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川柳的逍遥 人の世の一家言
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男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

羽柴秀次の像(八幡公園)

商都・近江八幡の礎を築いた秀次は、地元で名君として慕われた。

「武功夜話」

早くから秀吉に仕え、豊臣秀次のお目付け役だった前野長康の一族が、

子孫から子孫へ、語り継がれてきた史書がある。

「武功夜話」である。

ここに書かれている、「秀次事件」の経緯は、

秀次に近い立場の人たちの、
子孫から出てきたものでありながら、

秀次に厳しいものになっている。


昨日まで冗談だった落とし穴  三村一子

それによると、

「秀吉の実子で、織田家の血をも引く若君(拾君)に、

 天下が返るのは、仕方がないのでありますまいか」

と秀吉の最古参の家臣であり秀次の家老・前野長康は、秀次に進言した。

ところが、長康の子・景定など若い側近たちが、

秀次を守ろうとして妥協を阻止し、

また軍事教練まがいのことをしたとある。


容疑者はメロンの皮に紛れ込む  嶋沢喜八郎

断罪の直接の引き金は、朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が、

秀次に借金の申し出をしたところ、

「忠誠を求める書き付け」を要求されたことが不安になって、

太閤殿下に提出したことにある。


現に、秀吉の年齢を考えれば、秀次に近づいておく方が、将来、

有利だと考える大名たちは、秀次に取り入ったりもしていた。

吐息まで同化してゆくおぼろ月  桑原すず代

石田三成前野長康

「豊臣政権安泰のためには、

 なんとか殿下と関白には、仲良くあって欲しいのだが、

 どちらの側にも、へつらうものがいる。

 殿下は弱きになって、徳川家康と前田利家の屋敷に、

   足繁く通うなどしているが、両者はいずれも野心家で、

   朝鮮遠征でも渡海を免れた。

 一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために、

 全国で検地を行って、財源を探しているのだが、簡単でない」

という趣旨のことを「武功夜話」で言っている。 

呑むために生きると決めて恙無い  山本芳男

ともかく、秀次に近い者たちからすると、秀次さえあわてて

「将来はお捨君に譲る」 などと約束せずに、

時間を稼げば、いずれは、殿下の寿命も尽きるという思案があった。

茶々お捨君に近い立場からすると、

だからこそ、
「秀次を早々に、処分して欲しい」

ということになる。

もしも、秀次の弟・秀勝が生きていたら、

茶々たちの立場も、
少し違ったのかも知れないが、

今となっては、秀次と茶々たちを繋ぐ絆は、
細くなっていた。

耐えるしかないのと雑草のあした  杉浦多津子

お捨君がまだ幼少なので、将来を危惧した秀吉は、

同年代の徳川家康前田利家の二方を、信頼して力を持たせ、

しかも、いずれか突出しないようにと考えた。

利家はもともと、織田家のなかでの序列はあまり高くなかったが、

柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、堀秀政らが亡くなったために、

織田家の家臣の中で、最長老になっていた。

残される淀にとって織田家に連なる者が、力を失くしてしまった以上、

利家がもっとも、頼るべき存在だった。

黄昏を泡立てているもう一度  笠嶋恵美子

人柄が見える日野川桐原新橋の秀勝像

こうして、太閤による関白の包囲網は狭まっていく。

それでも、秀吉が聚楽第を訪ねたり、

秀次が伏見で能を上演して、秀吉を招待したりしたしているのだ。

いくらでも修復のチャンスはあったが。

秀次に欲が出てしまった、のか、秀吉の心配を払いのけるような、

思い切った行動がとれなかった。

その間にも、太閤のもとには、秀次周辺の不穏な動きが報告される。

まだまだの端がほつれてきた誤算  山本早苗

淀やその周辺の者が、

「お捨君の将来への不安を取り除いてください」

と殿下に迫った。

これに対し秀吉は、家康と利家に、秀次のことを密かに言う。

「太閤殿下の好きにされれば、あとは、我々がお捨君をお守り致します」

と2人は答えている。

そして家康が、江戸に帰国するとき、京都に残る家康の三男・秀忠に、

「秀吉と秀次の争いになったら、秀吉につくように」 とも言い残している。

世の中の仕組みをみたり髑髏  前中知栄

もともと、身分の低い階層の出である秀吉は、

上流の権力者とは違って、家族に対しての愛着は、

現代の人間と似たものを持っている。

また秀吉一族の人たちの心にも、権力者になった秀吉に対して

「まさか、自分に悪いようにはしないだろう」 

という甘えがあった。

当然、秀次にもそうした気持ちが多分にはたらいたのだろう。

あじさいを素通りバカが乾きだす  酒井かがり

しかし、それぞれの家来たちは違う。

自分たちの浮沈は、それぞれが仕えている主の運命にかかっている。

