川柳的逍遥 人の世の一家言
オムレツの卵ひとつが萎えている 前中知栄
政子の観音像 北条政子…と言えば、足利義政の正室・日野冨子、豊臣秀吉の側室・
淀殿と共に、「日本三大悪女」の一人として有名。 夫・頼朝の死後、政子に静かな後半生は用意されていなかった。
2人の娘はすでに亡く、嫡男・頼家を失い、最後に残った次男実朝まで
もが暗殺されてしまう。
しかも加害者は、日頃から目をかけていた孫の公暁である。
その悲しみは気も狂わんばかりであっただろう。
そこには「承久の乱」に際し、尼将軍として御家人たちを結束させた
政子の印象とはほど遠い。 最愛の子どもたちに、幸福な人生を与えることが出来なかったのが政子
の不幸であった。
だがそれは、将軍の妻・母であった彼女の宿命だったのかもしれない。 そのような自責の念からか、晩年の政子は観音像を描くことを日課とし、
その絵は今も寿福寺に残されている。
こんな政子を悪女と呼ぶのは、心もとないのではないか。
削っても削っても大黒柱 森 廣子
鎌倉御所 「鎌倉殿の13人」 政子は悪女だったのか。
「尼将軍ー最後の大仕事」 その昔、謀反を企てた北条時政の後妻・牧の方にならったわけではない
だろうが、義時急死後、その後妻である伊賀の方が北条家に災難をもた らした。 伊賀の方は、参議右中将・一条実雅を将軍にし実子・正村を執権にする
ことで兄・伊賀光宗が実権を握ろうと謀ったのである。 そのため彼女は、有力御家人である三浦義村を抱き込もうとした。
義村は正村の烏帽子親であり、娘が泰時に嫁いで離縁されたという関係
である。 この陰謀を知った政子は、深夜女房1人だけを連れて義村を訪ねた。
政子は東国の棟梁は、泰時意外にないと説き、
「陰謀に加わるか、泰時を助けて平穏をとるか、さぁどっちなんだ」
と詰め寄った。
この政子の恫喝に義村は恐れをなし、泰時に忠誠を誓ったのである。
政子は、伊賀の方を伊豆に幽閉すると、光宗を信濃、実雅を越前に配流
させた。伊賀氏による陰謀を未然に封じ、鎌倉幕府の急場を救ったこの 一件は、70歳に近い「老尼将軍の最後の大仕事」となったのである。 ばあさまになりはったけど髪薫る 井上一筒
「なんでかこれが悪女伝説」
伊賀の方と正村 「政子が伊賀の方の謀反をでっち上げた?」
牧の方の乱をまねたかのような伊賀の方の乱は、実は政子が伊賀の方を
陥れるために仕組んだものという説がある。
伊賀の方の実家である伊賀氏の台頭を恐れたからだという。
但し、伊賀の方に押しのけられようとしていたはずの義時の長男・泰時
自身が、意外にも「伊賀の方の謀反を否定している」ということを、 どう判断するべきか、…何とも奇妙である。 乱闘がはじまりそうな酸味かな 吉松澄子
「亀の前事件」
政子が2人目の子を懐妊中に、女好きの頼朝は、亀の前という女性を愛
し、深い仲になってしまった。
これを知った嫉妬深い政子は大激怒し、亀の前の屋敷を破壊、さらに
亀の前を追放してしまった。 当時としては、子孫を残すことは、一家の繁栄維持に欠かせないこと、
すなわち、男が妾を持つことは普通のことだった……のだが。
誤作動の指が頭に喝を入れ 宇都宮かずこ
頼朝・富士の裾野の巻狩り 「猪や鹿を射るより源範頼」
建久4年(1193)頼朝が富士裾野での巻狩りの折、曽我祐成と時致
の兄弟(伊東祐親の孫)が裾野に建つ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害 をした。「曾我兄弟の仇討ち事件」である。 その後、兄の祐成は仁田忠常に討ち取られたが、弟・時致は頼朝の宿舎
をめがけて憎しみの刃を向けてくる。 頼朝も臨戦の太刀を抜くが、大友能直が間に入ってことなきを得た。 だが、これを「頼朝も討たれた」と『保暦間記』が誤報したことから、 問題が起った。 このとき、政子の傍に控えていた頼朝の弟・範頼が、政子に
「兄が亡くなっても、私がいますからご安心ください」
と言葉を掛けた。鎌倉に戻って頼朝は、政子からこの言葉を聞き、 「範頼は自分の地位を狙っている」と、疑念を持った頼朝は範頼を追放
してしまった。 告げ口から政子が悪女だと決めつけるのは早計だが、範頼を嫌った政子
が彼を追い落とすために虚言を弄したという流言が真しやかに囁かれた。 洗濯ばさみ劣化サボテンだけ元気 藤本鈴菜
「比企氏討伐と頼家殺害」
頼朝死後、長男の頼家が2代将軍となった。
が、頼家の政治は独断専行で近臣の諫言も無視、また蹴鞠や遊興に没頭
し政務も疎かだった。 ために「鎌倉殿の13人」による合議制により実権を取り上げられた。 また頼家は、母・政子よりも、父・時政よりも、妻の実家の比企氏と親
密な交わりをした。 そして頼家が病床の折、頼家・比企能員と妻の3人が「鎌倉を我が物に」
とする謀議を、政子は、廊下の通りすがりの障子の隙間から耳にする。
政子はこの大変な裏切りの密談を父・時政に通報した。
鎌倉安寧を願う時政は、比企能員を自邸に招き謀殺してしまうのである。
頼家は政子の告げ口により出家させられ、伊豆の修善寺に幽閉された。
やがて頼家は、誰がしむけたか闇の手によって殺害される。
彼女の悪女説は、比企氏の陰謀の通報から頼家殺害まで、政子が関わっ
ていた中心人物だというのである。 いつの間に担ぎ出されたど真ん中 津田照子
「北条政子を振り返る」 政子善人説
政子の遺品 政子の櫛
承久の乱から4年後、政子は嘉禄元年(1225)7月に病没。
69歳だった。弟の義時は、この前年の6月に62歳で没している。
仲の良い姉弟だったことを伺うように、政子は一年後に義時を追い逝っ
たのである。 数年前、政子の遺品として鎌倉の永福寺から、政子が身につけていた思
われるものが発掘された。 掘り出された「経筒」は一緒に女ものの櫛や数珠が発掘されたことから、
政子が埋めた可能性があると考えられている。(鎌倉国宝館保管)
昨日迄二人だったが今一人 下林正夫
「母なる政子」 政子は、弱い立場にいる女性や子どもに優しさを向け、一族の繋がりを
