川柳的逍遥 人の世の一家言
縄電車みんな途中でいなくなり 北原おさ虫
「清洲会議」・周参見王子神社の絵馬 (すさみ町指定文化財) 「勝家vs秀吉」
織田信長が本能寺に倒れた後、織田家重臣たちによる「清須会議」を経
て、自分中心の流れをつくった羽柴秀吉は、京都の大徳寺で信長の葬儀 を盛大に行った。 対立する柴田勝家派の面々が欠席する中、秀吉はこの葬儀に織田家家臣
団の大半を結集することに成功し、自分が信長の後継者であることを、
天下にアピールする。 秀吉のライバル勝家に与する者は、信長の3男で美濃岐阜の織田信孝と
伊勢長島の滝川一益。
勢力範囲が近畿中心にまとまっている秀吉は、彼らから三方に囲まれて
いる状態であり、戦略上の表現をつかえば、勝家の「外線」に対して、 「内線」作戦をとる形となった。 立ち位置を決めかねている草いきれ 山本昌乃
VS 秀 吉 勝 家 秀吉の最悪のシナリオは、勝家の「外線」体制に、西の毛利輝元と東の
徳川家康が呼応して連動するという事態である。 毛利が勝家に応ずれば、秀吉の西の防衛線が突破されるであろうし、
家康が応ずれば信孝や一益とともに、秀吉方である尾張の織田信雄を封
じ込めることが可能になる。 秀吉は、この「外線」包囲網に追い込まれ、四面楚歌に陥ってしまう。
そこで秀吉はまず、越後の上杉景勝と誓書を交わして、協力関係を結ぶ。
越中には勝家方の佐々木成政がいたが、この成政を釘付けにするために
景勝を利用したのである。
そして、家康対策としては、尾張の信雄から度々連絡をとらせて両者の
友好関係を強くさせ、秀吉自らも家康に情報を伝えるなどの配慮をした。
さらに毛利に対しても常々警戒を怠らず、折にうれて盛んに贈答を送る
などして懐柔策に余念がなかった。 巧妙な外交がつくりだした完璧な布陣によって、秀吉の勝利は合戦の前
に決まっていたのである。
花いちもんめ仲間だったね青もみじ 市井美春
家康ー狡い猿と一途な狼
清洲会議-三法師を抱きあげる秀吉
『大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク』
「清須会議」
織田家中の出世頭・羽柴秀吉は、山崎の合戦で主の仇である明智光秀を
討つことによって得たアドバンテージを背景に「ポスト信長」を決める 「清須会議」に臨んだ。 信長が落命した同月の1582年(天正10)の末のことである。
ここで秀吉は、「本能寺の変」で討死した織田信忠の嫡男である3歳の
三法師を擁し、対する柴田勝家は信忠の弟・信孝を擁立する。
会談は、終始秀吉ペースで進み、京を中心とする畿内主要部は、秀吉と
その腹心が独占。
勝家は、滝川一益といった信長の老臣、それに信長の一族は美濃・尾張 伊勢といった畿内周辺部や北陸に位置することとなる。 勝家は山崎の合戦に続いて、清須会議でも、後れをとってしまったのだ。 会議後、秀吉は筋金入りのアンチ秀吉派と思われていた織田信雄(のぶ かつ・信孝の兄)を自陣に取り込み、勝家と結んだ信孝を挑発する。 ずるいなあ線にリールをつけている 河村啓子
信孝もこれに乗り秀吉・信雄ラインに対抗し、勝家との結びつきを一層
強めた。 「秀吉憎し」の一念の信孝が、前夫・浅井長政との死別後、孤閨を保っ ていた姉・お市の方を勝家に娶らせたのは、秀吉にとって誤算だったろ うが、そのほかは秀吉の目論見通り。 放っておけば、義に厚い勝家は信孝を奉じて挙兵せざるを得なくなる。
秀吉はそうした勝家の気性までも見抜いていたのである。
草いきれ答えは風の中にある 前中一晃
『賤ヶ嶽大合戦の図』 (歌川豊宣画)
(右端・秀吉、北ノ庄城を包囲する図)
「賤ケ岳の戦い」
1582年(天正10)9月、秀吉は、光秀を打ち破った山崎の地に新
たな城を築き始めた。畿内の要地で大規模な築城工事を行う秀吉を勝家 は非難するが、その声に賛同する者はない。 同年10月に信長の葬儀が、秀吉主宰で開催されると、勝家主導による
織田家再興の夢は遠のくばかりであった。 空き缶よ君も友達居ないのか 潮田春雄
……冬が近づいた。
冬になれば、勝家の本拠である越前は数カ月の間、雪に閉ざされる。 その隙に乗じて秀吉が何をするかわかったものではない。
やむを得ず勝家は秀吉と講和した。
にも拘らず秀吉は、北陸の地に閉ざされている勝家を尻目に、暮れから
年初にかけて露骨に反勝家の行動を展開する。 まず近江の長浜城主で勝家の養子である柴田勝豊を誘降し、岐阜の織田
信孝を攻めてこれを降伏させる。 次に翌年2月、反秀吉の兵を挙げた北伊勢の滝川一益攻撃。
勝家のいぬ間にとばかりに伊勢になだれ込む秀吉の攻勢ぶりを、
北ノ庄城の勝家は、歯がみする思いで聞いていたに違いない。
しかし、雪に閉ざされた北陸からは微動だにできなかった。
それでも一益は春まで持ちこたえてくれた。
律儀さが少し気になる鳩時計 三村一子
出陣へ柴田勝家の武運を託すお市の方 ようやく春の兆しが見えた1583年2月下旬、北陸軍は残雪を踏み分
けて南下し、琵琶湖北方の賤ケ岳周辺に進出。 岐阜では、一時秀吉に降っていた信孝が再度挙兵し、伊勢の滝川一益と
ともに秀吉包囲網が完成した。 岐阜の信孝を攻撃するために秀吉が賤ケ岳を離れたため、当初は、北陸
軍優位で戦いは進んだが、秀吉本陣が猛スピードで戻って来たため形勢 は逆転する。 前田利家、金森長近、不破勝光といった北陸軍の離反もあり、勝家は北
の庄に敗走し、妻・お市とともに自刃する道を選ばざるを得なかった。 約束をしたように咲く彼岸花 新海信二
「勝家と秀吉の違い」
本能寺における信長の訃報に接した秀吉は、直後に、自分をその後継者
と定め、光秀を討つ途上で、天下人への道をはっきりと心に描いていた。 だからこそ、清須会議の前後から賤ケ岳に至る秀吉の素早さと的確さは、
政治と軍事の両面で勝家を圧倒できたのだ。 一方、信長が倒れたという一報がもたらされた時、猛将で名高い勝家の
甥・佐久間盛政は勝家に「すぐさま京へ攻め上りましょう」と進言した。 しかし勝家は、「北陸情勢が予断を許さない」ことを理由に、これを退
けている。すなわち守旧派の勝家は、信長亡きあとの織田家をいかに守 り抜くかしか考えていない。 織田家の外を見た秀吉と中しか見なかった勝家----群雄割拠の時代なのだ。
