 こんなことでだれが将軍に忠節を尽くすというのか」と。


雨音を集めて耳は不眠症  笠嶋恵美子


「武功」に対し、恩賞を与えようとしなかった実朝に、武士たちの反感
が募っていく。そして決定的な出来事が起こった。
実朝が、和歌や学問の師として都から招いていた公家の源仲章を、幕府
政治の中枢に送り込んだ。
有力な武士たちを押さえるために実朝は、側近の公家を武家政権の中心
に置いたのである。
実朝は、仲章を登用したこのころから、盛んに朝廷に働きかけ、官位を
上げようとしていた。
朝廷と結びつくことで鎌倉幕府を全国政権とし、民のために理想の政治
を行おうとする実朝の夢があった。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子


建保4年(1216)9月20日、実朝の許に側近の大江広元が訪れた。
広元は、官位を上げ続ける実朝に、武士たちが反発していることを告げ、
次のように諫言した。
「父君、頼朝様のように、すべての官位を朝廷に返上なさり、願わくば
 武家の棟梁、征夷大将軍に専心されることが肝要かと存じます」
実朝は応えた。
「お前の言うことはもっともである。しかし、自分は体が弱く世継ぎも
 いない。いずれ源氏の血は絶えるえあろう。自分にできることは高い
 官位を得て、源氏の名を高めることだけなのだ」


口封じされて噂のど真ん中  上田 仁



右大臣・源実朝

世の中は  常にもがもな  渚漕ぐ 海人の小舟の  綱手かなしも
(この社会がずっと普段通りであるといいなぁ。海人が小船の綱を引く、
 そんな普通の光景にも、心動かされるものだよ)


「官打」

建保6年(1218)12月2日、実朝に待ちに待った知らせが届いた。
朝廷が武家としてはじめて「右大臣に任ずる」というのである。
この時、実朝は、右大臣への昇進が、実朝の失脚を狙った朝廷の呪い
「官打」であることを知るよしもなかった。
<征夷大将軍として、武家の頂点にある自分が右大臣となり、朝廷を動
 かすことになれば、幕府の力は全国に及び、父・頼朝の名に恥じない
 将軍となれる>
実朝は希望を抱いた。


うまそうな奴だ溢れる人間味  松浦英夫


しかしこの知らせは、北条義時ら鎌倉武士たちに衝撃を与えた。
<実朝はついに朝廷に取り込まれ、幕府の朝廷支配からの独立を、
 無に帰そうとしている>
それは武家政権の崩壊を意味していた。
2ヵ月後の建保7年1月27日。
その夜、「右大臣就任」を祝賀するため、将軍・実朝は、鶴岡八幡宮に
参拝することになっていた。
夕刻、出発が近づくと側近・大江広元が実朝に注進した。
「今日なぜか私は、涙を止めることがっできません。これは不吉な前触
 れかもしれませぬ。どうか装束の下に、鎧をおつけになってください」


もしもって嫌い自分を信じたい  前中知栄


これに、公家の源仲章が反対した。
「右大臣が晴れの場で鎧をつけるなど、前例がない」
実朝は仲章に従い、鎧を身につけなかった。
そして出発の間際、実朝は一首の歌を詠んだ。

「出で去なば主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」
(主の私がいなくなっても、庭の梅よ、春を忘れずに咲いておくれ)


覗きみる今どの辺り今何時  中野六助

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