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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ミサイルが来たら枕で受けてやる  壷内半酔

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 「小谷城絵図」

「対信長を想定したけ堅固な城郭」-小谷城が、今も現存していれば、

マチュピチュに匹敵して、世界遺産になっていただろうと思われる。

そんな、小谷城を散策したいと思います。

ルーツ探るとナマハゲに辿り着く  新家完司

戦国時代の山城は、山頂部の防御空間としての「詰城」と、

山麓部の居住空間としての「居館」という、”二元的構造”が基本となる。
 
しかし小谷城では、

詰城として,小谷山山頂に築かれた「大獄」(おおずく)と、

大獄の南東に伸びる屋根頂部に構えられた「本丸・大広間地区」、

その両屋根筋に挟まれた「山麓居館の清水谷地区」

という”三元構造”になっている。

さらに大獄の南西に伸びる屋根頂部に「福寿丸」・「山崎丸」を、

また、唯一の屋根続きとなる東方屋根筋に、「月所丸」

といった出城が構えられた。

避難場所もっと増やしておかなくちゃ  立蔵信子

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  「小谷城復元図」

こうした構造は、元亀元年から天正元年の間に、

対・織田信長戦対策で、構えられたと考えられる。

特に、”福寿丸、山崎丸、月所丸”は、

敵を横から攻撃する横矢の効く折を、多用した「土塁」「枡形虎口」を構え、

竪堀を3つ以上並べた「畝状(うねじょう)空堀群」を設けるなど、

非常に発達した城郭構造を示しており、

朝倉氏の援助のもとで、増築されたものと考えられる。

出入口は味方ばかりのものでない  森中惠美子

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  「千畳敷曲輪」

本丸・大広間地区は南側より、江戸時代に作成された絵図によると,

番所、御茶屋、馬屋、桜馬場、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、

山王丸、六坊と記された「曲輪群」より構えられている。

実はこのエリアの中で、最高所に位置するのは、「山王丸」である。

小谷城跡に残存する石垣も、

この山王丸のものが、”最も大きい石材”を用いており、

山王丸が、事実上の本丸に相当する「曲輪」であったことは、

間違いない。

上目づかいの天邪鬼にナムアミダ  岡田幸子

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   「黒金門跡」

なお石垣は、山王丸以外にも、黒金門、本丸をはじめ、

清水谷地区の大野木土佐守屋敷、三田村屋敷などにも認められ、

信長の安土築城以前に、

浅井氏が、城郭に本格的な石垣を導入していたことは注目される。

大広間は小谷城跡中で最も広い曲輪で、

発掘調査の結果、巨大な礎石建物跡が検出された。

最後まで他者には見せぬ土の中  松原澄子

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  曲輪から出土した「銅製菊皿」と同・「銅鏡」

また、この曲輪からは、3万7000点におよぶ遺物が出土している。

そのうち実に、約96%が「かわらけ」はと呼ばれる土師器皿であり、

大広間では、盛んに饗宴が催されていたことが明らかとなり、

この山上部には、恒常的な居住空間が存在していた。

小谷城では山麓に清水谷地区があり、

そこには「浅井屋敷」と称される一画があり、

ここが、普段の浅井氏の「居館」であった。

おそらく、山上の大広間との間には、

屋敷機能の使い分けが、されていたものと考えられる。

清水谷の御屋敷が表となる公邸として用いられ、

山上の大広間が奥となる私邸に、用いられていたようである。

カマキリの巣がある弥勒菩薩の背  井上一筒

つまり、長政の妻お市三姉妹が住んでいたのは、

この山上の大広間であった可能性が高い。

ところで、大広間の発掘では、焼土が一切検出されていない。

出土遺物にも火を受けた痕跡はなく、

礎石にも火災の跡は認められなかった。

実は小谷城は落城に際して、建物は焼失しなかったのである。

≪落城イコール放火、焼失という図式は単なるイメージに過ぎないのである≫

逆光に浮かびあがったのは背びれ  森田律子

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   「大手門跡」

小谷城の西側にあった清水谷に通じる道沿いにある。

