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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ほーたる来い こっちの水はビールだよ  松浦英夫


         屏風絵・洛中洛外図上杉本 (狩野永徳)

洛中洛外図屏風は,京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこに有名寺社や名所
と四季のうつろいを追い、上は内裏や公方の御殿から下は町屋や農家の
住まいまで、そこに生きるひとびとの生活と風俗を描いている。 







「後鳥羽から後鳥羽院へ」
治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆韮山で「平氏打倒」
ため挙兵した。平家を打倒する最中に即位したのが、後鳥羽天皇である。
治承7年(1183)、木曽義仲が平家軍を破って入京しようとすると、
平家は、安徳天皇三種の神器を伴って西国に下向した。
天皇と神器の不在を受けて、新天皇として即位したのが、後白河の孫の
後鳥羽であり、当時、数え年で4歳であった。
建久3年(1192)に祖父の後白河が亡すると、若くして「治天の君」
となり、朝廷の頂点に立つこととなった。


渋柿と呼ばれてやっと今日  井上一筒

後鳥羽は治天の君となった当初、自ら政治を主導するには至っておらず、
源通親などの廷臣が影響力を行使していた。
しかし、譲位以降の後鳥羽は、ようやく「治天の君」として成長を遂げ、
院政を担うようになっていった。
後鳥羽院「治天の君」として日本全土の頂点に立つ者と自任しており、
自身の幼少期に成立した武士の組織・「鎌倉幕府」も当然その配下位置
づけられなければならなかった。


知らぬ間に大きな顔になっている  小林すみえ




 後鳥羽上皇が率いる朝廷軍


「鎌倉殿の13人」 承久の乱・前夜-①

実朝の非業の死に北条氏は、さすがに動揺していた。
しかし、その後継者は実は、はなかったわけではない。
以前に子どもの出来ない実朝のために、政子みずからが上京して、
<後継者には後鳥羽院の皇子を> と交渉し、内諾を得ていた。

真っ白な脳にほどよい風が吹く  古賀由美子

建保6年(1218)2月4日にも、政子は京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって皇族の1人を跡継ぎ
に迎え入れるためであった。皇族を将軍に迎えれば、
<朝廷と幕府の間も、もっとうまくいくようになるに違いない>
という思いもあった。
このとき政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、
上皇に会うことを許された。しかし政子
「片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても、何もよいことはございま
 せん」
と、答えて辞退した、いきさつもある。


ポケットに入れたい如月のさらさら  宮井いずみ

それから京を辞して鎌倉に戻った政子を待っていたのは、思いがけない
出来事だった。
承久元年(1219)1月27日のことである。
鎌倉の鶴岡八幡宮で将軍・実朝が暗殺されたのである。
政子は政治闘争の渦のなかで、長男の頼家に続いて二男の実朝をも失う
ことになってしまったが、鎌倉幕府もまた征夷大将軍という主を失って、
空白状態になってしまった。


訃報くる空はこんなに青いのに  前岡由美子



  北条泰時率いる鎌倉軍


ところが、実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽院は手のひらを返すような
態度に出た。
この際、鎌倉を困らしてやれというのだろう。
言を左右にして、朝廷と鎌倉の婚儀の実現を拒んだのである。
さらに義時の弟・時房が千騎の兵を率いて上京し、無言の示威を行った
のだが効果は虚しく、遂に後鳥羽の許可を引き出すことはできなかった。
 そのとき後鳥羽院は、鎌倉の衰退を歓迎するように、伊賀局と卿の局
とともに水無瀬御所に船を浮かべ遊興の席にあった。
後鳥羽「鎌倉が皇子の件は、どうなっているかとせっついてきたか?
    源氏の将軍が途絶えて鎌倉も困っているとみえるな…」
卿の局「ですから…先年の尼どのとの約束を是非にと…」
後鳥羽「そうはいかんぞ…情勢は変わった」
卿の局「はァ…?」

背の立たぬ川で泳いでいたなんて  高橋敏子

代りに後鳥羽院が、皇子問題へもち出した答えは、頼朝の姉の血をわず
かにひいている左大臣・藤原道家の子・三寅であった。
2歳になったばかりの幼児だった。
いくら何でも2歳の幼児では、そのまま将軍にするわけにはいかない。
やむを得ず、政子が代りをつとめることになった。
が、彼女は朝廷から、正式に将軍宣下をうけたわけではない。
つまり、将軍代行の形をとった。
鎌倉の実際の実力者は義時だが、彼は二番手が自分の性分だと自覚し、
表立つことはない。
代わりに義時が姉の政子をナンバーワンに推した結果であった。

言いたいこと半分のんで独り言  山本昌乃


「水無瀬御所では」


後鳥羽院は、権威をひけらかすタイプで大の政治好きである。
後鳥羽「もし北条が皇子を奉じたら、どうなる。将来の日本国は二つに
    割れることになりかねん」
卿の局「まさか…!」
後鳥羽「第一、北条ごときに天下を左右させるわけにはいかん」
伊賀局「……」
卿の局「……」
後鳥羽「幕府には愈々、政治の舞台から下りてもらう時が来たのだ」
卿の局は返す言葉もなく、伊賀局はずっと無言のままだった。
後鳥羽にとっての悲願は、鎌倉幕府を打倒することである。
つまり頼朝以前の姿に返し、それまでに徐々に獲得してきた武士の権利
を剥ぎとってしまおうというのである。

往復ビンタかこちょこちょの刑か  酒井かがり



              調 伏 の 修 法    (葛飾北斎画)

