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川柳的逍遥 人の世の一家言
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れんげ菜の花この世の旅もあと少し  時実新子

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  保元物語絵図

「清盛VS信西」

まさか叔父・忠正に死罪が言い渡されるとは、

清盛は予想すらしていなかった。

「・・・い・・・、いかなることにござりますか」

「帝に背き奉ったは大罪。命をもって償うほかはない」

「わが叔父が上皇側に与したは、

  帝への背信からではないと申したはず!」


「武士の本分は帝への忠誠。

  それを忘れたはれっきとした罪ぞ!よう考えよ。

 世の乱れが行きつく所まで行きついたがこたびの反乱。

 生ぬるい処分をすれば世の中の乱れは収まらぬ」


聞こえない耳の笑えない耳朶  黒田忠昭

清盛は、なんとしても処分を撤回させようとする。

「古にはあった。死罪が廃されたは、

  世がそれを要さなんだため。

 それに値する罪を犯す者あらば執り行うが道というもの」


「・・・だからと言うて、身内を斬れとは非情に過ぎる。

  もとは王家、摂関家の争いに巻き込まれ、

  命賭けで戦うた武士が、なにゆえこのうえ、

 さような苦しみを背負わなければならぬ!」


声にして強い呪いに変えなさい  広沢 流

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必死に食らいつく清盛に、信西は冷笑を浮かべた。

「なにゆえじゃと?

 それはそなたちが武士であるゆえじゃ。

 世の乱れを正すため、武士が命賭けで戦うは道理、

 逆ろうた者を斬るも道理」


「いつまで武士を犬扱いするおつもりか!」

声帯を地割カオスが漏れだした  墨崎洋介

「これがあの信西か」

と、清盛は裏切られた思いがする。

亡き忠盛を三位に昇任させようとしない朝廷に失望し、

「道理」が通じぬ世を嘆いて、出家したのではなかったか。

「従わぬなら官位を剥奪するのみ。

  先だって与えた播磨守の職は無論のこと、

 土地財産もみな没収じゃ・・・!!」


「卑怯ぞ・・・!!」

腕力で信西をねじ伏せるのは容易だが、

清盛は一門のためにと懸命にこらえた。

「こたびの沙汰は、帝の御名にて下されたもの。

 私を卑怯と罵るは、帝を罵るに同じと心得よ。

 二度と申してみよ、

 平氏一族郎党、女、子供たちに至るまでみな死罪ぞ」


信西の恫喝は、鋭利な刃物のようだった。

すり寄って蹴っとばされたことがある  安土理恵

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[保元物語よりー忠正誅殺の事]