この違いが両者の運命を分けた。 戦争が済むまで神は旅をする ふじのひろし
本能寺の変の直前は、信長家臣団の世代交代の時期でもあった。
秀吉はこうした状況を活かし、信長家臣団を無傷のまま自己の家臣団
に模様替えしてしまおうと意図する。 その際、排除しなければならない要素が、織田家中心の体制にこだわる
勝家と一益であり、秀吉に対し、主家であり続けようとする信長の遺児 だった。 秀吉は、「賤ケ岳の合戦」に勝利し勝家を乗り越えたことにより、織田
家臣団を受継ぎ、天下人の地位を織田家から引き継ぐ正当性を獲得した。 思えばお市の方が、勝家に殉じたことは、織田家の命運を象徴している。 あしたへと繋ぐ夕日が美しい 宮原せつ
お 市 の 方
淀君の命によって描いた画像 (高野山持明院)
「お市の方のこと」
1573年(天正元)8月、浅井長政が信長に滅ぼされた時、お市と3
人の娘は、城を脱出して織田氏のもとへ帰った。 信長は妹という理由で、しばらく弟・信包に預けた後、清洲城へ移して
扶持米を与え、その三人の女とともに養育したという。 『総見記』 後にお市は、織田氏の宿老・柴田勝家に嫁すことになった。
この再婚は信長の命令であったともいう。
が、勝家が「縁辺之儀弥其分ニ候」(『南行雑録』)(天正十年十月六
日付覚書)と述べているから、秀吉と申合せのあったことが推測される。 おそらく信長の死後、天正10年6月27日の清洲会議によって、決定
したものであろう。 (のちに秀吉ならびに織田信雄と対抗した織田信孝の尽力があり、婚儀
は信孝の拠点岐阜において行われ、お市は3人の女とともに勝家の居城 越前北庄に起居することとなった) 指飾る石に見栄などいりません 若林くに彦
勝家夫婦辞世の和歌を詠ずる (絵本太閤記) しかし1582年(天正11)4月24日、お市は、賤ヶ岳の戦におい
て惨敗した勝家と運命をともにし、自裁の道を選ぶこととなる。 ※ 『秀吉事記』には、『勝家は城を出るように説得したが、お市はと
もに自害することを主張した』と伝えている。 勝家「市 そなたはこれより城を出るがよい。秀吉とて長年想い焦がれ
ておったそなたを、無碍にはすまい」 お市「いえ! 市は先の浅井家でも落城の憂き目にあい…こたびも……
もはや、再び同じ辱めは受けとうございません」 勝家「……」
お市「市は 殿とご一緒させていただきとうございます」
勝家「…それで、いいのか」
お市「はい! なれど娘たちの命だけは……」
勝家「わかった。娘たちはすぐに脱出させよう」
お市「……これで思い残すことなく、厭わしき我が命も…終えることが
できまする」 勝家「秀吉に何もかも後れをとった儂であったが、そなたを得たことで
は、秀吉に勝てたようじゃな」 裏切りを赦せば夕日やわらかい 宮崎美知代
秀吉の一代記『太閤記』によれば、勝家は秀吉軍に包囲される中、
北ノ庄の城内では「最後の宴」が行われた。
勝家らは踊り謡い、もはやこれまでと知るや天守閣に登って火を放つ。
次に勝家は、愛妻・お市の方を刺し殺し、自分の腹を十文字にかき切っ
たうえ、秀吉には渡すまいと、爆薬をしかけて自らを吹き飛ばしたので ある。 まさに猛将の名に恥じぬ見事な最後であった。 お市の方 辞世
さらぬだに打ちぬるほども夏の夜の 夢路をさそうほととぎすかな
勝家辞世
夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす
ついでの事乍ら、お市の三人の女は、秀吉に引き取られ、長女は秀吉
の側室(淀君)に、次女は京極高次室(常高院)に、三女は徳川秀忠室 (崇源院)になった。 木登りのてっぺん泣いていたんだね 山本早苗 PR 過去なんて問わぬ土竜の一頻り 岸井ふさゑ
石 尊 詣 青 雲 桟 道 韋 駄 天 (歌川国芳) 秀吉と柴田勝家の戦い------「中国大返し」から一ヵ月。
秀吉が、1万5千の主力部隊を1583年(天正11)4月20日 pm
4時ごろ。賤ケ岳の麓の木ノ本に到着したのが、pm9時ごろといわれて いるから53㎞をたった53時間で走破したことになる。 この驚異的なスピードを可能にしたのが、部隊の8割を占める足軽の
装備にあったと考えられる。 当時の足軽の軍装は、甲冑よりも軽い胴丸が主流であったが、それでも
5㎏近くの重さがあり、時速10㎞で走ることは不可能。 そこで秀吉は、足軽たちを、手甲や脚絆などの軽装で走りに走らせた。
戦場に到着してから、槍や胴丸を貸し与えるというシステム「レンタル
具足」を思いついた。 アイデアマン秀吉ならではの知恵である。 農道の端でイタチとご挨拶 斉尾くにこ
月百姿 山城 小栗栖月 月岡芳年
山崎の戦いで秀吉に敗れ、落ち延びようとする光秀(左奥)と
小栗栖で落ち武者狩りをする村人。
家康ー本能寺の変・その後・episode
「本能寺の変」が起こったのは、1582年(天正10)6月2日の早朝。
その翌3日、信長の居城・安土城では、午後2時前後より信長の妻子ら
を退去させている。 因みに、身の危険を顧みずに行動したのは、蒲生賢秀・氏郷父子だった。 特に、蒲生氏郷は、信長がその才に惚れて、娘婿にした戦国武将である。
当時、氏郷は日野城にいたようだが、父の賢秀が安土城の留守役だった
ため、急遽、安土城へ、迫りくる明智軍と対峙することも覚悟しつつ、 父と共に、信長の妻子らを日野城へと避難させるのである。
『信長公記』
がちがちやないか熱湯かけたろか 藤井康信
実は、その中に信長の側室「お鍋の方」がいた。
最愛の人の死を知らされた彼女は、悲しみに暮れるのを後回しにして。
即刻、信長の位牌所の確保に乗り出した。
避難先の日野城から岐阜城へと向かい、こちらの神護山崇福寺宛てに
「黒印状」を出したのである。
内容は以下の通り。
「かくべつに折り紙に書いて申します。この崇福寺は、信長様の位牌所
でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者があれば、 おことわりするのがよろしい。そのために一筆申し上げます。
