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川柳的逍遥 人の世の一家言
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白旗をうつくしく持つときもある  森中惠美子

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(画面をクリックすると拡大されます)

「新島八重の掛け軸」

新聞紙面の内容より。

ときは1868年。戊辰戦争で新島八重は、

会津若松城に籠り、鉄砲を構えました。

新政府軍に追い詰められ、

次の日は、慣れ親しんだ城の明け渡しという夜。

八重は城内の蔵の壁に和歌を書き残したそうです。

後ろ手で寒い雑音閉めました  美馬りゅうこ

  アスノヨハ         イヅクノタレカ          ナカムラム
明日能夜盤  何国乃誰可   な可むら舞
  ナレシオシロニ           ノコスツキカゲ
な連し御城尓    残須月可計   (原文のまま)

                 八十四歳 八重子

和歌からは、無念さが伝わってくる。

きらきらと月射し渡る霧氷かな  大西泰世

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雑物蔵に和歌を刻む八重 (会津図書館)

(画像を拡大してご覧ください)


3年後、八重は京都にいた兄・覚馬を頼って上洛。

同志社創設の新島襄と結ばれた後も、

この和歌を、掛け軸や短冊に記したとされる。

位置はいま踏んばることへささやいた  たむらあきこ

その一つで、八重が80歳を過ぎて記した掛け軸が、

浄土宗大本山・金戒光明寺で初公開されている。

寺には幕末・会津藩主・松平容保が就いた京都守護職の、

本陣が置かれ、1千人の藩士が駐屯。

幕末の動乱などで戦死した藩士の墓もある。

溜息のかたちで椿落ちました  河村啓子

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(拡大して読んでみて下さい)

「この和歌はリセットの歌です」

と、寺の僧侶・橋本周現さんは、そう解説される。

「故郷を失うという絶望だけなら自刃する選択肢もあった。

それを乗り越え、明日への希望を忘れない強さ、

先行き不透明な現代にも生きる歌なのです」


今ぞ今 死は生きること生きて死ぬこと  時実新子

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折り紙は品行方正で通す  谷口 義

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     松平容保

「火中の栗を拾う」

嘉永6年(1853)、黒船が来航し、

強硬に開国を迫るペリーを前に、幕府は翌年、

日米和親条約を締結。

続いて安政5年(1858)に、

大老・井伊直弼孝明天皇の勅許を得ないままに、

日米修好通商条約を結んだ。

この幕府独断での締結に、

尊王攘夷を唱える人々が反発する。

が、井伊は彼らを大弾圧を実行する。(安政の大獄)

しかしこれが、尊王攘夷派暴発の引き金となった。

樟脳がころころと落ち冬近し  森中惠美子

安政7年(1860)桜田門外の変で井伊が討たれると、

文久2年(1862)には、老中・安藤信正も襲撃されるなど、

各地でテロの嵐が吹き荒れる。

その最たる地が、京都であった。

この頃の京都は、長州藩を中心に

過激な尊王攘夷派志士が跋扈し、

彼らは安政の大獄で、幕府に協力した者たちを、

「天誅」と称して、次々と暗殺していくのである。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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 吉田松陰処罰の場面