主人がいったん失脚すれば、身内でもないだけに、

命も危ないということになるのだ。

しかも、むかしからの武将たちには、

若いころから豊臣家興隆のために、
頑張ってきた恩情もあるが、

第二世代には、若者らしいドライさに加えて、


親密だったころの思い出がないから、どうしても、極端に走ることになる。

はらりと涙振り向くことを忘れた日  森田律子

いよいよ7月3日、石田三成増田長盛が、秀次に行状を詰問した。

それを受けて、秀次は朝廷に銀五千疋を献上して、救援を求めたが、

これは、悪あがきであった。

「関白を辞める」

とでも太閤に申し出ればよかったのだろうが、

秀次の若い側近達は、それを許さなかった。

こうして関白が、無為に時間を過ごすうちに、

太閤は一計を案じた。

いまでいう女性秘書として重宝していた孝蔵主を、

聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、

「単身で伏見に来れば、太閤殿下も納得する」

といって、関白を連れ出した。

そして、このまま高野山から切腹へとつながっていく。

けんけんのリズムを誘う落ち椿  古田祐子

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回り続けたらバターになった僕  指方宏子



「伊達政宗の趣味」

伊達者の語源となった伊達政宗の知られざる趣味が、

何を書くそう「料理」である。

もともとは、兵糧開発のために食材の研究をおこなっていたのだが、

戦国時代も終焉し兵糧の必要がなくなると、

美食のために料理を研究するようになったという。

正宗は料理について「少しも料理心なきは、つたなき心なり」という

名言も残しており、料理に対するこだわりは相当のものだった。

二代将軍・徳川秀忠を接待した際には、

正宗自らが作った料理を秀忠の側近が毒見しようとしたため、

「正宗ともあろう者の膳を毒見するとは何事ぞ」

もの凄い剣幕で叱責し、徳川家の家臣を震え上がらせたという逸話も残る。

レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ


   ずんだ餅

仙台発祥の料理が多いのも、正宗の影響といわれている。

かつて政宗が本拠としていた岩出山の名物・「凍り豆腐」「納豆」は、

兵糧用に正宗が開発したものが、改良されたものだというのは有名な話。

また仙台名物の「ずんだ餅」も正宗が開発したとされる。
                    ず  だ
「ずんだ」は豆を潰す意味の「豆打」「ずんだ」に変化したもので、

開発者でもある政宗が名付けたと言われている。

それらの開発はトイレで行なっていたとされている。

もともとトイレが好きだった政宗は、1日3回、1~2時間は籠っていた。

そこで朝夕の献立、政治判断、書状の執筆、書見なども行なっていたという。

戦でも政治でも柔軟な発想で周囲を驚かせた政宗。

元来、凝り性の彼にとって、料理はぴったりの趣味だったのかも知れない。

豆ごはん旨いうまいと言う節目  山本早苗


        こんぺいとう

「菓子の歴史」

菓子の始まりは縄文時代の「焼き菓子」で、

クリやトチなどの木の実を砕いて
粉にしたものを、

こねて焼いたものだったという。


弥生時代には、米を「餅」「団子」に加工したものが生まれ、

奈良時代には、唐の僧・鑑真が蜂蜜、石蜜、蔗糖、甘蔗をもたらし、

「揚げ菓子」が伝えられた。

米粉や小麦粉に甘味料を入れてこね、

小さく形作ってごま油で揚げたもので、
唐菓子(からくだもの)と呼ばれた。

大豆餅、小豆餅、煎餅の名もこの時代の書物に見える。     

鎌倉から室町時代になると、最澄が唐より砂糖を持ち帰り、

空海は唐国から煎餅の製法を伝えている。

そして、明で学んだ僧たちは「羊羹」「饅頭」を日本にもたらした。

にぎやかに指をならして南下せよ  酒井かがり

ドラマの時代、いわゆる戦国時代以降になると、

南蛮貿易を通じて「南蛮菓子」と呼ばれる菓子がもたらされる。

主なものは、小麦粉や卵を用いたカスティラ、パン、ボーロ、カルメラ、

ビスカウトなどの「焼き菓子」

又、
金平糖や有平糖などの「砂糖菓子」がその代表である。

当時、砂糖は高価で希少だったため、

金平糖」は公家や上流武将などの間の贈答品となった。

ドラマでは、北条氏政が時折、口にしている。

ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスが、信長に、

「金平糖を献上した」という
記録も残っている。

そして、おこし、米煎餅、きんとん、羊羹、上り餅、みたらし、団子、

ちまき、
葛餅、わらび餅などが、料理から離れ、

独立した一品の菓子となる。


まんまるい金平糖の非行歴  上田 仁

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おもしろい仲間この世はおもちゃ箱  新家完司


仮装大会の模様を描いた絵本太閤記

菅笠をかぶり、腰蓑を着ける男性(中央)が秀吉。
「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れず、売り売り帰る瓜売りの声」

