川柳的逍遥 人の世の一家言
まっすぐをどこで落として来たのだろう 岩田多佳子
「吉原妓楼の図」 (葛飾北斎画 山口県浦上美術館所蔵)
図は鳥居清長「新吉原江戸町二丁目の図」と共通するものもあり、
吉原の大見世・丁子屋を描いたものともいわれている。 中央の長火鉢の前に忘八と火車が描かれている。
焼き鳥の串に時間が刺してある 桑名知華子
酒上不埒(さけのうえのふらち)こと恋川春町
「安永4年1月の江戸の瓦版(ニュース)より」ー金々先生のこと 駿河国小島藩士であり、勤務のかたわら絵を鳥山石燕に学び、絵師としても
有名だった恋川春町が、初の草双紙本を出し、大きな評判を呼んだ。 その本の標題は『金々先生栄花夢』-----内容は、人生の楽しみを極めようと
田舎から出てきた金村屋金兵衛の、ひと時の夢の物語-------。 夢を抱いて江戸に出てきた金村屋金兵衛は、一休みしようと思って目黒不動尊
の茶屋で粟餅を頼んだ。そして、ついうとうとしていると、いつの間にか、 金兵衛は裕福な町人の婿になっていたから大喜び。「それなら」とばかり吉原、 深川、品川の遊里で豪遊して楽しみを極めたのだが、金を使い過ぎて勘当され、 途方に暮れたところで目が覚め、ハッとしてあたりを見回したのち、 「人間一生の楽しみといっても、わずかに粟餅一臼の内の如し」と無常を悟っ て田舎に引き込む、というストーリー。 内容は、中国の「邯鄲の夢」に似た話で目新しくはないが、恋川春町は、
もとより絵師だっただけに、遊里での遊びの様子や、そこで用いられている粋 な言葉のやりとりなどが、写実的に再現されていたから、大きな評判を呼んだ。 この本の表紙が萌黄色だったことから以後、この種の洒落と風刺を織り込んだ
大人向けの草双紙は、「黄表紙」と呼ばれるようになった。 いい先生だった自転車でかよってた 高野末次
蔦屋重三郎ー吉原の舞台裏 「吉原の伝説の高級遊女ー5人」
「松葉屋内喜瀬川」 (東京国立図書館蔵)
占いに通じた松葉屋の看板高級遊女「花ノ井・喜瀬川」
「松葉屋・瀬川」 原の江戸町にあった松葉屋において、看板名妓とうたわれたのが瀬川である。
この源氏名は代々踏襲され、合計9名の瀬川がいた。
このうち4代目の瀬川は、易道にも詳しく、平沢佐内に弟子入りして、卜占を
学んでおり、部屋に算木と筮竹(ぜいちく)を常備して、毎日占いをしていた と伝えられている。また、後世に伝えられるほどの能書家でもあった。 山東京伝が記した洒落本の一冊には、評判の遊女の名前に加えて、各遊女たち
の得意分野が記されている。 松葉屋の瀬川の項には「書」「茶」「香」「和歌」「琴」とある。 安永4年(1775)には、五代目花ノ井・瀬川が、烏山検校に千四百両で身請けされ、
江戸中の評判となった。田螺金魚により戯作『契情買虎之巻』ができたほどである。 この五代目が大河ドラマ「べらぼう」の瀬川である。
(これから3年後のこと、鳥山検校は、悪徳高利貸し一味の首領であり、幕府から
咎められて全財産を没収されたうえ、江戸から追放されたという、瀬川にとって、 最悪の不幸話がのこる) 取っておきのウフフの座敷息ひそめ 山本美枝
「古今名婦伝・万治高尾」 (東京国立図書館蔵)
「三浦屋高尾」
高尾とは、京町三浦屋に代々踏襲された太夫名であり、あまたいる吉原の高級
遊女の中でも、もっとも伝説的な存在である。 11代続いた中で一番有名なのが、二代目高尾である。 伊達藩の藩主、伊達綱宗に身請けされたことから通称「仙台高尾」と呼ばれる。 身請け後、情人のいることを知った綱宗の怒りを買い斬殺されたと伝えられる。 が、「隠居した綱宗とともに天寿を全うした」「三浦屋主人の別宅で静養して いるうちに病没した」など史料によって相違がある。 万治に死没した「万治高尾」「仙台高尾」以外には徳川譜代の名門「榊原高尾」 産んだ子を伴って花魁道中をした「子持ち高尾」、染物職人の女房になった 「紺屋高尾」なども知られる。 複数の高尾がいるため、この伝説的名妓の墓は、関東に複数存在する。
覗いたことのない刻に出逢えるか 矢吹雅男
「当時全盛美人揃・滝川」 (東京国立博物館)
