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川柳的逍遥 人の世の一家言
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本物の大御所今日も野良仕事  新家完司
 
 

目黒行人坂の火事  (武士と市民が力を合わせ消火にあたっている)

江戸の街は、窮民が増え、盗人や物取り目的の放火や衝動的な放火が相
次いだ。これは僧の真秀が起こした放火で即時、捕らえられ市中引き回
しののち、小塚原で火刑に処された。


「松平定信」
松平定信は、八代将軍・吉宗の孫。天明3年(1783)26歳で白河
藩主になり。天明7年、松平定信が老中首座へと抜擢されると、天明の
江戸打壊しを頂点とする深刻な幕政批判に対処すべく、「寛政の改革」
を断行。新政権の陣容をがらりと入れ替えた。
田沼派の大老・田沼直幸・松平康福・水野忠友らは追い出され、定信に
忠実な松平信明・松平乗完・本多忠壽を老中に据えた。諸奉行も田沼色
に染まっていない「清廉潔白」を目安にして選ばれた。
そのため多くの役職で、清潔だが仕事が出来ない役人が生まれた。
その分、江戸は無政府状態に陥り、札差・米屋・酒屋・質屋・など暴利
を貪っていた豪商・商家約8千軒が襲撃された。江戸は悪党が好き放題
にできる無法の町になった。


真夜中のアッで始まる無神論  森田律子


「火付盗賊改」 よしの冊子&堀帯刀秀隆
 

 
 奢侈禁止令に抗う「よし」


寛政の改革を断行した老中・松平定信が城中・市中の動静をつかむため、
隠密を用いて情報を収集した『よしの冊子』という記録がある。
定信が老中を勤めた天明7年~寛政5年まで、定信の家臣・水野為長
統括役になり、定信の老中首座就任と同時に「諸役人の人物柄から勤務
ぶり、同僚間の評判、また、市中の動静を見聞、探索させた」。為永は
三日から十数日ずつ、隠密の報告をまとめて筆記し、主人の定信が上覧
できるようにした。一段落ごとに「そのようだ」という伝聞を意味する
「よし(由)」とあることから「よしの冊子」と呼ばれるようになった。


辞書は字が本屋は本が多すぎる  中野六助


定信は30歳という若さで老中になり、その翌年には、幼い将軍家斉
補佐として政務を執り仕切ることになる。多くの場合、京都所司代や若
年寄などの要職を経た人が、老中になるのが筋道だが、田沼意次の穢れ
た賄賂時代許せなかったこともあり、それまで政府の要職に就いたこと
がない、それだけに清廉潔白な人物であり、8代将軍吉宗の孫にも当る
ことから、老中の首座に担ぎ上げられた。
しかし、裏を返すと、政府の内部事情をほとんど知らなかった。
ゆえに「よしの冊子」というものを必要とした。


世界一内気だと思う・・たぶん  河村啓子


「よしの冊子」が執筆された期間、世情の真っただ中にいたのが火盗改
長谷川平蔵であり堀帯刀であった。ゆえに平蔵については、比較的多
くの記述がある。が、定信も為永も、反田沼意次が政治的出発点だった
ので、意次に近かった平蔵に対しては、過度な敵意と中傷から始まって
いる。その後、頻繁に届く平蔵の日々の活動振りを知るにつれ、為永は、
平蔵に対する悪感情を強めていった。しかし、8代将軍の孫である定信
には、そんな気遣いはなく、正確な情報は届かない。


ブルータスあんたも海鼠型の耳  井上一筒


「よしの冊子」は、長谷川平蔵を次のように書いている。
「長谷川は山師・利口者謀計ものの由。当春御加役中も、すわ浅草辺出
火と申し候えば、筋違御門近辺にも、自分定紋の高張提灯二帳に、馬上
提灯四、五帳も持たせ人を差し出し、浅草御門近辺にも、同様にいたし
…中略…金銀の入り候事は何とも存ぜず、人が提灯三十帳拵え候えば、
自分は五十も六十も拵え申し候よし、甚ださえ過ぎた事をいたし申し候
ゆえ、危なきと申し候ものも御座候よし」


猫の目の義眼を入れた狙撃兵  宮井いずみ



奢侈禁止令に抗う 「猫のせかい」(歌川芳艶)


為永は、大量の提灯を買い付ける平蔵の金の出所を「やばく(危く)な
いか」と見当違いの邪推をし、こんな風に、平蔵の悪評を定信にインプ
ットしているのだ。これにより定信は、平蔵に対して、最後まで嫌悪感
を持ち続けた。為永の記す「よしの冊子」では、平蔵に対して、「山師」
「姦物」「術者」「利口者」「謀計者」「追従者」などと口汚く悪評し
ており、定信のプライベートの記録文書だけに、一度吹き込まれた下僚
の旗本に対する偏見は、権力のトップにある者にとって、修正されるこ
とはない。田沼意次に近かったこともあるが、根も葉もないことを書か
れて、定信に嫌われるのだから、心の広い平蔵とはいえ、たまったもの
ではない。


右の頬ぶたれ左の頬を出す  中村秀夫


「よしの冊子には、寛政元年の夏の噂として、こんな話も。
「将軍家斉にお姫様が生れたのを祝って、178歳の男が137歳の妻
とともに、自分の白髪を献上したよし」
というのである。どう考えてもホラ話である。こんな情報をなんの衒い
もなく流す「よしの冊子」は、いい加減度もかなりのものがあった 由。


思い切り顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏  
 


横田松房の取り調べ方


「火付盗賊改」 堀帯刀
火付盗賊改は、役高1500石、役料40人扶持であるが、出費が多い
役目なので、2~3年も務めると実入りのよい遠国奉行に役替えになる
のが通例であった。
長谷川平蔵から三代前の贄正寿(にえまさひさ)は、堺奉行に転出した。
この堺奉行への出世は、彼の職務における評判の良さと「火盗改」とし
ての活躍が評価されものであった。贄が堺奉行に転任後に「火付盗賊改」
の本役を任されたのは、贄とは対照的な「荒者」として名高い横田松房、
通称源太郎である。「火盗改」には、中山勘解由山川安左衛門・藤懸
伊織など名高い猛者が何人もいるが、横田は彼らとは異質の苛烈な取り
調べで恐れられた。この横田松房の助役を務めたのが、堀帯刀である。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


「十一月十五日先手組頭・堀帯刀秀隆盗賊考察の事承る」
横田松房に代わって火付盗賊改に就いた堀帯刀は、4年前に冬季の助役
(補佐役)を務めたことがあり、再任して天明5年11月から同8年9
月までの2年10 ケ 月と比較的長い間、本役に就いた。「火盗改メ」
いうと江戸市中では「泣く子も黙る」と恐れられた猛者揃いであったが、
数多い火盗改の中には、先祖の武勇は薄れ、凶悪な悪党と渡り合う気迫
に欠ける者もいた。
「帯刀は寒中に綿入れを着てコタツで震えているのに、用人は身代豊か
で女を囲っている。帯刀はひたすら気がよくて、用人が私腹を肥やして
いるとは思いもよらない」よしの冊子)


影がないクリームソーダ飲んでから  酒井かがり



代官所執務風景


堀帯刀の火盗改メ・本役就任を知った長谷川平蔵は、2年後に自分が堀
本役とともに火盗改メ・助役を務めることになろうとはおもいもしなか
った。というのも、火盗改は、先手組頭から選抜されるしきたりで、平
蔵は西丸・徒頭に抜擢されてまだ1年経っていなかったからだ。


