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川柳的逍遥 人の世の一家言
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焼けあとにもきっとやさしい芽は出よう  森中惠美子



      若松賤子

明治期の翻訳家。本名松川甲子(かし)。通称・島田嘉志(かし)

会津若松市の生れ。

「会津の女」⑥-若松賤子

戦争によって犠牲を強いられるのは、

つねに女性や子どもたちである。

新政府軍が会津若松城下に侵入してきた日の朝、
                 わかまつ しずこ
わずか5歳だった若松賤子(巌本嘉志子)は、

身重の母や祖母とともに戦火のなかを逃げた。

すでに城門が閉ざされて、入城することが出来なかったのだ。

軟風5ノット地図は砂丘を攻め落す  山口ろっぱ

入城を告げる割場の鐘の鳴るのが遅れたため、

城にかけつけても閉めだされた家族は、

やむなく若松郊外の農山村に避難するしかなかった。

はじめから避難した家族も含めて、

その数は一万人を超えていたと推定されている。

賤子の母は逃避行のさなかに妹・みやを産んだ。

乳飲み子を抱えて着の身着のままで山野をさまよい、

飢えをしのぐ日々がつづいた。

コチコチコチ時間は知らん顔である  太下和子

敗戦後、賤子たちがどこでどう暮らしていたのか、

その手がかりすらなく、賤子の母が明治3年に、

28歳で死去したと伝えられるだけである。

おそらく困窮と疲労から病死したのだろう。

父の行方も知れず、孤児同然となった賤子は、

横浜で貿易商山城屋の番頭をしていた

大川甚兵衛に引き取られる。

その時間には沈黙を手向ける  居谷真理子



フェリス女学院第一回から五回までの高等科卒業生。

前列中央が賤子。18歳で卒業した賤子は、母校で和文の教師を務めた。

その後、開校まもない「フェリス・セミナリー」(フェリス和英女学校)に入学。

13歳で洗礼をうけ、西洋的教養を身につけた知的な女性に成長する。

外人宣教師の訓育下に明治15年フェリス女学校高等科を卒業。

卒業後、母校の教壇に立つ。

この教師時代に文学部をつくって執筆活動をはじめる。

筆名の若松は「故郷の会津」にちなみ、

賤子は「神のしもべ」という意味である。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚。

結婚後は明治女学校で教鞭をとるかたわら、

次々と児童文学の創作と翻訳を発表。

なかでも、アメリカのバーネット女史の『小公子』の翻訳は、

平易で美しい言文一致の文体で候文からの脱却を模索していた、

坪内逍遥、樋口一葉ら当時の文壇に多大な影響を与え、

長く読み継がれた。

四コマまんがのその先にある目覚め  服部文子

「われわれはきみのものならず、私は私のもの、夫のものではない。

  あなたが成長することを忘れたら、

  私はあなたを置き去りにして飛んで行く。

  私の白いベールの下にあるこの翼を見よ」

結婚式で賤子が夫・巌本善治に送った訳詩である。

まだ女性の社会的地位が低い封建的な時代、

賤子が自立意識と気概に満ち溢れていたことがうかがえる。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚して教師をやめたが、

語学力を生かして、名作・『小公子』をはじめ、

多くの翻訳から創作を世に送った。

運のないさざなみばかりでもなくて  中村幸彦

翻案小説・《忘れ形見》1890

テニソンの物語詩の翻訳・《イナック・アーデン物語》ー1890

90年から92年には《小公子》(バーネット原作)の翻訳など,

いずれも子供の姿態を清新な口語体でとらえ,

彼女の仕事の頂点を示している。

明治16年ころ、肺結核を病いに犯される。

医療もままならず家事と育児と執筆の中で、病は進んだ。

明治29年2月、明治女学校が炎上した5日後に、

心臓麻痺にて没する。 享年32歳であった。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃

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逆光線即ち三十歳の乳房  時実新子 



「華族女学校玄関前の図」 山本昇雲画)
                         (画像は拡大してご覧下さい)

袴に靴着用の服装規定により緋袴と指貫を折衷して、


女袴・海老茶袴が考案され制服として定着。

女袴は多くの女学校に普及し、宝塚歌劇の学校など現在でも見られる。



「時栄の不貞」(再出)

