栄光の時知っている飾り棚 杉本克子
浅井久政
「浅井家戦国大名へ躍進」
浅井三代の初代・浅井亮政(すけまさ)は室町時代後半に、
相次いだ主君・京極氏の、家督争いによる内紛に乗じて勢力を伸ばした。
16世紀前半の頃には、ほぼ湖北を支配下に置き、
亮政の跡を継いだ久政を経て、
孫の長政の時代には、戦国大名へと成長していく。
浅井氏の勢力範囲は、他の戦国大名に比べると、かなり小さい。
しかし、
「北近江という畿内から東海、北陸、さらには東国へ向かう要衝に位置した」
ため、一躍歴史の表舞台に立つこととなった。
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浅井久政は、亮政と側室・尼子氏の間に生まれ、
天文11年(1542)に、亮政が死去すると家督を相続した。
久政の時代には、六角氏との戦闘が行われていない。
これは、久政が六角氏の旗下に入っていたためで、
六角定頼の花押と久政の花押が、類似していることが象徴的である。
さらに久政は、弘治2~3年(1556~57)にかけて、
六角氏が行った伊勢侵攻にも従軍している。
この対、六角融和路線は、久政が軟弱な当主であるとの印象を与えてしまい、
”浅井三代記”などには、無能の当主として描かれた。
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しかし久政は、この平和な時期に、湖北三郡の領国経営で手腕を発揮している。
領内の水争い(用水争論)などの「調停者」としての役割や、
土豪間の土地争いの調停で活躍した。
内政面で手腕を振るった久政は、決して、暗愚な領主ではなかったのだ。
しかし、六角氏の傘下に入るという消極的な姿勢は、
家臣の反発を招いてしまい、
永禄3年(1560)に引退して、子の長政に家督を譲ることになる。
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浅井長政
浅井家の領土を最大にした長政は、
天文14年(1545)に父・久政と母・井口氏の間に生まれた。
永禄2年(1559)正月に元服して、「賢政」と名乗る。
これは、六角義賢から一字を得たものであり、
六角家家臣・平井定武の娘を妻として迎えている。
しかし、同年4月に平井の娘を離縁して親元へ送還。
翌年の永禄3年8月には、愛知県野良田(滋賀県彦根市)で、
六角氏と合戦に及び、歴史的勝利を挙げた。
この前後に久政から家督を譲られ、
永禄4年(1561)5月頃に、浅井賢政は「長政」に改名した。
≪「長」は織田信長の一字で、長政への改名は、長政と信長の妹・お市との婚儀、
すなわち「浅井・織田同盟」の成立による改名と考えられる≫
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長政の登場によって、浅井氏は、戦国大名への進化を、
加速させていくことになる。
戦国大名へと成長していく浅井氏を、支えていた家臣団は、
旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていた。
上層家臣は、上坂氏・赤尾氏・堀氏・安養寺氏・三田村氏などで、
彼らは京極氏家臣としても名が見えるため、国人領主であろう。
この中で、特に赤尾氏は重臣で、赤尾清綱は長政の時代に、
筆頭家老の地位を確保していた。
髭になる組軟骨になった組 井上一筒
磯野氏や雨森氏・海北氏などは、浅井氏時代に台頭した村落領主で、
その規模から言っても磯野氏以外は、
一般の下層家臣と、大きな差異が見られないのが現実である。
長政の重臣には、阿閉貞征・遠藤直経・中島直親などが名を連ねる。
彼らは京極氏の家臣ではなく、村落の領主から台頭として、長政に重用された。
浅井氏家家臣団の中では、上層家臣(国人)と下層家臣(土豪)の差は、
あまりなかったと思われる。
欠く義理と欠かない義理の使い分け 小西 明
長政一家の銅像(長浜市役所浅井支所前に建つ)
≪お市が指を指し、一家が目を向ける先に小谷山がある≫
浅井氏に仕えた家臣の多くは、
居住地に築かれた一辺70メートルの堀と、土塁で囲まれた城館に居住し、
村の農民を被官(家臣)として軍事動員していた。
さらに信長との小谷城の戦いでは、
重臣たちが、次々に降伏していったが、
土豪出身の下坂一智入道や垣見助佐衛門、片桐孫右衛門など、
小谷落城の直前まで篭城戦を戦った家臣たちもいたのである。
長政は、織田信長の妹・お市を妻として、
織田家と同盟関係を結びながら、最期は敢然と信長に立ち向かい、
そして、敗れた悲劇の武将として、
「今も湖北の人々に語り継がれている」
のである。
飾り過ぎたかかさむけが痛み出す 奥山晴生
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