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川柳的逍遥 人の世の一家言
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日の丸が揺れたからとてめし茶碗  壷内半酔



 本能寺ー光秀の急襲

「信長・本能寺に斃れる」

天正10年(1582)6月2日未明、信長に命じられ、

一足先に中国戦線へ赴くはずだった光秀の軍が、

京の本能寺を急襲した。

世に言う「本能寺の変」である。

わずかな供回りしか連れていなかった信長は、

当初は自ら弓や槍を持って奮戦したが、

やがて居間に戻ると、自ら館に火を放ち自刃した。

妙覚寺に滞在していた嫡男の信忠は、

防戦のために、二条御所に移った。

だが、「衆寡敵せず」で、信忠も自刃して果てた。

※ 衆寡敵せず=少人数では、多人数にとても勝てない。

持逃げされた向日葵の首一つ  井上一筒


 本能寺信長(国芳絵)

この知らせが秀吉の元に届いたのは、翌3日の夜であった。

光秀の密使が秀吉の陣迷い込んだとも、

京にいた信長の茶道相手である長谷川宗仁が、

いち早く、秀吉に知らせたとも言われている。

いずれにしても、

京での変事を毛利よりも早く知ることができたのは、

まさに天運というべきだろう。

ただし、この一報に触れた秀吉は激しく動揺し、取り乱した。

主君・信長が明智光秀に討たれたことも衝撃だが、

同時に、織田の援軍10万はなくなり、

もし毛利方がこの事実を知れば、

和睦どころか攻勢に転じる可能性さえある。

秀吉はまさに絶体絶命の淵に立たされたのである。

梟の目など信じたけれど夢  山本早苗



衝撃と困惑­­­ー当然、この事実を知った官兵衛もそれに襲われた。

しかし、有岡城で死地を切り抜けて来ただけに

「肝」は据わっていた。

最も大事なことは、

取り乱している秀吉を落ち着かせること、

人間とはいかなる生き物かを、

その体験から誰よりも知っている官兵衛は、

秀吉の耳元で信じられない言葉を囁いた。
                      まま
「さても天のご加護を得させ給い、もはや御心の儘なりたり」

" 殿には武将としての御武運が巡ってきました。

   ここを切り抜けた後に待っている大事に、懸けようではありませんか、

 信長が殺されたことを「奇貨」とし、

  あるいは「ポスト信長」の一番手となって、

  この後に対処したらどうか・・・"

というのである。

※ 奇貨=利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会。

ほぐされってジキルとハイド入れ替わる  早泉早人


           しお
このひと言で、萎れていた秀吉の心に「希望」が甦った。

さらに、官兵衛の言葉は、

本能寺の変で、絶望の淵に追い詰められた秀吉軍の将兵にも、

「この死地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」

という、夢を与えることにもなあった。

官兵衛は秀吉の命を受けて恵瓊を呼び、和睦を急いだ。

信長の横死を恵瓊に知られず、

        かつ、拙速ではない和睦が求められた。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子

「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」

これが、官兵衛の瀬戸際外交の骨子であった。

そして、信長の死の二日後の6月4日、

正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。

官兵衛の和平交渉が実を結んだのだった。

あとは上方に向けて大軍を移動するだけだ。
         しんがり
官兵衛は自ら殿軍を申し出て、

毛利勢が前線を引くのを確認してから、堤防を切り落とした。

戦国史上に名高い『中国大返し』と呼ばれる秀吉軍の

大移動が開始されたのは、6月6日のことだった。

生き死にの話はご飯食べてから  谷口 義

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跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ



 新史料「長宗我部元親、恭順の書状」発見を伝える6/23日の新聞

「本能寺の変・光秀の真実」

「本能寺の変」の原因に、織田信長が四国の当地方針を変え、

面目を潰された明智光秀が謀反を起こしたとする「四国説」がある。

その説の空白を少し埋める「書状」が、
           いしがい
林原美術館が所蔵する「石谷家文書」から発見され、

歴史学者ら関係者が驚きに湧いている。
        ちょうそかべもとちか
四国の雄・長宗我部元親が光秀の重臣・斉藤利三宛に記した文書で

日付は5月21日、「本能寺の変」の10日前である。

※「石谷家文書」は美濃国の武将・石谷光政、頼辰父子の書状などで構成され、

  天正年間を中心とした3巻47通

皮剥いた玉ねぎとして朝が来る  みつ木もも花



長宗我部元親が斉藤利三に宛てた書状

信長に従う旨が記されている。

左下元親の花押と「5月21日」「利三」の文字がみえる。

当時の長宗我部元親は四国統一の途上。 

ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから、

信長は、当初の友好関係を転換し、

長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

今回発見されたうち、

6月2日の変の約5ヶ月前にあたる1月11日書状では、

利三が元親に

「要求に従うのが長宗我部のためになるし、光秀も努力している」 

と助言をしている。 

これに対し、元親は5月21日付で、

「長宗我部のために働いてくれてありがたい。

  信長殿の朱印状へ返答をいままで延ばしたのは申し訳ない。

  一宮城はじめ阿波国の諸城からは命令通り退いたことを、

  信長殿に伝えて欲しい」

と返答。

カピパラが揃って西を向く答え  酒井かがり

続いて元親は、

  「しかし中心部の城は撤去するが、

  土佐に近い南部の海部城と西部の大西城の両城は手放したくない。

  長年にわたって尽くしてきたのにこうなって残念で、納得いかない。

  戦争をしたいのではない。

  何とかならないか。委細は頼辰に聞いてほしい」

と切々と訴えている。

信長の命に従うことで、衝突を避けようとしていたことが分る。

しかし、元親が譲歩したといっても、

信長は阿波を取り上げる方針を決めており、

利三としては、とても報告できる内容ではなかった。

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子 

               
      もうしつぎ
信長は元親との申次(交渉役)を光秀に任せていた。

元親の妻が光秀の重臣・斉藤利三の妹という縁もあり、

効果的と考えてのことだったのだろう。

光秀は、この付託によく応え、元親との交渉ルートを確保していた。

織田と長宗我部の融和、

さらには、長宗我部の帰順までを視野に入れていた。

ところが信長は、急に方針を転換してきたのだ。

自分の家臣に与えるために、新しい領地が欲しくなったのだろう。

信長は、融和ではなく武力衝突、

問答無用の四国討伐に着手したのである。

おしるしに月をスライスして渡す  赤松螢子               

そして6月2日、四国攻めは信長の三男・信孝を総大将に、

大坂住吉から出陣することとなった。

長年、長宗我部との申次ぎにあたってきた光秀は、

面目を踏みにじられられ、
                    くだ
また長宗我部が織田の軍門に降ってきたときに、

得られるはずだった莫大な武功も、水泡に帰してしまう。

これに遺恨を抱いた光秀は、「四国攻めを何とか阻止してほしい」

という元親の必死の願いとあいまって。

それらが謀反に突き動かしたのではないかといわれるのである。

心頭を滅却しても火は熱い  筒井祥文

石谷家文書に対する「渡部裕明氏の見解」

『光秀はなぜ、信長を襲ったのか。

「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所持地論争と並んで、

日本史最大の謎とされている。

さまざまな説が出されてきたが、

今回の「石谷家文書」は謎解きの大発見といえる。

変を考える主な史料は、「信長公記」のほか、

関係者の間で交わされた書簡や当時の公家の日記、

さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。

編纂物は面白いのだが、

光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や、

領国を取り上げられた話など、

後世に作り上げられたフィクションが多い。

その点、「石谷家文書」は、変の直近の史料であること、

しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斉藤利三と、

四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。

書状からは、信長の四国政策の突然の方針変更に対する長宗我部側の、

率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる』 

どのイスもいつでも被告席 以上  むさし

 信長の光秀いじめ

「その他、本能寺の変の諸説」

「野望説」
室町後期から戦国時代の通年は「下克上」である。
強いものが正義。
いざとなれば主人も家来もなく、裏切りですら恥ではない。
天下をとろうとの「野望」を光秀が持ったとしても、何の不思議はない。