天正十年六月六日 なべ(黒印)」
(『戦国武将』楠戸義昭)
マイナンバー首に吊るして彼岸まで 平井美智子
蒲 生 氏 郷
蒲生氏郷公の辞世の句。 「限りあれば 吹かねど 花は散るものを こころみじかき 春の山風」
「風なんか吹かなくたって、花の一生はそもそも限りがあり、そのうち
いつかは散ってしまうもの。それをどおして春の山風は、短気に花を 散らしてしまうのか。」 書状の日付けは、「本能寺の変」が起きた4日後。
あまりにも素早い動きとしか言いようがない。
ただ逆に、それほど事態は切迫していたとも……。 直ぐにも保護しなければ、大事な織田家の菩提寺が争いに巻込まれる。
そんな危機感がお鍋の方を突き動かしたのかもしれない。 戦場でぶらりと垂らすティーバッグ 西澤葉火
大徳寺総見院の織田一族の墓に眠るお鍋の方
「お鍋の方」 お鍋の方も、織田信長に救いを求めたうちの1人である。
もともと彼女は、山上城主の小倉賢治(かたはる)に嫁いでいたのだが。
小倉賢治は、六角氏に敗れて自刃、大事な息子2人も人質に取られる。 この悲劇に、彼女は果敢に立ち向かった。
なんとしても、息子を取り返すため、信長を頼ったのである。
これが縁で「お鍋の方」は信長の側室となり、人質となった息子2人も
無事救出されたのであった。 なお、信長との間には二男一女をもうけており、信長の家臣らも「お鍋
の方」に敬意を払っていたようである。 押しピンをはずすと君は蝶になる 和田洋子
「殿のご恩を決して忘れてはいけません」
救出された2人の息子「甚五郎」と「松千代」は、常々、母から言い聞
かせられていたという。 この2人は、信長の家臣となり、うち1人は 「本能寺の変」にて、信長のもとへと駆け付けて討死している。
最愛の人の死------その悲しみさえも、後回しにして奔走した「お鍋の方」
であった。信長に献身的だった彼女は、その後も、ひっそりと弔い続け
たに違いない。お鍋の方は、京都で没した。 今は、大徳寺総見院の織田一族の墓に眠っている。
時という忘れ薬もありました 平田元三
「中国大返しを検証する」 京都で味方集めに苦戦していた光秀に衝撃の情報が入った。
中国地方で毛利氏と対峙していたはずの秀吉が、
「明智討ちに京都に迫っている」というのである。 当時、信長旗下の主な軍団は、柴田勝家が北陸地方で上杉氏と、
羽柴秀吉が、中国地方で毛利氏とそれぞれ対峙し、
滝川一益は、関東地方で戦後処理に追われていたため、 光秀は、彼らがそう簡単に引き返して来られるはずがないと考えていた。 しかし秀吉は、いち早く本能寺の変の情報を知ると毛利氏と和議を結び、
軍を反転してきたのである。名高い「中国大返し」である。
「目的地周辺」ですっていったよね 須藤しんのすけ
だが、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城から、
2万人の軍勢を、光秀との決戦の場となった山崎までの行軍は生半可な ものではない。 まず、2万人分の秀吉側の軍勢の食料の確保が必要になる。
すなわち、毎日約20万個のおにぎりを準備せねばならないことになる。
189㎞を6月5日に出て13日に重い鎧をつけ槍を提げ、山崎につく
まで、一日平均25㌔を走破しなければならない。
当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる
船坂峠は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあること から行軍にはかなりの困難をともなったはずである。 (秀吉はこの時の苦労からレンタル武具を思いついたのだろう)
伸びて縮んでその場限りの理想論 高浜広川
「秀吉は光秀の謀反を知っていた」 織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった
秀吉は、「本能寺の変」を事前に想定していたのではないか。 実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正
10年『惟任退治記』(大村由己筆)に、 『光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に
向かわずに、謀反をを企てた。これはまったく発作的な恨みからでは なく、年来の逆心があったことを(人々は)知り察していた』 大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」
を抱いていることは、常識的範疇だったというのである。 偶然をよそおうための距離に居る 大葉美千代
秀 吉 と 安 国 寺 恵 瓊 「秀吉と安国寺恵瓊の密談」
羽柴秀吉が安国寺恵瓊を密かに石井山の陣所に呼んで、毛利氏の領国を
平定するための「私の謀を見せよう」と仰り、味方になった武将たちの 連判状を恵瓊に投げ広げた。 そこに洩れている毛利家の主な武将は、五名にすぎなかった。
恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。
秀吉はこのような計略は、かつて日本にはなかったと思っていたところ、
「毛利輝元殿の謀が深かったため、信長公がお果てになってしまった」 と仰り、したがって、
「今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を 討ち果たして信長の恩に報いたいので、御同心いただきたい」 と、起請文を作成のうえで申し出た。 ややこしい人にややこしいもの貰う 河村啓子
南 光 房 天 海
「光秀は生きている」
明智光秀は、姿を変えて生き延び、天海であるという説がある。
天海の出自は不明だが、家康の側近として主に外交面で活躍したほか、
江戸城と江戸の街づくりに関して、宗教的な側面から家康に助言をした
といわれている。 家康没後には、「家康を東照大権現」として祀ることを提言し、
これが採用されるなど、家康死後も幕府において強い影響力を誇った。
今しばらくはドクダミのままでいる 岡谷 樹 薬って効くんだ眠くなってくる 荒井加寿