平忠正は、浄土の谷というところで出家して、

深く隠れていた。

が、為義入道「降参してしまった」

と噂に聞き、子どもたち四人を引き連れて、

ひそかに、甥の播磨守・清盛を頼って出てきた。

背泳ぎをみごとこなして山笑う  前中知栄

が、しかし、

平忠正(馬助)、嫡子・長盛、次男・忠綱、

そして、三男・正綱、四男・通正の五人を、

勅命により清盛は、六条河原にて斬首した。

忠正は、当時の別当花山院中納言・藤原忠雅と同名で、

具合が悪いからと、

忠員(ただかず)と改名した上での処刑であった。

時申刻頃(午後4時ごろ)であった。

わが死後の乗換駅の潦  大西泰世

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この忠正と言う人は、桓武天皇11代の末裔、

平貞盛から六代の孫にあたる、

讃岐守・平正盛の次男である。

そして、この平忠正と言う人は、軍を解散してから、

出家入道し身を隠していたのですが、

清盛を頼って行けば、

「そうはいっても命だけは助けないことはまさかあるまい」

と思って出頭し、降伏したのであった。

断捨離といっても五欲握りしめ  片山かずお

本当に忠正を助けようと思うならば、

それなりに何か出来たでしょうが、

本当に叔父を助けようとすれば、

このような結果にはならなかったのに、

叔父と甥の間柄が不仲であったうえ、

自分が忠正を斬れば、

義朝にもきっと、父・為義を斬らせることになるだろう。

もし、誰かが寛大にも、叔父・忠正を許そうとしても、

この理屈を楯に反対をしようと、

悪い知恵を持たれることも、恐ろしい限りだった。

ネストリウス派のどくだみの煎じ方  井上一筒

また一族を率いて、崇徳上皇方に参加した平家弘は、

味方の敗戦が決まり、総崩れとなると、

子の光弘らとともに、上皇を警護して戦場を脱出したが、

源義康に身柄を確保され、

長男・安弘、次男・頼弘、三男・光弘

そして正弘の五人とともに、大江山で処刑された。

また家弘の弟、平度弘和泉信兼が主上の命を受け、

六条河原で斬首した。

泣ききって早く日めくり明日にしよ  喜多川やとみ

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「保元物語よりー信西の事」

「今改めて死刑を行うべきではない。

 とりわけて、故上皇の御中陰である。

 それぞれご赦免なさればよろしいであろう」


と、多くの主上が、おのおの一同に意見をあわせ、

死刑反対を唱える中で信西は、

「この言上(過去の例)に随うべきではありますまい。

 多くの兇徒を諸国に分けて、遣わしましたらば、

 きっとまた兵乱のもととなるでしょう。

 そのうえ非常時の決断は、


 人君がしたいようにせよという文章もございます。

 世の中のことが尋常ではないことには、

 君主の命令によって、判断するということです。

 もし慣例に従って間違いが起きた際に、


後悔してもなんの役に立ちましょうか」

と立ちはだかったので、

謀叛に加わった者は、皆斬られた。

嵐の中で泣きたいの二乗  蟹口和枝

まことに国に「死刑」を行うと、

「かえって天下に謀叛人が絶えないと申すのに、

 多くの人を誅殺なさったことは驚くべき事だ」


 実に弘仁元年に、藤原仲成が誅されてから、

 帝王26代、年にして347年、

 絶えていた死刑を行ったのは、ひどいことだった。

カサコソと抱いた骨壷から返事  桑原伸吉

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猫死んで現場に月がある未明  筒井祥文

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    白河南殿跡

≪白河南殿は白河院が造営した御所。

    保元の乱で崇徳院が白河北殿と合わせ、白河殿と称された≫

「保元物語に描かれた合戦の様子」 と

              「保元の乱・史跡の京都を歩く」


7月11日未明、天皇軍が内裏・高松殿を出陣した。

清盛は最大勢力を率いて二条大路を進む。

従うのは経盛、教盛、頼盛、重盛、基盛など一門のほか、

有力家人の平家貞、貞能(さだよし)伊藤景綱、

難波経房(つねふさ)瀬尾兼康(せのおかねやす)など、

総勢300騎。

虹をあおぐ前頭葉に残る足おと  湊 圭史

義朝は、200騎を率いて、

大炊御門大路(おおいみおかどおおじ)を、

源義康は、100騎を率いて近衛大路を、

それぞれ東へ進軍する。

双方に純ななごりを纏う騎士  兵頭全郎


白河殿ではすでに、源為義、平忠正以下、

崇徳方の軍勢が守りを固めていた。

やがて、清盛軍が白河殿に近づくと、

伊藤景綱が名乗り出て、

「ここを固めるのは誰だ」

と大音声で呼ばわった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  黒田忠昭


名乗り出たのは、

強弓で知られた源氏一の勇者・鎮西八郎為朝である。

「お前の主である清盛すら ふさわしい敵とは思われない。

  景綱なら引き退け」


と相手にしない。

怒った景綱は白河殿に向けて、矢を放ったが、


為朝は動ぜず、

「後生の思い出にせよ」

といいながら、得意の強弓をひきしぼる。

為朝の手元を離れた矢は、

たちまち景綱の子の伊藤六忠直(ろくただなお)の胸板を、

甲冑ごと貫き、


並んでいた兄の伊藤五忠清(ごただきよ)の鎧に突き刺さった。

