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川柳的逍遥 人の世の一家言
摩周湖も君の瞳も美しい 杉本克子
日本史上、「最高の美女は誰か」というアンケートがある。 これは各界の著名な人による選択で、「それは違う」との意見も聞えてきそうだが、 とりあえず、確定しているランキング12位までを並べてみる。 栄えある第一位は、大河ドラマ・悲劇の助演・「お市の方」。 念のため、お市が選ばれたことで、母似の三姉妹は、対象外においている。 1位、「お市の方」 戦国武将・浅井長政の妻。大河ドラマ「お江」三姉妹の母親である。 長政が織田信長に敗れ、自害した後は織田家の庇護下に置かれ、 《選者の言葉》 2位、「細川ガラシャ」 明智光秀の三女で細川忠興の正室。 関が原の戦い直前に、家老に胸を突かせて絶命した。 『悲劇の美女』として知られる。 《選者の言葉》 「美にうるさい細川忠興が愛してやまなかったほどの女性」 3位、「小野小町」 平安時代前期の歌人。 「思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましき」 彼女の美女伝説を題材にした『七小町』という謡曲がある。 《選者の言葉》 「当時の絵や彫像が残されていないのが残念だが、 日本を代表する美人女性であることは、疑う余地がない」 4位、「陸奥亮子」 明治時代の外交官・陸奥宗光の妻。 駐米公使夫人として、渡米時には、 『ワシントン社交界の華』・『駐米日本公使館の華』 《選者の言葉》 「夫・宗光の活躍の因は、彼女にあったのではないか、 5位、「和泉式部」 平安時代中期の歌人、和泉守・橘道貞の妻となるが、後に破局。 冷泉天皇の第三皇子・第四皇子からの求愛を受けた後、藤原保昌と再婚した。 藤原道長曰く、『浮かれ女』 だとか。 《選者の言葉》 「艶聞の多かったことが、後世人の想像をいろいろとかきたてる」 6位、「原節子」 昭和代表-1 女優。 大ヒット映画・「青い山脈」や「晩春」「東京物語」など、 『永遠の処女』と呼ばれたが、早くして引退し、公の場から姿を消した。 《選者の言葉》 「純情・清廉、適切な言葉が思いつかない。 7位、「額田王(ぬかたのおおきみ) 万葉歌人。天武天皇の妻。 ”茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る” の歌と、天武天皇の歌(選者の言葉に記)から、 《選者の言葉》 「『紫草のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』 (天武天皇)と歌われているいるだけに、想像をかきたてられる」 8位、山本富士子 現代代表ー2 「金色夜叉」など、大映映画の看板女優として活躍後、 三島由紀夫は、『外見だけでなく、内面も素晴らしい女性』 《選者の言葉》 「天はかの女に二物も三物も与えた。声まで美しいミス日本」 9位、「弟橘媛(おとたちばなひめ)」 日本武尊の后。 東征に同行した際、海神の怒りを沈めるために入水した。 その、『色白の美しい姿』が目にやきつく。 日本武尊が、「吾妻はや〔我が妻よ〕」と嘆いたのが、 東日本を『あずま』と呼ぶ語源になった。 《選者の言葉》 「夫のために自己犠牲を厭わない姿はどうしても、美人におもえてしまう」 10位、石井筆子 近代女性教育者。 『鹿鳴館の華』と呼ばれた才媛ながら、 津田梅子らとともに、女子教育の向上に尽力。 また日本初の知的障害児施設・「滝乃川学園」を夫とともに支えた。 《選者の言葉》 「『鹿鳴館の華』と呼ばれた美人。福祉事業に専念した、心も顔も美しい人」 美しきひとの名で呼ぶ庭にたつ 森中恵美子 11位、「吉永小百合」(女優)・12位、「山口百恵」(歌手) 現代代表-3 《選者の言葉》 「現在においても、視覚的に確認できる日本人らしい『日本的な美女』」 「歌手としての能力より『生き方』のよさ。