阿茶に宛てた家康直筆の手紙
「義直の病状がますます快方に向かったとの由、めでたくも嬉しくも
思います。疱瘡であっても軽症であると聞いて安心もし、めでたくも
思い、嬉しく思っている」と、疱瘡の病に臥す義直を見舞う。
「英雄色を好む」
------戦国の乱世を勝ち抜いてきた三英傑・信長、秀吉、家康のうち、
女性にあまり関心をもたなかった信長を除き、秀吉は血統書つきの 「ブランド美人」を好み、家康は「後家」を好んだ。
さらにいえば、家康は「出産経験」のある女性を好んだという。
戦国時代、政略結婚により同盟を強化したとはいえ、
「側室」は自分の好みで、選ぶことが多かった。 秀吉は出自のコンプレックスゆえに身分の高い女性、また美少女が好み、 子孫を多く残すという「結果」よりも、その「過程」を重視した。 一方、家康は、晩年を除いては、秀吉と真逆の子孫を多く残す「結果」 だけを求めた。 長寿への薬君とのレモンティー 堂上泰女
細かにいえば、家康の正室は2人、今川義元の姪・築山殿と豊臣秀吉の
妹・朝日殿。好みではなく、どちらも政略結婚だった。 一方で、側室の数は………というと、定かではない。
好みのタイプを集めて19名とも、それ以上ともいわれている。
丈夫で健康的。生命力に溢れてたくましい女性。
そして、未亡人、敢えていえば、出産経験者。
無事に一度出産した経験があれば、子を産む確率が比較的高いと判断し
たのだろう。そんな中で、家康が理想とした一押しの女性は、飯田直政 の娘・阿茶の局といわれる。 いっこうに古くならないお月さま 新家完司
あ 茶 の 局 (橋本周延画) 家康ー家康の側室ー②
阿茶------武田氏の家臣・飯田直政の娘として誕生。
父の直政は、武田氏の家臣だったが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、
今川氏の家臣へと転じた。 阿茶は初婚ではない。 19歳のときに、神尾忠重に嫁いでおり、
忠重との間には、一男一女をもうけている。
つまり、阿茶局は、「未亡人」で「出産経験あり」なのだ。
そのうえ、武芸と馬術に優れていたという。
信長の命によって、正室の築山殿と長男・信康を殺害せざるを得なくな
った年である1579年(天正7)阿茶が25歳の時に、運命の糸が引 き合わせるように家康の目に止まった。 「(家康に)「側室として召し出される」と、『神尾氏旧記』『当院古
記』に記されている。 目の玉の光で分かる好奇心 青木ゆきみ
「家康が最も信頼した阿茶との出会い」
阿茶を見初めた天正7年は、家康にとって最悪の年だった。
家康が、8月築山殿殺害、9月信康切腹を命じた年である。
家康38年の人生の中で、一番辛く厳しい出来事が、彼を襲ったのだ。
子と妻を一気に消去するという悲劇-------皮肉にも、その原因を作った
のは自分である、そして「死」を命じたのも自分なのだ。まさしく、
『人の一生は重き荷を背負いて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず』
の心境だった。
この人生最悪の時に、家康は阿茶と出会ったのである。
なにか琴線に触れるものがあったのだろう、家康はあ茶との出会いで、
心に一風の安らぎを感じたようである。
思えば、考え方や価値観が大きく異なった、前正室の「築山殿」。
そのせいで、息子を死なせてしまった自責の念。
そんな悲しみに暮れたときに出会ったのが「阿茶局」だった。 岬までグルコサミンと会話する 水品団石
「そこに名言}
「残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている」
「今日は岡崎から夫に会える」
と、築山殿は、極上の晴れ着を身に着けていたのだとか…。
少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。
報告を受けた家康は、(一説に)
「なんとか築山殿を逃がせなかったのか」と、介錯人を責めたとも
地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。
この時、反省と後悔をして家康が残したものなのかどうか。
『己を責めて 人を責めるな』の言葉が胸に刻まれた。
際限のないものと知る黒の濃さ 加藤当白
「小牧・長久手の戦いに同行して」
腹に子を宿しながら戦場に馬にまたがり同行したあ茶は流産した。
それが理由か分からないが、のちに子どもが産めない身体となったが、
家康の寵愛は変わらずに続いた。
駿府城へ隠居する際も、側室の中で唯一連れて行ったのが、
心より信頼をする「阿茶局」だった。 そこで聡明な阿茶局は、家康から奥向きのことを任され、大奥の統制に
尽力した。また、政治の重要な場面でも、大きな力を発揮した。 ずっとずっと平和の音のある蛇口 岡さくら
大 奥 (橋本周延画)
1589年(天正17)、家康が最も愛した於愛の方(西郷局)が死没 したので、生母代として阿茶局が秀忠、忠吉の養育を任されることにな
った。 中院通村の日記には、
阿茶局は、秀忠の『母代』と記録されている。
実際に、秀忠の実母・西郷局が亡くなって、家康は阿茶局に秀忠を育て
させた。秀忠の母親代わりだった阿茶局は、和子にとってもまた必要な 存在だったようだ。
その後も阿茶局は、和子の懐胎・出産のたびに上洛し、常に和子の不安 に付き添っている。 なるようになるさと象の鼻ぶらり 宮井元信
「和睦の使者として」
『阿茶局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた
御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高 院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して、御和睦の事ども、すべて 思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし』 『徳川実記』
(等高院=若狭小浜藩の藩主・京極高次の正室) 1600年(慶長5))、関ヶ原合戦が勃発すると、小早川秀秋は西軍