ゲームセンターから持ち帰る駄目押し  高橋 蘭


これを見た平家軍は、

聞きしにまさる為朝の強弓におののいたが、

このときの清盛の台詞がふるっている。

「清盛がこの門を承って攻める必要はない。

  何となく押し寄せてみたまでのことだ。

  北の門へ向かおう」  


と撤退を命じた。

安全靴履くよう言われる家庭ゴミ  小林満寿夫

それに真っ向から反対したのが嫡子・重盛だ。

この年19歳の血気盛んな若者だった。

「勅命を賜った者が敵を恐れて退くなどということがあろうか。

  続けや若者ども」


と駆け出そうとする。

慌てた清盛が、

「あれ制せよ 者ども」

といい、郎党たちが立ちふさがったので、

やむを得ず、父とともに撤退したという。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり


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      高松殿跡

≪鳥羽院の院御所であり、後白河院はここで即位して里内裏となった。

    保元の乱では、
「後白河天皇方」の拠点となった≫

合戦を勝利に導いたのは、

やはり意気盛んな義朝であった。

清盛に続いて、義朝の軍勢が為朝の守る門を攻めたが、

為朝の弓の勢いの前に、攻め手を欠いた。

勝報が届かないことに焦った後白河陣営は、

第二陣として、源頼政、平信兼らを白河殿に派遣したが、

それでも勝負がつかない。

セイタカアワダチソウの圧巻  山西佳子

そこで義朝が内裏に使者を派遣して、

許可を得たうえで白河殿に火を放ち、


ついに崇徳・頼長を敗走させた。

合戦からわずか4時間、

戦いは後白河方の、圧倒的勝利で幕を閉じた。

摘み取った火を回廊へ解き放つ  きゅういち


この戦いで清盛は終始消極的だった。

最大兵力を有する清盛には、

ここでわざわざ、命をかけなくても、

戦後の恩賞は、保証されているという余裕があった。

それが傍目には、臆病に見えたかもしれない。


武士としての名誉よりも実利をとる、

合理主義者の清盛の性格を垣間みる一幕である。

戦後、清盛の目論見通り、

最大の恩賞を手にしたのは、平家一門だった。


そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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      権現寺

≪保元の乱で斬首された源為義の墓と伝わる石塔。

    もともとは千本七条にあったが明治時代に京都停車場によって、

    現在の地に移転された。

    為義の墓は、山門の外にある≫


敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

7月28日、清盛が、

叔父・忠正とその息子たちを六波羅の近くで斬首した。

のに続き、
その二日後、

義朝も自らの手で父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流された。

幅寄せをしても線条痕がある  井上一筒


さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は、

大きかったはずだ。

「保元物語」によると、

清盛は自分が忠正を斬ったならば、

義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

この死刑復活を主張したのは、

後白河の側近・信西だった。

こののち信西自身が、

処刑獄門にさらされるとは、知るよしもなく。


米粒のひとつひとつに遺言書  くんじろう

「その他、保元の乱の跡地ー京都を歩く」

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       成勝寺跡

崇徳院の御願寺で「勝」の字がつく六勝寺のうちの1つ。

応仁の乱で廃絶する。

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    崇徳天皇御廟

保元の乱で敗れて讃岐に配流された崇徳院が祀られている。

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       源氏六条堀川館跡

源頼義、義家、為義、義朝と代々源氏の館があった地と伝えられる。

屋敷の境内の井戸・「左女牛井」の跡を伝える碑が残る。

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            安井金比羅宮

崇徳院を祀った神社で、

後白河院が慰霊のために建立した光明院観勝寺が前身と伝える。

「縁切り神社」としても有名。

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相国寺(藤原頼長首塚)

保元の乱を起こして敗死した藤原頼長の首塚と伝えられる五輪塔。

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   得長寿院跡

鳥羽院の勅願を受けて、

清盛の父・
忠盛が造営した白河南殿に付随する御堂の一つ。

清盛の造営した三十三間堂は、この得長寿院跡を模している


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六波羅密寺(清盛首塚)

