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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いつか来る別れと割箸は思う  杉浦多津子



                                    源平八島長門国赤間関合戦の図


「梶原景時の讒言癖」

景時頼朝の出会いは、石橋山敗戦直後のことである。
平氏軍に属していた景時は、敗れた頼朝が山中に身を潜めていることを
知りながら、平氏方の目を欺き窮地を救った。
以後、頼朝の側近となり、幕府草創の功労者である「上総広常の暗殺」
という汚れ役も進んで引き受けた。
行政官としても、優れた手腕を持っていた。
一方で景時には「讒言癖」がある。
「頼朝と義経が対立」する原因をつくったのも、景時の讒言である。


七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ


「義経と景時の大喧嘩」

屋島の戦いの直前、渡辺津を出航するにあたり義経は、戦奉行の景時
と軍議を開いた。このとき景時は、
「船の進退を自由にする逆櫓(さかろ)を付けましょう」と、
提案した。 それを聞いた義経は、
「戦う前から逃げ支度をするのか」
と、景時を小馬鹿にした苦笑を零し、さらに義経は
「そのようなものを付ければ、兵は退きたがり、不利になる」
と、にべもなくその意見を一蹴した。 景時は、
「進むのみを知って、退くことを知らぬは、猪武者である」
と言い放つと、義経は、
「初めから逃げ支度をして勝てるものか、私は、猪武者で結構である」
と言い返した。
お互いゆずらない丁々発止の喧嘩を始めた。否、「逆櫓論争」である。
この時、景時は義経に深く遺恨を持ち、のち頼朝へ讒言した。


ルート3覚えてからのひがみ癖  雨森茂樹
 


            源平八島合戦図

 
「鎌倉殿の13人」 平家最後の決戦・壇ノ浦


「義経ー6」 義経のやったこと


義経は一ノ谷攻撃のあと、屋島でも騎兵の集団運用を行い、疾風が木の
葉を巻き上げるように平家を海上に追いやった。
平家は、勝利しかない状況で、合戦の場を屋島~壇ノ浦に移した。
平家としては、もともと海の戦いを得意とする。
このため、少しでも有利な海戦に持ち込もうと、彦島を出て、一丁ほど
離れた波の癖を知る壇ノ浦に向かったのである。
 一方、源氏は、勝利を重ねるにつれ水軍も充実し、壇ノ浦開戦時には、
平家の想像を超える水軍力を有するまでになっていた。
だが平家は、元々、西国を拠点としており、海の戦いは慣れたもの。
勢いの源氏か、海を熟知する平氏か…の最終決戦となった。
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平家軍が彦島
を出撃して、午の刻(正午)に、壇ノ浦にて両軍の合戦が始まった。


片耳を残して船は出ていった  笠嶋恵美子


関門海峡は潮の流れの変化が激しく、これを熟知する知盛軍は早い潮の
流れに乗って、フルに矢を射かけて、海戦に慣れない義経軍を圧倒した。
やはり海上戦ということで、知盛軍有利に進み、満珠島・干珠島のあた
りにまで、義経軍を追いやっていく。
そして、勢いに乗った知盛軍は、義経を討ち取るところまで攻め寄せた。
ところが、戦の神はあらぬところを向く。
やがて潮の流れが、源氏有利に向きを変えたのである。
同時に、田口成良率いる水軍3百艘が平氏から源氏に寝返ったのである。


夜の海主語も述語もいりません  柴本ばっは


 
             「長門国赤間の浦にて源平大合戦平家亡びる図」歌川国芳


 
右・敗戦を伝える知盛、泣き崩れる女官


敗戦に敗戦を重ねる平家には、戦いを持続する兵力がない。
さらに対岸の九州地区には、源範頼の勢力範囲でもあり退路もない。
<もはやこれまで>と、知盛は、建礼門院二位尼らの乗る女船に乗り
移ると「見苦しいものを取り清め給え」と、みずから掃除をしてまわる。
口々に形勢を聞く女官達には、
「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑った。
これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を
腰にさし、神璽を抱えた安徳天皇が<どこへ連れてゆくの>という表情
で仰ぎ見れば、二位尼は、
「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、
ともに海に身を投じた…。
(『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳
 天皇を抱いて入水したとある。)
かくして元暦2年(1185)3月、長門国赤間の浦にて平家は滅びたの
である。


諦めという悲しみの置きどころ  伊達郁夫


 天才的な戦術を駆使して戦った義経は、ついに幼いころから夢見た平氏
打倒の悲願を達成した。
が、しかし、これは頼朝が望むところではなかった。
頼朝は朝廷から合戦に当たって、
「平家一門に奉じられて都落ちした安徳天皇と三種の神器を無事にとり
もどすこと」
を条件として申し入れられている。
が、結果はどうか。
安徳天皇は入水し、宝剣は行方知れず、取り戻したのは、
鏡と玉璽(ぎょくじ)のみ。
これでは頼朝としては素直に喜べない。


守れない約束もある今日の風  靏田寿子



     源義経


一方、義経とすれば、
「勝ちちゃいいんだろう。文句言うな。合戦の現場に立ってみろ。
 そんな器用な真似ができるかってんだ」
現場と首脳部の間にいつも起こりがちなトラブルである。
しかし、この戦の意義が何だったか、全体的な把握ができていれば、
義経はそんなことは言えなかったはずだ。
治承4年(1180)の頼朝による東国の旗揚げは、
これまで西国の支配に喘いできた彼らの独立運動のようなものである。


派手に砕けたのは豆腐かわたくしか  桑原伸吉


「永井路子さんの語る義経」

義経は東国育ちではない。
だから東国武士が肌で伝え、感得してきたこのヒエラルキー(三角形)
の組織への理解が不十分だった。
かれの悲劇はそこにある。
「木曽攻め、平家攻め」はいわば三角形の大移動だ。
このとき東国武士団は、歴史始まって以来ともいうべき大実験をやって
いる。というのは、
トップの頼朝は鎌倉を動かず、この三角形をリモートコントロールする
という方式だ。


