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川柳的逍遥 人の世の一家言
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極月の首靴べらで刎ねて行く  井上一筒

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    奥羽列藩同盟

(画像は大きくしてご覧下さい)

「世良修蔵」ー(東北勢力の結束)

3月18日奥羽鎮撫総督府の兵数百が海路、仙台藩に到着。

総督の九条道孝は、早速、

「鳥羽・伏見戦争の首謀者は、容保は死罪、
     
    さかいただずみ
  庄内藩主・酒井忠篤は薩摩藩・江戸三田藩邸焼き打ちの

  罪により、城外で謹慎し処分を待て」


との命令を東北諸藩に伝え、

「直ちに会津を追撃せよ!」

と仙台藩に迫った。

人偏の横で胡坐をかいている  前中知栄

この派遣軍に長州の世良修蔵と薩摩の大山格之助という

傲岸不遜で常識のない、二人の者がおり、

下参謀の役職にありながら、まるでチンピラなのだ。

しかし、たとえチンピラであっても、天皇の派遣軍である。

仙台藩藩主・伊達慶邦はじっとこらえた。

礼を尽くして迎えねばならない。

藩主の丁重な応対にもかかわらず、

二人は横柄な態度で、上座から会津追討を急かす。

地元ではやや外股になるムカデ  きゅういち

「さっさと会津攻撃に兵隊を出せって言っちょるのに、

  もたもたしやがって!」


東北人をバカにする世良と大山の態度に、

藩士も領民も怒りを募らせる。

もともと仙台藩や東北の諸藩に、

会津藩や庄内藩を討つ理由がない。

それなのに大山と世良は戦争を強要する。

それでも東北の諸藩は、すべてが会津や庄内贔屓ではないが、

何とか会津や庄内藩の赦免歎願を、

「鎮撫総督」へ取り次ごうと奔走した。

そしてついに嘆願書提出にまでこぎつけることが出来た。

石ころは転がる前に考える  嶋澤喜八郎

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ところが総督府は、奥羽十四藩による嘆願をあっさり却下した。

とにかく大山世良の言葉が、総督府の言葉である。

最初から、会津や庄内藩をやっつける為に来ているのだ。

東北人には、彼らの異様な執念と、

戦争趣味を理解できなかった。

選択肢に雪隠詰めが残される  兵頭全郎

世良は世良で、東北人も怒りが昂じれば、

行動に出るということを理解していない。

「あいつらに何が出来る」 とバカにしている。

世良は大山に手紙を書いた。

「会津の入れ知恵だか知らんが嘆願書をよこしおった。

  仙台も米沢も兵隊は弱虫のクセに、朝廷を軽んじてる。

  東北の人間はみんな敵と見て、新たに反撃作戦を考えたい。

  まぁ仙台も賊徒は数人で、主人は好人物らしいがの。


  じゃよろしく」 と。
 
点滅のあしたをもっとなまぐさく  たむらあきこ

この手紙が仙台藩士・瀬上主膳姉歯武之進らに手に渡る。

「東北人はみな敵だとよ・・・」

彼らは激昂し、世良の居る金沢屋へ向かった。

金沢屋で世良は女と寝ていることも分かっている。

女郎の膝枕でごろ寝しながら、戦争指導とは、

東北人を心底ナメてかかっていた。

そこで世良は召し取られ、

福島の阿武隈川の河原で仙台藩士に斬首された。

世良を討った仙台藩は、皮肉にも会津に代わって、

薩長軍に宣戦布告したようなものだった。


ざけんなよ右から二つめのコブ  酒井かがり

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    世良修蔵の墓

(画面を拡大すれば文字が読めます)


これを機に東北諸藩は一気に結束を固め、

反新政府勢力の旗幟を鮮明にする。

5月3日、仙台藩を盟主とする奥羽列藩同盟が成立、

すでに4月10日に会津・庄内藩は会庄同盟を結んでおり、

会盟したのは25藩。

5月6日には河井敬之助率いる長岡藩など6藩も合流し、

31藩が大同団結する「奥羽越列藩同盟」の成立を見るに到った。

東北諸藩のほとんどを組み込んだ大同盟の結成に、

薩長新政府は驚愕した。

輪廻だとぷっと吹き出すように言う  筒井祥文

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点滅の止まらぬ古い非常灯  安土理恵

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 京都二本松薩摩藩邸跡

「覚馬の捕縛」

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、薩軍が待ち受けて、

一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、反撃を試みるも敵に圧倒され、

壊乱する。 

また伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三ら新選組と共に斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

