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川柳的逍遥 人の世の一家言
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円の中に座す円に疎外される瞬間  山口ろっぱ


  「萩一戦図」 (早川松山画)
萩の乱の鎮圧のために出動した政府軍と戦う前原一誠らを描いた錦絵。
右側の黒い馬に乗っているのが前原でその周囲を奥平謙輔、横山俊彦
腹心が固めている。
奥には萩城も描かれているが、乱勃発時には天守などは解体されている。

「萩の乱ー前原一誠」

萩の乱の主謀者・前原一誠は、長州藩士の子に生まれ、

高杉晋作久坂玄瑞と同じ吉田松陰門下であった。

長崎で洋学を学んだから、敬神党(勤皇党の過激派)ような、

国粋主義者ではない。

高杉や久坂らと倒幕の戦いに参加し、

戊辰戦争では長岡城攻めなどに手柄を立てている。

功績を認められて新政府の参議にもなり、大村益次郎の暗殺後は、

軍事の最高責任者でもある兵部大輔にも就任した。

その日ならずっとにじんでおりました 竹内ゆみこ

しかし、この頃から政府とそりが合わなくなっていった。

前原と政府の最大の方向性の違いは、士族を残すか残さないかである。

同じ長州出身ながら大村も山県も木戸も近代国家としての、

「国民皆兵路線」を目指していたが、

前原はこの点だけが妥協することができず、

結局、参議の職を辞し故郷の萩に帰っていた。

不機嫌の種はわたしが蒔きました  杉谷和雄


  前原一誠
松下村塾で学んだ前原を松陰は「その才は久坂(玄瑞)に及ばない、
その識は高杉(晋作)に及ばない。けれども、人物完全なることは、
両名もまた八十(前原)に及ばない」と称えたといわれる。

