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川柳的逍遥 人の世の一家言
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しずめてはうかべて祈ることばかり  赤松ますみ

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              「平家納経」

長寛2年(1164)9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、、

法華経をはじめとする装飾経・三十三巻を厳島神社に奉納した。

国宝・
『平家納経』である。

料紙には、
「金銀」が贅沢にちりばめられ、

見返しには、「優美な大和絵やさまざまな模様」

が描かれており、その美しさは,目をみはるばかりである。

軸には「水晶と透かし彫りの金具」が用いられ、

経を納める経箱も「雲龍」をあしらうなど、

賛美を尽した意匠は、現存する「装飾経」の、

最高水準を示すものといわれる。

艶っぽいお経へゆれる絵ろうそく  山本昌乃

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清盛の願文には、

「厳島の霊験により家門の福禄、子弟の栄華がもたらされ、

この世の願望はすでに満ち足りました。

一門と家人32人がひとり一巻を分担して、

善美を尽して経づくりに励んだので、

その功徳をもって、往生を遂げることを願います」


と、厳島明神に対するあつい信仰と極楽往生の願い、

そして、一門の栄達への感謝の念がしたためられている。


6Bの芯に注ぎこむ僕の芯  新家完司

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「夢のお告げ」

海の中にそそり立つ大鳥居、

長い回廊に囲まれた朱塗りの社殿が

海の上に浮ぶさまは、

あたかも天上界のような美しさだ。

瀬戸内海有数の観光地のひとつ宮島。

そこに鎮座する厳島神社は、

江戸時代から松島・天橋立と並ぶ「日本三景」に数えられ、

平成8年(1996)には、

ユネスコの世界文化遺産に登録された。

真っ先に麒麟に放つ蜃気楼  岩根彰子

厳島の歴史は古く、社伝によると、

創建は推古天皇の時代にさかのぼる。

古代から弥山を中心に、

島全体が神としてあがめられ、

安芸国第一の零社として、瀬戸内の民の尊崇を集めた。

ただし、安芸国一宮といっても、

この時点では、地方の一神社に過ぎない。

その厳島に上皇の御幸をあおぎ、

都人がこぞって参詣するほどの、

名社にしたてあげたのが、清盛であった。

どこまでが海かどこからが君か  くんじろう

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清盛の厳島信仰は、

安芸守だった仁平元年(1151)から、

保元元年(1156)までの間に、始まったと言われている。

それは不思議な因縁であった。

清盛が安芸守の再任を願って、

高野山の大塔を造営していた時のこと。

材木を自らかついで造営を進めたが、

ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、

「日本国の大日如来は、

伊勢大神宮と安芸の厳島である。

大神宮はあまりにも尊い。

汝はたまたま安芸の国司となった。

早く厳島に奉仕しなさい」


といって忽然と姿を消した。

香染衣=丁子の煎じ汁で染めた衣服。

たらちねと凌ぐ過去の過去の昨日  山口ろっぱ

その後、厳島に参詣し社殿の修築を行なったところ、

巫女の口をとおして、

「あなたは従一位太政大臣になるであろう」

