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川柳的逍遥 人の世の一家言
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腹決める酒だ心がほろ苦い  碓氷祥昭

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「司馬遼太郎氏が語る日露戦争の成り行き」

『満州に居すわったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。

 当然ながら日本の国家的利害と衝突する。

・・・・・〈中略〉・・・・・  

 日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして、考えているだけではなく、

 李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいとおもっていた。

 他の列強が、中国をそれにしたように、日本は朝鮮をそのようにしようとした。

迷わないように歩いた獣道  佐藤后子

笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、

 売りつけるべき商品もないにひとしいというのに、

 やり方だけはヨーロッパのまねを、つまり、手習いを朝鮮においてしようとした。

 そのまねをしてゆけば、やがては強国になるだろうと考えていた。

 自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、

 朝鮮は、日本の生命線ということになるのである』―「司馬遼太郎氏-坂の上の雲」

半分に聞いてもでかい夢を吐く  嶋澤喜八郎

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清国を牛耳る横暴なタコ(ロシア)

「なぜ日露戦争は避けられなかったのか・・・?」

ロシアは、満州の独占的支配をはかろうとして、清に対し、

「ロシアの合意なしに、満州の港や市を、外国に開放しないこと」

「ロシアが占領中に獲得した満州の権利は、撤兵後も有効とすること」

など、7ヵ条の要求を突きつけている。

当然、清はロシアのこの要求を拒否したが、

ロシアはそれを無視して、そのまま満州に居座ってしまった。

朝鮮から、さらに満州へと進出することをねらっていた

「日本の政府の考え方」 と、

この、「ロシアの動向」 が、

衝突するのは、ごく自然の成り行きであった。

どこまでも交わることのない議論  住田英比古

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 日本軍司令部

ただ、日清戦争以来、急速に海軍の増強をはかってきた軍部も、

ロシアと戦争に踏み切るだけの自信はなく、

軍事力が増強されるまでは、交渉によって、

何とかロシアの満州・朝鮮への進出を、くいとめようと考えた。

たとえば、明治36年(1903)8月、駐露公使・栗野慎一郎

「日本は韓国に、ロシアは満州の鉄道経営に、それぞれ特殊利益をもち、

  これを保護するための出兵権を、お互いに認めること」

「ロシアは、日本が朝鮮の鉄道を、延長させて満州の鉄道につなげるのを、妨げないこと」

「ロシアは、日本が朝鮮政府に対し、援助と助言の専権をもつことを、認めること」

などの内容を含む6か条の「日露協商案」を、

ロシア側に提示している。

 カギカッコをつけて闘ってることば  森中惠美子 

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   39度線

この日本提案に対するロシア側の回答は、

「北緯39度以北を、中立地帯とすること」

などを要求するものであり、結局、この「日露協商」は決裂してしまった。

「朝鮮を思うままに、支配下に置こう」

と考えていた日本政府の思案は、はずれる結果となり、

あとは、「大人しく引き下がるか」「ロシアと一戦まじえるか」、

の2つに1つの選択となったのである。

その後、政府は日露開戦の道を選ぶわけであるが、

決断の一番大きな要因というか背景は、

さきに締結していた「日英同盟」であった。

九条も腹をくくって鐘を聴く  井上一筒

「ロシア追い出すべし」・・・46ec7ffd.jpeg

「出て行ってくれないか!」と英国と米国を後ろ盾に・・・

ところで、日露開戦に至る経過の中で、一番気になることは、

政府がこうしたロシアとの交渉を、

「国民に秘密にして進めていた」

という点である。

「交渉しても、はじめから日本の要求通りの答えは、得られないだろう」

と判断していたことも理由の1つだろうが、

日英同盟を結んでる以上、

「ロシアとの交渉は、公にせず進める」

という方針にした理由がある。

そして結果、これが、ロシアとの開戦をあおる動きにつながった。

談合はヒソヒソ話するところ  辻 葉

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ロシアが、北清事変で出兵させた兵を明治36年4月に、

「第2次撤兵の期限がきても、撤兵させていない」

という状況が、新聞によって公表される。

すると、それを知った国民は、

ロシアへの不信感を抱くようになり、あげくの果ては、

「満州からロシアを追い出せ」

という要求となる。

大きい穴掘ってみましたさあどうぞ  古久保和子

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日本とロシアの軍事力を、冷静に比較してみる前に、

感情論で、
ロシア追い出すべしの大合唱が、まきおこってきたのである。

しかも、ここで注目しなければならないのは、

そうした国民の大合唱が、

むしろ、マスコミによって形成された側面があることだ。

明治36年に結成された対・露同志会や、戸水寛人ら、

東京帝国大学の7人の教授たちが、意見書を出し、

主戦論を唱えたことを新聞が大々的に報じ、

国民の意識を、開戦の方向にもっていく作用を果たした点は重要だ。

手のひらをそっと返してまわしもの  内藤光枝

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平民新聞だけは、戦争反対を唱えた

当時の新聞をみると、社説の中で、

”ロシアと戦うべし”との論調で、読者をあおったものもあり、

一般の記事でも、開戦を要求するグループの集会の模様を、

大々的に扱うなど、
とにかく、マスコミ総ぐるみで主戦論が、

展開せれていった。

そうした動きの中で、はじめ非戦論を唱えていた”萬朝報”ですら、

ついには開戦を主張するようになり、

マスコミは一斉に、熱狂的な論調でロシアに対する敵愾心を、あおったのである。

新聞だけではなく、雑誌も主戦論を展開していき、

戦争反対を唱えるのは「国賊的扱い」をうける状況が、

つくりあげられていった。

鬼退治本当の鬼は桃太郎  山田こいし

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錯角を肯定してくる砂の城  小川一子

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  子規思い出の下駄

「『坂の上の雲』・第8回 「日露開戦」 あらすじ」

外国勤務を解かれ、イギリスから帰国した真之(本木雅弘)は、

常備艦隊参謀に就任し、海軍少佐に昇進する。

帰国後、胃腸を病んで入院している間に、資料を取り寄せ、

瀬戸内水軍(海賊)の戦法を学んだのち、

海軍大学校戦術講座の初代教官となる。

診察券の数とわたしの持ち時間  山岡冨美子

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清国から戻り騎兵第一旅団長となっていた好古(阿部寛)は、