大切にする家族観を持っていたという。
ある時、娘の大姫の許嫁である志水の冠者・義高が殺されるといいう事
件が起った。
頼朝と朝廷よりの義仲の関係が悪化し、義仲は頼朝の鎌倉軍に滅ぼされ
てしまう。 義高は木曽義仲の息子だったため、反乱の芽を摘み取る意味で、頼朝は、 義高を殺そうと配下を差し向けるのたが、義高の危機を察知した政子は 義高を館から逃がしてやった。 結局、義高は殺されてしまうが、政子にとって義高は政敵の息子ではなく、
まず娘の許嫁で家族の一員だったのだ。
ゆっくりとほどこう母の糸車 山口ろっぱ
「こころ優しき政子」
また、義経に対する純粋な愛を舞にした静御前を頼朝が叱責したとき、
公然と異を唱え、守ろうとしたことや、息子頼家が死んだ後、その子ど
もたちを頼家の弟・実朝の養子扱いしたことからも政子の優しさや家族 観はうかがえる。 もともと家族が強い絆を持って生活する東国で、政子にとっては幕府と
主従関係にある御家人たちもまた、家族の一員だったのだ。
鎌倉幕府の危機を救ったあの演説は、母として政子が息子・御家人たち
に向けた言葉だったにちがいない。
マイナンバーをわたくしの戒名に 靏田寿子
[政子の直筆の手紙 (政子から文覚の弟子・上覚への返書)
男まさりの政子の性格がうかがえる堂々たる筆跡である。
神護寺には頼朝ゆかりの寺として知られ、頼朝の肖像画などのほかに、
政子の唯一の直筆といわれる手紙が所蔵されている。
「親が子に先立たれるというのは無情の世のならいですが、
それでも母としては、慰められようもないほど嘆きは深いのです」 と記されている。
独り言もう言わないと独り言 掛川徹明
「政子の心根」
平家との戦を進める木曽義仲は、息子の志水冠者義高を人質として鎌倉
に送ってきた。頼朝は義高を大姫の婚約者に定めた。 寿永二年(1183)だから義仲の子・義高追討の前年のことである。 義高11歳、大姫6歳のころであった。
ところが、頼朝と義仲は対立し、義仲が討ち死にすると、ほどなく頼朝
は義高を斬首した。 大姫は、子供心に大きな傷を負った。
大姫は義高の死以来、日ごとに憔悴し、その傷は20歳で世を去るまで
癒えることがなかった。 娘を失った政子の下に上覚上人からお悔やみ状が送られ、
それに対してゆれ動く母親の嘆きを吐露した手紙が上記の本状である。
あの世でもこの世でもない沖にいる 徳永政二
鎌倉・扇ガ谷の寿福寺にある政子の地蔵 鎌倉五山の一つとして知られる寿福寺は、正治2年(1200)に政子が
僧の栄西を招き、この前年に死去した頼朝の冥福を祈って創建した臨済宗 寺院である。
願成就院の地蔵菩薩坐像は「北条政子地蔵」と呼ばれ、政子の七回忌の折、
三代執権・北条泰時が奉納したものと伝えられる。
ぬかるみに咲いて奇麗な蓮の花 通利一遍 PR 塞翁が馬か人生浪花節 岡田幸男
鎌倉殿の最終章 承久の乱の後、北条義時の立場はいっそう強まり、独裁体制さながらに
権力を振るうことになる。もっともその期間は短い。
乱から3年後の貞応3年(1224)義時が病により没したからだ。
彼の60余年の人生、頼朝死後、若き日の茫洋とした義時の姿はなく、
鎌倉を守るため、また北条氏を守るため、その生き様は厳格さを貫き通す
ものだった。その過程となる出来事に携わってきた義時は、
歴史的にも決して評判はよくない。
悪人もみんなやさしい絵本の絵 清水すみれ
「鎌倉殿の13人」 北条義時、没する
「義時を悪人伝説に仕立てた出来事」
この時は何の疑いもしなかった広常 頼朝失脚を企む御家人たちの計画を潰すため義時は、大江広元(栗原英
雄)と連携してことを収めていた。 しかし事なきを得たはずだったが、広元の筋書きには続きがあった。 広元は頼朝に「見せしめ」として「誰か一人に謀反の罪を負わせる」
ことを進言していたのだ。 その一人とは、御家人の中でも上位の上総広常(佐藤浩市)だった。
頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時は鎌倉の御所内で広常を暗殺した。
義時はその時、唖然とした顔で頼朝の冷酷さをみた。
義時の厳格と非情性は、このときに醸造が開始されたのかもしれない。
沖へ沖へ私ひとりの舟を漕ぐ 津田照子
能員と義時の腹の探り合い 「比企の乱から派生する一連の粛清」
頼朝の死後、将軍頼家と北条氏との対立が激化すると、阿野全成(新納
慎也)は突如、謀反の罪で常陸に配流され八田知家(市原隼人)により 誅殺された。 それを画策したのが比企能員(佐藤二朗)だった。
さらに能員は頼家と「北条転覆を画策」…これは北条にとって脅威でし
かなく義時は宣戦布告し、比企氏を壊滅。そして女・子どもの区別なく 一族を掃討した。 いざこざも五色の糸も絡みつく 小谷小雪
「一幡暗殺」
つづいて義時は、頼家(金子大地)の長男で比企の血を引く一幡(相澤 壮太)を殺害するよう善児(梶原善)に命じた。 が、姉・政子の助命に掬われ一幡は一命をとりとめた。
一幡はのちの公暁である。公暁は「実朝暗殺」を謀ることとなる。
頼家と政子 「二代将軍・源頼家(金子大地)追放」
頼家が後鳥羽上皇(尾上松也)に「北条家追討」の院宣を受ける計画が
露見し、伊豆へ配流され、のちに修善寺で殺害される。
義時が後の憂いを排除するための決断だった。
彼岸花彼岸違えず畦道に 大橋恒雄
時政を唆すりく 「北条時政とりく(牧の方)の謀反の罪」
北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)は、「実朝を暗殺して娘婿
の平賀朝雅を新たな将軍にしようと陰謀を企んだ」。牧の方の乱である。
それを義時と政子は激怒し、父・時政とりく(牧の方)を鎌倉から追放
し伊豆へ幽閉した。 さらに実朝から鎌倉殿の座を奪おうとしたとした罪で朝雅の殺害を命じた。
誘われて乗ってしまったガラス板 靏田寿子
義時・重忠一騎打ち 「畠山重忠の乱」
重忠(中川大志)は、時政とりく(宮沢りえ)の理不尽な行動によって