と告げられ、果たしてそのとおりになったという。

                   鎌倉初期の説話集『古事談』

暇に飽かして大気圏脱出  酒井かがり

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何とも神秘的な話であり、荒唐無稽に思えるが、

長寛2年(1164)に平家一門が、

厳島神社に奉納した「平家納経」の、

清盛自筆の「願文」にも、

夢に一沙門(僧侶)が現れて、

厳島を信仰するようすすめ、

その「お告げ」通り、ひたすら信心した結果、

その恵は明らかであったと、

『古事談』の逸話をなぞるような、

体験が記されているから、

神秘的な宗教体験が、

厳島信仰のきっかけになったことは、

事実のようだ。

一万回聞いても分からないお経  新家完司           

「『平家物語』にも同じような話がある」

高野山の大塔修理が終わり、清盛が、

弘法大師の廟のある奥の院に参ったときのこと。

まゆ毛の白い、ふたまたの杖をついた僧侶が現れて、

「厳島を修理すれば、

肩を並べる人もいないほどに出世するだろう」


と予言した。

見知らぬ人の心に残る思いやり  森 廣子

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弘法大師の化身であると感じた清盛は、

厳島の造営に着手する。

やがて工事が終わり、清盛が厳島に参詣すると、

うたたねの夢の中に、童姿の神の使者が現れて

「この剣ををもって一天四海をしずめ、

朝廷の守りとなれ」


といって銀柄の小長刀を清盛に与えた。

その後、厳島大明神のお告げがあり、

「高野の聖がいったことをわすれるな。

ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」


と述べたという。

優しげな顔してきついことを言う  藤井孝作

未来に起こる平家の滅亡を前提として、

「悪行があれば、栄華は一代限りである」

とクギを刺しているところが興味深い。

神仏に対する信仰というものは、

このような神秘体験があると、

いっそう深まるものである。

まして、清盛のように、

破格の出世をとげた人物はなおさらであろう。

事実、清盛の厳島に対する熱烈な信仰は、

年を追うごとに高まり、一門はもちろん、

都の貴族たちにも、

大きな影響をおよぼすようになる。

鰐鮫の目ヤニの色はルビー色  井上一筒

≪当時、清盛は従二位権中納言、

  嫡子・
重盛も正三位の公卿に任じられ、

   平家の栄
華は絶頂期を迎えつつあった≫

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風見鶏風のなさけは当てにせぬ  森中惠美子

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「摂関家との提携」

政治的な発言力を高めるために、

多数派工作が有効なのは、

いつの世も変わらない。

そのために清盛が用いたのが「婚姻政策」だ。

有力貴族に多くの娘を嫁がせて、

平家のシンパを増やし、

政界における平家のプレゼンスを高めようと努力した。

高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ徳子は、

その代表だ。

≪ほかにも後年に従一位に進む花山院兼雅

  
後鳥羽天皇の外祖父となる藤原信隆

  
高倉天皇の寵姫でもあった小督(おごう)と浮名を流す藤原隆房

   などの有力貴族に娘を嫁がせた≫


一言で鬼千匹の牙を抜く  笠嶋恵美子

清盛の娘のうち徳子に次いで、

重責を担ったのが盛子だろう。

長寛2年(1164)

