忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103] [104] [105]
あじさい闇どうにもならぬ事もある  山本昌乃



「大谷吉継と石田三成の絆」

慶長5年(1600)9月15日、「関が原の戦い」で獅子奮迅の活躍をした

一人の武将がいた。

石田三成の盟友・大谷吉継である。

人質として上洛したのちに真田信繁が正室として迎えたのが、

吉継の養女・(浅井蔵之助の娘)安岐姫であることはよく知られる。

約1500の兵でありながらも、吉継は4人担ぎの輿に乗り、

紙の鎧兜を付けて陣頭指揮をとった。
  ごうびょう
彼は業病を患い、ほぼ視力を失っていたという。

それでも自軍の2倍にあたる藤堂高虎・京極高和の部隊と激突し、

互角の戦いを演じた。

アラベスクの中で果てしない鼓動  加納美津子

この間、吉継は松尾山に陣を置く小早川秀秋に何度か使者を送り、

西軍への加担を促したが、動きは見られない。

この時点で吉継は、秀秋の裏切りを予測し、

秀秋と三成の間に
大谷隊の布陣を移している。

予測の通り、正午になると秀秋は裏切り、眼下の大谷隊に突撃してきた。

秀秋の裏切りに備え、精鋭をもって一旦はこれを撃退したが、

秀秋の裏切りに呼応し、その他の諸隊が大谷隊に突っ込んでくると、

形勢は逆転し、そこへ藤堂・京極らの横槍が入り大谷隊は壊滅。

家臣の湯浅五助が全滅状態であることを伝えると、吉継は、

「汝、介錯して、我が首を敵に渡すべからず」と言い、

輿にのったまま腹を十文字に掻き斬って自決し、壮絶な最後を遂げた。

裸木の鋭く潔い線よ  新家完司



吉継は三成とともに豊臣秀吉に仕えた有能な人材であった。

天正5年(1577)織田信長から播磨攻略の命を受けて,

姫路城を居城とした秀吉。

19歳の吉継は、秀吉のお馬廻り衆の一人として、

加藤清正らとともに護衛などにあたった。

彼を取り立てたのは三成だったともいわれ、

一説によれば、近江生まれの同郷の仲だったとされる。

年齢も一歳差であり、互いに通じるものがあったのだろう。

二人は秀吉のもとで「賎ヶ岳の戦い」25歳の若き吉継は

7本槍に匹敵する活躍をみせた。


ずっと前から結ばれていた二つの灯  吉川哲矢
                    ぎょうぶのしょう
そして秀吉の関白任官に伴って、刑部少輔に任じられ、それ以後、

「大谷刑部」と呼ばれるようになり、敦賀城主にも命じられた。

しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、

五奉行の一人・徳川家康がその遺言を無視し独断専行の政治を行い始める。

これに対して、かたや
五奉行の筆頭・前田利家が、

「一戦を辞さない」という緊張した慶長4年(1599)


吉継は自分の屋敷に兵を集め、家康に味方する姿勢だったという。

家康が上杉討伐のため東征した際には、吉継もそれに従った。

東征先で吉継は、三成が蟄居していた佐和山城へと招かれた。

そこで三成から家康を打倒するため挙兵する決意を聞いたのである。

急ぐことはないと雲にも言いました  立蔵信子

三成は19万石、それに対して家康は250万石の大名である。

家康と戦っても利がない、吉継は三成を諫めたが三成の決意は固い。

ついに負け戦になると知りながらも吉継は、縁起の悪い吉継の名を

吉隆に改名して、三成とともに反旗を翻したのである。

吉継にとって三成は、苦楽を共にしてきた友であった。

決戦当日、西軍の武将が敗走するなか、吉継は最期まで戦い抜いた。

大谷隊の壊滅は戦場の趨勢を一変させ、

西軍諸将に動揺を与え、
西軍潰走の端緒となる。

そして朝もう飾ることない二人  上田 仁

吉継辞世の句

「契りあらば六の巷にしばし待ておくれ先だつ事はありとも」

(共に死ぬ約束があるのだ、あの世〔六道の辻〕で待っていて欲しい)