糸が揺れて鳥になる魚になる  酒井かがり


はたして頼朝が動かずに、東国武士団という三角形は、崩れずにその姿
を保てるだろうか。
出陣にあたって、だから東国武士団は、これに備えた方式を編み出した。
すなわち、総大将は頼朝の「身代わり」である範頼義経
ただし、これはあくまでも、頼朝の身代わりをつとめる象徴的存在で、
独断専行を許さない。
その行動をチェックするのが「眼代」または「軍監」という存在で、
彼らは総元締めとして人々の行動を統括する。
部署の配置、出陣の順序を申し渡し、すべてを取り仕切り全軍がこれに
従う。
また、その戦闘の経過、功績の有無を記録し、頼朝に報告する。
これが後日の、恩賞の基本台帳になるから、あくまで客観的でなければ
ならない。


自分史を留める画鋲がみつからぬ  百々寿子



     梶原景時


功績は本人の申し出によるが、それには確実な保証(敵の首、味方の証
言など)が必要だ。もちろん失敗、落度も洩れなく報告する。
総大将も、この眼代に相談せずに陣を進めることは許されない。
今ならさしずめコンピューターの役である。
すべての情報を叩きこんで頼朝へ送るから、頼朝は誤りない指示を与え
ることができるのだ。
ミスター・コンピューターともいうべき役が、義経における梶原景時
範頼における土肥実平だったのである。
範頼は、よくコンピューターを使いこなした。
彼の分担した中国筋での戦は、苦しかったが、結局、大過なく務められ
たのは、土肥実平と相談して対処したお蔭である。


天使にも配分がある昼と夜  有田一央


義経はコンピューターと喧嘩してしまった。
思う通りの答えが引き出せないと、義経は
<こいつは役にたたない!><合戦にコンピューターなどいるものか>
と、どんどん戦をすすめてしまった。
また景時コンピューターは、意地が悪いほど正確で、
そうした義経の行状を逐一記録してしまったので、頼朝は
「義経は、俺にも相談なしに勝手なまねばかりしよる」
と怒ったのである。
確かに合戦は理詰めではいかない。勘が必要だ。
が、それは局地戦のことであって、総合戦略を考えるときは、
軍隊内の融和が必要であろう。 景時が、義経を評して、
「所詮この殿は、大将の器ではない」
と言ったのは、このことを指すのである。


右向けと言われ小首かしげとく  三村一子


さらに義経は重大なミスを犯しいている。
この合戦の終わらないうちに、彼は頼朝に無断で、朝廷から左衛門尉
検非違使(けびいし)という官職を貰ってしまったのだ。
後を追いかけて、従五位下に叙せられ、太夫尉と呼ばれるようになる。
大臣や納言という高級官僚ではないが、武士にとっては憧れの的、
頼朝を激怒させたのは、まさにこのことであった。
頼朝は東国武士の行状は、眼代(目代)に逐一報告させている。
後に公平に恩賞を与えるためだ。  だから頼朝は出陣に当たって
「恩賞は後でまとめて朝廷に申請する。抜け駆けで貰わないように」
といい含めている。 また朝廷にも、同じように
「個別に恩賞を与えないでくれ」と、申し入れている。
これは、頼朝の心が狭いからではない。
統一して恩賞を配分しないと、苦情や仲間割れが出るからだ。
そのことを義経は理解していなかった。


がっちゃんは自爆する音生きる音  合田瑠美子

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死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成



        「一之谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図」


「司馬遼太郎氏の義経ー2」

義経は一ノ谷でその卓抜な作戦構想を成功させて、俄かに名声を高めた。
昨日までは、全く無名だった頼朝の弟・義経なる人物が今日の京都では、
上は後白河、下は物売り娘までにももてはやされる。
まさにスター誕生だ。
無名の人間が一朝にして有名になるということは、
義経以前には、日本の社会にはなかった。
ちょっと古い喩えだが、美空ひばりでも、石原裕次郎でも、スターの誰
でもが味わうことを、日本の歴史の中では、義経が最初に経験した。
そのときに、「義経の自己崩壊」がはじまった。
自己崩壊とまで言うと、義経が可哀そうだけれども…、
法皇や関白に可愛がられ、都の人気者になってある程度いい気になる。


さて、三谷幸喜演出のドラマ・「鎌倉殿の13人」の義経は、今回は
メインではないから仕方がないとしても、やたら義経「戦争バカ」
ぶりを表面に出してくる。らしいらしいと言えば、三谷演出らしいが、
さてこの後、どうなりますことやら。
義経はそれを知らず、平家滅亡の後、義経の不幸がはじまる。
 
 
びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐12


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図①

駕籠の中には、源氏襲来から逃げる安徳天皇
左黒馬に熊谷次郎・白馬に平敦盛、中央黒馬には平教経


「義経ー5」 屋島の戦
 
 
義経は福原の西、搦手の一ノ谷から攻撃を仕掛けた。
このとき義経は、背後の崖から少数の騎馬で駆け下り、
平氏軍を混乱に陥れた。
このため義経人気は絶大となり、後白河も軍功に報いて検非違使(けび
いし)と左衛門尉の官職を与え、さらに従五位に叙し、昇殿を許した。
頼朝は配下の武士に、
「私の許可なく、朝廷から位階をもらってはならぬ」
と戒めていた。
義経はそれを無視したのだ。頼朝は怒った。


三度目も直球投げている愚直  津田照子


「司馬遼太郎の義経ー3」

一方、京に留まっていた義経は、後白河法皇に引き立てられ、
従五位下に昇り、昇殿を許され、いい気になっていました。
義経には、政治感覚がまるでない。
このあたりが義経の困ったところ。
兄の頼朝が鎌倉にいる。
頼朝の政権の基盤は、鎌倉の大小の地主たち、つまり関東武士である。
彼らは、その権益を守るために頼朝を擁して、京都の律令体制にチャレ
ンジしている。
しかし義経は、その律令体制の寵児となって兄の立場を理解していない。
知らず〳〵京都と鎌倉との抗争に巻き込まれていることに気がつかない。
頼朝にとっては、弟が体制側のとりこになり、そして大きな人気を得て
いるために、最大の敵となっていく…ことに苛立ち、腹立たしかった。