窮地に陥る。重忠は頼朝以来の旧臣であり、また時政の娘婿である。
その時政が牧の方の意向か義時に「重忠を討て」と命じてきた。
重忠と仲のよかった義時は反対しながらも、最終的には父の命に従う。
ここで2人の間には決定的な溝ができ、御家人のなかでも人望のあった
重忠を義時は、心ならずも誅殺した。
かみさまの杓で冷たい水を飲む 板垣孝志
裏切りの矢に倒れる義盛 「嵌められた義盛」
泉親衡が頼家の遺児を擁立して乱を謀るが失敗。
これに和田一族が加担していることが発覚した。
この事件が和田義盛(横田栄司)にまで波及、無実を訴えるも通らず、
義盛は、反北条の旗頭となり合戦に及んだ。「和田義盛の乱」である。
義盛は実朝(柿澤勇人)の説得で降参した瞬間、だまし討ちにされる。
ちり箱にシワが一枚捨ててある 通利一遍
承久記絵巻に描かれた義時 「はじめは駄馬の如くーー義時を振り返る」
北条義時がこの世を去ったのは貞応3・元仁元年(1234)6月。
62歳で死ぬ日まで、彼は遂にナンバー2のままだった。
もっともこれは、ナンバー1たる政子が、その後も生き残ったからでも
あるが、おそらく彼自身―ナンバー2こそ望むところ。と思い続けてい たのではあるまいか。 官職についても生涯無欲だった。 右京大夫、陸奥守といった職も、晩年には辞してしまっている。
源実朝が、あくまで官位の昇進を望み続けたのとはまさに対照的だ。
名誉欲すなわち権力欲と錯覚しがちだが、それが本質的には全く別もの
であることを、義時は身をもって示している。 官位とか肩書は、結局人生のアクセサリーにすぎないし、決して権力を
保証するものではない。 冷静な義時は、ちゃんとそのことに気がついていたのだ。
実力派、ナンバー2には肩書は不要である。
逆にいえば、肩書やら勲章をほしがるうちは、真のナンバー2にはなれ
ないということか。 解凍はゆっくりでいい土踏まず 前中知栄
苦悩する義時 私の知る資産数十億の大社長は、ことのほかラーメンがお好みである。
汚い店にぶらりと入って、安サラリーマンと肩を並べてラーメンを啜る。
―よもや、この俺が大金持とは知るまい。
と思うとき、彼は最高の満足感を味わうらしい。
貧乏人にはまねのできない、ぜいたくな満足感である。
ラーメンをすすることは、誰でもできる。
が、数十億持ってラーメンをすすれる人はそうはいない。
義時の晩年の楽しみはそれに似てはいないか。
上皇を配流するほどの権力者でありながら、肩書らしい肩書は何もなし!
<いや、その味がこたえられんのよ>
万年ナンバー2氏は、にんまりしてそう呟いていたのではなかったか。
理性ではわかっているのに臍曲り 高田佳代子
そして、もしも、もう一度、現代人があの世に行き、
「でも残念ですねえ、りっぱな肩書がないおかげで、後世の人はあなた
が名ナンバー2だったことさえ知らないんですよ」 といったとしたら、
<ほう、そうかい、それこそ俺の望むところさ>
と答えたかもしれない。
が、これを無欲とか人格高潔と思いこむのは早計である。
そう思いこませるほど、彼は狡猾だったのだ。
ー名もなく、清く、したたかにー
日本を蔽いつくすほどの野望を抱きながら、北畠親房にさえ褒められる
くらいに狡猾な身の処し方ができなければ、ナンバー2の生涯を全うす るのは不可能なのである。 プライドを表に出さず枯れ葉散る 奥山節子
「義時の死線」
貞應3年6月12日、義時の体調は優れななかった。
当時の6月は現在の7月になる。脚気を患っていた義時は、老齢にその
日の暑さも敵で、体を衰弱させていたのかもしれない。 呼び寄せた陰陽師に占わせると
<戌の刻いわゆる晩方には快復に向かうだろう> とのことだった。 念のため、祈祷が行われた。
しかし、時間が経つにつれ、義時の容態は悪くなる一方である。
明け方にはいよいよ危険な状態になり、13日の太陽が真上に昇る直前、
政子が祈るように見守るなかで義時は、息を引き取った。62歳だった。
アイスピックで砕いた残念のかたち 山本早苗
「その死には、毒殺説もある」
義時が亡くなったのは貞應3年のことであるが、その死が突然であった
ことから、様々な憶測が飛び交った。
その一つが義時の3人目の妻である伊賀の方(菊地凛子)の「毒殺」に よるというものである。 承久の乱の首謀者の一人として、六波羅探題に拷問を受けた延暦寺の僧・
尊長が苦痛に耐えかねて、つい、「義朝に妻が飲ませた薬で俺も殺せ!」 と、あたかも義時の妻が夫を毒殺したかのように吐き捨てたというのだ。 義時の死の直後、伊賀の方が、兄・伊賀光宗と共謀して、我が子・政村
を執権の地位に昇らせるよう計ったいうのである。 「牧の方の乱」をまねたわけではなかろうが、謀反発覚後、伊賀の方は 伊豆国に配流。それから程なく亡くなるという流れがある。 裏切られたのかおかしな味がした 猫田千恵子 武者震いいいえ貧乏ゆすりです 合田瑠美子
「承久記絵巻」
『承久記絵巻』は、承久の乱を描く軍記物語『承久記』にもとづく絵巻
である。三代将軍源実朝亡き後の鎌倉幕府を滅ぼそうと企てた後鳥羽院 の挙兵と敗退、隠岐の島配流までを描いている。 この絵巻を収める木箱の蓋には「土佐光信」画/月輪禅定御筆」と、墨書
されていて、絵の筆者を15世紀 ~16世紀前半に土佐光信とし、詞書 の筆者を「月輪禅定」九条兼実 (1149-1207) とする。 この記載が、事実とは俄かに信じ難いが、では誰が絵を描き、詞書を書
いたのかというと、すぐには分らない。 とはいえ、「雅趣雄麗で筆法緻密」という高い評価の通り、実に見ごた
えのある絵巻である。 しかも、江戸時代以前に「承久の乱」を描いた絵画作品はほとんど現存
せず、その点からも貴重である。 深呼吸しながらそっと風を聞く 上坊幹子
実はこの絵巻、恩賜京都博物館で展示公開された後、遅くとも 1974年
以前に所在不明となっていた。
まとまった記述は『後鳥羽天皇七百年記念拝展目録』のみで、そこに
挿図も一切ないため、長年どのような絵巻か分からなかったのである。