まもなく、京の都では後鳥羽上皇の意志が躍動し始めた。
後鳥羽上皇による「反鎌倉幕府運動」である。
「実朝の死によって将軍職が空白となった鎌倉幕府はそうとうに弱体化
 している…」
と、院は見て取り
<いまこそ鎌倉の動揺を衝いてわが親政を取り戻すとき…!?>
と、僧侶を集めて、幕府を呪い滅ぼすために「調伏の修法」をはじめた。
調伏の目標は影の義時である。
これで院と幕府の安定的な関係は破れ、両者の間には、緊迫した空気が
高まった。

しっかりと生きのびて来た指の節  山谷町子

調伏に合わせて後鳥羽院は、別件を持ち出し鎌倉を揺さぶりはじめる。
後鳥羽院は白拍子芸がことのほか好きで、しばしば演芸の宴を催した。
白拍子を母にもつ皇子も多かったという。
そして上皇の寵愛を一身に受けた伊賀局亀菊も元は白拍子であった。
上皇は亀菊を愛するあまり、摂津国長江・倉橋の荘園を与えた。
ところが、両荘の地頭が亀菊とトラブルを起こし、亀菊は上皇に泣き
ついたのである。
「よしよし分かった。何とかしよう」
それを受けて院は、鎌倉にこの地頭を解任するよう要求したのである。
院は寵愛している伊賀局の所領問題を持ちだして、鎌倉にゆさぶりを
かけてきたのであった。

目が合うとツンデレ天神さんの猫  藤本鈴菜


           鎌 倉 御 所

鎌倉御所では、
政子「摂津の長江・倉橋の二荘園の地頭を解任しろなどと…!」
義時「まったく無茶なことをいうお人だ」
政子「皇子将軍は断り、地頭は解任。余りにも勝手です」
義時「その荘園の給主が院の寵愛する伊賀局ときている!」
政子「公私混同などと非常識も甚だしい。絶対に認められません。
   それと地頭のことも、幕府の根本に関わることですから、
   絶対に譲るわけにはまいりません」
これを仙堂御所で聞いた後鳥羽院は、怒気を口元に露わにしていう。
「地頭解任は絶対に譲らないというのか!」
原則を絶対に曲げない政子伊賀局にいい格好を見せたい後鳥羽院との
やりとりは終りが見えなかった。

一滴の絵具で四季を変化させ  若林くに彦

「所領の地頭が命令に従わないなら解任せよ」

これは朝廷側の常套手段である。何かと文句をつけて、地頭をやめさせ
ようとすることは、これまでも何度かあった。
一方の鎌倉武士は、「土地こそわが命」と思っているから猛然と抵抗する。
もつれにもつれて、長い裁判沙汰になったことも度々ある。
今回の地頭解任に対して、政子の考えは明白である。
「地頭の任免権は、そもそも源頼朝が後白河法皇から与えられたもので
 あります。かつ頼朝によって任じられた地頭職は、重大な過失がない
 限り、その子孫に代々伝えられることになっております。
 軽々に罷免することはできません」
と拒否をした。

つい本音出したら涙ひと雫  石田すがこ



     承久の乱へ集結する武士


この一件も含め、慈円の懸念した通り、院と幕府の関係は、ますます
ギクシャクしていく。
承久3年4月、後鳥羽院は前例を無視して幕府への連絡なしに、順徳天
の譲位と4歳の懐成親王(かねなりしんのう)の即位を断行した。
さらに5月14日、後鳥羽院は「城南離宮の流鏑馬揃え」を開催した。
この「流鏑馬」には、後鳥羽院の思惑があった。
幕府との合戦の時期を窺っていた院にとって、今一番必要なのは兵力で
ある。この流鏑馬は秘密裏に兵を募るという企てがあった。
結果、1700人もの兵が集結する。
そのほとんどが、近畿を中心とする武士たちであったが、中には、
鎌倉御家人の顔もあった。
このとき院は、御家人たちの分断作戦に成功したと思い込んだであろう、
まもなく京都守護・伊賀光孝を攻め殺し「鎌倉幕府追討の宣旨」を五畿
七道に下した。

手のひらの汗は正直凍りつく  津田照子

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アイスピックで砕いた残念のかたち  山本早苗




    御当羽院 戦支度 (歌川国芳画)



三代将軍実朝が非業の死を遂げた後、さすがに北条氏は動揺していた。
しかし、その後継者は、実は、なかったわけではない。
それ以前に、子供のない実朝のために、政子みずからが上京して、
<――後継者には後鳥羽院の皇子を> と、交渉し、
内諾を得ていたのである。
ところが実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽上皇は手のひらを返すような
態度に出た。この際、「鎌倉を困らしてやれ」というのだろう。
言を左右にして実現を拒んだのである。


こんな時に限って踏切のいけず  藤本鈴菜


今度は義時の弟の時房が上京して交渉にあたった。
千騎の兵を率いて無言の示威を行ったのだが、効果はさっぱりで、
遂に後鳥羽院の許可をひきだすことはできなかった。
代りに選ばれたのは、頼朝の姉の血を僅かにひいている左大臣藤原道家
の子、三寅。まだたった二歳の幼児だった。
いくら何でも二歳の幼児では、そのまま将軍にするわけにはいかない。
やむを得ず政子が代りをつとめることになる。
「尼将軍」といわれるのはこのためだが、断っておくと、
彼女は正式に将軍宣下をうけたわけではない。
つまり将軍代行の形をとったのである。