清盛は盛子と関白・藤原基実を結婚させ、

摂関家と婚姻関係を結ぶことに成功する。

盛子は正室として迎えられたが、

これが明らかな政略結婚だったことは、

すでに基通という息子までいる

22歳の基実に対して、わずか9歳の盛子が、

あてがわれたことからもわかる。

罪ひとつ軽い形にぶら下げる  吉川哲矢

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   藤原基実

基実が平家との結婚を受け入れたのは、

「平家の武力と財力に期待をかけたからだ」

と思われるが、

清盛に対する親近感も、あったのではないだろうか。

摂関家は、「保元の乱」により、

源為義など仕えていた武士を多く失ったことで、

荘園などの管理にあたる武士が不足し、

各地で混乱が生じていた。

そのため、基実は武門貴族である

藤原信頼に目をつけ、その妹と婚姻し、

彼の持つ武力に頼った。

しかし、今度は「平治の乱」で信頼を失ってしまった。

≪そしと、平治の乱の「六波羅行幸」のおり、

   信頼の妹を妻にもつ基実を、

   快く迎えてくれた清盛の度量の大きさに感銘を受け、

   頼むに足る人物と見込んでいたことも、提携の条件になった≫


竹薮で見た銀色の脚の人  井上一筒

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     藤原基房

清盛にとっても、「摂関家との提携」は、

政治的な発言力を高める、絶好のチャンスだったが、

それ以上に魅力だったのは、

摂関家が全国に所有する、膨大な荘園だった。

清盛は、配下の家人を預所に任命したり、

在地領主を下司に任じたりして、在地支配にあたらせ、

摂関家・領荘園からの中間搾取をねらったのである。

≪ところがその目論見は、

   その2年後に基実が24歳で急死したことで頓挫してしまう≫


金箔を纏えば僕もほとけさま 新家完司

こうした下りにおいて、その後、後白河上皇は、

二条天皇の親政を支えた摂関家を弱体化するため、

「摂関家領は清盛が管理せよ」

という院宣を下した。

いわば、盛子の摂関家領相続は、

政府の公認のもとに行なわれた。

清盛が見た夢の話が、貴族の日記に残る。

砂のない砂場に時を遊ばせる  山本早苗

「あるとき、春日大明神の使者が清盛のもとへ、

宝の山をもってきて、しばらく預かってくれるように命じた。

宝の山には藤の花が盛んに咲いて,

覆っていたというものだ。

その後、基実が亡くなり、

財産を清盛に管理させよという院宣が下された。


筋からいえば辞退すべきであるが、

『神のおはからいである以上、

断るのは恐れ多いのでしばらく預かることにした』
と、

清盛自身が語ったという」


日記の主が基房の弟・九条兼実であるのが面白い。

≪この夢に対し、批判めいたことは一切記されていない≫

斜めに歩いて衝撃を避ける  本多洋子

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うつろいやすき愛へ湖があふれ  森中惠美子

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       法住寺

法住寺は七条坊門小路、観音堂大路、東山山麓より法性寺大路を、

敷地とする広大な寺域を持ち、


後白河法皇らの院御所(『法住寺殿』)として、

1161年に、この地から、後白河法皇の長い院政が始まった。

千体の観音像を安置する「三十三間堂」もその敷地内の一部で

法皇を極楽浄土に導くため、仏像は全て法住寺に向いている。


「建春門院滋子」は、後白河院とともにここに眠っている。

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     千体の仏像

街角の一理に変わるしじみ蝶  筒井祥文

「建春門院滋子」

永禄元年(1160)清盛は念願の公卿の座にのぼった。

謁見する清盛に後白河院は皮肉たっぷりに言った。

「まさか朝廷の番犬が、そこまでのぼる日が来るとはのお」

「お戯れをこの日が来ることを上皇様は、

  保元の戦さの折より、お気づきであったはず」


不敵な態度の清盛に、ご白河もまた不敵な笑みを返した。

清盛と後白河院の長い長い「すご六遊び」の、

新たなる始まりであった。

身の上のここは泣くとこ笑うとこ  清水すみれ

家貞美福門院もこの世を去り、

時代は大きく変わりつつあった。 

そんな折、上西門院後白河院の姉)の女房として

仕える滋子(清盛の義妹)が、兄・時忠から、

「二条天皇のもとへ入内しないか」

ともちかけられる。

それを滋子はきっぱりと拒否する。

二条天皇とそりが合わず、

面白くない後白河上皇はある日、宮中で滋子と会い、

一目見て、その姿と気の強さに心ひかれる。

あっという間に後白河上皇の子を懐妊した滋子に、

平家一門は大騒ぎになる。

好きですと言ってくれたら好きになる  新家完司

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「平滋子」

平家の時代の中で、

歴史的に重要な役割を果たしている女性がいる。

父は平時信(堂上平氏)時子の異母妹。

建春門院滋子である。

鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として仕え、

その美貌と聡明さが、

後白河の目にとまって寵愛を受け、

高倉天皇を生んで女御となった。

後白河の寵愛は、

他の妃とは比較にならなかったといい、

生前は後白河と清盛の対立を、

調整・緩和する存在であった。

前略 アイウエオ 早々にてナダレ  山口ろっぱ

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「その素顔」

滋子の女房として仕えた健寿女(藤原定家の同母姉)

『たまきはる』〔建春門院中納言日記〕に、

滋子の素顔を書き残している。

掟を脱いだら象形文字になった  岩根彰子

「たまきはる」には、彼女の容姿を

「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」

       (なんと美しい、この世にはこのような人もいらしたのか)

と記されている。

≪滋子の美貌は、

  「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」

            (言葉にできぬほど美しく、若々しい)

