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川柳的逍遥 人の世の一家言
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戦いの姿勢でブーツなどはくか    森中惠美子

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龍馬の死まで一か月、後藤へ認めた大政奉還の檄文、

ここから龍馬の運命の章は、終わりに向かうことになる。


慶応3年(1867)11月15日、

龍馬は盟友・中岡慎太郎とともに、暗殺される。

暗殺の舞台となったのは京都の”近江屋”である。

近江屋は、今の京都の繁華街・河原町通り沿い、

蛸薬師通りを南に、少し下ったところにあった醤油屋で、

龍馬の母藩・土佐藩の京都藩邸にも、醤油を納めていた。

京の街路面電車は雨に濡れ  田中峰代

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近江屋主人・新助

龍馬が近江屋に潜伏したのは、近江屋が土佐藩と昵懇の関係であり、

主人・新助が意気に感じるタイプだったからだ。

近江屋から北に少し上がった三条通りの近くには、

材木商を営む「酢屋」があった。

そこは、海援隊の京都本部であり、

龍馬は普段、この酢屋を常宿にしていた。

最後となったこの京都入りでも、

9日から、酢屋に宿泊、13日になってから、近江屋に移っている。

抽斗の奥に眠っている地雷    笠嶋恵美子

龍馬は万一に備えて、近江屋では母屋には泊まらず、

裏庭の土蔵に潜伏していた。

近江屋主人・新助は、土蔵に隠し部屋をつくり、

そこに龍馬らを、かくまっていたのである。

新助は、情報漏洩を恐れて、

自分の家族にも、今回の龍馬潜伏を話していなかった。

手の内を読まれぬように霞網   伊藤益男

龍馬が常宿・酢屋を離れ、近江屋の土蔵にこもったのは、

幕府方の警戒体制に、ただならぬものを感じたからだろう。

京都では、「新撰組」に加え、

「見廻組」が新撰組と競うかのように、

警戒レベルを上げていたのだ。

新撰組から分離した高台寺党の伊東甲子太郎藤堂平助は、

新撰組の動きを察知し、

龍馬と中岡慎太郎に対して、

「新撰組が龍馬を血眼で捜している」

ことを語り、とりあえず、土佐藩邸に避難するように忠告した。

疑問符がまとわりついて眠れない  合田瑠美子

龍馬も、危険の迫っていることを感じ、

土佐藩邸入りを検討するが、

土佐藩邸は、かつての脱藩者に冷たく、龍馬をかくまうことを拒否した。

あとは薩摩藩邸が、頼みの綱だが、

「土佐へのあてつけになるから・・・」

と龍馬は薩摩藩邸へ入ることを、断念していた。

知らぬ間に味方の数が減っている  八田灯子

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人通りも少ない近江屋の正面玄関

悲劇が起きるのは、龍馬が風邪をひいたためでもある。

旧暦11月中旬といえば、いまの暦では12月なかば。

京都名物の底冷えが、一段と厳しくなる時期であり

土蔵暮らしは、発熱している龍馬の体にはこたえた。

そこで龍馬は14日、土蔵から母屋の二階座敷に移った。

下水道の奥の無人島である   井上一筒                     

翌15日、龍馬は隣に住む土佐藩参政・福岡孝弟を二度訪ねるものの、不在。

夕刻には、中岡慎太郎が龍馬を訪ねてきたので、

龍馬は軍鶏鍋を食べようと思いつき、小僧の峯吉に、

「軍鶏を買ってくるよう」

頼んだ。

龍馬は用心棒をかねて、元相撲取りの藤吉を従者にしていたが、

ほかに備えはなかった。

龍馬は、無防備なまま、運命の夜を迎えた。

暗殺ー2へ・・・つづく

焼き鳥屋の前ニワトリは歩けない    西澤知子

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賭けにゆく車窓にガスタンクが見える  森中惠美子

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”大政奉還”は慶喜の「高度な政治判断」であったが、その目論見は外れた。