『語りたくなるような存在』」 アメリカ代表、「エリザベス・テーラー」 リズの愛称で親しまれたエリザベス・テーラーは、『誰もが認める美女』。 恋多き女優と言われた反面、中東和平を願ってイスラエルを訪問したり、 85年、俳優・ロックハドソンが亡くなって以来、 エイズ撲滅キャンペーンなど、社会活動家という顔も持ち、 仲間に対する『情も厚い美女』だった。 生まれつきクレオパトラのままでいる 植田斗酒 「エイズ問題で、テーラーに、次のようなエピソードがある」 96年、当時のクリントン大統領に対し、 「大統領はエイズ患者に対して、なんの哀れみの心も持ち合わせていない」 と批判した。 そのとき、大統領がテーラー邸を訪れて、話し合いを求めたが、 最初は「昼寝」を理由にお断り、 「話しても無駄。実行で示してほしい」 と面会を断ったこともあった、という。 もう少し色をつけろで泣かされる ふじのひろし 「また、テーラーは、歌手・マイケルジャクソンの最大の理解者としても知られる」 03年、M/Jが12歳の少年への性的虐待容疑で逮捕された時、 「マスコミの反応は、完全に彼が有罪であるかのよう。 法律では、有罪が証明されるまで、無実ではないのか」 と報道を批判、権力の矢面にたった。 クレオパトラを演じた女優としてその美しさを誇った、 マイケル・ジャクソンと同じ墓地に眠ることになる79歳。 マリリンモンローはバス停に待たす 山口ろっぱ この名言を残したベーコンは、イギリスの哲学者。 お江(1573~1626年)とほとんど同時期(1564~1626年)に活動した。 「お江ー寛永3年死去」 二条城には、家康と秀頼が会見した部屋が残っているが、 その当時の二条城は、 大政奉還の舞台となった「二の丸御殿」は、 寛永3年(1626)、後水尾天皇が行幸されたときに、造営されたものである。 武家の頭領が、自邸に行幸を仰ぐというのは、このうえなく名誉なこと。 そういう意味で、秀忠、家光が後水尾天皇の二条城への行幸は、 ”徳川の天下”が安定したことを示す「象徴」として計画された。 その安泰を見取るかのように、 この行幸が滞りなく終わった直後の9月11日、お江が倒れる。 そして4日後の15日に、江戸城西の丸にて、54歳の生涯を閉じた。 回り舞台の裏へ転げてしまう毬 赤松ますみ PR 『京極龍子』 芸は身を助けるというが、「美人」であることも、その縁となることがある。 戦国時代でいえば、「京極龍子」が格好の例だろう。 「松の丸殿」・「西の丸殿」とも呼ばれた龍子は、 父は京極高吉、母はキリスト教徒の京極マリア。 叔父に浅井長政がいる。 すなわち、マリアは長政の妹で、長政は三姉妹の母・市の夫。 つまり、浅井三姉妹とは、従姉妹という間柄である。 弟・京極高次は、関が原の戦いで期せずして、重要な役割を担う。 また高次の妻は、三姉妹の次女・初である。 何を着ても何を被っても負ける 前田咲二 はじめは、若狭の武将・武田元明のもとに嫁いだが、 夫が”本能寺の変”後に、明智光秀側についたことから、 龍子の運命は大きく動き出す。 秀吉の怒りを買った元明は、 謀反人の妻となった龍子だったが、 没落した京極家の再興を願う弟・高次によって、 ”秀吉の側室”として、差し出されてしまう。 太鼓打つごとに一コマ進む夢 井上一筒 秀吉は、美貌の龍子を寵愛し、 小田原城攻めや、 秀吉が催した醍醐の花見では、 神輿に乗る順番や、秀吉から盃を受ける順番を、 同じ側室の茶々(淀殿)と争ったという、エピソードが残されているが、 秀吉の死後も、豊臣家の人間として、 北政所や茶々と親交を重ねた。 疑いもなく言い合ったマタアシタ 志田千代 また、大坂夏の陣に、京都の六条河原で処刑された秀頼の遺児・国松の 遺体を引き取って、手厚く葬ったのも龍子であった。 