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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ドーナツの穴が気休めばかり言う たむらあきこ 

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 ポルトガル・宣教師たち   

「龍馬とカステラ」 
 
室町時代末期の元亀二年(1571年)、

開港したばかりの長崎港に、遥か遠く西欧から交易を求め、

初めてポルトガル人が上陸した。

「長崎のカステラ」は、

この時に、日本にその製法が、伝えられたと言われている。

70年間に渡るポルトガル人たちの長崎在住の中で、

カステラはやがて、その由来となる名前だけを残し、

日本型に、長崎で独自の進化を遂げていった。

今日もまた愛の形でパンを焼く  上野楽生

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 文明堂・「海援隊カステラ」

その長崎の地で、坂本龍馬は、カステラと出会う。

「こいつは美味いぜよ!」

と、口にほうばったに違いない。

そして、このうまいカステラを、「自分たちで作ろう」 と考えたのも間違いない。

というのは、

慶応3年(1867)に、龍馬らは長崎で組織した「海援隊」の日誌に、

”カステラ作りのレシピ”の記述が残っているからだ。 

 『カステイラ仕様 ・正味 ・玉子百目・うどん七十目・さとふ百目 、此ヲ合テヤク也 和蘭実』
 
とある。

うまい汁皆に吸わせてやってくれ  壷内半酔

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「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」

この海援隊の日誌のレシピを基に、

長崎市の老舗カステラ店「文明堂総本店」が、「海援隊カステラ」を再現。

現代のカステラより、きめが粗く、パサパサしているものの、

「香ばしく、素朴な味わいが、よみがえった」 

と、懐かしい?・・・というような表現を聞く。

どちらにしろ評判は、上々のようである。

このカステラを齧れば、龍馬と、杯ならぬ、「ケーキを交わした仲」になる。

龍馬は、おりょうとの新婚旅行にカステラを持参し、

”手でちぎって食べた” 