零した涙に明日を握らせる  上田 仁



かくて、政子は公的にもトップのの座についたわけだが、
しかし真の実力者は、義時であることを見ぬいている炯眼の人物がいた。
後鳥羽院である。
後鳥羽院は歴代天皇の中では、指折りの政治好きだ。
ただし、天皇だから義時のように堪えることは知らない。
スタンドプレーが好きなあたり、むしろ義経型である。


あの人の心の奥をのぞきたい  小西美也子




                 御 所 池 周 辺

「鎌倉殿の13人」 後鳥羽上皇のスタンドプレイ 
摂津・水無瀬離宮。後鳥羽天皇、伊賀局、卿局の3人が水無瀬に舟を
浮かべ、小さな膳に酒を嗜みながら、管絃や舞の催しを楽しんでいる。
そこではこんな会話がなされていた。
後鳥羽「皇子を将軍に欲しいと言ってきたか?
    源氏の将軍が途絶えて鎌倉も困っているとみえるな」
卿の局「ですから、先年の二位の尼どのとの約束を是非にと」
後鳥羽「そうはいかんぞ…情勢は変わった」
卿の局「はァ?」
後鳥羽「おそらく、鎌倉はますます北条の天下になる。
    そんなところに私の皇子を将軍として下してみよ」
伊賀局「………」
後鳥羽「もし、北条が皇子を奉じたらどうなる。将来の日本国は二つに
    割れることにもなりかねん」
卿の局「まさか…」
後鳥羽「第一北条ごときに天下を左右させるわけにはいかん。
    今こそ鎌倉の動揺を衝いて、我が親政を取り戻す時」
院と幕府の関係は破れ、両者の間には緊迫した空気が高まった。


言うことがコロコロ変わる活火山  宮井いずみ




鎌倉大倉御所



一方、鎌倉御所。政子義時が顔を見合わせ苦虫を噛潰している。
義時「摂津の長江、倉橋の二荘園を罷免しろ、などと、無茶な要求を」
政子「皇子将軍はだめ、地頭を罷免せよ!なんて、冗談じゃない!」
義時「その荘園の給主というのが、院の寵愛している伊賀局なんですよ」
政子「公私混同も甚だしい!第一地頭のことばかりは、京都の言いなり
   になるわけにはいきません。
   幕府の根幹に関わること。絶対に譲ってはいけません」


鳩尾の怒りが弾けだす柘榴  荻野浩子



           仙 洞 御 所





仙堂御所では。
後鳥羽「地頭を替えない限り、鎌倉の言い分など聞かん!」
鎌倉御所では。
政子「原則は絶対に曲げられません!」
「地頭改廃」は大きな政治問題化したが結局、双方和解するにいたらず、
皇子将軍はご破算となり、摂関家である左大臣・藤原道家の2歳の子・
三寅が4代将軍として迎えられることになった。
後の頼経である。
だが、後鳥羽院の反幕府の感情は、ますます強くなっていった。


卓袱台をかえしたやろな親父なら  松浦英夫



                藤原頼経(三寅)



承久元年(1219)7月19日、三寅が鎌倉入りすると、ただちに
政所始の儀式が行われ、政子が、幼い三寅と並んで挨拶を受けた。
政子「鎌倉殿がもっと大きくなるまで私が代行します。
   私の言葉は、鎌倉殿の言葉と心得るように…」
実朝の死後、将軍の代わりを務めていた政子は、引き続きその任務を
果たすこととなった。名実ともに「尼将軍」として振舞った。
そして義時が補佐して幕府の実権を掌握した。


運命へ畳鰯の独り言  中村幸彦




     前大僧正・慈円



比叡山延暦寺。
『コレハ将軍ガ、内外アヤマタザランヲ ユエナクニタマレムコトノ
 アシカランズルヤウヲコマカニ申也…』
そのころ 前天台座主・慈円(67歳)は歴史書「愚管抄」を執筆中で
鎌倉を討とうとする後鳥羽院の計画を止めさせようと、痛烈な言葉を
記していた。
「前座主さま、相変わらずご執筆ですか?」
慈円「ああ何とか院に世の道理を分かっていただきたいからね」
「やはり、院は倒幕をお考えなのでしょうか?」
慈円「この末世では、武士の現在のあり方は当然のことなんだよ。
   まして摂関家の九条家から将軍が出たのは、願ってもないこと」
「……」
慈円「道理の分からぬ院は何かと武士、特に鎌倉を敵視される。
   このままではとんでもない過ちを犯されるだろう。
   本来なら、後鳥羽院に降りていただくのが一番なのだが」
「…それはまた過激なことを…」
慈円「君のため、世のためには、それが道理というもの」
『愚管抄』承久の乱が起る直前に書かれており、この中で慈円は、
後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。
愚管抄の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあった。


地雷踏みましたねよそ見しましたね  本田律子

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半日は黒幕半日は人間椅子  くんじろう




       阿闍梨公暁 VS 二代将軍・源実朝



「実朝暗殺、黒幕は誰か」


実朝は右大臣就任の儀式が終わった帰りがけに、鶴岡八幡宮の石段の大
銀杏のある辺りで、僧の姿をしたの刺客に殺されたことになっている。
頼家の子・公暁「父の仇を討ったぞー」と叫び声を上げ、
それを聞いた人がいることから、犯人は公暁である…とされている…。
だが、しかし当日、実朝は、大勢の兵士を引き連れて、鶴岡八幡宮に来
ている。もし石段で事件が起ったのなら、護衛兵の目前で暗殺が簡単に
遂行されること自体、きわめて不自然ではないのか。
まさに雪中の惨劇であった「実朝暗殺事件」は、犯人の公暁が殺された
ことによって、その背景は謎に包まれている。
直角が三角形を離脱する  加納美津子