すぐに、シベリアのニコリスクで行われるロシア陸軍の、

大演習を見に行くことになる。

ロシア騎兵将校と酒を酌み交わし、演習を見学。

その実力のほどをしかと確かめ、ハバロフスク、旅順経由で帰国する。

それは世界一と自負する陸軍を見せることで、ロシアに対する戦意をくじこうとする

ロシアの目論みだった。

咲く前にドライにされたバラの花  合田瑠美子

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      乃木と児玉

日露開戦が避けられないことを理解している児玉源太郎(高橋英樹)は、

対露戦研究の権威であった陸軍の参謀本部次長・田村怡与造が急死すると、

異例の降格ともいえる人事を、自ら望んで後任についた。

そして、休職中の乃木希典(柄本明)を陸軍に復帰させる。

曲がり鼻それなりにある指定席  北田ただよし

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東郷と山本

一方、海軍大臣の山本権兵衛(石坂浩二)は、

艦上勤務を離れ舞鶴にいた東郷平八郎(渡哲也)を、連合艦隊司令長官に任命。

宮内省御用掛・稲生真履の三女・季子(すえこ)(石原さとみ)と結婚した真之は、

ふたたび常備艦隊参謀となり、東郷平八郎と会い、

その人物に惚れて帰ってくる。

真之は、東郷から作戦参謀を任命され、

艦隊が集結する佐世保に向かう。

だからこそ険しい道を行くのです  足立淑子           

宮中では、行き詰まりを見せる対露交渉についての、議論が交わされていた。

日本政府は、外交交渉による前途に絶望して、

何度か断交しようとするが、

そのつど明治天皇(尾上菊之助)は許さなかった。

≪ここまでが、あらすじです≫

対岸の妬心はさみで切っておく  赤松ますみ

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「秋山真之と東郷平八郎」

秋山が季子と結婚したその年、

秋山は海軍大学で学ぶことなく、いきなり教官になった。

才気煥発な秋山に、人事局員が伝えた。

「近く常備艦隊の作戦参謀に抜擢されるから、長官の私宅を訪ねて、

 挨拶しておくように」
 と。

その夜東郷は、夜更けまで待っていたが、秋山は姿をみせなかった。

発令はデマとみて、すっぽかしたのだ。

たいへんな非礼を犯したことになる。

どこまでがタブーかみんな知っていた  田頭良子

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翌日、秋山は海軍省の一室で東郷と対面した。

「私が秋山少佐です」

と名乗っただけで、昨夜の非礼を詫びようとしなかった。

「このたびのこと、あなたの力に待つこと大である」

それっきり東郷は、一言も発しなかった。

おそろしく無口な老提督から、秋山は人徳のようなものを感じたが、

将としての器とは、別のものだ。

「日本海軍に自分より勝れた作戦参謀はいない」

という自信があるから、

秋山には誰が長官かということは、さほど問題ではなかった。

顎すこしあげておとこを見きわめる  たむらあきこ

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≪英雄・東郷が格好良いに越したことはないが・・・?≫

”才気走った生意気な若僧”ということにもなろうが、

東郷は一向に気にしなかった。

要は天才的な頭脳から、奔放自在な作戦を引き出すことだ。

”小男で外見の貧相”な東郷が、常備艦隊の長官に据えられたとき、

秋山も部内の下馬評に同調して、東郷を一介の凡将と見た。

裏返ししたい上司がいるのです  山本憲太郎

しかし、秋山の東郷観は次第に修正されて行く。

