- 2011/07/12
- Category : ポエム&川柳
お江ー朝鮮出兵
≪小西行長の軍に取り囲まれる東菜城。
東菜城は、その進路上にあったため、釜山城に次いで攻撃を受けることになった≫
「朝鮮出兵」
朝鮮出兵の緒戦において、渡海した兵力は15万8千余人だった。
軍は9陣に編成され、
秀勝は殿(しんがり)の9陣を、細川忠興軍3千5百とともに任され、
まず壱岐に在陣した。
先鋒の小西行長と加藤清正は、釜山に上陸すると、
朝鮮側の攻撃をほとんど受けず、
競うように漢城(ソウル)をめざし、わずか20日で無血入城する。
破竹の日本軍は、北上し6月15日、
平壌(ピョンアン)をも制圧した。
しかし、朝鮮側も義兵が蹶起し、ゲリラ戦で日本軍を攪乱し、
海には名将・李舜臣(イ・スンシン)が現れ、
釜山の西南西にある巨済島(コジェド)の周辺海域で、
藤堂高虎、脇坂安治が率いる水軍を、次々に破り、
日本の制海権が危うくなる事態となった。
文禄2年(1593)、釜山海を進む日本水軍。
秀吉は日本水軍の非力を悟ると、”巨済島”に城を築いて、
陸伝いに、朝鮮水軍を討つことを決めた。
当時、日本の将兵は異国の水が合わず、
また気候にも、なじめなかった。
夏まではよかったが、
秋になると、寒さが将兵を苦しめる。
薄皮を剥いで尻尾を切り忘れ 谷垣郁郎
羽柴秀勝も病んで、陣中に臥す。
病状は重く、戦地だけに大した治療もできぬまま、
病状は悪化、ついに9月9日、24歳の若さで没した。
戦場での不名誉な病死、
しかも、お江から「稚児(やや)ができた」との、
うれしい知らせが届いていただけに、
秀勝の無念は、やるかたなかった。
この時、ちょうど黒田如水(官兵衛)が釜山に来ていた。
秀勝の死の後始末を如水がし、
秀勝の兵は、周辺諸城の諸大名に分散して、
再配属された。
そして、秀勝の遺体は海を渡り、京都に戻った。
秀勝の遺体の帰還と、
お江が娘・完子(さだこ)を産んだのはどちらが先か、
それを知る史料はない。
しかし涙の中で、
お江は完子を、秀勝の生まれ変わりだと信じた。
≪お江は姑・ともと京都亀山の地に葬る。
ともは、そこに善正寺を建立したが、
後に彼女自身が、京都市街の岡崎に移した。
いま善正寺に秀勝の墓は現存する≫
貼り付けたままの笑顔が続く夜 平尾正人
お江は聚楽第の秀勝屋敷を去って、大坂城に戻った。
そして名護屋での姉・淀殿の妊娠を知る。
大坂城に戻って姉は、秀頼を産んだ。
お江は秀勝に死なれ、徳川秀忠に嫁ぐ間の3年間、
大坂城で過ごした。
お江は、わが娘をあやし、
ひとつ違いで生まれた秀頼と、遊ばせるなどしながら、
子育ての喜びを姉・淀殿と、大坂城で共有したのである。
青い鳥のあくびにつきあっている 桂晶月




