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川柳的逍遥 人の世の一家言
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始発から終着駅のフィクション  堀 冨美子

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15代将軍徳川慶喜

「徳川慶喜」

第2次長州征伐の最中、大坂城で病死した家茂のあと、

第15代将軍に擁立されたのが、慶喜であった。

慶応2年(1866)12月のことである。

そして、同じ月、

攘夷論者でありながら佐幕的立場をとっていた、

孝明天皇が突然死んだ。

≪毒殺の疑いがかけられているが、可能性は非常に高い≫

毒掃丸の連絡を待つ正露丸  美馬りゅうこ

たしかな証拠があるわけではないが、

佐幕的立場をとる孝明天皇では、

長州藩、薩摩藩にしても、

倒幕を唱える急進的公家たちにしても、

やりにくかったはずだからだ。

幼少の新天皇を擁立し、それを「玉」として使いながら、

自分たちの思う方向へ進ませようと考えたのではないだろうか。

こうして新しい将軍慶喜、

新しい天皇明治天皇へ、

と幕府も朝廷も、代替わりしたのである。

蜥蜴の青をまとう左半分  森田律子

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家茂が死んだため、第2次長州征伐は中止となったが、

幕府の威信をかけた軍事行動を中止したことにより、

威信は大きく低下することになった。

もはや幕府は、倒壊寸前のところまできていたのである。

事実、慶喜は京都で将軍になったが、

そのまま京都にとどまり、

江戸へ戻ることができないでいた。

しめやかに弔う不本意な昨日  下谷憲子

京都を離れれば、その隙をついて、

薩長が朝廷と幕府の間を割くことが考えられ、

朝廷が、

「幕府に政治を委任するのはやめる」といい出せば、

それで幕府は終ってしまうからだ。

手のひらで遊ばせている天道虫  河村啓子

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その件は戦場を片付けてから  壺内半酔

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              上申書・叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)

岩倉具視和宮降嫁に反対する公家と対立し、

岩倉村に蟄居している間に書き上げた著作。

上申書には政の大綱は朝廷で起案し、諸藩を集めて評議させる、

ことなど卓越した提案がならんでいた。


「新島襄登場」
                                                        
上州安中藩士の子として神田に生まれ、
                                                しめた
1864年、鎖国の禁を破って米国船に乗り込んだ
新島七五三は、

船長から
ジョーと名付けられボストンに渡る。

地元資産家
ハーディ夫妻の庇護の下、現地の大学や神学校に学び、

72年には岩倉 使説節団の通訳として渡欧。

そして74年。

米国の伝道組織アメリカン・ボードの総会で、

大学創設の夢を語った彼は、約5千どるの寄付を手に帰国。

翌75年、京都に借り受けた華族・
高松保実邸で、

教師2名、生徒8名の
「同志社英学校」を開校する。

ちなみにこの時力を貸したのが
八重の兄・山本覚馬だった。

垢を落せば残った骨が光り出す  森 廣子

「薩長同盟」

「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、

四国艦隊との戦争にも惨敗し、

いよいよ攘夷が困難であることを思い知る。

倒幕に根強く反対していた上層部も、

高杉晋作らによる軍事クーデターに遭って淘汰され、

長州の藩論は、「武力倒幕」にまとまった。

四月からだんだん開く川の巾  笠原道子

こうして、長州の藩論が武力倒幕に固まるなか、

新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。

もとは公武合体派で、

長州と激しく対立していた薩摩藩である。

薩摩藩の西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、

「幕府には時局をまとめる力がまったくない」

と聞かされたこともあって、

ひそかに倒幕を目指しはじめていたのである。

覇王になるはずの朝の目ん玉  山口ろっぱ

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岩倉具視幽棲旧宅

ただし、薩摩藩のトップは、

「幕藩体制の遵守」をかかげていた島津久光である。
                                                    たかちか
家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・毛利敬親と違い、