平氏の本拠地があった六波羅にある寺院。

 六波羅密寺境内にある清盛の供養塔。

 六波羅には平氏一門の
池殿泉殿などの邸宅が集中していた。

これら 史跡の一直線上に、

八坂神社・建仁寺・清水寺・三十三間堂、後白河天皇陵・法住寺、

があります。

見つめすぎたのか石の眠り  阪本きりり

「保元の乱・マップ」

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最小サイズの断頭台がある  井上一筒

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

画面クリックで画像は大きくなります。

弓の名手と言えば、源為朝(鎮西八郎)那須与一

中でも「保元の乱」において、三尺五寸の太刀を差し、

五人張りの強弓を持って、西河原面の門を守った、

為朝は、七尺ほど(210㎝)の大男で、

目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。

また「強弓」の使い手で、左腕が右腕よりも、

4寸(12㎝)も長かったといわれる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

「八郎伝説」

そんな源為朝は、弓の名人として、

天下に名の知られた武士であったが、

保元の乱では、負けた崇徳上皇方として戦ったため、

乱の収束後、

弓が引けないように、肘の筋を切られた上で、

八丈島に流されてしまった。

しかし、17歳だった為朝は、傷の癒えるのも早く、

八丈島でも強弓を引くようになる。

その強弓の威力というのが・・・弓の練習のため、

「1里(約3.9㎞)先の岩を的にして矢を射たところ、

  矢が当たると的の岩は、木っ端微塵に砕け散った」


という。

尾根を毀して版画家が見る時間  筒井祥文

「弓こそが平安末期の主力武器」

武士たちの弓を引く姿からもわかるように、

弓術には当時、馬上から射る「騎射」と、

地面に立って(あるいは片膝をつけて)引く「歩射」と、

いわれる、2通りの方法があった。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司             

それぞれの弓矢の操作の、基本的なところは同じで、

また弓具にも,変わりはなかった。

しかし、騎射の場合には、馬上であることから、

射術の細かなテクニックを要求することは、

無理となる。

そのかわりに、馬の機動性を存分に発揮して、

射る目標に接近し、近距離から矢を発射する。

狙い撃ちしたいお方は皆の的  松村里江   

騎射による当時の戦法は、

「馬も人も敵を左手に向けて戦え。

  敵の兜のすき間を見つけて、十分に狙い、

  無駄な矢を射るな。


  内兜(兜の内側の額にあたる所)を敵に見せるな。

  敵が一の矢を放った後、

  二の矢を番
(つが)えようと弓を上げた時に、

  真向
(まっこう)、内兜(うちかぶと)、頸(くび)のまわり、

  鎧の継ぎ目などに、必ず隙間ができるので、

  そこを狙って射よ。


  鎧に隙間ができないよう鎧突よろいづき)を常におこなえ」

というものであったようだ。
(『源平盛衰記』)