幸いなことに、筆者はこの絵巻を個人が所有していることを知り調査・
成果公表をお許し頂いた。
そこで、筆者が学芸員として勤務していた京都文化博物館の特別展・
「よみがえる承久の乱ー後鳥羽上皇vs鎌倉北条氏」で展示公開させ
て頂いた。
展覧会終了後の 2021年 6月下旬に『承久記絵巻』は個人から龍光院
に寄贈された。数十年ぶりに龍光院に絵巻が戻ったのである。
富山大学講師 長村祥知
「鎌倉殿の13人」 承久記絵巻を読む
巻第2ー絵第6段
北条義時が諸人と対面しているところに、三浦義村が弟・胤義からの
私の文を持参した場面。
これより義時は後鳥羽が自らの追討を命じたことを知った。
因みに、義時は著名な人物であるが、意外にも肖像画等の存在は
確認されていなかった。この場面は義時を描く絵としても注目される。
ここでしか咲けない花もあるのです 荒井加寿
北条泰時が明恵上人の法談を聞く場面 絵伝記とも。明恵に帰依した北条泰時との法談を中心に構成され、3巻
15段から成る絵伝である。 詞書は多く「栂尾明恵上人伝」などの伝記系諸本からとっている。 本絵巻は近世に原本から模写されたもの。 元禄3年(1690)三宅高信が絵を描き、書家北向雲竹 1632〜1703)の
門人13人が詞書を書いたと奥書にある。 三宅高信は履歴未詳だが、「高山寺に滞在して先哲の名画を模写した」
と伝える。 あの世でもこの世でもない沖にいる 徳永政二
卷第4ー絵第6段
鎌倉方は宇治川の戦いで苦戦し、多くが溺死していた。
軍勢を率いる北条泰時が、自身も宇治川を渡ろうとするが、
春日刑部三郎が諌止したところ。
大変があるかないかは明日の闇 佐藤近義
卷第5ー絵第3段
京方の敗勢が決定的となる中、東寺に籠る京方の三浦胤義と鎌倉方・
三浦義村配下の佐原又太郎景吉が戦う場面 人知れず泣いたか武者の目が赤い 山本昌乃
「承久の乱の流れ」
始まりは実朝暗殺
承久記絵巻 巻第1(個人蔵)通期(巻き替え)
*源氏最後の将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、鎌倉方と後鳥
羽の関係が悪化。そして、歯車が狂いはじめた。
最初の戦い 鎌倉御家人の作戦会議
承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*京にて、京方武士が北条義時の義兄・伊賀光季を追討。
承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*左上の姿は北条義時、歴史資料の中で初めて確認できる。
さらさらと排除しますと決めセリフ 靏田寿子
鎌倉方上洛、迎えうつ京方 最大の戦い
承久記絵巻 巻第3(個人蔵)通期(巻き替え)
*上洛途中の鎌倉方と京方が美濃国莚田で合戦。
鎌倉方が勝利。
承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期
*宇治橋の合戦。宇治川をはさんで、京方と鎌倉方
が対峙。
おもうまま奔って滝壺に落ちる 橋倉久美子
宇治橋の激戦 京方の敗北が決定的に
承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期(巻き替え)
*橋板を抜いて応戦。
承久記絵巻 巻第5(個人蔵)通期(巻き替え)
*敗走する京方を追う鎌倉方。
お互いが入れた切り取り線でした 有海静枝
後鳥羽、隠岐に配流
承久記絵巻 巻第6(個人蔵) 通期(巻き替え)
*敗れた後鳥羽は出家し、隠岐へ。
時代不同歌合絵断簡(中務卿具平親王・愚詠)
(京都国立博物館蔵)通期
*隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化。
傷心をいやす青銅の風鈴 森井克子
江戸時代に三宅高信が模写した3巻が全体を伝える。
この断簡は巻下第4段に相当し、明恵上人と建仁寺円空上座との
対話の場面を描く。
脇息を右に置き顔を見せているのが明恵である。
円空は栄西の弟子であり、禅定を修すべき様について明恵に問うている。
傷心をいやす青銅の風鈴 森井克子
「宇治川の戦い」
後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げたことに始まる承久の乱
絵の場面は、いよいよ軍記絵巻の華、合戦の場面。
左が後鳥羽軍、右が幕府軍。黒い馬が幕府軍の総大将・北条泰時。
左の後鳥羽軍も勇敢に幕府軍に立ち向かい、
朝廷側の総大将・藤原秀康。
幕府方に尾張と美濃で惨敗した朝廷方の最後の砦が、宇治川だった 承久3年(1221)6月14日、北条義時の嫡男・泰時率いる幕府方と、
藤原秀康が総大将の朝廷方が衝突した宇治川は、承久の乱最大の戦いの
舞台となった。 京都の入口である瀬田の大橋の決戦から、北条泰時の率いる幕府軍は
南に迂回し宇治方面に向かった。
宇治に到着すると、泰時の許可を得ないまま、幕府軍の先陣が朝廷軍と
戦いをはじめていた。
そして朝廷側の戦略は、京都への通路である橋の破壊に始まる。
吾妻鏡」には、
『橋の中央二間(の板)を曳き落とし楯を並べて鏃(やじり)を揃え』
(朝廷軍は橋の板を外し、骨組みだけにして、簡単に橋を渡れないよう
にし、そして楯を並べて、身を隠しながら矢を放って攻撃を仕掛けた) 戦いは朝廷側の弓矢を使った攻撃が成功し、幕府軍は突破に失敗をする。
『朝廷軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに
当たり、退いて平等院に立て籠もった>』『吾妻鏡』
さらに大雨が降ってきたため、この日の戦いは終了となった。
追いかける気力低下のちぎれ雲 市井美春
13日の戦いに北条泰時は、宇治橋を渡ることは困難であると判断するも
長雨により、川は増水したままで流れも激しい。
橋を使わずに、川を渡るのも困難だった。。
翌14日泰時は、橋ではなく河を渡って切り込む作戦を考え、