「大政奉還への道」

大政奉還は、徳川慶喜が放った「起死回生の奇策」というイメージで語られてきた。

政権を返上してしまえば、

薩長らの掲げる「倒幕」は、意味をなさなくなるという論である。

たしかに朝廷は、日本全土を統治する能力はない。

外国から一人前の政権として、認められるだけの外交実績もない。

≪まるで現在の民主党(菅政権)の事を言っているようである≫

「薩摩や長州は、しょせんは寄せ集めだから、やがて進退窮まって、

 徳川家を盟主とする政権を、作らざるを得なくなるだろう」

そのような「高度な政治判断」で考えた、慶喜の”大政奉還”であった。

橋上にうかつに耳を置いてくる  たむらあきこ

「一方、薩土盟約を実現した龍馬らの構想は・・・?」

大政奉還と武力倒幕は、一般的には、対立する概念と思われているが、

そうではない、いきなり幕府を軍事力で倒すとなると、

土佐藩のような親幕府的な心情を抱いている藩は、なかなか踏み切れない。

大政奉還を経ての、新政権構想を掲げることで、

「土佐藩のみならず各藩を次々と巻き込み、事実上、幕府を無きものとしてしまう・・・」

のが龍馬の考え方である。

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≪「薩土盟約は、あきらかに幕府を否定している」

「王政復古は論なし」

「国に、二帝なく、家に二主なし、政刑唯一君に記すべし」

「将職に居て政柄を執る、是天地間有るべからざるの理也」≫とある。

太陽に豆板醤をまぜた  石田柊馬

当時、全国のほとんどの藩において、藩内世論が分裂状況にあった。

「揺れ動く」諸藩を、可能なかぎり、

「倒幕」という、ゴールにつながる道筋に引き入れるため、

まずは、幕府に「大政奉還」をさせる。

最後は、徳川権力の廃絶につながっている「渡り廊下」としての、

大政奉還という考え方であった。

渡り廊下に入ってしまえば

「徳川権力の剥奪」
という建物に向かうしか道はないから、

結局は武力倒幕が実現する。

≪”大政奉還しない幕府を倒すこと” と、

 ”大政奉還して、弱体化した幕府を倒すこと” 

を較べれば、明らかに後者のほうがハードルは低いのだ≫

渡らせて淵となりゆく桂川  杉浦多津子

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後藤象二郎は大政奉還・「建白書」を幕府に提出する。

慶応3年(1867)10月3日のことである。

後藤は、当時、徳川慶喜は二条城に滞在していたので、

13日には、二条城におもむき、

慶喜の決断を仰ぐために会見におよぶ。

その会見の直前、後藤は龍馬から激励の手紙を受け取っている。

「もし後藤が戻らなければ・・・海援隊を引き連れて、慶喜を襲撃して自分も死ぬ」

さらには、もし後藤の献策が失敗して、

「大政奉還の機会を逸したならば・・・

 その罪は天が許さないだろうから、もはや生きていられないだろう」

と、後藤を脅迫するかのような、ことさえ書いている。 

なみなみの今を零してはならぬ  山本早苗

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大政奉還が発せられた、二条城二の丸御殿大広間

大事にあたる際のこうした迫力、覚悟もまた龍馬の一面を語っている。

龍馬は決して、単純な平和論者ではなかったし、

時代の大変革が起こる過程では、

「ある程度の犠牲が出るのは止むを得ない」 と考えるリアリストでもあったのだ。

そして、後藤の献策をうけた慶喜は、その日のうちに、

在京40藩の重臣を二条城に招集し、「政権返上」を告げる。

翌14日、「大政奉還上表」が朝廷に提出され、

15日の朝議において、勅許が下り、大政奉還は正式に成立する。

ジンジンと来るバリトンのエピローグ  山口ろっぱ

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もはや賽は投げられた。

時代状況は、倒幕へと向かう激流となり、

龍馬もまた、その激流の中に身を置くことになる。

言葉などいらない目の前の海で  立蔵信子

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『龍馬伝』・第47回-「大政奉還」 あらすじ

大政奉還へ、

容堂(近藤正臣)の書いた建白書を受け取った将軍・慶喜(田中哲司)は動揺する。

龍馬(福山雅治)は、慶喜に一番近い永井玄蕃頭(石橋蓮司)に直接会い、

「徳川家を存続するためにはこれしかない」

と説き、慶喜を説得してくれと頼む。

あきらめたらあかん苦労が無に帰る  鈴木栄子

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弥太郎(香川照之)、「戦が始まり武器が高く売れるようになる」