「怨恨説」・「いじめ説」・「将来悲観説」
 怨恨説は光秀が信長を恨んでいたというもの。
よく知られたところで、母親が殺されたというのがある。

 型破りな信長と実直な光秀は相性があわない。
光秀の顔を見るだけでムカムカした信長は、
家臣の居並ぶ前で恥をかかせたりといじめを繰り返した。
このいじめに加担したのが森蘭丸といわれている。

 秀吉のようにおべっかを使えない光秀は、
日本統一事業が完成した後のことを思うと、
いずれ自分は佐久間信盛のように追放されるだろうと考えたのである。

「黒幕説」
光秀の単独犯ではなく、背後に黒幕がいたとの考え。
① 足利義明 ② 朝廷説 ③ 秀吉説 などが黒幕にあげられている。

『四国説』
上に述べた通り。

まっすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子


赤松乃城水責乃図 (歌川国芳)

「運命の交渉」
    かわずがはな
本陣を蛙ヶ鼻に移していた秀吉が、手を叩いて喜んだ。

するとその5日後は激しい雨が降り出して、

渦を巻きながら奔流が城に向かって流れ出した。

すぐに高松城は孤立無援の存在となってしまった。

高松城の窮状を知った毛利方は、

吉川元春小早川隆景が先鋒として出陣。

吉川元春は岩崎山、小早川隆景は日差山に布陣。

総帥の毛利輝元も大軍を率いて、猿掛城まで進軍してきた。

ようやく毛利勢4万が備中に到着したものの、

この惨状には打つ手がない。

しかも秀吉は関船を川にいれて、船から城を砲撃した。

城兵の士気を下げるためだ。

食糧も水補給できない上に砲撃である。

毛利方はついに、和睦しか考えられない状況に追い込まれた。

雨を描く恵みの雨になるように  籠島恵子

そんな中、毛利側は策を講じた。

もともと先代の毛利元就は統括した中国地方だけを安泰にし、

天下統一を狙わぬと標榜、遺言としても残した。

水浸しにされた城内に留まっていれば、

次々と織田方の援軍が来るであろう。

考えあぐねた結果、毛利側は外交僧の安国寺恵瓊を通じて、

「講和交渉」を提案することと決めた。

秀吉側の交渉人は官兵衛である。

官兵衛は難敵武田氏を打ち破り、勢いに乗る信長の援軍が

次々とこの地に赴くことを匂わせながら交渉を進めた。

人生はうさぎとかめのシャレコウベ  柴田園江

       

蛙ヶ鼻の2築堤跡      首塚      胴塚

(堤は基部20m、頂上部6m、高さ7m)
(本丸跡にある宗治の首塚と
 首のない胴体は切腹をした小船に乗りそのまま本丸に流れついた)