と、される文献もあることから、

「あえて切れ目は入れず、縦14センチ、横16センチのサイズのままで」

と、こだわっている商品だ。

一夜干しお日様と風浴びた味  杉本克子

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炭を使って焼いた昔の焼き釜
 
≪上下に炭を入れ、中に入れた水入りの缶で釜の温度を計った≫

「カステラの歴史をかじる」

昔のカステラ焼き風景昔の製法では、

ひと釜焼くのに、約1俵もの炭が必要だった。

先にも述べたが、一般的な説では、

16世紀の室町時代末期に、

ポルトガルの宣教師によって、長崎周辺に伝えられたとされる。

当初のカステラは、卵、小麦粉、砂糖で作ったシンプルなものであり、

ヨーロッパの菓子類としては、珍しく乳製品を用いないことから、

乳製品を生産、常用しない当時の日本にも、残ることができた。

薄切りのパン見通し訊いてみる  井上恵津子

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”松翁軒の歴史”よりカステラ作り

カステラの製造に重要なオーブンは、当時の日本には存在せず、

オーブンに代替する天火として、

「引き釜」という、炭火を用いる日本独自の装置が考案された。

江戸時代には、菓子、製造の盛んだった江戸・大坂を中心にカステラの日本化と、

カステラを焼くための、炭釜の改良が進められ、

江戸時代中期には、現在の長崎カステラの原型に近い物が作られている。

≪長崎カステラの特徴である、水飴の使用は、明治以降の西日本で始められた≫

これにより、現在のしっとりとした触感となった。

血糖値ケーキを見てもいけません  井上一筒

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   池内蔵太

「龍馬伝」・第30回-「龍馬の秘策」 あらすじ

長崎滞在の龍馬(福山雅治)たちは、船を借りることも出来ずに、

途方に暮れていた。

そこへ、土佐勤王党だった池内蔵太(桐谷健太)が訪ねて来る。

池は高杉晋作(伊勢谷友介)とともに、長崎に潜伏していたのだった。

龍馬は池に連れられて、高杉に会いにいく。

そこには、引田屋で出会った伊藤俊輔(尾上寛之)井上聞多(加藤虎ノ介)もいた。

高杉は長州藩が幕府に従わず、戦いぬく覚悟であると語る。
 
この辺で所望しましょう起爆剤  西恵美子

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龍馬が小曽根邸に戻ると、

長次郎(大泉洋)が、カステラ作りをして、金を稼ごうと提案する。

龍馬は、「カステラを長崎で売って良いか」 

と長崎の豪商、大浦慶(余貴美子)小曽根乾堂(本田博太郎)に相談する。

大浦慶は、龍馬たちに興味を覚え、カステラ作りに必要な金を貸す。

そして龍馬たちは、偶然引田屋の芸子の元(蒼井優)と町で出会う。

お元は、長崎奉行・朝比奈昌広(石橋凌)に、情報を伝える隠密として、

働いているのだが、実はキリシタンだった。

道標をあなたに向けて生きている  八田灯子

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「面白い町じゃのう、長崎は」  

長崎を訪れた龍馬は、これまでに見たこともないような光景に、

目をみはる。

西洋や中国から来た異人たち、華やかで異国情緒あふれる町並み。

その中で、龍馬にもっとも大きな影響を与えたのは、

侍に媚びることなく、しかも、異国の商人と対等に渡り合う

長崎の豪商たちの姿だった。

商売への出資を願い出るため、豪商・小曽根乾堂(本田博太郎)を訪ねた折り、

小曽根は長崎の豪商たちと麻雀の真っ最中。

彼らは、互いに嫌みを言い合いながらも、同じ麻雀卓を囲んでいた。

一服の煙を吐いて街を見る  両澤行兵衛

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麻雀に興じる、大浦慶と小曽根乾堂

異国の商人という脅威に対抗するため、

敵同士であって
も、つながりは決して断たない。

そんな商人のしたたかさと、たくましさを見た龍馬は、ある途方もない

計画を思いつく。

西郷吉之助(高橋克実)に、長州と手を結んではと提案するのだ・・・。

朝敵である長州と結びつけば、薩摩も朝敵となるおそれもある。

はたして西郷が出す答えは…。

船底の空気は神の思し召し  吉田わたる

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噛み切ってしまえば事は終わるのに 谷垣郁郎

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イギリスが、交易に参加することによって、日本の地図が一変する。