『建礼門院右京大夫集』でも絶賛している≫


この世です「ああ」がいっぱい詰まります  徳永政二

性格をというと、

「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」

      (心構えが実に比類なくていらした)

万事につけて、しっかりとして几帳面な性格で、

女房が退屈しないよう気配りを怠らず、

いつ後白河や高倉が来ても良いように、

絶えず威儀を正し、

後白河が御所にいる時は、

いつも同殿して食事を共にとったという。

出会ったんだもの私の半分と  居谷真理子

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そのことについて、”たまきはる” で滋子は、

「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。

  親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。

  我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、

  おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」


     (女は心がけしだいでどうにでもなるもの。

      親や周囲のせいではない。

      自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、

      自然と身に余る幸運もある)


と折に触れて、自戒の意を込め語っていたとある。

楕円を引っ張ればほんのり唇  下谷憲子

「逸話」

後白河院が9月に滋子を伴って、

熊野参詣を行った折のこと、

熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに、

突然大雨が降ってきた。

が、滋子はいささかもたじろがず、舞を続けたという。

滋子の信念の強さ、気丈な性格を表した一面である。

さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

滋子は、後白河院が不在の折には、

除目や政事について奏聞を受けるなど、

家長の代行機能の役目も果たした。

「大方の世の政事を始め、

  はかなき程の事まで御心にまかせぬ事なし」


   (政治の上でのどんな些細なことでも、

    女院の思いのままにならないことはなかった)


≪こうした政治的発言力により、滋子は、信範(叔父)や、

   宗盛(猶子)、時忠・親宗(兄弟)の昇進を後押しもした≫

キツネが憑いていた頃の声の艶  井上一筒

安元2年(1176)3月4日から6日にかけて、

後白河院の50歳の賀のために「法住寺殿」において、

盛大な式典が催された。

後白河院滋子高倉徳子上西門院平氏一門

公卿が勢揃いしたこの式典は、

平氏の繁栄の絶頂を示すものとなった。

その後3月9日、

後白河院と滋子は有馬温泉に御幸する。

帰ってまもない6月8日、

滋子は突然の病に倒れる。

そしてそのまま、35歳でその生涯を終える。

一+一まではつじつま合っている  谷垣郁郎

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みどりごのために常盤は色をかへ  江戸川柳

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      常磐御前

これは平治物語を基に、江戸時代に詠まれた川柳です。

≪常磐は常緑樹の葉が、いつも色を変えない様子を、

   逆手にとり、子どもの命を救うために、

   常盤が
源義朝から、平清盛へ乗り換えたことを皮肉った≫

「常磐と川柳」


ぎりぎりの処で常磐色を変え  江戸川柳

≪トップの句と、上の五を変えて詠ったもの≫

平治の乱の処分はそれは厳しいもので、

勝った平家は、源氏を根絶やしにしようと、

捕らえては、情け容赦なく殺しました。

逮捕された義朝の長男の頼朝も、

すぐに処刑の日時が決まりました。

預かっていた平家の武士は、

日一日と少年の命数が短くなるにつれ、

いよいよいたたまれなくなり、池禅尼(清盛の継母)の袖に、

「いくらなんでも、13歳の子供を殺すのは可哀想。

 何とか助けて下され」


と縋りつきました。

小松より親が常磐の色に染む  江戸川柳

小松は小松内府と称した重盛のこと≫

禅尼が少年に会うと、

若死にした自分の息子の家盛に瓜二つです。

彼女は早速、清盛に助命をかけ合いましたが、

取り合ってもおらえず、

そこで長男の重盛に哀訴嘆願しました。

人情家の重盛は、

「小童(こわっぱ)一人くらい生かしておいても大事はあるまいに」

と清盛を説き伏せ、

伊豆の蛭ヶ小島(韮島)に流しました。

子ゆえの闇明るみに常磐出る  江戸川柳

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(画面をクリックして下さい)