こうした状況下で、

幕府が京の治安を回復すべく設けたのが、

「京都守護職」である。

京都守護職は、京都の警察機構の頂点にあたる。

京都役所代京都町奉行という、

従来の治安維持機構を傘下に置き、非常時には、

畿内の諸藩に対する軍事指揮権を持つという、

絶大な権限が付与されていた。

格子の向こう花魁ですか神ですか  安土理恵

しかし、尊王掛激派の取り締まりは容易ではなく、

当然、人も金も莫大にかかり、

幕府からの年5万石の投料ではとても賄いきれない。

さらに、恨まれることはあっても、さしたる実利はない。

そう考えると「貧乏くじ」と言わざるを得ない役職なのだ。

そのお鉢を回されたのが、会津藩だった。

まだ横に貧乏神がいるようで  くんじろう

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  松平春嶽

「ぜひとも就任していただきたい」

幕府政事総裁職・松平春嶽松平容保に、

京都守護職を打診したのは、文久2年5月3日のこと。

会津藩が選ばれたのは、幕府にとって、

「頼りがいのある」存在だったからで、

会津藩は「軍事力」の面からも幕府を支えていた。

横っ腹に草間弥生の玉受ける  三村一子

文化3年(1806)から翌年にかけてのこと。

ロシア船が蝦夷地を襲撃するという事件が発生すると、

会津藩は幕府に出兵を願い出た。

藩の武威を天下に示す狙いがあった。

その9ヵ月間の樺太警備を務め、

藩兵の規律正しい行動は、世間でも評判となった。

大根の髭は他人を騙さない  桑原伸吉

また、文化7年(1810)から相模沿岸警備を10年間、

さらに、弘化4年(1847)からは、

房総海岸警備に7年間就いたことで、

会津藩は幕府にとって、

「非常に強力な軍備を持った雄藩」

であるとの認識に、つながったのである。

君のこと好きです広い意味ですが  前原正美

また、黒船来航時には、江戸湾防備に当たった。

強悍で知られ、

かつ幕府に絶対の忠節を尽くす会津藩が

京都守護職を命じられたのは、

ある意味必然的な流れだった。

君が代を歌いつづける海の底  大森一甲      

もっとも、会津藩にとっては、

京都守護職就任の打診は青天の霹靂のこと。

江戸湾防備に続き、

混迷を極める京都市中の取り締まりが、

「火中の栗を拾う」 任務であることは、

誰しも分っていたことである。

ゆえに西郷頼母田中土佐ら重臣たちは反対し、

容保も、

「不肖の身である自分は、そのような大任に堪えない」

と松平春嶽の求めを一度は断っている。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

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夕映えに染まり町の灯に染まる  新家完司

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   会津城周辺地図

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「八重の暮らした会津城下町」

会津若松城下は、天正18年(1590)会津領主となった、

蒲生氏郷(がもううじさと)の造った町割りが、

幕末まで約280年間、ほぼ変わることはなかった。

城下は外堀と土塁を境に内側を郭内、外側を郭外と称した。

郭内は東西1782メートル、南北1273メートルと、

やや、楕円形状になっていた。

待ち惚けとも知らず弾んでいた時間  田中輝子

郭内には、鶴ヶ城や藩役所、藩校と上級武士の屋敷が、

幕末時点で四百数十軒置かれた。

維新後、外堀は埋め立てられ残っていないが、

東北角の部分に高さ約5メートル、

長さ約170メートルの外堀土塁の

一部が保存されている。

雨雲の切れたところで息をする  笠嶋恵美子

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    藩校日新館       

郭外から郭内へ入るには、全部で16ヵ所の郭門があり、

厳重に守られていたが、今は甲賀町口郭門を除き、

その遺構は失われた。

戊辰戦争「藩校・日新館」はじめ、

郭内の武家屋敷はすべて、焼失してしまったが、

鶴ヶ城は三之丸を除き、おおむね原形を保っている。

藩政時代の町名も多くは失われたが、

郭内郭外とも、

城下の旧町名由来などを記した標識が設置され、

町案内に役立っている。

せめて夕暮れをちょっと値切ってみたくなる 中 博司

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 米代四ノ丁地図 (画面は拡大してご覧下さい)