「長州人を破ってから、我々は長州人が好きになった」 アーネスト・ホースト 
   

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いて、外国との関係を閉ざしていた。

≪実際は、国を閉ざしていたのではなく、「海禁」という言葉で表現されるように、

 海外の渡航や交易を厳密に管理したなかで、

 限定的かつ独占的に、交易を行なうというのが、鎖国の実態だった≫

江戸時代以前の東アジアでは、倭寇や秀吉の朝鮮出兵によって、

さまざまな国が対外関係で、大きな痛手を負った。

そこで、侵略行為などを含む干渉を相互に禁じ、

海を閉ざして管理された貿易を行うというのが、

江戸時代当時の東アジアの体制だった。

≪したがって、鎖国とはいっても、管理された状態で、小さく開いていたのである≫

原色が好きです騒がしい日本  平尾正人 

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     幕末の長崎港         

日本では、”四つの窓口”が海外に対して、開いていたとされる。

一つ目は、出島で有名な「長崎」で、ここでは幕府が直接、

  オランダや中国との交易を行なっていた。

二つ目は、「対馬」で、対馬の領主・宗氏を介して朝鮮と交易をしていた。

三つ目は、「琉球」で、琉球を武力侵略して支配していた薩摩藩を通して琉球、

  そして、中国との交易がつづいていた。

四つ目が、「蝦夷地」。これは松前藩を介してアイヌや北方民族との交易があった。

≪ちなみに幕府は、東アジアの国々と基本的には、直接対峙をしない方針があった≫

老いた香車だから後ろへも進む  井上一筒

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こうした「鎖国」の状況は、

「黒船の来航」によって完全に崩壊する。

大船の建造や、外国との貿易を厳しく管理した幕府権力の、空洞化がはじまり、

各藩は、なし崩し的に「開国」していく。

西南雄藩のように、資金力のある大藩は、

横浜や長崎を通じて、生糸や石炭を売り、

海外から軍艦や武器を買い入れ、留学生を西洋に派遣するようになっていく。

着古した夢がタンスの奥にある  錦織久
 
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しかし、やはり武家社会の常識としては、

あいかわらず、商いは忌むべきものであったし、

海軍や、船そのものについての、知識がない。

なにより、高い金を出して軍艦を買っても、

これを操縦できる船乗りが、いなかった。

≪坂本龍馬が目をつけたのは、そこである≫

当時の龍馬と、その周辺の友人は、

外洋船を動かすことができる、数少ないエキスパートだった。

しかも、幕府や藩の足かせがないので

対価さえ払えば、どのようなクライアントの依頼でも、引き受けて、

海運業や商社活動を、することが出来たのである。

小心のユダは迷路は抜けられぬ  山口ろっぱ       

勝海舟の門下生となった龍馬は、

勝の尽力で、山内容堂から脱藩の罪を許されているが、

それは土佐藩がこうした龍馬と、

その仲間の能力を、喉から手が出るほど、欲していたからである。

ちなみに、龍馬らを薩摩で引き取る立役者となったのは、

西郷隆盛や小松帯刀だった。

≪この二人は、この後、公私にわたって龍馬の面倒をみており、

 龍馬も小松のことを「天下の人物」と褒め称えている≫

龍馬はこうして、かけひきと利害を計算し、大きくなっていく。

立派な角を日毎磨いて置いてある  森 廣子

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    右の島が出島

「龍馬飛躍の場所ー長崎港」

国際港として「長崎港」が有名になるのは、

戦国末期のことである。

≪種子島に南蛮渡来の火縄銃が伝来して以来、戦国武将の地図が一変した。

長篠の戦で織田信長軍は、500挺の鉄砲で武田勢を壊滅的な打撃を与えて以来、

戦国武将と異国との、付き合いが始まる≫

瘡蓋を剥がし仏の顔に会う  太田 昭

鎖国後は、オランダが日本との、唯一の交易国になるが、

それ以前は、ポルトガルとの交流が圧倒的だった。

徳川幕府成立前は、各地の大名が、自前で外国と交流をしていた。

なんといっても、外国との交易は、文化向上だけでなく、

莫大な富をもたらしてくれた。

山頂で両手広げている空気  太下和子  

しかしポルトガル側でも、

単に日本側に利益を与えるだけでは、つまらない。

そこで貿易には必ず、「キリスト教の布教」を条件に出したのである。

その営業交渉にあたっていたのは、宣教師だからである。

当初日本側で、積極的にポルトガルを受け入れたのは、

平戸の松浦氏であった。

しかし松浦隆信の代になって、隆信は、

「キリストの布教よりも貿易の利益重視」 という考えをもち、これが

「貿易よりも、布教重視」 の考えを持つポルトガル側と、

しばしば争いがあり、殺傷事件も起こった。

ポケットの中で火種が燃えそこね  佐藤后子

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    長崎の居留地

トラブルをきらったポルトガル側では、

「平戸にかわる日本の良港」を探しはじめ、

大村湾の横瀬浦や、長崎の福田湾などが、次々と候補として試みられた。

これに日本側でも、港を支配する大村純忠有馬晴信らが、

現在で言えば、”日本の新幹線が最高ですよ”と言うように、

「うちの港は便利ですよ」と、今で言う「誘致合戦」がはじまった。

≪当初、平戸がポルトガル船の港であったが、

 領主の切支丹嫌いから、

 あるいは、ポルトガル側の希望もあって、港は順次変わり、

 先の試みから、横瀬浦、福田浦へと変わって、

 落ち着いたのは、深江浦すなわち、現在の「長崎」となったのである。

 長崎は、古くは、”深江浦とも深津江”とも呼ばれていた≫

さ迷うて水一杯のありがた味  村田己代一

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計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