何事もなかったように窓明かり  荒井加寿


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図②
中央左上松の木の横に源義経が小さく描かれている。


「屋島の戦」

一ノ谷で敗れた平氏は、四国八島に後退するが、相変わらず瀬戸内海を
制していた。
そこで頼朝は、元暦2年(1185)正月、範頼を総大将に軍を九州豊
後へ遣わしたが、手痛い敗北を喫してしまう。
このため、頼朝は義経を頼らざるを得なくなる。
この時、義経は京で戦から離れ、法皇の近習を手伝っていた。
平家軍は、「今度は負けぬ」ということで、源氏と比較して水軍の力が
有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で、
源氏を迎え討つ態勢にあった。
平家は、あくまで得意な水軍の力を使い、海から進んでくる源氏軍を討
ち負かす作戦を立てていた。


蓮根の穴に恨みの練り辛子  くんじろう


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図③
女官に囲まれてご満悦の平宗盛


八島の戦いの指揮を任された義経は、悪天候の中も出陣を兵士に求めた。
梶原景時ら周囲の諸将は、「自滅でしかない」と反対をした。
船頭らも、暴風を恐れて出港を拒んでいる。
この時、景時は鎌倉へ手紙を送り
「義経が高慢で、諫言も聞かずに勝手に行動する。だから私の役目を免
じ鎌倉にもどしてほしい」
と、頼んでいる。
「勝機を手繰り寄せるにはこのときしかない。敵の意表を突くのだ」
義経は、ここでも「奇襲作戦」の考えを譲らない。
そして2月18日午前2時、摂津水軍などを味方につけて、暴風雨の中、
義経は、僅か5艘150騎で、屋島に向けて出陣を強行した。
午前6時、義経の船団は、通常3日の航路を4時間ほどで、
阿波国勝浦に到着した。


偶然の中のひとつと生きている  大野風柳



           一ノ谷・屋島合戦図    (狩野吉信)


勝浦に上陸した義経は、まず在地の武士近藤親家を味方につけた。
この時、屋島の平氏は、田口成直が3千騎を率いて、伊予の河野通信
伐へ向かっており、千騎程しか残っておらず、また阿波・讃岐などの港
に配分しており、屋島は手薄であると探索の兵が伝えてきた。
その情報を得て義経は、平氏方の豪族桜庭良遠の舘を襲って打ち破り、
そのまま徹夜で進撃し、2月19日には、屋島の対岸に立った。
孤島である屋島は、干潮時には騎馬で島へ渡れる。
それを知った義経は、強襲を決意した。
寡兵であることを悟られないために、周辺の民家に火をかけて、
大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へ攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍の兵は狼狽し、
内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦へと逃げ出す者が出た。
戦が優勢に進んだ中で、義経が唯一悔やんだのは、奥羽平泉からともに
戦って来た郎党の佐藤継信が義経の盾となり、平氏随一の剛勇平教経に
射られて討ち死にしたことであった。


僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ
 
 
 
   「平家物語」エピソードゟ 源義経弓流し

海へ落とした弓を武士の誇りを掛けて拾い上げる源義経。
平氏は義経の負けん気をはやしたてた。


「遊びの時間」

休戦状態の夕刻、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、「竿の先の扇の
的を射よ」と、義経の負けん気にけしかけるように挑発してきた。
断れば嘲笑を浴びる、外せば源氏の名折れになる。
どちらをとっても源氏側に損だが、義経の性格を刺激してきたのだった。
それに応じた義経は、手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、
重忠は辞退し、代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。
与一はやむなくこれを引き受けた。


 種無しぶどうの種から来たオファー  中村幸彦


「平家物語」エピソードゟ 『扇の的』那須与一

二月十八日、戦も休戦状態の午後六時頃のことであったが、折から北風が
激しく吹いて、岸を打つ波も高かった。
舟は、揺り上げられ揺り落とされ上下に漂っているので、竿頭(かんとう)
の扇もそれにつれて揺れ動き、しばらくも静止していない。
沖には、平家が、海上一面に舟を並べて見物している。
陸では、源氏が、馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
どちらを見ても、まことに晴れがましい情景である。


活断層の裂けた音また耳に  靏田寿子



    「屋島合戦、那須与一扇の的の図」


那須与一は目を閉じて、
 「南無八幡大菩薩、我が故郷の神々の、日光の権現、宇都宮大明神、那須
の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。
これを射損じれば、弓を折り腹をかき切って、再び、人にまみえる心はあり
ませぬ。いま一度、本国へ帰そうとおぼしめされるならば、この矢を外させ
たもうな」
と念じながら、目をかっと見開いて見ると、うれしや風も少し収まり、
的の扇も静まって射やすくなっていた。


入口は三つ出口はありません  米山明日歌


那須与一は、鏑矢(かぶらゆみ)を取ってつがえ、十分に引き絞って、
ひょうと放った。 小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で、弓は強い。
鏑矢は、浦一帯に鳴り響くほど長いうなりを立てて、あやまたず扇の要から
一寸ほど離れた所をひいてふっと射切った。
鏑矢は飛んで海へ落ち、扇は空へと舞い上がった。
しばしの間、空に舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと
散り落ちた。
夕日に輝く白い波の上に、金の日輪を描いた真っ赤な扇が漂って、浮きつ沈
みつ揺れているのを、沖では平家が、舟端をたたいて感嘆し、陸では源氏が、
箙(えびら)をたたいてはやし立てた。
※ えびら=矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。


マメの木を登り切ったら黄泉のくに 丸山威青

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豚のしあわせ 豚が考える  河村啓子
 


 一ノ谷源平大合戦図 (一寿斎廿万員図)