内臓にドン・キホーテがもう一人  通利一辺


「肌はあさぐろくずんぐり、声のみが高かった、無遠慮な、あのご仁が
なあ」平蔵は4年前、九段坂東の中坂下の席亭・美濃屋で、火盗改本役
に就任した贄正寿の傍らにいた助役・堀帯刀秀隆の印象を思いうかべな
がら細く呟いた。とりもなおさず、贄正寿の引きあわせで面識ができて
いた堀帯刀が、先手頭に指名されたというので、平蔵は、酒の角樽を用
意して祝辞をのべに裏猿楽町の屋敷を訪れた。玄関の式台に用人と名乗
った貧相な男があらわれ、角樽を受けとり、「主人がよろしくと申して
おります」と、挨拶もなく不愛想な表情を残して、立ち去った。


言う人を間違ったようですかしこ  宮井元伸


「なんですね、あの態度は!」
 門を出たところで平蔵の付き人の松造が、唾をはきながら呟くほど礼儀
を知らない用人だった。
「松、言葉をつつしめ。まあ、ああいうのを虎の威を借りるやからとい
うのだ」
 「しかし、殿。堀さまは、殿の先達でもなければ、引き立て人でもあり
ません」
「そう、怒るな。腹を立てた分だけ腹が減って、損をみるのはこっちだ。
もっとも、堀様は家禄が1500石、先手組頭の格も1500石だから、
足高なしの持ち高勤めで、足が出ているのがご不満なのであろうよ」


いつだって敵の一人として愛す  相田みちる


帯刀は家禄1500石で、平蔵の400石よりはるかに多いが、同僚の
間では、極貧として名高かった。それというのも、家政を取り仕切って
いる用人に、家禄の多くを横領されていたからである。このような帯刀
の日常に、「よしの冊子」
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でも一体に正直者だが、用人が悪いから、
自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役を続
けていられるのは、ありがたいことと思わねば、との評判が立っている
よし」と書いている。


底のない財布が悲鳴上げている  菱木 誠
 
 
「強将の下に弱卒なし」というが、こんな頭だったから帯刀の先手弓組
一番組は、士気があがらなかった。あるとき、堀組の同心が麹町の路上
で無法な陸尺(駕籠かき)を縛ろうとしたが、逆に押さえつけられて縛
れなかった。同心はこのことが表沙汰になるのを恐れ、謝った上に詫び
証文を書いた。が、この同心後にこのことが知れて入牢されている。
 「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいい
よし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
                          (よしの冊子)


蒟蒻の裏と表の間柄  新海信二


とにかく堀帯刀は、やる気がなかった。
労多くして得るところは少なく、そればかりか、私財を投入しなくては、
とても務まらない役職である。
「このお頭は、盗賊改方の特別手当として、幕府から支給される役料ま
でも、<あわよくば、己の懐へ>という人物であり、平蔵のように私財
を投げだしてまで、お努めする気などさらさら感じられないよし」
帯刀は最初の夫人(松平正淳の次女)は、1女1男を産んあとまなく亡
くなり、後妻をつぎつぎと4人も迎えている。「秀隆(帯刀)は、自分
の人生のはかなさ、家族との縁の薄さ、ツキのなさに嫌気がさしていた
のではないだろうか」と、こんな同情の声もなくはない。


コンニャクに似た悪友の立ち姿  大下和子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵「猫の戯れ」 歌川国芳


帯刀は天明8年9月、三年近く務めた「火付盗賊改」を役替えになった。
ふつう次には、家計がうるおう遠国奉行、なかでも、堺奉行や奈良奉行
などや役得の多いポストに任命される。帯刀も奈良奉行への転役を打診
されたが、「江戸を離れては、年老いた母が嘆く」と辞退して、先手頭
から「持筒頭」を命じられた。火盗改から持筒頭に昇進しても、
 「堀帯刀は、組下が差しだした願い書なども、上へ取りつがない。とに
かく世話をやくのが嫌いらしい。与力たちが、頭の帯刀へ願いを差しだ
しても上へ進達しないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀を恨ん
でいるよし」よしの冊子)と、悪口が書かれている。


もうすでに尻尾は北の枯れ芒  井上一筒


この役替えの時に、漸く、横領を続けていた用人に暇を出した。
「なんでもっと早く解雇しなかった」のかと、同僚は他人事ながら悔し
がっている。
「堀帯刀はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だ
けでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧の
よし。先手組頭時代の用人は、悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。
惜しいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国奉行に
なれたものを、といわれているよし」 よしの冊子)


左脳だけ使って錆びて来た右脳  伊藤良一


解雇された用人とは、別の用人の証言によると。
「思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても、2、3年はこの役をつづけた
いものだと申しております。せっかく任命されたのだから、「どんなに
貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤める」と私どもへ
も話しております。まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かっ
たために、周囲での帯刀の評判を損なっていました。しかし、主人帯刀
はそんな人物ではございません」


悲しいのに笑う悔しいのに笑う  日下部敦世



平蔵の市中見回りのスタイル


堀帯刀に代わって火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで帯刀の助役
を務めていた長谷川平蔵であり、代わって平蔵の助役になるのが、上役
の平蔵より5割ほど多く給料を取っていて、ちょっと変り者の松平左金
である。ここからの平蔵の主な活躍の一部は、先に書いたので、ここ
では割愛する。


歴戦を語ることなき火縄銃  木口雅裕


「長谷川平蔵の役替えについて」
寛政3年12月ころ長谷川平蔵の役替えについては、町奉行就任の話が
幕閣で議論された。
「大阪(町奉行)へは是非平蔵が行きそうなものだ。アレもせめて大坂
へでも行かずば腰が抜けようときた仕り候よし」 (よしの冊子)
抜けるとは、火盗改役を真面目に勤めれば役高・役料以上の出費が嵩み、
「腰が抜ける」即ち、貧窮する役職と言われた。そのため2~3年勤め
たら、余禄の多い堺奉行や大阪町奉行などの遠国奉行に転任させること
が普通は行われた。が平蔵の場合には、そうした配慮が一度もとられな
かった。


パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


幕閣の議論の中で最も可能性の高い候補として、空席になった大坂町奉
行に、平蔵が任命されるかと見られたが、この転役もなかった。
転役・栄進の話がいつも立ち消えになるのには、平蔵を強力に推薦する
人物がいなかったからである。大坂町奉行は、無論のこと、町奉行への
抜擢も決まったであろう。
定信自伝『宇下人言』に平蔵を「左計の人(山師的)にあらざれば」
「長谷川何がし」のように冷たく記すところに、定信の清廉な性格にみ
る平蔵を忌避する気持ちが表れている。
「長谷川平蔵転役も仕らず、いか程出情仕り候ても何の御さた、これ無
く候に付き、大いに嘆息いたし、もうおれも力が抜け果てた。しかし、
越中殿(定信)の御詞が、涙のこぼれるほど忝(かたじけ)ないから、
そればかりを力に勤める外には何の目当もない。是ではもう酒ばかりを
呑死であろうと、大いに嘆息、同役などへ咄合い候よしのさた」 
                         (よしの冊子)


吊るされてドライフラワー夢を見る  合田留美子



奢侈禁止令に反骨精神で挑んだ浮世絵 ・「亀喜妙々」歌川国芳
 

最後の「よしの冊子」
「長谷川平蔵は、いついつ迄も御役仰せ付けられ、さぞ困り申すべくと
取り沙汰仕り候由。一説に、他の加役は勤め候と身代を微塵に致し候え
ども、平蔵ばかりは身代をよく致し候に付き、身上の悪くなる迄御遣い
成される思召しだ。と取り沙汰仕り候ものも御座候よし」
ほかの旗本は火盗改を勤めると家産が逼迫・困窮するが、長谷川平蔵
金策の能力に長けていて、使い減りしないので、転役・昇進が行われな
かったというのである。上がこんな考えでは、従う者は報われない。
平蔵にとって、定信の傍に水野為永のような男がいたことが不幸だった。