「扇屋内・滝川」
滝川は、大見世扇屋の花扇と並ぶ双璧である。
江戸町一丁目にある扇屋は、文政年間(1818-30)に廃業するまで、吉原で最高級
の格式を誇る大見世だった。 主は、扇屋宇右衛門。和歌や茶道を国学者の加藤千蔭(奉行所与力)に学んだ 教養人で、墨河の号を持つ俳人であり、棟上高見の名で狂歌師としても活動した。 この扇屋において、扇屋の双璧とうたわれたのが滝川と花扇だ。
宇右衛門は、遊女の教育にも熱心であり、滝川も加藤千蔭門下の教養ある女性だ
った。 山東京伝が記した洒落本では、評判の遊女として名前があり、滝川の得意分野と
して双六、碁、茶、琴、香とある。香とは香道のことで香片を焚いて香りをきき、
銘柄を当てるもの。特に公家が愛好したとされている。
小窓を覗く隣の枇杷は食べ頃に 太田のりこ
「扇屋内花扇」
「扇屋内・花扇」 花扇は扇屋の筆頭高級遊女だった。その名は代々踏襲された。
初代の花扇は、和歌、茶道、香道など幅広い教養を身につけた文化人だった。 能書家としても名高く、「俳風柳多留」には「扇屋の要東江流に書き」との 一句が掲載されている。 句中の東江流とは書の流派で、江戸中期の書道家・儒学者・漢学者、さらに
沢田東江が、自ら提唱した「古法書学」に基づいて起こしたものである。
「これは「明朝風の書から、よろしく魏晋の古風な書に帰すべし」という書の
復古主義である。この主張は、現今の書風に飽き足らない人々の歓迎するとこ
ろとなり、東江流として一世を風靡した。この一句からも、花扇の教養の高さ がうかがいしれる。 (3代目花扇は、大坂の豪商鴻池を振ったことで有名。また4代目は客と駆落
ちしたと伝わる) 物知りの人は活字をよく喰べる 木村良三
「新撰東錦絵・小紫比翼塚之話」
「三浦屋小紫」
小紫は京町一丁目にあった三浦屋の太夫であり、三代にわたって襲名された。
このうち、平井権八との悲哀で知られるのは2代目小紫のこと。
平井権八は元鳥取藩士。武家の嫡男であったが、国元で殺人を犯して出奔し、
江戸で武家に徒歩の士として奉公していた。三浦屋に通ううちに小紫の馴染みに
なるが、金に困って強盗殺人を繰り返した挙句、鈴ヶ森で処刑された。
その後、小紫は御大尽に身請けされるが、身請け当日、二世を誓いあった権八の
墓前で自害したという。
このエピソードは安永8年(1779)に「江戸名所縁曽我」で初めて歌舞伎化されて
以降、浮世絵などの題材で取り上げられるようになった。なお、平井権八は作中
では「白井権八」とぃう名で登場する。
夢の中いつも探しているばかり 上坊幹子
「娼家全図 新版(部分)」 (歌川国直 城西国際大学水田美術館蔵) 二度寝した遊女たちも起きだして本格的に一日がはじまる。 一階畳敷きの広間で食事しているのは新造や禿。 高級遊女は自分の部屋で食事をした。朝食後、朝風呂にでかける。 左下には見世に並ぶ高級遊女の姿が見える。 昼見世が終わって夜見世がはじまるまでは自由時間だった。 知っていても損はないー吉原楼内のミニ蘊蓄
「廓の明け暮・支度と診察」 (名古屋博物館所蔵)
見世の営業が始まる前の廓の様子。
左下の衝立の前には医師の診察を受けている遊女の姿が描かれている。
「医師だけが駕籠を許されていた」
楼内にも医師はいたが、外部から医師を呼ぶこともあった。
その際、医師は駕籠に乗ったまま大門をくぐることを許された。
大門の高札には「医師之外何者によらず、乗物一切無用たるべし」とあり、
大名であっても徒歩が義務づけられた。
オペ以後は月の砂漠に横たわる 井上裕二
忘八 火車 「吉原を支える人々」 吉原は遊女のみで成り立っていた訳ではない。彼女たちと妓楼の運営を支える
裏方たちが数多く働いていました。まず、吉原を支えた縁の下の力持ちたちを
見てみましょう。
忘八
妓楼の経営者。非情な決断を強いられることもあったため、「仁・義・礼・智・
忠・信、孝・悌」の八徳を忘れたという意味で「忘八」と呼ばれた。経営手腕と
管理能力が求められた。
火車
妓楼の女主人を指す隠語。妓楼の主人が不在の際には、陣頭指揮をとって見世の