「三浦義村ー黒幕説」
義村の妻は、公暁の乳母であった。当時、乳母と子の関係は密接であり、
公暁が将軍になれば、義村は幕府の権力を手中にできる。
そこで彼は公暁を唆かして実朝義時を暗殺するクーデターを企てる。
が、義時を討ち損じてしまう。
やむなく義村は公暁を殺し、彼の単独犯に仕立てたというものである。
そして、下手人の公暁をいちはやく捕え、討伐したことから義村は、
その功により駿河守に任官している。
だが公暁の乳母は義村の妻で、息子の駒若丸が公暁の門弟であること、
実朝殺害後、公暁は義村を頼っていることから、この事件の黒幕が義村
であるとする疑惑は根強い。

私から何を引いても私です  雨森茂樹




「北条義時ー黒幕説」
その日、儀式で実朝に従っていた義時は、突如、「気分が悪い」と言い、
姿を消した。代役を務めた実朝側近の源仲章が、義時に間違われて殺害
されていることから、義時のグッドタイミングすぎる退出に疑惑の目が
向けられているのである。
しかし事件後、義時と三浦義村は互いに遺恨ははなく争っている様子も
ない、などのことから、両者の共犯ではないかとする説もある。
さらには、実朝に不安を抱く鎌倉武士団が、共謀して暗殺を実行したと
するものもある。
ここからは「駄馬の如く」で、事件の真相を探索している永井路子氏に
ご登場をねがう。

取り敢えずコンマを打って時間置く  小林すみえ


  VS  
     北条義時             三浦義村



「鎌倉殿の13人」 実朝暗殺の真相・永井路子の推理


三浦義村が再度戦いを挑んだのは、6年後の建保7年(1219)
1月27日、鶴岡八幡宮の社頭であった。
この日、実朝はそこで甥の公暁に暗殺されている。
<はて、それが何で三浦の挑戦か?>
と、不審に思う向きもあるかもしれない。
が、この公暁―つまり頼家の忘れ形見の背後にはー、三浦義村が控えて
いるのだ。実朝の乳母が北条氏であるように、義村の妻もまた、公暁
乳母だったのである。
(図式的にいえば、この事件は、実朝・北条組と公暁・三浦組のタグマ
 ッチ・プレーである)
三浦側は幸先よく実朝を誅殺するが、ここから事件は、複雑な屈折を見
せはじめる。むしろ実朝以上に本命だった義時が、するりと逃げだして
しまうのだ。つまり、公暁・実朝戦には決着がついたが、義時・義村は
勝負がつけられなかったのである。

うなずいてはみたがどこかに刺ひとつ  荒井加寿


「―逃げられたか、無念!」
 変り身の早い三浦義村は口を拭って、
「俺は知らない」
 あれは公暁の単独犯行だ、と頬かぶりをきめこむ。
辛うじて体勢を立て直した義時は、義村のしらの切り方につけこむ。
「知らない? じゃ公暁を探しだして殺してしまえ。あいつは将軍を
 殺した大犯罪人だ」
やむを得ず義村は、直接の部下でない武士を派遣して、公暁を殺させ
ることにする。
そうとも知らず、義村との同盟を信じて、その邸に行こうとしていた
公暁は、実にあっけなく殺され、哀れな最期を遂げるのである。


裏切りの金平糖を踏みつぶす  合田瑠美子


結果的には、北条側は貴重なかけがえのない実朝という旗を失い、
義村は、養君殺しの汚名を着せられたわけだ。
そして <クーデターは、まことに中途半端な形で終ってしまう―>
というのが私のこの事件に対する判断である。


思い合う心あるのに擦れ違う  津田照子




4代将軍の地位をという甘言に乗った公暁


北条氏が、<公暁をそそのかして実朝を殺させた>という、
これまでの説から見れば大分違う。 しかし自慢するわけではないが、
いま学界でもほぼこの見解が認められている。
(これは単なる肉親の私怨からの凶行ではない)
鎌倉の実力者が「ナンバー2の座を賭けて争った」ことがそのポイント
なのだ。
もともと、北条氏が実朝を殺そうとした、というのがその時代の歴史を
解さない考え方だというべきかもしれない。
乳母である北条氏と実朝の緊密な関係を思いおこしていただきたい。
また実朝が天皇、北条氏が藤原氏の関係にあること、同じ派閥の将軍と
執権が手を組んでこそ<幕政の運営がスムーズにゆく>ことなどを考え
れば、実朝が北条氏にとっていかに大切な存在だったか察しがつく。

カジュアルなこむらがえりで浅葱色  井上一筒

また義時が、この修羅場を抜けだせたことを、事前に計画を知っていた
からだという説がある。
が、これは事件の全貌に対する認識不足からである。
この事件は、公暁の単独犯行でもなければ、義村と公暁だけの秘密計画
でもない。
もっと規模の大きいクーデターであって、当時の史料を見ても、八幡宮
の僧兵などが多数動いている。ということは、すなわち、義時側に味方
する僧侶も何人かいたということでもある。 義時は、
<そこから情報を耳打ちされ、危うく身を躱したものの、大事な実朝を
救うところまでは手が及ばなかった>
と、いうのが真相ではあるまいか。


