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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さらば婆沙羅太平記のシミである  山口ろっぱ


廃藩置県の詔書を読む三条実美 (各画像は拡大してご覧下さい)

「明治新政府の改革」

江戸幕府を倒し、新たな中央政権となった明治政府だが、

解決すべき問題は山積みしていた。

最大の課題は、

旧体制である全国に残った各藩をどう処理するかであった。

幕府なきあとも地方では、諸藩による統治がそのまま続いていたのだ。

そこで新政府は、まず手始めとして「版籍奉還」を実行した。

全国の藩主に、土地と人民を天皇に返還するように求めたのだ。

シーソーの反対側に乗る夕陽  蟹口和枝

 
        版籍奉還建議書案


こうして明治2年(1869)薩摩、長州、土佐、肥前の四藩主が連名で、

上奏文を提出し、他の藩主たちがそれならという形で、

「版籍奉還」が実行された。

そして旧藩主は、明治天皇から知藩事(藩知事)に任命されたものの、

領主としての権限を失うことになった。

それにしても、なぜ各藩主たちは、

易々と「版籍奉還」に応じたのだろうか。.

それは全国の藩主の多くが、長年の赤字財政や戊辰戦争の出費などで、

大きな負債を背負っていたからだ。

版籍奉還に応じることで、政府が負債を肩代わりしてくれれば、

各藩の藩主たちにとって、それほど悪い話ではなかったのである。

浮いてから沈むか沈んでから浮くか  笠原道子


      断髪風景
明治4年8月9日、断髪脱刀勝手令の法令が出された。
それを囃して作られたのがこの歌である。

「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。
    総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。
    散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

次に政府は藩そのものを廃止する「廃藩置県」に踏み切る。

明治4年、政府は薩摩・長州・土佐の軍隊1万人を東京に集結させて、

そこに全国の藩知事(元大名)やたちを集め、

藩をなくして県を置くことに同意させたのである。

こうして、全国261の藩は廃止され、

知事には中央政府の役人が任命されることになった。

まず3府302県が生まれ、

その年の末までに3府72県に整理された。

その際、県の呼び名は、戊辰戦争で政府側についたか、

幕府側についたかによって、決め方が変えられたといわれる。

この風は森を通ってきましたね  笠嶋恵美子


廃刀令にもかかわらず帯刀して注意を受ける武士

たとえば、官軍だった藩は、長州藩が山口県、土佐藩が高知県、

薩摩藩が鹿児島県と藩庁があった所在地名がそのまま県名になった。

それに対し、幕府側だった会津藩は、城下の若松ではなく、

中心から離れた町から名前をとって福島県となっている。

ほかにも、官軍か幕府軍か、

どちらにつこうか迷っていた加賀藩に対しても、

城下町がある金沢ではなく、

小さな地域名であった石川が県名に選ばれている。

生まれた順を輪ゴムで留めている  墨作二郎


その他、男女混浴などの禁止令など

こうして新政府をおびやかす地方勢力は消失し、

にわかに中央集権が確立。

知藩事や公卿は華族として、わずかながら優遇されている。

その後、明治政府は徴兵制度(明治3年)をしいて直属軍を創設し、

市民平等・秩禄処分(明治4年)

廃刀令(明治9年)によって武士を解体、

ほかにも、平民に苗字使用を許可(明治3年)

明治4年には、散髪脱刀の自由を許可

華士族、平民相互の通婚許可
え た
穢多非人の称廃止などの改革を実行。

そして税制も全国画一的な地租(明治6年)に改め、

明治10年代には、強力な中央集権国家をつくり終えたのである。

(ただし娼妓の年季奉公廃止令(明治5年)昭和31年まで存続した)

ほらごらん桃はもうすぐ点ります  河村啓子

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