この記録が「最後」になったのは、定信が失脚(寛政5年7月23日)
して老中を解任されたからである。そして同時に、密偵の探索も悪意の
ある水野為永の筆記も終わった。
                    「火付盗賊改の正体」参照
 
 
  お待ちくださいと忘れられたままで  岡谷 樹

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カラスならカアで終わりにする悩み  山下炊煙



フランスのマルセイユにて撮影された徳川昭武一行
中央に昭武、後列左端に渋沢栄一(篤太夫)


「青天を衝け」大沢事件と徳川昭武とパリへ 


慶應2年7月20日、第二次長州征伐失敗のあと、14代将軍・徳川家
が亡くなった。幕閣には人材がおらず、慶喜に将軍の座が回ってきた。
篤太夫は、慶喜の将軍継承を猛烈に反対したが、引き受けるしかなかっ
た。おのずから篤太夫も成一郎も幕臣に格上げになった。倒幕は非現実
的になり、もはや幕府内部から体制を大転換をして、新しい世界を切り
開くしかない。しかし、幕府という巨大組織の中に組み込まれると、篤
太夫は動きがとれなくなった。周囲は、保守派ばかりで、何かというと
「農家の出」と軽んじられる。苛立ちのあまり、もはや浪人にもなるか、
いつそ割腹して相果てようかとまでに一時は思ひ詰めもしたが、それで
は犬死になるからと、暫く苦痛を忍んで幕府の「陸軍奉行支配調役」
いふものに仕官した。


床から入り煙突を出るはめに  森田律子
 


 
徳川昭武
 

そんな矢先、慶喜の側近のひとり、原市之進から渡欧を打診された。
パリで開催される万国博覧会に幕府が出展し、慶喜の弟・徳川昭武が使
節団を率いていくことになった。万博閉会後も、見聞を広めるために長
く滞在するという。その会計担当として随行し、篤太夫自身も日本が学
ぶべき点を探ってこいと、慶喜からの命令だった。


秘書は有能水増しを匙加減  山口ろっぱ   


篤太夫の苦しい立場を見かねて、慶喜が新しい分野へと仕向けてくれた
のだ。確かに、使節団のような小さな集団の方が、篤太夫の能力は発揮
しやすい。そんな配慮に頭が下がった。
当初は平岡円四郎に誘われるまま、行きがかり上、一橋家の家臣になっ
ただけだったが、これほど目をかけてもらえるとは身に余る光栄だった。


花びらを数えて一日を終える  竹内ゆみこ


「渋沢栄一の処世談ゟ」
其のころはもう、幕府の前途も六ケ敷(むつかしい)と云ふ時で、今迄、
幕府の家臣であつたものは、誰も彼も、一種悲痛な気分に掩はれて居た。
恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜
公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に
心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側から
、「国賊のやうに」云はれ、幕府方からは、「亡国の君」と云はれる
ことは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に
居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。


直線ごときに翻弄されている  雨森茂樹


と、斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻(しば
しば)あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやう
に容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、
甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り、昔の浪人にでもならうかと
思ふに至つたのである。丁度其時、「民部大輔が仏蘭西にお出でになる
につき、私も共をして行け」と云ふ命が出たのである。


誘われて明日の台詞を口ごもる  皆本 雅


私は此際ほど困つたことはない。これまで、倒さう〳〵と心懸けて来た
幕府であるから、仮令(たとえ)是まで仕えて来た君――君というのは
少し穏かでないかも知らぬが――が将軍になられたからとて、オメ〳〵
幕府に仕へて幕吏となるわけにもゆかず、さればとて、今更、浪人して
見たところで仕方が無いのみならず、甚だ危険である。
…中略…その中、仏蘭西留学を仰付かる事になつたが、此時ほど、又私
の嬉しく感じたことは無い。これで、進退維に谷まる(しんたいこれに
きわまる)憂いも、先づ無くなつたと思ふと、実に嬉しかつたのである。
慶応3年の正月3日に京都を出発し、仏蘭西郵便船のアルヘー号で横浜
を出帆したのが、正月の11日である。


人恋しくてたそがれの髭を剃る   西山春日子



新選組副長・町田啓太


「大沢源次郎事件」
パリへ旅立つ前年の9月頃のこと。
「京都見廻組の者、300から400人が徒党を組み、謀叛を企んでい
るらしい」と京都町奉行所から陸軍奉行に御書院番士・大沢源次郎が、
「不定浪士と共謀して、兵器を集め、容易ならざることを企てている」
という連絡があった。やむなく幕府は朝廷に働きかけ、「将軍の喪中」
であることを理由に、長州藩と休戦協定を結んだ。喪中休戦は口実にし
て、幕府の失態を繕ったことは明白で、幕府の威信は、ここに地に墜ち
たものである。そんな矢先に、京都で不穏な噂が流れた。


さもしくて一気飲みするホテルバー  ふじのひろし


大沢の肩書きは、禁裏御警衛番士で陸軍奉行・溝口伊勢守の配下となる。
即ち、大沢の捕縛は、篤太夫の所属する陸軍奉行方務めのこととなった。
しかし、大沢は剣の腕もめっぽう立つという、ことで皆、尻込みをして、
だれもやりたがらない。そこで篤太夫が適任ではないかという、ことで
お鉢が回ってきた。「どうだ篤太夫、行ってはくれぬか。いや無論、貴
公一人でかせるわけではない。護衛に新選組をつける。なあに、造作も
ないことだ」と組長は、たまたま「陸軍奉行支配調役所属」の篤太夫に
押し付けてきた。


重力の悪さなんでしょ秋の鬱  銭谷まさひろ


ーーーーーーーーー


「大沢源次郎の捕縛」(栄一の処世談ゟ)
慶応2年、私が27歳の時であつたと思うが、麾下で禁裡番士を勤め京
都に駐在して居つた大沢源次郎といふ男が、薩州の者と手紙を往復した
とかで、当時、非常に薩摩を怖がつてた幕府から、不軌を企てるものと
見做され、その頃、大阪に政庁を置いてた幕府の陸軍奉行より、同人へ
御不審の廉(かど)あるに付、江戸へ護送して吟味致すべき旨、申渡し、
其場で同人を召捕ることになつたが、その時の陸軍奉行調役組頭は臆病
な男で、大沢が撃剣に達して居るといふ事を耳にし、自ら出かけるだけ
の勇気無く、私へ其の役を転嫁して来た。私が新撰組の者数人と共に、
大沢の寓居であつた紫野大徳寺の境内へ、陸軍奉行からの申渡状を持参
して赴く事になつたのは此の時である。
 
 
 どっしりとそれが一番むつかしい  後藤宏之
 
 
その際、近藤勇、「本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道
し得られぬから、代理として土方歳三を遣はす」とのことで、同人は四
人ばかりの壮士を率いて、私の護衛に来たのである。同日午後、探偵を
放つて大沢源次郎の動静を窺はせると、まだ寓居へは帰つて居らぬとの
事で、一同は晩餐の為、小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢
の帰宅を確めて、紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いたのだが、「私
が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするか」
就て、私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に、私の意見に従ひ、
私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に、大沢の大小を取り上げ、同人
を新撰組壮士の手に引渡すやうにしたのである。


飲みながら言うけど奢りでっしゃろな  一階八斗醁



大政奉還図 (邨田丹陵)


