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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ヒトが好き不思議な人もいるようだ  日野 愿


  楫取素彦生地

「楫取素彦と改名して」

慶応3年(1867)9月、小田村伊之助は藩命により楫取素彦と改名し、

奥番頭職に就任した。

奥番頭は藩主に最も近接して勤務する役で、

幕府や他藩では専ら「側用人」と称し、

特に藩主の信頼がないと勤まらない役職で、

藩主・敬親がいかに楫取を重用したかを示す役職でもある。

青竹の節の一つになっている  西美和子

側近の立場でどれだけ楫取が多忙を極めたかは、かくの通り、

同年11月、三たび大宰府を訪ね、

折り返し帰藩すると諸隊参謀として西宮に着陣し、

12月には諸兵を率いて入京している。

慶応4年正月3日から5日にかけて、

京都南部の鳥羽伏見を舞台に薩長を中心とする官軍と、

大坂から攻め上った会津・桑名両藩を中心とする幕府軍が衝突して

「鳥羽伏見の戦い」が始まったからである。

深呼吸風に任せて散るつもり  岡内知香

そこでは楫取は藩を代表して禁中に勤務し、木戸孝允、広沢真臣、
                  ちょうし
井上馨、伊藤博文と共に「徴士参与職」に任命される。

しかし藩は、敬親の信任篤い楫取を国へ出向させることを認めず、

2月には、楫取の徴士参与職を辞して奥番頭に復帰させ、

敬親公の駕に従って帰国の途につく。

今や楫取は、藩主・敬親にとっては無くてはならない

側近中の側近として存在し、いわば藩主の分身ともなっていた。

神様が手頃なヒトと添わせたの  田口和代

 
  楫取素彦

明治元年(1868)から翌年にかけての戊辰戦争が終結し、

国内に漸く平穏な日々が戻ったと思われた明治2年12月1日、

山口藩の脱隊兵約2千人が防府宮市に屯集し「藩の兵制改編反対」 

「除隊者の生活保護」等を藩に要求する騒動が起きる。

それを収めるのは、楫取ら人望のある人物の役割だった。

藩政府は防府の勝坂口や小郡の柳井田に関門を築き、

防備の準備を整えると共に、世子・元徳までが出て脱隊兵の

説得にあたったが不成功に終わる。

その後も脱隊兵の暴徒化は止まず、山口の藩公館を取り巻き、

遂には公館内に乱入し、過激さは日増しにエスカレートしていく。

どちらにも言い分がある火と炎  嶋沢喜八郎

楫取や吉田右一、高杉小忠太、野村素助、木戸孝充らが考える

どの収拾策も効果なく、最終的に藩の正規軍に頼り、

武力鎮圧によって収め、多くの処分者を出す結果となった。

明治3年2月、楫取は根役の奥番頭を兼ねて、

山口藩の権大参事(県副知事に相当)に就任するも、

3月には、脱隊騒動兵への説得が不成功に終わり、

多くの処罰者を出したことの責任をとって、

藩の政府員は総辞職することとなり楫取も権大参事の要職を離れる。

ただ不穏な空気が燻ぶっており三田尻管掌の役職は引き続き努めた。
下関戦争の後、イギリスのキング提督と会談に臨んだ毛利敬親
とある日の日記に挟むアスピリン  青砥和子


下関戦争の後、イギリスのキング提督と会談に臨んだ毛利敬親。
右は世氏・元徳。この後征長軍との講和条件に従い、
萩城外で蟄居する。

        よじん                      までのこうじ
戊辰戦争の余燼くすぶる明治2年2月、勅使・万里小路

明治天皇の勅命を帯びて山口に下向した際には引受用掛を努め、

その勅命に促されて、上京する敬親公に付随して京都に上り、

宮中に参内している。

勅命の内容は、敬親に状況を促し、

「新政府内で天皇を補佐せよ」

というものであった。

二重マル的になるよう付けられる  斉尾くにこ

ところが当時、敬親は体調が思わしくなく、

誕生間もない新政府の激務をこなすだけの体力がなくなっており、

お断りをするために上京したのであった。

その6月、参内して龍顔(明治天皇)を拝した敬親は、

弱冠16歳の天皇から、

「内外大難を凌ぎ鞠窮尽力し、終に朝廷をして今日有るに至らしむ、

   偏に汝至誠の致す処、感喜述るに辞なし」

(内外の大難をしのぎ、朝廷の今日を築いたのは、

   汝のおかげであるとよろこんでいる)
  ゆうしょう
との優詔を賜っている。

優詔を賜った裏には、「敬親公の懐刀」楫取素彦の働きがあった。

水遁の術阿寒湖の底にいる  井上一筒

明治4年3月、敬親は逝去する。

楫取の手廻組としての勤務中は勿論、

側近として仕えた藩主の逝去に

楫取の心中には大きな空洞が開いたに違いない。

敬親については、人は、「公は人を見る目があった」

と称しているが、正に楫取を重用し、

十二分に活躍の場を与えたのは敬親その人であった。

その藩主・敬親の逝去による支柱を失ったこともあって、

明治4年、楫取は「廃藩置県」が断行されると、

家族とともに大津郡三隅村に隠棲することになる。

まだともうなだめておだやかに生きる  三村一子

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