東郷が初めて、秋山に待ったをかけたのは、旅順港の”閉塞作戦”である。

陸上砲台の射程距離内を突進して、湾口に接近し、

汽船数隻を沈めて、ロシア艦隊を封じ込めるというものだ。

秋山は、米国留学中に米西戦争を体験した。

ハバナ軍港にスペイン艦隊を閉じ込めた、アメリカ艦隊の”封鎖作戦”を、

詳さに観戦しているから、いわばその道の権威である。

東郷が注文をつけたのは、

「文字通りの決死隊にならぬように、閉塞隊員の生還に万全を期せ」

ということだった。

これこそ、作戦すべての核心に触れるものだ。

凡将の口から発せられることではない。

秋山は東郷への見方を改めた。

不器用にアンモナイトの回復期  岩田多佳子

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≪当時の新聞に載った風刺記事・開戦への盛り上がり≫

「日露戦争ー短期決戦しかない」

いよいよ時局は、”日露開戦”に向かっていく。

内務大臣・文部大臣を兼任している児玉源太郎は参謀次長となり、

戦費調達交渉のため、財界の大御所・渋沢栄一に会い、協力を取りつける。

政府は、最終段階として対ロシア交渉に入っていたが、

ロシアの態度は強硬にして倣満だった。

政府は、ロシアと戦争をすることに恐怖を抱いていた。

政府の財政状況も緊迫していたが、世間は、

開戦論で盛り上がっていた。

人払いして長ネギ茹であがる  井上一筒

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      御前会議

≪内閣閣僚や元老による通常の会議とは別に、

 天皇が出席することで、大きな権威を持たせた会議≫

明治37年2月4日の御前会議において、

ついに”日露開戦”は決定されることになる。

明治37年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告した。

ロシアの宣戦布告は、9日、日本の宣戦布告は10日だが、

戦争はすでに始まっていた。

もはやたまさか月刊狂気  酒井かがり

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国交断絶前日の2月5日、

連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、指揮官らに大命が下った旨伝達し、

海軍大臣・山本権兵衛から下された「連合艦隊命令第一号」を伝えた。

連合艦隊参謀長・島村速雄は、真之にひそかに言っていた。

「すべて君に一任する」 と。

2月6日午前9時、連合艦隊は佐世保を出航。

海軍に課せられた任務は、旅順艦隊を撃って、制海権を握り、

朝鮮の仁川港に、陸軍部隊を揚げることにあった。

ノックして隣の留守を確かめる  嶋澤喜八郎

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秋山真之参謀は、「三笠」の艦橋にいた。

その任務は、ロシアの旅順艦隊を撃破して、

「制海権を手に入れる」

ことと、

「朝鮮仁川港に陸軍を陸揚げする」 ことであった。

一等巡洋艦の浅間を中心とした瓜生戦隊(瓜生外吉司令官)は、

主力が出た2時間後に抜錨し、仁川に向かったのであるが、

その途中で、仁川港から脱出してきた三等巡洋艦・「千代田」に出会う。

死ぬ暇のないほど今が忙しい  井上恵津子

その報告では、

「二等巡洋艦ワリャーグと砲艦コレーツが、仁川港に停泊している」

とのことで、早速、仁川港に赴いてロシア艦に出航を迫り、

港外に出たところで戦闘を開始した。

この時に浅間から発砲された8インチ砲弾が、

”日露戦争の海戦における第1発目”