と、銃を買い占めていたが、

ふと、「龍馬なら大政奉還を成し遂げる」

と思い立ち、方針転換して手持ちの銃を売りに転じる。

一方、永井玄蕃頭に後押しされ、慶喜は二条城に諸藩を集め、

大政奉還を問うが、どの藩も反対しない。

時流を悟った慶喜は、大政奉還を決意する。

視力0.1で見る時刻表  井上一筒

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知らせを待つ龍馬のもとに、勝(武田鉄矢)が訪れる。

幕臣である勝は、龍馬がなくそうとする幕府の人々の将来を憂うが、

龍馬は、

「皆が同じように、自分の食いぶちを自分で稼ぐ世の中になる」

と返す。

そこへ大政奉還の知らせが舞い込み、

新しい日本の夜明けに歓喜する龍馬。

吠えて吠えて吠えて維新の風が吹く  島尾政男

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しかし、武力討幕を目指してきた”薩摩や長州”、

幕府に忠誠を誓う”新選組”、

そして、揺るぎないはずだった”権力を奪われた将軍、幕臣たち”が、

自分たちの道をことごとく邪魔をする、

龍馬の命を狙い始める。

≪「余談」ー龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた。

 しかし、慶喜本人が、龍馬という人物の存在を知ったのは、

 明治に入ってからであった≫

生と死の中ほどに立つ彼岸花  前田扶美代

 