吉継・三成の「エピソード」

「天正十五年(1587)大坂城で催された秀吉の茶会の席で、

秀吉の諸将が茶碗の茶を回し飲みをした。

しかし大谷が口をつけた後はみな嫌い、病の感染を恐れて、

飲むふりをするのみだったが、三成だけはその茶を飲み干した」

というエピソードが伝わる。


破るため約束をする左指  吉田信哉



「石田三成」

豊臣秀吉がまだ 羽柴秀吉と名乗っていた近江長浜城主時代、

三成はその小姓として仕えたといわれている。

戦場での働きよりも兵站の調達や事務処理で頭角を現した。

天正5年(1577)、秀吉が信長により中国攻めの総司令官に任命されると、

当時17歳で、三成も中国地方への軍に従う。

天正10年6月、信長が本能寺で家臣の明智光秀に殺されると、

秀吉がいち早く畿内にとって返し光秀を討った。

これで秀吉が織田家後継の筆頭に立つと、

三成も秀吉の側近として、一層重要な役目を担うようになってくる。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

翌年の「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家軍の動きを探る役目とともに、

戦いでも一番槍の功名を挙げている。

三成の本領が発揮されたのは、天正15年に秀吉が九州平定のため、

大軍をもって遠征に出た時のことだ。

その前年に堺奉行に任じられ、そこを完全掌握したうえ兵站基地として

整備していた三成は水軍を活用。

堺を基点とし、兵員や物資を載せた船が瀬戸内海を迅速に移動する

手はずを整えたのだ。
           しちょう
兵糧・武具などの輜重が滞りなく行なわれたおかげで、

九州平定戦は比較的短期間で勝利を収めることができた。

池の鯉わたしの手拍子にうねる  古田祐子

しかし天正18年の「小田原征伐」の際は、

秀吉から北条氏の支城の一つ忍城の攻略を任される。

だが城兵の頑強な抵抗に遭い苦戦し、

備中高松城際の水攻めを模して長大な堤防を築いた。

だが逆に城方に堤防の一部を破られ、

自軍に被害が及ぶ失態を演じてしまう。


以後、戦下手のレッテルを貼られた。

その後、朝鮮出兵の際は出征した武将たちとの間に、

大きな確執を生じ、
戦後は亀裂が決定的となる。

このため家康との間で雌雄を決した「関が原の戦い」で敗れてしまう。

絆という粘々洗っても洗っても  高橋謡々

拍手[2回]