と言われている。

≪結果は、ワリャーグは大破、コレーツは無傷であったが、

 共に仁川港に逃げ帰り自沈した≫

海が泡だつ人間はいくさ好き  森中惠美子

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生きたいと願うきれいな土ふまず  森中惠美子

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高浜虚子句(下村為山画)

子規逝くや十七日の月明に  高浜虚子

子規高浜虚子を、後継者と考えていた。

文学を志すといいながら、高校への入退学を繰り返し、

同級生の河東碧梧桐とつるんで、遊び暮している虚子に、

苛立ちを覚えながら、愛情をもって接している。

後継の話を持ち出したのは、

子規の脊椎カリエスが発見されて、直後のことだった。

芋阪の団子の起り尋ねけり(明治31年)

とがらせた芯でハートを突いてみる  三村一子

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文政2年(1819)創業の老舗の団子屋の団子・餡と焼き

≪子規や漱石のはか、田山花袋、岡倉天心、泉鏡花らも愛好した≫

子規は、道灌山にある茶店で駄菓子を勧めながら、

「学問をして自分の跡を継げ」

と迫った。 しかし、虚子の答えは、

「好意に背くことは忍びんことであるけれども、自分の性行を曲げることは、

 私(あし)には出来ない」

と言うものだった。

虚子は飄然としていながら、妙に我の強いところがある。

こうして後継の話は立ち消えになったが、子規の愛情は変わらなかった。

漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)(明治28年)

≪だが少し後に、柳原極堂が松山で発行していた俳諧誌『ホトトギス』を、

 東京で引き取ることになり、編集責任者となった虚子は、

 事実上、
後継者の役を担うことになる≫

一言が過ぎて酸っぱい仲になる  吉道航太郎 

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    松山城風景画               

「子規をしのぶ」

伊予松山という佐幕の小藩出身者では、子規や真之のような才幹であっても、

中央で驥足(きそく)を展ばせないのは、目に見えていた。

しかし、歴史とは大きな偶然でもある。

子規と真之の偉いのは、思わぬ偶然から、文学と海軍の世界に進む道が、

分かれながら、ひたすら、「近代日本のために、何事かをなさん」

とする、健気な青春をてらいなく過ごした点にある。

初日さす硯の海に波もなし(明治26年)

わたくしの色に自分史染めあげる  たむらあきこ

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子規は西洋嫌いの祖父の命令で、まげ姿で小学校に通っていた。(明治7年)

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上京して2年後、初めて帰郷した際に母と記念写真。(明治18年)

(この年から、積極的に俳句を作り始める)

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19歳、第一中学校予科(東京大学予備門)の制服姿。(明治20年)

茶の花や利休の像を床の上(明治20年)

綿菓子はファンタスティックに噛みなさい  山口ろっぱ

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子規が、明治21年から4年間暮した”常磐会寄宿舎”

屋根に登って寮生と記念撮影に写る子規。

≪旧松山藩の子弟のために、旧藩主の久松家が建てた寮≫

『常磐会寄宿舎2号室(子規の部屋)は、坂の上にありて、

 家々の梅園を見下ろし、いと好(よ)きながめなり』 坂の上の雲ー(1)

(ここは、元・坪内逍遥の家で、坂の下には、樋口一葉が住んでいた)

青々と障子にうつるばせを哉(明治21年)

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大学時代の子規は、俳句や短歌のほか、ベースボールにも熱中した。(明治22年)

鴬や東よりくる庵の春(明治25年)

幸せは今日も同じ顔に会う  野村増二

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子規が絶筆三句をしたためる四畳半
                      

常磐会宿舎に4年間暮した後、根岸に移る。

名月や我は根岸の四畳半(明治26年)

俳句や短歌の革新を志した子規は、

激痛を伴う重病にかかりながら、

新聞記者として活躍したく、日清戦争にも従軍する。

もっともっと日本の夜明けのために、国民の啓発のために働きたい」

のに体が許さず、切ない思いに泣く子規。

子規は、海軍の若きエリートとして、

アメリカ研修に出かける秋山真之の抱負と自覚に、接するにつけ、

やるせない思いをする。

(しかし同時に友人の幸運を素直に祝福もしている)