≪豆辞典 一の間、二の間を合わせると92畳の大きさ≫

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シナリオを遣らずの雨が書き替える  小林満寿夫

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『エピソード―岩倉具視』          

かっての五百円札に刷り込まれていた人物といえば、岩倉具視である。

長い間、財布のなかで、親しまれてきた岩倉さんだが、

幕末から昭和初期の頃には、意外と陰険な「ヤモリの男」と呼ばれていた。

時は、慶応3年(1867)12月9日、「京都御所内・小御所」において、

徳川幕府による260年間の日本統治に、ピリオドを打つ「会議」が執り行われていた。

このときの主役が、岩倉具視であった。

対するは、土佐の山内容堂である。

容堂は、朝廷と幕府とを合体させて、諸藩連邦を目指し、

政局の安定を図ろうとしていた。

獏を探しに切符一枚携えて  井上恵津子

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  容堂・「鯨海酔侯」の扇

しかし、容堂は大酒飲みで、朝から『酔って候』の悪い癖がある。

この日も、朝から飲んでいた。

岩倉の立場は、

「徳川の嫡流を完全に絶たなければ、新政府は実体のないものになる」

との考え方に拠る。

大久保利通、西郷隆盛も、同様の考え方であった。

容堂とは、まったく相容れない立場にある。

縛りたいものがあるのに紐がない  佐藤美はる

西郷は、

「いよいよのときには、この短刀一本でケリがつく」 

と、別室で同志を前に鞘を抜いてみせ、覚悟を決めている。

そこで腹黒い岩倉は、容堂おろしを決断する。

容堂の腹の内は、すでに割れている。

酒を飲んでいる容堂が、失言するのは当然と見て、

その言葉尻をつんで、

「一気におろしてやろう」


と計画したのである。

待ちに待った容堂の発言が始まった。

「本日の暴挙たるや、二三の者たちが幼沖の天子を押して、天下を私物化しようとしている」

と、やった。

沈黙の中で発信する自信  白石恵子

それを聞くなり岩倉は、こう切り返した。

「御前でござるぞ、山内どの。幼仲の天子とは無礼千万。お言葉をひかえられ」

容堂は動揺する。

さらに岩倉は、そのタイミングを捉えて、居丈高に叱りあげた。

もはや容堂に勢いは無かった。

岩倉は、自ら御前会議の主役に立ち、ついに容堂の主張を退けたのである。

≪岩倉の陰険な対応にはかなりの凄みがあったらしい。

 この一件があって、岩倉具視は陰険な「ヤモリの男」と形容されるようになった≫

虚勢張り瀬戸際をゆくほかはなし  村岡義博

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岩倉・西郷によるクーデターの図

「小御所会議を中継する」

12月9日の”王政復古のクーデター”があったその日の、午後8時頃から、

生れたばかりの三職による「小御所会議」が開かれた。

議題は、「徳川家処分」だ。

世直しへそのうち筵旗が立つ  西山春日子

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    小御所・古写真

小御所は上中下の三間に分かれている。

御簾に隔てられた「上段の間」は、

中央に厚畳二枚を重ねた上に、褥(しとね)を置いて玉座とし、明治天皇が臨席する。

一段下の「中段の間」には、総裁以下が着座する。

玉座に向かって右(東側)には、岩倉具視ら、親王及び公家が西向きに並ぶ。

左には徳川慶勝、松平春嶽、浅野茂勲、山内容堂、島津茂久の五大名が、列座している。

「下段の間」には、大久保一蔵、後藤象二郎、辻将曹など、

参与になった五藩の重臣たちが、敷居際まで詰めている。

水練が畳みの上のお役人  ふじのひろし

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中山忠能が開会を宣した。

最初は水を打ったような静寂。

まず容堂が、雷が轟くような声で、

「この会議には、慶喜公も列席させるべきだある」 と発言した。

喧嘩腰である。

体格と声量で一座を圧倒した容堂は、傍若無人に言いつのる。

「かくのごとき暴挙を企てられた三、四卿は、いかなる意図をもって幼沖の天子を擁し、

 政権をほしいままにするのであるか」

右足が沈むすばやく出す左  杉山ひさゆき

「不敬であろう!」

鋭い一喝が響く。

岩倉具視である。

顔を蒼白にして膝立ちになり、ハッタと睨み付ける眼光は刺すように鋭い。

「今日の拳は、ことごとく宸断に出で賜うものである。

 幼沖の天子を擁するとは何たる妄言ぞ」

見事なカマシであった。

失錯に気づいた容堂はとっさに態度を改め、畳に深々と頭をたれ、

玉座に向かって失言を謝罪する。

沈みます藁一本を懐へ  谷垣郁郎

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春嶽らが歩き回った小御所の廊下

これで流れが変わった。

春嶽がグズグズ抵抗して重い空気になり、

忠能が徘徊老人のようにウロウロするのを、具視が、また叱り飛ばす。

休憩時間に、具視は、

「容堂を何とかしろ」

茂勲に凄みを利かせる。

しばらくして再開された討議では、容堂はむっつりと沈黙を守り、

会議は、

「慶喜に官位返上と領地上納を命ずる」

ことに一決した。

虹の向こうの楢山を誰ももつ  森中惠美子

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月光と一緒にたたむ果たし状  山田ゆみ葉

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    袂 石 (たもといし)

慶応3年9月23日、龍馬を乗せた震天丸は、ライフル銃千挺を積み、

浦戸に入った。

≪高知の海の玄関・浦戸湾に、龍馬が降り立ったとされる目印が残っている。

 高さ4メートル。直径7メートルの袂石と言う巨大な、岩である≫

龍馬は、この岩のすぐそばで蒸気船を下り、

脱藩以来、6年ぶりのふるさとの土を踏んだ。

にんまりと笑う心は揺れている  大堀正明

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浦戸湾・種崎に上陸した龍馬が、一時、”秘かに潜伏した”のが中城家

≪中城家は、山内家の御船手方を務め、当時の当主・直楯も大廻船御船頭だった≫

龍馬がここに潜伏したのは、中城家が龍馬の継母伊与の里である、

川島家のすぐ隣であり、歌会などでも親しい交際があったため、

龍馬も少年時代から中城家の人々とは、面識があったからだろう。

なお城下を表立って歩くのは、危険であったため、

中城家の奥・4畳半ほどの小さな離れに、

容堂に会う機会をうかがいながら、龍馬は身を隠したのである。

部屋の押し入れには、万一のための隠し部屋まで設えてあったという。

視界ゼロ風の予定にまかせます  和田洋子

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土佐に帰ってきた龍馬の目的は…?

