川柳的逍遥 人の世の一家言
「北条氏掃討」 天正18年(1590)3月1日、 天下統一の総仕上げになった「小田原攻め」に、 関白としての顔を、立ててくれればよかった。 ところが、北条氏は上洛しないのみならず、 ひとときは北条氏も、 五世代百年も経て、名門意識に凝り固まり、 すっかり保守化してしまっていた。 このぬるま湯につかった集団は、世の情勢にもうとくなっており、 結果、北条氏は滅亡への道を歩むことになる。 ≪(惣無事令)ー大名間の私闘を禁じた法令≫ 秀吉は、石田三成に綿密な兵站計画をたてさせ、 長期戦に耐えられるように図った。 このとき秀吉は、 「長陣となり、退屈であろうから、 と通達し、その上に自分のことでは、 「お前の次に茶々を気に入っているので、 と手紙を書き送っている。 そして小田原城を見下ろす石垣山に”一夜城”を築かせ、 そこに茶々を呼び寄せた。 恋だって時どき衣替えしたい 泉水冴子 難なく小田原城を落とした秀吉は、 奥州まで平定して、天下統一を果たし、 「関東移封で家康は大喜び、家臣は泣きの涙」 秀吉としては、あまり関心のない関東は、 好意的にとれば、実力のある家康に、 秀吉は寒村であった江戸を、居城に指定し、 だが家康は、何も言わずに従った。 ≪このとき、秀吉じきじきの指示で、上州箕輪で12万石をあてがわれ 筆頭家老に躍り出たのが、彦根藩祖になった井伊直政だった≫ ひとつづつ忘れていけばできあがり 加納美津子 この関東移封は、「清和源氏」を名乗る家康にとっては、 新田郡世良田(太田市)を”先祖の地”と自称している上野国や、 源頼朝が幕府を開いた相模国の、主になるわけだから、 気持ちの上で、突拍子なことでもなく、 さほど、嫌悪することでもなかった。 よよよとは泣くに鳴けない糸蚯蚓 岩根彰子 しかし家臣たちは、骨の髄まで三河人で、 「家康が最近になって新田氏の末流」 だと強調しだしたことすら、違和感を持っていたから、 小田原へ移ることには、大反対であった。 とはいうものの、家康が受けた以上は、 ≪戦国大名にとって移封は、家臣の力をそいで、 中央の力を強くする最高のチャンスでもあった≫ 遮断機を下ろし回りを黙らせる 籠島恵子 PR |
最新記事
(11/21)
(11/14)
(11/07)
(10/31)
(10/24)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|