久光が倒幕行動を許すとは考えられない。

そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、

久光に相談せずに、武力倒幕の道を模索することになった。

君の仕業かと消しゴム付き鉛筆  酒井かがり

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岩倉具視・岩倉村幽居の図-1

すると、倒幕という方針で共通する両藩を、

結びつけようという人物があらわれた。

土佐の脱藩浪士・坂本竜馬中岡慎太郎である。

しかし、薩摩と長州は犬猿の仲。

とくに長州は、蛤御門の変で薩摩に手痛い敗北を喫しており、

強い恨みを抱いていたのだ。

そこで竜馬は、

まず両者が経済的に助けあえるように手を打つ。

この時期の長州は武器の不足に悩み、

薩摩は天災による米不足に頭を悩ませていた。

地平線つなぐ長芋and数珠  井上一筒

そこで竜馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、

長州はその見返りに、米を渡すことを提案したのだ。

竜馬のこの狙いは的中し、長州と薩摩は経済同盟という形で、

まず手を結んだのである。

そして、慶応2年(1866)1月22日、両者は軍事同盟を結んだ。

「薩長同盟」である。

結べとは言ったが括れとは言わん  兵頭全郎

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岩倉具視・岩倉村幽居の図-2

岩倉具視、西郷隆盛・薩摩藩、長州藩による

クーデターは成功した。

クーデター軍に守られながら、

最初の小御所会議が開かれた。

そこには徳川慶喜は出席していない。

「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」

と主張する山内容堂らの意見もあったが、

クーデター軍に銃口を突きつけられているような状況では、

慶喜サイドの大名も多くをいえず、

結局、ここに慶喜の官職辞任と、

領地変換が迫られることになったのである。

試着室に入って会議出てこない  井上しのぶ

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表にはエホバ裏には桃太郎  田中博造

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       幕末の浮世絵

「政変のその後」

元治元年(1864)、長州藩は池田屋において、

謀反の密儀をしていた同藩士らが、

京都守護職預かりの、新選組によって、

殺傷、捕縛されるという事件がおきた。

また蛤御門における会津・薩摩連合軍との攻防で、

長州藩は朝敵となる。 この一連の事件で、

会津藩・薩摩藩・新選組に対して抱く、

彼等の憎悪は一気に高まった。


泣き言をたっぷり詰めた虫歯です  早泉早人

その後、幕府軍は長州征伐に出陣するが、

期待ほどの成果は上がらず、一方で、

苦境にあった長州藩と、

しだいに倒幕に傾きつつあった薩摩藩は、

その距離を縮めていった。

こうして手を結んだ薩長は、

一気に倒幕への動きを加速していく。


ここから、会津藩をめぐる運命の歯車が少しづつ狂っていく。

教えます日暮れのお客の叩き方  酒井かがり

孝明天皇崩御の五ヶ月前、慶応2年(1866)12月、

将軍・家茂は行き詰った長州征伐の心労がもとで病没し、

将軍となっていた慶喜は、

倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、

土佐藩が建議した「大政奉還」しかないと判断した。

そして慶応3年(1867)10月、朝廷への政権返上を決定した。

ゆく末に安全ピンを敷き詰める  富山 悠

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   岩倉具視

意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、

岩倉具視薩摩大久保利通、西郷隆盛らと図り、

先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、

御所の外門を封鎖して「王政復古」の大号令を発した。

≪こうして12月9日、王政復古の大号令が出されると、

 薩長を中心として発足した新政府から前将軍
慶喜は除かれた≫

こんにゃくにボディブローをくらわせる  笠嶋恵美子

岩倉は、将軍職の廃止、京都守護職の停止、

旧幕府の領地返上などを強引に決定した。

母が有栖川宮出身であった慶喜は、

尊皇の想いが強く、天皇の都を血で汚したくないと、

戦いを嫌って大坂城に移る。

だが、薩長の横暴に憤る主戦論に抗しきれず出撃を命じた。

会津、桑名を主軸とした1万5千が京都をめざし、

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で薩長軍と衝突した。

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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鑑あるから目を合わす舌を出す  田中博造

