ごっこでした貴方のこどもでした 酒井かがり
淀川・淀
「淀殿の産んだ子の父親が本当に秀吉なのかどうか・・・?」
茶々悪女説のなかでも述べた通り、
当時も多くの人が疑問を抱いていた。
秀吉が亡くなった慶長4年(1599)10月朔日付の書状で、
毛利家家臣・内藤隆春は、
淀殿と大野治長の「密通」について触れ、
治長は殺されるべきところ、
高野山に逃げたらしいと報じている。
戒律は説いたりしない花の寺 美馬りゅうこ
この大野治長の、高野への逃亡に関しては、
奈良・興福寺の『多聞院日記』にも記述がある。
それによると、秀吉の遺言によって、
「慶長4年9月10日に、大坂城で、
淀殿と徳川家康の”祝言”が、行われる予定であったが、
治長が淀殿を連れ出し、高野山に向かったのだ」という。
弁解はラップに包み持ち帰る 泉水冴子
「淀殿と家康の結婚」については、
当時、伏見に抑留されていた朝鮮王朝の、
官人・姜沆(かんはん)も記しており、秀吉は、
「家康には、秀頼の母(淀殿)を室として政事を後見し、
秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように」
遺言したと言い、
「家康はまた、この秀吉の遺命をたてに、
秀頼の母(淀)を室にしようとした。
秀頼の母は、すでに大野修理(治長)と通じて妊娠していたので、
拒絶して従わなかった。
家康はますます怒り、修理をとらえて関東に流した」
と述べる。
≪秀吉没後のことではあるが、淀殿の恋のお相手として、
大野治長の名を、具体的に示している≫ 『看羊録』
黒い血のどくどく残酷な穏やかさ 山口ろっぱ
江戸時代に入ると、
真田増誉(ぞうよ)の『明良洪範(めいりょうこうはん)』が、
「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子二アラズ」
と断言して、
「淀殿、大野修理ト密通シ、捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト也」
と記し、これは占いに長じた法師が、
「いい出したことだ」と述べ、
淀殿は歌舞伎の創始者ともいわれる
「美男子・名古屋三郎とも、不義をはたらいた」
と記す。
どきどきと逢いほっこりとして帰る 片岡加代
そして、天野信景の『随筆・塩尻』には、
「大野治長の子ではないか」
と疑われているが、
実際には鶴松も秀頼も、
淀殿と占いの上手な法師との、間に出来た子で、
名古屋三郎とも関係を持ったと記している。
口角をあげて含んだことを言う 別所花梨
さらに、『玉露證話(ぎょくろしょうわ)』になると、
一説として、大野治長・実父説をとりあげつつも、
実際は、名古屋三郎(役者)と不義をはたらいて生まれたのが、
秀頼であると記す。
どこまでも纏わりついてくる因果 桂 昌月
このように、秀頼の父の名は、次々と変化するが、
同時代史料に名前が挙がるのは、
”大野治長ただひとりである。”
彼は淀殿とは乳兄弟で、
たしかに幼い頃から、実の兄弟のようにして育ち、
特別な関係にあったのは事実であるが、
だからといって、「不義をはたらいた」
ということにはならない。
自分史に向かえばペンが嘘をつく ふじのひろし
「鶴松と秀頼の父親が、秀吉であるか否か」
は、永遠の謎としかいいようがない。
ただ、秀吉が鶴松や秀頼をわが子として、
溺愛したことは紛れもない事実であり、
淀殿を家康の正室にしてまで、秀頼を守ろうとし、
死に際して、五大老・五奉行に最後の最後まで、
繰り返し、繰り返し秀頼の将来を頼んだこともまた、
動かしようのない、事実なのである。
七曜の顔を持ってる私です 河村啓子
與杼(よど)神社 ~伏見区・淀の産土神
「淀殿不倫疑惑説について、堂門冬二氏が解く」
大蔵卿局は、茶々の乳母であり、
小谷城落城のときも、お市・三姉妹とともに脱出し、
その後の伊勢での生活、柴田勝家へのお市の再婚、
勝家の滅亡、三姉妹の脱出、そして、大坂城入りなど、
ずっと茶々に従ってきた。
茶々にとって、誰よりも信頼できる存在である。
二幕目はちょっとニヒルなスマイルで 荻野浩子
大蔵卿局は、おのずと大坂城に仕える女性たちの総取締役を任され、
茶々を囲む側近のなかでは、もっとも力を持った。
そしてその息子・大野治長も成長し、
秀吉の寵臣(ちょうしん)に育っていき、
秀吉子飼いの側近にとって、脅威となっていった。
≪治長の弟・治房、治胤(はるたね)のいずれも、
やがて秀頼の忠実な家来になる≫
太陽を貫く剣を手に入れる 油谷克己
長兄の治長は、秀吉時代からの家臣であり、
ことに、家康を敵視していたことなどにより
ここに、茶々派と家康派という権力闘争が起こる。
角度を変えてみてみると、
『石田三成が淀殿相手の対象の一人にされたのも、
三成は、意識して茶々に奉仕していたことなどから、
当時の三成が、茶々派とみられていたことの証し。
三成も徹底した反家康派で、治長ともよく気が合っていた』
と、三成も噂の的にされる。
≪三成はこの時期、戦地におり、淀殿と不倫に及んでいる暇はない≫
大さじ一杯の水っぽい殺意 井上一筒
役者の名古屋三郎も茶々相手の槍玉にあがる。
これら中傷のすべては、
茶々の勢力を揺さぶるためのもので、
家康派か茶々派か、大阪城内の侍女群も両派に別れ、
『噂の発生源は、反茶々派の侍女たちではないかと考えられる』
と言い、
「大阪城内の権力関係に変化があり、茶々の周りに、
新しい側近が発生したことに、理由があるのではないか」
と堂門氏は分析するのである。
気に入らぬ奴はブスッと串刺しに 嶋澤喜八郎
この説を、深読みすれば、
家康に近かった淀殿のライバル・北政所(おね)が、
反茶々派の頭領だったかも知れませんね。
「秀頼は、ほんとうに秀吉の子なのか・・・?」
はたして、どうなんでしょう。
気にするなそう言っている昼の月 森 廣子
【余談】ですが・・・。
さて、宝塚歌劇では、
石田三成が茶々の恋人になり、話題を呼んでいる
豊臣家への忠義にその生涯を捧げた三成の、武将としての生き様と、
『茶々を愛した故に、「戦に負けたのではないか」と悔やみながらも、
愛さずにはおれなかった』
三成の苦悩を描いている歴史ロマン。
宝塚宙組公演ー『石田三成 美しき生涯』
茶々に、野々すみ花 三成に、大空祐飛
天気図を見ながら漕いでゆくボート 赤松ますみ
[7回]