写真の門は近年になって、小谷城址保勝会が復元したもの。

≪☆ 大手門の先には、小谷城戦国歴史資料館がある≫

実はまだ予報室には下駄がある  ふじのひろし

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    「本丸跡」

「鐘の丸」ともいう。

石垣をめぐらした約12メートルの高所に、

約30メートルに20メートルの説明広さをもつ、

落城寸前まで、城主・長政が居住していた処である。

≪☆ 古絵図には「鐘丸」と記されている。

 南北2段構造で北側に設けられた大堀切によって、小谷城の主要部を分断している。

戦したことなど秘めて波静か  柴本ばっは

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   「山王丸跡」

山王権現(現・小谷神社)の祀ってあったところ。

海抜395メートルの高所にあり、詰ノ丸と思われる。

東南部の巨石による野づら、積み石垣は興味つきない遺構の一つである。

≪☆ 小谷城の詰丸で約00メートルの位置にある。

 石垣に使われている石は小谷城で最も大きく、大石垣は現存している≫

アナログの時代の息をしています  たむらあきこ

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   「京極丸跡」

大永四年(1524)亮政が主君・京極高清・高延親子を迎えた処である。

天正元年(1573)八月廿七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て

侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、

小丸の久政と本丸の長政の連絡を絶たれた。

≪☆ 浅井亮政に迎え入れられた京極高清が居を構えたという曲輪があった。

 羽柴秀吉は、この場所を攻めて本丸と小丸を分断した≫

歓声が挙がり続ける相手側  奥 時雄

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   「大広間跡」

一名「千畳敷」という約35アールの広さである。

主殿の跡と推定され、

その昔、多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。

礎石、貸銭、陶器片、その他多数が発掘された。

≪☆ 山上にあった小谷城内で最大の広さを誇る曲輪があったとされる場所。

 大広間には御殿が建てられ、南側には黒金門があった≫

溜息を拾ってくれる人がいる  小野真備雄

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   「赤尾屋敷跡」

ここから100メートル先に、重臣・赤尾氏の二段になった屋敷跡がある。

天正元年八月廿八日戦破れた長政は、この屋敷に入って自刃し、

二十九歳の生涯を閉じた。

小谷城一の聖域である。

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  「長政自刃の地」

長政は、本丸ではなく、ここ赤尾屋敷跡で自刃している。

背後の京極丸を落とされた長政は、信頼する赤尾家の屋敷を、

最期の地と決めた。

人生のドラマに黒い句読点  木天麦青

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   「大石垣跡」

小谷城の中でも大きく石垣が残る箇所。

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    「小丸跡」

二代目城主・浅井久政の隠居所、小谷城落城のときここで切腹した。

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    「刀洗池跡」

本丸近くにある、刀を洗うためにある池。

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  「桜馬場跡」

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪。細長く左右2段になっている。

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   「馬洗池跡」

横に長く連なる小谷城の端に位置する馬を洗うための池。

飲料水確保のための池であったとも言われる。

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  「首据石跡」

浅井氏の家臣・今井秀信が敵方に内通した罪で処罰し、この石に首を晒した。

美水澄んで澄んで何やら住みにくし  中村幸彦

拍手[2回]