常磐御前の母も捕らわれました。

母が拷問に掛けられ、

自分の居場所を尋問されていると、

逃亡先の大和竜門で聞いた常磐は、

「母の命を助け、できれば子の命も助けたい」

と幼い今若丸・乙若丸・牛若丸の三児を連れて、

出頭しました。

清盛は美貌の常磐を一目見るなり、

好色心がメラメラムクムク膨らんで、

「ワシの妾になれば、母と子の命は赦してやる」

との条件をだしました。

常磐は泣く泣くその条件を飲みました。

常磐は子のため常磐津は親のため  江戸川柳

≪常磐津は浄瑠璃の一派で、親のために娘が語り金を稼いだ。

  当時、常磐津はなかったが≫


子の手足のばす気で解く後家の帯  江戸川柳

≪子のためという良い言い訳で生きる決意をする常磐。、

   戦国の世なら女は愛する男と命をともにしたものだが≫


常磐の歳は、当時としては爛熟盛りの23歳。

男のあしらいかたは、充分知り尽くしているとみて、

「子のため」と母入道をひん丸め  江戸川柳

清盛は入道となり「浄海」と号しました。

清盛の鼻毛所帯崩し読み  江戸川柳

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色香に迷っている男性を、

翻弄することを ”鼻毛読む” といい、

旦那との仲を解消した女を ”所帯崩し” と言いました。

浄海は常磐の方につけたい名  江戸川柳

あげまんの常磐を手中にしてから、

ますます運がむいた清盛でした。

庇を貸したで母屋常磐取り  江戸川柳

≪この場合の母屋は天下のこと≫

このあと平家は、

常磐の毒気にあたったかのように、

徐々に衰退していきます。

平家を滅ぼしたのが、

常磐の三男・義経でした。

後家を手に入れて子孫の骨がらみ  江戸川柳

                「江戸川柳で愉しむ日本の歴史」・松田征士

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四角い雲は物置に積んでおく  井上一筒

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    義朝の墓

愛知県野間大坊にある義朝の墓。

義朝はここで家臣に殺された。


おびただしい数の木太刀が奉納されている。

(写真は観光として画面をクリックして大きく見てください)

