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川柳的逍遥 人の世の一家言
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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




   東大寺四天王ー広目天・多聞天・増長天・持国天
仏教に由来する東西南北の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天
「徳川四天王」は、本家四天王から総称を引用されたものである。



「徳川四天王」
本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は、1590年(天正18)の徳川
氏の関東移封から、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いまでの時代に
徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となっ
て活躍し、幕府の基礎固めに功績があり、又1586年(天正14)9月
に、徳川家康の名代として上洛した上記の3名を、上方の武将たちが、
「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。(『榊原家譜』
その後、本多・榊原・井伊の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していず
れも叙位され、これに徳川家最古参の家臣である酒井忠次を加えた4名
「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになった。


それはもういい人でした知らんけど  加藤田君子



家康ー徳川四天王ー井伊直政・酒井忠次



ーー
   井伊兵部少輔直政         直政-板垣李光人




「徳川の赤鬼・井伊直政」
永禄4年(1561)ー慶長7年(1602) 
裏切り、寝返りが、当たり前に行われていた戦国時代に、鉄の団結力を
誇ったのが徳川武士団である。
直政は、今川氏の家臣だった直親の子である。
直親が、家康信長に内通した嫌疑をかけられて殺されたとき、直政は
2歳だった。今川氏政は直政も殺そうとしたが、助命を願う者が現れ、
以後家康に取り立てられるまで、寺から寺への流浪の生活を送っている。
そして天正3年 (1575)、浜松城下で家康に謁見。
自身も今川の人質となり、8歳で父を暗殺された家康に親近感をもたれ
たのか、直政は家康に小姓として仕えることとなる。
このとき直政15歳。その翌年には、遠江・武田勝頼勢を相手に初陣を
果たすなど、「新参の譜代にも拘らず、屈指の忠臣ぶり」と、勇猛さが
評価され、のちに「徳川四天王」の1人に数えられる出世を遂げた。


すごーく泣いて湖ができた朝  福尾圭司

その後は、本多忠勝・榊原康政らとともに旗本先手役(常備軍の部隊長)
に任じられ、常に最前線に立って躍動した。
同10年の天正「壬午の乱」の後、武田の遺臣の処遇が問題となるが、
直政はその解決に奔走する。
これが家康に認められ、22歳にして直政は、他の重臣を差し置いて、
家康が採用した武田の遺臣74騎と名のある坂東武者43騎、それに
武田の「赤備え」を継承することを命じられた。
直政の、政治と軍事の手腕を高く評価した家康が、子飼いの臣を持たな
い直政のために、戦国最強軍の遺臣をつけたのである。


巡りくる春へと命立ちあがる  平井美智子


その力量は「小牧・長久手の合戦」ですぐに表れた。
なんと敵方の秀吉が、「赤備え」で戦場を駆けめぐる直政と、榊原康政
本多忠勝の3人を絶賛したのである。
これを伝え聞いた家康が、「彼らが喜ぶだろう」と、3人に伝えると、
一人直政だけが、
「股肱之臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではない」
と、秀吉を批判し、秀吉に自分たちを誘惑する底意があることを指摘、
さらに
「たとえ天下を賂うとも、この兵部(なおまさ)は他人の禄を貪るべく
 もござらぬ」
と、言い放ち、家康を感激させたという。


9号線筋の通った話です  斉尾くにこ


そして、同18年に家康が関東移封になると、上野箕輪城12万石を与え
られている。30歳にして家臣団中最高の石高を得たのであった。
その後は、次第に最前線から遠ざかり、慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦
い」では、家康の四男で、直政の娘婿でもある松平忠吉の後見人として、
参戦する。忠吉は、東軍の最前線で福島正則と先陣を激しく争い、関ヶ原
の本戦が開始された。
このとき、西軍奥深くに陣取っていた島津勢が、形勢をみて強引な敵中
突破を図る。直政はこれを見るや追撃し、島津勢の若き猛将・島津豊久
を討ち取った。
この功績により、近江佐和山城18万石に栄転となるが、追撃戦の際に
受けた銃創が災いし、2年後に佐和山城で死去した。享年42。

シャッターを下ろす時計を駆けあがる  高橋 蘭




井伊直政所用と伝わる甲冑。 (彦根城博物館蔵)
戦国最強といわれた武田軍の「赤備え」は、井伊軍に引き継がれ、常に
徳川軍の先鋒を務めて「井伊の赤備え」と恐れられた。