いくさかな我もいでたつ花に剣(明治28年)

ドロボーが盗む米ドロボーの米  井上一筒

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       子 規 堂

子規が17歳まで暮した住居を、正宗寺住職の仏海禅師が境内に復元した。

子供時代の子規の三畳の書斎や、子規が使用の机・遺墨・遺品・原稿など展示。

≪入館料50円・・・とは、うれしい≫

いもうとが日覆(ひおい)をまくる萩の月(明治30年)

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脊椎カリエスのために伸ばせない左膝を入れるために、机は特注している。

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床の間には晩年の子規を描いた自画像を展示している。

樽柿を握るところを写生かな(明治35年)

脈々と家を繋いでいる彼岸  田中山海

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「子規と漱石」

日露戦争を描く『坂の上の雲」の登場人物に、

司馬遼太郎は、なぜ漱石でなく、子規を選んだのでしょう。

本来ならば、漱石こそが適役のはず。

なにしろ子規は、日露戦争の前に死んでしまうのですから。

実際、ロンドン留学中の漱石は、1902年の”日英同盟締結”を現地で知り。

ヴィクトリア女王の葬儀と、

敗兵の行進のようなボーア戦争の凱旋式も目撃している。

月のかけらも皿のかけらも物議あり  荒井慶子

漱石は、「坂の上の雲」のなかでは、表立った存在感を示していない。

子規の友人として、間接的に物語に登場し、文学を志しながら、

軍人への道に転じた真之との対比で語られるだけだ。

20世紀的国際情勢をロンドンで肌身にしみて感じとり、

日本の立場を思いやったのは、漱石なのである・・・が。

筒袖や秋の柩にしたがわず  夏目漱石

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≪ロンドンにて子規の訃を聞き、虚子よりの要求で書いた追悼句≫

ドラマ性も、ニュース性も、併せ持った漱石が、

三人目の登場人物としていれば、

また違ったロマンのある物語が生れたのではないかと思うのである。

≪小説のなかの子規は、何度も真之に漱石を紹介しようとするが、

 不思議なことに間が悪く、この二人は最後まで邂逅することはない≫

くちばしに残業させておきなさい  立蔵信子

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母・八重(右)と妹・律(左)

≪子規の死後、叔父・加藤拓川の息子・忠三郎を養子にして家を継がす≫

いもうと律は、どれだけ子規の支えだったか。

”坂の上の雲”NHKのドラマでも、律の健気に泣かされる。

母と二人いもうとを待つ夜寒かな(明治34年)

いもうとの帰り遅さよ五日月(明治34年)

覚悟してこっそり落ちた寒椿  早泉早人

拍手[5回]

筋書きはいま踏切の鐘が鳴る  森中惠美子

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「子 規 庵」 (空襲で焼失ー昭和25年再建)

子規が亡くなるまで、10年間住んだ旧前田候下屋敷の長屋。

≪愛用の机は、伸ばせなくなった左足を入れるため、一部がくりぬかれている。

 庭の土蔵には硯や筆、衣服などの遺品が保存され、

 また、有名な糸瓜も、毎年植えられている≫

東京予備門に通っていた子規は、常磐会宿舎で、

明治21年から4年間寮生として暮したあと、本郷真砂町根岸に移り住む。

根岸に引っ越して来た子規は、『日本』の記者として”日清戦争従軍を希望”していた。

だが、陸羯南に反対されたため、与謝蕪村の再評価に熱中。

従軍記者に欠員が出たこともあり、根負けした羯南は、

子規に清国行きを許可する。

期待などしてませんのでご自由に  井上一筒

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「日本」新聞/学芸記者時代。(明治28年)

しかし、「子規の従軍は、結局こどものあそびのようなもの」に終った。

従軍からの帰路、甲板で大喀血し神戸で入院。

須磨で、転地療養したのち帰郷し、

松山中学校の英語教師として、

赴任したばかりの夏目漱石と同居することとなった。

その家を、日清戦争から凱旋した真之が見舞う。

子規の病状は悪化するばかりで、ついにカリエスを発症。

≪このころ、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』を詠む≫

気がつけば埃を噛んでいたようだ  壷内半酔

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世の中は、ロシアを中心とする三国干渉に遭い、

近い将来、戦争になるだろうという風潮の中。

秋山好古は、佐久間家の娘・多美と結婚後、陸軍乗馬学校校長に就任。

秋山真之は、日清戦争後、大尉に昇進、海軍軍司令部・諜報課に配属となり、

同課にいる広瀬武夫と邂逅し、同居する。

その後、海外派遣士官となった真之は、アメリカに留学する。

アメリカに発つ前、真之は根岸に子規を見舞う。

今生の別れと思った子規は、

”君を送りて思うことあり蚊帳に泣く” 