前原は清廉潔白な性格で、また「民衆を大切にしなければならない」

という、古き良き儒教の教えにも忠実だった。

維新後参議になる前に一時、越後府判事を勤めていたことがあった。

この時、前原は行政に力を注ぎ、

民政安定のため信濃川の改修工事を願い出ている。

ところが、却下された。

「そんな予算はない」と言うのだ。

だが、「カネのない」 はずの政府や軍では、

同郷の井上馨が尾去沢銅山事件で、山県有朋が山城屋和助事件で、

たっぷりと私服を肥やしているではないか。

少なくとも前原の目にはそう見えた。

あとはおぼろあとはおぼろの傘ひとつ  田口和代



「一体こいつらは何を勘違いしているのだ。

お前らが私服を肥やすために同志たちは死んでいったのではないぞ」

というのが不平士族と呼ばれる人々のリーダーたちの思いであった。

リーダーではない人々は、

単純に自分たちの特権が廃止されたことに、

怒りを覚えているものは多かったが、

リーダーに祭り上げられた人々は、

多かれ少なかれ維新の確立に何らかの形で貢献している。

だからこそ、中央政府の腐敗が許せなかった。

車庫入れの下手な政治家ばかりだな  奥山晴生   



実は、山城屋和助事件において、

山県が関与し私服を肥やしていたかについては確証はない。

山城屋がすべてを背負って自殺したからだ。

だから山県が無実だった可能性も無いとは言えず、

有罪であれ無罪であれ山県は前原にも、

「おれは関与していない」と主張しただろう。

しかし、陸軍の公金が、それも膨大な金額が山城屋によって、

浪費されたのは事実である。

「そんな金があるのなら、何故、信濃川改修資金が出せないのか、

   民を労うことこそ政治の基本ではないか、

   この御政道は間違っている」

というのが、前原の思いであり、

同じく郷里に戻った西郷隆盛の思いでもあった。

阿も吽もわたしの敵であるらしい  中野六助


萩大戦争之図 (萩の乱)
明治9年、旧萩藩の士族たちと新政府の戦いの様子を描いている。

前原は熊本・敬神党の乱のことを聞きつけ、

秋月でも呼応の動きがあることを掴んで、

熊本挙兵の二日後の26日、旧長州藩校明倫館に入り、

同志を募った。

一定の人数が集まれば、まず県庁を襲撃する予定だった。

ところが、翌27日秋月の乱が一日で鎮圧され、

28日に前原を長とする殉国軍が結成されたものの、

密偵の暗躍により県庁襲撃計画が事前に察知されてしまった。

そこで方針を変更し、

天皇に現状改革を直訴すべく陸路で山陰道を東へ向かった。

ベタ凪にぽろっと密約を漏らす  上嶋幸雀


   賊徒追討図
萩の乱を指導した前原一誠らを政府軍が鎮圧する様子。

しかし、ここで前原は重大な判断ミスを犯した。

萩がいちはやく 

「占拠され、関係者が次々と逮捕されている」 

という情報に接した前原は、一度萩へ戻って態勢を建て直すという

判断を下してしまったのだ。

実はこれは政府の流したデマだった。

行方のつかめない前原らをおびき寄せるための作戦だったのである。

そうとは知らず、彼らは萩の本拠の明倫館に戻って愕然とした。

備蓄していた武器爆薬が廃棄されており、

待ち伏せしていた政府軍がかさにかかって攻めて来た。

前原勢は約200人いたが、ここで非情の決断が為された。

牛の涎からおおよそ見えること  井上一筒

まさに「殉国軍」の名の如く、本隊が政府軍を引きつけて戦う間に、

前原ら幹部5人が脱出し東京へ向かうというのである。

直訴を実現するために、同志が囮になったということだ。

もっとも囮になった兵は粘って、

前原らを脱出させるのが目的だから、

自由に動き回り死者はほとんど出なかった。

ドロップの缶を開けたら泣き止んだ 笠嶋恵美子


  賊魁捕縛之図 (宇龍港)
前原らの挙兵は失敗し、日本海沿いに北方へ逃れようとしたが、
島根県の宇龍港で捕縛された。
図は前原らを捕らえに行く様子を想定して描いたもの。

前原は、隣の島根県に入り宇竜港から船をチャーターして、

東へ向かおうとしたが折悪しく悪天候で、

晴天になるまで待っていたところを密告され、

従者2名ともども逮捕されてしまった。

しかもこの時、前原は投降の条件として、

「裁判で弁明の機会を与えよ」

と官吏側に求め、それが了承されて投降したのだが、

この約束は守られなかった。

またしても、東京ではなく江藤新平の時のように、

山口裁判所の萩臨時支部という形で、現地に裁判所が設けられ、

12月3日に前原、山田ら幹部8名は斬首の刑が宣告され、

即日執行された。            (逆説の日本史/参照)