 ≪鎧突=激しく動き回っていると、鎧の鉄札(てっさつ)を綴った、

  威糸(おどしいと)や鎧板などをつなぐ紐がゆるみ、

  間に隙間ができるので、ときどき鎧をゆすり上げて隙間をなくし、

  防護力を回復する必要があった≫


雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

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   那須与一

兜を着用して弓を射るには、現在のような引き方とは異なり、

(つる)は、兜の吹返(ふきかえし)のところにあたり、

それ以上引くことはできない。

また、「騎射」では、弓を射る姿勢は、

通常歩射で引く場合と比べると上半身を前傾させて射る。

≪これは騎射ばかりではなく、船上においても同様である≫

動揺の激しいとこらから、弓を引く場合には、

このような姿勢におのずとなる。

≪トップの画面の騎馬武者には、そのあたりの事情が、

   生き生きと描かれている≫


その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

それに対して、「歩射」の場合には、

精密な技術を尽くして、比較的遠い目標物を射中てること、

また目標物を貫き通すような、矢の威力の必要があった。

日本の弓は長く、当時の弓の長さは、

現在の弓の長さとほぼ同じで、

七尺三寸前後(約2メートル20センチ)といわれる。

また、日本弓の特徴として、弓を握る位置が、

他の民族の使用する弓のように、中央ではなく、

上部から約3分の2のところに位置している。

≪このことは、銅鐸(どうたく)や埴輪などにみられるばかりではなく、

  『魏志倭人伝』に「短下長上」と記されていることからも、

  古い時代からの特徴であったと言える≫

  
神様はいかが蓋も付いてます  中岡千代美

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

射られた数多くの矢から、

さまざまな矢羽が使用されていたことがうかがえる。


弓矢の威力について語る場合、

いくつかの面からみなければならない。

第一に、弓矢を扱う射手の技量により、

その威力は雲泥の差が生じる。

創意によって大きく異なる。

そして最後に弓矢をどのような目的のために用いるか、

ということから鏃(やじり)の選択が必要となる。

戦闘場面では、目標物を破壊する、

射切る、貫通させる、衝撃を与える、飛距離を競う、

などのことが想定されるからである。

目立つのが好きでキリンの首になる  中博司

現在の射手の射る矢のスピードは、

上級者で、初速が毎秒・60メートルくらいである。

軍記物語などの弓射場面の記述は、

多少の誇張が含まれるとしても、

現代人の技量とは、かけ離れていると推定される。

これは、たとえば弓術伝書のなかの「遠矢」に関する、

記述をみても明らかである。

「遠矢射様の事」という箇条には、

「町の準」という項目があり、

これは四町(約436メートル)に矢が達したら。

「矢羽の一部をはぎ取り、さらにもう一度試みる」

ということをいっている。

巻尺を出てくる忘れていた時代  岩田多佳子

矢羽が小さくなればなるほど、

矢を真っ直ぐに飛ばすことは、難かしくなる。

最終的には、

矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて、

四町の距離を飛ばすことを、目標としている。

遠矢は、戦場では通信手段として必要であり、

また非常に高度な技術が必要とされたことから、

射手の技術のレベルを試す、手段としてもおこなわれた。

≪現代の射手では四町を飛ばす記録は達成されていない。

   最高記録は385.4メートルである≫


好奇心また引き出しを増やさねば  美馬りゅうこ

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  強弓に弦を張る

≪この時代に弓に弦を張るには3人が必要であった≫


「鎮西八郎為朝と鎌田正清」 (保元物語より)