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高杉晋作と伊藤俊輔

「名付けの名人・高杉晋作ー登場」

『動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 衆目駭然として、敢えて正視するものなし。

 これ、我が東行高杉君に非ずや』
 
”一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。

 周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。

 それこそ、我らが高杉さんのことだ”

同じ松下村塾の門下であった伊藤俊輔は、改名して伊藤博文となり、

馬関海峡(下関海峡)を通過したおり、同志として働いた高杉晋作を想い、

彼の人となりを、こう読んで、碑とした。

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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    井上聞多

伊藤俊輔井上聞多(馨)らと、馬関海峡で欧米列強の艦隊を相手に、

一戦を交えてきた相手である。

時代の申し子というか、維新のために、

それぞれの才を開かせて、寄せ集めた時代が幕末であった。

高杉晋作の場合は、奇知があるというか、

出くわした曲面に対し、瞬間的に策を思いつき、

その実行が、またまた要を得て効をなすのであった。

≪奇兵隊という組織の編成がそれを表す≫

セピア色剥がすと熱を帯びてくる  谷垣郁郎

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   高杉晋作

≪高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、

 立って写っている写真はない。

 しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。

 そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという≫

”高杉いわく”

「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。

 正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。

 藩の部隊がまさに、正兵であろう。

 しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、神出鬼没の兵があってもよい。

 私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、

 勝利を制するのが目的である。

 よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 となった。

中七に八分休符が利いている  井丸昌紀

しかし、長州藩の正兵はすでにある。

高杉は、義や徳を重んじる男でもある。

藩主にお伺いを立てなければならない。

「そうせい公」の異名をもつ、

長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に、申し立てたところ、

緊急時だから、そうせい」 と、快諾がおりたのである。

高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。

追いかけられる、命を狙われるで、

地元・萩で奇兵隊を創設するわけには行かない。

ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒

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奇兵隊は、農民・僧侶・下級武士・商人の寄せ集め部隊だった。  