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      大御堂寺


3月の涅槃会では、義朝の供養も行なわれる。

寺は義朝ゆかりと伝わる太刀などを所蔵する。


長い道歩いて人は人となる  田原喜久美

「義朝の最期」

永暦元年(1160)1月4日、

義朝は、長男・義平・次男・朝長・三男・頼朝ほか、

一族郎党とともに、東国に逃げ落ちていった。

雪辱を果たすため、

本拠地で再起を期すつもりだったのだろう。

だが、執拗な落ち武者狩りによって、

朝長は深手を負って死を選び、

頼朝は途中で、一行からはぐれてしまう。

義朝は郎党の鎌田正清を従えて、

尾張に着いたところで、

正家の舅である長田忠致(おさだだだむね)の館に宿を得た。

生と死を見つめ直して生きている  神野節子

しかし、

忠致は、義朝を襲って首を刎ねたのだった。

首は清盛に届けられ、9日に獄門に晒された。

再挙をめざした義平は、

近江の石山寺付近に隠れているところを捕縛され、

1月21日に六条河原で斬首された。

かなしみの言葉ばかりが地に溜まる  森中惠美子

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同じ大坊にある義朝の首を洗ったという池

頼朝もまた、2月9日に近江で捕まり、

処刑されるところだったが、

清盛の継母である池禅尼の、

「亡くなった実子に似ているからと助命を嘆願した」

の一言で死一等を減じられ、伊豆配流となった。

頼朝14歳、3月11日のことである。

人見知りする鏡だなすぐ曇る  谷垣郁郎

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京都市北区の総神社

かってここに義朝の別荘があり、

常磐御前がここで義経を産んだとされる。


弟たちもみな助命され、

また義朝に従った東国武士も、

特に処罰された形跡がない。

ただし、生き残った彼らは、義朝という後ろ盾を失い、

それぞれに、厳しい立場を生きることになるのである。

今日中に咲かせるための腹話術  井上しのぶ

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「藤原信頼の最期」

清盛の二条天皇の脱出作戦の一芝居に

引っかかって、

まんまと二条天皇をさらわれた信頼たちの、

あわてぶりは、ひどかった。

二条天皇を失った今、信頼たちの有効な手立ては、

もはや残されていなかった。

かっての主君である後白河院は、

自分たちで裏切ってしまったのだし、

関係を修復しようにも、

肝心の後白河院は、二条天皇よりも先に、

仁和寺に脱出してしまっていた。

てぶくろの中にて指が汚れだす  清水すみれ

慌てふためいて、信頼は仁和寺に逃げ込んだが、

同行した藤原成親とともに捉えられた。

六波羅の清盛の前に連れ出され、

助命を請うたものの、清盛は首を縦に振らない。

そのまま引き立てられて、六条河原で斬首された。

刃こぼれは月を削っただけのこと  くんじろう

保元の乱で処刑されたのは、武士に限られていたが、

今回は貴族の信頼ですら、死罪を免れなかった。

その理由は、

信頼が乱の主導的役割を果たしたことと、

信頼自身が武装して参戦していたため、

戦闘員として扱われたことによる。

刻々と迫る私の持ち時間  佐藤后子

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一方、藤原成親は死罪を免れ、流罪にもならず、

解官だけの処分ですまされたのは、

成親の妹が重盛の妻だったからだろう。

また、「とるに足らない殿上人」

と見くびられたからともいう。

≪のちに成親は、打倒平家のクーデター(鹿ケ谷事件)の、

   首謀者の一人に、なるが計画が発覚して失敗に終わり、

   配流されることになる≫


万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

これらの戦後処理によって、

「平治の乱」は終りを告げたが、

最後の最後に、どんでん返しが待ち受けていた。

乱の余韻のまだ残る翌・永禄元年(1160)2月、

藤原経宗・惟方の二人が捕らえられ、

経宗は阿波国へ、

惟方は長門国へと流罪にされたのである。

スキップで出かけて腹這いで帰る  森田律子

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二人の直接の罪状は、後白河院に対する侮辱であった。

二条天皇脱出の功労者である二人は、

これでいよいよ自分達の時代の到来とばかりに、

後白河が街中の様子を見物していた桟敷に、

板を打ち付け、

視界を遮ってしまったのである。

同情の余地はあれども罪は罪  徳山泰子

これは公衆の面前で行なわれたわけで、

後白河の権威を、白昼堂々と否定してみせた行為である。

もちろん後白河院は激怒したが、

今となっては頼れる近臣もなく、

二人を処罰してくれるよう清盛に泣きついた。

雷が転げそうだよおーい雲  泉水冴子

泣きつかれた清盛は、二人をひっ捕らえただけでなく、

院の面前に引き据えて、拷問にかけている。

清盛がこれだけの仕打ちを行なったのは、

平治の乱の片棒を担いでおきながら、

乱平定の功労者面をし、

二条天皇の威をかりて、やりたい放題をする2人に、

対する周囲の憤懣が込められていた。

砂漠からとどく青色鳥語集  松本 泉

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 源氏ゆかりの銘刀・行平

こうして後白河派・二条天皇派の近臣たちは、

一掃された。

義朝など有力な武士たちも、ことごとく壊滅した。

この「誰もいなくなった」とでもいうべき状況で、

ただ一人、清盛だけが勝ち残ったのである。

清盛自身は事態を主導せず、

状況を受身に対応した結果ではあるが、

清盛がただ幸運に、恵まれていたというわけだはない。

こころざしのような背骨はもっている  たむらあきこ

他のものたちが焦って自滅していく中で、

正盛以来蓄えられた実力を持つ清盛だからこそ、

状況を冷静に見極め、

判断を過たずに勝ち残ることができたのである。

その意味で清盛は、

勝つべくして勝ったのだといえよう。

乱後に清盛は従三位を飛び越えて、

正三位に昇進し、念願の公卿昇進を果たしている。


大の字で見る回天の一部始終  兵頭全郎

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