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川柳的逍遥 人の世の一家言
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縄電車みんな途中でいなくなり  北原おさ虫




                         「清洲会議」・周参見王子神社の絵馬 (すさみ町指定文化財)


「勝家vs秀吉」
織田信長が本能寺に倒れた後、織田家重臣たちによる「清須会議」を経
て、自分中心の流れをつくった羽柴秀吉は、京都の大徳寺で信長の葬儀
を盛大に行った。
対立する柴田勝家派の面々が欠席する中、秀吉はこの葬儀に織田家家臣
団の大半を結集することに成功し、自分が信長の後継者であることを、
天下にアピールする。
秀吉のライバル勝家に与する者は、信長の3男で美濃岐阜の織田信孝
伊勢長島の滝川一益
勢力範囲が近畿中心にまとまっている秀吉は、彼らから三方に囲まれて
いる状態であり、戦略上の表現をつかえば、勝家の「外線」に対して、
「内線」作戦をとる形となった。

立ち位置を決めかねている草いきれ  山本昌乃




 VS 
       秀 吉             勝 家




秀吉の最悪のシナリオは、勝家「外線」体制に、西の毛利輝元と東の
徳川家康が呼応して連動するという事態である。
毛利が勝家に応ずれば、秀吉の西の防衛線が突破されるであろうし、
家康が応ずれば信孝一益とともに、秀吉方である尾張の織田信雄を封
じ込めることが可能になる。
秀吉は、この「外線」包囲網に追い込まれ、四面楚歌に陥ってしまう。
そこで秀吉はまず、越後の上杉景勝と誓書を交わして、協力関係を結ぶ。
越中には勝家方の佐々木成政がいたが、この成政を釘付けにするために
景勝を利用したのである。
そして、家康対策としては、尾張の信雄から度々連絡をとらせて両者の
友好関係を強くさせ、秀吉自らも家康に情報を伝えるなどの配慮をした。
さらに毛利に対しても常々警戒を怠らず、折にうれて盛んに贈答を送る
などして懐柔策に余念がなかった。
巧妙な外交がつくりだした完璧な布陣によって、秀吉の勝利は合戦の前
に決まっていたのである。


花いちもんめ仲間だったね青もみじ  市井美春



家康ー狡い猿と一途な狼





清洲会議-三法師を抱きあげる秀吉
『大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク』


「清須会議」
織田家中の出世頭・羽柴秀吉は、山崎の合戦で主の仇である明智光秀
討つことによって得たアドバンテージを背景に「ポスト信長」を決める
「清須会議」に臨んだ。
信長が落命した同月の1582年(天正10)の末のことである。
ここで秀吉は、「本能寺の変」で討死した織田信忠の嫡男である3歳の
三法師を擁し、対する柴田勝家は信忠の弟・信孝を擁立する。
会談は、終始秀吉ペースで進み、京を中心とする畿内主要部は、秀吉と
その腹心が独占。
勝家は、滝川一益といった信長の老臣、それに信長の一族は美濃・尾張
伊勢といった畿内周辺部や北陸に位置することとなる。
勝家は山崎の合戦に続いて、清須会議でも、後れをとってしまったのだ。
会議後、秀吉は筋金入りのアンチ秀吉派と思われていた織田信雄(のぶ
かつ・信孝の兄)を自陣に取り込み、勝家と結んだ信孝を挑発する。


ずるいなあ線にリールをつけている  河村啓子



信孝もこれに乗り秀吉・信雄ラインに対抗し、勝家との結びつきを一層
強めた。
「秀吉憎し」の一念の信孝が、前夫・浅井長政との死別後、孤閨を保っ
ていた姉・お市の方を勝家に娶らせたのは、秀吉にとって誤算だったろ
うが、そのほかは秀吉の目論見通り。
放っておけば、義に厚い勝家は信孝を奉じて挙兵せざるを得なくなる。
秀吉はそうした勝家の気性までも見抜いていたのである。


草いきれ答えは風の中にある  前中一晃





        『賤ヶ嶽大合戦の図』 (歌川豊宣画)
(右端・秀吉、北ノ庄城を包囲する図)


「賤ケ岳の戦い」
1582年(天正10)9月、秀吉は、光秀を打ち破った山崎の地に新
たな城を築き始めた。畿内の要地で大規模な築城工事を行う秀吉を勝家
は非難するが、その声に賛同する者はない。
同年10月に信長の葬儀が、秀吉主宰で開催されると、勝家主導による
織田家再興の夢は遠のくばかりであった。


空き缶よ君も友達居ないのか  潮田春雄



……冬が近づいた。
冬になれば、勝家の本拠である越前は数カ月の間、雪に閉ざされる。
その隙に乗じて秀吉が何をするかわかったものではない。
やむを得ず勝家は秀吉と講和した。
にも拘らず秀吉は、北陸の地に閉ざされている勝家を尻目に、暮れから
年初にかけて露骨に反勝家の行動を展開する。
まず近江の長浜城主で勝家の養子である柴田勝豊を誘降し、岐阜の織田
信孝を攻めてこれを降伏させる。
次に翌年2月、反秀吉の兵を挙げた北伊勢の滝川一益攻撃。
勝家のいぬ間にとばかりに伊勢になだれ込む秀吉の攻勢ぶりを、
北ノ庄城の勝家は、歯がみする思いで聞いていたに違いない。
しかし、雪に閉ざされた北陸からは微動だにできなかった。
それでも一益は春まで持ちこたえてくれた。


