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川柳的逍遥 人の世の一家言
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葬儀屋の事務所に置けぬ招き猫  ふじのひろし

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    平忠度

(画面をクリックすると大きく見れます)

「清盛の五十歳を祝う宴」

名の"ただのり"から無賃乗車のことを、

「薩摩守」(さつまのかみ)という隠語にもなった、平薩摩守忠度は、

天養元年(1144)平忠盛の六男として生まれる。

母は藤原為忠の娘ともいわれ、いわゆる、

種も畑も違う、清盛の一番下の弟にあたる。

忠度が生まれたとき、忠盛は49歳、

長男の清盛は29歳であった。

そして謎として、何故か正盛・忠盛一族で、

"盛"の字がついていないのは、忠度だけである。

≪清盛の長男・重盛(1138生)は、6歳年下の忠度を、

  やはり
”叔父上”と呼んだのだろうか≫

いい名前つけてもらった黄金虫  新家完司

忠度は、文武両道に優れ、ことに「歌人」としては、

当代随一といわれた人である。

このような素質を持った忠度の、DNAを見てみよう。

父・忠盛は、武家の棟梁としてのみならず、

和歌や音楽の道でも一流であることをめざした。

特に和歌は『金葉和歌集』に入集するほどの、

名手であった。

『平家物語』にも備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院

「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に

"有明の月も明石のうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか"

(残月の明るい明石の浦に、風が吹かれて波ばかり寄るとみえました)

とよんだエピソードが残る。

広重の雨は45度に降る  井上一筒

管弦では笛をよくした。

小枝という笛を鳥羽院から賜り、

それを子の経盛に譲り、さらに孫の敦盛に伝わったことが、

同じく『平家物語』の「敦盛最期」にある。

舞は元永二年(1119)「賀茂臨時祭」で舞人を務め、

見物の公卿に

「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」

と称えられた。

生まれつき器用だったのであろうが、

朝廷における平家の地位を高めるために

血のにじむような努力も、重ねていた人なのである。

飛躍するためにしゃがんでいるのです  嶋澤喜八郎 

一方、忠度の母親は、

平家物語①「鱸(すずき)の事」で、

忠盛の「最愛の女房」だったとある。

ずっと以前に、このブログに記したことだが、

忠盛が月の絵が描かれた扇を、

この女性のもとに忘れ、ほかの女官たちが、

「これはいづくよりの月影ぞや、出所(いでどころ)覚束なし」

とふざけると、女房は機転よく、

”雲居よりたゞ盛り来たる月なれば おぼろげにては云はじとぞ思ふ”

と返した。
 
というように、忠度は、父からも母からも、

和歌の名人になるべく、その才能を受け継いでいる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

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「本編へ」

藤原摂関家の基房、兼実の兄弟は、

武士である清盛が、

「貴族を蔑ろにして、国のことを決めている」

と苛立ちをおぼえていた。

なんとか、「目にものを見せてやりたい」と、

その機会を狙っていた。

その時は、すぐにやってきた。

六波羅の清盛の館で、

清盛の「五十歳を祝う宴」が催されたのだ。

犬猿の三水偏と二水偏  筒井祥文

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宴には、平家一門はもとより、

源頼政と、その嫡男の仲綱など平家に仕えるものたちや、

今は公家の一条長成に嫁いだ常磐も、

我が子の牛若丸と共にやってきた。

牛若丸は、五歳の頃まで清盛の館で生活していたからか、

清盛のことを父と慕っていた。

清盛としても、友であり、ライバルだった亡き義朝の、

忘れ形見の牛若丸が可愛かった。

新しい形の愛を模索中  三村一子

そんな和気あいあいとした雰囲気の中、

摂政・基房と、右大臣・兼実の兄弟も宴にやってきた。

二人は、最初こそ儀礼的に祝いの言葉を述べたが、

言動は挑発的だった。

「政とは、花鳥風月、雅を解する目と、

 心があるものが行うのが、道理であり、

 長い間、太刀を振り回すばかりの王家の番犬に、

 その才があるとは思えない」


と言い放ったのだ。

継ぎ足した言葉が致命傷になる  平尾正人

しかし、清盛は二人の挑発には乗らず、

「客としてもてなそう」と家来に命じて膳を運ばせた。

その膳は、貴族並みの豪華なもので、

二人は驚いたが、ある企みを実行に移した。

兼実がもてなしの祝いにと、

得意の舞を舞って見せたのだ。

ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる  岩根彰子

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その返礼にと経盛、重盛、宗盛が舞った。

それは、兼実に勝るとも劣らない立派なものだった。

面目を潰した格好の兼実は、

次に和歌で挑む。

清盛が指名したのは、

今日の宴に出るために熊野から都に出てきた、

清盛の末の弟・忠度だった。

教室に鶴を呼んではいけません  湊 圭司

「兼実 VS 忠度ー歌合戦」

”帰りつる名残りの空をながむれば 慰めがたき有明の月”

