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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逆立ちで正しい位置に戻す臍  八上桐子


    

  同志社女子大学         同志社女学校の新校舎
          
                   (それぞれの写真は画像をクリックすると拡大して見れます)


同志社は1875(明治8)年に小規模の英学校としてスタートした。

薩摩藩邸跡に移るのはその翌年。

さらに数年後、「煉瓦建て校舎」の建設をスタートさせる。

設計にあたったのは米人宣教師のD・C・グリーン

宣教師ながら建築の専門家、と思いたいが、そうではなかった。

子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、という経験を生かし設計した。

施工は京都の宮大工・三上吉兵衛、煉瓦建築は初めてだった。



          新島旧邸

「同志社と新島襄」

明治8年11月29日、西暦1875年、

京都寺町、現在の新島旧邸地に同志社英学校が開校した。

わずか教師2名、生徒8名の船出だったが、

これが同志社大学の始まりである。

校名の同志社とは、「志を同じくする者の約束による結社」

という意味だが、一説には八重の兄・覚馬が命名したともいわれている。

翌・明治9年、覚馬が維新後に購入していた相国寺門前の

旧薩摩藩邸の敷地6千坪を新島襄に譲渡、

同志社英学校は新校舎を建設する。

(現在の同志社大学今出川キャンパスである)

ハイヒール70キロを盛り付ける  居谷真理子

 

          彰栄館

今出川キャンパスには文明開化時代の文化遺産が沢山残されている。

現存する京都市内最古のレンガ建築・「彰栄館」(明治17年)、

プロテスタント系では日本最古のレンガ造り教会・「礼拝堂」(同19年)

日本最古の洋式建築図書館・「有終館」(同20年)など、

重要文化財が目白押しである。(先述の宣教師・グリーンの設計)

このころ襄は、学校の運営だけでなく、伝道活動に精力的に力を注いだ。

その活動を冷ややかに見ていた槇村から、

京都府知事が北垣国道に代わると、伝道活動は一気に全国展開する。

襄が全国を回ったのは、伝道活動だけが目的ではなく、

大学を設置することでもあった。

わたくしの器に雑草が似合う  杉本克子

同志社は、キリスト教プロテスタント系の大学だが、

新島は伝道を使命とするミッションスクールではなく、

キリスト教信仰に基づく人格主義教育、

「徳育」を行う総合大学の設立をめざしていた。

キリシタン禁制の高札が撤去されたのは明治6年、

まだまだキリスト教への風当たりは強かったが、

新島も、その協力者の覚馬も泰然自若、決して揺らぐことはなかった。

それは明治維新後の日本が欧米列強に伍して発展を遂げ、

近代化いていくためには、

"何よりも自由・自立の精神の涵養が欠かせない"

という確固たる思いがあったからだろう。

さかさまに振ってもぶれぬ石頭  武本 碧

かねてから政府要人の木戸孝充森有礼などと親交があった襄は、

彼らにも大学設立を働きかけて募金活動も精力的に行った。

襄の募金活動に協力した政財界人は多く、

井上馨、陸奥宗光、青木周蔵、など時代の重鎮が名を連ねた。

勝海舟もそのひとりだった。

2人が初めて会ったのは、

襄が大学設立の必要性を勝に訴えたことがきっかけで、

「日本全国にキリスト教主義の学校を普及させるには何年かかるか?」

と勝が質問を投げかけてからである。

(以降、ふたりは親交を深め、襄の墓標は、勝が揮毫している)

帳尻が合って満月一気呑み  谷垣郁郎

  

               礼拝堂

日本で最も古いキリスト教神学研究機関である神学部を筆頭に、

学問分野でも同志社は、常に先導的な役割を担ってきたが、

新島は旧知の勝海舟の問いに、

「大学の完成には200年を要する」と述べた。

千年の都・京都に同志社英学校が開校して今年で138年、

今や13学部を抱える日本を代表する総合大学だが、

62年後にどんな完成形をみせてくれるのか?