明治18年、山本覚馬の家で「一寸むつかしいこと」ことが起きる。

それは、山本時栄と覚馬の2人が、

宣教師・グリーン牧師の洗礼を受けて少し後の出来事である。

ある日、妻の時栄が体調を崩したため、

覚馬は医師・ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、

診察してもらうことになたった

診察を終えた医師・ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに、

覚馬に「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げた。

はてさて冬のはじめの朴葉味噌  大西泰世

その言葉を聞いた覚馬は、思わず、「覚えが無い」と驚いたため、

時栄の不貞が発覚したのだ。

覚馬は時栄の罪を許したが、八重は、

「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」

として、時栄を糾弾した。

結果、八重が時栄を追い出す形となり、明治19年に離縁に発展する。

きっと黒く残る女ののど仏  森中惠美子

 

「不義の後始末」・月岡芳年

東京日日新聞・発信錦絵(妻が夫の頬を切りつける)

【ついでに】

明治13年7月17日布告「姦通罪」

「有夫ノ婦姦通シタル者ハ 六月以上二年以下ノ重禁錮ニ處ス、

其相姦スル者亦同シ

此條ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ其罪ヲ論ス、

但本夫先ニ姦通ヲ縱容シタル者ハ告訴ノ效ナシ」
   
(夫のある女子で姦通した者は、6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処する。

その女子と相姦した者も同様とする。

本条の罪は、夫の告訴がなければ公訴を提起することができない。

ただし、夫自ら姦通を認めていた時は、告訴は効力を有しない)

(昭和22年10月26日廃止)

時効まで笑ってるのが女です  森田律子

 

同志社女学校のダンス教習風景

「明治の女性」

幕末・明治に来日した外国人は、当時の日本女性をどうみていたか。

彼らの多くは、当時の日本女性が、アジア圏、イスラム圏などと比べて、

高い地位にあるとした。

長崎海軍伝習所の教官を務めていたオランダ人・カッテンディーケは、

日本女性が、

「一般的に非常に丁寧に扱われ、

女性の当然受けるべき名誉を与えられている」

とし、彼女らがヨーロッパの婦人のように出しゃばらず、

表面上は男より下の地位に甘んじているが、

「婦人は決して軽蔑されているのではない」 と観察している。

本当に静かに桃は熟れました  河村啓子

 

食事をする女性たちの古写真 (明治13年)

また明治6年に来日したイギリスの日本研究家・チェンバレンは、

「下層階級においては、中流階級や上流階級におけるほど、

女性の服従が実行されたことはない」 と見た。

もっとも、なかには否定的な意見もあり、実際に日本女性が、

「三従」に縛られていたとする証言もあるが

多くの外国人の目に、

当時の日本女性の地位が高いと映っていたことは注目に値するだろう。

※三従ー結婚前は父に従い、結婚後は夫に従い、夫の死後は子にしたがいう」

それとなくはんなり入れておく袂  みつ木もも花

 

東京女子師範学校の男袴姿の生徒(明治10年)

「当時の日本女性の魅力」

特に彼らを魅了したのは、若い娘たちだった。

幕末に「サムライ」、「ハラキリ」、「ローニン」という日本語が、

当時の欧米諸国の新聞に見られたことはよく知られているが、

実は、「ムスメ」 も同様に、

日本の若い魅力的な女性を表わす言葉として、海を渡っていたのだ。

明治初期の駐日ドイツ公使・ブラントによると、

「ムスメは日本の風景になくてはならぬもの」 であり、

「日本の風景の点景となり、生命と光彩を添える」 ものだという。

また、プロシア艦隊の艦長・ヴェルシーナにいたっては、

日本女性が全般的にかわいいので、

「日本全土の全体にほれこんでしまいそうだ」 とまで感じたという。

仮の世ながらさりながらこぼれ萩  和田洋子

 