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カラスなぜ泣く母と歩いた道ばかり  森中惠美子

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    小谷城背景

落城はもはや時間の問題だった。

浅井長政は、お市と娘たちを、信長に引き渡すことに決めた。

長政は、を呼び、3人の娘を連れて城を出るよう命じた。

「そなたまで命を落とすことはない。信長も、実の妹と娘たちまで殺すことはなかろう」

このあたりは、長政と信長の相談のうえでの判断とも、

長政独自の判断とも言われ、

真相は、よくわかっていない。

≪しかし、いずれにせよ男の子については、命が助かる保証はないので、

 あらかじめ、城を出させていたことは、間違いない≫

落日よ思い出は皆無色なり  武内美佐子

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       市

城を出たお市と三姉妹は、信長に保護され、

信長の弟でお市の兄にあたる織田信包(のぶかね)に、

預けられることになった。

お市が信長の妹だったから、命を助けられたわけであるが、

当時、”離縁したときなど、娘は女親につけられる”という慣習もあり、

三姉妹がお市につけられたのも、その慣習に従ったという解釈もある。

≪しかし、男子はそうはいかない。

 男子の場合、成長すれば「親の仇」といって、敵対する可能性が高く、

 事前にその芽を摘んでしまっておこうという動きになるからだ≫

穏便な処置に異論は許されず  中島久光

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上野城址は現在公園になっている。

信包は信長より9歳年下で、信長の連枝衆(親族の家臣)としては、

信長の長男・信忠、次男・信雄(のぶかつ)につぐ、3番目の地位にあった。

当時の伊勢は、複数の武家が共存しており、

彼らを併合するのに、信長は苦労していた。

北伊勢、神戸家には、三男・信孝を、南伊勢・北畠家には、次男・信雄を、

それぞれ養子にさしだしたものの、それでもなお統合には至らず、

天正四年(1576)には、

信雄に命じて、北畠具教を暗殺、家を乗っ取っている。

そんな中で信包もまた、北伊勢の長野氏の名跡を継いでいた。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

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現在も残っている(安濃)津城の堀と石垣

信包は、「伊勢上野城」「安濃津城(あのつ)」を拠点としており、

お市と三姉妹は、そのいずれかで

「本能寺の変」
(1582)までの10年間を過ごした。

信長は浅井・朝倉や足利幕府を倒したとはいえ、

依然周囲を強敵に包囲されており、

「和睦の持ち駒」として、お市たちを嫁がせる」

という選択肢もあった。

しかし実際には、この10年の間、

お市はもちろん、長女・茶々次女・初にも、縁談が持ち込まれたという

記録は残っていない。

「これはなぜか・・・?」

蓋をしておくウワサバナシの因子  山口ろっぱ    

お市は、落城時には27歳。

当時の年齢からすると、まだ再婚が可能であった。

長女・茶々は、6歳。

初はその一つ下。

お江は0歳。

彼女たちが、ここで暮した約10年近い日々と、

この時代の女性の初婚時期が、10代半ばであったことを考えると、

茶々とお初については、

すでにすでに適齢期であったといえるのだが・・・。

下駄のつもりを解っているブーツ  井上一筒

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戦国時代、同盟の人質として女性が差し出されるケースは多い。

歴史は男性が書き残すので、

つい、『か弱い女性が人身御供に』 と想像しがちであるが、

「実のところ、意外と本人の意思が、尊重されていた」

同盟の人質として、差し出した娘が自害でもしたら、

同盟なんぞ吹っ飛んでしまうからだ。

友愛を捻ると無理心中の仲  菱木 誠          

とはいえ、仮に縁談が持ち込まれるとしたら、

彼女たちの血縁の濃さから考えて、

信長の希望(あるいは命令)としか、考えられない。

だとすれば、彼女たちはあの信長さえ、手出しができないほどの、

「強固な意思を持っていた」と言えるだろう。

気が強いともいえるが・・・。

≪いずれにせよ、この時期のお市とお江たち三姉妹は、

 中央の政治から距離をとり、

 まるで世捨て人のごとく、ひっそりと穏やかに暮していたものと思われる≫

ものごころついた頃からほうれん草  山本早苗

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大河ドラマ『お江』-第二回・「父の仇」-あらすじ

落城する小谷城から逃れた市と茶々、初、そして江は、

信長の弟で、市の兄でもある織田信包(小林隆)のもと、

伊勢上野城で暮していた。

一方、天下統一に向け、着々と勢力を拡大する信長(豊川悦司)は、

天正7(1579)年、琵琶湖に程近い近江・安土の地に、

巨大な城・安土城の壮麗な天守を完成させ、

人々にその威風を示していた。

そんなある日、その信長から、

「城を見にこい」 

との誘いを受け、市(鈴木保奈美)江(上野樹里)たち三姉妹は、

安土を訪れる

江は、ずっと会いたいと思っていた伯父との対面が、

楽しみでならない。

深入りしそう女心をかきたてる  山本昌乃

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        茶々                  初