PR
海峡よイソギンチャクは義理堅い  くんじろう



  秀吉時代の大坂城

「大坂暮らし」

人質として来た大坂での信繁の生活は、上杉での人質時代よりも、

その後の信繁の人生にとって大きなものをもたらした。

上杉家で暮らした1年足らずの間で最も多く学んだのは「義」であり、

戦さ人としての「心得」であり、「学問の大切さ」であった。

先ず「五常の徳」(仁,義,礼,智,信)を教えられた。

「この五常の徳目を守って生きることによって、

父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫の道が全うされるのだ。

わけても私は、この五徳目のうち義が最も大事であると思っている」

直江兼続「義」を正義という言葉に代表される理念であり、

人として最も大事な生き方であろうと考えていた。

眼差しはいつでも前を向いている  日下部敦世

上杉家で兼続から薫陶を受けた「義」への思いを、

信繁はさらに純化するほどの影響を大坂で受けることになる。

この時期には、秀吉の側近として石田三成、大谷吉継など近江出身の

家臣団がいた。

頭脳明晰で臨機応変に物事を処理する能力に長けている側近たちである。

主君の秀吉をはじめ彼らのような存在は、

甲府で生まれ育った信繁には、
これまで出会ったことのない

タイプの人物ばかりである。


天正14年(1586)というこの時期、三成は27歳、吉継28歳、

20歳の信繁には、やや年の離れた兄ともいえる年齢であった。

振り向いたところにいつもいる仲間  谷口 義

秀吉は、吉継に「武人」としての器を見ており、

「百万の兵を与えて采配を振るわせてみたい男だ」

と賞したほどで、信頼も厚かった。

事実、吉継は兵法に長けており、

後の関が原合戦でも孤軍奮闘して東軍を圧倒している。

また兵法ばかりでなく、経済的な見通しにも明るく、

他家や敵方との交渉に臨んでも、一歩も引けをとらなかった。

あらゆる面で他人よりも秀でていた武将であった。

そして何よりも「義」に厚く「情」にも厚かった。

横なぐりの雨で口をゆすぐ奴  酒井かがり   

一方、三成は秀吉に最も信頼され愛された武将であった。

その待遇も福島正則、加藤清正など秀吉の縁につながる「子飼い」として、

厚遇された武将たちとは違って、主に裏方の仕事に従事し、

戦を陰で支える役目が多かった。

だが三成は、秀吉に命じられた仕事はその期待以上の成果を常に挙げた。

そして三成の秀吉の心底には「義」があり、

誰に対しても「義」という判断基準で測った。

これを吉継は「三成の道徳観」であり、正義感が為せるものと見ていた。

それだけに他人には偏屈に映ることもあり「へいくわい者」(傲慢な男)とも

陰口を言われてきた。

結び目に私の色を足しておく  合田瑠美子

信繁は大坂に来て、三成が兼続とも厚い友情で結ばれていることを知った。

上杉景勝が秀吉に従う時の上杉の窓口を兼続が、

豊臣の窓口を三成が務めてきた結果であるという。

さらに、信繁と三成との縁はまだある。

しばらく後のことになるが、

信繁の妹(昌幸の5女)が嫁いだ宇多頼次の妹が三成の後妻であった。

これにより頼次は信繁の義兄弟となり、その関係で三成とも頼次を挟んで、

義兄弟になるという複雑な繋がりが生じる。

そして三成も恐らくは、真田の血筋、礼儀正しく慇懃で物静かな信繁に

触れ、その人間性を認め、信愛の友ともとれる接し方をした。


たまに逢う友達だから仲が良い  立蔵信子

さらに信繁の人柄は、主君である秀吉にも愛された。

秀吉は信繁を「小姓」として使った。

秀吉が信繁を重んじていた証拠として、吉継の娘を妻に娶らせている。

さらに秀吉は、信繁に「豊臣」の姓を名乗らせることを許し、

叙位任官させた。

         さえもんのすけ
「従五位下、左衛門佐」である。

以後、信繁は「豊臣左衛門佐」を名乗るのである。

ほんの駆け出しです雲を見ています  田口和代

拍手[3回]

逃げ込んだのはもぐらたたかいの穴だった  森田律子


地震・津波にはお手上げの鎌倉大仏


4月14日に発生した熊本地震は、収束の気配を見せないまま、
16日未明に本震とみられる揺れを観測、マグニチュード(M)は7・3で
1995年の阪神大震災と同規模の「横ずれ断層型」とみられている。
長周期地震動は最も強い「階級4」(立っていることができない)を
熊本県内で観測、被害の規模・範囲はとめどなく広がっている。
この熊本地震や阪神大震災に匹敵する地震は記録史上1300年以上、
延々と我々の列島を揺るがし、またぞろ歴史の大地震を語らせる。

つなぐ手の中に侵入する外気  竹内いそこ


   帰 城 跡

「天正大地震」

戦国時代、人々にとって自然災害は脅威であった。

雪害に悩まされた東北地方、淀川の水害を受けた河内周辺など、

例を上げればキリがない。

そんな中、自然災害により滅亡した大名がいた。

飛騨の内ヶ島氏、かつては上杉家の侵攻も退けた戦国大名である。
                                    うじさと
天正13年(1586)11月29日、内ヶ島当主・内ヶ島氏理は居城である
かえりくも
「帰雲城」にいた。