泳ぎの達者な柴田兼義という御家人を呼び寄せ、
宇治川の浅瀬を探させた。
兼能は地元の白髪の翁から浅瀬の場所を教えられ、自らもその場所を
確認し、泰時にその調査・情報を持ってきた。
それを聞いて泰時は、渡河決行を決めた。
八起き目の風にゆっくり立ち上がる 宮原せつ
先陣を切ったのが佐々木信綱と芝田兼能であった。
信綱は、北条義時より与えられた「御局」に跨り、兼能は先導役として
川の中にゆっくりと馬を進めた。
それぞれが大声で先陣の名乗りを上げて川を進むと、待機していた兵士
たちもまた士気を上げ、次々と川へと入っていった。 ≪兵士が多く水面に轡を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうちに
十人中の二、三人が死んだ≫
ところが激流となった宇治川を渡ることは容易ではなかった。
兵士たちは次々と流され、安東忠家一門14騎で渡河を決行するが、
全員が溺死したのをはじめ、幕府軍800余名が水死した。
プライドを表に出さず枯れ葉散る 奥山節子
宇治川を渡る時氏・春日貞幸 渡河作戦は苦戦を強いられていたが、泰時は息子の時氏を呼び、
「わが軍は敗北しようとしている。お前は速やかに河を渡り、
敵陣に切り込んで討死しろ」
と命じ、泰時も時氏に続いて川を渡ろうとした。
馬の轡を取っていた春日貞幸は、泰時の身を案じて、
「甲冑を身に着けている者は、ほとんど沈んでしまっています。
早く鎧を外すように」と進言し、
貞幸は泰時が甲冑を脱いでいる間に馬を隠してしまった。
それは貞幸の死を覚悟した諌止であった。
頬骨を上げて台詞の大舞台 杉本俊枝
この突拍子もない春日の行為がなければ、後に御成敗式目を定め、
北条政権の基盤を固め、盤石なものにしたた名執権は、
宇治川の流れに飲まれてしまっていたかもしれない。
泰時は貞幸の機転に足止めをくらったが、息子の時氏は、見事に渡河
を成功させ、ほぼ同じころ、中州にいた佐々木信綱も渡河に成功した。
芝田兼能は、馬を朝廷軍に射られ、川に落下させられたが、泳いで
なんとか対岸にたどり着いていた。 塞翁が馬か人生浪花節 岡田幸男
後鳥羽上皇 隠岐へ配流 戦闘がある程度進み、幕府軍は近隣の民家を壊して筏をつくり、ついに
泰時も筏に乗って宇治川を渡り切った。
『泰時が岸に着いた後には、武蔵・相模の者が特に攻めて戦った』
「吾妻鏡」 こうして宇治戦線が崩壊し、敵の大将である源有雅、藤原範茂は逃亡。
朝廷軍の兵士もほとんど逃げ出していた。
次なる将軍として、藤原朝俊が将軍に任じられたが防戦一方で儚く戦死。
幕府軍は、瀬田(東)宇治(西)の二方向から京都に入った。
後鳥羽上皇が義時追討を宣してからわずか一ヵ月で幕府軍の
勝利に終わった。
承久記(谷村文庫)冒頭
『百王八十二代ノ御門ヲハ後鳥羽院トソ申ケル。
隠岐国ニ隠レサセ給シカハ隠岐院トモ申ス』 旅人は立方体の海に着く くんじろう N700Sの呪われた下顎 くんじろう
鳥羽へ配流される後鳥羽上皇 「承久の乱・後鳥羽上皇降伏のみっともない言い訳」
朝廷側敗戦の6月15日、後鳥羽上皇は北条泰時に使者を送り、
全面降伏ともとれる「院宣」を伝えた。 何が書いてあるかと言えば
「(藤原)秀康朝臣、(三浦)胤義以下の徒党、追討せしむべきのよし、
宣下すでにおわんぬ、……凡そ天下の事、今においてはご口入に及ばず
と雖も、ご存知の趣、いかでか仰せ知らざるか。兇徒の浮言に就きて、
すでにこの御無沙汰に及ぶ、後悔左右に能わず」
つまり、この戦いは藤原秀康と三浦胤義たちが起こしたもので、
あなたの申請通りに、彼らの追討の命令を出そう。
「兇徒の浮言」凶悪な者のでたらめな言葉に騙されて後悔している」
と言い、
『……自今以後は武勇を携えるの輩は召し使うべからず、また家を稟
(う)けずに武芸を好む者、永く停止せらるべきなり…先非を悔いて おおせられるなり』 ① もう政務には口出ししない。
② これからは武士たちを出仕なせない。また貴族でも、家業をつかず
武芸を稽古している者は出仕させない」と、いうものであった。 言い訳は止そう余白はあと少し 上田 仁
承 久 の 乱 「鎌倉殿の13人」 承久の乱・永井路子 & 戦後処理
<―実朝の後継者には後鳥羽院の皇子を>
と、政子みずからが上京して、藤原兼子と交渉し内諾を得ていたが、
実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽は手のひらを返すような態度に出た。
<鎌倉を困らしてやれ>と、いうのだろう。
後鳥羽の皇子という約定の言を左右にして実現を拒み。
藤原道家の子・三寅を4代将軍にすえるべく鎌倉へ送って来た。
だが三寅はまだ二歳の幼児だ。
いくら何でも二歳の幼児をそのまま将軍にするわけにはいかない。
そこで政子が代役をつとめることになった。
鎌倉幕府を打倒することを悲願とする後鳥羽上皇は、
<よちよち歩きの幼児と老婆の組合せでは、将軍の権威もへったくれも
ありはしないだろう>と、あれやこれや、幕府への嫌がらせをはじめた。 これが「承久の乱」の発端となった。 渋柿を甘い甘いと言わはって 大内せつ子
「意外と尼御堂は手ごわい」
<たかが幼児と老婆の寄合所帯>と思っていた後鳥羽は、その手強さは、
義時の存在にあると感じとった。 「うぬ、きゃつめだな、張本人は」
後鳥羽は、鎌倉打倒の矛先を義時に狙いを定める。
「義時を討て!幕府を問題にしているのじゃない」
<憎いのは義時ひとり>という態度をとり続け、さらに<義時を討てば、
莫大な褒美を与える>と、ニンジンをぶら下げ、こっちの水は甘いぞと ばかりに密書を送り、鎌倉の武士たちを煽った。 官職をちらつかせ、恩賞で釣ろうという朝廷ならではの甘い罠だ。
鎌倉を内部分裂させ、同士討ちをさせようという魂胆である。
鎌倉武士はきっとこれによろめく、と後鳥羽は踏んだのだ。
美味すぎる話の裏にこんな罠 柳川平太
「今や義時は標的となった」
―もしかここで御家人たちが、恩賞に釣られ、総崩れになったら?