官兵衛は先ず二つの条件を毛利側に提示した。

一つは、

「城主・清水宗治以下、城兵の命を助けてくれるならば、

    毛利十カ国のうち五カ国を割譲する」 こと。

又一つは、

「城兵の命は助けるとしても城主の宗治の責任は問わねばならぬ」

ことだった。

しかし、恵瓊もそう簡単には条件を飲まない。

少しでも官兵衛が提示する条件を緩和すべく、

交渉は幾度となく回を重ねた。

秀吉もこの条件を一歩も譲歩つもりのないことが、

言葉の節々から伝わってくる。

薬師如来の駆け出しそうな裾裁き  岩根彰子

官兵衛は、「秀吉は決戦を先に延ばそうとしている」

と感じていた。

籠城している味方を助けるために、

後詰めにやってきた本隊と決戦に持ち込むのが、

いわば、この時代の戦いのセオリーであった。

高松城が湖上に孤立し、毛利本隊が後詰めに来たことで、

条件はすべて揃った。

にもかかわらず、秀吉は積極的に動かない。

それどころか毛利方が仕掛けてくることも、歓迎していなかった。

順風満帆夢をみているのだろうか  柏原夕胡

かっては信長など足下にも及ばないほどの大勢力を誇っていた、

毛利氏を、自分ひとりの力で屈服させてしまうと、

必ず主君から疎まれるし、

そうでなくても、同僚の反感を買う。

秀吉はそう考えていた。

そこで攻略の手はずを9割方済ましたうえで、

仕上げは信長の手で行う。

そうした算段で秀吉は、信長に出馬を願ったのだ。

そのため、決着は信長着陣以降でなければならない。

満潮の時も鼻だけ沈めない  寺川弘一



           安土城

その信長は3月に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしたことで、

「安土城」家康を招いて長年の老をねぎらっていた。

秀吉から出馬の要請が届いたとき、

信長は、

「はげ鼠も、存外頼りにならぬものよ」と、

周囲の者に上機嫌で話していたという。

ともあれ、信長自身の出馬は決まったが、

それに先駆けて、明智光秀を秀吉の元に派遣することにした。

そんなことで、両者の主張は食い違い和議成立に至らぬまま、

運命の6月2日深夜がやってくる。

手のひらで遊ばせている天道虫  河村啓子

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まっ先に鳥のまぶたにふれる夜  八上桐子



         高松城跡公園

高松城の跡地に作られた自然公園。

周辺に見える青々とした風景は水攻めにより全て水没した。

「高松城の運命」

天正10年(1582)4月、

秀吉と官兵衛は5千の兵が籠もる「高松城」を前にした。

秀吉は本陣を高松城が見下ろせる龍王山に敷いた。

高松城は土塁によって築かれた平城である。

しかし、「何と、ここは湿地帯ではないか」 

秀吉は嘆息して続けた。

「周囲を田が囲み、沼や池も多い。

  まるで天然の堀だ。 しかも足守川が城を守る。

  いかに平城でもこれでは容易に落とせまい」

なおかつ大手門の道は一本で、

騎馬が一騎駆け抜けられるほどの狭さである。

攻撃側にすれば、城から鉄砲で狙われやすく、

湿地帯に入り込めば、動けなくなるなど様々なリスクがあった。

秀吉は力攻めを試みたが、攻め立てた宇喜多勢が犠牲になった。

洞穴の中にあったよ登山道  関 よしみ

官兵衛も秀吉同様の印象を持っていた。

しかし、時間を無駄にする訳にはいかない。

ぐずぐずすれば、毛利の援軍4万が来るのは明白だったからだ。

焦る秀吉、官兵衛はそんな主君にある策を進言した。

「兵は詭道なりと申します。

   この低湿地と足守川を逆手にとりましょう。

   高松城が誇る難攻不落の鍵を逆利用するのです」

水攻め・・・である。

秀吉には、その策がすぐに理解できた。

「奇策だが、面白い。だがどうやって城を水没させるつもりじゃ」

季節はちょうど梅雨時

官兵衛の計算では、この策は成功するはずであった。

失敗の末に卵が立っている  松本としこ



蛙ヶ鼻の築堤跡を深く掘り起こした土地断面 

手前は当時の土留め杭 

そのむこうにある穴が当時の堰き止め土俵跡、そばに当時の骨があった。

官兵衛は心の中で呟いた。

 ―窮地に置かれているのは、毛利とて同じこと―

必ず水攻めは成功する。

戦わずして落城させる、これが双方最善の策なのだ。

そこで官兵衛は、周辺に住む者たちを大量に雇い入れ、

また兵には刀槍を土木用具に持ち替えさせて、

堤防作りをさせた。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

堤は高松城の周囲に高さ7メートル、

底の部分で21メートル、

流れの部分10メートルという幅を持ち、

総延長は、約3キロにも及ぶ。

工事は5月8日に始まり、

わずか12日で完成させてしまったのである。

そしてすぐさま足守川を堰き止めて、流れを堤防に誘った。

堰き止めるためには、

いくつもの大船に大小の石を積み込んで沈めるという方法を取った。

階段が「かかって来い!」と聳え立つ  新家完司


    清水宗治

「清水宗治」

清水宗治、天文6年(1537)備中・清水村に誕生。幼名は才太郎。

備中の清水城城主として高松城主・石川久孝の娘を娶り、

その幕下に属した。

久孝没後、嗣子も相ついで没し、

幕下の重臣たちの跡目争いに勝利し、高松城城主に収まった。

そのころ備中には、西の毛利、東の織田、二勢力が圧迫してきた、

が、宗治は毛利方・小早川隆景に属する道を選択した。

毛利氏の家臣となって以後は隆景の配下として、

毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、

隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃

宗治着用の甲冑(古風なデザインが宗治らしさを表している)