黙るしかない笑わないコンマ以下  岡内知香


権謀の人、義時としては珍しい大ミスだ。
いや、ここでは北条義時の手落ちを責めるよりも、彼を上廻る三浦義村
の怪物ぶりを賞賛すべきかもしれない。
この二人に比べれば、実朝・公暁は、黒子に操られた人形にすぎない。
むしろ「将軍殺しの惨劇」の終った後の、両者の駆引きこそが、
見ものなのである。


べりべりと絆を剥がすガムテープ  寺川弘一



  友ではあるが仲間ではない2人


もし、二人が血気にはやる人間だったら、ここで血みどろの果しあいを
するところである。
義時は、
「実朝公が居られぬなら生きている甲斐もない。む、む、弔い合戦だ」
とばかり殴りこみをかけたかもしれず、一方の義村が、
「義時に逃げられたとは、わが一世一代の計画も水の泡……」
「かくなる上は…」
と、決戦を挑んでもふしぎはない。
ところがどうだろう。
 義時は後、義村公暁を殺させ、
「さ、これで五分五分だな」
といわんばかりに、それ以上深い追及はしなかった。


切り取り線にアロンアルフアをつけました 大内せつ子


これを中途半端な妥協と見るのは、政治を知らない連中である。
彼ら二人はお互い傷つきながらも、お互いに貸しを作って手を打った。
<―なあに、勝負どころはまだあるさ>
それぞれ口の中で呟いていたかもしれない。
事実、両者の戦いはまだ何度も続く。

九回の表裏が終るのは、彼らの子供や孫の代になってからのことなのだ。
それにしても、実朝暗殺後の数時間は、義時の正念場だった。
戦場で白刃をくぐるよりもすさまじい義村との対決はー、
一世一代の大勝負だといっていい。
身のほどを知っているから迷わない  橋倉久美子

拍手[4回]

紫陽花の芯まで濡れている挽歌  笠嶋恵美子



右大臣拝賀の儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の石段を下りていた。
この時、石段脇の根元に若い僧侶が、じっと潜んでいたことを実朝は
もちろん、警護の人々も知らなかった。


「鎌倉殿の13人」 実朝暗殺


承久元年(1219)1月27日、白雪山に満ち、地に積もる…。
その日、夜になってまた降りはじめ、二尺余になった。
雪のなか、実朝は、一千の兵を従えて鶴岡八幡宮に向かった。
実朝の傍らには、太刀持ちとして執権・北条義時の姿があった。
午後六時、一行は八幡宮の入口に到着した。
この時、太刀持ちの役を務めていた義時が、急に「気分が悪い」と訴え
出ている。
そして義時は、太刀持ちの役を実朝の側近、源仲章に託し、館へと引き
返してしまったのである。


ときどきは引き算をして身を軽く  津田照子




仲章を従え八幡宮の階段を下りる実朝



実朝と対立する北条義時が去り、代わりに、実朝が信頼する公家の源仲
が付き従うことになった。
やがて社殿で儀式がはじまった。
実朝とともに社殿に入ったのは、源仲章と都から参列した朝廷の公家た
ちだ。
そして儀式を執り行う僧侶で、実朝以外、武士の姿はなかった。
夜八時、儀式が終わった。
拝殿を出た実朝一行は、護衛の武士たちの待つ方向に進んだ。
雪がしんしん降りかかるなか、実朝は「理想の将軍となるための第一歩」
を記そうとしていた。

結び目の少し緩んだ祭りあと  山本早苗




    大木の陰に潜む公暁



「実朝・仲章瞬時の暗殺劇」


将軍に執着した三代将軍・実朝は、父・頼朝をしのぐ右大臣の官位を得、
望みを達したかに見えたのだが…。
石段脇の大銀杏の樹の根元に若い僧侶が三人、じっと潜んでいたことを
実朝はもちろん、警護の人々も知らなかった。
その中の一人が、実朝の装束の裾を踏みつけると、逃げる術を失った実
朝めがけ、太刀を一閃させた。
瞬時の暗殺劇だった。
実朝の理想の将軍への夢は、ここに無惨にも絶たれたのである。
続けて僧は、実朝の傍らに立つ太刀持ちの、源仲章につかと向かった。



終章が割れる守りを見せてから  上田 仁




         禅師公暁実朝公と仲章を討つ


「獅子身中の虫義時!義時覚悟!」
「ま、ま、待て…私は仲章だ。右京兆ではない」
「黙れ!」
源仲章にも僧の刃は、躊躇もなく振り下ろされた。
朝廷とつながる将軍と、その側近が殺されたのである。
直後、討ち取った実朝の首を高々と挙げ、僧が叫んだ。
「八幡宮別当阿闍梨公暁 父の敵実朝を討ち取った」
犯人は二代将軍・頼家の息子・公暁だった。
(「愚管抄」では、公暁は父・頼家に代わって将軍となった実朝を敵と
 恨み討ったとされている。


快哉を叫ぶ判決台の文鎮  山口ろっぱ



      鶴岡八幡宮の大銀杏



鶴岡八幡宮といえば、鎌倉幕府の象徴である。
頼朝がこの地に幕府を創設して以来、御家人の心の拠り所でもあった。
しかし、そんな八幡宮で、最も悲惨で皮肉な事件が、起きてしまった。
(「吾妻鏡」によると、右大臣就任の儀式が終わった帰りがけに石段の
 大銀杏のある辺りで、僧の姿をした3人の僧に殺されたーことになっ
 ている。 2代将軍・頼家の子・公暁が「父の仇を討ったぞー」と、
 叫び声を上げ、犯人は公暁とされている)
実朝頼家の実の弟だから、甥にやられたことになる。