夫や子どもを殺されながらも、 秀吉の側室として生きた龍子は、 心の深いところで、京極家の再興を願っていたのかもしれない” また、龍子の人生は、乱世における女性の身の処し方として、 江たち三姉妹にも、影響を及ぼしたことだろう。 『お江ー第11回・猿の人質- みどころ』 北ノ庄城から脱出した三姉妹は、羽柴軍の陣に連れていかれた。 すると、号泣している人物がいた。 秀吉(岸谷吾郎)だった。 秀吉は、泣きながら三成(萩原聖人)を殴りつけている。 秀吉 「お市様を、お市様を・・・なぜお救いせなんだ・・・ この馬鹿が、大馬鹿たれが!」 三成 「面目次第もござりませぬ」 そう言うと、三成は市から受け取った文を秀吉に渡す。 そこには、 『娘たちに、邪心などゆめゆめ抱くことなきようお約束戴きたい。 わが一命に懸けて願い上げ候・・・』 と書かれてあった。 茶々(宮沢りえ)が秀吉に向き直って言う。 茶々 「・・・私たちは父である浅井長政を殺され、 今また二度目の父・柴田勝家と、母まで失いました。 ・・・私たち姉妹が、そなたを許すことは生涯ありません!」 その言葉に、初(水川ありさ)も江(上野樹里)も思わず涙してしまい、 と、秀吉もついついもらい泣きをしてしまう。 すると、江がそれを見て言う。 江 「猿の分際で私たちと共に泣くな!」 数日後、三姉妹は秀吉の命で、安土城に行った。 安土城は、あの見事だった天守閣が焼け落ちてしまい、その姿を変えていた。 最初に三人を迎えたのは、おね(大竹しのぶ)だった。 おね 「お茶々様、お初様、お江様・・・、こたびはわが夫・秀吉が、 いえ こたびもまた、まことに、まことに申し訳ないことを致しました・・・」 茶々 「(冷たく)・・・謝られたところで、母が戻ってくるわけではありませぬ」 おね 「おおせの通りにございます。 されど、どうしてもお詫びを申し上げたく、まかり越しました次第にございます・・・」 と、おねが平伏する。 だが、茶々も顔を背けて、取り合おうとはしなかった。 すると、江が心配そうに、おねと姉たちの仲を取り持とうする。 だが、姉たちは硬い表情を崩すことはなかった。 おね 「お江様、よいのです。 ・・・いま何を申し上げても、お心には届きませんでしょうから・・・」 そこに一人の女性が現れる。 京極龍子(鈴木砂羽)だった。 母親は、浅井長政の妹の京極マリア。 つまり、三姉妹とは、従姉妹の関係にあった。 秀吉が、こういう時期は親類が近くにいた方が、 龍子が秀吉に遣わされたと聞いた時、茶々が言う。 茶々 「私たちの父・長政が、羽柴秀吉・・・どのに討たれたことは・・・?」 龍子 「もちろん存じております。」 茶々 「・・・その父は、あなたの叔父。 なのに・・・なぜ・・・?」 龍子 「実は私の夫もかつて光秀様にお味方し、山崎での戦いの後、命を落としました」 初 「では秀吉は、仇ではないですか?」 龍子 「ええ。でも、私、今は秀吉様の側室ですの」 嘘泣きの涙にだって味がある 嶋澤喜八郎 三姉妹とも、その言葉に驚いた。 龍子 「私も最初は、いやでいやでたまりませんでした。 でも、お世話をしているうち、秀吉様はなんと面白いお人だと・・・ 憎めないというか、愛嬌があると申しますか・・・。 それに、おね様の存在です。 私の境遇をおわかりの上、いつもいたわってくださり・・・、 今や私にとっては、かけがえのないお方にございます。」 次に三姉妹が案内されたのは、 宗易は、三人に茶を立てた後、言う。 宗易 「わたくしも幼き時に母を亡くしました。」 茶々 「左様ですか・・・。」 初 「・・・。」 江 「・・・。」 宗易 「でも、早うに母が逝ってくれて、よかったと思いますわ。」 三姉妹 「?」 宗易 「母親の死によってこそ、学べる、教わることもありますさかいな」 初 「・・でも、私たちは母上に生きていてほしゅうございました!」 宗易 「ほんまやなぁ、そらそうや。そやけど、もうおられません。 せやったら、それを生かす道を探しなはれ。 