竹林の風ざわざわと訃が届く  桑原伸吉

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聞き流すため両側に耳がある  橋倉久美子


 秀次郎

玄瑞と辰路の間に生まれた秀次郎は玄瑞の面影を残している。
ということから、鉢巻姿の玄瑞・肖像画のモデルになった。

「母ちゃんは辰路 母上は美和」

長州藩士・小幡高政が維新後に語っているところによると、

久坂玄瑞は美声で特に詩吟などは聞く者を感動させたという。

何よりも玄瑞は、身の丈が6尺(182cm)という、

恵まれた体躯の持ち主である上に、ハンサムであった。

相当持てたことだろう。

ニシキゴイ優雅な腰と色艶と  田口和代


ベストキャスティン
「大河燃ゆ」の玄瑞役・東出昌大くんは秀次郎に何となく似ている。

そんな玄瑞は、茶屋通いが好きだったようで、

東山の明保野亭や京都の藩邸に近い茶屋・池庄などへ

しばしば足を向けている。

ある時、玄瑞と馴染みの芸者が明保野亭を出たところへ

玄瑞の命を付け狙う刺客が姿を現したという。

この時、玄瑞が大声を発すると逃げ去ったという話も伝わる。

ひと声はわたしの獏が発します  岩田多佳子

尚、玄瑞の傍らにいた芸者は辰路とされているが、

玄瑞と辰路は深い仲で二人の間には、

秀次郎が生まれている程である。

一説に馴染みだった芸者は、今日までに判明しているところによると、

京都の花街・桔梗屋に籍を置く女性で、佐々木ひろ子もしくは、

井筒(竹岡)タツであるという。

また、元治元年(1864)7月、玄瑞が禁門の変で自刃後、

埋葬された遺骸を玄瑞ゆかりの女性が掘り起こし、

「頭部だけを持ち去った」 とする話も残る。

見たことは忘れてあげる磨りガラス  美馬りゅうこ


秀次郎に似ている東出昌大

この玄瑞ゆかりの女性を、辰路に擬する向きが多いが、

また玄瑞は辰路が自分の子を宿したことを知っていたかどうかも

不明で、玄瑞自刃の2ヶ月後に秀次郎が誕生した。

秀次郎は玄瑞に瓜二つで、その名前は玄瑞の幼少の頃の名にちなんで

付けられたという。

そして秀次郎が6歳の時(明治2年)、正式に玄瑞の子であることが、

長州藩に認知される。

しかし久坂家には、玄瑞の存命中に既に養子・久坂米次郎がいた為、

秀次郎は玄瑞の縁者である長州藩徳佐村の酒造家に託されたと言う。

ステッキの曲り具合は父である  笠嶋恵美子



寝耳に水というべき報せが文のもとに届いたのは、

秀次郎認知からまもなくのことであった。

文(美和)と玄瑞の間に子はなかったため、

姉夫婦(楫取素彦・寿)の子・久米次郎を養子とし、慈しんでいた。

しかし秀次郎の存在が発覚したため、

楫取素彦、美和の兄・民治、母・ら親族一同が協議し、

久米次郎を楫取家に戻して、

秀次郎を久坂家の籍に入れることになる。

美和は亡夫への複雑な思いと、

息子を奪われる悲しみを味わうことになった。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子


    萩の乱

それでも美和は実家の杉家で兄・民治の厄介になりつつ、

かいがいしく老母・瀧の面倒を見ていた。

ところが明治9年、平穏を破る兵火が萩に上がる。

政府に不満を抱く士族らが起った、「萩の乱」であった。

旗頭は松下村塾出身の前原一誠で、500人ほどが従う。

その中に民治の長男で吉田家を継いだ小太郎や、
          まさよし
玉木文之進の後継ぎ、正誼乃木希典の弟)もいた。

しかし乱は十数日で鎮圧され、一誠は弟と共に処刑(享年43歳)、

19歳の小太郎も、23歳の正誼も戦死した。

そして乱に正誼や門人の多くが加わった責任をとって文之進が自決。

民治は官を辞し、2年後に隠居する。

猫も月もどこかえ屋根だけが残る  藤本秋声

話を久米次郎・秀次郎に戻すと、

明治12年、正式に秀次郎が久坂家の後継ぎに決まり、

玄瑞が残した1人の男児によって起きた大騒動はひとまず、

落ち着きを見せた…のだが。

明治14年、楫取の妻・寿が病没すると2年後、楫取は美和と再婚。

美和は再び、久米次郎の母になる。

一方、辰路は桔梗屋の女将らの仲介により、竹岡甚之助と結婚をし、

3人の子を授かる。

その中の2番目の子は、烏丸四条の伊吹という呉服屋に養子になる。

この「伊吹」は、江戸時代文久年間から続く京都室町の繊維商社で、

政治家・伊吹文明氏に繋がっているという。(文明氏が孫ほんまか?)

