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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きてゆくこの世の壁に爪立てて  香月みき




        「護 国 寺 観 世 音 開 帳・大 達 磨」



「江戸のニュース」 
文化元年四月十三日 葛飾北斎が大達磨絵を描く
浮世絵師の葛飾北斎「画狂人」とも称したように、浮世絵はもちろん、
黄表紙、狂歌本の挿絵まで、おびただしい数の作品を残した。
『新編水滸画伝』『鎮西弓張月』の挿絵、枕画、七十一歳から始めた『富岳
三十六景』シリーズ、絵手本の『北斎漫画』など、その数は一説には、三万点
以上ともいわれる。
探求心が強く、狩野派や土佐派の日本画を学ぶ一方で、西洋画をアレンジした
司馬江漢からも、影響を受けた。
 十九歳で勝川春章の門下となったが、三十五歳で破門されたのも、その貪欲
な姿勢が,保守的な先輩連中から煙たがられた原因だったのだろう。
しかし,北斎は破門されて、かえって自由闊達に活動したというのだからやはり
本物だった。



しばらくは余談が続く峠道  中野六助



四十五歳のこの年にも、奇行とも取られ兼ねない「画狂人」らしいパフ
ォーマンスを行って、人々を驚かせている。『武江年表』には「三月よ
り護国寺観世音開帳あり、四月十三日画人北斎本堂の側において百二十
畳の継紙へ達磨を描く」とある。
平成二十三年福岡市博物館で「大北斎展」が開催された際、この大達磨
絵が原寸大で再現されて話題を呼んだ。
嘉永二 (1849) 四月、九十歳で没、生涯で九十三回も転居したというい
のも、北斎らしいエピソードとしてよく知られている。



五十年後わたしは何処に居るだろう  加藤ゆみ子





                                                 隅 田 川 春 雪
隅田川のっ西岸から眺めて光景。江戸の春は雪景色から始まる。
「来てみればむさしの国の江戸からは北と東のすみた川かな」



蔦谷重三郎ー葛飾北斎の狂歌絵本





                                牛込の毘沙門天へ参詣する人々
門前には,飴細工の男がいる。薄墨の効果をよく知悉した作画である。



喜多川歌麿東洲斎写楽と比較すれば、葛飾北斎蔦谷重三郎との関係は必
ずしも強固なものだったとはいい難い。にもかかわらず、ここで北斎を取り
上げるのは、主として狂歌絵本に関しては、蔦重と北斎は、深い結びつきが
あるからである。
蔦重自身は、寛政3 (1792) 年の身上半減の刑から立ち上がるために、まず
歌麿を使って美人画界に旋風を巻き起こし、さらに写楽を登場させて役者似
顔絵に新機軸を打ち立てたが、その八面六臂の活躍の無理が祟ったものか、
寛政9年に惜しまれながらこの世を去ってしまう。
その後の蔦屋は、番頭だった勇助二代目重三郎を継いで、初代の残した出
版計画を実行していった。



二番手をキープするのも楽じゃない  井上恵津子



               隅 田 川
この書のもっとも美しい場面。隅田川の波風に逆らって急速に上って
ゆくのは、吉原へ通う猪牙(ちょき)である。



初代の時代、北斎山東京伝の黄表紙に挿絵を描くことで、この稀代の版元
と関係をもったのだが、それは寛政4年のことであり、このころは、蔦重
永年いわば、子飼いのような形で育てていた歌麿を、一気に売り出しにかか
った時期にあたる。その後、歌麿が押しも押されもせぬ浮世絵の「名人」と
なってからは、写楽という画号の人物による新しい役者絵を世に問うことに
蔦重が没頭したためか、北斎を取り分け、引き立てようとはしなかったよう
である。しかし、蔦重は次のスターとして曲亭馬琴と北斎に目をつけていた
と思われるが、その事業に手をつける前に死んでしまった。
(ここに紹介する狂歌絵本と一つの狂歌集は、いずれも初代の蔦谷重三郎の
死後によるものだが、その品格のある描写と繊細な色彩表現には、歌麿の狂
歌絵本に勝るとも劣らぬ北斎の意気込みを感じることができるものである)



神々が素顔に戻る神無月  中井桂子






          「北 斎 画 本 東 都 遊」
新吉原、仲の町には、このために選ばれ植えられた桜に花が満開。
左端、大門外に続く五十間道には、蔦重の最初の店があった。
初め墨摺一冊本の「東遊」として寛政11(1799) 年刊行。
享和2(1802) 年に色摺三冊本の『画本東都遊』と改題。
北斎の空間把握が既に相当の高みにあることが知られる。



                                                       梅  屋  敷
臥龍梅で有名だった亀戸の梅屋敷である。柿澄人の狂歌に、
「いくとせをふりてかこゝに臥龍梅みきはうろこになりてみゆらん」
とある。
                                長  崎  屋
長崎から江戸に参府してきたオランダ人たちの場所である長崎屋。


                                  元  結  匠 
元結を製造する職人。西洋文化と日本文化の描きわけである。

                                          三囲(みめぐり)の稲荷
右下に稲荷社の鳥居の上部がわずかにのぞく。
川の向こうに見える小山は聖天宮のある待乳山。



野ざらしの地蔵は修行中だろう   安井貴子






             雨に降られて帰りを急ぐ人々
『画本東都遊』や『東都名所一覧』と較べると、やや硬質な画風が生起し
はじめているようだ。うしろ姿の人物、傘などで顔の見えない人物など、
後年の北斎画の特徴の萌芽がうかがえる。

                                         野良仕事に向かう人々

朝もやのなかを野良仕事に出かける人々であろうか、もやのなかに見える
森と伽藍は護国寺と推定されている。

                        ほととぎすの声を聞きながら、女たちの野宴の態
高田のあたりを描いたものであることは、散らされた狂歌から類推する
ことができる。





待っててね釣り針丸くするからね  森井克子

「潮来絶句」

出版は享和二年(1802)とされるが確証はない。当時流行していた潮来節
を記し、それを著者・富士唐麿が狂詩に変えて詠んだものに、北斎が、派手な
色を極力避け、ほとんど「紅嫌い」のような彩色で絵をつけた。


                                                 潮  来  節
「しばしあはねばすがたもかほもかはるものかよこゝろまで」
狂詩「暫時不相見(ざんじあいみざれば)容顔異平生(ようがんへいせいにこと
なり)容顔不寧異(ようがんただことなるのならず)漸々異心情(ぜんぜんにし
んじょうことならむ)

ちょっとした言葉の行き違いから喧嘩となって、背中を向け合う若い二人。
その喧嘩の発端はつまらぬ嫉妬だったようである。

男が帰って行くのを見送りもせず、女はただ泣くばかりである。
淡い色彩が女の悲しみを心憎いばかりに表現している。





ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて  太田のりこ  

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