それもまた、亡くなられた御母上の教え、御心に適うことちゃいますやろか? ありがたいこっちゃ」 その宗易の言葉を受けて、部屋に戻った茶々はしみじみと言う。 茶々 「悲しみにくれていても、それは変わらぬ。 それを私たちに伝えんがため、ああまで言うてくれたのであろう」 江 「・・・」 茶々 「・・・その心遣い、私はありがたいと思う」 初 「ありがたい・・・?」 江 「おね様にしてもそうです。」 初 「(キッと江を見る)」 江 「私たちに会うのは心苦しいはずです。 それでも、わざわざ来て下さいました」 茶々 「・・・そうじゃな。遠ざけていようと思えば、いくらでもできるはず。 ありがたくおもわねばならぬな」 初 「あんな猿の女房にですか・・・!」 茶々 「そもそも命奪われておっても仕方ないわれらなのじゃ。 そう思えば、ありがたいことではないか」 その頃、三姉妹のもとに秀吉が、安土城よりも堅牢で大きな城を、 大坂に建設しようとしているという情報がもたされる。 それは、すなわち、 信長に代わって、天下を狙っているということにほかならなかった。 三姉妹の憤りは、極みに達した。 そんなとき、秀吉が安土城に来たという。 江は脱兎のごとく走り出すと、秀吉に会いに行く。 茶々と初も、それを追う。 襤褸着ても大樹に靡かないつもり 村上玄也 茶々は秀吉の前に座ると、 秀吉は、「あれは、信雄が勝手にやったことだ」と言い逃れる。 茶々 「その上、天下を取るおつもりとか。」 秀吉 「とんでもないことにござりまする。 それがしはただ、お屋形様のご遺志を継ごうと・・・」 茶々 「つまりは天下取りではござりませぬか」 秀吉 「そんなことは、断じて・・・ございません・・・」 その話初耳のような顔で聞く ふじのひろし そのとき、秀吉は茶々の姿に、市の姿を重ね合わせていた。 よく見ると、茶々は、市にそっくりである。 秀吉は今にも涎が垂れそうな顔つきで、茶々に猥雑な視線を送りながら、 天下取りの野望がないことを約束する。 だが、今の秀吉は心ここになかった。 その秀吉の邪心に、いち早く気付いた江は、茶々に言う。 江 「姉上は、私たちを守ると言ってくださいました。でも、姉上は、この私が守ります・・・!」 茶々 「守る?」 江 「羽柴秀吉・・・猿からでございます」 もくろみが成就せぬよう祈ってる 綾織省吾 過去形を消そうのりたま振りかけて 山本昌乃 かがり火に母の顔が揺らぐ。 お江は姉の茶々、初と同じ一つの輿の窓から、あるだけの涙を流し、 遠ざかってゆく母を見つめた。 翌日、母は自害した。 その遺骸を乗せた北の庄城の九重天守が、 激しい炎に包まれたかと思った瞬間、 仕掛けた爆薬によって、越前の天空高く砕け飛び散った。 秀吉の陣があった足羽山(あすわやま)まで、その距離1,2キロ、 腹を突き刺すような揺れと轟音、爆風がお江ら浅井三姉妹を襲う。 『市が、小谷城のときと違って、「どうして死を選んだのか?」』 については、いろいろな説明がある。 三姉妹は、小谷城の時と同じように、 「母が一緒に落ち延びてくる」 と思っていただけに、 母が、「城内に残る」と、言ったことには衝撃を感じた。 どうして三姉妹を残して、自刃の道を選んだのか・・・? 負け戦で、集団自決を迫られたとき、それに反対する事は難しく、 その場の雰囲気として、柴田一族と運命をともにするのが、 自然な選択になってしまったもの・・・なのだろう考える。 どう跳ねてみてもこの世の中のこと たむらあきこ その時代としては、近代的な考えの者が多かった織田の家中にあって、 ただひとり、 こうして多くの人を道連れに、 少し芝居がかった戦国武者としての、人生にピリオドを打った。 『勝家が話術に巧みな老女に、 敵方に自分達の最期の様子を、語らせるように命じた』 転け方も泣き方も負けたくはない 前中知栄 市に別れを告げたお江たち三姉妹は、羽柴軍の陣営に送り届けらた。 