ついさっきまではこの世の人でした  岡内知香



しかし、当日、実朝は、大勢の兵士を引き連れて鶴岡八幡宮に来ている。
もし石段で事件が起ったのなら、護衛兵の目前で暗殺が遂行されたので
ある。不自然である。
八幡宮で代々警護を務めてきた石井家には、実朝は、「社殿で殺された」
と伝承されているという。
「吾妻鏡」は、北条氏が編纂したものだから、事件直前の義時の発病な
ど内容を充分疑ってかかる必要があるだろう。
そうなると、公暁犯人説も怪しくなってくるが…。
(現在、鎌倉随一の観光名所として多くの人が訪れる鶴岡八幡宮。
 約800年前にここで起きた暗殺事件の真相は未だに闇のままである。
 石段の大銀杏は、このとき何を見たのであろうか)


サヨナラの手が裏向きでございます  きゅういち


「吾妻鏡」によると、公暁はこの直後に意外な人物に手紙を出している。
侍所次官・三浦義村宛である。
「今、将軍の位が空いた。次の将軍となるべきは私である。
 早く自分を将軍職に就けるよう取りはからえ」
義村の妻は、公暁の乳母だった。
義村と公暁は、親子同然の間柄だったのである。
実朝を殺した公暁が将軍になれば、三浦義村は、北条氏以上の力を持つ
ことができる。
しかも義村は、なぜか参列すべき儀式に姿を見せていなかった。
このことから、義村が「実朝暗殺」の黒幕の一人として疑いが出てきた。



黒幕の裾のほつれにみる毛脛  宮井元伸


ところが、三浦義村は、公暁からの手紙を受け取ると、即座に意外な人
物に連絡を取った。
執権・北条義時である。
義村は、対立していたはずの義時に、真っ先に公卿の居所を知らせた。
義時は、「公暁を討つよう」に命じている。
義村は、すぐさま兵を公暁のもとに差し向けた。
そして、「実朝暗殺」から数時間後、公暁は、三浦義村の家来によって、
討ち取られた。
(朝廷と深い関わりを持とうとした実朝、朝廷との連絡役を務めた側近
 源仲章、そして源氏の直系・公暁。
実朝が朝廷と結びつくことを、何より恐れた北条氏と鎌倉武士団の敵は、
ここに一人残らず姿を消したのである)


今は昔にならない闇の河  峯島 妙




暗殺の数時間前。鶴岡八幡宮に着く実朝


「実朝エピソード」


幕府の実権を握っていく北条氏に頭が上がらなかった観がある実朝だが
「吾妻鏡」ではそうそう北条氏の言いなりになっていない。
「承元3年11月14日、相州、年来の郎従のうち功ある者をもって、
 侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由、これを望み申さる。
 内々その沙汰ありて、御許容なし。そのことを聴かさるるにおいては、
 然るごときの輩、子孫の時に及びて、定めて以往の由緒を忘れ誤りて
 幕府参昇を企てんか、御難を招くべきの因縁なり。
 永く御免あるべからざるの趣、厳密に仰せ出さる…と云々」

叔父の義時が、「功績のある自分の家来を御家人の列に加えて欲しい」
と願い出たのを、実朝はそれを許さなかったというもの。
「御家人に引き立てれば、本人たちは特例であったことをわきまえても、
子孫の代にはそんなことをすっかり忘れ、後々争いのタネになりかねない」
と、実朝はそう厳しく言い渡している。
「実朝暗殺」の8年前、実朝18歳、義時との関係もまだ良好だった。


兆しあり壊れた脳の目覚める日  安土理恵

拍手[3回]

二枚重ねの下から顔を出す  酒井かがり



         この人は誰でしょう? 

  もはや原形が行方不明!  この名優を百歳の婆にしたのは、
特殊メイクでハリウッドでも大活躍をする江川悦子さんです。
  
 
 「鎌倉殿の13人」 大竹しのぶをもう一度
 

「鎌倉殿の13人」第35話のリピートです。

鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、京から妻を迎えた。
妻は、公卿の坊門信清の娘。名前は不明だがドラマでは千世と呼ばれる。
(実朝が暗殺されて出家後は、西八条禅尼と称した)
姉は高倉天皇の妃であり、信清は後鳥羽上皇の親族(外叔父)に当たる。
折角、京から美しい妻を娶った実朝だったが、このところ暗く沈んで何
か悩みがある様子で顔色も冴えない。


気がつけば一人ぼっちの舟を漕ぐ  高浜広川
 
 

実朝を前に囲炉裏を囲む義盛・巴御前の夫婦


そんな実朝を訝った和田義盛巴御前の夫婦は、孤独で気落ちしている
「鎌倉殿の心を癒そう」と自分たちの邸へ誘った。
実朝は、もっとも気楽な話し相手である泰時鶴丸を伴って和田邸を訪
れることにした。
<豪快で陽気な義盛と過ごすとリフレッシュできそうだ>
細かなことにこだわり、悩んでいる自分を一時でも忘れることができる、
のだろう。何もかも忘れて一緒に酒を飲んだり遊んだりする相手に、
義盛はピッタリの人である。
思い通り実朝は、リラックスして平和な時間を楽しんだ。