右上・黒太夫に跨る義経、左横に武蔵坊弁慶
白馬に跨る川越太郎重頼、弁慶横に亀井六郎


平家の大軍が、「富士川の水鳥」におどろいて退却した翌日、
奥州から源九郎義経がやってきた。
無名の若者だった。
以後、三年余り、義経は、記録の重要な箇所に名を出さず、寿永三年
(1184)になって、木曽義仲を討滅する戦勝軍の次将として、
はじめて世に名が現れた。
 時に平氏は、瀬戸内海をおさえ、京を回復すべく、福原に大軍を集中
していた。 平家の陣地は、こんにちの神戸市の市街地である。
山々が海岸にせまり、せまい浜が東西にのびている。
野戦陣地の大手門は、東端の生田の森で、ここに城戸を築き、各地に堀
を穿ち、逆茂木を植え、櫓をあげていた。
搦手の城戸は、西端の「一ノ谷」であった。
海上には、補助兵力として多くの軍船がうかんでいた。
 源氏の大軍は、京にいた。
義経は、庶兄の範頼とともに頼朝の代官になっている。
主将の範頼は、本軍を率い、大手攻めを担当することになった。
義経は、別動隊を率いた。
かれは搦手の一ノ谷に対し、遠く丹波路を迂回した。
それも一夜で駆けた。


この隙間猫が教えてくれました  佐藤正昭


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐11
 
 

    義経馬つなぎ松

ここにあった古松はかつて「義経馬つなぎ松」呼び伝えられた。
1184年2月6日晩、福原に集まった平家10万の軍勢を攻めるため、
「義経の軍勢70騎がここに集まり、合戦の相談をした処」
高尾山山頂より見下ろすと、和田岬の周辺には、総大将宗盛と安徳天皇を
守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
と、立て看板に書かれている。


「義経ー4  決死のマウンテン・ダイビング
 
 
「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできない」
と、義経は滔々と「名こそ惜しけれ」の倫理観を論じたあと、
腰の太刀を抜き、切っ先で蒼天を貫き、皆を睥睨する。
「お主たちは 如何に」
言って切っ先は、崖下に向ける。
「この下におる者どもは、天から敵が降ってくるとは思いもよらぬ。
 都より下ってくる敵は大手ににて阻む
のが常道。
 逆にに搦手敵が現れたことに焦り、挟撃に
耐えんと懸命に戦っておる。
 良いか。挟撃が、こちらの
策であると信じておるのだ」


聴く耳と聞き流す耳オンとオフ  松 風子


何故このような簡単なことがわからないのか。
いや分かっているのだ。 分かっているが、誰もやらない。
馬鹿げている。 出来はしない。
そんな言い訳で己を誤魔化し、見て見ぬふりをしているのだ。
「天から降ってくる者を防ぐような余裕は、今の敵にはない。
 崖を生きて降りさえすれば、武功はほしいままぞ。
 それを諦め、実平の後塵を拝すと申すのであれば、それは最早、
 武士にあらず。頭を丸めて寺に籠り、経でも読んでおれ」


サムライかカボチャか叩いたらわかる  新家完司





「えぇぇぇいっ!」 弁慶が石突で地を打った。
白布の下のざらついた眼が、主を睨んで離さない。
「ここまで言われて尻込みしておっては、五条大橋の鬼といわれた武蔵
 坊弁慶の名が廃る」
 荒法師を冷然と見据え、義経は、口角を吊り上げる。
「口でならば 何とでも申せよう」
弁慶の目に殺気が宿った。
「一度走り出したら止まりませぬぞ」
「それで良い」
前のめりになる栗毛の尻を薙刀の柄で強かに叩き、弁慶が崖から躍り出
た。雄叫びが崖の下へと吸い込まれてゆく中、義経は皆に向って吠える。
「良いか!生きて崖を降りた者は、敵を屠ることのみに集中せよ!
 それ以外に何も考えるなっ!」
叫び終えると同時に義経は愛馬・黒太夫の腹を蹴って弁慶の後を追った。


骨壺を入れる隙間は空けてある  くんじろう


上下左右乱暴に揺れる鞍にまたがり崖を下る。
目前に見える弁慶の馬が、左右に体を振りながら、
ずるずると、岩場を滑り落ちて行く。
頭上から喚声が聞こえてきた。
義経の近習たちが次々と崖を降ってくる。
その後を追うように、鎌倉の男たちも、馬とともに崖に踏み出していた。
「行けるっ! 儂は行けるぞぉぉぉっ!」
みずからに言い聞かせるように、弁慶が叫ぶ。
その脇を空の鞍を乗せた馬が転がり落ちて行く。
すぐその後を、馬から放りだされた男が落ちてきた。
崖を転がり落ちて行く者を、義経は見てなどいない。
無数にたなびく深紅の旗を睨みつけて、馬を駆る。


方向音痴のあとから付いてゆく  下谷憲子


 
      一ノ谷大合戦の図 (落合芳幾画)

 左白馬に跨る弁慶と六郎の前を黒大夫が一ノ谷を駆け下りる。
目の前に平家一門の旗が見えている。

ぐいぐいと旗が近づいてくる。
心の臓が、胸の骨を突き破って飛び出しそうになっている。
目は涙で霞み、鼻水が頬をぬらす。
もう少し、あと少し。
手綱から右手を放し、鞘に戻していた太刀の柄に手をやった。
「どおぉっう!」
気迫の声とともに弁慶が崖を降り終えた。
義経も続く。 眼前には怯えるような敵の顔。平家の強者どもだ。
右に左にと刃を揮い、「何が起こっているのか…」分かっていない敵を
屠ってゆく。
「武蔵坊弁慶の刃にかかって、死にたき者はかかって参れ」
崖を下る恐怖を乗り越えた弁慶の目が、長い付き合いである義経すら見
たことがないほど、紅く染まっている。
鬼と化した悪僧の頭には、戦の理などありはしない。
手あたり次第、目につく敵を薙ぎ倒してゆく。


何人も殺してしまう無表情  中田 尚


律儀に名乗りを挙げて、弓を構えようとしていた平家の侍が、
義経の目の前で、数人の男たちに囲まれて切り刻まれた。
みずからの決意の元に死地を乗り越えた義経たちにとって、
福原の奥深くに陣取っているような者など敵ではなかった。
勇敢にかかってくる者など皆無。
敵は哀れなほど無様に暴挙の刃の餌食となって、醜く屍を晒してゆく。
「聞けぇいっ! 我こそは源義朝が九郎ー源九郎義経なり!」
逃げ惑う敵に向って叫んだ。
 