しかし、茶々(宮沢りえ)初(水川あさみ)の表情はさえなかった。

2人は、信長が父・長政の仇だと知っている。

一方、父が亡くなったとき、まだ赤子だった江は、

何も覚えておらず、

その後も、父の死にまつわる事情を知らされずに、育ってきたのだ。

絢爛豪華な城内を案内された後、いよいよ信長と対面した江。

だが、彼女はそのとき、

信長と市が、緊張感あふれるやりとりを交わす様子に驚く。

姉たちに信長は、

「さぞわしを恨んでおろうな」

と声をかける。

「自分の家族と信長との間にいったい何が・・・・」

と何か、江の胸中を横切るものがあった。

後れ毛に揺らぐ心は隠せない  上田 仁

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「ずっと、おわび申し上げとうございました。

 長政様を、ご切腹に至るまで、追いつめしことにございます!」

混乱する江に、

長政を切腹に追い込んだことを詫びる秀吉(岸谷五朗)の言葉が、

突き刺さる。

彼女はそのとき初めて、

父が信長の軍勢に攻められて、自刃したことを知ったのだ。

『余談』

≪さて、今回のドラマの見どころは、9歳時のお江が、登場する。

 9歳の江を演じるのは、ドラマの主役・上野樹里ー24歳。

 なんぼなんでも、9歳は、無理があるのではないか!?

 逆の意味で、楽しみでもあるか≫

桶のない寺の屋根から水たまり  森 廣子

これが9歳の上野樹里ですー。

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オニギリの梅が異変で芽を出した  樋口百合子

拍手[6回]