そんなわけで、高杉により、馬関で結成された「騎兵隊」は、

和洋折衷の軍服で、

隊士の意識と機動力とを高めるとともに、

理解しやすい隊則で組織をまとめた。

例えば、

「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、通り抜けるのを待て」

とか、

「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」 

など、隊則は理解しやすい内容をもって、

組織の集中力を強化することに、成功したのである。

羞恥心なくせば一気にスターダム  ふじのひろし

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 「攻山寺」・高杉晋作銅像

雪の降りしきる頃、

馬関の「攻山寺」で農民・僧侶・下級武士・商人など多様な人材を集めて、

奇兵隊は、出陣を決行する。

馬関を通過するたびに、

伊藤博文は、こうした高杉晋作のエピソードを思い出した。

”博文”と命名したのも高杉である。

≪博文の2文字には、日本の文化をあまねく、広めてほしいとの、

  高杉が伊藤に託する熱い願いが込められていた≫

実印を男の顔で押している  多良間典男

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     毛利敬親

「蛇足」

長州藩主・毛利敬親が、土佐の山内容堂のように、

幕末期において、あまり表に名前が出てこないのは、

「そうせい侯」 と呼ばれるように、家臣の意見に対して、

いつも、「うん、そうせい」 と言い、

家臣の申し出にほとんど意義を挟まず、

家臣の好きなように、藩政をまかせたためである。

そのため、藩士からは慕われ人気があった。

やる気がなかったのかと言えば、そうかもしれないが、

家柄や年齢にこだわらずに、

下級武士の息子である吉田松陰の才を見い出し、

その門下から、高杉晋作など数々の優秀な人材を、

輩出させた影の功績もある。

字引より軽薄がよい電子辞書  八木 勲 

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『龍馬伝』・第29回-「新天地、長崎」 あらすじ

薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)小松帯刀(滝藤賢一)に、

身を預けた龍馬(福山雅治)たち、脱藩浪士は、

大坂から薩摩へ航行中、長崎に立ち寄る。

そして豪商・小曽根乾堂(本田博太郎)の屋敷に泊まることに。

西郷や小松は、龍馬たちに薩摩の船の、操船をさせようと考えていたが、

龍馬たちは特定の藩に頼らず、

龍馬、近藤長次郎(大泉洋)沢村惣之丞(要潤)らは、

操船技術を生かすため、蒸気船を手に入れようと計画する。

折り返し点で傘一本買う  大槻和枝

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そして龍馬らは、イギリス商人のトーマス・グラバー(ティム)を訪ねる。

惣之丞や陸奥陽之助(平岡祐太)が、英語で交渉するが、

グラバーは龍馬たちを信用せず、船は借りられなかった。
 
そこで龍馬たちは、

花街である、丸山の料亭・引田屋(ひけたや)に乗り込み、

商人相手に、船を借りようとする。

その引田屋では、

長州藩の高杉晋作(伊勢谷友介)井上聞多(加藤虎ノ介)、

伊藤俊輔(尾上寛之)が、酒を飲んでいた。

高杉は、外国から武器を購入するため、

正体を隠して長崎に潜りこんでいたのだ。

なめくじの関節だろう鳴ったのは  東おさむ

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高杉の部屋では、芸子の元(蒼井優)が踊りを披露していた。

そこへ龍馬たちが入り込んでくる。

龍馬は、「自分たちを利用しないか」 と、高杉に売り込む。

するとそこへ、薩摩藩士たちが乗り込んでくる…。

 豆腐のような煙のような明日です  徳永政二

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甘党の男に期待などしない  原井典子

期待できる男・龍馬はかなりの酒豪であったようだ。

質屋・才谷屋の血をひく、ボンボンだからお金もあって、

酒ばかりでなく、

結構なグルメでもあったそうだ。

そういう意味で、長崎は龍馬にとって、ダブルに希望の町であった。

さて、7月13日の卓袱料理(P-1)につづき、

ここでは長崎・卓袱料理(P-2)をご紹介・・・の前に、ちょっと寄り道。

恋なんてご飯のたしになりますか  杉本克子

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長崎へ一歩踏み込んだ龍馬の足

「龍馬伝ー第3部の舞台は長崎へ~」

龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀の助けを得て、長崎で海運会社・亀山社中を始める。

当時、長崎は外国との交易で栄えていた。

一獲千金を狙うトーマス・グラバー、

茶貿易で巨万の富を手にした大浦慶、

江戸幕府の手先・長崎奉行、花街・丸山の芸妓・お元、

そして、奇兵隊を創った長州の高杉晋作など、龍馬は様々な人々と出会う。

未知数にあつい視線が注がれる  吉岡 民

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    長 崎 崇 福 寺

「国宝・崇福寺で撮影が進む中、龍馬、晋作、お元、大浦慶が、長崎の印象を語る」

福山雅治(坂本龍馬)-長崎はおいしいものも沢山ありますし、歴史を感じられる場所です。

    このお寺にもちょくちょく、お参りに来ていたのですが、

   カメラ越しに見てみると、

    こんなに画になる場所だったんだなって、改めて思いました。

伊勢谷友介(高杉晋作)”崇福寺”は、国宝のあるお寺ということで、

   そういう場所で撮らせていただけて、演技にも身が入ります。

蒼井(芸者お元)-私は父が長崎の五島列島の出身なので、

   何度か来たことがあるのですが、今回久しぶりに長崎に来ました。

   やっぱり落ち着くなと思います。

余貴美子(大浦慶)ーまだ来たばかりなのですが、

   長崎街道も歩いてみたいですし、

   これからいろいろと見学させていただきたいと思っています。

   昨夜は、卓袱料理を堪能いたしました。

   和・洋・中のミックスで、”長崎は、こんなところなんだなあ”と感じました。

   すごく楽しくて、おいしかったですね。

福山龍馬ーなんで、僕、一緒に行ってないんですか・・・? (≧∇≦)/ ハハハ・・( iдi )