この11月といえば、徳川の重臣・石川数正が豊臣家に出奔し、

徳川家康が真田昌幸攻めから撤退した年である。

家康も大いに揺れた。三谷幸喜はドラマでも地震の歴史を忠実に描いていましたね)

点景にわたくしがいてうずくまる  嶋沢喜八郎

内ヶ島家では、金森氏との和平が成立したことを祝うために、

重臣らも含め一族全員が城に集結中。

そこを突如大きな地震が襲ったのだ。

城に面した帰雲城は山崩れを起こし、大量の土砂が城に降りかかる。

なす術もなく城は土砂に埋まり、内ヶ島氏は滅亡してしまった。

内ヶ島氏を滅亡させたその地震こそ、

戦国時代最大の大地震・「天正大地震」である。

地震の規模はM 7.8〜8.1、死者多数、負傷者膨大な数に及ぶ。

飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まり、

余震が1年以上続いたという。

三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波が記録されている。

すれちがいざまに発熱したらしい  徳山みつこ


  流される人・家

内ヶ島氏以外にも多くの大名に甚大な被害を及ぼしたことが記録されており、

越中国では木船城が倒壊し、前田利家の弟・前田秀継とその妻が死亡。

近江国でも長浜城全壊により、城主・山内一豊のひとり娘が死亡している。

戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期でもあり、

文献による歴史資料はほとんど残されていない。

ただ、宣教師・「ルイス・フロイスの日本史」には、

「この時、秀吉は琵琶湖沿岸の坂本城にいた。

   突如起きた地震のために各地の城や建物は倒壊。

   激しい揺れに驚いた秀吉は飛ぶように大坂へ逃げた」

と書き記している。

緊張が続くと笑いそうになる 青砥たかこ          

これまたフロイスの報告では、

「長浜地区にあった千戸の集落では、地面が割れて半数の家が倒壊し、

    半数は火事で焼失した」

とあり、また津波についても、フロイスは、


「若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われ、

   家が流され多くの死者を出した」 

と記録している。


諸国でこれだけの被害があったのだから、

震源地の岐阜県北西部にほど近い帰雲城が、埋没するのも理解できる。

電動歯ブラシと電動の入れ歯  井上一筒


 元暦京都地震の挿絵
人馬が七転八倒し恐怖を表現している。

「元暦大地震」(方丈記より)
 
『・・・元暦二年(1185)の頃、大地震ふること侍りき。

   その様世の常ならず。
うづみ
   山くずれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。
                                                                (転がり落ち)
   土さけて水湧きあがり、いわを割れて谷にまろび入り、

   渚こぐ船は浪にたゞよひ、道いく駒(馬)は足の立處をまどはせり。
                            あたり                                                             無事なものはない
   況んや都の邉には在々所々堂舎塔廟、一として全からず。

   或ひは崩れ、或はたおれぬる間、塵灰立入りて、盛んなる煙のごとし。
                                                              いかづち
   地の震ひ、家の破るる音、雷に異ならず。

   家の中に居れば、忽ちに打ちひしげなむとす。

   走り出づれば、又地割れさく。


   羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

(羽がないから空にも逃れず、龍でないから雲に隠れることもできない)

耳鳴りが百デシベルになってもた  河村啓子

   おそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚え侍りし。

   かくおびただしくふる事は、しばしにてやみにしかども、

   その餘波しばしば絶えず。

   よのつねに驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。
                                                                                          まどお
   十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、

   もしは一日まぜ、二三日に一度など、

   大方その餘波三月ばかりや侍りけむ』


(ひどく揺れは暫くして止んだけれどもその余波は絶えなかった。
   びっくりするような余震が二・三十と回起こらない日はなかった。
   十日二十日過ぎて、ようやく間隔があいてきて、
   ある日は四・五度、二・三度
あるいは一日おき二・三日に一度など
   大方その余波は三ヶ月ばかり続いた)