目から目へ赤信号が送られる  杉野恭子

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし淀藩は、譜代藩で藩主が現職老中であったのに、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩の兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

ここに至り旧幕府軍は、敗走せざるを得なくなった。

プロローグ あっという間のエピローグ  山口美千代

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行の林は全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去した。

葬送の列は兵馬俑まで続く  古田祐子

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この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も、

京都に留まって洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後の4年1月9日、

覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられ、獄舎の人となった。

撫で肩で未来がすべり落ちていく  河村啓子

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赤松小三郎

当時、赤松は薩摩藩に招聘されていた折、「幕薩一和の端を開く」ため、

西郷隆盛や会津藩の公用方と談じ合っている。

その会津藩の中に覚馬もいた。

赤松は国の未来を憂いながら、志半ばで斃れてしまうが、

彼の残した建白書は、覚馬に多くの影響を与えたといわれる。


覚馬が収監されていた獄舎に会津野沢村出身の

斎藤瑛斎という16歳の少年がいた。

瑛斎は慶応3年2月、洋学修業で長崎へ向かう途中、

覚馬から会津藩洋学所での修業を勧められた。

鳥羽伏見戦争の最中、書籍取り纏めを命ぜられて、

洋学所にいるところを捕えられて、拘留されたのだ。

意外な場所でゆかりの少年に再会した覚馬は、

天佑と思ったかもしれない。

世の中はそうでないとも そうだとも  藤本秋声

覚馬はすでに病で光を失っていたため、

信頼できる瑛斎に重要な口述筆記を依頼した。

まず覚馬は3月に、「時勢之儀二付拙見申上候書付」と、

題する上書を編んだ。

謙譲の姿勢で、新政府への陳謝の意を綴ったものだ。

前年6月に「万事一洗」、すなわちこれまでの軋轢を水に流し、

諸藩一致で国難に臨むべきと赤松小三郎を通じて

西郷らに提示し、理解を得ていたと記している。

さらに覚馬は6月までに、

新政府に向けた一編の建白書を策定した。 

『管見』である。

キリストと同じところに泣きぼくろ  井上一筒

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 それぞれの事情で跨ぐ水たまり  山本早苗

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脇本陣・「柳屋」

白河口の戦いで、新選組がこの「柳屋」を宿舎とした。


(画像をクリックしてご覧下さい)

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「凛として」ー福島民友新聞

八重が鶴ヶ城に籠城していた時、

女性の命と言われた髪を短く切っている。

≪「城中婦人の断髪は、私が始めでありました」≫ (会津戊辰戦争)

