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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いけません賽銭箱は入れるもの  筒井祥文

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    宋との貿易

(すべての画像は拡大してご覧ください。観光効果が味わえます)

「清盛の経済革命」

「金が要る」  清盛はそれを「日宋貿易」に求めた。

父・忠盛が西海の海賊を鎮定して得た貿易権を、

継承したのだが、清盛はさらに本格的にしようとした。

海に向かって開かれた玄関口のような「厳島神社」から、

「音戸の瀬戸」を通り、瀬戸内海の奥座敷ともいうべき、

茅渟(ちぬ)の海へと、「宋船」を導き入れたことがそれである。

攻めるより手をつなぐこと考える  合田瑠美子

大小の和船が先導し、かつ護衛してゆく先には、

摂津国矢部荘福原の港がある。

宋船はそこへ入港した。

港は、「大輪田泊」という。

清盛が惜しみなく私財を投じ、

阿波国の豪族・田口成良に修築させたものである。

清盛が土木工事に抜きん出た才能を持っていたのは、

この修築からも実感できる。

物忘れしてきたような臍の穴  河村啓子

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   大輪田泊記念碑

この港は地理も水深も、充分なものがありながら、

風浪の激しいことが難点だった。

そこで中納言の頃の清盛は発案した。

「島を造って、風浪を弱めれば良いではないか」

海を埋め立てて島を造る。

だが、それにあたって公家たちが

「人柱を立てるべきだ」 と言い出した。

清盛はこれを一蹴し、

「一切経の経文を書いた石」を沈めて基礎とした。

そのため、島は「経が島」と名付けられた。

白菜の真ん中にある決意  新川弘子

なぜ、これほどの大工事をして宋船を摂津まで、

導き入れる必要があったのか。

当時、日宋貿易の拠点となっていたのは、

九州の博多だった。

博多には宋の商人が屋敷を構え、

貿易を独占する勢いで商いを展開していた。

清盛はそんな状況に苛立った。

博多を通り越して、福原まで宋船を招き寄せれば、

膨大な利を得られよう。

そう信じ、私財を傾けて、

「大輪田泊」の大修築に踏み切ったのである。

迷いだしたら金平糖エイヤ  蟹口和枝

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   宋 銭                宋の椀


かくして、宋船はこの完成間近な経が島を回り込んで、

投錨し、摂津の地に荷を揚げた。

荷は様々にあったが、代表はやはり「宋銭」であろう。

この宋国の貨幣は、

これまで僅かながら流通していた国産の貨幣を圧倒した。

当時、お多福風邪が諸国に蔓延しており、

たまさか宋銭が溢れ返り出した時期と重なったために、

「銭の病」などと呼ばれたりもした。

痛い目に合わねば醒めぬ欲の夢  伊達郁夫    

それくらい宋銭は猛威を振るったが、

貨幣経済を驚くほど進歩発展させもした。

言い換えれば、

清盛は日宋貿易によって、

「経済革命」を引き起こしたのである。

革命は、清盛をして朝廷を凌ぐほどの富者にまで押し上げた。

だが、限られた国内において、ある勢力が伸し上がれば、

それとは別な勢力は凋落する。

前者は、「平家」、後者は、「朝廷と寺社」だった。

閂をはずせば街は水びたし  嶋澤喜八郎

清盛が肥大すればするほど、

そのせいで貧相になる者が出る。

当然、膨張してゆく側は、没落してゆく側から、

妬かれ、疎まれ、憎まれる。

このとき、清盛ごときに媚び諂うものか。

鬱勃(うつぼつ)と敵愾心を滾らせたのが、

後白河上皇であった。

小石蹴る負けを認める認めない  西崎久美子

後白河は天皇在位の頃より、清盛と蜜月関係にあった。

互いに利用し、利用されることを好しとして、

邪魔な存在を次々に攻め滅ぼし、

遂には、この国の頂点に君臨した。

しかし、清盛が千僧供養を催した頃から、

蜜月に皹が入り始めた。

千僧供養は千人の僧を招いて読経をさせることで、

以後、清盛は春と秋の彼岸には必ず催した。


正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