を裏切って、家康の東軍に味方した。 一説によると、 両者の仲介を行ったのが、阿茶局であるといわれている。 1614年(慶長19)、大坂冬の陣では、徳川家と豊臣家が和睦を結
ぶことになった。阿茶局は、家康の意向を受け、本多正純とともに大坂 城へ講和の使者として立った。そこで難攻不落の因とする「堀の埋めた
て」を淀君に認めさせ纏めたのが、阿茶局である。 その後、板倉重昌とともに大坂城へ向かい、豊臣秀頼・淀殿から誓紙を
受け取った。 「方広寺鐘名事件」---------家康が秀頼に梵鐘の4文字・「国家安康」に
難癖をつけた事件である。弁明のために駆け付けた豊臣方の家臣・片桐 且元に対面し外交担当を引き受けていたのが、阿茶局であった。 もしかしたらと釘一本を持ち歩く 柴田桂子
雲 光 院
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」 家康の辞世である。
1616年(元和2)、家康は鷹狩りに出た先で倒れ、そのまま床に
臥して、持病も悪化させ4月17日に没する。
当時、側室は主が亡くなると慣習にならって落飾したが阿茶局は、
家康の遺言により、落飾することなく、出家しないまま「雲光院」
と号した。
そして家康死後も、2代秀忠、3代家光に仕え、幕府と朝廷の融和政 策を進めるなど手腕を発揮した。 1620年(元和6)、秀忠の五女・和子が後水尾天皇に入内する際、
母代わりで入洛し、後水尾天皇より従一位を授けられ、一位局・一位尼
と称された。 1632年(寛永9)、秀忠が亡くなると、阿茶局は正式に落飾した。
1637年(寛永14)、阿茶局は静かに眠るように亡くなった。
享年83であった。墓所は、雲光院にある
点滅が続くヒト科の現在地 樫村日華
故 老 諸 談 「側室・お梶の方」 「家康が信頼した側室に非常に頭のよいお梶の方という女性もいた」
「大坂の陣」に同行した側室は、阿茶局だけではなく「お梶の方」
という側室も家康は連れていっている。
天下分け目の「関ケ原の戦い」にも同行し、勝利を手にした家康は、
よほど嬉しかったのかお梶に、
「今後は『お勝の方』と名乗るよう」と、命じたという。
お梶の方の聡明さを物語るエピソードが『故老諸談』に所収されている。
家康が、大久保忠世、本多正信、鳥居元忠ら数人の家臣と語らっていた
ときのこと。 微笑みがプリズムになる虹になる 高橋和男
「家康との問答」
「この世で一番美味しいものは何か」
と、家康はその場にいた家臣たちに尋ねた。
それぞれに家臣たちは自分の考えを披露した。
家康は、同席していたお梶の方にも同じ問いを投げかた。
お梶の方は、
「塩にございます」と、答えた。
「塩……?」 怪訝な顔をする家康にお梶の方は
「美味いという基準は塩加減にございます。
どれほど良い料理であれ、塩によらずに味が調うことはございません」
と答えを返した。 [
「なるほど」と、膝を打ちかけた家康だが、 「では、この世で一番不味い食べ物は何か」と、問うた。
これにも家臣たちは夫々さまざまな食べ物あげるが、お梶の方は、
「いちばん不味い物は、塩にございます」と、答えた。
隙のない男の影を踏んづける 高浜広川
「先の答えと同じではないか!」と、言う家康に、お梶の方は、
「食べ物の不味いという基準も塩加減にございます。
どれほど良い料理であれ、塩を入れ過ぎますと食べることなど、
かないませぬ」
との答えに家康も家臣一同も、納得し首肯した。
「男だったら、さぞや優秀な大将になったであろう」
と、後々にも家康は言をもらしたのだった。
押しピンをはずすと君は蝶になる 和田洋子
「家康の女中三人衆」
家康の正室は2人だけだったが、正室に近い立場に置かれた側室が複数
いた。 家康が№1に愛した西郷局は別にして。江戸入り後は、英勝院、
養珠院、相応院の3人が、家康の「女中三人衆」と呼ばれ、他の側室と 別格に扱われていたことが『多聞院日記』から窺える。 ① 英勝院 (お梶の方)
待望した男児を産まなくとも、阿茶局とお梶の方という極めて聡明な
2人の側室を家康は重用した。 お梶もまた、家康60代のときに生んだ市姫を伊達政宗の嫡男と婚約
させるが、わずか4歳で夭折。他に子はできなかった。 だが11男・頼房の実母・お万の方が亡くなると、家康は頼房をお梶
の養子にして教育も指示した。 頼房はのちに御三家の「水戸藩」を創設することになる。
お梶は倹約家で、小袖が洗いざらしでも新調しなかったと伝わる。
お 万 の 方
② 養珠院 (お万の方) 家康10男頼宣と11男頼房の母である。
お万の方という名の側室は2人いるが、先の次男・秀康の母のお万で
はなく、頼宣と頼房の母の方である。 頼宣は徳川御三家である「紀州徳川家」の初代であり、孫に8代将軍・
吉宗へと血脈を繋ぎ、頼房は、同じく徳川御三家である「水戸徳川家」 の初代である。 頼房の子が水戸黄門様の光圀へと繋がっていく。 お 亀 の 方
③ 相応院 (お亀の方) 1594年(文禄3)家康が53歳の時、給仕に出た女性があった。
その身体の豊かさと美しい容姿に加えて、聡明さに家康は気に入り側室
として仕えさせるようにした。 その女性が当時21歳、お亀である。 お亀は、家康54歳のときに、仙千代を出生するが、6歳で早逝。
そして家康59歳のとき、九男義直を生んだ。
この義直が、徳川御三家の筆頭である「尾張徳川」の初代となる。
泣くことも愛することもまだできる 安井茂樹 火遊びの煙ゆらゆら心電図 みつ木もも花
家康 築山殿
徳川家康の正室。築山殿の実名は不明である。 テレビドラマや小説など、現代の創作では「瀬名の名」があてられるが、
当時の史料はもちろん、江戸時代前期に成立した史料にも、瀬名の名は みられない。江戸時代中期の元文5年(1740)成立の『武徳編年集成』
巻三に「関口或いは瀬名とも称す」と、記載されている。
一般的には築山殿、「築山御前」、または「駿河御前」ともいわれる。
「築山」の由来は、岡崎市の地名である。
たんぽぽも私もここが着地点 吉道あかね
松本潤 (家康) 有森架純 (築山殿)