栄光の時知っている飾り棚  杉本克子

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   浅井久政

「浅井家戦国大名へ躍進」

浅井三代の初代・浅井亮政(すけまさ)は室町時代後半に、

相次いだ主君・京極氏の、家督争いによる内紛に乗じて勢力を伸ばした。

16世紀前半の頃には、ほぼ湖北を支配下に置き、

亮政の跡を継いだ久政を経て、

孫の長政の時代には、戦国大名へと成長していく。

浅井氏の勢力範囲は、他の戦国大名に比べると、かなり小さい。

しかし、

「北近江という畿内から東海、北陸、さらには東国へ向かう要衝に位置した」 

ため、一躍歴史の表舞台に立つこととなった。

水滴を集め命を飼い慣らす  谷垣郁郎

浅井久政は、亮政と側室・尼子氏の間に生まれ、

天文11年(1542)に、亮政が死去すると家督を相続した。

久政の時代には、六角氏との戦闘が行われていない。

これは、久政が六角氏の旗下に入っていたためで、

六角定頼の花押と久政の花押が、類似していることが象徴的である。
 
さらに久政は、弘治2~3年(1556~57)にかけて、

六角氏が行った伊勢侵攻にも従軍している。

この対、六角融和路線は、久政が軟弱な当主であるとの印象を与えてしまい、

”浅井三代記”などには、無能の当主として描かれた。

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

しかし久政は、この平和な時期に、湖北三郡の領国経営で手腕を発揮している。

領内の水争い(用水争論)などの「調停者」としての役割や、

土豪間の土地争いの調停で活躍した。

内政面で手腕を振るった久政は、決して、暗愚な領主ではなかったのだ。
 
しかし、六角氏の傘下に入るという消極的な姿勢は、

家臣の反発を招いてしまい、

永禄3年(1560)に引退して、子の長政に家督を譲ることになる。

おはようからおやすみまでのコマ送り  兵頭全郎

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     浅井長政
 
浅井家の領土を最大にした長政は、

天文14年(1545)に父・久政と母・井口氏の間に生まれた。

永禄2年(1559)正月に元服して、「賢政」と名乗る。

これは、六角義賢から一字を得たものであり、

六角家家臣・平井定武の娘を妻として迎えている。

しかし、同年4月に平井の娘を離縁して親元へ送還。

翌年の永禄3年8月には、愛知県野良田(滋賀県彦根市)で、

六角氏と合戦に及び、歴史的勝利を挙げた。
 
この前後に久政から家督を譲られ、

永禄4年(1561)5月頃に、浅井賢政は「長政」に改名した。

≪「長」は織田信長の一字で、長政への改名は、長政と信長の妹・お市との婚儀、

すなわち「浅井・織田同盟」の成立による改名と考えられる≫

一本の川の流れに身を添わす  清野玲子

長政の登場によって、浅井氏は、戦国大名への進化を、

加速させていくことになる。
 
戦国大名へと成長していく浅井氏を、支えていた家臣団は、

旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていた。

上層家臣は、坂氏・赤尾氏・堀氏・安養寺氏・三田村氏などで、

彼らは京極氏家臣としても名が見えるため、国人領主であろう。

この中で、特に赤尾氏は重臣で、赤尾清綱は長政の時代に、

筆頭家老の地位を確保していた。

髭になる組軟骨になった組  井上一筒

磯野氏雨森氏・海北氏などは、浅井氏時代に台頭した村落領主で、

その規模から言っても磯野氏以外は、

一般の下層家臣と、大きな差異が見られないのが現実である。

長政の重臣には、阿閉貞征・遠藤直経・中島直親などが名を連ねる。

彼らは京極氏の家臣ではなく、村落の領主から台頭として、長政に重用された。

浅井氏家家臣団の中では、上層家臣(国人)と下層家臣(土豪)の差は、

あまりなかったと思われる。

欠く義理と欠かない義理の使い分け  小西 明

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長政一家の銅像(長浜市役所浅井支所前に建つ)

≪お市が指を指し、一家が目を向ける先に小谷山がある≫
 
浅井氏に仕えた家臣の多くは、

居住地に築かれた一辺70メートルの堀と、土塁で囲まれた城館に居住し、

村の農民を被官(家臣)として軍事動員していた。
 
さらに信長との小谷城の戦いでは、

重臣たちが、次々に降伏していったが、

土豪出身の下坂一智入道垣見助佐衛門、片桐孫右衛門など、

小谷落城の直前まで篭城戦を戦った家臣たちもいたのである。

長政は、織田信長の妹・お市を妻として、

織田家と同盟関係を結びながら、最期は敢然と信長に立ち向かい、

そして、敗れた悲劇の武将として、

「今も湖北の人々に語り継がれている」

のである。

飾り過ぎたかかさむけが痛み出す  奥山晴生

拍手[4回]

夫の無能力化は着々と進む  井上一筒 

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光射す琵琶湖・近江と竹生島   

「小谷城落城」

全国の山城のなかでも、屈指の名城といわれた小谷城は、

小谷山の頂上から下ってきたところの、稜線に築かれている。

居館はもともと麓の清水谷にあったが、戦乱が激しくなって、

山上に女たちまで住める、

居館まで備えた「小谷城」ができたのである。

近江路を今も見ている伊吹山  武智三成

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右から、御茶屋、御馬屋、桜馬場、大広間、赤尾屋敷、本丸、堀切、

     中丸、京極丸、小丸、山王丸


山上の大手口にあたるところに、番所があり、

そこから少し上がった江戸時代に、「桜馬場」と呼ばれたあたりからは、

湖北一帯を眼下に見下ろすことができ、信長の本陣があった「虎御前山」がすぐ下に、

その向うに琵琶湖が拡がり、「霊所・竹生島」が可愛らしい姿を見せ、

遠く湖西の山々も、見渡すことができる。

そこからさらに上がって行くと、

山上の「御殿の跡」と言われる場所や「本丸」がある。

(天守閣にあたる建物があったかどうかは不明)