そこから、前田の居城である府中に立ち寄ったあと、 しばらく、湖北の寺院に預けられ、 やがて、三法師がいる安土城に住むことになった。 こうして越前での戦いが終わったことで、岐阜の信孝も孤立無援になる。 結局、信雄の勧告で城を出、 5月2日に、尾張の知多半島にある大御堂寺で自害した。 ”昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前” 【豆蘊蓄】 ≪「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」 そのとき、信孝がこの辞世を詠んだというが、 切腹を命じたのは信雄であって、これの真偽は少し疑わしい≫ 『長政を失ってからの市の人生は、 自らの死に場所を探し求めるものだったかも知れない。 今がそのときと、彼女は北ノ庄城落城とともに、37年の生涯を閉じた・・・』 生かされて流れて今日にたどり着き 櫻崎篤子 「賎ヶ岳その後」 賎ヶ岳の合戦が終わったあとの織田政権を、現代の企業にたとえれば、 三法師は代表権のない会長として、誰も異議をもたない。 問題はその次である。 織田信雄は、自分が社長で、秀吉の実力ナンバー1であることは、 あくまで、秀吉は副社長に過ぎないと考えていた。 ところが秀吉には、信雄に家来扱いされる憶えはなかった。 噛みくだくたびに話がもつれだす 谷垣郁郎 信雄に織田一家をとりまとめる能力が、あるとは到底おもえず、 信雄は名目だけの副会長、自分が社長とこまでで、 ”賎ヶ岳の戦い”の翌年にあたる天正12年(1584)の正月、 とりあえずの再建がなった安土城で、 諸侯は、三法師を抱いた秀吉の前で賀詞を述べ、 ついで、信雄の屋敷に伺候したが、 秀吉は、信雄邸には姿を現さなかった。 生命線今年あたりで切れている 森 廣子 1月に、大津の園城寺(三井寺)で、秀吉・信雄会談が行われたが、 信雄は最初の会談のあと、暗殺をおそれて、 家臣たちを置き去りにしたまま、伊勢へ逃げ帰ってしまった。 このとき、信雄に取り入ったのが家康である。 ”本能寺の変”のあとに、家康は 信長から家臣たちに与えられた甲斐や信濃を、横領しており、 「これを返せ」と言われないように、予防線を張ったのである。 ≪本能寺の変のあと、上杉と北条が取った残りを、 あの謀叛なら鍋にして食べました 居谷真理子 家康にしてみれば、まず何よりも自分の領地へ、信雄に侵入されてはたまらない。 そこで、家康には信雄を篭絡する必要が生じ、 「信長公のご恩に報いるため、いつでも力になる」 と涙ながらに語った。 信雄は、「家康が味方になる」というので、 3月になって、信雄は、秀吉に内通したとして、 津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三人の家老を斬殺した。 この三家老殺害が、「信雄側から秀吉への挑戦状」ということになり、 こうして、世にいう「小牧・長久手の戦い」へと発展していくのである。 そのうちに座る閻魔の前の席 井上一筒 賎ヶ岳羽柴秀吉VS柴田勝家布陣(CG) 「CG画の解説」 柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、琵琶湖の北東、”近江・余呉湖畔”で対陣する。 特に、大岩山砦(CG/左辺・下)と賎ヶ岳(CG/左辺・上)で、激しい白兵戦が展開。 余呉湖戦模様・・湖の右側一辺(権現坂から堂木山砦まで)赤い幟が、柴田隊の布陣。 左上・余呉湖と琵琶湖との間に賎ヶ岳があり、 前田利家隊は、右辺・上・権現坂辺りに布陣していた。 左一辺、賎ヶ岳から大岩山砦まで、佐久間隊が攻めてくる。 ≪この深追いが、秀吉の美濃の大返しもあり、戦の行方を決定づける≫ どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく 壷内半酔 天正10年(1581)12月、 勝家の城である近江・長浜城が、大谷吉継によって落城する。 