川柳的逍遥 人の世の一家言
孤独の深さ分かち合うはぐれ雲 靏田寿子
「切腹」 家康の嫡男・岡崎三郎信康は、母である築山御前ともども武田家との内
通を疑われて、死へ追いやられるという悲しい運命を辿った。
自分と同盟を結んだ家康に、信長が2人の殺害を命じたとされる。
そして1579年9月15日、家康は、服部半蔵と天方山城守に信康の
介錯をするよう命じた。 服部半蔵と天方山城守は、「信康の助命」を願ったが、最後は、家康の 胸中を慮り信康の待つ二俣城へ出向いた。 二人が到着して間もなく、殿中の一室で、屏風に囲まれ白装束の裃姿で
信康は、三方に乗せられた短刀に手にとり、死を前にして静かに構えて いた。信康の覚悟は決まっていた。 半蔵が信康の斜め立つと、信康は一息に短刀を腹に刺した。 半蔵は「殿!御免!」と、声を振り絞り上段に構えた。
だが、その太刀を振り下ろすことができない。
腹を切り、苦しむ信康を前に、泣き崩れる半蔵……。
やむなく、天方山城守が半蔵に代わり介錯を実行した。
逃げるのがとっても下手な蚯蚓です 大葉美千代
家康ーゆかりの女性の墓と信康の墓
華 陽 院
華陽院は家康の祖母・源応尼の墓所。
元の名は知源院といい、家康の生涯に最も影響を与えた人である。
家康が祖母である源応尼の50回忌の法要をした際、その法名から華陽
院と改めたという。 源応尼(於富の方)は、人質時代の家康を世話した母方の祖母。
浜松で訃報を聞き、三河松を墓所に植えることを頼み、その冥福を
祈ったという。
市 姫 の 墓
源応尼の墓と並んで家康の娘・市姫や側室・お久の方の墓がある。 市姫は、1610年(慶長15)に亡くなった家康の娘。
切り抜いた満月すらも愛される 前中知栄
貞 松 山 蓮永寺 (仁王門)
養珠院 (お万の方)の供養塔
1569年(永禄12)兵火に罹り伽藍を焼失して荒廃し、1615年 (元和元)に敬虔な日蓮宗の信者であった家康の側室・養珠院の発願に
より再興された。駿河城を守る鬼門として、駿河沓谷へ移転し蓮永寺と 改称された。 養珠院(お万の方)
伊豆で成長したお万は1596(慶長元)家康に見初められ側室となる。
そして1602年(慶長7)年3月に長福丸(徳川頼宣)を、さらに、 翌年8月に鶴千代(徳川頼房)を生んだ。 長福丸は、1603年(慶長8)に、水戸20万石が与えられ、 鶴千代は、1609年(慶長11)に、下総下妻10万石が与えられた。 その後長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は、水戸25万石に移封
された。ともに慶長14年のことである。 ばあちゃんの昔話を聞く子猫 加藤 胖
瑞 龍 寺
瑞龍寺は、駿河七ヶ寺の1つとして格式が高く、家康が駿府城に在城の
時は、時折七ヶ寺の住職を集め法門を聞いたとされる。
門柱の右には泰雲山 左には瑞龍寺とある。
瑞龍寺に秀吉の妹・旭姫の墓がある。
旭 姫 の 墓
秀吉の妹・旭姫は、臨済宗に帰依していた事から、菩提は京都の東福寺 の塔頭南明院に法名「南明院殿光室宗王大禅尼」として葬られている。 それとは別に領内にも、旭姫を供養する寺院が求められ、家康が法名
「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」に因み、寺号を瑞龍寺に改称し境内に 供養塔を建立した。 秀吉は家康との縁組を進める為、すでに別家に嫁いでいた妹・旭姫を
強制的に離婚させ、家康の正室として徳川家に嫁がせた。 しかし、2年後、1588年(天正16)に生母・大政所の病気介護と
いう理由を付け別居、以後、京都の聚楽第で生活をはじめた。 1590年(天正18)旭姫は享年48歳で死去する。 横になる茶柱いつも見捨てられ ふじのひろし
宝 台 院 の 墓
家康の側室・お愛の方(西郷の局)の菩提寺。
2代将軍・秀忠が、この地に大伽藍を建て大法要を営み、寺名も金米山
法台院龍泉寺となった。 西郷の局は、27歳より家康に仕え、浜松城にあり、「三方ヶ原の戦い」
「設楽原の戦い」「小牧長久手の戦い」など、家康が最も苦難にあった 時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠 の妻だった人。また、二代将軍・秀忠、尾張の松平忠吉の生母でもある。 よく笑う風が私の一張羅 田辺与志魚
江浄寺・岡崎三郎信康の墓
家康の嫡子・岡崎三郎信康の遺髪を祀る御廟所がある。 江浄寺は江尻宿の中心にある寺であり、東海道を往来する大名たちは、
行列を止め、必ずこの御廟に参ったという。
遺髪のこと――信康の切腹に立ち会った家臣・平岩親吉が持っていた
遺髪を、久能城の城主・榊原清政が譲り受け、当初、勝沢山・江浄寺 に祀られたが、江戸時代に江尻宿の開宿とともに、墓所をつくり祀ら れたものである。 信康は、家康の嫡子として、家康がまだ元康松平と名乗っていた今川氏
の人質時代の1559年(永禄2)に駿府で生まれた。
家康亡き後、徳川幕府・2代将軍を継承する資格ある人物である。
母は元康の正室で、今川義元の姪である築山殿。
もともと、徳川という姓は、将軍家と御三家のみしか名乗ることが許さ
れなかったので、正確には松平信康と称される。 さらに9歳にして、岡崎城の城主となったので岡崎三郎信康と呼ばれた。
しかし、1560年(永禄3)の今川・徳川先鋒軍 VS 織田軍の「桶狭
間の戦い」において、今川義元が討ち死にすると、家康は、13年間の 人質生活にピリオドをうち、駿府から領地の三河に戻った。 その後、家康は織田信長と清洲同盟を結んだため、信康は一転して今川
氏側の捕虜となる。だが、その後の捕虜交換により岡崎城に帰った。 片方の耳を隠して生きている 目黒友遊
松 平 信 康
1567年(永禄10)、家康は磐田城の築城に失敗したため、信長から 改易を指示されると、信康に信長の娘・徳姫を迎える政略結婚により、 織田家と姻戚関係を結んだ。その際、信康の「信」は信長から「康」は 家康から一字を授かった。 その後、信康と築山殿が武田勝頼と内通しているという嫌疑がかけられ、
また信康の武勇とその有能な資質をおそれた信長の命により、天正7年 幽閉されていた遠州・二俣城で21歳という若さで切腹した。 才気溢れる釘は斜めに打っておく 高浜広川 PR |
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