それを食いとめる力は、さすがに義時も持ちあわせてはいない。
が、その生涯の危機にぶちあたると、立往生すると思いのほか義時は、
ここで後鳥羽にまさる巧妙な手を打つ。
将軍代行である政子のロで、問題をすりかえさせたのが「政子の大演説」
だった。政子は、故将軍頼朝の業績を長々と述べたてた。 『…やっと人間らしい権利が認められたのは誰のおかげか。
皆な、故将軍家のおかげではないか。そのお計らいでそなたたちの所領
も増え、生活も豊かになった。その恩を忘れる者はよもあるまい』と。 ひと言に救われひと言に嘆く 靏田寿子
もし演説の主役が義時であったとしたら、いくら理屈が通っていても、
どうしても自己弁護になってしまう。
<俺のために戦ってくれ>というわけだから、今ひとつ説得力に欠ける。
が、政子なら、
「義時のために戦えといっているんじゃない。幕府の浮沈にかかわるこ
とだか ら、幕府のために戦うべきなのだ」 と、ぬけぬけとそう言うことができる。
そして、もっと踏みこんでいえば、この政子の大演説を用意したのは、
義時かも知れず、また、幕府の知恵袋である大江広元のシナリオだった
かもしれない。
風吹かず大人の梯子買いました 市井美春
かくて鎌倉勢は一丸となって京へ出陣する。
おもしろいことに、その中にはライバル三浦義村の顔もあった。
鎌倉の事情に詳しい後鳥羽側はもちろん義村の所にも密書を送っている。
「義時を討てば恩賞は望みのまま」
しかし、義村はこれに応じなかった。
「こんなものが来たぜ」
いとも簡単に義時の前で密書をひろげてみせるのだ。
さすが義村も鎌倉武士、幕府の存亡と義時打倒を秤にかけるだけの冷静
さは失わなかったとみえる。 朝廷側は一瞬のうちに鎌倉武士に踏み潰されてしまったのだ。
後鳥羽上皇は隠岐に流され、都の地を踏むことなく一生を終える。
メルヘンを抱いて夕日色の奈落 田村ひろ子
さて「承久の乱」の本質的な面を考えれば、鎌倉武士は政子の演説に踊
らされて出陣したわけでは決してない。 彼らは彼らなりに利害得失を計算していたのだ。
<―今、義時を討った方が得か損か>
彼らが義時支持に傾いたのは、伊賀局の所領問題に関して、
義時が「あくまで地頭擁護を貫き通した」点を評価したのである。
<―頼りになるボスだ。義時こそわが味方だ>
と思ったのだ。
ここに義時のナンバー2としての真骨頂がある。 もし、彼があのとき後鳥羽の言い分を受け入れていたら?
いや、そうすることもできないわけではなかった。
当の地頭には、因果を含めて辞めさせ、その代りに何か埋めあわせを
考えてやる、という政治的解決の道は残されていたのだ。 横隔膜流人の辿りついた波 高橋 蘭
こうした解決はむしろ容易である。後鳥羽の顔も立つし、義時もいずれ
官位の昇進の機会に恵まれることだろう。 が、それではずるずると、後鳥羽の思う壺にひきずりこまれてしまう。
妥協を重ねているうちに、鎌倉幕府体制は弱体化し、歴史は逆戻りして
しまうだろう。 だからこそ、敢えて彼は突っぱったのだ。 そして承久の乱を勝ちぬき、歴史の歯車を前に押し進める役割を果した
のである。 これだけのことをなし得た政治家は、日本にどれだけいるだろうか。 現在だって、民衆の利益を犠牲にし、権力の前に尻尾を振る連中ばかり
ではないか。 ここで私はナンバー2の最後の、そして絶対条件として、部下の支持、
あるいは広い民衆の支持を獲得することを付け加えたい。 ナンバー1とは、なごやかに、そしてナンバー2をめざすライバルには
きびしく、そしてそれ以下に対しては、うんとやさしく! 渋柿を甘い甘いと言わはって 大内せつ子 「承久の乱後」 篝屋の風景
大路の辻々に篝屋がおかれ、御家人たちが駐屯した。
探題の分署のようなもので、櫓があり、夜には篝火が焚かれた。
「鎌倉幕府の京の拠点は六波羅に」
承久の乱後に南・北の六波羅探題が設置され、初代の探題には北条泰時
が就任した。 探題の下には、近畿の御家人が組織されて、軍事警察の一切を幕府が執
り行うことになった。後に大路の辻48カ所篝屋(かがりや)が造られ、
京の夜間警備も強化される。
探題だけでなく荘園や西国所領を管理するために御家人の宅が設けられ、
いわば幕府の京支部として、大きな役割を果たしていくことになる。
煩悩の数だけ残る爪の跡 蟹口和枝
「過酷な戦後処理」
六波羅探題の北方は泰時が探題南方に就任した叔父の北条時房とともに、
戦後処理にあたった。 まず承久3年(1221)7月2日、佐々木広綱、五条有範、後藤基清、
大江能範といった、朝廷側に加わった首謀者クラスの御家人たちを斬首 した上に獄門に晒した。 (この者らは皆、右大将(頼朝)の恩を受けて、数カ所の荘園を賜り、
右府将軍(実朝)の推挙により5位に昇った。たとえ勅命を重んじた
としても、どうして精霊(頼朝・実朝)の照らすところに恥じないこ
とがあろうか、すぐにその恩を忘れて遺塵を払おうとするのは、全く 弓馬の道に反する)ものだった。 絶叫を本物にするビブラート 森吉留理恵
処刑された佐々木広綱の子どもたちのほとんどが、戦死していたが、
わずか10余歳の勢多伽丸(せいたかまる)は、仁和寺の道助入道親王
(後鳥羽上皇の子)に育てられ出家していた。
この少年も広綱に連座して探題に捕えられていた。 当初、泰時は、戦に関係のないこの少年の命を救おうと考えた。
ところが、その裁定に異を唱えたのが叔父である佐々木信綱だった。
信綱は「勢多加丸を生かすのならば、私はマゲを切って遁世する」
と宇治川の戦いで軍功著しかった信綱に強くいわれ、勢多伽丸の首を
斬ってしまうのである。
忘れたい一日でした蝉しぐれ 津田照子
六波羅に連行される公家たち(坊門忠信、中御門宗行、源有雅)、葉室
光親、高倉範茂、一条信能)の後ろから探題の武士が指図している。 「後鳥羽上皇の側近の貴族たちも次々と処刑された」
武士たちにとって、負ければ死が待っているというのは、当たり前の事