(あのひとが帰ってしまったあとの、なごり尽きない空を眺めると、

  ただ有明の月が残っているだけ・・。なんの慰めにもなりはしないわ)


兼実がこの句で挑むと、忠度は次の歌で返す。

”たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみても まつより外のなぐさめぞなき”

(期待させながら、来ない夜が積もり積もった。

津守の浦ではないけれど、いくら恨んでみたところで、

結局、松ならぬ待つよりほか、私には慰めなどないのだ)


つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

さらに、兼実が

”行きかへる心に人の馴るればや 逢ひ見ぬ先に恋しかるらむ”

(いつもあの人のもとに通っている私の心に、

 あの人も馴れ親しんだのではないか。  だからきっと、

 実際に逢う前からもう、私のことが恋しくてならないことだろうよ)


と詠うと忠度は、負けずに

”恋ひ死なむ後の世までの思ひ出は しのぶ心のかよふばかりか”

(私はもう、恋に焦がれて死んでしまうだろう。 そうして来世まで、

  持ち越す思い出といったら、ただお互いに堪え、

  隠し通した恋心だけなのか)


と受けた。

寿限無じゅげむ今日はなんだか暇だなあ  河村啓子

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清盛は初めて会った弟が、どれほどの力量があるか

わからなかったが、自分の勘に賭けたのだ。

その賭けは、見事に清盛の勝ちだった。

忠度は、そのがさつなみかけからは、

想像できないくらいの和歌の才能を発揮し、

見事、兼実を打ち負かしてしまったのだ。

一本のロープと揺れている小舟  笠嶋恵美子

さらに清盛は、

二人に厳島神社の完成予想絵図を見せた。

それは海に浮かぶ社ともいえる、「雅やか」なものだった。

二人は逃げ出すようにして帰っていった。

くちびるをふさぐ とどめの五寸釘  上嶋幸雀

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(画面をクリックすると拡大されます)

清盛は、気分よく飲み酔った。

酔って、ふらつきながら立ち上がると、

懐から扇子を取り出して陽気にいう。

清盛 「ああ、愉快じゃ。愉快じゃ。かように愉快な日が、

     終わってほしゅうない。おもしろや、おもしろや・・・」


そういうと、沈みゆく夕陽を扇子であおいでみせた。

すると、あろうことか夕陽が再び昇り、

清盛を照らしたのだ。

この話が都中に知れ渡ると、

清盛の世が未来永劫に続くと人々は噂した。

着地まで夢を見る長い睫  酒井かがり

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産道は賽銭箱へ通じたり  筒井祥文

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       宋 船

(画面をクリックすれば大きくなります)

