私を高めそれから書く手紙 三村 舞
≪海援隊京都本部・酢屋≫
”この二階に海援隊の仲間が集まった。”
『高瀬川の流れとともに』
高瀬川畔の「材木商・酢屋」は、御用達だった土佐藩との縁から、
二階を「海援隊」本部として融通した。
酢屋が、海援隊の本部扱いされるようになったのは、
酢屋がもともと、土佐藩と密接な関係にあったからである。
土佐藩の外郭団体といっていい、海援隊の京都本部になったのだ。
また、酢屋が高瀬川のすぐ近くにあり、
その立地を生かして海運業も営んでいた点も、
龍馬の目にとまったともいわれる。
一目惚れこれも一つの運のツキ 西藤次男坊
≪高瀬川・舟入場一隻の船の展示があり、先の小橋を右へ渡ると酢屋だ≫
海援隊が、酢屋を本拠としたのは、
土佐藩とのあいだに、微妙な距離があったからでもある。
土佐藩は、海援隊を傘下に置いたものの、
藩政に危険が及んだときは、
海援隊を、藩から切り離すつもりだったのである。
そのため海援隊は、土佐藩邸に本部を置くことなく、
土佐藩に近い、酢屋を本拠としたのである。
≪その後、幕府による龍馬とその仲間への追及が厳しくなり、
隊士の多くは、酢屋ではなく、大阪を本拠とした。
龍馬も、酢屋では危険であると感じ、近江屋に移っている。
だが、近江屋とて安全ではなかった≫
ピーナツを目に嵌め込んでいる門出 井上一筒
右上の看板には、隊士名が記されている。
姉・乙女に宛てた、長文の手紙(慶応3年)には、
”酢屋二階”に投宿していたと記している。
また、酢屋に海援隊・京都本部を置いたこともあり、
陸奥宗光や長岡謙吉ら多くの隊士も、投宿している。
11月15日、龍馬遭難の直後の”天満屋事件”も、
この酢屋の二階の一室に隊士が集まり、事件が起きている。
船宿に魚拓を囲む釣り仲間 山本憲太郎
姉・乙女宛・5メートルの長文
『龍馬の長文』
慶応3年6月24日、
翌日には、「薩土芸藩約定書」締結を控えていた。
龍馬は、早朝6時、河原町の「酢屋」二階の机の前にいた。
乙女姉と姪の春猪宛てに、手紙を書いていたのである。
その日は、相当爽快な気分であったのだろう、
龍馬が乙女に宛てた手紙の中では、
最も長い5メートルにも及ぶものだ。
花時計止めて待ってた人がいる 森田律子
高瀬川・碑文
『慶應三年六月二十四日 乙女(姉様)、おやべ(姪)宛て
『今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より、此ふみしたゝめました。
当時私ハ、京都三条通河原町一丁下ル車道 酢屋に宿申候。
・・・(中略)・・・
此頃私しも、京へ出候て、日々国家天下のため、議論致しまじハり致候。
御国の人ハ 後藤象二郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、
石川清之助(此人は私同ようの人)。
又望月清平(これハずいぶんよき人なり)。
中にも後藤ハ、実ニ同士ニて、人のたましいも志も、
土佐国中で、外ニハあるまいと存候』
訳ー≪訳・・・は不要か・・・後藤象二郎をベタ褒めしている≫
味方だと言うが斜めに構えてる 籠島恵子
・・・(中略)・・・
『かれこれの所、御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と 御笑被下まじく候。
私一人ニて、五百人や七百人の人お引て、
天下の御為するより廿四万石を引て、
天下国家の御為、致すが甚よろしく、
おそれながらこれらの所ニハ、
乙様の御心ニハ、少し心がおよぶまいかと存候。・・・』
訳ー≪「後藤象二郎に騙されているなどと、笑わないで下さい。
五百人や七百人で、御国のために尽すよりは、
土佐二十四万石の力を借りて、天下国家のために尽力する方が、良いでしょう。
姉様には、そこまで考えが及ばないでしょう」≫
こころざしのような背骨はもっている たむらあきこ
≪高瀬川に展示の舟入の船≫
”龍馬が爽快な理由” は、
鞆の浦沖で起きた”いろは丸”VS”和歌山藩船・明光丸”沈没事件の賠償問題
が5月に解決し、
6月22日には「薩土盟約」も樹立させていた・・・からである。