一番楽しかったのは小指ボンドでつけた時 くんじろう



            歩き巫女

歩き巫女は流浪の女占い師で、行く先々で町民や村民の吉凶を占ったり、
歌謡を聞かせたりしながら各地の情報を収集した。


そして思いついたように義盛実朝「占いの館」へ連れて行く。
占いの館には、白髪頭のお婆がでんと構えていた。
「歩き巫女」である。
歩き巫女とは、全国各地を渡り歩きながら、巫女として吉凶を占うなど
様々な人と接して、情報を集め、有用な情報を主君に伝える「くノ一」
の集団である。
歩き巫女が活動するのは戦国時代で、武田信玄が育成した女忍びたちだ。
そこへ時代設定も年齢も飛躍させて、使い古しの巫女を三谷幸喜は持っ
てきた。
これが幸喜ならではの魅せる忍術であろう。
(因みに、戦国時代多くの大名は、諜報機関として「影」を組織した。
「伊達の黒はばき」「北条の風魔」「上杉の軒猿」「薩摩の山くぐり」
「柳生の根来衆」などがある)


どう見ても喜寿そこそこのミドリガメ  森 茂俊


占いの館の奥に座すお婆巫女は、何やら水の入った皿に、葉のついた枝
を浸して、水をまき散らしながら、ブツブツ呟いている。
めちゃくちゃ怪しい。めちゃめちゃ不気味である。
巫女の下から舐めて廻してくる目線に、すべてが見透かされていそうで、
実朝たちは、リアルにたじろぐばかり。
こんな闇へ引き込むうな迫真にせまる演技をする、オカルトな女優は…、
「一体、誰なんだ!」
<何となく、見たことはある…が…、誰だか分からない>
テレビの前の視聴者も番組が終わる頃まで、誰か分からなかったようだ。


幽霊もゾンビもこ・こ・こ怖くない  蟹口和枝



     博打に興じる鎌倉武士


このお婆巫女の占いは、「よく当たる」と、義盛が言う。
巫女は、泰時を見据えると開口一番「双六、苦手だろ」と言い放つ。
泰時は、実朝からその真偽を尋ねられ
「苦手というか、子供の頃から、双六をすると、どういうわけか具合が
 悪くなってしまうんです」
と答えた。
これは泰時の真面目な性格を表現した場面である。


幸よりも不幸来ぬこと祈ってる  雨森茂樹





次にお婆巫女は、実朝に目線を移して、
「雪の日には気を付けるべし」と、暗示のような言葉を呟いた。
やがて実朝にせまる闇の予告である。
<おばば巫女は、こんなことを言っていたな…>
しっかりと記憶にとどめねばならない、忠告だったのだが……、
実朝は、何のことか意味が解らず、聞き流してしまった。
そして実朝が悩める気持ちをうちあけると、
「自分だけの悩みではない」
という巫女の言葉に涙してしまう。


聞き洩らし言い洩らしして黄昏れる  宮原せつ


 SNSに届いた視聴者の声ー①

特殊メークを施し、歩き巫女役で気味悪い婆を演じたのは、
演技派女優・大竹しのぶさん だった。
番組が終わっても、大竹しのぶと気付かなかった視聴者も少なくなかっ
たようだ。あとで正体がわかると、
「大竹しのぶ凄い」「すごい存在感」「すごっ!別人」「これ大竹しの
ぶさん?」「大竹しのぶ怪演!」「なんちゅう女優さんなん…すごいわ」
「すごいな、大竹しのぶさん」「まったく分からない」「すごすぎる」
「うまいな~」「北林谷栄さんテイスト」「まじですごい」と、驚きと
絶賛の声がSNSにあふれた、という。


爪紅く染めて楽しい姥盛り  木本朱夏
 
 

                                      大竹しのぶ 七変化

  
  歩き巫女役について、大竹しのぶさんが語っているー①

「いかようにもやれるというか、おかしくもできるし、怖くもできるし。
 ちょっとおかしなセリフの言い回しとかもあるんですけれども、
 ただ一つだけ三谷幸喜さん作品によくある、そこに隠されている真実
 のようなもの、それはちゃんと伝えなければいけないと思いました。
 でも、面白いところもないとつまらないし、面白さ7、深み1、あと
 2は勢い、みたいな感じですかね」 と。


さりげなく本音をもらす丸括弧  宮井いずみ
 

 
            大竹しのぶ 七変化  
 

  さらに、大竹しのぶさんが語っているー②

「ちょっと不思議な感じはあってもいいかなと思ったんですけど、
 本当だったら100歳くらいの方がやれれば一番いいような役なので、
  <私でいいのかな>というのはありますけれども。
 でも、特殊メーク担当の江川悦子さんもすごく凝ってくださって、
 それがすごく自然にできていたので楽しかったです」
と、小悪魔的な笑顔を浮べ、ご満悦のコメントを聞かせてくれた。
また、歩き巫女が実朝の悩みを聞くシーンについては、
「勇気をあげたいというか、真実を伝えることで、<それが実朝の生
 きる勇気になればいいな>というのは思いましたね」
と、ドラマの世界から乖離する大竹さんであり、続いて、
「それが世の常なんだよね」と、<シナリオにない言葉が脳を掠めた>
と、役柄にのめり込む女優・大竹しのぶだった。