衆目の集まるところである。

とはいえ当時、大学は官位が一校(東京大学)しかなかった。

大学設立の賛同者には、上記の3氏のほか、

大隈重信、土倉庄三郎、大倉喜八郎、岩崎弥之助、渋沢栄一など

政府界の実力者が次々と名乗りをあげた。

勝海舟も積極的に動いたが、

私立大学の創立は、容易なことではなかった。

見終わった夢詰め込んだダンボール  井上一筒

 

明治23年1月23日、新島が志半ばで斃れ永眠する。

だがその理想は協力者や教え子など、"同志"に引き継がれ、

明治45年専門学校令により大学に昇格。

大正9年には大学令により大学に昇格。

関西初の私立大学が誕生する。

階段を転がり落ちて無事着地   新家完司

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まなうらに畳んだ恋が喋り出す  中井アキ

 
   同志社第一期卒業生

「峯と時雄」

覚馬の娘・山本みね新島襄が設立した同志社女学校に入学し、

勉学に励んでいるとき、同校の横井時雄と出会い、恋が芽生える。

横井時雄とは、安政4年(1857年)

熊本藩士・儒学者の横井小楠の長男として肥後国に生まれる。

金森通倫・徳富蘇峰・徳冨蘆花は、母方の親戚にあたり、

妹は海老名弾正の妻である。

熊本洋学校に学び、明治9年には「熊本バンド」の結成に参加、

同年に上京し、開成学校(現・東京大学)に入学するが、

翌年に同志社に転入する。

身の丈に合った貝殻探してる  寺島洋子

 
          熊本バンド

横井小楠の嫡男 として生れながら何故、井上の姓を名乗ったのか。

それは時雄が4~5歳の時に、

父・小楠が江戸で遭遇した切り込み事件で、

「士道忘却罪」に問われ、危険と見た小楠の弟子の井上毅が、

井上家の相続を願い出て、養子とした経緯がある。

(時雄には、日下部太郎という別名もある。

 上記の難を逃れるために藩主の松平春嶽が、時雄を守るため、

 八木八十八(やぎやそはち)に日下部の襲名を命じた)

常識の沼へミズスマシを放つ  和田洋子

 
左から2人目が時雄・4人目がみね

明治12年、同志社を卒業後、

新島襄により按手礼を受け、初代・牧師として愛媛県今治市に赴任。

時雄とみねは明治14年に結婚する。

2年後に長女・悦子が誕生、明治20年には長男・平馬が生れる。

時雄の父・横井小楠の通称は平四郎、そこから「平」と、

山本覚馬の「馬」から「平馬」と名づけられている。

しかし、みねは産後に体調が悪化して、

明治21年27歳の若さで亡くなる。

(長男・平馬は、山本家の養嗣子になる)

時雄は明治30年に同志社の第3代目総長に就任。

明治32年に辞職。

是非ぜひの話に馬の耳になる  山本昌乃

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きびきびと小春日和を使いきる  大西泰世

 

