臍の緒が鼠の餌になっていた 新家完司
丙辰丸
「高杉晋作・上海へ」
文久元年
(1861)晋作は藩保有の軍艦・
『丙辰丸』に乗船する。
丙辰丸は、長州藩が
「黒船来航」を受けて建造した
初の西洋式軍艦であり、
軍艦として特筆する性能はあまり持っていなかったが、
新生長州海軍の象徴的な船であった。
晋作はこれに乗り、
「海軍修練」と称して各地へ出向。
翌文久2年4月16日に、長崎から大陸の海都・上海へと渡る。
水仙の第一球を蹴り上げた 岩根彰子
晋作は上海で2か月滞在し、
そこで目にした光景に彼は愕然としてしまう。
かつての大国・清国が
「太平天国の乱」や
「アヘン戦争」の
余波で衰退し、欧米列強によって植民地化されつつある
という厳しい現実だった。
「このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまう」
と晋作は強い危機感を抱くとともに、
攘夷より開国への転換の必要性を思った。
一方、晋作が大陸へ渡航している間に、
長州藩では政変が起こっており、
桂小五郎や伊藤俊輔ら尊皇攘夷思想に基づく
「倒幕派」が台頭した。
同年、帰国した晋作も旧態依然とした幕府への強い危機感から、
この一連の倒幕運動に積極的に参加していく事になる。
(この上海で晋作は土産として、リボルバー拳銃を二丁購入している。
うち、一丁は坂本竜馬に贈られる)
てのひらに貧乏線が太く見え 古野つとむ
晋作が上海出航直前に叔父・長沼聡次郎へあてた書簡。
書簡は、渡航2週間前に長崎で書かれた。
攘夷派の中心人物だったにもかかわらず、
アジアにおける西洋の窓口だった上海へ赴くことへの心情を
率直に吐露している。
「藩主から大任を受けているのだから、自分を批判する
風評や伝聞くらいのことでは動じることはない」
「風評がかなり多いが、列強の形勢は私であればこそ探索できる」
など、同志たちからの反発を感じながらも
使命感にあふれた言葉が並ぶ。
幕府の一員として、
外国へ行くことへの風当たりが強かったとされていたが、
本人の言葉でその事情が裏付けられたのは初めて。
梟が言うの嫌われたっていいじゃない 吉岡とみえ
読売新聞が報じる高杉渡航前の手紙
「外国人との接触は得ることが少なくない」
と叔父に伝え、長崎をたった晋作は、
上海で欧米列強による中国の半植民地化を目の当たりにし、
日本の将来への危機感を高めて7月に帰国。
以来、伊藤博文が
「動けば雷電の如(ごと)く、発すれば風雨の如し」
と評した行動力を発揮する。
うめたに
近現代史の
梅渓昇・阪大名誉教授は、この手紙を
「生々しい言葉で本音が書かれた貴重な史料で、この史料から
晋作が尊皇攘夷を振りかざすだけの並の志士より
一歩抜き出た先見性のある人物であることが分かる」
と評している。
追伸にタバスコ開封に注意 小谷小雪
「晋作の名言」
『まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい』
『どんな事でも周到に考えぬいた末に行動し、困らぬようにしておく』
『それでもなおかつ窮地におちた場所でも「こまった」とはいわない』
『困ったといった途端、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう』
尖って生きても影は丸くなる 原 洋志
アヘンに浸る民
【豆辞典】-「アヘン戦争」
18世紀、清との交易を進めるイギリスは、
大量の茶や絹、陶磁器などを清から輸入したが、
輸出品が少なく、大幅な貿易赤字を出していた。
そこで、すでに植民地としていたインドで生産されるアヘンを
輸出するようになる。
アヘンには強い常習性があるため、清ではアヘンの吸引者が急増。
国民の健康は蝕まれ、風紀も悪化して国力が低下した。
また、兵士にもアヘンが蔓延して、
地方で頻発し始めた反乱鎮圧に、苦慮するようにもなった。
からまった糸蒟蒻になじられる 野口 裕
さらに、清は輸入の決済に銀を使っていたため、
国内の銀の保有量が激減し、銀が高騰、貿易収支も赤字に転落した。
清は苦境を脱するため、
アヘン販売者は死罪という厳しい法律を作り、
イギリスとアメリカの貿易商が持ち込んだアヘンを没収して、
広州の海辺で焼却した。
これに怒ったイギリスは、艦隊を派遣して清を攻撃した。
1840年・
「アヘン戦争」の始まりである。
圧倒的に戦力の優位なイギリス艦隊は清軍を殲滅し、
1842年、
「南京条約」が結ばれて、
香港の割譲、広東や上海の開港などが定められた。
国民が怖さを知らぬ怖い国 ふじのひろし
アヘン戦争の顛末は日本にも伝えられ、
幕府や朝廷、諸藩に大きな衝撃を与えた。
幕府は異国船への対応姿勢を改め、
「異国船打払令」に代わって
「薪水給与令」を出し、
外国船に燃料や水、食料の供給を認めることとした。
諸藩も欧米列強への備えを模索し始める。
脱皮して警戒心がつく鱗 竹内いそこ[5回]