消防車が着くとサンマは焼けていた  壷内半酔

いよいよ余貴美子さんが、堪能したという卓袱料理へご案内。

長崎の大金持ち・大浦慶も、日常のように食したことでしょう。

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卓袱料理はお鰭椀に始まり、梅鉢で終わる。

お鰭椀・[鯛切り身]。紅かまぼこと白餅。椎茸。柚のつぼみ。小菜・[鯨百尋]。
中鉢ソボロ。果物。小菜・[ハトシ]。梅椀・「しるこ]。煮物・[チンゲンサイと木耳のスープ]。
小菜・[黒豆]。汁物・[ヒカド]。中央の大鉢・[煮物、飛龍頭、里芋、筍、菜の花、木の芽]。
中鉢・[豚角煮]。 【写真正面から時計回りに並ぶ】

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円卓には、あらかじめ小菜が並べられ、宴席のスタートを見計らって、

熱々のお鰭椀がつけられる。

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     お 箸 袋

ひとつ箸袋に、数人分の箸が入っている。

赤白の水引は祝儀、黒白は不祝儀

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     中鉢/豚角煮

とろとろ煮込んだおなじみ料理。

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中鉢/ハトシ

すり身にした海老を、パンで包んで揚げたもの。

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 小菜/鯨百尋(ひゃくひろ)

長崎の婚礼や正月の祝宴に必ず使われる一皿。

お赤飯何のお祝いかと思う  井上恵津子

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余さんが演ずる、「大浦慶とは?」

長崎で亀山社中を立ち上げた龍馬は、

その後、資金を何人かのパトロンに頼った。

その代表が、長崎の小曽根家と下関の伊藤家だったが、

大浦慶という女性にも、300両(約1800万円)の金を借りたことがある。

龍馬は、油屋町にあった慶の屋敷に転がり込んで、

居候することもあったが、

この女性は、いまでも長崎に伝説の女商人として、

語り継がれているほどの”女傑”だった。

生き生きあける炊飯器のまぶた  岩田多佳子

大浦慶は、長崎の老舗に生まれ、

17歳で、親の決めた男性を婿に迎えた。

しかし、婚礼の翌日、無気力なところが気に入らないと、

100両を渡して、叩き出したという経歴を持つ。

その後、両親があいついで亡くなり、家業が傾くと、

慶は、再建を果たすため、

21歳だった嘉永元年(1848)の、ある日、

長崎からオランダ船に忍び込み、中国へ向けてひそかに旅立った。

まだペリー来航前の話で、密航は極刑の時代だったが、

あえて挑んだのは、

日本で最初の茶貿易をはじめるという、壮大な商魂を宿していたからだ。

≪というのが、現在まで長崎に伝わる大浦慶伝説≫

釜飯の底のおこげがたまらない  前田咲二

密航伝説から5年後の、嘉永六年(1853)。

出島のオランダ商人で、

その後、東インド会社の重役に出世したテキストルが、帰国する際、

慶が、肥前嬉野の茶を見本として預けたことは、確かである。

ココロザシ確っかと抱いている翼  山口ろっぱ

すると、日英和親条約が発効された安政3年(1856)。

テキストルの紹介で、イギリス商人・オルトが訪ねてきた。

そして、いきなり72万トンの日本茶を注文。

こうしてはじまった”茶貿易”で、慶は大成功を収める。

やがて、日本茶は、長崎貿易のなかで、第一位を占めるようになり、

長崎とその近郊で、茶栽培が広がると、

慶は長崎の女傑として、その名を知られるようになった。

≪龍馬を慶に紹介したのは、グラバーだといわれている≫

森を開いて割り箸の山作る  井上一筒

拍手[5回]