「直政の赤備え」
旧武田領をめぐって勃発した「天正壬午の乱」の際、直政は小田原北条
氏との交渉役となり、家康は、信濃と甲斐 を得た。
この功績により家康は、武田遺臣120名を直政配下に所属させるととも
に、山県昌景「赤備え」を継承させた。 以後、 井伊家(彦根藩) 当主
の戦装束は、 常に赤で統一されることとなる。


齧りかけのりんごが何か言いたそう  みつ木もも花


井伊家と 「城」 のその後
直政が得た佐和山城といえば、前の城主はあの石田三成であり、中世的
山城の印象が濃かった。 そのため直政は、新たな城と城下町を整備しよ
うとしたが、 志なかばで早逝。 事業は後継の直孝が引き継ぎ、 彦根城
を新造した。
城は彦根藩の藩庁となり、 彦根藩主はときに大老職を担いつつ、明治の
世まで栄えた


間食に風のうわさの二つ三つ  清水すみれ




ーー
   酒井右衛門尉忠次          忠次ー大森南朋



徳川軍団のリーダー 酒井忠次 
大永7年(1527)~慶長元年(1596)
忠次の妻は、家康の祖父母の娘で、家康とは叔父・甥の関係になる。
初期徳川家第一の宿老。家康と苦楽をともにして、その覇業を支えた家
臣団のなかでも別格の存在であった。
忠次は家康の父・松平広忠に仕え、1549年(天文18)幼少の家康が
今川・織田の人質となった際にはそれに同行している。
そのまま、幼少期、青年期の家康の側近をつとめ、東三河の旗頭として、
荒ぶる忠勝・康政・直政や三河の猛将らをまとめた。

精進を重ねゴリラになれました  きゅういち


1560年 (永禄3) の「桶狭間の戦い」で、今川義元が敗死し、家康
独立すると、忠次は筆頭家老となった。
同6年の「三河一向一揆」では、酒井一族の多くが、一向一揆勢に付く
なか、窮地に陥った家康にあくまでも付き従っている。
同7年には、今川氏支配下の「吉田城攻め」に参加、城将の小原鎮実
降伏させる功を立て、代わって吉田城主となり東三河の旗頭と称された。
民族のガチンコの音骨の音  峯島 妙

その後家康は、織田信長の同盟者として、数々の戦闘に参加するが忠次
は,そのすべてに同行し、多大な戦功を挙げることとなる。
1570年(元亀元) の「姉川の戦い」では、先陣を切って浅井・朝倉
合軍に突撃、同3年の「三方ヶ原の戦い」では、劣勢のなかで小山田信
の部隊と戦い、これに勝利した。
1575年(天正3)の「長篠・設楽原の戦い」では、信長「鷲ヶ巣
山砦の早期奇襲」を提言して採用され、信長からも絶賛された。


不可逆な時間のなかの無知無害  斉尾くにこ


こうして順調に武勲を重ねていった忠次だが、同7年に家康の長子・
が謀反の嫌疑を受けると、忠次は、交渉役を担うも、その弁明に失敗。
(この一件が後々まで響き、晩年の不遇に繋がったといわれる)
同12年の「小牧・長久手の戦い」では、鬼武蔵の異名で知られる猛将・
森長可を敗走させている。
こうした武勲によって、豊臣秀吉からも激賞され、京都・桜井に屋敷を
拝領するなど厚遇を得たが、康家からは次第に冷遇されるようになった。
晩年は眼病を患い、同16年には、嫡子の家次に家督をゆずり隠居。
1596年(慶長元)に京都・桜井の屋敷で病没。享年70歳。


見つめないでください私の嘘の裏表  柳本恵子


「年齢のうえでも別格だった忠次」 
歴史上の人物たちの人間関係を計る際に失念しがちなのが、 その年齢差
である。 忠次の場合は、家康より16歳年長であり、四天王と呼ばれる
宿老のうち、 もっとも若い井伊直政にいたっては、34歳もの開きがあ
った。 晩年は、他の家臣たちとの不和も目立った忠次だが、 世代格差も
大きな理由だったのだろう。
因みに、本多忠勝・榊原康政より21歳上になる。
「世代間に生ずる、知識・関心・考え方などの違い」いわゆる、ジェネ
レーションギャップは、今も昔も変わらず存在したようだ。
【一筆知恵蔵】
(天正7年 (1579) 、家康の長子・信康が、信長への謀反を企んだという
嫌疑をかけられ、 忠次が弁明のため安土城の信長のもとへ赴いた。
このとき忠次があっさりと嫌疑を認めたために「信康は切腹を命じられ
た」と、いうのが通説となっていたが、近年は 「濡れ衣である」という
異説も多く唱えられている)


ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子

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