天正10年4月、秀吉による高松城攻撃の直前、信長の命を受け、

秀吉は調略の使者として蜂須賀家政と官兵衛を城に向かわせた。

備中・備後2カ国を与えることを条件に「味方になれ」と誘ったが、

宗治はその誘いを断わり、使者が帰ったあと、

信長からの誓詞をそのまま、輝元のもとに届けたという。

宗治の義理堅い一面である。

結果、秀吉は官兵衛の脚本に沿って、高松城水没作戦を決行。

身動きが取れなくなった高松城の命運が尽きてきたとき、

官兵衛安国寺恵瓊との間で、和議の話し合いが持たれた。

水掛論きっと下着は濡れている  皆本 雅



  宗治自刃の図

明治時代に発行された太閤記に描かれている宗治の最期。
秀吉が差し入れしてくれた酒で喉を潤し、
船の上で舞を舞った後に切腹した。


二つあった条件の、一つは、「宗治の切腹」である。

宗治は毛利としては、絶対失いたくない武将である。

毛利は手離さないだろうと読んだ秀吉が難題をなげつけた。

いわゆる結論をだらだら長引かせ、

大将・信長の備中到着を待ち、

締めくくりは殿がという考えである。

しかし、そんなところへ思いがけない「本能寺事件」が舞い込む。

信長悲報を聞いた秀吉は取り乱した。

しかし、官兵衛に促され考えをあらためて秀吉は、

信長の死を秘匿したまま、宗治の切腹を急かせた。

泣いてなんかいません葱がしみただけ  藤本鈴菜



宗治辞世の碑

そして、切腹の日、宗治は戦時に乱れた髪をピッチリと整え、

水上に舟を漕ぎ出し、船上でひとさし舞った。

その後に切腹の儀式に入った。

秀吉は、明智光秀がいる京へ一刻も早く戻りたいところであったが、

「名将の最期を見届けるまでは」 

と切腹を見届けるまで、その場に居た。

後日、隆景に会った秀吉は、

「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。

清水宗治の辞世の句

"浮世をば今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して"

じゃこにだってじゃこの一分がございます  前田咲二

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溜息と欠伸も骨壷に入れる  谷口 義



秀吉の中国方面進撃要図
                       (画像を拡大してご覧ください)

