一生に一度の今日へ何遺そう 前田伍健
「天皇の起源は神話にある」ー天皇の正月
祭祀が執り行われる皇居内の宮中三殿
皇居御所がある吹上御苑の森の東南に、『宮中三殿』と称される「三つの祭殿」がある。
それぞれの回廊で結ばれ、
真ん中の一番高くひと回り大きいのが、天照大神を祭る「賢所」。
左側が歴代天皇・皇后・皇族の御霊を祭る「皇霊殿」。
右側が八百万(やおよろず)の神々を祭る「神殿」である。
この聖域の中心にある賢所のご神体は、『三種の神器』のひとつ、
「八咫鏡(やたのかがみ)」である。
≪三種の神器とは、八咫鏡と草薙剣、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)をいう)≫
中でも、天皇の祖先である“天照大神の魂”を宿した鏡が、
別格に重要なものとされ、
剣と玉が、天皇のお住まいである御所の寝室の隣の、
「剣壐の間」(けんじのま)にあるのに対し、
「鏡」は、「賢所」の奥深くに安置され、滅多に動かされない。
≪皇居の神器のうち、鏡と剣は「分身」で、「八咫鏡」の本体は、伊勢神宮に、
「草薙剣」の本体は、熱田神宮にある≫
[分身]=レプリカとか複製と説明されることが多いが、「模造品」ということではない。
神道における「分祀」が、ろうそくの火を分けるように、
神様の分身を増やすのと同様、[分身]も本体に準ずる神器なのである。
左から、皇霊殿・賢所・神殿
スサノオノミコトの乱暴狼藉に恐れをなした天照大神は、
「天の岩戸」に引きこもり、世界は闇に包まれてしまった。
そこで神々は、一計を案じ、「鏡」と「曲玉」を作って、
天の香具山から掘り起こしてきた榊に掛け、祝詞を唱えて祝福した。
そして、アメノウズメノミコトが神がかりして踊ると、高天原が鳴りとどろくばかりに、
八百万(やおよろず)神々が、どっと一斉に笑った。
天照大神は、それを不思議に思われて、
「私がここにこもって、すべて暗闇となっているのに、
どういうわけでアメノウズメは舞楽をし、神々はみな笑っているのか?」
「あなた様にもまさる貴い神が、おいでになりますので、喜び笑っております」
そういう間に、鏡を差し出し天照大神にお見せすると・・・
天照大神は、ますます不思議に思って、鏡の中を覗こうとする。
その瞬間、戸のそばに隠れていたアメノタジカラオが、天照大神の手をとって、
外に引き出し、フトダマノミコトが注連縄を張った。
こうして太陽が戻り世界は明るくなった。
一方、高天原を追放されたスサノオノミコトは、出雲の国に降り、
クシナダヒメを救うために、「ヤマタノオロチ」の退治を引き受ける。
酒に酔いつぶれたヤマタノオロチを、スサノオはズタズタに切る。
そして、オロチの中ほどの尾を切ったときに、剣の刃がこぼれた。
不審に思って尾を裂いてみると、すばらしい「剣」が出てきた。
スサノオノミコトは、この剣を天照大神に献上した。
この神話に登場する「神鏡」・「曲玉」・「宝剣」が『三種の神器』である。
その後、天照大神の孫である二ニギノミコトが、高天原から地上に降臨する際、
「この鏡は私の御霊として私を拝むのと同じように、敬ってお祭りしなさい」
天照大神は、そう言って剣、玉とともに授けた。
太陽が日本へ出ると拝まれる 岸本水府
二ニギノミコトのひ孫が、初代・神武天皇であり、
「三種の神器」は以降、代々の天皇が受け継ぎ、
現在も鏡は伊勢に、剣は熱田に、玉は皇居にある。
≪宮中の「神器」は記録によれば、
平安時代以来、何度も火災に遭って、原形を留めていないと言われているが、
実際にどういう形状になっているかは、誰も知らない≫
聖なるものは、世俗の者の目に触れてはならない。
触れた途端に、聖は俗に堕ちてしまう。
宮中三殿を内掌典が厳しく、「清」・「次」を分けて守っているように、
俗との交わりに厳しく、制限をかけた『聖域』を作ることによって、
神聖さは保たれる。
「豆辞典」
昭和天皇の新嘗祭
皇室祭祀は、天皇自らが「祭祀」を行う『大祭』と、
男性神職の掌天長(しょうてんちょう)が、祭祀を行い、
天皇が拝礼する『小祭』に大別される。
≪一年で最も重要な大祭は、「新嘗祭」(にいなめさい)(11月23日)で、
これは、「神嘉殿」という専用の祭殿で行われる≫
天皇陛下は大祭・小祭合わせて、年間30回前後の祭祀にお出ましになる。
天皇は、「国民の安寧をい祈る祭祀王」だから、
欧州でいえば、王室よりもローマ法王に近い。
そもそも、「神話に起源を持つ祭主がいる国」というのが珍しい。
天皇は国民と、対立関係にないから日本では、革命が起らないのである。
「新年参賀」
ボーイスカウトの子供たちから、日の丸の小旗を受け取り、
手荷物検査とボディチェックを受けた後、
島倉千代子の歌で知られた“ここがここが二重橋・・・”の二重橋を渡る。
≪本当は、我々が外から目にする、この橋は二重橋ではないらしい≫
皇居正門をくぐるともう一つの橋があり、じつはこれが「本当の二重橋」なのだ。
手入れされた木々を眺め、
いよいよ皇居の清浄な空気に触れつつ、
「長和殿」の前の東庭に向かって進んでいく。
そこにはすでに、すごい人々がひしめき合っている。
≪もともと、この一般参賀は、国民のほうが何も期待せずに始めたものであり、
昭和天皇が厚意で、お出ましになったのである≫
(それが今では例年一日7回にも及ぶ 但し天皇の体調により減らす事もある)
正 門
国民が、皇居の中に入れるようになったのは、
昭和20年の「皇居勤労奉仕」に起源がある。
GHQの占領が始まったこの年に、空襲で草が生い茂った皇居の、
「草刈をさせてほしい」
と宮内省に申し出た国民がいた。
62名の男女が自主的に上京してきて4日間奉仕したのが、
「皇居勤労奉仕」の最初である。
長 和 殿
いよいよ、長和殿のバルコニーの後ろの襖が開き、皇族の方々がお出ましになる。
皇后・妃殿下・女王のドレスの色彩の明るさ、華やかさ、品のよさが目に心地よい。
天皇皇后両陛下共に、体調が万全でないことが、
ニュースで伝わっていたので心配だったが、
いつものように、あの慈愛に満ちた笑顔で、手を振っておられる。
「万歳!万歳!」・・・
それは天皇が万年までも永く栄えることを願う言葉。
自分のためにする格好ではない。
≪注) 万歳は手のひらを前に向けて挙げてはならない。
降参になってしまうからだ、両の手を向き合うように挙げねばならない。
一般参賀は10分くらいで終了して、ぞろぞろと混雑した道を歩いていく≫
「ある意味一番縁起のいい新年を迎えられた」
と、ほとんどの人は満足気な表情・顔で帰途につく。
ことしはいいぞ大盃をぐっとほす 岸本水府
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