「将軍継承そして大政奉還へ」
徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会へ出発をして、まもなくの10月
14日に、慶喜は政権を朝廷に返上した。「大政奉還」である。
それにより、徳川幕府は260年続いた歴史の幕を閉じ、鎌倉幕府が開
かれ約700年続いた武士による政治は終わりを告げた。


純粋の純を捩ると鈍になる  新家完司


「篤太夫、述懐する」
慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも、
天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまう。そこで私は飽くまで、慶
喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には、御就かせ申すまいとした
のである。
しかし、これは後年に至り、御面会を致した際に、始めて承つて知つた事
であるが、慶喜公には、此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時、
私共の想い及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の
道を開きたいとの御志望から愈々、将軍職に御就きになることになつたの
である。


別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

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D O N Q のパンがあるハルカスの奈落 井上一筒



白波五人男
左~日本駄右衛門、赤星十三郎、南郷力丸、忠信利平、弁天小僧菊之助


「白波」とは、盗賊のこと。後漢の末期(184年)、黄巾賊の余党が
西河の白波谷に隠れて、財宝略奪を働いた集団を、「白波賊」と呼んだ
ことから歌舞伎作者・河竹黙阿弥が『青砥稿花紅彩画』の劇中で引用し
「白波」呼称した。
『白浪五人男』と呼ぶ方が「泥棒五人男」と呼ぶより様になっている。
「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら浪」
沙弥満誓(さみのまんぜい)拾遺和歌集


天守閣見つめ続けている歴史  前岡由美子


火付盗賊改・徳山五兵衛 VS 大盗賊・日本左衛門
 
 
「悪党・日本左衛門」ー人間像
日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら知恵深く、威勢
強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手な
け…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」…また、『窓のすさみ』
には、「率いる強盗の人数は、従う者五、六百」と統率力の凄さを記し
ている。         (『浜島竹枝記』)


トンネルの中で大きくなっていた  中前 棋人


「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取ると
も咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人、その家をはか
りて、盗み入りしとぞ」とあり日本左衛門は、箱を砕いて包みから、
<難儀な者に施し>とか<<盗みはすれど非道はせず>など盗みの哲学
手下に説いた」とされている。           
            (『甲子夜話ゟ』(肥前平戸藩主・松浦静山)


努力目標背を丸めずに歩くこと  吉田 陽子


寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に
命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは
健気である」
と、頭領らしく、悠然と姿を消したという逸話もある。
大掛かりで派手な義賊の姿は、伝えられるごとに脚色され「恰好良い大
泥棒」
になっていったようだ。が三右衛門の訴状では、娘の婚家に日本
左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や
下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像は、かなり荒っぽい盗
賊だったようである。


痛むのは自分自身についた嘘  立蔵信子
 


忠信利平


「その手口」
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので
「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置
して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録に
ある。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5~60人余り
を使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が5、
6人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案
内させて強奪する」
と記している。
                     (「『浜島竹枝記』)


辻斬りでなければかまいたちだろう  清水久美子


静山『甲子夜話ゟ』には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富
める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟
して、その人、その家をはかりて、盗み入りしとぞ」
とあり、
「日本左衛門は、箱を砕いて包みから、<難儀な者に施し>とか<盗
みはすれど非道はせず>など盗みの哲学を手下に説いた」
とされ『浜島竹枝記』と少し違った見解を記している。


胸の火でリンゴの歌を焼きましょう  岡田幸男



赤星十三


「被害者訴える」
駿河豊田郡大池村の庄屋宗右衛門は、2度にわたって日本左衛門一味に
襲われ、千両箱をいくつも盗まれた。宗右衛門は、日本左衛門の悪事を
詳細に渡って調べあげ、延享3年(1746)8月、江戸の北町奉行所
に日本左衛門逮捕を直訴した。その後も、さらに、同年、掛川藩領の大
池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪っている。


キンメダイの目の回りまで食べてやる  宮井いずみ


一味の狼藉は天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙った。
地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門が直訴して、幕府
が乗り出すことになった。それに伴い,
白波の五人男に弄ばれるばかりであった地元の掛川城主・小笠原長恭
責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に
移された。


意気地なし甲斐性梨無しのろくでなし  両澤行兵衛


「さてこの悪党、五右衛門と対決するのが徳山五兵衛である」
五兵衛は、江戸時代中期から後期の旗本寄合席。諱は秀栄、通称は五兵

衛、または又兵衛という。元禄3年(1690)生まれ。「寛政重修諸
家譜」
では、母は某氏とされる一方、父・重俊の正室は、神尾守勝の養

女であり、庶出であったとされる。又兵衛と称していた時期に、徳川綱
の従兄弟にあたる藤枝方教の娘を正室に迎えるが、のちに離婚する。
元禄8年、兄の重朝の死去とともに、元禄13年、将軍徳川綱吉に初御
目見えを済ませ、正徳3年、24歳で父の家督を継ぎ小普請となる。
享保9年(1724)35歳の時に新設された「本所深川火事場見廻役」
の御役目に就いている。


段取りがよすぎて妙に落ち着かぬ  吉岡 民


「火事場見廻役」とは,寄合席から選ばれる若年寄配下の幕府の役職で、
江戸に火災の発生した際、風下にあたる武家屋敷、また寺社、町方へも
出役し、消火の指揮をとるとともに、焼け跡を見回り、出火原因、被害
状況を調査報告し、定火消しの火事場での勤務状況を監察するのが、主
な仕事で、五兵衛はその「火」にかかわる役職を務めたが、この時点で
はまだ、「盗」の役目は入っていない。
五兵衛は、54歳になったばかりの寛保4年(1744)1月、「御先
鉄砲頭」となり、2年後の延享3年(1746)7月には、盗賊追捕の
命を受けて、御先鉄砲頭の加役である「火付盗賊改」となった。


指名手配を飛び六法で追っかける  山本早苗


「火付盗賊改方」としての役目は、日本左衛門率いる盗賊団を追捕する
こと。三河・遠江一帯を傍若無人に荒しまわる盗賊で尾張家のはみ出し
者らしい…。五兵衛57歳にして、重たい役を任されることとなり、ま
だまだ安堵の時間は与えられなかった。早速、五兵衛は、同心22名を
卒いて、延享3年9月に江戸を発ち、地元の捕り方の応援を得て、金谷、
掛川、浜松に大捜査網が敷かれた。しかし、手下は捕まっても、頭目の
日本左衛門は一向に捕まらない。ために、全国に「人相書き」を高札に
張り付けることにした。


注射打つどうなるやろと言いながら  宮井元伸





「日本左衛門の姿について」
手配書の人相書きから伺うことができるが、目撃者の語るところでは、
洒落だったようだ。黒皮の兜頭巾に、薄金の面頬、黒羅紗、
金筋入りの半纏に、黒縮緬の小袖を着、黒繻子の小手、脛当てをつけ、
銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、
腰に早縄をさげた立ち…だったという。


鼻筋の黒子は無添加の印  酒井かがり
 
 
 
日本左衛門手配書控(袋井市可睡齋蔵)


一方の日本左衛門は、支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から
美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へとしぶとく且つ巧妙に逃げ回った。
しかし行くところ行くところに、自分の似顔絵と手配書が貼られている。
これでは逃げ場もない、匿ってくれるところもない、日本左衛門は、
兵衛の天網の追及に、これでは捕まるのも時間の問題と悟り、延享4年、
明けて7日、みっともなく逃げ回るよりも、潔く京町奉行所へ自首する
決意をした。日本左衛門が自首した日、奉行・牧野信貞「今日は休日
だから、明日に出直してこい」といわれて、その通り翌日に自首をした
という嘘でしょうといいたい逸話がある。尤も、牧野信貞は、大坂町奉
行だから、日本左衛門が自首出頭したのは、京都だったのか、大坂だっ
たのか、このあたりにも嘘っぽく疑問が残る。