龍馬は後藤象二郎と、平和革命・「大政奉還」を目指していたが、

土佐藩の中では、武力倒幕と平和倒幕の2つの勢力が争っており、

藩は、まとまっていなかった。

龍馬は、そんな土佐藩を説得し、平和倒幕に踏み切らせるという目的があった。

龍馬は同行の土佐藩士・岡内俊太郎を使者として、藩の重役に連絡を取り、

密談の席で、京都の切迫した情勢を語り、

そして、土佐藩との交渉のために、

当時の最新式のライフル銃1千挺を、差し出した。

緞帳が下りて始まる無言劇  古田祐子

平和倒幕を目指す龍馬が、武器を運んできたのはなぜか・・・?。

「徳川から朝廷へ政権を返す平和革命・大政奉還を目指す。

 しかし、それができない場合は、武力倒幕もある」 

と説明した。

平和倒幕を目指しつつ、失敗したら銃を使って武力倒幕を実行する…

これなら、土佐藩の中の2つの勢力、武力倒幕派も平和倒幕派も、

どちらも受け入れられると、両天秤の策を考え、

土佐藩を一つに、まとめようとしたのである。

ぼくの匕首とあなたの胸の距離  井上一筒

交渉成立のあと龍馬は、潜伏先を抜け出し、ひそかに実家・坂本家に顔を出した。

久しぶりの家族との再会。

土佐藩を説得できた安堵と、気の置けない家族との再会は、

ひととき龍馬の心を癒した。

龍馬が実家に滞在したのは、わずか2日。

つかの間の休息を終え、龍馬は、ふたたび政治活動に向かう。

龍馬が説得し、土佐藩が動き出したことで、政治の流れは、

一気に大政奉還に向かい、

ついに平和倒幕、大政奉還が成し遂げられていくのである。

一幕のドラマ柘榴の実が爆ぜる  高橋謡子

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『龍馬伝』・第46回-「土佐の大勝負」 あらすじ

土佐に着いた龍馬(福山雅治)は、象二郎(青木崇高)を通じて、

「容堂(近藤正臣)に直接会いたい」

と願い出るが、容堂は相手にしない。

沈黙を買いに行く万札のシワ  山口ろっぱ

坂本家に久しぶりに戻った龍馬を、家族は温かく迎える。

継母の伊与(松原智恵子)は亡くなり、

姪の春猪(前田敦子)には、子も生まれている。

岩崎家の面々も加わり、宴会が始まる。

一方、弥太郎(香川照之)は長崎で、

時代の変化を感じた土佐商会の上士たち数名が、仲間となり、

藩とは別に、自らの商売を始めていた。

五線譜に休んだ贅沢な時間  山本早苗

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土佐では、龍馬が持ってきた銃をめぐり、

「上士も下士も薩長に付くか、それとも徳川を守るか」

で大騒ぎに・・・。

容堂は、象二郎の説得で龍馬に会うことにする。

龍馬は容堂に、

「下士が上士に虐げられる・・・この土佐の古い仕組みが憎い。

 大政奉還となれば、幕府も藩も、そして武士という身分もなくなるだろう。

 新しい世の中を作る魁となるべく、大政奉還の建白書を書いてほしい」

と伝える。

切り口はいつもあしたを向いている  松下放天

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容堂は徳川家への恩を思いながら、涙ながらに[建白書]を書く決心をする。

難事を成し遂げた龍馬は、象二郎とがっちりと握手。

「この大仕事を終えたら、お龍と土佐に戻ってくる」

と乙女(寺島しのぶ)と約束し、京へ旅立つ。

大仕事済んだ男が脱ぐ鎧  山路節子

拍手[5回]

はやぶさはきっとくちばしだったんだ  立蔵信子

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『エピソード―山内容堂』

土佐藩主、山内容堂の本名は山内豊重と言い、

「容堂とは号」であるが、それを号とする前には、

「忍堂」のほうが、自分に似合っていると考えていた。

それには、次のような知られざる理由があった。

さすっちゃずれる整形なんです鼻  山口ろっぱ   

「大政奉還」は、山内容堂が最後の出番を得て、

徳川慶喜を説得し、無事完了となった。

徳川家は、これをもって政権を返上したのである。

容堂が差し出した”建白書”は、達筆で時勢の移り変わりが諄々として、

説かれていた。

この文字は、龍馬の幼なじみで、

また、秘書役でもあった海援隊文司役・長岡謙吉が、

精魂かけて書き上げたものであった。

「建白書」には、龍馬が起草したという『船中八策』の内容が、そのまま記されていた。

龍馬が土佐藩船・「夕顔」で瀬戸内海を航海中、

八つの小島を目にしたときに、

「ふっと頭をよぎった八つの草案がその原案になった」

と、いわれている。

首相執務室で 解散と揮毫  井上一筒

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文面には、欧米に通じた”政治制度のあり方”とか、

”法制度”、”貿易や外国為替”にも触れて、かなりの知識が織り込まれているが、

このあたりは、現にアメリカへ渡航し、

議会や社会事情を見聞きしてきた、勝海舟の影響があったのだろう。

長岡の具体的な助言もあった。

矢印を持って立ってるだけで良い  片岡加代

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船中八策について、容堂が最後の将軍に、

どう噛み砕いて、説明したかは分らないが、

「時局は腹の立つことばかり」

といっている。

短気な容堂であったから、意に添わないことも多かった。

自分の性格を悟ってか、容堂は「忍に一字」という言葉が大好きで、

容堂を名乗る前の第一候補として、

『忍堂を号としたい』 と考えていたそうである。

ラニーニャを口説いたらしい油蝉  森田律子

かくして、「山内忍堂」は、幻の名前となってしまったが、

本人によれば、

「今は忍耐よりも寛容の心のほうが大事であるから、容堂とした」

とのことである。

建白書の趣旨説明も、

「自ら寛容になれ」

と、言い聞かせて、その場に臨んだのだろう。

悩んでる時はたいらになっている  ひとり静

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