「平家の経済観念」

9世紀末、菅原道真の建議によって、

「遣唐使」が廃止されて以来、

外国との正式な国交は、途絶えていた。

京の貴族の間では、

中国文化の影響を離れた日本独自の、

国風文化が花開く一方、

外国をケガレの対象と見るようになり、

国際社会に対する無関心や、

外国人に対する排外思想が広まっていった。

真っ直ぐな道だ真っ直ぐ歩かねば  山本芳男

早くも9世紀末の宇多天皇は、皇子に対して、

「天皇が外人と会わなければいけない場合は、

  簾の中から見よ、直接対面してはならない」


と戒めている。

このような、海外に対する忌避感は、

実現不能の攘夷を主張し続けた幕末の、

孝明天皇まで続くのだから、

貴族の外国嫌いは、筋金入りなのだ。

関節が固くて交合成は無理  吉澤久良

それだけに、

自身の立場をわきまえない後白河の行動に、

貴族たちは眉をひそめ、

うるさがたの九条兼実などは日記に、

「天魔の所為か」と大袈裟に書きたてたのである。

目の前を過ぎる気ままな風ばかり  赤松ますみ
 
しかし、この批判のもとをつくった清盛は、

まったく悪びれる風もなく、

宋との貿易はむしろ活発になっていった。

そもそも清盛たちを批判している貴族たちも、

大陸からもたらされた文物を「唐物」などと呼んで喜び、

密貿易を行ったり、

大宰府の役人に手をまわしたりして、

手に入れていたのだ。

合理主義者の清盛にとって、貴族たちの排外意識は、

カビの生えた伝統か愚かな迷信くらいにしか

思えなかったであろう。

アルプスを斜めに越える足慣らし  井上一筒

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  宋人との貿易風景(兵庫県立考古博物館)

日本側役人の後ろに輸出品、宋人の後ろに輸入品

(写真をクリックすれば拡大されます)

清盛が貿易を重要な経済基盤としたことは、よく知られているが、

平家と日宋貿易の関係は、いつ始まったのだろうか。


遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が、

完全になくなったわけではなかった。

対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、

やがて国禁を破って、海外に渡り、

大陸の文物を輸入する商人が現れ、

日宋貿易はかえって活発化していく。

運命線に風の見た銭ばかりある  森中惠美子

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   宋からの輸入品

12世紀半ばには、大宰府による管理貿易とは別に、

九州沿岸の有力な荘園領主による直接貿易も

行われるようになった。


長承2年(1133)有明海に面した肥前国神崎荘に、

「宋船」が来着した。

さっそく大宰府の役人が来て、取引を始めようとしたところ、

荘園を管理していた忠盛が、

「鳥羽院の命令である」といって、

役人たちを追い払ってしまった。

攻めるのに槍を持つ人舌の人  武智三成

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  宋への輸出品

当時の神崎荘は、鳥羽院の直轄領で、

忠盛は院の命令により、荘園を管理する立場にあった。

その特権を利用して、

大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して、

貿易を独占したのである。

忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、

「海賊討伐」によって配下となった海賊や、

西国の在地領主から、

貿易の利益についての知識を得ていたからだろう。

また、忠盛は保安元年(1120)に越前守に任じられたが、

このころからすでに、

貿易にかかわっていた可能性も指摘されている。

三日後の空気に触角が動く  桂 昌月

宋商人は、九州の大宰府のはか、

ときには日本海の敦賀にきて、交易を行うこともあった。

敦賀は越前守の管轄下にあり、

このときに貿易のメリットを実感したのかもしれない。

神崎荘の管理も、さらに本格的に貿易に取り組むために、

鳥羽院に頼んで許されたのであろう。

せわしなく時計回りを行ってみる  中野六助

忠盛の子の代になると日宋貿易はさらに活発化し、

荘園や知行国の収入と並んで、

平家の重要な財政基盤のひとつになる。

清盛は平治の乱の前年に、

大宰府の実質的な長官である太宰大弐に任じられると、

腹心の平家貞藤原能盛を大宰府に派遣して

現地の役人を組織した。

薔薇満開もうこれ以上笑えない  倉 周三

永万2年(1166)に太宰大弐となった頼盛にいったては、

自分で直接貿易を管理するために、

大宰府の「責任者は赴任しない」という慣例を破って、

自ら現地に赴いているほどだ。

平家の経済基盤として、

貿易の重要性は、一門の人々にも、

十分認識されていたのである。

自画像の昨日の顔と今日の顔  本田哲子

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森の出口で象の手袋を拾う  本多洋子

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 後白河と清盛の蜜月時代

≪中央・清盛 上段に後白河≫

平治の乱から11年が過ぎた嘉応2年(1170)、

政界に確固たる地位を築いた
清盛は、

後白河とともに「宋人」と会見した。

貴族社会では外国人との接触はタブーであり、

非難の声があがった。

しかし、そんな批判を尻目に2人は、

宋との貿易を進め、利益をあげる。

このように清盛と後白河には、因習に囚われず、

実利を追求するという共通点があった。


直球が好きいちご大福が好き  下谷憲子

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(しかし、個性の一致は協調とともに、時として反目を生む。

清盛と後白河の関係は、権力をめぐる個性のぶつかり合いでもあった)