 吊り橋でたじろぎ野鼠にびびる   新家完司
 
 
そして同年3月11日、日本左衛門は江戸に送られ、市中引き回しの上、
獄門の刑に処せらて、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は、
遠州鈴ヶ森刑場とも、江戸伝馬町刑場とも言われる。尚、日本左衛門を
徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことはないかと尋ねると、「日光を
見たことがない」というので処刑前に、日光参拝を許したという。
これは徳山五兵衛の人となりを後世に見せるための、これまた作り話だ
ろう。日本左衛門、享年29。
その後五兵衛は、火付盗賊改方を延享4年12月までの1年4か月、務め
た後「西の丸持筒頭」の役職をこなして宝暦7年7月18日に死去する。
享年68歳だった。
鬼の長谷川平蔵は、延享2年(1745)の生まれだから、この事件は、
13年前のこ
とで、平蔵は13歳であった。ついでながら、火盗改として、
五兵衛は89代、平蔵の父・長谷川宣雄 は139代、平蔵は165代
で、
二人の間に74人の頭領が移り変わっている。

 
 
盗まれる予感を秘めた鍵一つ  高野末次



 
二幕目第一場 浜松屋

 
「『弁天娘女男白浪』を盗む」
二幕目第一場・「白浪五人男」と呼ばれる盗賊の弁天小僧菊之助と南郷
力丸は、呉服屋「浜松屋」に武家の娘と若党を装い、騙り目的でやって
来る場面。
 鎌倉雪の下の浜松屋に、若党四十八(よそはち)を供に連れた美しい
武家娘が現れる。早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の買い物をす
る彼女は、品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐中した。
帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出した浜松屋の番頭は、万引
きと思い込み、怒って娘の額を算盤で打つ。しかし若党の話から、鹿子
は、他の店、山形屋の品であったことが分かる。


巻尺で測るソーシャルディスタンス  竹内ゆみこ


取り返しのつかない過失に、青褪める店の者たち。若旦那の宗之助
十八に詫びるが、四十八は店主・浜松屋幸兵衛を相手取る。お浪につけ
られた額の傷を言い立て、法外な金を要求する四十八に対し、浜松屋に
呼ばれた鳶頭も憤慨して啖呵を切る。しかし幸兵衛は、事を穏便に済ま
せるため、四十八の言うとおり、百両を出して詫びるのであった。


少しずつ黄ばむ障子もわたくしも  門脇かずお


金を受け取り帰りかかるお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当
(たましまいっとう)という侍が呼び止めた。逸当は二人を、騙りと見
抜き、さらに、ちらりと見えた腕の刺青を証拠に、お浪を男と見破る。
図星をさされた二人は、急に伝法なその正体を現すのだった。
(伝法=粗暴で無法な振る舞い)


木漏れ日にうっかり暴かれた忍者  一階八斗醵




弁天小僧菊之助


「知らざあ言って聞かせやしょうー」
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!


だまってい‼ アロンアロファつけたろか‼  くんじろう
 


南郷力丸


「さてどん尻の控えしは」
   さてどん尻の控えしは、汐風荒き小動の、
磯馴の松の曲りなり 、人となった浜育ち、任儀の道も白河の、
夜船へ乗り込む船盗人 、浪にきらめく稲妻の、白刃で脅す人殺し、
背負って立たれぬ罪科は、其の身に重き虎が石、
悪事千里と云うからは、何うで仕舞 は木の空と、
覚悟はかねて鴫立尺、しかし哀れは身にしらぬ、
念仏嫌えな南郷力丸!


梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ


女装の盗賊は、江ノ島の稚児上がりの弁天小僧菊之助四十八と偽って
いたのは、その兄貴分である南郷力丸であった。「名を明かした二人」
が、ここから突き出せと居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は、弁天
が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き
伏せ、二人はようやく腰を上げる。


すっぴんがハニートラップだったとは  森田律子
 


日本駄衛門


浜松屋を出た二人は、今日の稼ぎを山分けして悦に入る。道々、騙りの

道具として使った重い武家の衣裳を持つのを厭い、二人は坊主が来たら
交互に持ちっこする「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
いっぽう、浜松屋では逸当を奥座敷へ案内し、もてなしの支度にかかる
のだった。しかしこの玉島逸当こそ、実は弁天南郷の頭である大盗賊
日本駄右衛門だった。彼らを捕えようとしている捕手たちは、迷子を
捜すさまに見せかけ、稲瀬川で秘かに待ち伏せをしていた。


独房にごろん夜中を刻む音  岡田陽一



日本左衛門首洗い井戸跡石碑


「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」がある。日本左衛門は本名を浜島庄兵
といい、元文永享年間(1736-47)に横行した大盗賊で、延享
4年(1747)に処刑されている。その捜査に当たったのが、当時、
「火付盗賊改の役」にあった徳山五兵衛秀栄である。
稲荷社は、一説にこの秀栄が祭ったものともいわれている。また、境内
には、日本左衛門の供養碑や首洗い井戸があったと伝えられているが、
後に河竹黙阿弥や歌舞伎狂言『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』の中に、
日本左衛門を模した日本駄右衛門を登場させたこともあずかって、後世
に造立された。          (「墨田区史」)


樹齢かな馬齢かな指のささくれ  中野六助

拍手[3回]

天秤が息を殺しているようだ  河村啓子
 
 

江戸めいしょ判じ絵
17個の絵の意味の解明は、当頁の末段に。


 「青天を衝け」ー「実験論語処世談ゟ」


「処世談ー①」
平岡円四郎と云ふ人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
つたと思ふ。…中略…。私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやう
にして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて
十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事
で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。平岡が水戸浪士の為
に暗殺せられてしまうやうになつたのも、「一を聞いて十を知る」能力
のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では、無からう
かとも思ふ…。


さっぱりと爽やかな人早く逝く  新家完司


「処世談ー②」
私の関東滞在中、平岡円四郎は、六月十七日京都の一橋邸附近で水戸藩
士の為に暗殺されてしまつたのであるが、平岡の死後、用人として一橋
家の政務を掌つた黒川嘉兵衛といふ人が、幸に、私と喜作とを重用して
呉れたものだから、九月の末には、身分が「御徒士」に進み、食禄八石
二人扶持、滞京手当月六両になつたのである。翌けて慶応元年二月には、
私も「小十人」といふ身分に進み、十七石五人扶持、滞京手当当月十三
両二分となつたが、その頃一橋家の兵備といふものは、極手薄で、幕府
より何時なんどき引揚げらるゝやも測り難い、幕府より借し与へられた
二小隊の御客兵が主である。


知らぬ間に大きな顔になっている  小林すみえ



徳川将軍15代
中央に、初代家康、その下2代秀忠・3代家光・4代家綱、5代綱吉
右に、10代家治・11代家斉・9代家重・8代吉宗・7代家継(子供)
6代家宣(子供)左に、12代家慶・13代家定・14代家茂・15代代慶喜



慶応2年7月、14代将軍・家茂が薨去した。まだ世継ぎもおらず、

に将軍の座が回ってきた。貧乏籤なのはわかっていたが、慶喜は引き
受けるしかなかった。おのずから篤太夫成一郎も一橋家家臣から幕臣
となった。


冗談が当り哀しいのに笑う  佐藤正昭


「処世談ー③」
然るに茲に一つ困つたのは、徳川十四代の将軍・家茂公が慶応二年八月
二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五
代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには、私は大反対であつ
たのである。…中略…。私は、この時とても、依然徳川幕府は倒してし
まはねばならぬもので、又、天下の大勢から察しても倒るべきものであ
ると考へてたのであるが、若し、これまで君公として仕へ奉つた慶喜公
に、一度将軍になられてしまひ申すと、情誼の上から私は幕府を倒す為
に力を尽すわけには参らぬ事情に陥つてしまふ…。