思い出のシーンを溜め込んだ枕  河津寅次郎

「小谷城落城」のきっかけになったのは、

清水谷から密かに水手口を上がってきた木下藤吉郎が、

内応する者の手引きで、本丸の背後の「京極丸」を占領したことにある。

この城が、このような攻撃を想定して、

「設計されていない」 
ことを見抜いた藤吉郎が、

奥にあった「小丸」浅井久政と、

本丸の浅井長政との「連絡道」を、遮断してしまったのである。

8月29日、祖父の久政が自刃。

ついで、織田信長自ら本丸を攻撃され、

9月1日長政も、本丸の横にある「赤尾屋敷」で自刃した。

魂だけ残してみんな捨ててゆく  前たもつ

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三姉妹と、お市がどうやって脱出したのか、

茶々5歳、は4歳、お江は生れたばかりだった。

先に長政の姉が、住職をつとめる実幸院という尼寺に、

匿われていたという説もあり、

藤掛永勝という、織田家から、お市の方の嫁入りについてきた者が、

先導したともいう。

前もって、逃がされていた兄の万福丸は、わずか10歳の若さで、

関が原で信長の命令を受けた藤吉郎によって、磔にされ、

又残酷にも、長政の母(井口阿古)は、

関が原で指を1本ずつ切り落とされ、刑死させられた。

こうして小谷城は落城し、浅井家は滅亡する。

井戸水が涸れて幽霊干からびる  小谷竜一

三姉妹は、信長弟の津城主・織田信包(のぶかね)方の世話になることになる。

信長としても、妹のお市の方と、顔を合わせるのは気まずいので、

そのように手配したのだろう。

小谷城はとりあえず、木下藤吉郎あらため、羽柴秀吉のものになるが、

まもなく秀吉は、すぐに長浜に新城を築いて移り、

5年後には、「破城」が命じられ、

石垣なども、すぐには補修して使えないように崩されてしまった。

知らぬ間にずれてしまった砂の城  田原喜久美

小谷城落城天正元年(1573)9月から、

「本能寺の変」の天正10年(1582)6月2日までの、おおよそ10年間、

お市と三姉妹が、どこで過ごしていたのかについては、確かな記録は残されていない。

≪信包の居城である伊勢上野城にずっといた、清洲、岐阜、安土のどこかに移った。

 などの説があるが、あくまでも推測である≫

古里を聞かれ流浪の民と言う  奥田みつ子

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大河ドラマ『お江』-第一回・「湖国の姫」-あらすじ

力ある者たちが、領土拡大や天下取りのため、

血で血を洗う戦を繰り広げた戦国時代。

尾張の風雲児・織田信長(豊川悦司)は、

近江の戦国大名、浅井(あざい)長政(時任三郎)に、

妹の市(鈴木保奈美)を嫁がせて同盟を締結。

京への道を開き、天下統一への動きを加速した。

しかし、野望を隠さない信長に、各勢力が反発。

長政も、大恩ある越前の朝倉氏が信長の攻撃を受けるに至って、

義兄に背くことを決断する。

けじめつけ無くした物の多かりし  籠島恵子

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それは、市にとって身を裂かれるような事態だった。

織田家に命を捧げる覚悟で浅井家に嫁いだ彼女だったが、

長政の妻として、茶々(芦田愛菜)、初(奥田いろは)という、

愛らしい姫たちと生きる日々が、その心を変えてしまっていたのだ。

市の苦悩をよそに、織田と浅井は全面戦争に突入。

居城・小谷城にこもる長政は、徐々に追い詰められ、

誰の目にも落城は間近と思われた。

そんな中、市は自分の体の異変に気づく。

子を身ごもったのだ。

薄靄にこんな所で囲まれる  森 廣子

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城が落ちれば自分は死ぬ身。

どうせ助からないならばと、

彼女は毒を飲んでその子を堕ろそうと決意するが・・・・。

母・市が身ごもった子を堕ろそうとしていると知り、茶々は身をていして、

それを止めようとする。

有情無情かなしい腕が二本ある  森中惠美子

拍手[7回]