家康ー築山殿事件の疑問点 ① 「家康はなぜ正室・築山御前を引き取ったのか」
1557年(弘治3)家康の最初の正室となった築山殿は、今川一門の
関口氏純の娘で、母は義元の妹と、いわれる。
1559年(永禄2)には、嫡男の松平信康を、翌年には、亀姫を産ん
でいる。父・関口氏純は「桶狭間の戦い」の後、今川から離反した家康 と「通じているのではないか」と義元の嫡男・氏真に疑われ、妻ととも に自害に追い込まれる。 今川家に人質のような形で身柄を拘束された築山殿は、子どもたちを守
り続けていたが、やがて人質交換で母子三人そろって岡崎に引取られる。 だがなぜか築山殿は、岡崎城には入らず、城外の西岸寺に居住した。
このことから、すでに築山殿は、家康に離縁されていた、あるいは二人
の関係が悪くなっていたと見る人もいる。 そうであれば、なぜ人質交換によってわざわざ築山殿を引き取ったのか。
信康と亀姫だけを引き取るということもできたはずである。
偏頭痛雨の匂いもする序章 加納美津子
関口氏純 (渡部篤郎) 妻・真矢みき
② 「信康の正妻・徳姫がもたらした悲劇」 家康は、築山殿の両親である関口夫妻に対する罪の意識を持っていた
のではないだろうか。自分が今川と手切れをしたために、彼らは命を落
としたわけだから…。その贖罪意識もあって、築山殿と離縁することも なく、人質交換で手元に取り返したのではないのだろうか。 1570年(元亀元)、家康は、遠江の浜松城を新たな居城とした。
嫡男の信康が岡崎城に入ると、築山殿も生母として追従する。
家康が浜松城で築山殿が岡崎城で、離れて暮らしているなか、
1579年(天正7)7月16日、家康にとって寝耳に水の事件が起る。
信長から家康に、「築山殿と信康に謀反の疑いがある」と通告してきた
のである。
訴え出たのは、信長の娘で信康の正室・徳姫だった。 さまざまな憶測が飛び交うなか、徳姫の訴状に正誤はなかったのか。
同年、築山殿は処刑され、まもなく信康も二俣城で自刃という、
大きく忌わしい結末が一つの「謎」を投げかけてくる。 悪口はビフィズス菌で中和する 新家完司
③ 「4年前の大賀弥四郎事件が…」
信康の家臣が甲斐・武田家と内通し、信長の逆鱗に触れたことがある。
この内通事件の張本人とされているのは、信康家臣の中根政元だった、
と言われている。
その父・中根正照は、二俣城を守っていて武田勢に城を開け渡した後、 「三方ケ原の戦い」では真っ先に討死にをした 武勲で誉れ高い人物だ。この正照の娘が、大賀弥四郎と結婚した。
つまり、中根政元と大賀弥四郎は義兄弟になる。
その後武田勢を岡崎城に引き入れようと画策した弥四郎が失敗すると
その4年後に義弟の政元が、弥四郎の遺志を継いで築山事件が起きた。
この一連の事件が「築山事件」に結びつけられたとも考えられる。
壁障子すり抜け陰口が届く 大久保眞澄
五徳 (久保史緒里)
徳川家臣団内部では、浜松の家康に近侍して、対、武田戦争に積極的だ った層と、岡崎の信康に近く、武田との対決に消極的だった層があり、 両者の間で意思の疎通が図られていなかった。
そうした家臣団内部の動揺を受けて武田方への内通を図ったのが、政元
ということになる。 そして、徳姫がそのことを知るに至り、信長に注進した。
「信康と築山殿が勝頼に内通している」という話は、こうした家中の情勢
を背景にしたまぎれもない事実だったと思われる。 うつむいていたから見えた靴の向き 加藤当白
④ 「長男に自分と戦う覚悟はあるのかと迫った家康」
その後の経過を、松平家忠の『家忠日記』尋ねてみよう。
浜松を出発した家康は、8月3日に岡崎城に入り、信康と対面し事情を
聴取する。しかし信康は、ことの真相の肝心なところは口を濁した。
8月5日、家康は西尾城へ移って戦支度をし、信康は、大浜城へ移されて
いる。これはいったいどういうことなのか。 家康は、 「もし 信康が信念に基づいて行動を起こすなら、いつでも相手になる、
戦でそれを示せ」 と、信康に告げたのではないか。
開き直ればすとんと腑に落ちる 浜 純子
松平信康 (細田佳央太)
「自分は西尾城に行く、お前は大浜城に行って戦の準備をしろ」と、 信康はすでにひとかどの武将であり、岡崎には直臣たちもいる。
対武田戦争を継続するという「自分の方針に従わないのなら、正々堂々
と家臣を率いて戦で勝負しろ」と、信康とその背後にいる家臣たちに迫 ったのではないか。 「このわしと一戦交える覚悟があるのか!」
と威嚇することで、逆に信康に賛同した家臣たちの戦意を挫こうとした
のではないか。 ともかく家康が直に対処したことで事態は収束した。
大文字で利点小文字で注意点 田口勝義
頭に血が上った信康の家臣たちは、下手に説得すれば逆上して、武力蜂
起に及ぶかもしれない。 しかし、歴戦の強者である家康に「俺を倒してからやれ」と凄まれたら、 家臣たちもふと我に返る。 それがこの事件の家康の狙いだった。 ところが、家康が浜松から岡崎に乗り込んできた段階で、もう信康に従
う家臣はいなかった。すでに築山殿や信康の計略が失敗したことは明白 そこで家康は、8月9日に信康を浜名湖の東岸に位置する堀江城に移し、
そして、翌10日には、三河の国衆を集めて「信康には味方しない」と、 約束する起請文を書かせ、乱を収めてしまった。 煮え切らぬ返事に一味唐辛子 菱木 誠
織田信長 (岡田准一) ⑤ 「築山殿が武田家に密書を送ったという説は史実か?」 武田方への内通については、築山殿が唐人医の西慶という人物を通じて
武田方に内通していたとされている。それも事実だったのではないか。
実際には「長篠の戦い」の直前、つまり4年前の大賀弥四郎事件の時に、
すでに築山殿は、勝頼に密書を送っていたのではないか。 <三河一国を信康に安堵してくれるなら、武田方に寝返ってもいい>
という起請文を勝頼に送っていたのではないか…? しかし、長篠の戦いに敗れた勝頼は、その起請文をネタに信康をゆすっ
ていた可能性がある。 「信長に知られたらどうなるか。徳川家は破滅だぞ」と、
信康はこのとき、築山殿を断罪し、場合によっては、切り捨ててでも、
家康にことの次第を報告するべきだったのである。 仲直りしてそして二つの楕円形 指方宏子