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後白河も出家して法皇となってからは、

千僧の一人となって参加している。

否、参加させられた。

また福原を訪れた宋の使者との引見まで求められた。

これについて公家の九条兼実は、

「天魔の所為なり」と日記に綴っている。


凱旋門通り抜けたら只の人  井丸昌紀

天皇や法皇が外国人に覲えることなど、

「未曾有のことだ」

と騒ぎ、公卿たちは陰口を叩いた。

だが、清盛は他人が己をどのように思おうが、

そんなことはどうでもよかった。

清盛には、為さなくてはならないことがある。

平たく言ってしまえば、国を富ませることだった。

貿易を臍としたより一層の経済発展を成し遂げねばならない。

それによって平家一門もますます繁栄する。

運命線に風のみた銭ばかりある  森中惠美子

(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅱ

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太刀風に木の葉を散らす御曹司  古川柳

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義経は、牛若丸時代遮那王

清盛の命令で、「僧侶になるよう」

京都の鞍馬寺に預けられたものの、

仏道の修行はそっちのけで、

木の葉天狗を相手に、剣術の稽古に熱中した。

そして、洛中に出ては腕試しをしていた。

鞍馬から夜な夜な通う五条橋  古川柳

その時の牛若は、

鳥の尾がピンと立ったような髪形(跳ね元結)で、

足下は高歯の下駄という出で立ちである。

牛若はどこへ行くのも足駄がけ  古川柳

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また、少年とはいえ、腰には長刀二本しめていた。

いつもの橋の上で、たまたま肩を触れ合った相手に、

「無調法者!」 と言って、

振り向くと鋸、斧、槌など七つ道具で、

完璧に身を固めた武蔵坊弁慶であった。

武蔵坊とかく支度に手間取られ  古川柳

弁慶は比叡山延暦寺の僧兵崩れで、

比叡山と三井寺が争ったとき、

三井寺の梵鐘を取り降ろして、

比叡山まで担ぎ上げたという、

前代未聞の大怪力の持ち主である。

弁慶が悪さで刻が知れぬ也  古川柳

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牛若はそんなすごい相手とも知らず、

決闘を始めたのである。

七つ道具を取っ替え引っ替え使用し、

猛然と攻めてくる弁慶。

一方、牛若は橋の欄干を、

前後左右、東西南北、上中下と、

身をかわして弁慶を翻弄する。

これにはさすがの弁慶も疲れ果て、

足腰が立たず降参し、

その場で牛若の家来になった。

その明日橋の欄干傷だらけ  古川柳

またこのころ、強盗専門の熊坂長範を退治たという話もある。

熊坂の一派は訓練された組織で、

美濃の青墓では、

金銀を満載した荷車を狙っていることを知った牛若は、

彼らを待ち伏せ根こそぎ退治した。

熊坂もついに(普段)覚えぬ胸騒ぎ  古川柳

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まもなく牛若は、「黄金花咲く奥州へ行こう」と、

黄金商人の吉次信高に誘われ、

鞍馬を飛び出し、奥州平泉の藤原秀衡の元へ向かう。

出発一日目に鏡の宿に着き、

自ら前髪を落として「源九郎義経」と名乗った。

牛若は腹っぷくれと連れになり  古川柳

平泉では奥州の王者・藤原秀衡の客人として、

多感な青春時代を過ごし、

兄の頼朝が、

平氏を打つために兵を立ち上げたことを知ると、

弁慶・忠信兄弟など引き連れて、

300騎余りの兵と共に頼朝のもとへ向かった。

鵯(ひよどり)の道をば鷲がよく教え  古川柳

こうして「鵯越え伝説」へとなっていくのである。


鞍馬山探訪へ

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義経跳び移る油から油  井上一筒

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たてよこななめ桃源の風通し  山本早苗

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 『餓鬼草子』(東京国立博物館)