カッテンディーケ肖像画

しかし、少数派ながら、こちらも否定的な証言がある。

前出のカッテンディーケは、

「心から美人だと思った女は数名に過ぎなかった」 とし、

オーストリアの外交官・ヒューブナーも、

「日本女性の顔は端正とはいえず、決して美しくない」 

と証言している。

ただし、そんなヒューブナーでも、日本女性は、

「陽気で、純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている」

から、見た目の問題はまったく欠点にならないとしている。

フクロウが書いたレポートかもしれぬ  筒井祥文

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この糸が切れたら風になるつもり  河村啓子



鍋島直大と鍋島胤子

鍋島直大は維新後明治政府に出仕しイタリア全権公使などを務めた。
                            たねこ
「鹿鳴館の女たち」⑤-鍋島胤子
         なおひろ
佐賀藩主・鍋島直大夫人。結婚11年目の明治7年、

胤子は二人の幼な子を義母に預け、夫の渡欧に同行。

新たにヨーロッパでの生活が始まった。

ロンドンでの胤子は積極的にヨーロッパ文化を吸収した。

英語やフランス語、ダンスやピアノ、西洋刺繍や絵画も学んだ。

この時、油絵の練習のお供をしたのが、
                ひゃくたけかねゆき
外務書記官でのちの画家・百武兼行である。

佐賀藩出身の百武は、父の代から鍋島家に仕える身で、

直大の渡欧にも従者として随行した。

胤子と一緒に、画家・リチャードソンに油絵の手ほどきをうけた百武は、

絵心が芽生えたのか、その後、

「日本で初めて油絵で裸婦を描いた画家」 として名をはせる。

いわば、彼の画家としての才能を開花させたのは胤子なのだ。

風の子を風へ返した絵の時間  堂上泰女



「叢中の卵」鍋島胤子画

同時に胤子の画才も、「日本で最初に西洋画を学んだ貴婦人」

と百武に太鼓判を押されている。

夫妻は、その気品ある物腰から「プリンス・プリンセス・ナベシマ」と、

たたえられヨーロッパ上流社会との交流を深めた。

イギリスのヴィクトリア女王エドワード皇太子との謁見という

栄誉にもあずかり、約3年のヨーロッパ生活を謳歌した。

だが、帰国後、体調を崩した胤子は30歳の若さで亡くなってしまう。

額縁を出て子午線を通過中  岩根彰子



 鍋島栄子

結婚前、栄子は宮中に仕えていた。母の血を引いたのか

実子の伊都子(梨本宮妃)
皇族随一の美女といわれる美麗だった。

伴侶を亡くした悲しみの涙が乾く間もなく直大はイタリア公使に任命される。
                         ながこ
急遽、公家広橋家の令嬢栄子との再婚が決まり、

明治14年23歳の栄子は、単身直大が待つイラリアのローマに向かった。

肉感的な栄子は、洋装も似合い外人にもひけをとらなかった。

妊娠して体をしめつけるコルセットがきつくなると、

着物に切り替え、しっとりとした大和撫子ぶりを披露し、

ローマ社交界で日本女性の美しさが評価された。

渡欧翌年に誕生した長女には、

イタリアの都ローマで生れたことから伊都子と名付けた。

帰国後は、外国生活での経験を生かし鹿鳴館で花形となる。

群青の青より深い年でした  八上桐子



   渋沢兼子

実業家の夫を支える一方、兼子は鹿鳴館の慈善会などを推進し、

社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。

「鹿鳴館の女たち」⑥-渋沢兼子

渋沢兼子の父・伊藤八兵衛は、

深川油堀の「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商だった。

水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など、

博打的な投資で儲け、江戸一番の大富豪とうたわれた。

だが、明治に入って没落。

ついには破算し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまうのだ。

18歳で江州から婿を迎えていた兼子だが、

金の切れ目は縁の切れ目とばかり、

無情な婿はさっさと実家に帰ってしまった。

現実をせめて忘れるための花  松本としこ



自ら「芸妓になりたい」といって兼子が働き口を探していると、

芸妓ではなく妾の口があると紹介された。

その相手が渋沢栄一であった。

前妻千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。

次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。

だが恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、

再婚にはなかなか踏み切れない。

しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、後妻として迎えることにした。

偶然にも、渋沢家の屋敷は、

羽振りのよかった頃の実家、油堀の屋敷の近くであった。

幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、

博打的な強運の持ち主といえまいか。

大根おろしとちりめんじゃこの夫婦です  美馬りゅうこ

 