当初、清盛後白河と距離をおいていた。

「保元の乱」では、後白河方として参戦したが、

これは後白河との私的関係ではなく、

公的動員に応じたものであった。

また、「平治の乱」では、

後白河院政派の藤原信頼源義朝を討っている。

ぬかるみにある足跡を掘り起こす  東おさむ

乱後、院政を企図する後白河と、

親政をめざす二条天皇が対立すると、

清盛は二条親政派に属した。

後白河院政に属する平氏一門が、

清盛の義妹・滋子と後白河の間に生まれた憲仁を、

皇太子にしようと画策したが、清盛は加担していない。

二条はこの計画に怒り、後白河を政治決定の場から排除し、

清盛は二条の近臣として、親政を支えた。

支え合ってる三角形の角度  大嶋都嗣子

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滋子と憲仁

ところが、永万元年(1165)、二条が世を去り、

幼い六条天皇が跡を継いだ。

後白河は復権に動き出し、憲仁を即位させようと考えた。

一方、清盛も二条が亡くなった今は、

甥の憲仁の即位に賛成し、

後白河との提携に踏み切った。

指きりは隣の指に内緒です  黒田るみ子

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清盛日招像(音戸の瀬戸公園)

「太政大臣清盛」

その結果、仁安元年(1166)11月、

清盛は、「内大臣」に昇進、

翌年2月には、最高の官職・「太政大臣」に達した。

清盛の太政大臣就任を評価すべきという考え方もあるが、

内大臣に昇進したことこそ、

大きく評価すべきことなのだ。

なぜなら、清盛のような「院近臣家出身者」は、

「大納言」を極官とし、大臣には到達できない家格である。

(当時、家格は厳密に区分され、

  家格ごとに官位昇進過程や極官は決まっていた)


五分後は紋白蝶か毒グモか  森田律子

清盛ら院近臣出身者が、公卿に至る昇進過程には、

「実務官人系コース」「大国受領系コース」の2つがある。

実務官人系コースは、官人として政務や儀式に奉仕し、

「正四位下から参議」に至る過程である。

大国受領系コースは、実入りのいい大国の受領となって、

院に経済的に奉仕し、「非参議従三位」に至る過程である。

それぞれ公卿に到達すると、

大納言にまで進むことができたが、

それ以上進むことができなかった。

(それこそが家格の限界である。清盛がその家格を超え、

  大臣に到達したことこそが、重要な事実といえる)


闇市で拾った首が私です  谷垣郁郎

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では、なぜ清盛は、内大臣に就任できたのだろうか。

清盛が内大臣や太政大臣に補任され、

それに対して批判がされていないことを考えると、

清盛が白河院の落胤であるという説が、

真実味を帯びてくる。

(真偽は別にして、清盛の大臣昇進は、

 皇胤であることが、政治的に認定された証しといえる。

 そうでなければ、院近臣出身の清盛が本来の家格を超えて、

 大臣にまで出世する理由がなりたたない)


自画像を吊るす糺の森深く  嶋澤喜八郎

いずれにしても、清盛の大臣昇進は、

政治的に大きな意味をもち、

清盛が後白河院の王権を支える体制ができ上がった。

また、清盛が大臣に昇進できた背景に、

後白河院との提携関係があったことは言うまでもない。

イントロの間に富士山に登る  清水すみれ

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さらに、清盛は内大臣昇進の翌年「太政大臣」に至る。

太政大臣は、太政官の中で最高の官職であるが、

当時、太政大臣に政治的実権はなく、

名誉職の意味合いが強いものであった。

もちろん、皇胤と認定されたとはいえ、

武士出身の太政大臣は、史上初めてのことである。

叛くかも知れないけれど瞳を入れる  笠嶋恵美子

しかし、清盛は、

「就任からわずか3ヶ月で太政大臣を辞任」 した。

実質的な力のない太政大臣に、

長くとどまる必要がなかったのかもしれない。

辞任後、清盛は前太政大臣(さきのだじょうだいじん)として、

政治に関わっていくことになる。

善玉の綿に限界説の壁  井上一筒

清盛が辞任する直前の仁安2年5月10日、

嫡男・重盛は、院から

東海・東山・山陽・南海道に対する追討権を与えられ、

「軍事・警察権」を得た。

これは清盛から重盛への、

代替わりを明確にする意味をもっていた。

この権限を与えた後白河院にしてみれば、

清盛よりも、まだ若い重盛のほうが、

扱いやすいと考えたのかもしれない。

(ただし、重盛に与えられた軍事警察権は、

  院から与えられたものであったが、

  院の軍制下に入ったわけではなかった)