吉継は、これをきっかけに頭角を現していくのだが、 この時も、柴田勝家は、雪に阻まれて身動きがとれなかった。 天正11年2月20日、勝家は、北陸勢に一斉に出動命令を出した。 3月2日、柴田方先発隊・佐久間盛政ら先遣隊が出陣。 3月5日には、柴田方全軍が、琵琶湖北東部、”近江・柳ヶ瀬”に着陣した。 ここは、峻険な山塊がつらなる難所ながら、 近江と北陸をつなぐ交通の要所である。 山間部の戦いは、投入できる兵員の総数が限られることもあり、 兵数が少なくても有利に戦える。 勝家はこの地で、秀吉を迎撃すべく、 北国街道を挟撃する位置に、多数の砦を構築した。 大根を見て今晩の鍋決まる 稲葉 洋 一方秀吉は、3月17日、柴田勝家蜂起のしらせを受け、 ”北近江・木の本”に着陣する。 深追いを避け長浜に下がり、長期戦にそなえた。 4月17日に、織田信孝が岐阜城で蜂起したのを受け、 秀吉は、押さえの兵のみをおいて、 主力を西美濃・大垣城に着陣した。 しかし、これは秀吉側の誘導作戦であった。 4月19日、秀吉側に寝返っていた柴田勝豊(勝家の養子)の家臣が、 密かに佐々木盛政の陣に駆け込み、 「秀吉が大垣に赴いていて、留守である」と伝えた。 これにより盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を、勝家に提案する。 当初は、これに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、 「砦を落としたらすぐ戻ること」 という条件つきで承諾した。 盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、 ”賤ヶ岳の戦い”の緒戦を勝利に導いた。 欠点で長所で腰の軽いこと 嶋澤喜八郎 4月20日盛政が、大岩砦を占領すると、 同日、大垣に「柴田勝家動く」の報せが届き、秀吉はただちに、 北近江・木ノ本へ出立する。 急ぐあまり、秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう)が間に合わず、 秀吉は7騎で、しかも、「馬を乗り殺した」という伝説もあるほど・・・。 大垣ー木之本間、約52キロの街道には、 秀吉軍の主力は、足軽本人と武具類を別便で輸送するという方式で、 驚異的なスピードで移動した。 ≪この奇蹟の兵員輸送が成功したのは、石田三成の事務能力によるもので、 すでに事前に、入念な準備が行われていた≫ パトカーが前にいるのに飛ばせるか 横山耕三 4月20日、午後7時頃には、秀吉軍主力は北近江・木之本に着陣していた。 秀吉軍は一転して、佐久間盛政隊を、挟撃する形となった。 4月21日深夜、佐久間盛政隊は数で劣る平地戦を避け、山沿いで撤収。 秀吉軍は、次の照準を、次蜂の勝家隊に絞った。 勝政隊が待機していた”賎ヶ岳での戦い”は、 激しい白兵戦となった。 よく見るとキツネタヌキが跳ねただけ 谷垣郁郎 鉄砲隊の効果は薄い、 そのため槍を持っての白兵戦となった。 ≪余談ー戦国時代の日本人は、実は命の危険の高い白兵戦は、あまり好きではない。 応仁の乱から島原の乱までの、 死傷者内訳を分析した鈴木眞哉著・『戦国鉄砲・傭兵隊』によれば、 刀剣での死者はわずか7・1%だとある≫ そもそも一代で成り上がった秀吉には、代々の家臣がおらず、 秀吉と家臣団は精神というよりは、利害で結ばれていた。 ”人は金のために人を殺すが、金のためには死ねない” この時点での羽柴秀吉の最大の弱点は、 「秀吉のためなら死んでもいい」 と言ってくれる家臣がいないことであった。 そこで長浜時代から育ててきた、福島正則・加藤清正らに先陣を命じ、 彼らが奮戦した。 これが「賎ヶ岳七本槍」である。 ≪余談ー実際には、このとき功労賞を受けたのは、7人ではなく、 石河兵助・桜井佐吉の2名を加えた、9人だったと言われている≫ 大木になろうと思う草の夢 上村八重子 いずれにせよ、退路を確保していた前田利家隊が、 柴田勝政隊・佐久間盛政隊は孤立し、柴田方は総崩れとなって、 越前北ノ庄へと撤退を開始。 4月21日、午前9時頃、秀吉は本陣を決戦場である賎ヶ岳に移し、 勝利を宣言した。 『お江ー第10回・「別れ」‐あらすじ』 清洲会議以降、秀吉(岸谷五朗)に押されっぱなしだった勝家(大地康雄)。 その我慢も限界にきた勝家は、 そして3月2日、甥の佐久間盛政(山田純大)が先遣隊として出陣。 つづき勝家は、雪解けを合わせたかのように、 一方、このとき対抗勢力のひとり滝川一益を攻めていた秀吉は、 勝家出陣を聞くと雌雄を決するべく、 琵琶湖と余呉湖の間にある賤ヶ岳を挟んで、 こだわりを流してからの軽い靴 山崎三千代 陣地に勝るのは勝家。 数に勝るのは秀吉。 予断を許さない両軍のにらみ合いは、1か月にもおよんだ。 この膠着状態に、しびれを切らした佐久間盛政は、 岐阜城の織田信孝(金井勇太)をけん制するため、 美濃・大垣城へ進軍した秀吉の不意をついて、秀吉軍の砦を強襲。 敵将・中川清秀を討ち取るなどの戦果を挙げ、 あんまりな雨に剥がれた金メッキ 山本早苗 その報を待っていた秀吉隊は、 大垣-木之本間・約52kmを、わずか5時間で駆け付けた。 佐久間隊は、その秀吉率いる大軍に囲まれ、 秀吉とも旧交のある勝家の与力大名・前田利家(和田啓作)の、 この敗戦の結果、勝家は愛する妻・市(鈴木保奈美)とともに、 そして、江(上野樹里)たち三姉妹は、秀吉に保護され、 のんびりの時間をつくる忙しさ ふじのひろし 煙突が傾いている寒さかな 嶋澤喜八郎 百年後には、「平成の大地震」と呼ばれているるだろう三陸沖を震源とする地震が、 2011年3月11日(PM2時46分)に発生。 マグニチュードー9 震度ー7 明治以来、観測史上最大だという。 正式には、「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名された。 この地震によって、東京以外の神奈川、千葉、茨城、長野などに、 人間の知恵は、自然の前に、いとも簡単に打ちのめされた。 人工のすべてが無力と思い知る 原 隼 もちろん東京も”震度5”の針がぶれ、揺れた。 ただ東京の場合は、横浜のような地割れもなく、揺れただけである。 「太田道灌は、江戸城の真下に、 扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は、 古河公方方の有力武将である、房総の千葉氏を抑えるため、 両勢力の境界である利根川下流域に、城を築く必要があった。 康正2年(1456)に着工。 現在の”江戸城の内本丸”の一帯で、 『永享記』には、 道灌は、諸書を求めて「兵学」を学び、殊に『易経』に通じ、 当時の軍師の必須の教養であった『易学』を修め、 なぜ城の位置が、この場所(江戸)になったのかは、 ”わがいほは 松原つづき 海近く 富士の高嶺を のきばにぞみる” 一服の煙を吐いて街を見る 両澤行兵衛 「江戸城は、鬼門・裏鬼門をはじめ、風水学を計算してつくられていた」 江戸城は、慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸幕府の本拠地とされる。 道灌が築城した江城に、家康が幕府の拠点を置いたのは、 家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、 108歳で大往生した、 天海僧正は、徳川幕府の永代存続を祈願して、上野山に寛永寺を建立。 寛永寺は江戸城の東北方「鬼門封じ」のために、建てられた。 おそらく、江戸城の”鬼門除け”としては最強であったとされる。 ちなみに、易学では東北鬼門方位は”艮(ごん)の卦”で示され、 「万物万象の終結を成すところであり、かつまた開始を成すところでもある」 江戸城が、自然災害に強く、江戸幕府が、270年間存続できたのは、 「天海僧正お陰」といわれる由縁である。 