 
シーソーが下がって最後の侵犯  加納美津子


 
       戦 の 浜

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、
毎年2月7日の夜明けには、松風と波音のなかに
軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられる。


 
この日、大手と搦手双方で膠着状態にあった戦況は、義経の天からの
奇襲によって激変。 一気に形勢は源家に傾いた。 平家の武者達は、
「若しや助かると、前なる海へぞ多く走り入りける。渚には、助け船共
いくらも有りけれども、船一艘には、鎧ひたる者どもが、4,5百人・
1千人許り込み乗つたるに、渚より三町許り漕ぎ出でて、目の前にて大
船三艘沈みにけり。 その後は好き武者をば乗するとも、雑人ばらをば乗
すべからずとて、太刀・長刀にて打払ひけり。
かくする事とは知りながら、敵に逢ひては死なずして、乗せじとする舟
に取り付き掴み付き、或は臂打斬られ、或は肘打落されて、一谷の汀朱
に成つてぞ列み臥したる」 (『八坂本』)

 平家一門では、越前三位通盛、薩摩守忠度、若狭守経俊、武蔵守知章
、太夫敦盛、蔵人太夫業盛、らが討死。
惣領・平宗盛の弟である。重衡は生け捕られた。
しかし、平家の惣領・平宗盛、そして清盛の妻二位尼、母の建礼門院
に抱かれた安徳帝、「三種の神器」とともに屋島に逃れた。


去ってゆく男に持たす正露丸    平井美智子


【知恵袋】

『吾妻鏡』によれば、
「九郎義経は、勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越)に到着」
(この山は猪、鹿、兎、狐の外は、通れぬ険阻である)
「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率い、鵯越において攻防の
 間に、平氏は、商量を失い敗走、或いは、一ノ谷の舘を馬で出ようと
 策し、或いは、船で四国の地へ向かおうとした」と、ある。


   
   源範頼             源義経


『玉葉』 
九条兼実の日記)によれば、
「搦手の義経が、丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。
 大手の範頼は、浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手
 (夢野口)を落とした」と、ある。
ここには、義経「一ノ谷の逆落し」の奇襲に関しての記述はない。


未確認飛行物体から軍手  森田律子

拍手[6回]

「御意」という返事以外はありえない  居谷真理子



         義経之軍兵一ノ谷逆落し之図  (一恵斎芳幾 画)
中央上、黒太夫と義経、熊井太郎 下、武蔵坊弁慶


  司馬遼太郎さんに訊きました「義経の一ノ谷・逆落とし」


司馬遼太郎さんは『源義経』について、
「義経は日本史上ただ一人の、若しくは、世界史上数人しかいない騎兵
 の運用者だった」という。
「騎兵というものは、集団的に使うと、非常に強い力を発揮する。
そして、その機動性を生かすと、思わぬ作戦を立てることができる。
反面、騎兵はガラスのようにもろくて、いったん敵にぶつかると、
すぐ全滅したりもする。
ですから、この機動性を生かして、はるか遠方
の敵に奇襲をかけようと
いう場合には、よほどの戦略構想と、チャンス
を見抜く目を持たなけれ
ばならない。
天才だけが騎兵を運用できるわけです」


だとしても捨てられません理想論  津田照子


「騎兵を運用して成功した例は、フレデリック大王の一、二の例と、
ナポレオンとプロシャ有名なブレドー旅団の襲撃などで、全部近世以降
に属したもので、それをはるか昔の平安時代の末期に、義経が考案し成
功している。これは先例がない。
日本の歴史の上でも、義経以降、日露戦争の場合などを含めて、うまく
いった例は少ない。わずかに織田信長の「桶狭間」だけである。
すると、義経という人はたいへんな天才だということにことになる。
私は義経を考える上において『天才というのは、やはりいるもんだな』
と感じたのです」
 
 
百済観音の猫背へ那智の滝  井上一筒
 
 
「それではなぜ、義経がそういうことを思いついたのか?」
義経が考案した戦法は、その騎馬武者たちを集団として使って、
敵に衝撃を与える。
あるいは騎兵の脚の速さを生かして、敵の思わぬところに出現する。
彼はそういうことを思いついた。
では当時、まだ20歳そこそこの義経が、なぜ、こんな戦法を思いつい
たの? である」
 
 
気がつけばまさかが横に座ってる  佐藤正昭



         モンゴル兵の騎射


義経は20歳過ぎまで奥州にいました。その奥州の牧場で、たとえば
一頭の馬が走り出すと、たくさんの馬がそれについて、目的なしで走り
出す。馬には、すぐマスになる習性がある、ことを知ります。
それを見ていて、彼は利用しようと考えたのか、あるいは、奥州という
ところには、沿海洲から異民族が沢山来ているはずで、藤原氏との接触
もあったにちがいない。そこで満州・蒙古の騎馬民族の人たちが、
「馬」の話をするのを、義経が聞いていたとも考えられます」
たとえば、13世紀のチンギス・ハーンのモンゴル兵は、
誰でもが20頭ほどの替え馬を持ち、乗り換え乗り換えて遠征する。
馬の疲労と習性を考えてのことである。
義経は、馬というものについても、見るもの聞くこと、すべてが教科書
になったようだ。


出来不出来答えを聞かず陽は沈む  梶原邦夫


先にも述べたが、馬は、一頭が駈けだせば、数百頭がこれを追うという
習性を持っている。奥州にいた義経が、奥州の牧場で、そういう情景を
みて独創的に思いついたのだろう。
義経の軽騎兵団は、一ノ谷の上に立って、<急斜面から逆落としに平家
軍の頭上に舞い降りる>という構想だ。
義経は、まず一頭の馬に崖を駆け下りさせることを考えた…。
「奇想天外より落つ」というべきものであったろう。
この1184年は、若い義経によって戦いが「作戦」になった歴史的な
年だった。