だった。
しかし、平安時代の長きにわたり、貴族は政争に敗れても、基本的には、 命が取られることはなかった。 だが幕府は、そうした朝廷の慣習を顧慮することなく、権臣たちをただ
ちに断罪し、高倉範茂は、自ら入水による死を選んだ。 尚、坊門忠信は、源実朝の妻の兄であった為、助命の恩恵を受けるが、
5人は処刑された。
躊躇ったらしい結界に足跡 みつ木もも花
高倉範茂の処刑
高倉範茂は北条朝時が預かり、東国へ向かう足柄山の早川に着いた時、
範茂は「斬首されてしまうと極楽浄土へは行けなくなる。
だからこの川に沈めてほしい」と願い出た。
朝時は範茂を大きな籠の中に入れ川に沈め、家来に命じて上から押さえ
つけさせた。 もう死んでええと言うてるのに祈祷 きゅういち
隠岐の後鳥羽上皇
「上皇の配流」 後鳥羽上皇は,隠岐へ、土御門上皇(上皇の長男)は土佐へ、順徳上皇
(上皇の次男)は佐渡へ配流とした。 ただ土御門は父とは違い、幕府との対立を望まなかった人で、幕府も
「無罪でよい」と考えていたが、「父が追放されているのに、自分が留 まったままでは親不孝者だ」と、あえて流罪を望んだという。 ” 浮世にはかかれとせこそ生れけめ 埋りしらぬ我涙かな ”
(私はきっとこのような境遇であれと定められて、この辛い世に生まれて
きたのだろう。だからこれを納得すべきなのに、涙が落ちてくるよ…) と土御門の歌が残っている。
男っぽい男の食べるよもぎ餅 八木侑子
出まかせでも言えぬ台詞がありました 生駒さとし
朝廷と幕府の対立はいよいよ深まり、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を呪いに よって滅ぼそうとする「調伏の修法」を相次いで行うようになった。 また「城南離宮の流鏑馬武者揃え」という名目で多くの武士が結集した。
そして承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇はついに挙兵した。
上皇が「北条義時追討の宣旨」を、全国に発したのは、翌5月15日の
ことで、京都守護の伊賀光季を攻め滅ぼしたのと同時であった。 「承久の乱」のはじまりである。
指切りは十年前の生ゴミに 蟹口和枝
「鎌倉殿の13」 承久の乱
後鳥羽上皇と鎌倉幕府軍 「伊賀光季のちょっと泣かせるエピソード」
承久3年5月10日頃のことである。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府討伐を前
に、近臣の三浦胤義を「ちょっと来てくれないか」と、呼び出し、 「鎌倉挙兵に際して、仲間が大いに越したことはない。
京都守護職の両名は引き込めないか」 と、腹の内を晒した。(胤義は,三浦義澄の子で、三浦義村は兄になる)
時の京都守護職は、大江親広(大江広元の子)と伊賀光季である。
「大江はお召しに応じるでしょうが、伊賀は、北条の縁者ゆえ応じます
まい。いずれにせよ形式的に召し出されて、応じなければ、討伐する 大義名分が立ちましょう」 と、胤義は返答した。
戻っても進んでもそう変わらない 立蔵信子
その返答に後鳥羽上皇は、さっそく大江と伊賀の両名に使者を出した。
大江親広は、50騎ばかりの軍勢を率いて直ちに参上してきた。
「よう参った。鎌倉を討つにつき、京と鎌倉のいずれに与するか、
今ここで申せ」 親広は朝廷トップの後鳥羽上皇に面と向かって「鎌倉につきます」とは
言えず、上皇に味方する旨の起請文をその場で書かされてしまった。 哲学はないが真面目に生きている 岡本余光
一方、伊賀光季は上皇の意図を察し、すぐには呼応せず慎重に回答した。
「畏まりました。ただし某(それがし)は、鎌倉の命によって、京都守
護職を預かっているものですから、まずは鎌倉へ指示を仰いでから参 ります」 <やはり胤義の申した通りか…>
と、苦々しく思いながらも上皇は、執こく光季に呼び出しをかけるよう、
胤義に命じた。
「特に変な意味ではないし、難しく考える必要はない。
上皇が直々のお召しであるのだから、つべこべ言わんでさっさと参れ」
<変な意味ではない>と、
わざわざ言っている時点で、変な意味じゃなかった例しはない……。 ここで断れば、命がないと覚悟の上で、なおも光季は、拒んだ。 「では、まずはどんな意味であるのか詳しくお教えいただき、その上で、
鎌倉の指示を受けて参上したく思います」
<伊賀光季め、一度ならず二度までも……>
怒り心頭に達した後鳥羽上皇は、胤義に光季を討てと命じた…のである。
イモタコナンキンに白紙委任状 田口和代
上皇の兵が攻めてくる情報を得た光季は、家来を集め「逃げてもいい」
と、説くも27人の忠臣は、光季と戦う覚悟をしめした。
また元服したばかりの14歳の息子・寿王(光綱)にも「生きて逃げ切
り、鎌倉に尽くしてくれ」と申し付けた。 しかし光綱は、 「弓矢をとる武士の子が、親や家臣が討たれようとしているのに逃げた
とすれば、いくら幼いからといっても、誰も許してくれないでしょう。 親を見殺しにした臆病者と指さされるのは、恥ずかしいことなので、
是非、お供がしたいと存じます」 と、覚悟を語った。
白桃になりたいピーマンの一途 合田瑠美子
息子の覚悟に光季は、一緒に討死することを決め、家臣の治部次郎に命
じて、光綱に武具を着けさせて、討手が攻めてくるのを待った。 夜が明けると、後鳥羽上皇に命じられた800余騎が光季の宿所を取り
囲み、攻撃をしかけてきた。 光季の家臣たちはよく防戦したが、みな討死した。
邸に火をかけられた光季と光綱は「今はこれまで」と言って、腹をかき
切って燃え盛る火の中へ飛び込んだ…、という。 二度とない今日という日が無為に去る 佐藤 瞳
「政子の大演説」
政子の屋敷はこのようなものか 政子の屋敷は、鎌倉の鶴岡八幡宮の東側にあった。
今は住宅街になっていてなんの痕跡もないが、夫の頼朝の屋敷に比べて、