鴨長明が元暦の大地震を経験したのは、方丈記成立の30年程前である。

都に甚大な被害をもたらした地震による災害を切々と臨場感たっぷりに、

「方丈記」の一節に長明は回想している。

当たるという易者しばらくして消える  藤本秋声


慶長伏見地震を題材にした歌舞伎「地震加藤」の錦絵

「慶長伏見大地震」

慶長元年(1596)9月5日、マグニチュード(M)7-7.5程度と

推定される
地震が完成直後の豊臣秀吉の伏見城を襲った。

「慶長伏見大地震」である。

天守や伏見城の天守や石垣が損壊、城内だけでも多くの死者を出し、

また、京都や堺でも1,000人以上の死者が出たという。

嵯峨野では、天龍寺や仁尊院、大覚寺といった寺院が倒壊。

京都南部では東寺が倒壊し、方広寺では大仏が倒壊した。

大阪でも低地の多くの建物が倒壊したが、大阪城に被害はなかった。

そして余震は翌年春まで続いた。

これだけ広範囲にわたる被害がでた地震名に「伏見」が入っているのは、

秀吉絶頂期で時の政権が伏見にあったことが反映されている。

この地震の揺れに秀吉は、

「地震の原因は琵琶湖の大ナマズのせいじゃ!」


と言ったとか言わなかったとか。

あなたは何処で壊れていたんです  山口ろっぱ

また加藤清正の秀吉がかかわる地震逸話がある。

石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い閉門中の清正が、

「殿下!殿下!虎之助めが参りました。いずこにおられます」

と叫び、いの一番に、
秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、

動けない秀吉をおんぶして救い出し、閉門を許されたという話である。

ユーモラスな秀吉は、いろんな場所でいろんな逸話を提供してくれる。

酸欠をしてます自由をくださいな  美馬りゅうこ

拍手[2回]