八重の生家は鶴ヶ城の西、当時の米代四之丁にあった。

米代とは変わった地名であるが、

蘆名時代からあった名称で、

古くは稲台また米袋とも称された。

米代一之丁と米代二之丁のあいだには、

藩校・日新館があり、

現在は北西角にあった天文台跡のみが残る。

目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子  

八重の住んだ米代四之丁の道は、今も残り、

当時は道幅約3・6㍍、家数は22軒で、

ほとんどが家禄百~二百石クラスであった。

八重の父・権八は砲術師範、

拾二石三人扶持と石高は低かったが、

身分的には上級武士であった。

正論を吐いて踏ん張るやじろべえ  岡内知香

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 日新館射撃練習風景

隣の白虎隊士・伊東悌次郎は八重に射撃を習い、

飯盛山で自刃した。

裏の米代三之丁には幼馴染の日向ユキ

高木時尾の住む屋敷があった。

現在は住宅街となり、当時の面影を偲ぶことは、

出来ないが、「覚馬・八重生誕の地碑」が建立されている。

生き死にの話はご飯食べてから  谷口 義

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藩・家老たちの邸宅がある本二ノ丁

(画像は拡大してご覧下さい)


鶴ヶ城の北を東西に走る本一之丁には、

重臣の屋敷が立ち並んだ。

甲賀町通りを挟んで家老・内藤介右衛門邸と、

西郷頼母邸が向かいあい、

現在裁判所となっている内藤家には当時の庭、

白露庭が残る。

音立てて乾きはじめたのは昨日  大西泰世

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西郷邸は戊辰戦争の際、

頼母の母や妻子ら一族21人が自刃したことで知られ、

「西郷邸址」の大きな碑が立つ。

降伏開城後、降伏式はこの両邸のあいだの路上で行われた。

その際に敷かれた緋毛氈(ひもうせん)は、

泣血氈(きゅうけつせん)と名付けられ、

「この悔しさを生涯忘れまい」

と小さく切り分けられ藩士らが所持した。

カサコソと抱いた骨壷から返事  桑原伸吉

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中央が甲賀町通り

(画像は拡大してご覧下さい)