なお、辰路は明治43年で病没、65歳まで生き。

また、美和は大正10年79歳まで生きた。

まっ白い煙で最期飾ります  黒田忠昭

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仏壇の裏のタマネギを盗掘  井上一筒


 岩倉具視と明治天皇

「岩倉具視を抉る」

世の中には不思議なことがいっぱいある。

孝明天皇暗殺説もそうである。

孝明天皇が急な発熱で倒れたのは、慶応3年1月16日のこと。

原因は天然痘と発表される。

すぐに24時間体制での治療措置がとられ、

それまでは、天皇としての公務をこなし

至って健康的なほうであったから、

天皇の症状は順調に回復しはじめた。

が、症状が急変。

そのまま帰らぬ人となってしまった。

ついさっきまではこの世の人でした  岡内知香

あまりに急な出来事だっただけに、天皇は何者かによって

「暗殺されたのではないか」 という暗殺説が囁かれた。

「一体だれが何のために」

「天皇が死んで一番得する人物は誰なのか」

そこで一人の男の名前が浮かび上がる。

岩倉具視である。

ちっぽけな心が見栄を張りたがる  新家完司

岩倉具視は、かって公武合体論者であったが、

世間が倒幕ムードになるとあっさりと尊皇攘夷に転向、これが、

結果的に孝明天皇との関係に亀裂を招くことになってしまった。

孝明天皇が在位されている限り出世することは難しい。

そう考えた岩倉が、「天皇暗殺を企てた」というのである。

孝明天皇から明治天皇へ変わると岩倉は一躍出世。

これは孝明天皇が存在していればありえない展開だっただけに、

さらに"岩倉具視による暗殺説"を盛り上げることになってしまった。

ニホンオオカミの末裔にてネイル  芳賀博子         

そんな天皇暗殺が囁かれる岩倉だが、

彼にはもう一つ疑いがかかっているものがある。

"天皇すり替え説"だ。

これは、睦仁親王が明治天皇となられる際、

別の者に差し替えられたというもの。

それを示すように即位前とあとで天皇はまるで違う人なのである。

たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており、

顔面には天然痘特有の後遺症があったが、

明治天皇の顔には見られない。

また虚弱体質だったという幼少時代に対し、即位後はといえば、

側近のものを相撲で投げ飛ばしたこともあったという。

さらに「字が下手」「政務に無関心」「乗馬の記録がない」という

睦仁親王に対し、明治天皇は真逆の要素を持っているのである。

出来たての殺意でふんわりしています 太田扶美代

それだは一体誰にすり替えられたのだろうか。

その人の名は南朝の末裔である大室寅之祐

つまり「北朝」系の子孫である睦仁親王に代わり、

「南朝」の大室が即位したということだ。

これにより北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、

天皇にとって逆賊になってしまった。

これが新政府にとって、

江戸幕府勢力を一掃する口実となり戊辰戦争が起きたのである。

岩倉は天皇をすり替えることによって、

旧体制を完全に破壊することに成功した、ということである。

筋書きだったのよ自転車のパンク  森田律子

当時、人々は噂を耳にしては真相を確かめようとしてきた。

しかし、明治に入ると皇室のプライベートやスキャンダルを

公言することは、タブー化されてしまう。

こうして岩倉の疑惑は闇の中に葬られてしまったということである。

                                      「日本史の謎」より

印画紙に浮き出しそうな罪の数  笠嶋恵美子

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名月はまだかと鯉が口あける  森田律子


  銀座の街並み
文明開化の西洋風の建物も多く建てられるようになり、
街並みは西洋風に変わっていった。明治5年の火事がきっかけとなり、
銀座はレンガ造りの街並みへと変貌した。