ぶらんこ漕いでる 地球蹴っている  徳山泰子


 三つの貌を持つ男

「秀吉」

出自が謎に包まれている羽柴秀吉だが、

一般には天文6年(1537)尾張の農民の家に生まれたといわれる。

今川氏の家臣筋に出世した後、18歳頃から信長に小者として仕え始めた。

織田家では持ち前の才覚と努力が買われて頭角をあらわし、

組頭、足軽大将と次々出世。

天下布武を掲げる信長を支えて、近江の浅井長政攻めをはじめ、

多大な貢献を果たした。

頑張りを滴る汗が物語る  片山かずお



秀吉は気配り細やかで機転がきく切れ者ながら、

鷹揚な性格であった。


「人たらし」と評されるほど人の心を掴むのが上手く、

敵を味方にかえてしまうこともしばしばだった。

身分を問わない実力主義者の信長には特に目をかけられ、

秀吉もまた、天下人への道を歩む信長から多くのことを吸収している。

規格外だから個性というのです  山口美千代

秀吉が羽柴姓を用いるのは、永禄13年(1570)頃からで、

天正4年(1576)には中国方面軍司令官に抜擢され、

毛利氏ら強敵が跋扈する中国地方へ進軍を進めた。

播磨、但馬を平定し毛利の押さえる因幡・鳥取城を陥落させると、

天正10年4月、雌雄を決するべく、

秀吉は毛利方の清水宗治が籠る備中・高松城を包囲。

水攻めを仕掛け、毛利の大軍が後巻きするなか、

決戦に持ち込むため信長の出馬を待っていた。

一つだけシミをつけたのだなわざと  森吉留里恵


  中国大返し

その矢先の6月2日、本能寺の変。

毛利方より早く急報に接した秀吉は憔悴するが、

「謀反人の明智光秀を討てば、天下をとれる」

黒田官兵衛諭され、一念発起した。

そこで信長の死を隠したまま急遽、毛利と和睦し上方へ引返す決心をする。

秀吉はその道中、次々と軍勢を増やし、

畿内に入るころには、明智光秀軍に兵数で圧倒的な優位に立っていた。

そして6月13日、摂津と山城の境にある天王山で決戦。

光秀を破った。


大器晩成ボツボツ来てもいいですよ  田口和代


    山崎合戦

この「山崎合戦」での勝利を追い風に、

秀吉は信長の仇を討った殊勲者として織田家中での発言力を強めていく。

6月27日、秀吉は織田家の後継者を決めるための重臣会議・

「清須会議」でも主導権を握った。

そんな秀吉の台頭に不満を抱いたのが織田家筆頭家老・柴田勝家だった。

秀吉は勝家の勢力を削ぐべく、勝家の周辺人物を屈服させていく。

これを怒った勝家は、天正11年ついに出陣し、

「賤ヶ岳合戦」の火蓋を切った。


結果、秀吉子飼いの福島正則「7本槍」の活躍もあって勝家は破れ、

秀吉は実質的な後継者となった。

気障な眉毛は裏の林に捨てましょう  酒井かがり
                            のぶかつ
しかし、秀吉の強大化に危機感を覚えた織田信雄は、家康と結んで対抗。

天正12年、「小牧・長久手の戦い」が始まる。

両者は睨み合い、膠着状態が続いたのち、秀吉は本領安堵の条件で

信雄と単独講和、家康も秀吉と和解した。

やがて秀吉は「官職」でも主家の織田家を凌駕し、

その勢威に誰も異を唱えなくなると、

信長が果たせなかった天下統一に向けて動き出す。

ハイエナの名に恥じぬよう生きていく 笠嶋恵美子



そこで課題となったのは、甲信越から先の東日本の支配だった。

小牧・長久手で和解したとはいえ、

北条を撤退させ、甲信支配を拡大する徳川は依然最大の敵である。

そして、その家康を打倒する為に秀吉がぜひとも味方につけたい男がいた。

真田昌幸である。

心構えはできてるかサドンデス  吉田伸哉

「秀吉エピソード」
秀吉は「大返し」を二度成功させている。
「中国大返し」「美濃大返し」である。
二度目は天正11年4月、北近江で柴田勝家とにらみ合っていた秀吉は、
岐阜城で反旗を翻した信長三男・織田信孝を討とうと美濃に兵を進めた。
この手薄の隙をついて、勝家側の佐久間盛政が攻め込むと、
大垣城で情報をキャッチした秀吉は、直ちに軍を取って返した。
近江木之本まで52キロ、これをたった5時間で戻ったという。
鎧を身につけ、重い武具を提げ、時速10キロで走破したことになる。
マラソンの距離42・195㌔を4時間少々で走ることに置き換えれば、
どれだけ速く走ったのか想像に難くない。
神業の域を超えている。

そして神出鬼没の秀吉軍を目の当たりにした佐久間の軍勢は乱れ、
形勢は一気に秀吉側優位に動き、勝家も敗走、この戦いを制した。

もう踵返しは出来ぬ捨て台詞  上田 仁

拍手[3回]

役割が違うお日さまお月さま  新家完司



太政大臣・藤原忠通

「わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波」

「官位」

官位とは「官職」「位階」を組み合わせた言葉である。

例えば、石田三成が大河ドラマ・「真田丸」で名乗っていた冶部少輔は、

冶部省の少輔という役職になる。

官職とは、定義上は職務の一般的な種類である「官」

担当すべき職務の
具体的範囲を示す呼称である「職」との

二つということになる。


いわば国の機関に於いて働く公務員に割り当てられた職務や

その責任によって生ずる地位ということである。

従来の官吏制度においては官吏の基本的地位を「官」といい、

官に任ぜられた者に特定の職務を付与するものとされていた。

身に会った器で花がよく笑う  釜野公子

そして「位階」とは、地位や身分の序列・等級を表すものであり、

地位の高低を示す階級ののこと。

日本では、国政を司る機関として古くから朝廷があり、

天皇を頂点とした階級組織が構築されてきた。

その朝廷に仕える官人の地位を天皇を頂点としてピラミッド型に配置、

各職種や役割に応じてその序列や地位を与えるにあたって、

それぞれの位階に相当する官職を授与した。

授与された官人は、その功労によって位階に相当する官職に昇進もした。

その序列の状態を解りやすく表にまとめたものを官位相当表という。

水平線に会いに行く右手の小指  山口ろっぱ


法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)

戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して、

官位を得る直奏の例が増加する。

朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、

朝廷もその献金の見返りとし、

その武家の家格以上の官位を発給することもあった。

例えば「左京大夫」は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、

戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、

時には、複数の大名が同時期に任じられることもあった。

将軍・足利義稙時代、管領代として1幕政を掌握した大内義隆に至っては、

高額の献金をして最終的に「従二位兵部卿」という高い官位を得ている。

淋しいからと鬼を呼んではなりません  伊東志乃

朝廷からの任命を受けないまま官名を自称する例も増加した。
                  かずさのすけ
織田信長が初期に名乗った「上総介」もその一つである。

又、主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといった者まで登場する。

豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った「筑前守」や、

明智光秀が使った「日向守」もこの一つと考えられる。

裏切りを重ねたシャツの生乾き  原 洋志


菅原道真の生前の官位は従二位だった

官位は権威づけだけではなく、

領国支配の正当性や戦の大義名分としても


利用されるようになる。

その主な例として、


大内氏が少弐氏に対抗するために「大宰大弐」を求めた例。

三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康

「三河守」を求めた例。

そこで「秀吉の官位の推移」
天正10年10月    従五位下・左近衛権少将(明智討伐)
天正11年5月     従四位・参議
天正12年11月    従三位・権大納言
天正13年3月     正ニ位・内大臣
天正13年7月     従一位・関白(この年9月豊臣姓授かる)
天正14年12月    太政大臣

天狗になるまでは象の鼻でした  田口和代
                   しょだいぶ
関白は人臣最高の官職なので参内時には諸大夫と呼ばれる自家の

従者を伴うことが出来る。


公卿では「五摂家」・「精華家」だけに許される特権で、

この家格以下の家は自家の従者を伴うことが出来ず

五摂家・精華家から諸大夫を借りることもあった。

秀吉が関白に任官した際には、福島正則、石田三成が付き添った。

これを機に多くの武家が高位に任官されっるようになる。

秀吉は官位序列の最高位に自分を置き、

官位の上下で配下に差をつける手法をとった。

また秀吉は、服属した大名に必ず上洛を命じ、官位を与えていった。

元気かいっと窓から覗く白い月  大海幸生

官位は一位から最下位の少位まで十段階あり、

更に一位から八位までには、それぞれに「正」と「従」が分れ、

正四位から少少位までには更に上と下に分かれる。

官職は例えば、太政官では、太政大臣、左大臣、右大臣等、

省(民部省、兵部省、宮内省等)では、卿、など、

国司(尾張国、武蔵国、駿河国等)では守、介等があり、

百ほどの組織で官位を持った官職数は800~900位になった。

従五位下以上と六位の「蔵人」は、昇殿を許されたために「殿上人」

太政官のうち、従三位以上もしくは「参議」のことを「公卿」と呼んだ。

画数が多く暑苦しい名前  鍋島香雪

「おまけ」

武家の官位は、次官の「大弼」「少弼」からで、

その下の「弾正忠」も聞き慣れた名乗りだが、

正六位相当官の低位のためか、江戸期に入ってからは使われなくなった。

「弾正」の名乗りで有名どころは、米沢藩・上杉家である。
      だんじょうしょうひつ
上杉謙信「弾正少弼」だったこともあり、

初代・景勝から12代・斉憲までのうち8人が「弾正」を名乗っている。

ただし上杉家は「四品の大名家(四位に昇れる大名家)」ということで、

2代目の定勝以降は「弾正大弼」を名乗った。

ありがとうなんてうっかり言えるかい  森田律子   

拍手[3回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開