平安末に描かれたという「餓鬼草子」から、

崩れた塀や壁などの様子にも、

末法時代の京の町のありさまを窺いしれる。


「厳島神社の美」  

平安時代末期は仏教でいう、

仏の教えが行われない「末法」の世とされ、

世の中は乱れる一方と考えられていた。

そんな人々が先行きに希望の持てない時代にあって、

清盛は、確かな希望を見据えていた。

その視線の先にあったのは、「海」

盛り上げてと言われ未来の話など  夏井せいじ

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宋船が持ち込んだ陶磁器など

嘉応元年(1169)の頃、

瀬戸内の波は、どのような色をしていたのだろう。

恐らく透き通るような、

瑠璃色に煌めいていたことだろうが、

その光り輝く波の上を、見上げるような船が航ってくる。

頑丈な竜骨をもった「宋船」である。

積まれているのは、

数え切れないほどの「宋銭」を始として、

揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦

のほか、

陶磁器、香料、薬品、筆、硯、書画、経巻

といった、正に七珍万宝と呼ばれた品々だった。

曲尺で測る鯨の鼻の下  藤井孝作

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             日本側からの積載品

陸揚げした後には、

砂金、銅、硫黄、木材、扇、屏風、漆、蒔絵、

日本刀などが積み込まれる。

船楼を目が痛くなるほど、

鮮やかな赤や黄の原色に塗りこめられた宋船は、

やがて真紅に包まれた、壮麗な社の正面へと導かれた。

安芸の「厳島神社」である。

対極の悲哀に天の林とも  きゅういち

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濛気に包まれたこの国を代表する建築物と言っていい。

「・・・・・・おお!」  

と、声を上げるところからしても、

宋船に乗り込んだ商人や水夫は、

海の彼方に浮ぶ小さな島国が、

予想を遥かに超えた文化を持っていることに、

驚嘆したにちがいない。

少し待てば五段活用いたします  山口ろっぱ

こうした貿易相手の目を瞠らせるような、

仕掛けを創り出したのは、

当時、静海入道前太政大臣・平朝臣清盛公と呼ばれた、

平清盛である。

祖父・正盛や父・忠盛に倣って西海を拠り所とした清盛は、

安芸守を拝命した頃に、

厳島神社の主祭神・宗像三女神を信奉するようになり、

太政大臣を辞して、

摂津福原に別荘「雪見御所」を造営するのと、

時を一にして、

老朽化していた厳島神社の大改修を行なった。

A座標に流星群を連れてくる  蟹口和枝

海上楼閣という、これまでに誰一人、

夢にも思わなかった建築物を造り上げたのは、

清盛が備えていた美意識によるものであろう。

清盛の美に対する才能は、

当社に奉納された「平家納経」の芸術性の高さからも、

容易に察せられるが、

同時に、清盛は土木技術においても

抜きん出た才能を持っていたことも充分に想像できる。

揺らす風ならば揺られてもみようか  下谷憲子

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      宋 銭

瀬戸は元々船が通れるだけの深さを持ち、

大船の往来に何の支障もなかった。

ただ、伝説は何らかの真実を語っている。

「わしは航路を開かせられるだけの

  権勢を手に入れたのだ」


という絶対的な自負と事実である。

自負は、就任三か月にして、

太政大臣を退いたことからも窺い知れる。

うわずみの灰汁に命をためされる  皆本 雅

「名誉職的な地位など、余計なものだ」

といわんばかりに辞意を表明し、

前大相国となって、国政に参与する覚悟を固めた。

そして、院政を執る後白河上皇藤原基房との、

合議によって政事を推し進めていった。

とはいえ、地位や立場だけでは、

絶対的な権力たりえない。

「金が要る」

清盛はそれを「日宋貿易」に求めた。

宝石箱になるハコフグの系図  井上一筒


(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅰ  (Ⅱへつづく)

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人脈の端に片足乗っけてる  谷垣郁郎

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平徳子(国立国会図書館)

(画像をクリックすれば大きく見れます)

「徳子の入内」

承安元年(1171)12月、

清盛時子の間に生まれた娘・徳子を、

高倉天皇のもとに入内させた。

徳子の母・時子と高倉の母・建春門院(平滋子)は、

姉妹だから、いとこ同士の婚姻である。

徳子の入内に大きな役割を果たしたのが、

高倉天皇の母・建春門院である。

ひらがなで話すと流れだす小川  和田洋子

この背景には、後白河院と清盛の対立が、

深刻になっていたことが関係している。

後白河院は院政を継続するため、

まもなく成人を迎える高倉天皇を退位させ、

「幼い皇子を即位させよう」としていた可能性がある。

それに対して、

清盛は平氏を中心とした政治体制を目指しており、

そのためには、

中核となる「高倉天皇の王権を強化」する必要があった。

あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉  三村一子

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そこで高倉天皇の母である建春門院の協力を得て、

実施させたのが「徳子の入内」である。

徳子の入内は、

高村天皇の周辺を強化したい清盛と、

建春門院の連携により行われた。

さらに徳子の入内は、

平氏にとって、天皇家との結びつきを強化し

大臣家としての家格を安定させる目的があった。

陽の方へせめて向かむと花の首  前岡由美子

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京都東山にある新熊野神社

熊野参詣が好きな後白河院は、

この地に熊野の神を勧請して、神社を創建した。


「高倉の母・建春門院滋子」

建春門院こと滋子は、平時信の娘、

清盛の妻・時子や時忠とは、異母兄弟である。

もとは、後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、

小弁(しょうべん)と呼ばれていた。

その関係から後白河院の寵愛をうけ、

応保元年(1161)に、憲仁親王(高倉天皇)を産んでいる。

袖口の緩んだこれからの時間  河村啓子

仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、

皇太后に冊立、

嘉応元年(1169)に、院号宣下を受け女院となっていた。

清盛と同じ平氏とはいっても、

時子や滋子が属した平氏は武士ではなく、

代々摂関家の家司を務める公卿で、

故実に通じた貴族であった。

きぬぎぬの別れは死語となりました  高原まさし

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後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、