この辺に落ちてきましたか流れ星  酒井かがり
 


  黒大夫決死の一ノ谷の逆落としの図
 

「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐10


「義経ー3 一ノ谷逆落とし」


「あり得ぬ…」
背後で呟いた郎党の声が震えていた。
声の主を見咎めもせず、源九郎義経は眼下を眺めている。
己が体を預ける愛馬・太夫黒が、先刻から幾度も足踏みしていた。
前へ進むのを嫌がるように首を左右に振りながら、鞍にまたがる義経に
瞳で哀願している。
「やめようよ 旦那、死んじまうよ」
これ以上、一歩も前に出たくない、と潤んだ目が訴えている。


腐れ縁ほど美しいものはない  瀬川瑞紀


この辺りは「鵯越」(ひよどりごえ)と呼ばれているという。
人の往来などなく、足を踏み入れるのは猟師杣人(そまひと)のみ。
ここまで義経たちを案内してきたのも地元の猟師である。
そんな男ですら、この崖を降りたことはないという。
「死ぬ!」まさにこれである。
剣を交えて死ぬのではない。
崖下りに失敗をして、命を落とそうとしているのである。
「九郎さま、お考えを改められた方がよろしいのでは、ござりますまい
 か」
傍らに寄ってきた僧形の大男が言った。
武蔵坊弁慶である。


蓮だってたまに反抗して開く  山本昌乃


長大な薙刀を弓手に持った弁慶は、己とさほど変わらぬ馬にまたがって
いた。余りにも重い主を乗せた栗毛の馬が、首を下げてうなだれている。
これまでの急峻な山道を、弁慶を乗せて登ってきたことを、褒めてもら
いたそうに義経は見えた。 が、褒めてやるにはまだ早い。
この哀れな馬には、これからまだやるべきことが残っている。
「実際ここまで来てお解りになられたでしょう。
 このような崖を、馬で降りるなど、到底成し得ませぬ」
現地に立てば諦めるはず、はじめから弁慶は、そういう魂胆だったのだ
ろう。うまで崖を降りるなどとというバカげたことを言いだした主は、
実際に、己が目で見なければあきらめない。
そう思って、ここまで文句ひとつ言わずに付いてきたのだ。


いざというときの梯子が短かすぎ  笠嶋恵美子
 

 
義経の突飛な考えに不安が隠せない兵士たち

一番手前が畠山重忠。但し重忠は一ノ谷には来ていない。


弁慶だけではない。

「義経という人は、気がおかしいのじゃないか」
馬さえも、ここにいる誰もがそう思っているのだ。
近習である弁慶からして、主を説き伏せるような扱いをしているのだか
ら、兄からの借り物である坂東の兵たちは、言わずもがなである。
鎌倉にいる兄、源頼朝の力がなければ、何もできない非力な若者。
その程度にしか、義経は思われていない。
自分の存在感を示す絶好の機会がやってきた…。
義経は大半の兵を、関東御家人の有力者、土肥実平にあずけてしまう。


びっくり箱から取り出す出来心  雨森茂樹


寿永3年(1184)2月7日。三草山の勝利の後。
清盛の三周忌の法要に集っている平氏一門を殲滅するための戦であった。
義経の兄・範頼が率いる5万6千騎の源氏本隊は、西国街道を西に進ん
で福原の東、大手を攻める。
別動隊を任された義経は、2万騎を丹波路を西行、福原の北方の山々を
越えて西に回り、一ノ谷に入って搦手を攻める。
7万をはるかに超す大軍で、東西から挟み撃ちにして、平家の本拠地で
ある福原を攻め落とす。
それが今回の戦の主眼であった。
しかし、搦手には義経はいない。
聞こえてくる兵たちの声は、土肥実平に預けた者たちのものである。


同床異夢あなたの時を刻まない  原 洋志


 ーーーーー
     土肥実平                阿南健治


今回の戦は、義経にとって二度目の戦であった。
我が世の春を謳歌していた平家一門を都より追い払った朝日将軍・義仲
を討伐するための初陣だった。
この戦で義経は、義仲を破るという大功をあげた。
初陣としてはこれ以上ない武功である。
それなのに…。
関東の御家人たちは、義経を一人前の武士とは認めなかった。
所領も持たず、己が手勢を動員することもできない。
率いているのは、兄・頼朝から借り受けた兵のみ、そんな義経を、年寄
たちは認めなかった。
今回の戦で、搦手の大将となれたのも、兄の威光があってこそ。
本来の指揮は、目付である土肥実平が取ると誰もが思っている。


運命線ザクロの赤と戯れる  舟木しげ子


眼下に見える福原の地では、すでに戦が始まっていた。
事前の約束通り、兄・範頼の率いる5万6千の兵が大手から福原に攻め
寄せ、搦手の実平もすでに福原に迫っている。
東西から聞こえる喚声は、戦いの激しさを物語っていた。
男たちの雄叫びが、崖を上ってくる風に乗って運ばれてくる。
それを耳にした男たちが、焦りを露わにして義経の背を睨みつけていた。
「一刻も早う引き返し、土肥殿と合流いたしましょうぞ」
白い頭巾で頭を覆った弁慶が、薙刀を振った。
肩越しに近習を見る。
剥き出しの刀身が陽の光を受けて白色に輝いていた。
今すぐにでも山を駆け下り、敵の血を吸いたくてたまらない。
そう義経に訴えかけているようだった。
「待て!すぐに吸わせてやる」
「はっ……?」
主の的外れな言葉に、弁慶が小首を傾げる。


ガリガリと音はするけど見つからず  喜多川やとみ
 


     義経の愛馬・黒太夫
 
藤原秀衡が自身の愛馬を義経の出陣の際に贈った名馬。
「一の谷の合戦」の鵯越えで活躍したことでも知られる。
もともとは、藤原秀衡の愛馬で、淡墨という名前だったが、
義経とともに連戦し、義経が功により五位之尉に任官した時に、
馬にも仮に五位の位を与え、太夫黒と呼ばれるようになった。
 