・・・さて、夜がようやく明けたころ、

主を無くした放れ馬が一頭、義朝の陣へ駆け込んで来た。

鎌田正清がこれを捕らえて見みると、

鞍壷くらつぼ(またがる所)に血が溜まって、

前輪(まえわ)は壊れ、尻輪(しりわ)には、

10㎝もある大きな矢じりが、半分ほど突き刺さっていた。

鼻の差を逃げ切った馬の静脈  森田律子
 
正清は、この鞍を義朝に見せた。
 
「これは、筑紫の御曹司(鎮西八郎)がなされたことでしょうが、

 なんとも強い弓の腕前のようですな」

 
「なんの、為朝はまだ十八、九歳だろう。

 いまだ力量も定まってはおるまい。

 この馬も、きっと敵を脅さんとて為朝が作って、

 放したのであろう。


 臆するに足らず。正清、汝が行き、一戦交えてみよ」
 
「承りました」
 
尼寺へ行けと言われるレバニラ炒め  岩根彰子

正清はさっそく兵を集め、百騎ほどで攻め寄せた。
 
為朝は、崇徳上皇のいる北殿の最も重要な門である、

西河原面の門を守っていた。
 
「下野守・義朝の郎党、相模国の住人鎌田次郎正清っー!!」
 
と大声で名乗ると、

それを聞いた為朝は怒鳴った。
 
「ならば我が一門の郎党ではないか。

 こちらには六条判官(為義)殿がおられる。

 一門の大将に矢を向けるとは何事か。退け」

 
「ひるむな。もともとは一門のご主君ではあるが、

 今は謀叛を起こされた敵でござる。

 勅命に逆らう人々を討ち取って、者ども名をあげよ」

 
と言い終わらぬ内に、

正清は引き絞った矢を為朝めがけて、

ヒョウと放った。
 
その矢は、為朝の兜の金具にバシッと当たって、

兜のしころ(兜の側面に垂れて首を保護する部分)を射抜いた。

暴言を吐き捨て風は横殴り  石橋芳山 
 
為朝はこれに激怒し、この矢をかなぐり捨てると、
 
「おのれの様な者に、矢を使うのは無益なり。

  組み打ちにせん」

 
と言って、馬に飛び乗るや、駆け出て来た。

そのあとに、

九州から連れて来た為朝二十八騎が、

ドッと続いて来た。
 
オタケビヲアゲテオノレノカオをミロ  熊谷冬鼓

<しめた。為朝を誘きだせば、北殿は空き家同然だ>

正清は、為朝に恐れをなした風をよそおい、

百騎の軍勢を引き連れて、

川原を下り二町ほど一目散に逃げた。
 
為朝は弓を小脇に抱え、大手を広げて、

何処までも追っかけて来たが、

正清の策略に気づき兵を止めた。
 
「待て。深追いはするな。六条判官・為義殿は、

 心は勇猛ではあるが、すっかり老いられている。

 北殿を守る残りの人々も、口こそ達者だが、


 心許無い者ばかりじゃ。

小勢にて門を破られては大変だ。者ども引き返せ」

 
と、元の門まで引き返した。

勝利まで残り5分の長いこと  ふじのひろし

さて、戦いに敗れて、

上皇側についた為朝の父・為義や、

他の兄弟は捕らえられ、ことごとく首を刎ねられた。
 
為朝は、ひとり落ち延び、近江に潜伏していたが、

やがて捕らえられた。

英雄の名を惜しんで、断罪はまぬがれたが、

腕の筋を切られて、伊豆大島に流罪となった。

悪役の美学なきごとは言わぬ  森廣子
 
大島に流されたあとも、

為朝の相変わらず粗暴な性格は静まらず

やがて、伊豆諸島を従え国司に反抗するようになった。
 
そして、追討軍を迎え撃ち、

大島で敵船の船腹を浜辺から、

一本の大鏑矢(かぶらや)で、射通して沈ませ、

その後、自ら腹を切ったと伝えられる。

本懐を遂げ表札を書き替える  上野勝彦

また、生き延びて琉球に渡り、

琉球王朝の祖になったという伝説もある。

≪琉球王国の正史・『中山世鑑』や、

   『鎮西琉球記』/『椿説弓張月』 などで、

   その子が琉球王家の始祖・舜天になったという、

   伝説にもなっている≫

悪名も無名にまさることもある  木村良三

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無数を穿つ夜の眼 星の残酷  山口ろっぱ

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「保元軍記白河殿合戦」

(東京中央図書館誌料文庫蔵)