魂は歳をとらずにいるらしい  まつもともとこ


SNSに届いた視聴者の声ー②

「大竹しのぶさんの歩き巫女のおばば、実朝に救いの助言、よいなぁ」
「大竹しのぶ女史が全く本人に見えなくて震えた」「巫女を演じる大竹
 しのぶさんが、あまりにもハマっていて笑ってしまった」
など、大竹しのぶ、 のまさかの登場に、SNSも賑やかだった。
まさに大竹しのぶ「こにあり」であったー第35回ドラマであった。
「何!あなたはこの場面を見なかった?」
「それは残念!」


いちゃもんを付けたドラマをまた録画  靏田寿子
 


「ついでですから忍者について蘊蓄を」


忍者の始まりは一説によると、聖徳太子が、自身に仕えた「大伴細入
(おおとものほそひと)に「志能便」(しのび)という称号を与えた
ことが発端だという。
戦国時代に入り、忍者は各地の戦国大名に召し抱えられ、敵の本拠地に
侵入し「変装して情報を集める」「夜討ちをかける」時には「破壊工作
なども行う」とされてれる。
しかし、忍者にとって最も重要な仕事は、「敵方の状況を主君に伝える」
ことであったことから極力戦闘を避け、生き延びて主君のもとに戻るこ
とを最優先の任務とした。
基本的に忍者は戦いを避け、百姓などをして人々の生活にまぎれて諜報
活動をし、情報を集めて主君にそれを伝えるのが仕事だった。


腹式呼吸くちなしの香を吸い込んで  山本昌乃


忍者といえば、伊賀甲賀の忍者が非常に有名だが、忍者は日本各地に
存在した。例えば、
「根来衆」は、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯に居住
した僧兵たちの集団である。
「雑賀衆」と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。
(根来衆は、信長には好意的であるが、権力の継承者であるはずの秀吉
には、なぜか反抗的な態度をとり、雑賀衆と共に大坂を攻め豊臣秀吉の
心胆を寒からしめたのは有名)
 
 
あなたの影踏まないように前を行く  青木敏子


毛利家の忍者で有名なのが「世鬼(せき)一族」である。
毛利元就は25名の「世鬼家枝連衆」を足軽として扶持し、領内六ヶ所
にわけて住まわせた。
また毛利には「座頭衆」という忍者集団がいた。
宿敵・尼子晴久を滅ぼす切っ掛けを作ったのが、この座頭衆である。

上杉謙信「軒猿(けんえん)」という史上最強の忍者組織を作った。
謙信が関東に出兵した際、謙信暗殺をもくろんだ北条氏お康抱えの忍者・
「風魔党」波多野治右衛門、当麻平四朗を捕えている。
また川中島の戦いでは、信玄の透波(すっぱ)17名を生け捕りにした。
生きたまま忍者狩りをするとは、軒猿の腕の高さがうかがえる。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春


武田信玄には、先に述べた「透波(すっぱ)」という忍者集団がいた。
透波は「歩き巫女」と同様、全国の情報集めの衆として活動した。
信玄が「足長坊主」の異名があるほど、遠国の情報に精通していたが、
それは透波選りすぐりの「三ツ者」と呼ばれる忍びたちの働きが大きか
ったといわれる。
(透波は「すっぱ抜く」の語源にもなる)


どことなく由緒正しき胡麻豆腐  新川弘子
 
 
北条を支えた忍者は、「乱波」とも呼ばれる「風魔党」である。
黄瀬川の戦いにおいて、対岸の武田の陣に毎晩のように夜討ちをかけ、
天候が悪くても、お構いなしに襲いかかり、将兵を生け捕りにしては
なぶり殺し、綱を切って馬を奪い、陣に火をかけ、武器・食糧を強奪
するなど、荒っぽいやり口に歴戦の武田勢も次第に疲弊させた。
こういう悪の集団であったため、乱波と呼ばれた。


蛸足の発火しそうな脳になる  木口雅裕



        服部半蔵

家康の「伊賀越え」に際し、出自が伊賀の半蔵は、伊賀、甲賀の土豪と
交渉し、家康を伊勢から三河の岡崎まで護衛し助けた。
この貢献がきっかけで伊賀や甲賀は、のちに馬廻、江戸城本丸・西の丸
を守る同心として徳川幕府に仕えた。


「伊賀忍者」は京都に近く、京都から流れてきた政治や情勢に精通した
人材を隠密として育成できたため、数多くの優秀な人材を輩出している。
政治の中心であった京都から流入してくる人材は、教養のある者も多く、
当時としてはまだ希少だった文字の読み書きができる者も伊賀忍者には
多かったという。
ゆえに伊賀者は、忍術や戦闘能力に秀でている者が多く、数多くの戦で
貢献をした。


そこそこに走る京都を中心に  中村幸彦


「甲賀衆」は、一国に仕えず、甲賀の里を領地とする歴代の領主達との
緩やかな主従関係を保った。
その他、伊達には「黒脛巾組」(くろはばきぐみ)
真田には「草の者」がいた。
徳川8代将軍・吉宗が紀州から連れて来た「御庭番」は。いまさら説明
をすることもないだろう。


推測ですが犬よりの猫ですね  中山奈々


薩摩・島津家では、神官や山伏に、体術・武術・霊術などを修行させて
忍者を育成した。そして組織化された集団を
「山くぐり衆」または「薩摩忍衆(さつましのびしゅう)」と呼んだ。
修験者・行者である山伏は、藩に重用され、藩から禄をもらい、藩士と
して仕事をした。領内の山伏を取りまとめ、安産、男子誕生、参勤交代
の無事、病気平癒、陣中において、戦勝祈願や呪いなどもした。


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿

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