本心は気付かぬ振りの丸い鼻  合田瑠美子

その後、後白河は憲仁(高倉天皇)を即位させ、

院政を確立。

平氏は政治と軍事の両面から院政を支えた。

以後、後白河と清盛は、協調して政治をおこなう。

「日宋貿易」の振興はその顕著な例であった。

さらに、清盛の娘・徳子高倉天皇の后妃となり、

平氏は栄華を極めた。

生き方を変えても甘いものは好き  新川弘子

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正一位泥の小袖を着て踊る  井上一筒

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平家による強権政治を、象徴的に物語った平家物語-章段。

「禿髪」-かぶろと読む。

清盛が栄華を誇っていたとき、

平家のことを軽んじるものがないよう、

14~16歳の童を300人集めて、

頭髪を禿髪にそろえて、

赤い直垂(ひたたれ)を着せて召使い、都中に放った。

禿髪=髪の先を切りそろえて結ばずに垂らしたおかっぱ頭のこと。

鎌首を少し余して立ち去りぬ  筒井祥文

そして、平家を悪しざまにいう者があれば、

仲間を呼んでその家に乱入して、家財や道具を没収し、

本人を逮捕して六波羅へ連行したので、

都人たちはこれを怖れて、

禿髪がくると道を通る車も、わきによけ、

都の高官も、見て見ぬふりをしたという。

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

平家物語のこの章の目的は、

平家の栄華と権勢を描くことにあり、

清盛の義弟・時忠が、

「平家にあらずんば人にあらず」

と豪語したとされる逸話も、このなかで紹介されている。

悪人かもしれなぬ頭に渦がない  八田灯子

史実としては、清盛が京中に密偵を放って、

平家に反発するものを、検挙したという裏づけはない。

そもそも、禿髪頭赤い直垂という

人目にたつ格好で、密偵が務まるとも思えない。

禿髪の逸話が生まれた背景には、

清盛が応保元年(1161)から、

1年8ヶ月の長期間にわたって、

検非違使別当に任じられていたことに

関係があると考えられている。

検非違使は、京中の警察や裁判をつかさどる役所で、

別当はその長官である。


ようかんの金塊ほどもある重さ  篠原信廣

検非違使は、犯罪を犯して刑罰を受けたのち、

出獄した「放免」といわれる人たちを駆使して、

犯罪者の追捕や情報収集にあたった。

物語の禿髪のように、人々に紛れ込んで、

噂話や情報を当局に通報することもあったであろう。

もっとも、それは、

検非違使の職掌そのものにかかわることで、

誰が別当であっても、同じことは行われた。

ひとり清盛だけの特殊事情ではない。

気の弱い弁解うなずいてあげる  三村一子

ただし、このころ、平家による検非違使の掌握が、

進んだことは確かである。

実際に犯罪者を追捕するのは、

検非違使尉(判官)の仕事であるが、

平家の全盛期には、

平家の有力家人の多くが判官として活躍した。

さらに注目すべきは、

時忠が検非違使別当に三度も就任している。

反省をすぐに忘れる猫の鼻  中村登美子

同一人物が三度も別当に就任するのは、

検非違使の歴史上初めてのことであり、

九条兼実は、「物狂いの至り」とまで評している。

時忠の別当時代には、

かなり強権的な捜査が進められることもあった。

てっぺんに登ると見えぬものもあり  河村啓子

福原遷都が失敗に終り京に遷都してからは、

反乱勢力の追捕のために

上級貴族にも、兵糧の供出が求められたが、

その調査や徴収の責任者となったのが、時忠であった。

また、頼朝に通じたと噂された貴族に対して、

かなり強引な家宅捜査も行っている。

検非違使を把握することで、

京の治安維持や犯罪捜査を、一手に握った平家の権勢が、

禿髪のような逸話をつくる下地になったのかもしれない。

しゃべったのはペン僕は眠ってた  和田洋子


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参考・『平家物語』-「禿髪」

かくて清盛公、仁安3年11月11日、年51にて病に冒され、

存命のために、たちまちに出家入道す。

法名は
浄海(じやうかい)とこそ名のられけれ。

そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。

人の従ひつくこと、吹く風の草木をなびかすがごとし。

 ・
中略
 ・
また、いかなる賢王賢主(けんおうけんじゆ)の御政も、

摂政関白の御成敗も、

世にあまされたるいたづら者なんどの、人の聞かぬ所にて、

何となうそしり傾け申すことは、常の習ひなれども、

この禅門世盛りのほどは、いささかいるかせにも申す者なし。

その故は、入道相国のはかりことに、14、5・6の童部を三百人そろへて、


髪をかぶろに切りまはし、

赤き直垂着せて召し使はれけるが、

京中に満ち満ちて往反(おうへん)しけり。

おのづから、平家のこと、悪しざまに申す者あれば、

一人(いちにん)聞き出ださぬほどこそありけれ、

余党にふれ回して、その家に乱入し、

資材雑具を追捕し、

その奴をからめ取つて、六波羅へ率て参る。

されば目に見、心に知るといへども、

(ことば)にあらはれて申す者なし。

「六波羅のかぶろ」と言ひてんしかば、

道を過ぐる馬車も、よぎてぞ通りける。

世のあまねく仰げること、降る雨の国土をうるほすに同じ。

六波羅殿の御一家の君達と言ひてんしかば、

花族も英雄も面を向かへ、肩を並ぶる人なし。

されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿のたまひけるは、

「この一門にあらざらん人は皆、人非人なるべし」

とぞ、のたまひける。

かかりしかば、いかなる人も、相構へて、そのゆかりに結ぼほれんとぞしける。

衣紋(えもん)のかきやう、烏帽子のためやうより初めて、

何事も六波羅やうと言ひてんげれば、

一天四海の人、皆これをまなぶ。

川にごる人間らしきものを捨て  森中惠美子

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叩かれてじょじょに木魚になって行く  田中博造

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  蛭ヶ小島(頼朝配流の島)