≪「薩土盟約」は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通等と、
土佐藩の後藤象二郎、福岡藤次郎等で決め、
龍馬は、同志・中岡慎太郎と、現場に立ち会った≫
絆創膏はずすとルーブル美術館 石田柊馬
≪坂本龍馬は土佐藩士なり・・・≫
手紙には、活躍する土佐藩の逸材として、
後藤象二郎を始め福岡孝弟、佐々木高行、毛利恭助、望月清平を挙げ、
中でも、後藤は、わが同志で志も魂も、土佐一番であると明記している。
これを読めば、
「勤王党贔屓の乙女姉が、気分を悪くする」
のを、龍馬は十分承知しており、
事実、後藤と龍馬が同席したことは、土佐藩中を駆け巡り、
「龍馬許せぬ」
と騒ぎ出す者も、数多くいたらしい。
熱燗に変わると愚痴の第二幕 平尾正人
≪龍馬が最も愛した乙女姉さん≫
乙女姉 からは、
「何故、後藤象二郎など、武市の敵と同志を組むのか」
との非難の手紙を、受け取っていたものと思われる。
ましてこの時期、
兄の坂本権平家の養子に入った春猪の夫・清次郎が、
土佐を飛び出して、龍馬の下に来ていた。
乙女の心配が、手に取るように判る龍馬は、
このことも権平兄に傷がつかぬように、後藤とも相談しており、
後藤に、
「天下のために働くことであれば、坂本家に傷はつくまい」
と言わせており、安心したことをさらりと姉に伝えている。
広辞苑電話で予約する霞 岸下吉秋
冗談めかして、大事業をなさんとする固い決心を、示しているのである。
反面、
「土佐から出たい」
と、乙女姉が言い出していることに対して、
「勤王や尊皇と騒ぎ、濡れ手で粟を掴むように、
天下国家の話を吹き込む輩もいるのだろうが、
女が出奔するなど、危険なことを考えるのはお止め」
と説得し、
洗脳はハーブの息とうすみどり 井上恵津子
≪高瀬川沿い・土佐藩邸跡‐(酢屋より約100m)≫
春猪には、亭主が脱藩しているのに
「簪を送ってくれなどとは、何事か」
と諌め、はたまた兄の権平は、酒が過ぎるとか、
妻のお龍は、
「天下国家のことなど、壮言もせずに良く尽くし、
縫いものなど、女の務めを果たしており、時間があれば本を読むように」
と言って聞かせていると、
「姉様もそうすれば」
と言わんばかりの長文で、
龍馬の人間味あふれる優しさを、顕している。
踏み台にどうぞ丈夫なこころです 新家完司
≪龍馬は筆まめだったようだ≫
脱藩以後は、土佐藩からも追われ、
幕府からも命を狙われた龍馬にしてみれば、
「読んだらすぐ火中に」 とか、
「人に見せるな」 と、
出した手紙の破棄を望み、
おそらく膨大な手紙の中から、残った”百三十九通”である。
(宮地佐一郎著参考)
階段の見える風景豆ごはん 墨作二郎
≪酢屋のこの看板に向いの京劇が写っている≫
『酢屋とは』
享保6年(1721)創業から、京都三条で材木商を営む。
幕末、当時6代目・酢屋嘉兵衛は、この材木商を営む傍ら、
角倉家より、大阪から伏見、そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、
運送業も行なっている。
現在、酢屋の前にある”京劇”は、当時、高瀬川の「舟入」で、
高瀬舟が出入りしていた。
岸には、納屋が建ち、船の荷をあげていた。
そんな時こころで追っている昔 西山春日子
≪酢屋二階は「龍馬」ギャラリーになっている≫
酢屋の東を流れる、高瀬川の川沿いには、
各藩の藩邸が立ち並び、
各藩との折衝や、伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、
龍馬は「酢屋」に身を寄せていた。
嘉兵衛は、龍馬の活動に大いに理解を示し、
彼の活動の援助に力を注いだ。
龍馬は、家の者から「才谷さん」と呼ばれ、
二階の表・西側の部屋に住まいし、
当時の面影を残す二階の出格子より、
龍馬は、向かいの船入れにむけてピストルの試し撃ちをしたといわれる。
≪現在10代目・「酢屋」となった二階には、当時を偲ぶものが展示されている≫
男の罪を風の罪だと思わねば 森中惠美子
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