たらればを引きずり隅で飲んでいる  杉山ひさゆき


---------------------------
最後の将軍・徳川慶喜


「処世談ー④」
…斯う考へて徳川一門を見渡すと、尾州公でも水戸公でも、豪族政治の
仲間入が出来さうな人傑では無い、たゞ一橋慶喜公だけは人傑であらせ
られるから、公を推し立てゝ行きさへすれば豪族政治の仲に割り込んで、
我が志も行へるといふものだが、慶喜公が、一旦、将軍に御成りになつ
てしまへば、幕府が倒れた時に、如何とも天下の政治に志の叙べようが
無くなつてしまふ。そこで私は、飽くまで慶喜公を一橋家に引き留めて
置いて、将軍職には御就かせ申すまいとしたのである。


ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子


「処世談ー⑤」
それでは一橋家が一朝有事の日に、「禁裡御守衛総督」の大任を尽すわ
けにもゆかぬと私は考へたので、「農民募兵」の儀を慶喜公に謁見して
言上し、遂に建言が容れられて私は『歩兵取立御用掛』といふものにな
つたのである。かくて私は「兵隊組立御用」を仰付かつて、一橋家の領
地を巡回し居るうち、領内の産米と木綿とが、他領のものに比し値段が
安くなつてる事や、硝石の産出が比較的領内に多いにも拘らず、大規模
の製造所が無い為に頗る不利を蒙つてる事に気が付き、種々と建言する
処があつたので、私は遂に、食禄二十五石七人扶持、滞京手当月二十一
両の『一橋家御勘定組頭』を仰付かり、種々と財政上の案を立て、会計
専務を取扱ふ事になつたのである。


翻訳は出来ないウボポイのこころ  合田留美子


「処世談ー⑥」
勘定奉行というのは、今でいえば大蔵大臣の格で、次に「勘定組頭」が
あつたのだから、一橋家に於ける大蔵次官の格になつたのである。
篤太夫は「歩兵取立御用掛」として、まず阪谷朗盧(さかたにろうろ)
に会うために井原に向かった。篤太夫は朗廬を「自らの主義を貫いた、
先見の明のある人」と高く評価していた人である。一度は会っておくべ
しと考えた。


納豆はいつも私の共犯者  佐藤正昭



興譲館・校門 (扁額は栄一の揮毫)
渋沢栄一は、一橋家仕官時代に備中を訪れ、漢学者・阪谷朗廬(娘婿・
 阪谷芳郎の父)を訪ねて時勢談などを交した。その時の朗廬の印象を
「攘夷派ばかりの漢学者の中で、断固として開港主義を貫き、反対攻撃
を受けても自説を変えなかった、真に先見の明ある人」と賞讃した。


いるのいねえのってそんなものじゃない  雨森茂樹


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     阪谷朗盧


「阪谷朗盧に会う」

阪谷朗盧は、文政5年(1822)岡山の井原に生まれた。6歳の時、
大坂で大潮平八郎に、江戸に出て昌谷精渓・古賀侗庵に、学び17歳
で幕府の昌平黌の塾頭にまでなった秀才である。嘉永6年(1853)
一橋家の代官・友山勝次によって開設された郷校「興譲館」の初代館
長として招かれた人物である。近隣はもとより遠くからも朗廬の名声
を慕って入塾者があり、寄宿生は多いときで百人を超えたという。


目分量ですが青空を一枚  吉松澄子


こうした評判を聞き篤太夫は、慶応元年の春、農兵を集めるため、長棒
の籠に乗り兵士らを従え、備中国西江原村(井原)を訪れた。
到着すると代官や庄屋たちが平伏して、篤太夫を迎えた。丁重に迎えら
れた中で、篤太夫は、募兵の必要性を丁寧に説き、代官や庄屋たちに申
し付けた。返ってきた返事は、「自ら勧誘しなされ」というものだった。
あちこち出向いて募兵の趣旨を説明して回っても、誰ひとり応募してく
るものがいない。これを不自然と感じた篤太夫は、農民を一同に集めて、
次のようにぶった。


矢面に立っているのは影でした  柳田かおる


「不思議千番なこともあるものだ。拙者の宿に兵士に応募したいという
若者が来て、志願書をおいていった。なのに、そちらの紹介では誰一人
も応募がない。拙者は、一橋公の命でここに来ている以上、もし裏で、
志願者を止めるようなことをしているのであれば、不届き者として斬り
殺すことも辞さない」と。


だとしても納得いかぬ春帽子  靏田寿子


この脅しともとれる言葉に庄屋は驚いて、「実は代官から内々に言われ
ていたことがある」と白状した。
「一橋家の役人の申す事を、いちいち聞いていると、領民も難儀するだ
けだ。今回も志願者は誰もいないと言えばよい」と言ったと言うのだ。
これを聞いた篤太夫は、代官の陣屋に乗り込み、
「今度の使命は一橋公直々の命であり、非常に重大な役目である。この
まま、庄屋からの志願者の申し出がないようであれば、その原因を究明
する必要がある。拙者はもちろん、代官である貴殿にも、職務怠慢の責
めが問われるのは必定」と責めた。


シュレッダーに証拠食わして卑怯者  森本義一


しばらくの沈思をして篤太夫は、言葉をつづけた。「そこで改めて貴殿
から、庄屋たちに話をし、役目が果たせるよう尽力してはくれまいか」
代官は裏で動いていたことが、ばれていると感じ取り、恐縮して徴兵に
舵をきりかえた。結果、備中後月郡井原村で200人前後、その他の領
地からの募兵を合わせると、450人ほどを集めることに成功した。江
戸に戻った篤太夫は、井原での様子などを慶喜に報告すると同時に、郷
里の子弟教育に熱心な者、親孝行な者、農業に秀でた者たちに報償を与
えるようにしてほしいと提案した。


言い訳が多い男のかゆみ止め  月波与生


こうした一悶着のあと、篤太夫はもう一つの目的である、阪谷朗盧の家
を訪れた。そこで篤大夫は、朗廬と酒を酌み交わし、国家のことを論じ
合った。西欧文化に明るい阪谷は「開国」を主張し、篤太夫は、日本が
欧米列強に並ぶ力をつけてから「開国すべし」と自身の意見を述べた。
意見が違っても、平岡に会って身に付けた「人の意見を聞き、理解する」
というスタンスで、決して、自分の意見のみをごり押ししない。こうし
た篤太夫に朗盧も好意を持った。それからも2人は大いに飲み、意見を
交わし、笑い合い、楽しい時間を重ねた。


今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし


2人が盛り上がり、対話する中で、地元の剣豪の話になった。
「阪谷の近くに関根という地元では名の知れた剣術家がいるが、一度手
合わせをしてみたらどうか」というので、話の行きがかり上、手合わせ
をすることになった。多くの見物人が見守る中で、竹刀をあわせると、
何とあっさり篤太夫が勝ってしまった。地元一番の剣豪も形無しだ。
これが噂となり、「今度のお役人は学問にも武芸にも優れた凄い人だ」
という噂が流れ始めた。