八重は自分で脇差しを使い、髪を切ろうとしたが、

なかなか切れず、手伝ってもらった。

その髪を切ったのが、八重の生家山本家の北東、

一軒挟んだ家に住んでいた三百石の高木盛之輔の姉、

時尾であった。

髪をほどくと確かな川の音がある  森中惠美子

八重時尾の家へ針仕事を習いに通った親しい間柄。

男に成りきってまで、

兄・覚馬弟三郎の仇討ちをしようとする八重の姿に、

時尾は、ひどく心を痛めた。

この時尾は、会津に残って戦った新選組三番組長、

剣術師範の斉藤一と、戊辰戦争後に結婚している。

仲人は松平容保の家老だった佐川官兵衛が務めた。

会津藩から慕われた、忠義の士・斉藤は、

容保から「藤田五郎」の名が贈られている。

≪会津若松市七日町の阿弥陀寺に「藤田家之墓」として
二人の墓がある

守り抜く家紋にこびりつく手垢  百々寿子

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脇本陣柳屋旅館の蔵座敷は、戊辰戦争白河口の戦いの際に、

「新撰組」斎藤一局長ほか106名の隊士が宿営した場所である。
 
また明治天皇東北巡幸(明治14年)の際、

この柳屋を往路は休憩所、帰路は宿泊所とされた。


「新選組と戊辰戦争」

新選組は、激戦だった白河城下での戦いでも活躍している。

白河城(小峰城)は、慶応4(1868)年時、

白河藩主・阿部正静が棚倉城に移っていたことから、

白河城は城主不在であった。

『中島登覚書』によると、

閏4月5日、松平容保より、新選組隊長・斉藤一に対し、

白河へ出撃命令が出る。

仏壇へ顎差し出して差し出して  岩根彰子

新選組は、白河城下の「脇本陣柳屋」を本陣とした。

また、『白河口戊辰戦争記』に従うと、

会津藩は閏4月20日に白河城を占領し、

21日には白坂の境明神にある「従是北白河領」の石柱を倒し、

「従是北会津領」の木柱を立てている。

同25日、新政府軍の攻撃が始まり、

5月1日には逆に白河しろが占領される。

会津藩が奪還作戦を行ったが成功せず、

戦いは7月下旬まで続いた。

ぼんやりと見えてる清水舞台下  黒田忠昭

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    白河小峰城

"老いぬれど又も越えなん白河の 関のとざしはよしかたく(難く)とも"

八重が晩年、白河の関を越えて郷里入りした時に詠んだ歌

この歌が詠まれた時は、

白河駅から白河城の本丸の石垣がよく見えた。

列車が白河駅に停車した時、

本丸までは約200㍍しか離れていなかったため、

八重は石垣だけとなった城跡を見て、

戊辰戦争のことなど、

さまざまな思いが胸をよぎったことだろう。

生涯をこの土となる百合の白  大西泰世

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ワサビから生還 国へ打電せり  きゅういち

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「山崎合戦官軍大勝利の図」

左ー新政府軍 右ー旧幕府軍

(画像をクリックしてご覧ください)

「官軍-全国平定戦」

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに始まって、

上野戦争、東北戦争(長岡城の戦い)、母成峠の戦い、

会津戦争、箱館戦争(五稜郭の戦い)
が終結するまでの、

官軍による全国平定戦を「戊辰戦争」という。


戦いは、幕府軍が数の上で勝りながら完敗した。

西郷隆盛の指揮する薩長軍の方が兵備にすぐれ、

士気も数段上回っていたからといわれている。

この戦いに勝利した討幕勢力は、

徳川慶喜・松平容保・松平定敬以下を「朝敵」とし、

その追討令を下した。

優先順位狂いはじめたのは昨日  清水すみれ

しかし考えてみれば、慶喜は仕方がないとしても、

たまたま京都守護職にあった会津藩、

京都所司代にあった桑名藩が朝敵とされたのは、

可哀想というか、運が悪かったとしかいいようがない。

ダウンロードしているあの日の岸辺  河村啓子

初戦の「鳥羽・伏見の戦い」の大勝利は、

討幕派にとって、圧倒的に有利になった。

それまで日和見をきめこんでいた諸藩が、

新政府支持の方向に動きはじめたからだ。

地響きは予兆ぽっと蓮の花  増田えんじぇる

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 討征に向かう戦士たち

慶喜は江戸城に逃げ帰っており、

討伐軍の攻撃目標は江戸城にしぼられることになった。
ありすがわのみやたるひと
有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、

西郷隆盛を総督府参謀とする征討軍が組織され、

東海・東山(中山)・北陸の三道に分かれ東に向かった。

いわゆる「錦の御旗」を先頭とする、

朝敵征討軍が動いたわけである。

結局、江戸城は勝海舟西郷隆盛の話し合いにより、

無血開城となる。

わずかに主戦派幕臣集団による彰義隊が、

上野の山にたてこもったが、

大村益次郎の率いる政府軍によって潰滅した。(上野戦争)

ケチャップでごまかすシュールリアリズム  藤本秋声

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「戦いは東北から北海道へ」

東北地方では、官軍に抵抗した会津藩の、

救済を嘆願していた諸藩が、「奥羽列藩同盟」を締結して、

新政府に対抗する姿勢を鮮明にする。

そこで官軍は、東北に全力を投入した。

「東北戦争」の始まりである。

当初、長岡藩がすさまじい奮闘を見せたが、

同藩が敗北すると、列藩同盟は瓦解をはじめ、

会津藩の降伏によって全域が平定された。

声張り上げて泣くべきか笑うべきか  山口ろっぱ

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  戊辰戦争終結の地

しかし、戦争はまだ終結しない。

新政府への戦艦引き渡しを拒否した海軍副総督・榎本武揚が、

品川から旧幕艦隊をひきいて、

蝦夷地箱館の五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立したからだ。

官軍は明治2年(1869)5月18日、

雪がとけるのを待って、

「箱館戦争」といわれる五稜郭に総攻撃をしかけ、

陥落させた。

こうして、ようやく戊辰戦争は終わりを告げた。

"明日よりはいづくの誰かながむらん なれしお城に残す月影"