「仮装の歴史」

仮装大会の歴史を探ってみれば、400年ほど前の文禄元年(1592)

肥前名護屋城で豊臣秀吉が催した「仮想大会」に行きつく。

これは、今のディズニーやハロウインの仮装パレードのようなもので、

当時は、
桟敷席を設けて大名たちや博多大商人などを見物人に仕立てて

やったという。


今では、欽ちゃん香取慎吾の全日本仮装大賞や京都時代祭りが有名だが、

「文禄の役」の最中、前線基地を構えた肥前名護屋城そばの瓜畑で、

秀吉が開いた仮装大会が先例となっている。

甲冑を脱ぐと人情交叉する  上田 仁

司馬遼太郎の「新史太閤記」に、

「つれづれのあまり、諸大名や女官をあつめて仮装大会を催した。

   諸事、企画のすきな男なのである」 

と秀吉のこの催しに触れている。


また「絵本太閤記」には、蒲生氏郷、前田利家の仮装がこの絵本に登場。
おぜほあん
小瀬甫庵・著「太閤記」では徳川家康「ザル売り」が紹介されている。

なぜこんな催しをしたのだろうか。

絵本太閤記には仮装の時に、

       ございじん
「名護屋の御在陣も徒然におはしませば」

とあり、城の陣中はさぞ退屈な時間が多かったのだろう。

トゲのないバラと一日戯れる  百々寿子


  江戸の手ぬぐい  (拡大してご覧ください)