黒田清隆箱館戦争で新政府軍の参謀を務めた黒田は、

五稜郭開城後、頭を丸めて榎本の助命を嘆願した。

「鹿鳴館の女たち」⑦-黒田滝子

24歳の若さで亡くなった黒田清隆の妻・清は病死といわれたが、

実は、酒乱の黒田が、

「酔って妻を斬り殺した」という噂がまことしやかに流れていた。

酩酊した黒田が、妻の不貞を疑って刀を振り回し、

追いつめたすえの惨殺というのだ。

そんな黒田が18歳の深川芸妓・滝子に一目惚れ、

滝子は結婚を乞われるが、殺された妻の後釜に入るのだから、

決断は辛い。

暗がりで触れるアルキメデスの原理  森田律子

いったん、滝子は縁談を断るが黒田の盟友・榎本武揚が仲介に入り、

懇願されたため、断りきれなくなった。

明治13年、滝子は41歳の黒田と結婚する。

また黒田はつねにピストルを携帯していた。

条約改正に反対した井上馨の邸に、よった勢いで乱入したこともある。

酒癖の悪さは彼自身の出世にも悪影響を及ぼした。

酒が入るとあらくれ者に豹変し、

酔いが醒めると自己嫌悪に陥る夫をなだめすかすなど、

滝子も夫の酒乱ぶりには相当苦労した。

(明治21年夫が総理大臣に就任すると総理夫人として助力を惜しまなかった)

きみ嫁けりとおき一つの訃に似たり  大西泰世

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ギロチン台へボクの親指ぐらいなら  くんじろう

 

新島夫妻が暮らした家(寺町丸太町上ル) 新島旧邸

(二人の住居は女紅場や同志社の仮校舎のすぐ近くにある)

「襄の朝は早い」

6時前に起床、6時半には洋風の朝食を済ませ、

7時前には家を出て、徒歩で同志社へ向かった。

郵便夫が持つようなカバンに本をたくさん詰めて通っていたという。

昼は大抵家に戻り、食事をした。

同志社の食堂で食事をしたり、所用で外食をするときは、

前もって人を使いに出し、八重への伝言は欠かさなかった。

おくれ毛は日付変更線までなびく  森田律子



「ところどころに襄の優しさ・思いやり」

八重は京都で誰よりも初めて帽子を被り、靴を履いた。

明治という時代、これが世間に受け入れられるのは、難しかったようだ。

すべての人格は尊重すべし!

といっても、当時は男尊女卑。

世間は「夫を尻に敷く悪妻」と評価。

また八重は、薩長の生徒に厳しいとか、

武士の誇りを掲げる八重に、襄が諭したこともあった。

「ハイヒール事件」

ある日、八重がハイヒールを靴箱から出してみると、

ヒールの部分がなくなっている。

襄の仕業だった。 

八重が襄に尋ねてみると、体の大きい八重のハイヒール姿は、

襄にはすごく危なっかしく見えたようで、

「転ぶと危ないから私が切りました」 と返事が返って来た。

(襄の変な優しさが垣間見えるエピソード)

カチュウシャをしたら双子のできあがり  酒井かがり

「襄の家・八重の家具」

 

          応接間(約18畳)

当時のままで机やイスやソファーが置かれている。

右は襄が寝転び心身を休めたというソファー。
 
また、ここは、生徒が集まって勉学に励む場であったり
 
雑談のロビーなどとして多目的に使われていた。

八重の桜のドラマでも正確に再現している。

 

     食堂と棚            鍵のかかった棚

襄が無類の甘いもの好きだった。

同志社の生徒たちのために、八重が買い置きしておいた菓子まで、

襄はつまみ食いしてしまうことが、しばしばあり、

八重は襄のことを考え食べられないようにと、鍵をつけた。

とは言え、八重はケーキ作りが好きで、

よくワッフルやクッキーなどを作り、生徒たちに食べさせていたという。

八重のふくよかな姿は、この菓子作りのせいだったのかも

焼き方三年煮方で五年食い方終生  山口ろっぱ

 

   書斎と本棚             東南角の書斎

襄が使っていた使った机と本棚。

襄はよく書きものをし、よく本を読んだ、8割以上の本が洋書である。

 