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「覚馬の視力」


慶応元年(1865)、国元会津から京都の覚馬にあてて、

吉報が届く。

妹の八重が盟友・川崎尚之助と祝言を挙げたのである。

時に八重21歳、尚之助30歳。

「慶応年間会津藩士人名録」によると、

尚之助は藩校・日新館の砲術師範として、

洋式砲術を教授する身になったという。

幸せになる条件が揃いだす  福尾圭司

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覚馬自身も、禁門の変の功績によって、

公用方に抜擢されており、38歳を迎えたこの年は、

本来であれば、前途洋々たる気に満たされるはずだった。

だがこの時、

覚馬はその生涯を左右する病魔に襲われていた。

暗闇の中で読書をし過ぎたためとも、

鉄砲の硝煙が目に浴びたともいわれ、

視力が急速に衰えていたのである。

海見える窓の真ん前ビルが建つ  新家完司

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蛤御門での苦戦を反省した会津は、

藩兵に洋式銃を訓練させるため

丸太町東詰の畑を買い上げて練兵場にし、

覚馬に指導させた。

だが目の治療成果は上がらず、教えるのは不可能となる。

また洋学所通いも、一人歩きもできないほどになり、

京都の清浄華院での療養を余儀なくされる。

視力を失った砲術家に、一体、何ができるというのか・・・。

視力を失うのはただでも恐ろしい。

しかも、砲術の専門家である覚馬の心境はいかばかりか。

その懊悩は常人に推し量れるものではない。

何よりもあ行からリアリズム  柴田園江

そして慶応2年(1866)12月、容保にも不幸が訪れる。

孝明天皇の崩御である。

容保は突然の不孝に呆然となった。

これには薩長と手を組む岩倉具視による毒殺が噂されていた。

彼らにとって、幕府寄りの天皇は邪魔な存在であった。

(※ 現在、毒殺は噂ではなく真実との見方もなされる)

気が付くと毒殺されていたわたし  井上一筒    

天皇崩御の五ヶ月前、将軍家茂も行き詰った長州征伐の

心労がもとで病没し、慶喜が将軍となっていた。

慶喜は倒幕をめざす薩長の気勢を削ぐには、

土佐藩が建議した大政奉還しかないと判断した。

意表を突かれ一時は慌てた討幕派だったが、

岩倉は薩摩の大久保利通、西郷隆盛らと図り、

先に容保らが長州を追放した八・一八クーデターを真似て、

御所の外門を封鎖して、王政復古の大号令を発した。

もの言わぬ闇をこまかく切り刻む  嶋澤喜八郎

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つきつめてゆくと愛かなてんと虫  時実新子

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大河ドラマ「八重の桜」の怪しいところ。

八重の実家である山本家が広すぎるんです、

下級武士の家庭だから、こんな立派な屋敷には住めません。

また射撃練習場が小さな家にあるわけがなく、

射撃の練習はもっぱら、

鶴松城の三の丸にあった操連場を利用していたと思われます。
(余計なお世話)

難しいことは言わない山桜  中野六助

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「川崎尚之助の消息を尋ねる」

近年になって、八重川崎尚之助の妻となったことが、

確認できる資料が発見されたため、

二人が夫婦だったことは間違いないとされる。

しかし、二人の夫婦生活がどのようなものであったか、

が分るエピソードは残っていないし、

八重自身も尚之助のことについては、

口を閉ざして語りたがらなかった。

夕日の海に色を塗ったのは誰だ  内山雅子

一方、二番目の夫・新島襄については、

回顧録で思い出の数々を語っており、

まだ封建的な道徳観念が色濃く残っていたことを、

差し引いても、あまりにも対照的な扱いといえる。

それでも八重にとって尚之助との夫婦生活が、

忘れたい過去だったかといえば、

決してそんなことはないはずだ。

特に兄・覚馬が京都に発ってからは、

洋学に明るい尚之助が、

兄に代わる八重の心の拠り所となったことは確かだろう。

あらましは流れ星から聞きました  桑名知華子

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尚之助は会津戦争の敗戦と時を同じくして、

八重と別れたとされるが、

それまでは会津藩士ではないので、

開城の際に会津を去ったというのが定説であったが、

近年になって、

尚之助は会津藩士だったことがわかっているので

疑問の余地がある。

他藩出身の尚之助に責めが及ばないように、

八重の方から別れたという説もあるが定かではない。

(ドラマではここのところを強調しているが)