と詠んだ。

人間のいろはを問えばとうがらし  倉橋悦子

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松山市立子規記念博物館には、

正岡子規と秋山真之とが直接交わした書簡が、7通だけ残されている。

残っている7通の真之の書簡うち、最初の書簡は、

真之が海軍兵学校への転校する時に、

短歌で子規に別れを綴ったものである。

真之は、海軍に入ってからも、子規に書簡を書き送っている。

絵ハガキに添えて真之から届いた文面の一例。

「英国公使館付の駐在武官となり、アメリカからイギリスに渡る」

子規も、相当な数の書簡を、真之に送っているはずだが、

残念ながら、今は残っていない。

こんな時無口な友がありがたい  山口ろっぱ

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明治30年、真之は、海軍留学生として世界に飛躍することになった。

一方、結核にかかった子規は、病状が進んで寝たきりになってしまう。

子規は、真之が旅立つ日に、

”君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く”

という句を詠んだが、その”思うところ”は何なのか、不明である。

って吐く吐くのがちょっと面倒で  森田律子

あとで、この句を知った真之は、

「世界をあれほど見たかった好奇心のかたまりたる」

子規の身を思いやりながら、

「政治こそ、男子一代の仕事」

と信じた友人の身中を思っている、真之の心境を、

司馬遼太郎は、次のように書き込んでいる。

「若いころの壮志をおもうと、まだ三十というのに、人生がすぼまる一方であった。

 やがて死ぬ、と覚悟しているにちがいない。

 なにごとを、この世に遺しうるかということをおもうと、

 あの自負心の強い男は、真之のはなやかを思うにつけ、

 あの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。

 真之は、そうおもった」 (「渡米」)

こうなれば持ち味だけで生きてやる  井上良子

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     律・菅野美穂

海外の真之は、

「遠くとて 五十歩百歩 小世界」

という年賀状を送るが、

それは、真之の思いやりだったのだろう。

そうした年賀状などを励みとしながら、子規は病床で名句を生み出していく。

”正岡子規 絶筆三句”

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず

をととひの へちまの水も 取らざりき

点滴を曳きずり春の海へ漕ぐ  東おさむ

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真之が帰国した明治33年8月、その頃から、

子規の病状は急速に悪化して行き、

明治35年9月19日、子規は遂にこの世を去る。 (享年34)

子規は、臨終の時まで、真之との思い出を抱くように、

真之から贈られた、毛の蒲団を肌身離さなかったという。

葬儀の日、真之がやって来たのは、

子規の棺が家を出て、間もなくであった。

「余談ー香川照之・後日談」

『龍馬伝』は、ソリッド(堅物)な、硬い感覚の撮り方です。

『坂の上の雲』は、やわらかい坂の上に広がる、うす青い空の色のような、

 温かさにつつまれた作品です」

原点の大地へ帰りゆく命  中川正子

拍手[3回]

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

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 子規生涯最後の写真

≪一般的によく目にするこの写真は、病気のため、起き上がることができず、

 寝たまま撮影したという≫

正岡子規は一体、どんな状況下でこの「柿食えば・・・」の句を生み出したのだろうか。

当時の気象記録や、子規の随筆などの資料から見てみると、

そこには、不思議な符号と、知られざる美少女の面影が浮かんでくる。

松山で共同生活していた夏目金之助(漱石)から、旅費の援助も受けて、

子規が念願していた”大和路への旅”は、明治18年10月19日松山~始まる。

送られて一人行くなり秋の風 

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旅装姿の子規

広島~須磨を経由して大阪へ、そこから奈良へ向かい10月30日帰京までの道中、

秋風や囲ひもなしに興福寺

般若寺の釣鐘細し秋の風

大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩い、

柿赤く稲田みのれり塀の内

人もなし駄菓子の上の秋の蠅

と詠んだ。

≪この時、柿食へば・・・の句を詠んだとされるが・・・’実はそうではないようだ’