「源頼朝ー流人時代の逸話」

びり事で伊東館おしくじり  江戸川柳


伊豆に流された頼朝は20年間、流人生活を送ったが、

流人といっても、

監視役の伊東祐親北条時政がうるさいことを

言わなかったので、かなり自由な毎日で、

祐親の京都勤番の留守には「伊東館」に足繁く通い、

娘の八重姫との情事で子をつくってしまった。

帰郷した祐親はこれを知り、

「清盛に知れると大変なことになる」

と、子を川に捨て姫を他家に嫁がせてしまった。

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冒頭の江戸川柳は、

頼朝が将来、まさか天下を取る男とは思いも寄らず、

祐親が、
「良い婿を取りはぐれてしまった」

と冷やかしたものである。

梵天の化身ぞ蝿は叩くまい  増田えんじぇる

頼朝が、次に手をつけたのが北条時政の娘。

嫁に行きそびれ、当時としては、

適齢期をとうに過ぎていた23歳の政子である。

時政も京都勤番から戻って、

2人の関係を知るところとなり、別れさせるために

政子を伊豆の代官・山木兼隆に嫁がせる約束をとりつけ、

「山木館」に送り込んだが、政子にとっては、

頼朝が最初の男、そう簡単にはあきらめられず、

深夜、脱走して頼朝の元に戻ってくる。

後日、時政は頼朝の人物を見抜き、2人の仲を認めるとともに

以後、頼朝の支援者になる。


ややこしい事おもむろに背を向ける  山本昌乃

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   頼朝と政子

頼朝の蛭ヶ崎の流人小屋には、

元流人僧の文覚がよく訪ねて来た。

文覚と知り合ったことが、頼朝のその後を大きく左右することになる。

文覚は以前は、遠藤盛遠という北面の武士で、

僧侶になったのは、

源渡の妻の袈裟御前とできてしまい、

その袈裟御前から 「夫を殺すよう」 唆かされ、

寝所に忍び込み、首を刎ねたら、首は渡ではなく、

袈裟御前だった。

そんなことから、盛遠は改悛して出家したという。

手にかけた袈裟を涙で首にかけ  江戸川柳

文覚が伊豆に流されたのは、この事件ではなく、

僧侶になってからの、寺院再建の騒擾問題だが、

刑期満了になっても都に帰らず、

伊豆を拠点に諸国を巡り、頼朝に情報を伝えていた。

挙兵を決意させたのも、平家追討の以仁王の令旨や

後白河上皇の院宣を持ち還ったのも文覚であった。

ヤキトリの串に隠れていた忍者  井上一筒

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「頼朝の助命から」

平治の乱で敗れた頼朝の父・源義朝は、

再起を期して東国に逃れたが、

尾張で無念の最期を迎えた。

当時14歳だった頼朝は父に従ったものの、

途中で一行とはぐれて捕らえられ、六波羅に送られる。

源氏の嫡男なので、死罪は免れない。

しかし、清盛の継母・池禅尼の要請によって、

死一等に減じられた。

痛点は同時多発を許さない  山田ゆみ葉

池禅尼は、清盛の父・忠盛の正室である。

清盛の弟になる家盛を産んだが、

家盛は、久安5(1149)に病没した。

それを悲しんだ池禅尼は、

処刑されようとする頼朝の容姿が

家盛によく似ていたため、

清盛に助命を嘆願したのだという。

御上さん一期一会が薄汚れてる  岩根彰子

『平家物語』によると、清盛はその願いを拒否したが、

池禅尼が断食をはじめたため、ついに折れて、

死罪から流罪へと減刑したとされる。