 
義経はあらぬ方向をみると、人の気持ちを斟酌することなど、考えない。
己を信ずるのみである。
「ここから降りたことはないのか」
義経は、愛馬の足元に片膝立ちで侍る髭ずらの男に問うた。
「先刻もお答えした通り死にまするゆえ、獣でもなければ、このような
 場所を降りようなどと思いますまい」
ここまで道先案内をしてきた猟師である。
猟師と義経の間で、是非の問答が繰り返される。
「獣は降りるか」
「御覧になられたでありましょう。先刻、鹿が降りてゆきました」
いきなり現れた義経たちに驚いて、雄鹿が2匹、雌鹿が一匹、崖を滑り
落ちて、麓の敵兵の只中に躍り出た。
「生きて敵中を駆けておったぞ」
雄は2頭とも敵に射られて死んだが、雌鹿は敵中を駆け抜けて消えた。
「獣にござりますゆえ」
「馬も我らも獣ぞ」
猟師は言葉を失った。


口角の泡が主張を譲らない  武下幸子


背後で兵士が、信じられない面持ちで、2人の会話を聞き、義経を見据
えている。兵士の震える気を感じた義経は、
「お主たちは、何を恐れておるのだ」
答えは返ってこない。
義経は続ける。
「死することか。だとすれば、武士であることを止めろ。
 ここは戦場ぞ。敵の矢を受け、死ぬることを恐れておっては戦うこと
 もままなるまい。そのような者は、今すぐここを立ち去れ」
「九郎さま、敵の矢を受けて死ぬるのと崖を飛び降りて死するのは…」
「違わぬ!」
弁慶の言葉を断ち切り、義経は断言した。


弱音吐く男に手荒い活入れる  藤原邦栄


その間も、研ぎ澄まされた視線は、恐れおののく男たちに向けたままで
ある。
「死中に活を得てこそ武功は成る。崖を落ちて死するような者は、
 敵中にあっても、誰が射たかも知れぬ矢に当たって死するは必定。
 恐れておる者に、真の武功など得られはせぬ」
腰の太刀を抜き、切っ先で蒼天を貫く。
「我は死など恐れぬ。功なく名を成すことなく朽ち果てることを恐れる」
義経は檄をとばし、皆を睥睨し、切っ先を崖下に向ける。
                          (矢野隆ゟ)  
                       つづく

二枚目の舌にピラニア住みついた  斉藤和子

拍手[5回]

半分こあなたと同じ汗のいろ  津田照子


 
                                 歌川国綱 作「鞍馬山武術之図」


源義朝西乃門院清盛の継母池禅尼また人情家の重盛の助命嘆願
により伊豆へ配流になった。
では生まれたばかりの義経はどうなったか。

母の常盤御前は、7歳の今若、5歳の乙若、そして当時は牛若と呼ばれ
ていた乳飲み子の義経を連れて、奈良へと落ち延びた。
その後、今若と乙若は出家、京に戻った常盤は、公家の一条長成と再婚。
幼かった義経は常盤と一緒に住んでいたが、11歳で鞍馬寺に預けられ
ることになった。鞍馬寺は修験の寺で、山伏の修行場でもある。
義経は、この地で体を鍛え、学び、戦の天才となるための素地を作った。
この後、義経は16歳で鞍馬を出奔。一条長成の縁戚にあたる奥州平泉
藤原基成秀衡の舅)を頼ることになる。
そして、奥州で暮らした6年の間に、騎馬での戦い方をも学んだ。


自粛中こころにうんと種をまく  ふじのひろし
 
 
「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑨


「義経ー2」


—頼朝立つ― の知らせは、たちまち全国に知れわたり、平氏に不満を
抱く武士たちが、次々と集まった。 その数20万。
そのころ「平治の乱」で敗れた義朝の子・義経は、奥州藤原氏のもとに、
身を預けていた。義経16歳だった。
義経を庇護した奥州藤原氏は、平泉を拠点に、東北一隊に絶大な権勢を
誇る豪族だった。
そもそも当主・藤原秀衡が義経を庇護したことには訳があった。
平氏と源氏双方と距離を保とうとした秀衡は、義経を奥州独立の切り札
と考えていたのである。
その4年後、「挙兵した兄・頼朝とともに戦いたい」という義経に、自
分の家臣である佐藤継信・忠信の兄弟を同行させている。
そこに源平の戦の行方を偵察させようとする狙いがあった、推測がたつ。


満月も刺股状になる妬心  山本早苗
 

ーーーーーー
    藤原秀衡                 田中泯
 

そもそも関東に武士団が生れたのは、一つは、奥州との関りが深い。
中国の歴史において、外敵と対峙する際に辺境に兵が置かれた。
彼らはその地で自活しながら、いざというときには、外敵と戦う役目を
負っていた。奥州に対する関東の武士たちは、まさにそれにあたる。
要するに、関東の武士団にとって奥州は、仮想敵国なのである。
実際、翌年の養和元年(1181)8月には、朝廷は、藤原秀衡頼朝
を追討するように命じている。
「その奥州を背景にした義経が、関東武士団をあの手この手で束ねよう」
と努めている頼朝のもとに来た、ということになる。


人波に紛れる術を知っている  中野六助


「富士川の戦」に勝利した翌日、黄瀬川で頼朝は、義経と初対面を交わ
したとき、義経の傍らにいた佐藤兄弟をみて、俄かに疑いの念を抱いた。
<弟・義経はなぜ、藤原秀衡の家臣を従えて来たのか…、義経は秀衡と
通じているのではないか…> なのである。
この時、頼朝は奥州藤原氏に強い警戒心を抱いていた。
平氏を敵に回しているときに、背後から攻められれば、挟み撃ちに合う
可能性があったのである。
頼朝の藤原氏に対する敵愾心は、つぎのことでもよく分かる。


るつぼにも二枚三枚舌がある  森乃 鈴



「八臂弁財天」(はっぴべんざいてん)
(右手に宝剣・宝鈎・長杵・宝箭、左手に宝珠・宝戟・輪宝・宝弓を持つ)