だが信康は苦楽を共にしてきた母親を切り捨てられなかった
しかし、今川家での年に及ぶ人質時代を含め、ずっと苦楽をともにして
きた母親をなんとか助けたかった。 しかし信康の妻・徳姫は、それを許すことはできなかった。
ことの真相を明らかにするには、父の信長に訴え出るほかない。
そして、事件が発覚したという筋書きができあがる。
これも想像の域を出ないが、武田家は信玄存命中から、将軍・足利義昭
と通じて信長と対峙している。築山殿は今川家の出身だから、将軍家に 親近感を持っていたはず。 そして、天皇に任命された征夷大将軍が、武家政権を率いて全国統治を するという旧来の秩序に、正当性を感じていたはずである もしかすると、信康もそうした教育を受けていたかもしれない。
すでに天正元年には将軍・義昭を京から追放した信長よりも、武田方に シンパシーを抱いていた可能性もある。 祭り後のふんどし風に揺れている 高橋レニ
松平信康
⑥ 「家康の嫡男・信康はなぜ将来を期待されながら切腹したのか」 家康と信長の同盟は、家康の嫡子・信康と信長の娘・五徳の結婚により
結ばれた。信康は有能な武将で将来を期待されたが、1579年21歳
の若さで切腹させられた。
原因は、信康の母と武田家の内通、信康自身の不行跡、五徳の讒言など
諸説あり、「家康の悲劇」の一つとされてきた。
(近年は信康の家臣がクーデターを企んだため、家康に粛清されたなど、
家康自身の意思だったとする説も提起されている) 自分史を奔る一本の濁流 大野たけお
西来院に眠る 築山殿の墓碑 ⑦ 「妻と息子を殺すのか? 家康の苦渋の決断」 家康は、信長の命を受けてやむなく妻と子を殺害したのか、それとも、
自発的に殺害を命じたのか。 いずれにしても、最終的な判断を下した のは家康本人である。大賀弥四郎事件の段階で、すでに家中が分裂して いたことも、家臣や築山殿が武田方に内通していたことも、すべて事実 ならば、その責任は主君である家康にある。 しかし、弥四郎事件は、一部の者が謀反を企んでいたということで幕引 きにされた。 ところが、長篠の戦いを挟んで、あらためてその事実が浮上し、信長の
知るところとなってしまった。家康としては、自らの決断で、すべてを 処断する必要があったのだろう。8月29日、築山殿は遠江の佐鳴湖に 近い小藪村で処刑され、信康は9月15日に二俣城で切腹して果てた。 築山殿の死後、家康の正室は豊臣秀吉の妹・朝日姫だけになる。
正室はこの2人だけで、それ以外に記録に残るだけで20人の側室が
いたと言われる。彼女たちは全員が「側室」、つまり妾ではなく継室と 呼ぶべき正式な妻もいた。 ----- 安部 龍太郎 ------
決断の境界線は滝だった 真島久美子 嵐去る迄はグレーのカメレオン 加藤 鰹
信長光秀因縁の法華寺 光秀は信長に殴打され恨みを抱いた 信長が武田軍との戦に勝利し、論功行賞や酒宴が行われている席上で、
「これで私も骨を折った甲斐があった」というような光秀の何気ない
一言に信長が激高し、光秀を殴打したのが法華寺である。
信 長 公 記
『信長公記』は、信長の右筆である太田牛一が、信長が、室町幕府15 代将軍・足利義昭のもとに上洛した1568年(永禄11)から、本能寺 の変で自害を遂げる1582年(天正10)までの15年間の信長一代 をまとめたものである。 歴史学に於いて――、伝記や軍記物語は、書状などの一次史料をもとに
した二次史料と見なされている。 しかし『信長公記』は信長と同時代を生きた太田牛一によって書かれた
もので、一次史料と同等の扱いを受けている。 ここに牛一の信念・決意の言葉がある。
『直にあることを除かず、無き事を添えずもし一点の虚を書するときは
天道如何(天道を踏み外すこと)に見る人は、ただに一笑をして実を見 せしめたまえ』 と、嘘偽りなく同書を書いたことを誓っている。 こうした牛一の執筆姿勢が同書の史料的価値を高めている。
あの日の風が奔り抜けてる日記帳 相田みちる
例えば、 本能寺での最期の言葉「是非に及ばず」や「信長が自害にいた
る様子」も、牛一が現場にて直面した侍女から聞き取り、公記に載せた ものである。 (是非に及ばず=だからどうした、今さら仕方あるまい」)
また、戦国武将の中でもいち早く鉄砲を合戦に導入し、戦国大名・武田
勝頼との「長篠の戦い」では、3千挺の鉄砲で武田軍を一網打尽にした と伝えられている。 しかし、『信長公記』には「千挺ばかり」と書かれてはいるものの、
「三千挺」という数字はどこにもでてこない。 (別働隊も鉄砲を備えていた数の5百挺ほどを足しても千五百挺である)
さらに、「比叡山延暦寺の焼き打ち」に関しては、
『根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も
残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い』『僧俗、児童、智者、上人一 々に首をきり』 と、信長が世間に公表してほしくないような、凄惨な様子をも淡々と綴 っている。 潔い清く眩しく疎ましい ただれいな
出雲・石見への国替えに苦慮する光秀の重臣 (『絵本太閤記』)
家康ー本能寺の変 1582(天正10)5月中旬、明智光秀は安土で徳川家康を接待中に
突然に中国地方へ出陣せよとの命を受けた。
その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、信長から使者が来た。
<何事か…>と訝しむ光秀に、使者は次のように伝えた。
『光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう』
(『明智軍記』)
淋しさをなぞった様に紙魚奔る 米山明日歌
亀山城天守古写真(美田村顕教)
光秀が領主として自ら築いた平山城は、領民の暮らしと一体になり、
領民の目線で統治するといった考えから築かれた。
――丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えら れた領地であったはず。 こここそ自分の土地として、今日まで営営と領民を慈しんできた。 それを召し上げ、代わりに、いまだ敵の領地である「出雲・石見に行け」