        新島旧邸

京都寺町通りに、二人が暮らした屋敷が残っている

明治11年に建てられた。

襄が宣教師に設計を依頼し、

学校の一部や教会としても利用されたという。

「八重と襄の結婚生活」

新島襄八重の結婚生活では、

2歳年下の八重の大らかな人柄が襄を助けた部分も大きかった。

気の短い襄は、少し気に入らないことがあると、

すぐにこめかみに青い筋が立つ。

そんな時は八重が、

「おや、今日は雷でも鳴りそうですね。だいぶ雲行きが悪い」

などと和ませている。

いつからか胸に小鳩を飼っている  三村一子



 八重のオルガン

部屋にはオルガンがあり、学生の賛美歌が響いていたことも予想される。

また襄は、腹に据えかねることを、よく八重に相談した。

すると八重は、

「不平を言うより、お茶でも召し上がったほうがいいでしょう」

などと笑って受け流す。

カチンときた襄が、

「お前は私がこれほど怒っているのに、笑ってしまうということがあるか」

と言うと、八重は、

「あなたが怒っていらっしゃるのに、

  私までがご相伴して怒っては仕方がないではありませんか」

と、のんびり応える。

すると襄も、「それもそうだ」と、つい笑ってしまうのだった。

我が家にも湿布の匂いする忍者  吉道あかね

ただ八重にも強情なところがあった。

明治18年、山本覚馬が京都で迎えた後妻・時栄が、

覚馬に覚えのない子を妊娠してしまう。

覚馬が58歳、時栄が33歳の時のことである。

八重みねは断固許さず、時栄は離縁された。

あくまでも八重は、"ならぬことはならぬ" と考えたのだ。

襄も

「お前の強情は、かねがねお兄さんや槇村さんから聞いていたが、

 こんなにひどいとは思わなかった。

 わたしはとんだしもうたことをした」

と苦笑したという。

三味線にされたらワンと泣いてやる  岩根彰子



【付則】ー「時栄の不貞」

明治18年、山本覚馬の家で「一寸むつかしいこと」ことが起きる。

それは、山本時栄山本覚馬の2人が、

宣教師・グリーン牧師の洗礼を受けて少し後の出来事である。

ある日、妻の時栄が体調を崩したため、

覚馬は医師・ジョン・カッティング・ベリーを自宅へ呼び、

診察してもらうことになたった

診察を終えた医師・ジョン・カッティング・ベリーは帰りかけに、

覚馬に、

「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」 と告げた。

語り部の口 ふくろうが鳴いている  墨作二郎

その言葉を聞いた覚馬は、思わず、「覚えが無い」と驚いたため、

時栄の不貞が発覚した。

覚馬は時栄の罪を許したが、八重は、

「臭い物に蓋をしては行けない。全てを明らかにする」

として、時栄を糾弾した。

結果、八重が時栄を追い出す形となり、

明治19年に離縁に発展する。

熨斗つけてお返ししたい人がいる  新川弘子

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きつね狩りむかしむかしのものがたり  森中惠美子

『鹿児島暴徒出陣図』  月岡芳年画

「西南戦争」

士族反乱の中でも、もっとも大規模かつ最後となったのが、

西南戦争である。

やはり、「征韓論」に敗れて下野した西郷隆盛が中心だったが、

西郷自身は、はじめから乱をおこす意図はなかった。

次第にまつりあげられたというのが、真相だったようだ。

明治6年の政変で辞表をたたきつけて下野したときも、

「征韓」の意向が通らなかったからではなく、

裏で天皇を操作する大久保利通岩倉具視らのやり方に腹を立て、

政治に対する熱意を喪失したから と考えられるからである。

迷子になってぎんなんの実がはぜて  墨作二郎



しかし、周囲の人々は、そのまま西郷を隠居させなかった。

腹心の桐野利秋・篠原国幹も鹿児島にもどり、

鹿児島は反政府の「独立国」、言葉を変えれば、

「西郷王国」の体を示しはじめた。

明治7年6月に、士族教育機関として新設された私学校がその中心となり、

新政府に対抗する県政を展開したため、

大久保利通としても、何とか手を打たなければならない事態となった。

あるいは私が錆びるためのあまり風  山口ろっぱ

 

先行する「佐賀の乱」「神風連の乱」とは関係なく、

大久保利通西郷隆盛の衝突はもはや時間の問題だったのである。

反乱の機運は鹿児島側においても高まっていたが、

挑発したのは大久保利通側であった。

すでにみたように、警察権力を握っていた大久保は、

明治10年1月、鹿児島出身の警官20数名を一時帰郷させた。

隠しカメラは焼きおにぎりの中に  井上一筒

西郷側の動きをスパイさせるのがねらいだったが、

もう一つには、警官がつかまることも計算に入れていたようだ。

そして計算通り(?)スパイがつかまり、私学校党の拷問をうけ、

彼らの口から、西郷を暗殺し、私学校党を皆殺しにするという

政府の方針が暴露された。

バックネットは深層心理吊り下げて  岩根彰子


私学校党が怒ったのはいうまでもない。

しかし、このときも西郷自身は血気にはやる人々を押さえ、

とりあえず、暗殺未遂事件を糾弾するために上京することになった。

「西郷隆盛一人が上京したのではあぶない」

というわけで、私学校党が護衛することになった。

実は、西郷隆盛の挙兵は、この護衛軍の出発によってはじまったのだ。

「西南戦争は西郷を神輿にかつぐ、

  一種の強訴のような形で出発することになった」 (上田滋氏談)

まさに西南戦争の発端は一種の強訴だったのである。

今しがた友を喰らってきたところ  くんじろう

 