また、頼朝が仕えていた上西門院と、

後白河上皇の意向が働いたとの説もある。

疼くものそして流れてゆく時間  山本芳男

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源氏の芽を摘んでしまうと、

「平氏の専制に歯止めがきかなくなる危険性」

を考慮してのことだろうか。

伊豆の「蛭が小島」に流され、再期を期した頼朝は、

池禅尼の恩を生涯忘れなかった。

大地には計り知れない借りがある  嶋澤喜八郎

池禅尼の子で、平家盛の弟に頼盛がいたが、

頼朝は、頼盛に情を寄せた。

源平合戦の際も、

頼盛の軍に対しては、弓を引かせなかったという。

頼朝は壇ノ浦で平家一門を滅ぼしたあとも、

平頼盛を厚遇した。

神さまは耳の後ろにいるらしい  新家完司

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「武士が家督を継ぐための条件」

清盛の時代、武士が家督を継ぐための条件は、

生まれた順番ではなく、母親の出自が重要だった。

頼朝は、兄に武勇の誉れ高い悪源太義平がいたが、

母の家柄がよかったため、

三男ながら、当初より嫡子とみなされていた。

清盛の長男・重盛も、晩年は官位の面で、

清盛の正室・時子の子である宗盛の猛追を受けており、

長生きしていたら、

家督の地位を、譲り渡すことになったかもしれない。

≪事実、重盛の一族である小松家は、

   重盛の死後、一門の傍流に転落している。

   当の小松家にしても、重盛の嫡男は長男の維盛ではなく、

   藤原成親の妹を母にもつ三男・清経だったといわれている≫


ひなた水に浮かぶぼくらの蒙古斑  吉澤久良

重盛が死ぬまで、家督を失うことがなかったのは、

器量や人徳もさることながら、

母を早くに亡くした境遇が、

清盛に似ていたことも、理由だったかもしれない。

清盛自身、忠盛の正室である池禅尼が生んだ家盛に、

家督の地位を脅かされた経験もある。

母を早くに亡くした子どもの気持ちが、

清盛には、よくわかっていたのだろう。

盲点のそこにあなたがおりました  山口ろっぱ

家盛の同母弟・頼盛は、

清盛より15歳も年下だったので、

清盛の地位を脅かす存在にはならなかったが、

それでも忠盛の正室の子に、ふさわしい待遇を与えられた。

官位の昇進は、ふたりの異母兄・経盛・教盛より早く、

都落ち直前には、権大納言にのぼっている。

トンビから生まれたタカをもてあます  杉本克子

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頼盛邸より出土した器 (京都歴史資料館)        

「余談」  

頼盛「池大納言」と呼ぶのは、

六波羅の頼盛の本宅である「池殿」に由来するが、

これはもともと、池禅尼の家であり、

清盛の「泉殿」に匹敵する大規模な

邸宅であったといわれる。

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頼盛邸から出土した甕

福原の頼盛邸も福原遷都の当初、

安徳天皇の内裏とされたほどだから、

相当の規模だったに違いない。

邸宅の面でも頼盛の立場は、清盛に拮抗していた。

清盛につぐ、

「平家のもうひとつの顔」というべき存在であった。

気遣いに取り囲まれている安堵  黒田忠昭

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