表情の豊かさ自他の心地よさ  椿 洋子


この阪谷朗盧についても、篤太夫は詳細に慶喜に報告した。
慶喜は、阪谷を京に呼び功績を称えて、「銀5枚を与えたい」と言うと、
朗盧は「そういうものが頂けるなら、興譲館の教師たちにやってほしい」
と個人的なものは一切断った。さらに「文武館の教授に」という申し出も
朗盧は「在野の人材を育てる事が自分の使命」という理由を語り、それも
断った。
その後、明朗盧は、治元年11月、興譲館を甥の坂田警軒に譲り、広島浅
野侯の賓師となり。明治4年秋頃には、東京に転居、廃藩後維新新政府の
官吏として出仕した。


類語辞典引く何をする訳もなく  山口ろっぱ


表絵の「えどめいしょはんじもの」(江戸名所判じもの)を解明すると、
左上から時計回りで
① 鵜と絵の具の看板上部で「う・えの」=上野
② 傘に「あ」と「か」の文字で「あ・かさ・か」=赤坂
③ 四本の矢で「よつ・や」=四谷
④ 目が黒い男で「め・ぐろ」=目黒
⑤ 「あ」の男、尻から「さ」と臭い屁をひって=浅草
⑥ 矢を煎る様子で「いり・や」=入谷
⑦ 火が憎い→ひにくらしい→ひくらし=日暮里
⑧ 梅の紋、輪、蚊で「うめ・わ・か」=梅若
⑨ 大きな琴柱〈ことじ〉で「おお・じ」=王子
⑩ 本を読む錠で「ほん・じょう」=本所
⑪ 火の番をする帳面で「ばん・ちょう」=本所
⑫ 上半分の鶴と雉で「つ・きじ」=築地
⑬ 鷹が縄をくわえているため「たか・なわ」=高輪
⑭ 本と鵜が碁をうつから「ほん・ご・う」=本郷
⑮ 蜘蛛の巣と阿弥陀様 「す・みだ」=墨田
⑯ 四枚の葉に濁点 「し・ば」=芝
⑰ ひらがなで書いた「すぎ」=金杉


意地悪はもう飽きました爪を切る  高橋レニ

拍手[4回]

そうはいっても見事な黒でございます  田口和代


「鼠小僧」 鼠と滝沢馬琴



鼠小紋東君新形(三代目・豊国〔似顔絵の元国貞〕)
 
左から、与惣兵衛忰与吉(稲葉幸蔵<小僧>)/市川小団次
 松葉屋傾城松山(幸蔵女房)/尾上菊五郎
 松葉屋息子文三/河原崎権十郎
 
河竹黙阿弥作の歌舞伎演目『鼠小紋東君新形』ねずみこもんはるのしんがた)は、
賊・鼠小僧が活躍する内容で、江戸庶民の大人気を博し、安政の初演
から最も多く上演された。(稲葉幸蔵<幸蔵><小僧>のもじり)
 
 
  鼠小僧ウイキペディアにも潜り  通利一辺
 
 
 鼠小僧次郎吉は、文化文政時代に活動した実在の盗賊。
歌舞伎芝居小屋の出方兼大道具係の父・貞次郎(定治郎)の子として、
寛政9年(1797)に元吉原に生まれる。本名は次郎吉。10歳の頃、
父の見様見真似で覚えた知識を活かして、木具職人の家へ奉公に入る。
16歳で職人が肌に合わず、親の元へ戻る。その後は鳶人足となったが、
五尺足らずの小柄であまり役にもたたず、25歳で鳶職を飛び出した為、
父から父子の縁を切られる。そこからはお決まりの身を持ち崩し、博打
に嵌り、その資金稼ぎのために、盗人稼業に手を染めるようになった、
と伝わる。


ジョーカーとわかってからの処世術  木口雅裕
 


『鼠小僧実記』 (鶴声社 国立国会図書)


五尺の小柄が今度は役にたつことになった。小さな体でちょろちょろと
身軽に動き回る身のこなしは、盗人には、向いていたのかもしれない。
文政 4年(1821)父に勘当されて、間もなく、某大名・武家屋敷に
忍びこみ、誰も傷付けることなく、金だけを盗んだのが、泥棒稼業の初
仕事であった。以後、文政8年に捕縛されるまで、武家屋敷ばかりを狙
って、盗むこと28箇所32回に及んだ、という。武家屋敷は盗難があ
っても、泥棒に入られることを恥とし、奉行所には届けないから、現場
で捕まらない以上、気楽な稼業だったようだ。


軽かったんだねあの日のサヨウナラ  赤松蛍子


盗っ人というのは、すたすたと屋根から屋根を走り、塀を乗り越え、抜
き足・差し足・忍び足で忍び込み…というのが映画などでお馴染みだが、
次郎吉の場合、「だれそれに面会の用事がある」と御用を繕って、脇門
から屋敷内に入り、堂々と盗みをして帰る、などの手際をも駆使した。
被害にあった大名には、美濃大垣藩・戸田采女正の屋敷のように、一度
に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷
のように、1年おきに、数回も度重なり盗まれた大名もいた。これらは
次郎吉が供述した、屋敷の内情を細かく調べたうえでの犯行だった。


番犬は寝てるし窓は開いてるし  雨森茂樹
 


歌川豊国、鼠小僧の捕縛の図


それでも次郎吉は、一度捕縛されたことがある、文政8年(1825)、
土浦藩上屋敷に忍び込んだときのことである。その時は、与力の詮議に
おいて初犯と嘯き、入墨・追放の刑止まりで、定法の死罪は、まんまと
免れることができた。
(江戸時代の罰則では、十両の金を盗むと「死罪」と決まっていた。
そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという、法律
通の泥棒もいたという、ずる賢い次郎吉もその手を使った、のかも)


ペラペラの嘘を束ねた置き土産  高野末次


次郎吉は、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施し
たとされる事から、後世に「義賊」として伝説化されている。
その「義賊伝説」は、処刑直後から語られ、広まったようだ。曲亭馬琴
が見聞録『兎園小説余禄』に書き留めている。
『此のもの、元来、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ、いとはやくより、
放蕩無頼なりけるにや。家を逐れて (勘当されて)…中略…処々の武家
の渡り奉公したり。依之(これより)武家の案内(内情)に熟したるか
といふ一説あり。…中略…盗みとりあい、金子都合、三千百八十三両余、
是、白状の趣なりとぞ聞えける』
この金額は、ざっと今の五億円前後と算盤が弾き出す。


憚りながら裏街道の海月です  太田のりこ
 
 
 
 歌川豊国、捕り手と奮戦の図


 泥棒は一度やると止められない。一度捕まって性懲りもなく、また盗み
をはじめ、天保3年(1832)5月、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に
忍び込んだところを、北町奉行所の同心・大八木七兵衛に捕縛された。
「捕まるときの有様について、馬琴は」
『浜町なる松平宮内小輔屋敷へ忍び入り、納戸金(手許金)を盗みとら
んとて、主侯の臥戸(寝室}の襖戸をあけし折、宮内殿目を覚まして、
頻(しきり)に宿直の近習を呼覚して…中略…是より家中迄さわぎ立て、
残す隈なくあさりしかば、鼠小僧庭に走り出で、塀を乗て屋敷外へ堂と
飛びをりし折、町方定廻り役・榊原組同心・大谷木七兵衛、夜回りの為、
はからずもその処へ通りかかりけり、深夜に武家の塀を乗て、飛びおり
たるものなれば、子細を問うに及ばず、立ち処に搦め捕えたり』