という 武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を命じようとする。
信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであったのか…。
省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命に合おうとしている。
光秀の胸中には、様々な想いが過っていた。
知らぬ間に喉に刺さっている小骨 井本健治
四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた。
奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。
中国出陣を前にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである
<もはや、信長をこのままにしてはおけない>
光秀の胸中に殺意が固まったのは、この時であった。
これに先立つ5月28日、光秀は、連歌会を坊舎・西坊威徳院で「愛宕
百韻」を興行した。明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、里村心前、 猪苗代兼如、宥源、威徳院・行祐と巻いた百韻である。 このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を
詠んだ。続いて脇の行祐は「水上まさる 庭の夏山」と、詠み、 第三で里村紹巴は「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。
深読みすれば、危険で微妙な意味を含んだものと解釈できる。
火遊びの煙ゆらゆら心電図 みつ木もも花
愛宕百韻開催日の翌日、5月29日、信長は都に入り本能寺に到着した。
その時、引き連れていたのは、僅かな供回りだけだった。
6月1日の昼、信長は公家たちの訪問を受けた。
勸修寺晴豊の「天正十年夏記」には、この時、信長は2月に要求した暦
の変更を、再び突きつけて強く迫ったとある。 このままでは「いずれ信長の言いなりにならねばならぬ」ことは明らか
だった。 一方、毛利にある秀吉の援軍に向かうべく、丹波亀山城を発った光秀の
軍勢は、「討つべき敵は本能寺にある」と、信頼する老臣に本意を告げ、 老ノ坂を下って桂川を渡り、そのまま進路を東にとって、京都の本能寺 に向かった。 過去からの10カウントがまた響く くんじろう
『本能寺焼討之図』 歌川延一 (都立中央図書館所蔵)
叛乱に応戦する信長 右方奥で帰蝶も戦っている。
奮戦する蘭丸
6月1日の夜、信長は茶会や囲碁ですごし深夜に就寝した。
6月2日未明、本能寺に着いた光秀は、全軍突入を下知した……。
宿坊の周辺の物音が騒がしいのに目を覚ました信長は、「何事か!」と、
側近の小姓・蘭丸を呼び寄こし問えば「光秀殿 謀反!」と答えた。
聞くやいなや信長は「是非に及ばず!」と吐き、寝間着のまま…、
「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、
どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を
受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、
『女たちはもうよい、急いで脱出せよ』と言って退去させた」
(『信長公記』)
光秀軍は1万3千、信長配下の戦力は、150人余り、肘に傷を受けた
信長は殿中の中へと退却を余儀なくされた。 寺には火がかけられ、火の手は、信長のすぐ近くにまで迫る勢い。
信長は殿中の奥へ奥へと引き下がり、戦力の乏しいなかで信長は、
それでも、4時間持ちこたえた。 が、天下布武を目の前にした、信長は49歳の生涯を終えた。 夕間暮れ二足歩行は隙だらけ 青砥和子
6月5日、光秀は安土城に入城。
各地に室町時代の古い領主を呼び戻し、室町幕府体制を復活させようと
した。 6月7日、朝廷の勅使が光秀を訪れ、京都の守護を命じると伝えた。
(朝廷は光秀の行動を認めたのである)
そのころ都の公家たちは、<たびたび宴を開き、大酒を飲んでいた>と、
晴豊の日記には記されている。
(信長の死を祝うかのような行動をとっていた…ということである)
そして、信長に追放されていた室町将軍・義昭は、本能寺の変を知るや、
各地の大名に書状(御内書)を送った。 空中にただよう感情の微塵 黒瀧睦子
6月13日付の能美宗勝(毛利家親族)宛の御内書には、
<信長を討ち果たしたうえは、急いで、京の都へ上るための援助をせよ>
とあり、あたかも自ら信長を討ったかのような態度で、上洛援助を要請
している。朝廷・公家・将軍、信長に反対していた勢力のいずれもが、 光秀の行動を支持していて、光秀が構想する「古い時代の秩序と伝統の 復活」は、成し遂げられたかのようにみえた。 しかし、予想だにしなかったことが起こった。
中国地方で毛利氏と戦いの真っ最中で、当分は釘づけになっているはず
の秀吉が、軍勢を引き連れて、京の都に迫ろうとしているという知らせ が入ったのである……。 どうなるのだろう 裏表紙のけむり 大嶋都嗣子
「太田牛一と信長公記」
太田牛一は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡の生まれた。
信長より7歳年長で、元は織田家家臣・柴田勝家に仕えていたが、弓矢の
腕を買われて信長に召し抱えられた。 牛一は、筆まめな性分で、日々の出来事を、日記やメモに書き留めていた
ことが信長の目に留まり、書記官(右筆)を務めた。 そして信長一代記・『信長公記』を執筆することとなった。
間道も本道に変えていく覇者 八木侑子 |
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