八重使用していたオルガン

八重は京都に出てきて色々なものを吸収した。

オルガンもその一つ。

今でも昔のままの音が出る優れもの。

 

               寝 室


洋式が始めての八重のために、八重の方のベッドは低くしつらえてある。

ここにも襄の思いやりが垣間見られる。

 

  セントラルヒーティング

この時代、セントラルヒーティングも取り入れた進歩的な家だった。

1階に取り付けられ、ここからダクトを通って温風が二階へも送られた。

揉め事終わりはハグで納めます  竹中ゆみ



       台 所

キッチンも八重の背の高さに合わせて使いやすく工夫してある。

かまどの前の格子窓から梅が見えるように、と襄の思いやりも見える。

 

            洋式トイレ

トイレも洋式に座ることもできるし、上がってからしゃがむこともできる。

京都最初の洋式といわれている。

 

            風 呂

シャワーはなく、風呂の洋風化、近代化はまだというところか。

が、二人は愛をこの湯舟に温めていたのだ。

順風満帆夢を見ているのだろうか  柏原夕胡

 

 日常一番使われた食卓

和洋折衷の八重に同志社の学生たちは、

「鵺のような女性!」と形容し、

西洋と和風が入り混じった八重を批判、反発した。

しかし八重はこんなことには全く動じなかった。

肝っ玉がすわった女性だった。

はこうした八重に刺激を受けていた。

思いもよらぬ発想で襄を勇気つけたり、励ましたりする。

襄はアメリカの友人に、周りもはばからず

「彼女は見た目は美しくないが、生き方がハンサム」

「自分の理想の女性」と語っている。

目の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし



一方で、襄は八重との結婚生活での本音も少し零している。

「なぜ神がこんなに反対の性格の人間を夫婦にしたか、

と考えさせられるほど、

性格においても相反している事を後になって発見して、悩むことがある。

しかし、これも神々が各々の性格を磨かしむるためになし給う、

御手の技であるから、ますます相忍ばなければならない」

襄が病床に伏しているとき、看護婦に洩らした本音が風と伝わる。

ほぐすのに微量の毒がいるのです  美馬りゅうこ



明治15年、八重は万感の思いで故郷の土を踏んだが、

この頃から、襄の体に異変が起きていた。

襄は休むことを知らず学校建立のための全国行脚をし、

明治17年、20ヶ月におよぶ外遊へ出発。

翌18年帰国したが、長かったアメリカ生活の疲れも顕著に、

体力の低下は見て取れた。

そんな中、襄が心臓発作で倒れる。

淋しさの具象抽象描き分ける  森吉留里子

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ふいに手を繋ぎたくなる烏瓜  河村啓子

 

            陸奥亮子 (各画像は拡大してご覧下さい)