どのような仮装大会であったのか、かいつまんで見ると。

「味よし瓜めされ候へ~「おいしい瓜はいらんかいねー」 

「瓜売り」になった秀吉は、もと百姓の経験があり堂にいったもの。


そこで旅の僧に扮した織田有楽斎が、秀吉の売り瓜に

「瓜をご寄進下され」と請うと、
瓜売りは瓜を二つ施した。

「こっちは熟しておらぬ。熟した物を下され」

と有楽斎がアドリブでコトバを返すと見物客は大受けしていたという。

路茶売りに扮したのは、蒲生氏郷である。

「極上のお点前にありますれば」 とやれば、

そこへ瓜売りの秀吉が、「ほほう、で、お代はなんぼじゃ」

茶売りの氏郷は、「100両でございます」 

と、ここでも
有楽斎に負けじと氏郷のアドリブが飛び出す。

瓜売り(秀吉)は開いた口が塞がらなかったようだ。

青梅のすってんころり祭りめく  斉藤和子

「あじかはいらんかね~いらんかね~」

この声は、「あじか売り」に扮した徳川家康。

家康の物真似は、本職はだしだったとベタ褒めで記録されている。


丹羽秀俊は「漬物売り」、「お漬物いかがっすかぁ~」

織田信雄は「修行僧」、「ナンマイダーゴジュウマイダー チーン♪」

「高野聖」の前田利家「大仏建立の勧進お願いしゃーす」

この仮装大会で一番受けたのが、

巨体の前田玄以が扮した、「比丘尼姿の女装」だった。

「念仏をただとなえていれば必ず仏になれる」

と説法の声まで、「おねえ喋り」で髭の大男がやるものだから、

秀吉や五大老はじめ、名だたる将や見物客は笑い転げたという。

そして歌舞伎ものの伊達政宗は、桟敷席で見物客の一人になった。

正宗は正宗らしく、やんややんやの野次を入れて盛り上げた大会であった。

水で酔えるのも血液型のせい  井上一筒   

この頃、秀吉は朝鮮での戦果を待つ間、茶や能にも親しんでいる。

「ほかにも何か面白いことを、と考えるのは不思議ではない。

    秀吉はもともと庶民の出。

   昔の自分を懐かしむと同時に、武家育ちの家臣が、

  ぎこちなく庶民のまねをする様子をひたすら楽しんだのでしょう」

と解説されるのは大阪城天守閣研究主幹・北川央氏

いかにも、遊興好きの秀吉らしい知恵といえそうだ。

そして神戸大教授の油井清光氏は、

「普段、人は上司と部下の立場を意識するものだが、

  肩書を外した『無礼講』という非日常を一緒に経験すると、

  互いに連帯感が強まる。

  中だるみしていた自軍の結束を強めようとしたのでは」

と想像する。

雨季限定軽い頭をさし上げる  河村啓子


  時代祭りの行列
因みに、秀吉時代の行列(当該写真)は、

秀吉の嫡男・秀頼の元服の報告に御所へ参内する様子。

「京都時代祭り」

「京都時代祭」は、平安時代から明治維新までの各時代の装束に扮し、

道中4.5kmをパレードする。

先頭から最後尾まで2kmにわたる長大なものとなる。


祭礼は、まず午前中に平安神宮より神幸列が京都御苑に到着し、

「行在所祭」の後、正午ころから「ピーヒャーラドンドンドン」という

維新勤王隊の鼓笛隊のマーチとともに、仮装の行列行進が始まる。

総勢2千人と多数の牛馬が、京都御所の建礼門前を順次出発し、

京都御苑の堺町御門をくぐりぬけ、烏丸丸太町~烏丸御池と南に進む。

次に、河原町御池~河原町三条~京阪三条~三条神宮道と西に進み、

最後に神宮道~平安神宮へと向かう。

先頭が平安神宮に到着するまで三時間はかかるとか。

ガタンゴトン単線謳うトロッコ列車  小林満寿夫

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波打ち際の演出である砂の城  山口ろっぱ


  名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい)

5層7階の天守閣とともに、周囲には130カ所余りの陣屋が築かれ、
巨大軍事都市が形成された。


   「東槎録」(とうさろく)