裏側は地球を背負う摩崖仏 海老地洋 当時、三河にいた松平家忠の日記によると、 『地震は亥刻に発生し、翌日の丑刻にも大規模な余震が発生。 その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて、地震があった』 と記されている。 震源地は、岐阜県北西部、マグニチュードは7.9 - 8.1と推定。 近畿から東海、北陸にかけての広い範囲に跨って、 甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、このことから、この地震は、 海岸線が後ずさりしている地球 籠島恵子 琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現・長浜市の集落が、液状化現象により、水没。 越中国では木舟城が地震で倒壊、 城主・前田秀継(前田利家の弟)夫妻など多数が死亡。 また、飛騨国帰雲城は、帰雲山の山崩れによって埋没し、 城主・内ヶ島氏理とその一族は、全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。 そして、周辺の集落数百戸も、同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出している。 また、お江ゆかりの美濃国・大垣城が全壊焼失、近江国・長浜城が全壊し、 城主・山内一豊の息女・与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡している。 「江戸時代、江府内で石垣が崩壊するほどの大地震」 寛永5年(1628)寛永地震、 寛永7年(1630)寛永2次地震、 正保4年(1647)正保地震、 慶安2年(1649)慶安地震、 元禄16年(1703)元禄地震、 宝永3年(1706)宝永地震、 安政2年(1855)、篤姫、和宮らが経験した安政地震の、 7回が記録されている。 このうち最大級の被害をもたらしたのが、「元禄の大地震」である。 震源地房総半島沖・25Kmで、推定マグニチュード8.2 という巨大なものであり、 震源地に近い安房、上総や三浦半島では、震度7 の強い揺れが襲ったという。 この地震で、家屋倒壊や土砂の崩落もとより、 江戸を除く、安房、上総、相模、伊豆の地域だけでも、 一方、江戸でも、石垣の崩落など地震による大きな揺れがあり、 六角に裁断された水の耳 井上一筒 地震は、鎌倉、小田原、箱根などで大きく、 小田原城が大破し、城下町の建物は大破、倒壊が夥しく、 直後の出火によって壊滅状態となった。 ごらんの通り、この「元禄の大地震」は、 台本にない人生にうろたえる 太田 昭 【江戸城ー豆辞典】 関が原の合戦(1600年)に勝利した家康は、慶長8年(1603年)江戸に幕府を開く。 家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した、 比較的小規模で、質素な城であったため、 全国の大名を動員の天下普請によって、 慶長9年6月1日、江戸城大増築工事が発令されたが、 この工事によって、雉子橋から溜池に至る外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸の石垣と 本丸御殿の一部が造営され、 また慶長12年(1607)五層の天守閣が落成。 その後16~17年にかけて、西丸の修築工事、 18年~西丸下の石垣工事が、”大阪冬の陣”で中断されるまで続いた。 手加減を知らぬ自然の恐ろしさ 古田哲也 関東・東日本の地震に被災された方々に心より、お見舞い申し上げます。 |
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