亮子の憂いを含んだ横顔の写真は、つとに有名だ。

鹿鳴館の貴婦人の中でもナンバーワン美女の呼び声高いが、

自由奔放な夫の生き様に翻弄され、彼女の人生は辛苦がたえなかった。
                  りょうこ
「鹿鳴館の女たち」③-陸奥亮子

明治政府の高官が薩長連合で占められているなか、

紀州出身の陸奥宗光は藩閥のバックもなく、孤軍奮闘していた。

才気煥発がゆえに、身の不遇にもがき苦しみ、

私生活では妻を病で失うという不幸に見舞われた。

そんな時、可憐な新橋芸妓の亮子に惚れこんだ。

芸妓でありながら身持ちが固い女といわれたが、

なぜか陸奥に心をひかれた。

明治6年、17歳でひと回り年上の陸奥と結婚。

翌年には長女が生まれ、先妻の子どもと合わせて、三人の母親になる。

号泣も爆笑もとうに飽きている  中野六助



中央が陸奥宗光、左が亮子、右は長男の広吉

5年後、宗光は反政府運動に加担した罪で禁固5年の刑を受け、

山形監獄に投獄されてしまう。

亮子は姑とともに、陸奥家の主婦としてけなげに留守宅を預かった。

ところが宗光は出獄するとすぐに、単身ヨーロッパに留学。

妻の心労をよそに何とも身勝手な夫といおうか。

筆まめの宗光は獄中時代から亮子に手紙を書きつづけ、妻の行状を指示。

唯一事後承諾となったのが、鹿鳴館での慈善バザーへの参加だった。

外遊中の明治17年、尻込みする亮子を、

総理大臣夫人・伊藤梅子が後押しして出席させたのだ。

あるいは私が錆びるためのあまり風  山口ろっぱ



「於鹿鳴館貴婦人慈善会之図」‐橋本周延画

鹿鳴館では貴婦人たちの主催による慈善パーティーが行われた。

陸奥亮子も、めずらしく夫に事後承諾でバザーに参加していた。

政府高官がズラリと居並ぶなか、

亮子は初めてきらびやかな世界に足を踏み入れた。

その後政界復帰を果たした夫とともに、亮子も社交界にデビューする。

その抜群の美貌から「鹿鳴館の華」とうたわれた。

また夫が駐米大使となって渡米すると、

クリーブランド大統領夫妻に謁見するなど、

ワシントン社交界でも華やかな存在となる。

33歳女盛りの亮子にとって、人生でもっとも輝かしい時期ではなかったか。

美しい横顔の写真も、ワシントン時代に撮影されたものである。

鏡台よ泪をかくしているのです  田中博造



   戸田極子
                         きわこ
「鹿鳴館の女たち」④-戸田極子

戸田極子岩倉具視の二女。

14歳で大垣藩最後の藩主・戸田氏共に嫁ぐ。

岩倉具視の令嬢という血筋もさることながら、

その美貌は陸奥亮子と並んで「鹿鳴館の華」とうたわれた。

明治20年4月22日、

内閣総理大臣・伊藤博文邸で盛大な仮装舞踏会が開かれた。

主催者の伊藤夫妻はヴェネツィア貴族に扮するなど、

仮装した政府高官や実業家3~400名が集い、

夜を徹したお祭り騒ぎが繰り広げられた。

ところがこの舞踏会の最中、伊藤が戸田極子を庭に木陰に連れ出し、

いかがわしい行為に及んだ・・・という艶聞が流れた。

女にはやさしい牙を持っている  森中惠美子

漁食家で知られる伊藤のこと。

多くの浮名を流したが、よりによって相手は高貴な身分の伯爵夫人だ。

新聞各紙もこぞって面白おかしく書きたて、

一大スキャンダルとなってしまう。
                                            うじたか
騒動直後、公使館の参事官にすぎなかった夫の戸田氏共は、

オーストリア大使に任命されウィーン駐在となった。

突然の夫の出世から、極子の不倫騒動の報奨ではないか、

やはりゴシップは真実だったと、関係が疑われるのも無理もなかった。

足の爪剥いでしゃっくりを止める  井上一筒



 「ウィーンに六段の調」
          
(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)‐守屋多多志作

夫とともにウイーンに滞在した極子が奏でる琴曲に、

ブラームスが耳を傾ける場面が描かれている。

こうして不名誉なレッテルを貼られてしまった極子だが、

オーストラリア滞在中、名誉挽回とばかりに大きな役目を果たしている。

長年学んでいた山田流の琴の演奏を、異国の地で披露したのだ。

戸田家の音楽教師・ハインリヒ・フォン・ボクレットは、

彼女の弾く琴曲に感銘しピアノ用に編曲して、

「日本の民族音楽」なる楽譜を書いている。

(譜面のない琴曲を楽譜に表しただけでも、彼らの関心の高さがうかがわれる)

風になり魔女になったりして娘  石田すがこ

また主催したパーティでも、日本文化のアピールにと極子は琴を演奏した。

そこには作曲家・ブラームスもいた。

さらにブラームスは、ポクレットの著した楽譜に自ら加筆訂正していた。

つまり極子は、伝統的な日本文化と西欧文化の橋渡し役を務めたことになる。

醜聞の汚名返上というか、

伯爵夫人としての役目をきちんとこなしたのであった。

美人でスタイルのいい極子は洋装がよく似合い、

英語もダンスも堪能で、物おじしない優雅な物腰も板についていた。

帰国後、鹿鳴館の花形となるのは自然の成り行きであった。

交錯して足は明日へと歩きだす  清水すみれ

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