会津藩が斗南に移封になると、

尚之助も斗南藩士として同行している。

その後、廃藩置県を経て斗南藩も消滅、

尚之助は裁判に巻き込まれて東京に身柄を送られ、

判決を待たずに獄中でひっそり死んだ。

真実は多数決に棄てられた  岡田幸子
                                                にょこうば
明治5年4月14日、京都府の「新英学校及女紅場」

開校へ、「出頭女」として八重が奉職したのは、

同年4月25日、川崎八重の名での奉職の可能性がある。

4年8月米沢城下、内藤方寄留時は、

「川崎尚之助妻」と記されており、

その後の7ヶ月程の間に、

尚之助と離縁したとする記録はない。

消しゴムは買えるわたしを消すために  田中博造

八重が京都府の辞令で山本姓となるのは、

8年2月8日付けの

「山本屋ゑ女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事 京都府」

とあるのが初見である。

いわゆる、明治4年~8年のどの時点かで、

八重は川崎から山本姓に戻ったのである。

可能性として、尚之助が槇村正直救出のための上京時に、

八重と再会していたかもしれない明治6年か。

尚之助が対らプラキストン裁判のため、

また東京から函館に向かったとされる明治7年か。

漂うていましたアリバイなき時間  きりのきりこ

明治7年5月時点での尚之助の動向を伝える資料が

青森県立図書館にあり、

京都へ行ったとする内容である

これらを考え合わせると、

尚之助は開拓使には函館にと届出、

密かに上洛して八重や覚馬に会い、将来について話し合い、

旧姓に戻ったのは、この7年の時点とする可能性がある。

やっと見つけた出口扉にノブがない  森田律子

ところで、八重の母親・さくにとって尚之助はどのような

存在であったのだろう。

さくの同志社女学校寄宿舎の舎監時代(明治11年~16年)

八重と新島との結婚後であるが、

八重や前夫・尚之助の会津籠城戦での、

勇ましい戦いぶりを、

女子生徒に幾度となく話して聞かせている。(高畑菊「回想録」より)

さくには、八重の襄との再婚は隠す必要もなく、

「尚之助は語るに誇るべき存在であった」 といえるし、

これは八重を含む山本家の尚之助に対する気持ちを、

如実に表している。 (『創設期の同志社』より)

てのひらを重ねて違う虹を見る  前田一石

「八重の女紅場時代」

女紅場とは、女子に読書き算盤・裁縫・料理を教えた施設。

女紅場時代について八重(78歳)の懐旧談の引用に、
                かねおはぐろ
「生徒の服装は鉄漿をぬり、

懐剣をさし、実にその美麗な事は

今日では想像もつかない様であると思ひました」


とある。 (福沢諭吉『京都学校の記』)

髪梳けば富田林の痩せギツネ  井上一筒

なお、明治8年7月に女紅場に入学した岡田しげ子は、

旧会津藩の老女だった芦沢鳴尾が舎長として居り、

人格者で子猫を可愛がっていた様子を懐旧し、さらに、

「新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、

同ぬい子女史
(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)は、

機織や養蚕の先生でありました・・・」


と述べている。 (『鴨沂会雑誌』第50号)

霜柱まことに遺憾に存じます  酒井かがり

当時の女紅場の女生徒には、明治維新になって、

我が世を迎えた公郷(250石位)の子女が多く、

会津戊辰戦争に敗れ、

惨たる戦場と辛苦の生活を味わってきた八重にとって、

女生徒の容姿が如何に強烈な印象を与え、

一生忘れ得ぬものであった事が判る。

これが当時、京風に同化できぬ八重の其後の、

和洋ない交ぜた美装の一要因になった。


バラの花銜えりゃカルメンになれる  下谷憲子

「為念」

奥田は女紅場教員に八重と並んで、

「山本うら子刀自」が居たと述べている。

が、これは山本覚馬の妻・うらではあり得ず、

八重の姉で窪田家に嫁した女性で「山本八重の姉」

ということで「山本うら子」とされたものと思われる。

8年4月~18年8月29日迄、

「授業補」として「窪田うら」が女紅場に在籍している。

なお、女紅場には後に跡見学園を創設した跡見花蹊

絵画を教えていたと説をなす人もいるが、

跡見玉泉と娘の玉枝であって花蹊でない。

生きのびて軽い名前を持ち歩く  森中惠美子

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