地図下段に内藤・萱野・西郷の邸宅がある           

本一之丁を東へ進むと、家老クラスの屋敷が建ち並ぶ。

萱野権兵衛は、「会津戊辰戦争」の責任を一人で負い、

切腹したことで知られる。

向かいは藩の馬術練習場・桜ヶ馬場で、

往時は桜で囲まれていた。

萱野邸の隣は、田中土佐邸で、

土佐は甲賀町口郭門を破られた責任をとり、

神保内蔵助とともに自刃した。

三寒四温まだ咲いていた寒椿  籠島恵子  

甲賀町通りは、

郭内への正門である甲賀町口郭門と鶴ヶ城をつなぐ、

南北のメインストリートである。

郭内から郭外の甲賀町へ、つながる道であることで、

この名が付けられた。

通りの長さは、本一之丁から甲賀町口郭門まで、

約585メートル、往時の道幅は約18・2メートル。

重臣の屋敷が置かれ、本一之丁、大町通りと同じく、

郭内の最重要路の一つであった。

南端の本一之丁から北へ五之丁まで、

東西の道と交差する。

郭内まで東側9軒、

西側11軒の武家屋敷が建ち並んだ。

悲話眠る箱階段の艶光り  荻野浩子

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  藩士の水練の風景

甲賀町口郭門は、

両側が高石垣になった厳重な門が設置されたが、

現在は石垣のみ残る。

戊辰戦争の際は、大手口であるこの門に、

新政府軍が大挙押し寄せ大激戦となった。

外堀を越えると東側には、

中級藩士の学校・北学舘があった。

その北、一之丁との角には、

会津藩の迎賓館である御宿屋敷が置かれ、

参勤交代の越後藩士たちや幕府役人が宿泊した。

米粒のひとつひとつに遺言書  くんじろう

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人間をすぐに数える紙コップ  森中惠美子

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    ドナチ彗星

イタリア人の天文学者・ジョヴァンニ・P・ドナチが発見した彗星。

「ドナチ彗星―箒星」

尾が伸びたように見える姿から、

箒星(ほうきぼし)と呼ばれる。彗星のこと。 

その形状が流星と似ているが、

移動速度が異なるため、

彗星は天空に、留まっているように見える。

1858年10月10日に最も地球に接近した。

次に接近するのは3811年とされている。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

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  井伊直弼

「難問にケリをつけた幕末の剛腕大老―井伊直弼」

井伊直中の子として生まれた直弼は、

14男で兄弟が多かった上に、庶子であったこともあり、

養子の口もなく、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、

17歳から32歳まで、

三百俵の捨扶持の部屋住みとして15年間、

茶道や和歌、禅、居合術などを学び、

世捨て人のように生きた。

その風流な姿から「チャカポン」(茶・歌・鼓)とあだ名された。

昼寝から欠伸ひとつをした大器  辻内次根

ところが弘化3年(1846年)

第14代藩主で兄の直亮(なおあき)の世子であった、

直元が死去したため、人生一変、

兄の養子という形で、彦根藩の後継者に決定する。

そして、36歳のとき、第15代彦根藩主となる。

彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。

その実績から江戸城にスカウトされ、辣腕を振るう。

そして、安政5年(1858)4月、

将軍家定の後継に慶福(よしとみ)を推す「南紀派」の、

政治工作により、将軍に次ぐポストである、

大老に登りつめる。

弾むたび古い鱗を振り落とす  嶋澤喜八郎

彼が「桜田門外の変」で命を落とす、

およそ2年前のことである。

井伊は、幕府がかかえていた二つの大きな問題を、

強引な手法で解決へと導いていく。

ひとつは、
「日米修好通商条約」

日本側に不利な不平等条約であったが、

井伊は日本の行く末を考え、

孝明天皇の勅許を得ないまま、

強引に条約締結へと踏み切った。

そして、もうひとつが、「将軍の跡継ぎ問題」である。

投げかけた答は長い長い貨車  山本早苗

時の将軍・家定に子がいなかったため、

直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の慶福(家茂)を、

十四代将軍の座にすえた。

後継候補にはもう一人、水戸徳川家出身で、

聡明だとして評判の高かった当時22歳の一橋慶喜もいたが、

直弼は、慶福のほうが将軍家の血が濃いとし、

慶福を将軍職につけたのだった。

器からはみだしていくボヘミアン  高島啓子

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  水戸斉昭

これには、血統を重んじて、

徳川将軍家の権威を強化するという意図のほかに、

自分の意のままになる若い将軍をすえ、

「自身の権力を強めたい」

という狙いがあったと考えられる。

しかし、直弼が行った強権的な政治は激しい反発を呼んだ。

とくに不満をつのらせたのは、

慶喜の出身家である水戸藩である。

水戸藩をはじめとする尊王攘夷派は、

直弼が、勅許を得ずに条約に調印したことを理由に、

直弼の諸政策に対して、

真っ向から反対の姿勢を示していく。

塩壺の底に貧乏神がいる  新家完司

そこで、直弼は「安政の大獄」という大弾圧で、

反対派を多数処罰した。

水戸斉昭、一橋慶喜、松平春嶽、ら一橋派が、

違勅調印と詰め寄ると、

「不時登城」を理由に隠居謹慎を命じ、

一橋派の朝廷工作(戌午の密勅)が明らかになると、

斉昭らを蟄居、橋本左内、吉田松陰ら、志士を斬刑に処し、

皇族や公卿も粛清した。

異議のある人は方物線上に  井上一筒

しかし、直弼の独裁政治も長続きはしなかった。

自派の幕閣も次々と罷免し、孤立を深めていく。

そして、安政7年3月3日雪の朝、

外桜田の藩邸から江戸城に向かう途上、

水戸脱藩浪士ら18名に襲撃され、

井伊直弼は44年の生涯を閉じる。(桜田門外の変)

何が変わったか おそらく風とおし  下谷憲子

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パリの夜空に輝いた巨大な箒星(1858年)