切り盛りをした。楼主である忘八とは夫婦関係にあって妓楼内に在住していた。
番頭
番頭は妓楼の帳場を預かっており、妓楼内では楼主に次ぐ権限を有していた。
見世の経理や雇人の監督を担当するかたわら、来店客の善し悪しを判別する
役割も果たした。
注射針を捨てるなコール天の熊 酒井かがり
廻し方 やり手
廻し方 客と遊女の仲の取り持ち、客からのクレーム処理、酒宴の座の設定、揚げ代の
請求など、客と店の間を取り持った男性スタッフ。
二階の一切を取り仕切ったので「二階廻し」ともいう。
中郎
妓楼内外の雑用と掃除を担当した。
見世番
見世の入り口で客引きをする男性スタッフ。出入り客を見張っていた。
不寝番
火の用心を促しつつ、火を絶やさないために働いた男性スタッフ。
客と遊女がむつみあっている最中も部屋に入って油を注いだ。夜明けとともに
行灯を掃除してから、眠りの床についた。
遣り手
遊女を管理する老女。遊女上がりの老女が務めた。各妓楼に一人はおり、遊女から
恐れられた。
お針 台廻し 不寝番
お針 裁縫担当の女性スタッフ
台廻し・風呂番
妓楼内の風呂の管理のほか、部屋への料理運びも兼ねた。
飯炊き
原で働く人々や客の簡単な料理をつくる。宴席料理は「台屋」と呼ばれる仕出し
屋に任せた。
レジ袋ほどの男でございます 福光二郎
「その他・ミニ辞典」
廓 芸 者
幕府公認の遊女のいる遊廓において、優れた技芸で遊興の座を盛り上げた。
「吉原を支えた廓芸者」 吉原の主役は遊女であり、芸者の役割はあくまで宴を盛り上げるサポート役に
すぎない。天保2年(1831)刊行、『仮名文章娘節用』には、
「私はまた、座敷ばかりのはかない歌伎の身の上ゆえ、たとえどのような訳が
あっても弾者は抱えの女郎衆には勝たれぬが廓のならわし」
と芸者の嘆き節も聞こえる。
「若い衆」 妓楼の運営に携わる男性スタッフ。 年齢に関係なく「若い衆(者)」と呼ばれた。 妓楼が男性スタッフを雇う際は、浅草馬道の口入屋「大塚屋」を介した。
これは大塚屋の主が岡っ引きであり、雇った者が、悪さをした際に後始末をし
てくれたためである。 無音よりもっと侘しい音がする 高橋はるか
「原に出入りした商売人」
小物問屋
簪や化粧品など細々した商品を遊女相手に売り捌いた。吉原の遊女はブランドに
敏感だったため、商品の仕入れには気をつかった。
易者
通りを流している占い師。易者(うら屋)とのひと時は遊女にとって、こころ
ときめく時間だった。
貸本屋
遊女に教養を求められたこともあり、貸本屋は貸本屋は妓楼内に入ることが許さ
れた。
卵売り
一犯庶民の口にはなかなか入らなかった鶏卵も、吉原では精力剤として重宝され
登楼客が購入した。卵買いの使い走りは禿の仕事。
押し売りは売ってしまえばすぐ帰る 北原おさ虫
「籬(まがき)」 見世のランクは、「籬(格子)」の形で分かるようになっていた。
最高籬の大見世は「総籬」、中見世は「反籬」、小見世は下半分の「総半籬」 となっており、ここに並ぶことができた高級遊女は「格子」と呼ばれた。 因みに、宝暦年間(1751-64)まで、頂点に君臨したのが「太夫」。
元吉原時代この太夫と高級遊女である「格子」のことを「花魁」と呼んだ。
花魁は、新造や禿などの高級遊女付きの女性が、自身の主を「おいらの姉様」
と呼んだのが由来とされている。
窓は四つ折りになってから姦しい 山口ろっぱ
「べらぼう8話はこんな話です」
烏山検校(市原隼人)と瀬川(小芝風花) 蔦重(横浜流星)が手掛けた吉原細見「籬の花」は、瀬川(小芝風花)の名を 載せたことで評判となり、瀬川目当てに客が押し寄せ、吉原が賑わう。 蔦重刊の「吉原細見」は売れに売れた。 瀬川は客を捌ききれず、他の女郎たちが相手をする始末に、蔦重も一喜一憂する。 そんな中、瀬川の新たな客として盲目の大富豪、烏山検校(市原隼人)が現れる。
一方、偽版の罪を償った鱗形屋(片岡愛之助)は、青本の新作「金々先生栄花夢」 で再起をかけ、攻勢に出る。 同じ柄二度とは会えぬ万華鏡 山本智昭 PR |
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