「文明開化が一歩づつ」

多くの同胞の血を流しつつも、日本は新しい体制に生まれ変わった。

そのきっかけは黒船来航からはじまった「尊皇攘夷」運動である。

その急先鋒だった長州藩は、今や新政府の中枢を占めている。

攘夷を叫んでいたことなどどこ吹く風で、

制度や技術、文化といったさまざまなものが、

一気に西洋化していった。

その一例として「天皇陛下の巡行」が挙げられる。

それまでの歴代天皇は京都御所の中にいて一般の人々とは、

隔絶されていた。

だが維新以降は、西洋風の君主を目指し、各地を巡行して、

存在感を示したのである。

全国各地に明治天皇が滞在したことを記念して碑が立っているのは、

そうした理由からなのだ。

せっかちを長所にしたらどうだろう  立蔵信子            


  明治天皇巡行の絵 (1869年2月20日)
時代は明治となっていたが、この頃は江戸時代と変わらない。
ただ天皇が御所の外へ出ることは、とても珍しい時代であった。

そして矢継ぎ早に制度改革が行われていった。

明治2年には、薩長土肥の4藩主が朝廷に対して、

「版籍奉還」を願い出ている。

これは大久保利通木戸孝允の根回しによるもので、

倒幕の原動力となった藩が領地と人民を進んで朝廷に返上すれば、

他藩も我先に続くことを見越したものであった。

また明治4年には「廃藩置県」が断行され、

藩も武士も姿を消してしまう。

それまでは、藩主がいる小さな集合体で、

それを徳川幕府が統制していたのを、

完全な「中央集権制度」に変えたのである。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

この制度は中央政府の権限が大きくなるため、

さまざまな改革が断行しやすくなる、というメリットがある。

また、生活も凄まじい早さで欧風化していった。

公家は「お歯黒」をやめ、武士から庶民まで「髷」を落とした。

洋服に靴を履いた人も増え、肉食も瞬く間に全国へと広がった。

なァ息子時計の針を進めるな  板野美子


明治天皇の皇后・昭憲皇太后
唐衣装の政争姿だが、眉は剃りおとしていない。

「お歯黒」

明治元年、「男性公卿のお歯黒、作り眉は遵守しなくてもよい」

との令が出され、

明治3年に、太政官布告で華族に「停止令」がだされた。

次いで明治6年に昭憲皇后陛下が率先して、

「お歯黒」、「置き眉」を止めたことで、

一般の女性の間でもお歯黒、置き眉、剃り眉が次第に廃れていった。

それまで、女性は結婚が決まるとお歯黒をし、

子どもができると眉を剃り落とした。

ただ上流では剃った後も正式な場に臨むときは、

眉を置く習わしであった。

千年以上続いた身分立場の機能を兼ねた伝統美に終止符が打たれた。

廃止になった背景には、来日した外国の高官たちの目には、

奇異な風習と映ったことも影響している。

グサリッ自分の眉間に帰るブーメラン くんじろう

親日家であった駐日英国総領事・オールコックは、

「日本は本質的に逆説と変則の国だ。 ……

   上から下へ、右から左へと横文字の代わりに縦文字を書き、

   書物は我々の終わるところから、始まる。

   歯に黒いニスのようなものを塗り直して、

   眉毛をむしりとってしまった時は、あらゆる女性のうちで、

   人工的な醜さの点で、比類のないほど抜きんでている。

   彼女たちの口は、まるで口を開けた墓穴のようだ」

と日本の風習に痛烈な批判を浴びせた。

西洋の大国と肩を並べたい政府は、

お歯黒、置き眉、剃り眉停止策を取ることにしたのである。

飾っても飾ってもアンパンのへそ  桑原伸吉


   木戸孝允
木戸は新政府でいち早く髷を切り落とした。

「ちょんまげ」

明治新政府になって木戸孝允は二つの懸念を抱えていた。

隣の中国がアヘン戦争に敗れて、英国に半植民地化されていること。

そして、一つは「ちょんまげ」であった。

明治4年、木戸孝允は新聞に唄を掲載。

「ジャンギリ頭ヲタタイテミレハ 文明開化ノ音ガスル」である。

つまり、髷を切った髪型にしてこそ、

日本は文明国になれると訴えたのだ。

そして木戸自身も新政府内でいち早く髷を切り落とし模範を示した。

さらに8月には、「断髪令」を制定。

しかし、髷は千年も続いた伝統の髪型であるため、

日本中で大騒動になる。

十日後のはらりはらはら副作用  山本早苗


明治天皇の断髪姿

断髪した頭は女性から大不評で、

日本各地で「断髪離婚」が起こったのだ。

日本中で続発する断髪への抵抗に木戸は頭を抱えた。

悩んだ木戸は、明治天皇に国民の模範になってもらおうと提案した。

それに強行に反発したのが、岩倉具視であった。

昨日と違うわたしを拒む水たまり  柴本ばっは


   海外使節団
岩倉使節団は政府首脳と留学生など107人で構成されていた。

そんな中、西洋文明を学ぶため外国に使節を派遣することになり

岩倉を団長に木戸らは11月12日、サンフランシスコにむけ出発。

12月に到着すると、行く先々で歓迎を受けた。

特に和装に髷の岩倉は、アメリカ人たちの注目の的であった。

それに岩倉は気を良くし、自らの格好に自信を深めた。

しかしアメリカ人の本心は、

岩倉の格好を野蛮なものと見ていたのである。

そうしたアメリカ人の本音を知った岩倉は、衝撃を受けた。

いずれ黄昏になる一対の椅子  山口ろっぱ


   岩倉具視
岩倉のこの奇異な頭がアメリカ人の注目を集めた。

そこで岩倉は髷を切ることを決断した。

日本で岩倉の断髪が伝えられると、公家たちも次々と断髪した。

そして、明治6年3月20日には「明治天皇自らが断髪を宣言」

側近の手でまげが切り落とされた。

新聞で天皇断髪が伝えられると、

ちょんまげを切る動きは全国に広まった。

これ以降にちょんまげを切る動きは、全国に広まった。

街並みは西洋風に変わり銀座はレンガ造りの街並みと変貌し、

また、お歯黒にしろ断髪にしろ、こうして日本人の見た目もまた、

文明開化は一歩づつ前に進んでいくのである。

前髪の色は前世のままにする  井上一筒

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 仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代