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「保元の乱」(1156)の結果、処刑された敗者たち

保元の乱で敗れた者たちの運命は、

どのようなものだったか。

取り合えず地下まで降りるエレベーター  中野六助

まず、乱の中心人物について見ると、

崇徳院は仁和寺に逃れて出家したが、

そのまま讃岐国へ配流され、都に戻ることなく

長寛2年(1164)に死去した。

その子の重仁親王も同じく、仁和寺で出家したが、

応保2年(1162)に若くして、

この世を去っている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

藤原頼長は、敗走中に流れ矢に当たり、

奈良にいた父・忠実の許まで逃れたものの、

追い返され、そのまま死去した。

その忠実は、直接参戦しなかったこともあって、

罪にこそ問われなかったが、

完全に引退して、京都の知足院で余生を過ごし、

応保2年に死去した。

躓いたところへ飾る余命表  桜 風子

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   後鳥羽上皇木像

ここに、後白河天皇はライバルを葬り去り、

藤原忠通も摂関家を完全に掌握したのである。

ただし、忠通の摂関家継承は、

後白河天皇の命令によっておこなわれたので、

忠通は、後白河天皇に従属する立場となり、

摂関家の地位は、大きく低下することとなった。

あの頃の影探してる下り坂  勝山ちゑ子

また、崇徳院側について戦った武士に対する処罰は、

苛烈を極め、源為義・平忠正・平正弘はいずれも、

斬罪に処された。

その一族郎党も、武勇に免じて、

伊豆大島への流罪とされた源為朝を除き、

参戦したほとんどの者が、処刑されている。

しかも、

為義の処刑役は、長男の義朝であり、

忠正の処刑役は、甥の清盛であった。


いずれも同族によって処刑が行なわれている。

≪平安初期の「薬子の変」以来、350年ぶりの死刑の復活であった≫

他人事と思おう 月は欠けてゆく  高橋謡子

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「保元の乱勝者たちの得た恩賞」

論功行賞は、

合戦当日の7月11日の中に早速行なわれた。

清盛は最大兵力を動員しながら、

積極的に兵を動かしていない。

にもかかわらず、

乱後、最大の恩賞を手にしたのは、

清盛と平家一門であった。

清盛は安芸守から、

受領の最上国の一つである、播磨守に栄進。

教盛、頼盛の2人の弟が、内昇殿を許されている。

滑っても溶けてもトタン屋根の上  酒井かがり

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乱において、父・為義以下、多くの人材を犠牲にし、

もっとも積極果敢に戦った義朝は、

大きな恩賞を期待した。

ところが、義朝が右馬権頭を任じられただけであった。

そこで義朝は、「これでは、過少である」

と不満を述べ、改めて、左馬頭に任じられた。

右馬権頭では、馬寮の次官に過ぎないのに対して、

  
左馬頭は、長官でずっと格上の職である≫

そのほか、8月3日には、

義康が従五位下に昇進し、

翌年の正月24日には、

義朝が従五位上に昇進している。

春の野でなければならぬ落下点  森田律子

以上のような論功行賞の結果については、

しばしば、

「信西が平家をひいきしたので、

  平家に比べて恩賞が少なかった源義朝は、

  不満を持ち、そのことが、

  『平治の乱』の原因のひとつとなった」


という言い方がされる。

はたしてそうだろうか?

ての平の感情線を握りしめ  谷口 義

確かに、平家では清盛以外の者にも、

恩賞が与えられており、

合戦でこれといった軍功を上げていない割には、

実に恵まれているようにも見える。

しかし、何も戦場での武勲だけが、功績ではない。

言い訳はよそう心に風が吹く  武内美佐子

清盛の一門は、

関わりが深かった崇徳院を見限り、

こぞって、後白河天皇側につくことで、

実際の戦闘に入る前から、

後白河天皇側の優勢を決定的にした。

その功績は、戦場での働きに劣らず大きい。

また、清盛は乱の前にすでに、

正四位下と公卿の一歩手前の地位にあり、

受領としてもすでに、肥後守・安芸守を経験している。

いつもの場所に私の椅子が置いてある  河村啓子

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    馬上の義朝

(画像はクリックで大きくなります)

これに対し、義朝は、

乱の時点で従五位下・下野守と、

まだ駆け出しの受領に過ぎなかった。

しかも、清盛の弟や子どもたちも、

乱以前からすでに貴族として、

それなりの地位を得ており、

清盛はその一門を挙げて、参戦したのだから、

各自に恩賞が与えられれば、

その合計が、膨大になるのも当然なのだ。

わたくしが歩む線です太く引く  早泉早人

両者はそもそものスタート地点が違うのだから、

乱の結果与えられた恩賞に、

格差があるのも当然だろう。

むしろ、義朝に与えられた恩賞は、

左馬頭も内昇殿も河内源氏にとって、

前人未到の待遇であり、

平家ではかつて、

清盛の父・忠盛が獲得した地位であった。

この恩賞を得たことで、

義朝は武士としても、後白河天皇の近臣としても、

清盛の有力な追走者に、躍り出たのである。

宇宙基地からは縄梯子で戻る  井上一筒

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だるまの目だからだからを繰り返す  森中惠美子

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義朝軍の攻撃を受けて炎上する三条殿

(画面をクリックするすると大きくなります)

「保元の乱」の両軍の名目上のトップは、

それぞれ、後白河天皇崇徳院ということになるが、

天皇や院が、自ら戦いの指揮を取るようなことは、

もちろんなく、

実際の作戦責任者は、

信西(後鳥羽側)頼長(崇徳側)であった。

A型の幽霊とB型のお化け  黒田忠昭

この二人には、実は乱以前からの深い縁がある。

学才を政治に活かそうと志す二人は、

身分の違いを超えて、

学問上の交わりを持った仲であった。

直球を投げ合う友がいてくれる  山田葉子

康治2年(1143)、不遇をかこっていた信西が、

出家しようとしているとの噂を聞いた頼長は、

信西に同情と嘆きの手紙を送った。

これに対し頼長の家を訪れた信西は、

「どうかあなただけは、学問を捨ててくださるな」

と頼長に告げ、これに頼長は、

「あなたのおっしゃったことは、決して忘れません」

と泣いて誓ったのである。(頼長台記)

全能の神東西にひとりづつ  筒井祥文

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それから、13年の歳月を経て、

二人は敵味方に分かれて、対決することとなった。

7月10日の夜に、両軍が集結し、

いよいよ合戦という段になって、

二人は武士から、同じ作戦を提案された。

「夜が明けるのを待たず、

 今夜のうちに敵に夜討ちを仕掛けよう」


というのだ。

落とし穴の中から聞こえてくる鼾  笠嶋恵美子

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【豆辞典】 

その作戦を、信西に提案したのは源義朝、

頼長に提案したのは、源為義である。(愚管抄)