「大河-ちょっと覗き見」

井伊直弼への談判のあと、

直弼邸の裏門から出た松平容保は、

空に長い尾を引く巨大な箒星を見て、

不吉な思いにかられる。

容保が見た箒星を会津の八重も見ていた。

「あれ、見らんしょ!妖霊星だし」

妖霊星が現れると幕府が滅ぶなど、

不吉な予兆と言われていたが、

八重の不安をよそに、

覚馬尚之助は迷信だと切って捨てる。

あいまいにしておく影のことなんか  清水すみれ

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ところが八重の不安が的中する。

長崎で流行りだしたコレラは、

瞬く間に広まって大勢の死者を出し、

薩摩藩主・島津斉彬の命も奪った。

さらに幕政では、

井伊直弼による大粛清が始まっていた。

水戸藩への密勅に関わった者たちへの、

一斉検挙が行われたのだ。

雲行きが怪しい笑顔片付ける  和田洋子


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     当時の箒星の出現についての日記

宮崎県・「宮崎県史史料編近世5」より。

「一 安政五年戊午八月酉戌之間ニほうきぼし出、

 長さ一丈五尺計・横壱尺計、暮六時下刻ニ出、

 夜五時上刻ニ入、星入時者弐丈五尺計ニ尾を引相見合候」

 永浜家文書・高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」


(永浜公法氏所蔵)に、と書かれている。 

※ 一丈五尺(約4.5メートル)  弐丈五尺(約7・5㍍)

悠遠を斬る一瞬の流れ星  中島国夫

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とりあえず意思は曲げない接続詞  たむらあきこ

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   西郷頼母

会津藩祖・保科正之の同族で、

代々家老職を務めた西郷家、西郷近思の嫡男として、

天保元年(1830)に生まれた頼母は、

万延元年(1860)、31歳で家老職を継ぐと、

藩主・松平容保に忠誠をもって仕えた。

しかし、時代は幕末に向かって混乱を極め、

頼母は会津藩とともに、歴史の渦の中に巻き込まれる。

ひん曲がり斜めに咲いてそれも花  山下怜依子

頼母、そして会津藩にとって、

後の命運を左右することになったのは、

文久2年(1862)だった。

幕府は容保に「京都守護職」を命じた。
 
これを知った頼母は急ぎ江戸へ上り、

朝廷と幕府の間に入り、

「難局にあたることは容易ならざるため、

  京都守護職は辞退すべし」


と容保に説いた。

咲きなさい自分の好きな色かたち  嶋澤喜八郎

しかし、幕府の執拗な要請に、

容保は、京都守護職を受諾してしまう。

それでも、強固に辞任を求めたことで、

容保の怒りを買った頼母は、家老職を解かれ、

蟄居させられてしまう。

残照を描き私を俯瞰する  前中知栄

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    鶴ヶ城外景 (画像は拡大してご覧下さい)

慶応4年(1868)「戊辰戦争」が起こると、

頼母は急ぎ家老職に復帰する。

江戸藩邸の後始末を終えた後に会津へ帰ったが、

維新後の新政府は、「会津藩征伐令」を出し、

会津に攻め入る。

「不戦恭順」を唱えていた頼母だったが、

恭順の意が朝廷に届かず、

総督として新政府軍を迎え撃ったが敗れて、

鶴ヶ城に帰る。

頼母は長子の吉十郎を伴って城を出たが、

母をはじめとする一族は籠城の末、全員が自刃した。

字余りのままで流れてゆくのです  中 博司

その後、頼母は、榎本武揚らと合流し、

箱館で政府軍と戦ったが、最後には降伏、

館林藩に預けられて幽閉される。

明治5年(1872)に開放されると、

伊豆に私塾を開設し、

塾長として里人らに学問の指導を行った。

明治8年(1975)からは福島県の霊山神社の宮司を勤め、

明治36年(1903)会津若松の旧藩邸のすぐ近くにある、

十軒長屋で74年の生涯を終えた。

手も足も口も出さない石となる  河村啓子

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