天正6年4月の上月城から始まり、同年6月からは三木城攻め、

天正9年6月からは鳥取城、

天正10年5月に備中・高松城と転戦を重ねた。

「境目7城」

毛利は備前美作の宇喜多直家が秀吉軍に寝返ったため、

最前線を備前・備中とせざるを得なくなっていた。

秀吉軍は宇喜多勢の1万を合わせたことで、

3万の大軍になっている。

毛利は武闘派の次男・吉川元春と戦略派の三男・小早川隆景

本家筋の輝元を支えている。

この危急に隆景は、

「備中こそ最前線。ここを一歩も引くわけにはいかない」

という不退転の決意を固めた。

備前と備中の国境には「境目7城」といわれる7つの城を、

毛利方の豪族が守っていた。

7城の中心は備中・高松城の清水宗治である。

どの角度から見られても怯まない  岡内智香



官兵衛の策は、

「先ず高松城を孤立させるために短期間で他の境目7城を落とす」

というものであった。

官兵衛は、秀吉の股肱の臣・蜂須賀正勝とともに、

「寄せ手」の将に任じられた。

寄せ手とは、攻め寄せる側のことを言う。

そして官兵衛が選んだのが、

無駄な犠牲を出すことがない「調略」であった。

戦などしないほんものの神さま  上嶋幸雀

官兵衛は、「冠山城」は宇喜多勢に任せ、「宮路山城」に向かった。

型通りの降伏勧告に、宮路山城主・野見七郎は当然ながら応じない。

しかし官兵衛とて、それはおり込み済みであり、

力攻めではなく、将兵の「追い出し作戦」を策した。

先ず、城の水の手を探し当て、断ち切る。

そうして城の正面から、鉄砲隊に激しい一斉射撃を行わせた。

さらに矢文を城内に打ち込み、

「三木城、鳥取城のような干殺し、渇え殺しの目にあいたいのか」 

と脅した。

そうか君は明日も生きてるおつもりか  居谷真理子

官兵衛の策は図に当たった。

一夜にして、宮路山城から将兵も城主の野見も消えた。

もちろん、官兵衛は城兵の逃げ道を空けておいた。

また官兵衛は「鴨城」「日幡山城」を続けて攻略。
               もとすけ
日幡山城は城主・上原元将の内応を誘ったことで、

戦わずして落ちた。

「松島城」「庭妹城」の落城も時間の問題。

一方、冠山城は、宇喜多勢の猛攻撃に全員討ち死にをしていた。

こうなると分ってました桜餅  河村啓子

「冠山城の戦い」

冠山城は、毛利氏が対織田氏のために設定した「七城」の1つで、

「高松城水攻め」の前哨戦がおこなわれ、激戦となった城である。

天正10年4月17日、城は織田・宇喜多勢3万に包囲された。

城主・林重真以下総勢3600人が籠城し、

織田・宇喜多勢に対峙した。

寄せ手の大将は杉原家次宇喜多忠家であったが攻めあぐねていた。

4月25日、城内から出火し、

この好機を逃さず加藤清正「一番槍」に攻撃を仕掛けたため、

さしもの重真も「もはやこれまで」と自決。

そして将兵139人も、自刃あるいは壮烈な討死を遂げた。

人数分の皿に盛られている死骸  たむらあきこ



本丸にある冠山城の戦いの戦死将兵慰霊碑。

この激戦の様子が記されている説明板もある。

「冠山合戦を偲ぶ」

『天正十年四月十七日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、

下足守の山や谷は陣馬で埋まった。

守りは城主・林三郎左衛門、称屋七郎兵衛、松田左衛門尉、

鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、

岩田多郎兵衛、権寂和尚、称屋興七郎、佐野和泉守、守屋真之丞、

称屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、

羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。

城内より打ち出す銃火ははげしく、

また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、

寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。

四月二十五日不幸にして城内より出火し、

火は燃え広がり城中大混乱となった。

城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。

竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、

権寂和尚など,将兵百三十九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた』

とあり、ともかく、

隆景との義を貫いた武士たちの勇ましい最後であった。

極太でざくざく編んでいる絆  合田留美子



そして官兵衛のひとり息子であり、黒田家を背負って立つ長政は、

この「冠山の戦い」が初陣となる。

「シナリオ」ー【シーンナンバー38】

 

ー初陣から帰ってきた長政と官兵衛のやりとり。


長政 「父上!秀吉様からお褒めの言葉をいただきました!

     初陣の働き、あっぱれであったと」

長政、喜色満面で官兵衛と対面する。



官兵衛 「お前はいずれ黒田家を継ぐ身。

                大将が猪のごとく突っ走ったどうする? 考えて動け!」

官兵衛、厳しい口調で長政を諭す。 長政、ムッとして。 

長政 「私は武士です。

               調略より、武士らしく職場で働きとうございます」

長政、不満をつのらせて、官兵衛に歯向かう。

長政 「父を助けよ!それが半兵衛様の遺言でございました。

             私はその言葉を胸に誓って、戦ったまで・・・」

・・・父上は、何ゆえ自分を認めてくれぬのか・・・

長政の顔にそう書いてある。



官兵衛 「お前は半兵衛殿の言葉をはき違えておる。

              黒田の家紋を思い出せ。生き残る戦い方を覚えよ」

納得のいかない思いを抱きながら 長政は官兵衛の部屋を出て行く。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

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