鎌倉に幕府をおいた年、頼朝は江島神社に八臂辨財天 を奉納している。
その目的は、奥州の「藤原秀衡調伏祈願」のためであった。
像は文覚上人に命じて造らせ、二十一日間祈願させた。『吾妻鏡』
「調伏祈願」とは、頼朝の場合、呪いの祈祷である。
頼朝は、そこまで恐れた奥州藤原氏と、義経が、手を結んでいるのでは
ないかと疑ったのである。
血を分けた兄弟とはいえ、22年ぶりに初めてあった弟が、自分を庇護
してくれた秀衡に恩義を感じていても不思議はない。
ご時勢、父子兄弟の諍いはいくらでもあるのだ、頼朝は義経に全幅の信
頼を寄せることはできなかった。


神棚に神の衣の切れっぱし  くんじろう


その時抱いた頼朝の怒りを、次のような形で義経にぶつけている。
鶴岡八幡宮の上棟式の日に、居並ぶ家臣たちの前で、頼朝義経
「工匠に与える馬を曳くよう」命じた。
それは本来、身分の低い者のする仕事だった。
義経にとって、屈辱的な命令だった。 『吾妻鏡』
義経は、今でいえば、勉強はそっちのけで、野球のことにしか能がない
野球馬鹿なのである。政治には無頓着だから、
<兄上はなぜ、源氏の血を分けたこの義経に恥をかかせるのか>
になってしまうのである。
ただただ、兄の信頼を得たい義経は、屈辱に耐えて大工の馬を引いた。
そして、兄とともに「源氏再興の夢」を果たしたいという一心で、
義経は、平氏との戦いに向っていくかに見えるのである。


虐待と漢字で書ける辞書なしで  雨森茂樹


「義経、表舞台へ登場年表」
治承5年(1181)
2月・義時、頼朝近侍の11人に選ばれる。
3月、清盛死去。
12月・南都焼討 。
寿永元年(1182)
2月・伊東祐親自刃。
   父・時政、伊豆へ引き上げる。義時は鎌倉に残る。 
7月・鶴岡若宮ー社殿上棟式にて「大工の曳き馬事件」
8月・頼朝・政子の長男・頼家誕生。
11月・政子、頼朝の妾・亀ノ前を匿う小坪の邸を破壊する。
寿永2年(1183)
6月・倶利伽羅峠の戦。
8月・平氏都落ち。木曽義仲入京
10月・「寿永二年十月宣旨」
元暦元年(1184)
1月、宇治川の戦い 。(これより義経の進撃はじまる)
   そして、一ノ谷・八島壇ノ浦の戦へと続く。


カレンダーに印ついてる何だっけ  下谷憲子


 
                          左に巴御前 右に木曽義仲


「逃げる平家 逃げない巴御前」

頼朝は、富士川から逃げる平家を追撃せず、後ろの奥羽の藤原を警戒す
るように、軍団の強化に専念した。
富士川の結果を知った信州の木曽の義仲は、「ここぞ」とばかりに信州
から挙兵した。
これを受けて平家は、維盛を総大将に10万の大軍を派遣。
両者は、「越中倶利伽羅峠」で相まみえることになったが、
義仲は5百頭の牛を山頂に並べ、角に松明をくくりつけて点火し、
山腹の平家軍の幕舎目掛けて放すという奇策に出た。
この奇襲に魂消た平家の兵士は、逃げて、逃げて谷底へ、次々と転落し、
義仲は大勝利をものにした。


討つ位置で奇跡を呼んだ句読点  高浜広川


「倶利伽羅峠の戦い」に勝ち、上洛の夢を果たした木曽義仲軍だったが、
時を得ず、皇位継承を巡って、後白河法皇と対立し、統制がとれていな
い義仲軍は、京で乱暴狼藉を繰り返した。
法住寺殿に火をかけ、法皇・天皇を幽閉し、院の近臣らを殺して、自ら
征夷大将軍となり、独裁体制を敷いたのだ。
このとき清盛死後の棟梁となっていた平宗盛は、規律のない粗暴な義仲
の軍勢から避難を考え、とりあえず「逃げる」ことにした。
これが有名な清盛後の、何とも頼りない「平氏の都落ち」である。


火の粉など被らぬところから吠える  松浦英夫
 

 ーーーーーー
      巴御前                 秋元才加

「いじめに近い、宇治川の戦」

義仲上洛から3ヶ月、後白河法皇の要請を受けた頼朝は、「義仲追討」
範頼、・義経を差し向けた。「宇治川の決戦」である。
『平家物語』によれば、
宇治川に両軍が対峙しとき、その数は、範頼、義経軍2万騎、対する
義仲軍は2百騎ほど。ほぼ義仲に勝ち目はなく、近江の粟津まで逃れ
たとき、従う者はわずか4騎となっていた。
この4騎の中に義仲の愛妾・巴御前も含まれる。


さくらさくらさくらは平仮名が似合う  雨森茂樹


義仲は、戦場に連れてきていた愛人の巴御前に向い、
「お前は女だから、早くどこへなりと行け。わしは討死を覚悟している
が、万一人手にかかったら、その時は自害する。最後の戦に女連れなど
といわれたくない」と声をかけた。
巴は1,8㍍近い大女で大剛力。剛力を除けば、ミスユニバースクラス
の美貌の持ち主で、長い黒髪に、色白な顔が美しく映える巴は、
しばらく無言でいたが、やがて、
「最後の戦を、お目にかけよう」と、いうと追撃してきた30騎ばかり
の武者のなかに駈け入り、大力で知られた武蔵の恩田八郎師重に組み付
いた。
巴は、八郎の体を引き寄せて、自分の鞍の前輪におしつけ、身動きもさ
せないままに八郎の脛をねじ切ると、着ていた具足を脱ぎ捨て、東国を
めざして落ちて行った。


君のため君のためってそればかり  高野末次
 

ーーーーーー
     木曽義仲                青木崇高.
 
義仲が討死をとげたのはその直後だった。
義仲は腹心の今井兼平のすすめに従い、自害の地と定めた松原へ向かっ
たが、途中馬が深田に足をとられ、身動きできなくなった。
兼平の姿を求めてふり向いた瞬間、義仲の兜の真向を矢が貫いた。


観音の指から私までの距離  斉藤和子

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