ともし火や鹿鳴くあとの神の杜

鹿聞いて淋しき奈良の宿屋哉

軸足をずらし優しい風を待つ  倉地美和            

≪よっぽど一人旅が寂しかったのだろうか・・・宿屋で淡い恋心らしきものが生まれる≫

・・・東大寺南大門近くの旅館・「角貞」、部屋に落ち着くと、

ほんに可愛い女中がやって来て、子規の大好きな富有柿を剥いてくれた・・・。

秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味

その時の様子を子規は、随筆の中で回想している。

『下女は、直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に、山の如く柿を盛りて来た。

 此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。

 生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。

 やがて柿はむけた。

 余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。

 柿も旨い、場所もいい。

 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。

 彼女は初夜が鳴るといふて、尚柿をむき続けてゐる。

 余には、此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。

 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が、初夜を打つのであるといふ。

 そして女は障子を開けて外を見せた』
 
長き夜や初夜の鐘つく東大寺

美味しい美味しい柿。

しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。

冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。

・・・子規はどんな目で、この娘を眺めたのだろうか?・・・

このとき、‘柿食へば・・・法隆寺’の句がうまれている。

「東大寺」ではなく、なぜ「法隆寺」になったのか、なにか秘密にしておきたい事情、

 もしくは、子規の純情のあらわれだったのだろうか・・・?≫

・・・子規がこの句を詠んだ明治28年10月26日の天候は、‘雨’だった。

≪10月26日、この日を「柿の日」と制定される≫

時雨が続いて、底冷えがするそんな日に、

病身の子規が、震えながら、柿を齧り付くとも考えられない・・・

いく秋をしぐれかけたり法隆寺

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子規庵の縁側に座る子規(第一回蕪村忌が行われた時の写真)

「疑問点」

子規の’柿食へば’よりも早く、愛媛松山の「海南新聞」に掲載された句がある。

鐘撞けば銀杏散るなり建長寺

柿食えばの句に類似しているが、子規の作ではない。

作者は、夏目漱石。

漱石の句は9月6日に、そして子規の句は11月8日に同じ海南新聞に載った。

子規が真似たか・・・・・な!?

≪漱石の俳句は、「子規を囲む会」で生まれたか、

あるいは’子規が選んだ句ではないか’と、NHKは解説する≫

建長寺の句が、子規の頭のどこかにあり、法隆寺の句をつくるとき、

「それが無意識に媒介になった」と考えられるというのだ。

長けれど何の糸瓜とさがりけり  漱石

明治29年の作、この句に、子規は二重丸をつけた。

子規は、「明治29年の俳句界」で、子規門の俳人として、

「漱石は明治28年始めて俳句を作る。

 始めて作る時より、既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」

との評する。

いわゆる、「柿食へば・・・」の句は漱石に、指導する意味において、

暗黙の中で建長寺の句を、

自分のものと比較させるように、しむけたのかも知れない。

漱石は子規にとって、友人であり、弟子であり、恩義のある人なのである。

そして、「柿くへば・・」の句は、

≪また療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石の、「鐘撞けば・・・」の句への、

 返礼の句ともいわれているが・・・~((((( ~ 〓~)□~((((-_-;) ウツセミノ術≫

行かばわれ筆の花散る処まで  

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  子規と漱石の二人句

ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影  子規

半鐘と並んで高き冬木かな   漱石

ありがとうの数だけ友情が芽生く  前田咲二

『正岡子規』 (1867~1902) 

日本を代表する俳人。

短歌や随筆、評論なども創作し、日本の近代文学に大きな影響を与えた。

秋山真之の一年年上ながら、小学校から中学、大学予備門まで同学年。

その後、真之は中退して、学費のかからない海軍兵学校へ。

子規も肺結核を発病後、帝国大学文科大学国文科を中退して新聞記者へと、

二人は別々の道を歩むことになった。

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     33歳の子規

≪病床にあっても俳句・短歌・小説と創作意欲は旺盛だった≫

子規は、寝たきりになってからも、門人の「高浜虚子」「河東碧梧桐」らが、

口述筆記するなどして、創作活動を続けた。

無宗教で、戒名も、「無用に候」「葬式の広告など無用に候」

本人が書き残した墓誌には、「月給四十円」と結んでいる。

死ぬときに飾るものなど残さない  森中惠美子

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