律儀さが少し気になる鳩時計  三村一子





    出陣へ柴田勝家の武運を託すお市の方


ようやく春の兆しが見えた1583年2月下旬、北陸軍は残雪を踏み分
けて南下し、琵琶湖北方の賤ケ岳周辺に進出。
岐阜では、一時秀吉に降っていた信孝が再度挙兵し、伊勢の滝川一益
ともに秀吉包囲網が完成した。
岐阜の信孝を攻撃するために秀吉が賤ケ岳を離れたため、当初は、北陸
軍優位で戦いは進んだが、秀吉本陣が猛スピードで戻って来たため形勢
は逆転する。
前田利家、金森長近、不破勝光といった北陸軍の離反もあり、勝家は北
の庄に敗走し、妻・お市とともに自刃する道を選ばざるを得なかった。


約束をしたように咲く彼岸花  新海信二



「勝家と秀吉の違い」
本能寺における信長の訃報に接した秀吉は、直後に、自分をその後継者
と定め、光秀を討つ途上で、天下人への道をはっきりと心に描いていた。
だからこそ、清須会議の前後から賤ケ岳に至る秀吉の素早さと的確さは、
政治と軍事の両面で勝家を圧倒できたのだ。
一方、信長が倒れたという一報がもたらされた時、猛将で名高い勝家の
甥・佐久間盛政は勝家に「すぐさま京へ攻め上りましょう」と進言した。
しかし勝家は、「北陸情勢が予断を許さない」ことを理由に、これを退
けている。すなわち守旧派の勝家は、信長亡きあとの織田家をいかに守
り抜くかしか考えていない。
織田家の外を見た秀吉と中しか見なかった勝家----群雄割拠の時代なのだ。
この違いが両者の運命を分けた。


戦争が済むまで神は旅をする  ふじのひろし


本能寺の変の直前は、信長家臣団の世代交代の時期でもあった。
秀吉はこうした状況を活かし、信長家臣団を無傷のまま自己の家臣団
に模様替えしてしまおうと意図する。
その際、排除しなければならない要素が、織田家中心の体制にこだわる
勝家一益であり、秀吉に対し、主家であり続けようとする信長の遺児
だった。
秀吉は、「賤ケ岳の合戦」に勝利し勝家を乗り越えたことにより、織田
家臣団を受継ぎ、天下人の地位を織田家から引き継ぐ正当性を獲得した。
思えばお市の方が、勝家に殉じたことは、織田家の命運を象徴している。


あしたへと繋ぐ夕日が美しい  宮原せつ




        お 市 の 方
淀君の命によって描いた画像 (高野山持明院)


「お市の方のこと」
1573年(天正元)8月、浅井長政信長に滅ぼされた時、お市と3
人の娘は、城を脱出して織田氏のもとへ帰った。
信長は妹という理由で、しばらく弟・信包に預けた後、清洲城へ移して
扶持米を与え、その三人の女とともに養育したという。 『総見記』
後にお市は、織田氏の宿老・柴田勝家に嫁すことになった。
この再婚は信長の命令であったともいう。
が、勝家が「縁辺之儀弥其分ニ候」『南行雑録』)(天正十年十月六
日付覚書)と述べているから、秀吉と申合せのあったことが推測される。
おそらく信長の死後、天正10年6月27日の清洲会議によって、決定
したものであろう。
(のちに秀吉ならびに織田信雄と対抗した織田信孝の尽力があり、婚儀
は信孝の拠点岐阜において行われ、お市は3人の女とともに勝家の居城
越前北庄に起居することとなった)


指飾る石に見栄などいりません  若林くに彦





        勝家夫婦辞世の和歌を詠ずる (絵本太閤記)


しかし1582年(天正11)4月24日、お市は、賤ヶ岳の戦におい
て惨敗した勝家と運命をともにし、自裁の道を選ぶこととなる。
 『秀吉事記』には、『勝家は城を出るように説得したが、お市はと
もに自害することを主張した』と伝えている。
勝家「市 そなたはこれより城を出るがよい。秀吉とて長年想い焦がれ
   ておったそなたを、無碍にはすまい」
お市「いえ! 市は先の浅井家でも落城の憂き目にあい…こたびも……
   もはや、再び同じ辱めは受けとうございません」
勝家「……」
お市「市は 殿とご一緒させていただきとうございます」
勝家「…それで、いいのか」
お市「はい! なれど娘たちの命だけは……」
勝家「わかった。娘たちはすぐに脱出させよう」
お市「……これで思い残すことなく、厭わしき我が命も…終えることが
   できまする」
勝家「秀吉に何もかも後れをとった儂であったが、そなたを得たことで
   は、秀吉に勝てたようじゃな」


裏切りを赦せば夕日やわらかい  宮崎美知代


秀吉の一代記『太閤記』によれば、勝家は秀吉軍に包囲される中、
北ノ庄の城内では「最後の宴」が行われた。
勝家らは踊り謡い、もはやこれまでと知るや天守閣に登って火を放つ。
次に勝家は、愛妻・お市の方を刺し殺し、自分の腹を十文字にかき切っ
たうえ、秀吉には渡すまいと、爆薬をしかけて自らを吹き飛ばしたので
ある。 まさに猛将の名に恥じぬ見事な最後であった。

お市の方 辞世
さらぬだに打ちぬるほども夏の夜の 夢路をさそうほととぎすかな 
 勝家辞世
夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす 

 ついでの事乍ら、お市の三人の女は、秀吉に引き取られ、長女は秀吉
の側室(淀君)に、次女は京極高次室(常高院)に、三女は徳川秀忠室
(崇源院)になった。


木登りのてっぺん泣いていたんだね  山本早苗

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