土地土地に十種十味の味噌がある 河原章久

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幕末の面影を残す料亭「迎陽亭」の茶室

京都文化博物館の『特別・龍馬伝』で、

龍馬の原板や、写真を見てきたオバちゃんたちが交わしていた、龍馬の感想。

おばちゃんポツリと、

「もうちょっと、いまやってる人に似てたら、よかったのになァー」

面白い!・・・が、

「違うやろー、ソレを言うなら逆やがなァ」

しかしそう考えれば、大河ドラマに主役で登場した、数々の歴史上の人物は、

たいてい本人より男前である・・・多分・・・。

並べてみると、

近藤勇ー香取慎吾直江兼続ー妻夫木聡、山本勘助ー内野聖陽

徳川慶喜ー本木雅弘、山内一豊ー上川隆也、小松帯刀-瑛太、義経ー滝沢秀明、

伊達政宗ーハリウッドスター・渡辺謙 しかりである。

大阪のおばちゃんだったら許される  本多洋子

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   坂本家の食事風景

いよいよ、4部作の「龍馬伝」も第3部に入る。

舞台は長崎。

戦国時代に、西洋と出会い。

鎖国時代もオランダ船や唐船が、やってきた港町である。

そして、長崎といえば、龍馬も食したであろう「卓袱料理」がある。

”しっぽく”と読む料理は、なにかと、外来との調和の響きがある。

今回は、龍馬の時代の食卓として、「卓袱料理」を紹介。

伝統の味を守っている重石  石田隆彦

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代々伝わる卓袱料理の食器も和洋中折衷

海の道をやってきた南蛮船や唐船が、

異国の食文化や流儀を長崎に伝えたのは、400年以上も前のこと。

龍馬の時代の長崎人は、

西洋風料理や中国風料理を、家庭で楽しんでいた。

そんな文化的風土に育まれたのが、

幕末の料亭で出されていた”卓袱(しっぽく)料理”である。

今も、”和洋中折衷”の料理が、朱塗りの円卓に華やかに並ぶ・・。

「卓袱とは食卓のこと。

 いうなれば”ちゃぶ台”です。

 卓袱料理は、もともと食卓を囲んで食べる料理という、意味なんですよ」 

玉葱を毎日食べて血を洗う  松尾美智代

料理より、食卓で食べるという行為に、注目が集まっていた。 

「当時、日本では武士も庶民も、一人用の食膳を使っていました。

 ことに武家は、食事作法に厳しく、

 身分によって座る席も、使う食膳も決められていたのです。 

 長崎の人たちがひとつ円卓を囲んで食事をするのを見て、

 龍馬も驚いたことでしょう」 

と、長崎食文化の生き字引、歴史研究家の越中哲也さん。

串カツへシャキッとキャベツ控えおり  伊藤礎由

「卓袱料理は江戸時代から、江戸でも知られていました。

しかし、将軍家のお膝元で、普及することはありませんでした。

そんなわけで”ちゃぶ台”も、

長崎以外の土地では、明治時代になってからも、

なかなか暮らしに、取り入れられませんでした」

骨も煮えたかと山姥蓋を取る  井上一筒 

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当時のままの座敷に掲げられた「迎陽亭」の額

江戸期文化9年(1812)に創業した長崎の格式高い料亭・迎陽亭の文書によると、

慶応年間(1865~1868)に、卓袱料理が出されている。

迎陽亭は、龍馬が”いろは丸事件”の賠償交渉に赴いた玉園町”聖福寺”の、

ほぼ真向かいにある、長崎屈指の料亭である。

龍馬もここで、卓袱料理に舌鼓を打ったのでしょうか?