建春門院もそれに何度か同道している。

また福原における「千僧供養」にも、

後白河院は建春門院を伴っており、

後白河院が建春門院を、

非常に寵愛していたことがわかる。

逮捕状なしであんたを逮捕する  井上一筒

建春門院については『たまきはる』(藤原定家の姉健寿御前)に、

何事にも几帳面で、周囲への細やかな

気配りを欠かさないなど、その聡明な人柄が記されている。

また、建春門院のもとに初めて出仕し、

対面を果たした健寿御前は、

「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」

と記している。

また、建春門院は後白河院が熊野詣でなどで不在の時に、

政務運営の代行機能を果たしていたといわれ、

通常時にも政務運営に参加していたと推測される。

≪『たまきはる』にも、建春門院が

  「政治において思いのままにならないことは、何もなかった」

   と記されている≫


お日さまの笑顔一億万ボルト  新家完司  

建春門院が、このような人物であったからこそ、

政治的に対立を深めつつあった清盛と、

後白河院の間に立って、

両者を仲介する役割を果たすことができたのであろう。

清盛にとって建春門院は、

後白河院との関係維持のため、

欠かすことのできない貴重な存在であった。

七色のフェイント入れた薬箱  桂 昌月

高倉の即位のため提携し、即位後は協調して、

政治を進めてきた後白河と清盛であったが、

諸権限をめぐって次第に対立を深めていた。

しかし、建春門院が両者の間に立って、

政治的に仲介する役割を果たしていたため、

なんとか協調関係は維持されていた。

そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、

建春門院の体調不安が伝えられる。

人脈の真ん中へんに落ちがある  立蔵信子

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断崖の横で青空落語会  森 茂俊

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平家物語絵巻「殿下乗合事件」

「平重盛」

重盛は冷静沈着で用心深く、

人望も厚いうえ武勇にもすぐれており、

平治の乱における
悪源太義平との一騎打ちは、

後々までの語り草になった。


ドンキホーテになる才能は持っている  内藤洋子

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    平重盛

一般に『平家物語』重盛は評判が悪い。

つねに、聖人君子のように振る舞い、

清盛の横暴をいさめる役どころが鼻につくらしい。

特に有名なのが「鹿ケ谷事件」への対応だ。

法皇を幽閉しようとする清盛に対して、

その不忠をいさめ、

「君(法皇)に忠義をつくせば父への恩を忘れ、

  父への不孝から逃れようと思えば、

  君に背く逆臣となってしまいます。


  進退は極まりました。

  もはや私の首をお取りいただくしかありません」


と言って清盛を追い詰める。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり

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頼みとする嫡男の懇願に、

さしも横暴な清盛も、

自分の非を認めて、ほこを収めるという筋立てだ。

それでもいっこうに改まらない清盛の「悪逆」を,

見かねた重盛は、

熊野に参詣し、自らの命を縮めてくれるよう祈願する。

はたして、帰京後いくほどもなく重盛は、

病の床についたが、あえて治療はしなかった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  井上しのぶ

事情をしらない清盛は、宋の名医を派遣しようとしたが、

重盛は

「異国の医師を都へ入れるのは国の恥。

  もし医術によって回復すれば、

  わが国には医道がないのも同然になってしまう」


と言って診察を拒んだ。

最終兵器かかえて仏間から出ない  高橋 蘭

清盛は、

「これほど国の恥を思う大臣は昔も聞いた事がない」

と言って感心したという。

≪これは、重盛の聖人君子ぶりを強調することで、

清盛の無定見や、横暴を際立たせようとする『平家物語』の

常とう手段である≫


靴下を巻毛の中へ隠す音  井上一筒

しかし、このような重盛像は、

まったくの虚像かというとそうではない。

同時代の高僧慈円が著した『愚管抄』では、

「小松内府ハ イミジク心ウルハシクテ」

と述べられており、

誠実で立派な人柄であったことは広く知られていた。

≪鎌倉後期成立の歴史書『百錬抄』にも、

「武勇は人にすぐれているが、心ばえはとても穏やかである」

とあり、温厚・誠実な人であったことを裏付けている≫


仰ぎ見よ一旦カニの手を止めよ  きゅういち

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少年少女のための道徳的説話集である『十訓抄』にも、

重盛の用心深さを語る逸話がある。

あるとき、重盛は「賀茂祭」を見るために、

車を四、五両したてて一条大路にくりだした。

ところが、すでに見物の牛車は、

沿道にすきまなく立て並べられている。

人々は、

「いったいどの車がどかされるのだどうか」

とハラハラしながら見ていた。

ボーリング球の自由は拭きとられ  湊 圭史

すると重盛は、見物によさそうな場所に立っていた車を、

引きのけ始めた。

よく見ると、その車には誰も乗っていない。

人に迷惑をかけないよう、

あらかじめ無人の車をおいておいたのだった。

≪『源氏物語』で六条御息所が、

光源氏の正妻である葵上と車争いをして、

はずかしめを受け生霊となった昔話を教訓にしたのである≫


モニターをにっこり天使横切った  山田ゆみ葉

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