おみくじに女は思い当たること  森中惠美子

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大河ドラマ「お江」に揃う美女五人衆

「まず、クイズです。 次の華麗なる親族を持つ女性は誰?」

叔父は、織田信長。

義兄は、豊臣秀吉。

義父は、徳川家康。

主人は、二代将軍・徳川秀忠

息子は、三代将軍・徳川家光。

孫娘は、初代女帝・明正天皇。

二回目夫・秀勝との娘・完子(さだこ)の系譜から、今上天皇へと辿り着く。

嘘っぽい家系図イカの墨で書く  井上一筒        

1573年(天正元年)生まれ、

父は、浅井長政。

母は、お市。

姉に、茶々お初

戦国時代最も有名な三姉妹の「三女・お江」である。

幼名を「お督」といい、

近江の江州の「江」、または江戸の「江」から、住居名を「お江」となる。

北近江の戦国大名、浅井氏は織田信長に敗れ、

浅井久政・長政父子の首は、信長により、

漆塗りにされた上に、金箔をほどこされて、

無残にも,正月の酒宴で、家臣らに披露された。

ここに浅井氏は滅びた。

しかし、それは、男の系図であって、

「女系図から見れば、その浅井氏は戦国史上、最大の勝者となったのである」
 
信長の妹お市の方は、

長政の妻となって2男(万福丸作庵)3女を産んだ。

才色兼備神は美人に甘すぎる  前原正美 

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     浅井三姉妹             

落城後に処刑されるなどとした兄弟に対し、

「三姉妹」は、母お市の薫陶を受けて立派に成人し、

大きく血脈の翼を広げた。

長女茶々は、両親を死に追いやった秀吉の側近にさせられるが、

秀頼の生母として、天下人秀吉の有した権力を共有し、

秀吉の死後、豊臣家を必死に守った。

一方、二女お初は、養父となった秀吉によって、京極家に嫁ぐ。
 
そして、変転の人生を身をもって体験した三女お江のもと、

華麗な系譜が誕生した。

三姉妹で恋人取るか取られるか  立蔵信子

お江は、秀吉に人生を翻弄され、3度嫁がされた。

2度目の羽柴秀勝との結婚では、夫が朝鮮に出兵して病没したが、

忘れ形見として、完子を授かった。

そのお江を、「戦国のシンデレラ」にしたのは、皮肉にも秀吉だった。

跡継ぎ秀頼のために、徳川の後ろ盾が欲しく、家康の息子秀忠に嫁ぐ。

だが、関ヶ原合戦で家康が覇権を握って、

お江は、徳川家のファーストレディーに変身する。

しかも、母のお市と同様、

お江も織田家の血を引いて多産系で、2男5女を産んだ。

朝顔は系統好きをもて弄ぶ  岩根彰子

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長女・千姫は豊臣家に嫁ぎ、悲劇を潜り抜けて本多忠刻と再婚し、

生まれた娘・勝姫池田光政の妻となり、備前岡山藩を揺ぎないものにした。

二女・珠姫前田利常に嫁ぎ、加賀百万石を不動のものにした。
 
だが何といっても、お江は徳川の「初代御台所」となり、

世継ぎ家光を産み、将軍家を安泰に導いた。

しかも、末娘・和子後水尾天皇の中宮(皇后)になり、

その娘が”明正天皇”となった。

落日にふとバンザイをしてしまう  嶋澤喜八郎          

さらに、先に羽柴秀勝との間に生まれた完子は、

公家の九条家に輿入れし、

夫・忠栄も、また生まれた息子・道房も、ともに関白となった。
 
お江は自ら武家の女として、最高位の御台所となり、

娘・和子は中宮として天皇家の頂点にのぼり、孫娘は女帝となる。

またもう一人の娘完子は関白夫人として、公家女性の最高位にのぼり、

息子・家光は3代将軍。

「こんな華麗な家系譜を持った女性は日本史上、お江しかいない」

滅びたはずの浅井氏は、

比類まれな女系譜を描き、

「見事な復活を遂げた」といえるのである。 

ゆったりと川の流れに沿い生きる  田中洋子

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