爆睡はネズミが走ってからにする  岩根彰子


次郎吉は捕まって、同心の大谷にこんなことを言った。
「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受け
てから処刑されたい」理由に「俺が盗みに入った屋敷では、その責任を
とって切腹した人もいる。金銀が紛失したので、疑われている人も多い。
奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい」
時の奉行は、北町の榊原忠之。芝居小屋育ちの次郎吉得意の芝居っけの
ある供述は名奉行には通じず、奉行は、次郎吉に死罪を求めた。
そして獄門、市中引き回し時には、奉行の配慮で薄化粧の口紅を許され、
悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えた
という。やがて次郎吉が日本橋3丁目あたりへ差し掛かった時、二人の
女が目礼をした。次郎吉に深い恩を受けた情婦だったのだろう。


二メートル先には地続きのあの世  和田洋子


牢獄での取り調べの後の8月19日、市中引き回しの上、千住小塚原
(一説-品川鈴ヶ森)で磔、獄門に処された。
「この日の様子について、馬琴は」
『この者、悪党ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩を
受けたる悪党(仲間)おのおの牢見舞いを遺したる。いく度といふこと
を知らず、刑せらるる日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には、白練の
ひとへを重ね、襟に長房の数珠をかけたり。歳は36、丸顔にて小太り
也。馬に乗せらるるときも、役人中へ丁寧に時宜(お辞儀)をして、悪
びれざりしと、見つるものの話也。この日、見物の群衆、堵(垣)の如
し、伝馬町より日本橋辺は、爪もたたざりし程也しとぞ』


真っ先に鼻の形を思い出す  高橋レニ



  歌川国貞の描く鼠小僧


馬琴は、教養人としての自負があってか、記事を「虚実はしらねど風聞
のまま記すのみ」と結んでいる。
『世に様々な風聞風説が流れ、それが読書に記されている。たとえば、
捕らわれてしまう失策は、『自々録』によると、大きな鼾のせいだ』
という。
「松平宮内小輔の深殿の天井に、『日ごろの大胆をもて、深更をまつ
うち、眠りにつき、大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者
や有りけん、搦め捕られたり』と、まことに無様である」


目を開けたら既に三日がたっていた  寺島洋子


「盗み取った金額について」
「『天言筆記』には、盗賊に押し入りしは、大抵諸侯にして、七拾軒、
盗みし金額は、凡そ二万二千両なり」とある。
今のざっと35億円前後である。
この金高について『巷街贅説』(こうがいぜいせつ)には、
『大名方九十五ヶ所、右の内には、三十四度も忍入り候所も有之(これ
あり)、度数の儀は、八百三十九ヶ所程と相覚へ、諸所にての盗金相覚
候分、凡三千三百六十両余迄は、覚候由申し立て候』


見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美代子


…中略…『しかとは申し立て難き候得共、盗み相働き初めより当時まで、
凡そ一万二千両余と覚え申し候由、右盗金悉く悪所盛り場等にて、遣ひ
捨て候事之由』とある。
さらに、九十五ヶ所の氏名と、被害の金高を逐一列記している。
『その屋敷には、尾張、紀伊、水戸の御三家や、田安・一橋・清水の御
三卿まであり、盗人ながら見上げたものである。金額が最も大きいのは、
戸田采女正の四百二十両(6500万円前後)である』


三度目は許さぬよりも慣れてくる  深尾圭司



   歌川国周の描く鼠小僧


「義賊ということについて」
学芸大名として名高い松浦静山が、鼠小僧について
「『金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け
与えた』という伝説がある。この噂は、彼が捕縛される9年も前から流
れていた。事実、彼が捕縛された後に、役人による家宅捜索が行われた
が、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の
生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の
行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる」


とりあえず空っぽになってみようかな  山口美代子


「だが、現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記さ
れておらず、現在の研究家の間では『盗んだ金のほとんどは博打と女と
飲酒に浪費した』という説が定着している。
鼠小僧は、武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門
に徒党を組むことなく、一人で盗みに入ったことから、江戸時代におけ
る反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使わ
れることが多い。 しかし、これについて、資料が残されていない中で、
鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。


伏せ字には発情しないお約束  木口雅裕


「鼠小僧が大名屋敷を専門に狙った理由について」
敷地面積が非常に広く、一旦、中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と、女性が住んでいる奥が、はっきりと区別されて
おり、金がある奥で発見されても、女性ばかりで、逃亡しやすいという
理由が挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、商家は逆に、金にあかせて警備を厳重に
していた。大名屋敷は、謀反の疑いを、幕府に抱かせるおそれがあると
いう理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体
面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。


ふくらはぎだけが眠っている童話  くんじろう


「松浦静山『甲子夜話』」
幕政での栄達という青雲の夢破れ、47歳で平戸藩主を隠退した静山は、
以後、82歳で没するまで、学芸に親しみ、怪談奇談に耳をそばだて、
隠居仲間やお抱え相撲取り・弓職人など多彩な人々との交流を楽しんだ。
本所下屋敷で隠居暮らしを堪能しつつ、鼠小僧の評判に興味をもち、そ
の名の由来について、『甲子夜話』に書き記している。
「或人言ふ。このごろ都下に盗ありて、貴族の第(屋敷)より始め、国
主の邸にも処々入りたりと云ふ。然れども人の疵つくること無く、一切
器物の類を取らず、唯、金銀のみ取去ると。されども、何れより入ると
云ふこと、曽(かつ)て知る者なし。因て人、「鼠小僧」と呼ぶ」と。


くずかごにまじめをぽいっと捨てぬよう  岡田幸男

 
 
鼠小僧こと稲葉幸蔵・松山・二人の娘・みどり
 
 
「鼠小僧の母」
江戸の末期、天保(1831~)のころ、西の郡と呼ばれていた蒲郡に、
江戸から一人の老婦人が、ひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。35、
6年ぶりのことだ。家の裏手には、鬱蒼とした藪が広がっていた。その
藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある。と、
近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。
老婦人の名を「かん」といった。ある日のこと、道でかんとすれ違った
住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんで
すか」 かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。


知り合いではないが知らないでもない  佐藤正昭


暫くたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。
『がまごおり風土記』(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋
敷に忍び込み、天保3年に38歳で処刑された鼠小僧次郎吉は、蒲郡の
生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手
に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。
この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。 次郎吉の生家は現在
の神明町。生後間もなく、父の定七は江戸に旅立ってしまう。1、2年
後、母のかんは、定七を追って、幼い次郎吉を背負い上京した。お墓の
いわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。
真実はともかく鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。
地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。                        
 
 
正座して一身上の話きく  都司 豊


「次郎吉は用心深い」
必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなく
なるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると、証拠になる
からである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを
守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになる
と棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。
それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎、次兵衛などと使い分
けていた。


路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香
 


浅草胡蝶の屋根に現れた鼠小僧(18代目・勘三郎)


次郎吉の墓は、本所回向院にあり、戒名は「教覚速善居士」俗名・中村
次良吉とある。戒名の教覚速善とは、頭脳よく、記憶力もよく、素早い、
が次郎吉の持っていた印象で、とは何を表したものか、義賊であった
ことを示したものなのだろうか。
「鼠小僧の辞世」
「天が下古き例(ためし)はしら波の 身にぞ鼠とあらわれにけり」
「ウン? なんとなく聞いたことがある、ってか」
「やっぱり、黙阿弥の作品だから白波五人男に似てしまうんですな」


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


「鼠小僧に死刑を宣告した奉行・榊原忠之」
北町奉行としての忠之は、迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民か
ら人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行
中でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が7,8年、時に10
年以上掛かっていた採決を、2,3日で行ってしまう」ほどのスピード
裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で、訴訟費用に苦しんで
いた江戸庶民から歓迎された。また在任中に、鼠小僧次郎吉、相馬大作、
木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。


闘って大きいコブの二つ三つ  佐々木雀区

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