いっぽう、保元物語」では、提案者は為義ではなく、

為義の八男・「鎮西八郎」こと、為朝とされている。

為朝は頼長に、直接発言できるような身分ではなく、

意見の出所が、為朝であったとも考えられるが、

"愚管抄と保元物語" の信用性を比較した場合、

為義提案に軍配があがる。

シシャモからうるめいわしへメールあり  井上一筒

両軍で「夜討ちの策」が、

河内源氏の武士から出されたのは、

決して偶然ではない。

平将門の乱以来、東国は、

日々起こる小規模な衝突も含めれば、

数え切れぬほど多くの戦いが、

繰り広げられてきた激戦の地であり、

そこを活動の中心として、

戦ってきたのが河内源氏であった。

今日もまた命を少し使います  吉川 幸

生きるか死ぬかの、厳しい戦いの中では、

夜討ちのように、

相手の隙をつくような戦法をとるのも当然だし、

むしろそうでなければ、生き残れない。

義朝は為朝を知り、為朝は義朝を熟知していた

戦上手の双方、敵を破るには、

「先手必勝しかない」 と献策した。

無理強いをすれば午後から土砂降りに  桑原伸吉

ところが、同じ作戦の提案を受けた二人の反応は、

正反対のものになった。

信西は献策を採用して、軍勢に夜討ちを命じ、

頼長はこれを退けたのである。

乗り換えのホームで助詞がまた迷う  原 洋志

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頼長の言い分は、

「私的な合戦ならともかく、

  国をかけた戦いに、夜討ちなどふさわしくない。

  明日には、興福寺の悪僧が到着するので、

  それを待って勝敗を決しよう」


というものだ。

いつも弱気を滲ませているかすみ草  たむらあきこ

戦いは11日、寅刻に始まり、

内裏方は義朝の策によって、

一気に新院方へと攻め込んできたのである。

義朝の二百騎、清盛の三百騎、源義康の百騎余り、

第一陣として賀茂川を越え、

新院方が拠点としていた白河殿へと襲いかかった。

精米機に挽かれるヒアルロン酸  山田ゆみ葉

払暁の奇襲を受けた新院方は、

大いに慌てふためいたが、

その中で、西河原表門を守っていた為朝と、

その手勢だけは、油断なく構えており、

一歩も退かぬ戦いぶりをみせた。

あとのない矢の一本と対峙する  百々寿子

ここへ攻め寄せたのが、清盛の率いる平家勢だった。

押し寄せる武者たちに向かって、

為朝の矢が次々と放たれた。

その強弓は有名で、

胸板を射抜かれて倒れる者が相次ぐと、

平家勢もたじたじとなって、進撃の足も鈍った。

このとき、「敵は無勢ぞ、進め!」

と声を嗄らす嫡男・重盛

武将たちを制した清盛は、

「この門一つ攻め落とさずも戦は勝てる。

 敵は謀叛の輩ぞ、大義はわれらにある」


と叫んで手勢をまとめた。

いちばん大きな声を出したなは痛み止め  小林満寿夫

為義も、門から討って出ることはかなわず、

ほどなく、白河殿から煙が上がったことで、

戦勢は一気に決した。

義朝の手勢が火をかけたのだ。

火が白河北殿に燃え移ると、

崇徳上皇と藤原頼長は逐電し、

上皇側の兵も逃走。

新院方は、あっという間に総崩れとなり、

戦いは4時間で決着した。

根こそぎの痕に埋めとく軽い罪  山本昌乃

敗れた者たちの末路は悲惨なものだった。

崇徳は捕らわれ、讃岐へ流罪となった。

頼長は深手を負い、逃げ切れずに野垂れ死にした。

忠実は、79歳という高齢のため、

知足院に押し込めとなったが、

さらに哀れをとどめたのは、武者たちだ。

源為義平忠正など、主だった者たちに対して、

信西は、謀叛の罪で斬首の刑を命じたのである。

道幅を少し広げて踏みはずす  佐藤正昭

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