十分の一程度の広さしかなかったらしい。 5月19日正午、上皇挙兵の知らせが鎌倉に届き、政子のもとには、
上皇の密使から「鎌倉討伐の宣旨」が届けられた。
宣旨の知らせを聞いた武士たちは、ただちに政子の館に集まってきた。
それにしても、いまだかつて朝廷に面と向かって弓をひいたものはない。
真向から朝廷に歯向かうことは、許されないと感じる武士たちは、
いずれも動揺を隠せなかった。
爬虫類図鑑で武士の目を探す 酒井かがり
長い道のりを経て、ようやく勝ち得た武士の権利が、いま失われようと
している。 それを許してはならない。 尼御台は、事態の深刻を打破するために毅然として立ち上がり、館の前
に武士たちを集めて語りはじめた。 「政子の大演説」と、伝わるものである。 『皆心を一つにして承るべし。 これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰して、関東を草創してよりこのかた官位といい、
俸禄といい、その恩山岳より高く、溟渤(めいぼう)より深し、 報謝の志浅からんや。 しかるに今逆臣の謗(そしり)により、非議の論旨を下さる。 名を惜しむ族は、早く秀康・胤義を討ち取りて、三代将軍の遺跡を全 うすべし…』 (『吾妻鏡』) あの人の煙を見てるいつまでも 丸山 進
【要約】
「皆心を1つにしてよく聞きなさい。これは私の最期の詞です。
頼朝公が朝敵を征伐し、関東に幕府を創設して以来、皆の官位は高く、
収入は大きくなった。 その御恩は山よりも高く、海よりも深いものです。ところが上皇は今、 逆臣の言葉に惑わされたか、追討の宣旨を下された。 名を惜しむものは、即座に出陣して、朝廷に味方する侍や裏切り者を 討ち取り、3代の将軍が築いたものを守り抜くのです」 「吾妻鏡」によると、政子の言葉が終わった時、武士たちは涙を流し、
命を捨てて、その恩に報いると誓い合ったという。 遠くから見守る女の心意気 生田頼夫
承久の乱幕府軍進撃図
「政子の大演説」から3日後の5月22日から25日にかけて幕府軍は、
政子の甥・北条泰時を筆頭に時房、朝時、三浦義村、武田信光らを将と して東海・東山・北陸の三道から京に進撃を開始した。 その軍勢は、19万といわれる大軍だった。
後鳥羽上皇は、3万の防衛線を配置する一方で、怨敵降伏の祈祷ばかり
行っていた…という。 仙堂御所では上皇は、幕府の勢力を聞きオロオロするばかり。
「話が違うじゃないか! 宣旨を出したら、たちどころに関東は従うと
言ったではないか」
状況が把握できてていない側近は、上皇を宥めるのに四苦八苦する。
「奴らはただ…血迷って身のほどを忘れているだけです」
「しかし敵は…19万だぞ」
「うっ…数ばかり多くったって、院の威厳にかなうわけはありませんよ」
「尾張川に防衛線を張り、そこで追いかえしますから…」
などと側近は寝ぼけた言をくりかえしている。
恐ろしいイワンの馬鹿を越える馬鹿 ふじのひろし
宇 治 川 の 戦 い
6月5日、幕府軍は、上皇側の第一の防衛線である尾張川をやすやすと
突破する。 さらに美濃の摩免戸(まめど)の防衛線をも、あっさり突破し、 13日には、上皇側の最後の防衛線である宇治川に到着していた。
が、宇治川には、思いもよらぬ敵が待ち構えていた。
大雨のあとの宇治川は、濁流で流れも激しく荒れていたのである。
「はたしてどうしたものか、待つか?…この勢いのままいくか?…」
と、慎重な北条泰時は、進軍することに煩悶した。
そんなところへ「私に先陣を…」と、佐々木信綱名乗りをあげた。
それに奥州の芝田兼能(かねよし)が続いた。
信綱隊と兼能隊の勇にも、宇治川の濁流は、勇猛な兵士を容赦しない。
襲い掛かる波に関政綱以下、900人余が流され溺死した、という。
次々と波にのみ込まれる兵士たちを見て、泰時は自責の念に駆られた。
しかし、無事に川を渡り切った兵士たちが次々に後鳥羽軍を蹴散らして、
宇治川の防衛線を突破してのけた。
過去形にすれば流れもおだやかで 荒井加寿 15日午前10時、ついに、幕府軍は京の都に侵攻。
上皇軍側の総大将の藤原秀康と三浦胤義・山田重忠らは、最後の戦闘は、
後鳥羽上皇のいる御所でと考えた。
上皇と命をともにと考えたのである。 「東寺の戦い」である。 が、そこで後鳥羽上皇が、上皇の兵士たちにかけた言葉は、
「ここにいたら幕府軍が攻めて来る。お前たちはどっかに行け!」
というものだった。
その言葉にあきれかえった藤原秀康は、後鳥羽上皇を見限り、
三浦胤義・山田重忠らの兵は、それでも京の入り口・東寺に籠って最後
まで戦うことにした。 戦意の差もありなすすべもなく三浦胤義軍は敗走。 胤義は「太秦に住まう妻子の姿を一目見て、最期を…」と、考え太秦の
家に向かったが、そこには既に敵がおり木嶋神社の社に身を潜めたいた。 わずかな我が家への道をも閉ざされた胤義父子は、古くから仕える郎党
の藤四郎頼信に「自分たちの首を家まで届けてくれ」と言い、自害して 果てた。 裏も表も舌の根までも見せている 大葉美千代
北条泰時京に入る 後鳥羽上皇は、比叡山の僧兵に援軍を求めたが、それも叶わず、敗北は
決定的となった。上皇は泰時に使者を出し、義時追討の宣旨」を取り消し、 同時に、自分の旗下で戦った「藤原秀康・三浦胤義らを追討」の宣旨を下 した。 倒幕計画の責任を彼らに推しつけ、自分だけ命乞いをしたのである。
「承久の乱」はわずか一ヵ月で終結。
8日後の6月23日、勝利の知らせが鎌倉に届いた。
「合戦無為にして天下静謐」
(大した合戦をするまでもなく、天下は治まった)と。
7月、後鳥羽上皇は、隠岐に順徳上皇は、佐渡に流され、
10月には、土御門上皇が土佐へ配流された。
葉の裏でしがみついてる雨蛙 真継久恵 |
最新記事
(11/21)
(11/14)
(11/07)
(10/31)
(10/24)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|