1596年に明国使節とともに来日した朝鮮国使節・朴弘長の日誌。
名護屋城が7層(実際は5層7階)の天守閣だったことや、
城下町の繁栄の様子を書き留めている


  文字瓦
 
名護屋城跡から出土した「天正十八年銘文字瓦」


火遊びで生命線が砕け散る  上田 仁

「朝鮮出兵」

天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、

翌19年に朝鮮出兵を決意し、


全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。

一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、

肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、「名護屋城」が築かれた。

城は全国各地の諸大名の割普請によって築城が進められ、

わずか3ヶ月で完成させたという。



秀吉が名護屋城に居住したのは、凡そ1年半程だったと言われているが、

全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、

まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。

城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や

様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、

ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。

5階から入道雲に触れます  井上一筒


  朝鮮出兵の絵

「文禄・慶長の役」

文禄元年(1592)4月、15万を超える軍勢が対馬海峡を渡り、

朝鮮半島に上陸した。

秀吉の朝鮮侵略の開始であり、「文禄の役」の始まりである。

このあと一度引きあげて再び慶長2年(1597)に再征しており、

これを「慶長の役」とよんでいる。

2度にわたる侵略によって、朝鮮は大きな被害を受けた。

秀吉による大陸侵略は、「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか、

「思い上がりが生んだ無謀な戦い」と言われることが多いが、

秀吉は、なぜこの時期、朝鮮への侵略戦争をはじめたのか。

大きく振り被った次の音  蟹口和枝

これにはいろいろな説が語られる。

 秀吉が朝鮮出兵を言い始めた一番早い文献は、

秀吉が関白に任官した2ヶ月後の(天正13年9月13日付)秀吉文書である。

そこに、


「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」

とある。分かりやすく言えば、秀吉は、 

「関白として、日本全体の統一支配だけでなく、唐国までも、

そのようにせよと命令された」と解釈をしたのである。

夢を見てばかり掛け算してばかり  竹内ゆみこ

② 秀吉の朝鮮出兵の理由を江戸時代の儒学者・林羅山は、

「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、決意した」

と言っているが、先述の通り、秀吉が朝鮮侵略の意図を口にしているのは、

鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、

この林羅山の考え方は成り立たない。

眼鏡のせいだろう小さな勘違い  山本昌乃

 秀吉がポルトガルの侵略と対決するため、

日本統一を国際的環境のもとで推し進める必要があり、

秀吉自身、せまい日本の支配者としてのみ振舞うことが、

許されなくなったというもの。


声高に正義と胡散臭い顔  猫田千恵子

④ 秀吉の頭に、そろそろ、日本統一後のことがちらつきはじめた。

封建的主従制を保つ手段として、「御恩と奉公」の関係がある。

「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」

という、認識を秀吉は、もっていたはずである。

その裏返しとして、

「与える恩賞がなくなったとき果たして彼らは自分についてくるだろうか」

という不安をもった。

それゆえ秀吉は、九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、

さらに、明にまで攻めていくことも、構想していたものと思われる。

終章は神に逆らうかも知れぬ  太田扶美代

 ほかには、秀吉が、天正18年に秀吉が朝鮮国王に伝えた言葉。

「予の願いは他に無く、只、佳名を三国に顕すのみ」 に見るように、

秀吉の名誉心、功名心、野望が侵略戦争を招いたという人もいる。

また、秀吉が朝鮮出兵の前に、明への陸路ルートにある朝鮮に対して、

服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。

が、「朝鮮はこれを拒否した」というのも、理由のひとつにある。

いかなごとクロスワードを埋めている 赤松ますみ

何はともあれ、「天下を統一した」とはいっても、

世の中には、戦国の風潮、
「下克上の時代」を知る者が、

多数生き残っている。


秀吉の心配の種は尽きなかったのである。

なお、秀吉自身は、慶長の役の最中、慶長3年(1598)8月18日、

に没している。

秀吉死後、秀頼が相続するが豊臣政権は急速に瓦解していく。

朝鮮出兵が、豊臣政権の屋台骨をガタガタにしていたからである。


浮雲ごときに憧れてしまった  雨森茂樹

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帰還したのは竹薮に捨てた足  井上一筒


  橋立の茶壺

「利休の死」

利休が持つ数々の茶道具の中で「橋立の茶壺」は彼が最も愛した一品。

それを知った茶好きの秀吉は、自分の立場を利用して利休に、

「それをよこせ」 と強引に望んできた。

しかし利休は秀吉がいくら望んでも、橋立の茶壺は手離さなかった。

これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、

なったとも言われている。


   千利休 

始発から執着駅のフィクション  堀冨美子

千利休という名は、天正13年(1585)10月の秀吉の禁中茶会で、
おおぎまちてんのう
正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称された。

わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、禁欲的で緊張感のある茶。

その世界を追求するため利休は、草庵と呼ぶ「二畳の茶室」を創り、

また「楽茶碗」、「万代屋釜」、「竹の花入れ」などの

「利休道具」を考案し、露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

点す部屋消す部屋風の階のぼる  田中博造

一時期、利休は聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けていた。

しかし、天正18年(1590)、秀吉の弟・秀長が死去した辺りから、

秀吉と利休の関係がおかしくなってくる。

同年、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、

即日処刑された。

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

   その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。(久保利世が自叙伝・「茶説・茶話」)

そして、この事件から、秀吉と利休の間に、「思想的対立」がはじまる。

からまった糸蒟蒻になじられる  野口 裕


    黒楽茶碗       瀬戸黒茶碗

利休は、晩年の天正18年から天正19年にかけて、

「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、大徳寺の禅僧など、

多様な人々が出席した。

そして、この茶会には利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

1月13日の茶会では、黄金の茶碗を所望した秀吉に、利休は、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

    禁欲的で緊張感のある茶である」 と主張し

あえて『黒茶碗』を出した。 これが、秀吉の勘気に触れた。

黄金の茶室と利休についても、

「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は、相反するもの」

と利休は持論を述べた。

 阿と吽の隙間泣いたり笑ったり  古田祐子


    利休の手水


 その10日後の22日、秀吉の弟・秀長が病没する。

秀長は諸大名に対し、

「内々のことは利休が」「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった

それから、1ヵ月後の2月23日、突然、秀吉から、

「京都を出て 堺で自宅謹慎せよ」 

と利休に命令が届いた。

止められぬ時の流れがごうごうと  岡田幸男

     
   大徳寺山門

千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。
秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。 

2月25日、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

前田利家や、利休七哲の古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、大政所北政所が密使を遣わし、

命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。

しかし利休は、「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

 御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」  と断った。           
                                 よしや
それから3三日後の、2月28日、利休の京都葭屋町の屋敷に、

秀吉の使者が訪れ、「切腹せよ」の伝言を持ってくる。

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

ザンゲする命を止めておく画鋲  上田 仁

使者に最後の茶をたてた後、利休は静かに口を開いた。

「茶室にて茶の支度が出来ております」

そして、利休は一呼吸ついて切腹をした。  

利休は、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。 

享年70歳。

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

【人生七十  力囲希咄  吾這寶剣  祖佛共殺   
 堤る 我得具足の一太刀 今此時ぞ  天に抛 】

(じんせいしちじゅう りきいきとつ  わがこのほうけん  
   そぶつともにころす ひっさぐる わがえぐそくの   
    ひとたち  いまこのときぞ  てんになげうつ)             

血液はサラサラですが生き下手で  山本昌乃              


 利休の二畳の茶室 (国宝)

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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