  二条窪観音堂

「二条窪(長門三隅)在住時代の素彦と寿」

楫取素彦は明治維新が成ると、中央を去って帰農の志を抱き、

山口県三隅村二条窪の桜楓山荘に妻・寿と棲んだ。
       そうじょう よじん
当時、幕末騒擾の余燼未だ治まらず、

村人に、ややもすれば不穏の空気さえ見られるので、

寿は、この際、自分が信奉する真宗の教えを聞信させることが、

平和への道であると考え、自宅に近く郷のほぼ中心にあたる地を選んで、

小さい堂(観音堂)を建て、毎月二回、男女の集合をはかり、

僧侶を招いて、法座を開くことにした。

寿の法話に聴きいっている村人の姿は、

彼らの心を動かして、やまないものがあった。

これにより村内の気風が一変し、

大いに感化を及ぼしたと伝えられている。

さまよえり あれののはてをちのはてを  大海幸生


楫取 寿

寿は、天保10年(1839)毛利藩士・杉百合之助の二女として生れた。

母のは元来聡明な上に、豊かな教養もあり、早くから仏縁に恵まれ、

真宗の法義を仰信していた。

晩年に、真宗の高徳、島地、大洲、赤松等の諸師の教えを受け、

明治23年、84才で逝去するが、その葬儀に際し、

時の本願寺法主・光尊上人から、

特に使僧が派遣せられ、法名を「実成院釈智覚乗蓮大姉」と諡られ、

"国のためつくしてのみか伝えつる みのりの道はふみもたがえず ”

という歌まで贈られている。

この母の姿を近くにみて、寿は信仰心に目覚めたものと思われる。

また憂国の士・松陰という兄がいたことも、

寿にとっては精神的訓化として影響したことも否めない。

紅葉散るあたりはきっと苦労性  原 洋志                     

二人が住み移った二条窪というところは、

戸数15、6戸という山あいの農林業の集落で藩政時代には、

遠く於福村から大ケ峠、渋木の坂水の峠を越えて二条窪から、

川下約3キロの豊原の舟戸まで年貢米などを運ぶ街道筋であった。

素彦と寿が、その二条窪に居を構えたのは、維新がなり、

明治に改元されて間もない頃(明治4年)、寿三十才前後の頃である。

それより、素彦が熊谷県(後の群馬県)の県令に任ぜられ、

同伴赴任するまで、数年間、この地に居住し、

清く美しく法味愛楽の日々を送ったと伝えられる。

仏飯と丸い会話をして生きる  岩根彰子


極楽寺に残っている寿自筆の書
野波瀬極楽寺 第17代住職・蒙照に贈ったとされる。

寿が極楽寺に送った自筆の書き物(楮紙一枚に和歌が四首)が残る。

包装紙の表面には

  のばせ
             極楽寺様      楫取

とあり、寿が二條窪時代に、住職・蒙照に贈ったものとされる。

筆跡は極めて女らしく、

しかも達筆で、女史の教養と人柄を想像させる。

その四首の和歌は、何れも彼女の自作ではなく、

読書や聴聞の上で自分が感動したものを抜萃し書き残したもの。

木綿の風呂敷にトキメキを包む  雨森茂喜

〔旗本一柳とよ姫の辞世に〕

"いざさらば浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に今日やつくらん"

〔同行の口すさみに〕

"かんしゃくは持って生れし鈴の玉 あたりさわりになるぞかなしき"

"その中に他力の信の玉入れて またなりもどる弥陀の称名"

(この二首は『妙好人伝』「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」)

 〔女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは古歌に〕

"雨露にたたかれてこそ紅葉ばの にしきをかざる秋となりけり"

何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花         


       桜楓山荘跡地と案内板

「楫取素彦のこと」

楫取素彦の明治3年の時点では、三田尻管掌として三田尻在住。

明治4年正月7日には,勅使・岩倉具視山口下向に付引請掛の任。

3月28日敬親公薨去。

そして葬儀に当っては、

4月28日、勅使・堀河侍従山口下向に付引請掛を命じらるなど、

多事多用であわただしく、それを最後の大役として勤めた後、

新政府には参加せず、引退し、二条窪に移り住んでいる。

言い訳もせずにあんたは千切れ雲  美馬りゅうこ

素彦が二条窪に居住を構えると、間もなく荒地を開墾して、

村人に、不毛の地を食田に変え、

山林大火のあとへ植林することを教えた。

自ら百姓姿となって村人の間に混り、

率先開墾の鍬を揮いあるいは木を植えた。

少なかった採草場は自ら官に乞うて、

隣村深く入会権を獲得して与えるなど、

大いに村民の利益を増進した。

翌5年2月、足柄県参事(副知事職)に任命されて赴任するまでが、

二条窪隠棲の日々であった。

ほんものはハートに届くホーホケキョ  新家完司

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