  西南戦争新聞記事

しかし、一度まわり出した車はなかなか止まらない。

結局は、3万の軍勢を擁する西郷隆盛の政府への反乱となり、

熊本城の攻防戦、田原坂の戦いなど、

近代戦史に残る戦いを経て、

とうとう9月24日、鹿児島の城山にこもったところを

政府軍に攻撃され、西郷は自刃する。

曖昧に秋と呼ばれている九月   新家完司

こうして佐賀の乱からはじまった一連の士族反乱は、

ことごとく大久保政権によって鎮圧された。

反乱を力で捻じ伏せたことによって、

大久保独裁権力はますます強大化するわけであるが、

その大久保利通も翌11年5月、

石川県士族・島田一郎ら6人に襲われて暗殺されている。

ホロコースト手繰れば魚網かすみ網  山田ゆみ葉

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崖に立つひとりの知恵がつきたとき  森中惠美子

 

         佐賀の乱  (画像は大きくしてご覧ください)

明治7年2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった乱。

「不平士族の乱」

中央集権国家を建設するために、

明治政府が維新の功労者である士族を切り捨てるのは、

歴史の皮肉な必然であった。

まず明治4年、「廃藩置県」が断行され、士族はよりどころを失い、

明治9年には、「代々の禄(給与)も金禄公債(一時金)と引きかえ」

に打ち切られた。

金禄だけで生活できる者はまれで、多くの士族は、

資金を元手に商売を始めるが、

俗に「士族の商法」と嘲笑されたように大半は失敗した。

空き箱のその後やっぱりゴミになり  笠原道子

また、四民平等となり「苗字帯刀」の特権が失せ、

「徴兵制度の施行」で戦士としての価値も消失。

帯刀を禁じる「廃刀令」が追い打ちをかけた。

このように士族は、政府によって経済的困窮に追い込まれ、

その誇りもいたく傷つけられた。

300万士族の怒りは、いつ爆発してもおかしくなかった。

≪万が一、本格的な反乱に発展すれば、政府はひとたまりもないだろう≫

プライドの詰まる五体をどうしよう  清水すみれ



この状況を非常に憂慮した人物がいた。

西郷隆盛である。

西郷は士族の乱を未然に防ぐため、目を外に転じさせようとした。

討伐の名目で士族を朝鮮半島で戦争させ、

欲求不満を解消させようというのだ。

「征韓論」である。

政府内では、その是非をめぐって激論がかわされ、

結局中止される。

敗れた征韓派参議は全員下野し、皮肉なことに、

士族の乱を警戒していた彼ら自身が、

後年その首領に祭り上げられてゆくのである。

挽歌流れてオリオン父を引いてゆく  太田のりこ

明治8年八重にとって、どんな年であったかと言うと、

3月、 川崎尚之助、東京で死去。
4月、 覚馬・新島襄との出会い。
10月、八重、襄と婚約。(翌年1月結婚)
11月、八重、「女紅場」を解雇される。(キリスト教信者との婚約が原因)
     29日、「同志社英学校」を開設。

 (月岡芳年画)
  
  江藤新平 
(画像は大きくしてご覧ください)


この明治8年2月、

ついに佐賀県において大規模な「不平士族の乱」が勃発する。

首魁は司法職をつとめた江藤新平であった。

大久保利通は、政府軍(鎮台兵)を大量に投入してこれを完全に鎮圧、

捕えた江藤を見せしめとしてさらし首にした。

企みは天知る地知るあきらめる  安土理恵

その後も士族の乱は続発するが、

いずれも政府軍の前にあっけなく敗れた。

この頃、すでに徴兵制度が確立され、

近代軍備も整い、

不平士族は政府の脅威の対象ではなくなりつつあった。

むしろ政府としては、残る不平分子を挑発し、

暴発したところを徹底的に潰しておきたかった。

そして、明治11年2月、大久保らの誘いにのった西郷の、

「西南戦争」へと進んでいくこととなる。

焼きますかそれとも茹でてみましょうか  竹内ゆみこ



神風連の乱
(敬神党の乱) (画像は大きくしてご覧ください)


明治9年10月24日、
太田黒伴雄、斎藤求三郎らをリーダーに熊本市で起こった。

この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、
明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、
この事件に呼応して「秋月の乱」「萩の乱」が発生し、
西郷「西南戦争」へとつながる。


秋月の乱とは―
明治9年10月27日、
宮崎車之助、戸波半九郎を中心に福岡県秋月で起こった乱。

萩の乱とは―
明治9年10月28日
前原一誠、奥平謙輔を中心に山口県萩で起こった乱。

そして明治10年の西南戦争へと続く。


かじかんだまま猩猩の旗印  井上一筒

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