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川柳的逍遥 人の世の一家言
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隙間の件でよせてもろてもいいですか 竹内ゆみこ


天正壬午の乱勢力図  (画像は拡大してご覧ください)

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長の死を千載一遇の好機とみて、

上杉景勝、北条氏政、氏直父子、さらに徳川家康が甲信・上野などの
     さんだつ
旧武田領簒奪に向けて動き始めた。

「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の始まりで、

信濃・上野に拠点を持つ真田氏は、大大名たちの侵攻に直面する。

こうした混乱の中で真田昌幸は、自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名たちを次々に手玉にとって、独立大名として生き残っていく。

それはまさに神業だった。

煽てたら行進曲になりました  美馬りゅうこ  


   岩 櫃 城


「天正壬午の乱ー概略」

『天正10年6月末~7月中旬』

上野を領する滝川一益は北条氏に追われた。

滝川に帰属していた真田昌幸は沼田城・岩櫃城を取り戻す。

沼田・吾妻領を固めた昌幸は、北信濃を窺う上杉に従属するが、

7月中旬に北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う

善人の貌へ修正液こぼす  笠嶋恵美子

矛先を変え、碓氷峠を越えて信濃に入った北条軍2万は、

川中島まで進み、
海津城に入っていた上杉景勝軍8千と対峙。

しかし海津城の内通工作に失敗した北条氏直は、

徳川家康が進出中の甲斐に転進する。

昌幸は上杉への備えを主張して、小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて、自然な形で北条と距離を置いたのである。

この辺で飛んでみなはれ運だめし  前中知栄

『7月下旬~10月末』

甲斐に入った北条氏直は、若神子城に拠り、新府城の家康と対峙。

一方、北条軍別働隊が御坂城に入り、家康の腹背を衝く構えを見せた。
                   きか
劣勢の家康は、昌幸の存在を奇貨として陣営に誘うと、昌幸はこれを受けて、

沼田城・岩櫃城に固執する氏直を見限って、10月下旬に手切れを通告。

徳川に与する。

氏直は昌幸を牽制すべく、配下に岩櫃城攻撃を命じるが、
    よだ のぶしげ
昌幸は依田信蕃とともに碓氷峠を占領。

北条軍の補給路と人馬の往来を遮断した。

氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となった氏直は、信濃から撤退、

同時に家康と和解し、
徳川・北条同盟が結ばれる。

指切りの指落ちつかず長い夜  藤原邦栄

『閏12月~天正12年6月』

巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は、昌幸の掌の上で転がされているに過ぎなかった。

北条が信濃より去ると、昌幸は小県を完全掌握するとともに、

家康に上杉の脅威を訴え、

徳川の支援を得て尼ヶ淵に新城を築く。


上田城であった。

押さえられなくて踊っているハミング  畑 照代


 尼ヶ淵から見た上田城

ところが問題が起きる。

家康が北条との和睦を結ぶ際に、

家康は真田の沼田・吾妻領の北条への引渡しを条件にしていた。

しかし、昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく、天正12年6月、

信濃の国衆・室賀正武を使って暗殺を画策するが失敗し、

真田と徳川の関係は悪化する。

昌幸は家康との断交を視野に、

新たな帰属先に選んだのが上杉景勝であった。

つついてもつついても沈まない箱  森田律子

『天正13年7月』

天正13年4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、

「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。

    自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか」

と大見得を切って見せた。

言うまでもなくその背景には、上杉という「保障」がある。

徳川と決裂した昌幸は正式に、上杉への帰属を申し入れ、

7月15日に寝返りが決定する。

景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保障し、

大幅な加増も約束していた。

昌幸側からは、二男の信繁が人質に出され、

閏8月2日、「第一次上田合戦」が始まる。

犬の小便ごときに負けぬタンポポ  雨森茂喜

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