操縦席にじゃが芋の幕を引く  井上一筒

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そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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徳川慶喜ー隠れ家

(各写真は画面をクリックしてご覧ください)

「彰義隊」

慶応4年(1868)2月11日徳川慶喜は、

鳥羽伏見の戦い後、新政府に恭順の意を表し、

上野寛永寺に蟄居を命じられる。

12日、これに憤慨する一橋家ゆかりの者ら17名が、

酒楼・「茗荷屋」に集まり、

慶喜の復権や助命について話し合いが行われた。

21日の会合では、一橋家幕臣の渋沢成一郎が参加し、

また諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士らが参加している。

そして23日、「尽忠報国」を掲げ、

浅草の東本願寺で「彰義隊」が結成される。

結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、

町人や博徒や侠客も参加し、

隊は千名を越える規模になった。

(布陣は頭取・渋沢成一郎、副頭取・天野八郎、幹事本多敏三郎伴門五郎

真っ新な息を揃えて貝割れ菜  岩根彰子

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  徳川慶喜ー隠れ家

慶喜が水戸へ移った折、勝海舟は武力衝突を懸念して、

彰義隊の解散を促すが、隊は徳川家霊廟守護を名目に、

寛永寺に居残った。

その後も、明治新政府軍と一戦交えようと各地から、

脱藩兵が参加し、

最盛期には3~4千人規模に膨れ上がっている。

渋沢は慶喜が江戸を退去したため、

「彰義隊も江戸を退去し日光へ退こう」

と提案したが、天野八郎は反対、

江戸での駐屯を主張したため将棋隊は分裂する。

渋沢が彰義隊を去り彰義隊は再編成を余儀なくされる。

≪この後、天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため、

   渋沢は一時姿を隠していたが、

   同志とともに飯能の能仁寺で「振武軍」を結成している≫


見込みある男飛び出す土砂降りへ  柴本ばっは

江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、

彰義隊隊士の手で、

新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。

事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、
                                                   かくおういん ぎかん
慶喜の警護役の幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の覚王院義観

会談させ、彰義隊への解散勧告を行った。

しかし寛永寺執当職・覚王院義観は説得に応じない。

仲裁が入り話がなおこじれ  上田 仁

新政府側は、5月1日、

彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告する。

同時に彰義隊に江戸警備の任務を与え、

懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、

また東征軍の西郷隆盛から、職務上の権限を取り上げ、

彰義隊を討伐する方針を決定した。

西郷に代わる統率者として、大村益次郎を着任させ、

新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。

これにより、彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発する。

かくして軍務局判事・大村益次郎の指揮で、

14日に、彰義隊討伐の布告が出される。

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      上野戦争

上野戦争は戊辰戦争のひとつに数えられ、

戦いの戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名といわれる。

渋沢成一郎が率いる振武軍は彰義隊の援護に赴いたが、


行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却した。

浮雲の視点は鳶の油揚げ  坂田喜久子

「上野戦争へ」

慶応4年5月15日、大村益次郎が指揮する政府軍は、

寛永寺一帯に立て籠もる彰義隊を包囲し、

午前7時、雨が降る中、

両軍は南西北三方向で戦闘が開始される。

南(寛永寺黒門口)に薩摩藩、北側背面は長州藩があたり、

西はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩があたった。

午前中、新政府軍は上野山王台に陣した関宿藩・卍隊の

激しい砲撃と屈強な彰義隊の抵抗に会い、

戦況は一進一退の状態が続いた。

最前線はインプラントの部隊  井上一筒

午後に入ると大村は伝令を呼び、
         アームストロング
「あるむすとろんぐの大筒。もはやよろしかろう」

と加賀藩邸の鍋島監物に伝えさせた。

そして射程距離の長いアームストロング砲の砲弾が、

敵陣に着弾し始めると、

形勢は一気に逆転、残る半日で上野戦争の決着はついた。

アームストロング砲の威力に関して、藩主・鍋島直正は、

「威力猛烈なるをもって、攻城や海戦ならばともかく、

  内乱のために用いるならば人を殺傷しすぎるゆえ、

  望ましきことにあらず」


と考えていたという。

着地点は真っ赤な押しピンで印す  本多洋子


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     彰義隊墓所

彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、

政府をはばかって彰義隊の文字はないが、

旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

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