そのへんの事はどの記録にもない。

けれど、グルメを気取り、新種の気風を愛した龍馬なら、

多分面白がって、円卓の食事を楽しんだに違いない。

≪龍馬伝でも、1人一膳格式どおり並んで食事をとっている通り、

 当時の武士にとって、ひとつの食卓を囲むということは、

 封建的身分制度をひっくり返すのと同じくらい、画期的なことだった≫

朗らかな顔が大きな輪をつくる  遠山唯教

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座敷に緋毛氈を敷き、朱塗りの円卓を置いた宴席

長崎では卓袱料理は、おかあさんがこしらえる家庭料理。

ちゃぶ台を囲む一家団欒の食事風景が、その始まりだったようだ。

長崎で270年、砂糖卸業を営む脇山壽子さんの家に伝わる献立には、

”ヒカド、ソボロ、ゴーレン”といったカタカナの料理名が並んでいる。

今も手作りされる料理の写真を見ると、

華やかな料理というより、素朴で温もりのあるおかず。

≪ヒカドは、1cm角に切った根菜を煮て、

 仕上げにサツマイモをすりおろして、とろみをつけたもの。

 寒い日に食べる、具沢山の汁物。

 ソボロは、細切り人参、たけのこ、ごぼう、こんにゃく、豚肉などを炒めて、

 濃いめに味付けするきんぴら風の一品。

 ゴーレンは、いまでいう竜田揚げ≫

梅干して母の秘伝で染める壷  池部龍一

飛龍頭(ひりゅうず)も、ポルトガル語・「フィロウス」に由来するカタカナ料理。

豆腐をすりつぶし、野菜を混ぜ、丸めて揚げたもので、

手間をかけて作る”もてなし料理”である。

南蛮渡来の料理は、

おかずになってこなれ、

お客料理になって磨かれ、

料亭の宴席を飾る料理にと、洗練されていきます。

すき焼きがにおう駅裏ぼくを呼ぶ  濱田良知

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 長崎漆の見事な鶴蒔絵椀

≪卓袱のはじまりに出される汁お椀≫

さて、料亭でいただく卓袱の宴席は、

「おひれをどうぞ」と言う、おかっちゃま女将さんの、あいさつで始まる。

卓には、小菜の皿が並んでいるが、それまではおあずけ。

お鰭(ひれ)は、本膳の流れを汲む汁椀。

かつては、「尾頭付き鯛を一尾使いました」と言う、

”もてなし”の気持ちを込めて、

お鰭(ひれ)を椀にそえたそうである。

今は、鯛の切り身が入る。

温かい汁物で一息ついたところで、宴席のごあいさつが始まる。

それからは和気あいあい。

赤のれん腹から笑うバカ話  平紀美子

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ワイングラスとプレスガラスの取り皿

「注がれたのはワインか、それとも日本酒か」

小菜の冷菜4品、大鉢の煮物、中鉢の揚げ物、煮物と、

ひとつ皿の料理を分け合い、酒を酌みかわしつつ、

打ち解けた宴が進む。

当時は、ひとつ器から食べるなど、「武士」にあるまじきことだった。

しかし幕末は、武士が自らの手で、

「武士の世を終わらせよう」 とした時代でもあり。

幕府の直轄地だった長崎に城はなく、藩主もいない。

幸せの原点だった腹いっぱい  森田美代子

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迎陽亭の庭先から、

龍馬が紀州藩との談判にやってきた聖福
の甍がみえる

自由で、したたかに生き抜く商人の町で、

龍馬は、「総合商社・亀山社中」を立ち上げ、

坂本龍馬という名の、新しい一歩を踏み出す・・・ことになる。

円卓に華やぐご馳走が、

まだ見ぬ世界へ、はばたこうとする龍馬の背中を、

そっと押してくれたかもしれません。

”木曜日に続きます”

名曲にワインの樽も酔いしれる  徳山みつこ

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