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川柳的逍遥 人の世の一家言
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出まかせでも言えぬ台詞がありました  生駒さとし








朝廷と幕府の対立はいよいよ深まり、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を呪いに
よって滅ぼそうとする「調伏の修法」を相次いで行うようになった。
また「城南離宮の流鏑馬武者揃え」という名目で多くの武士が結集した。
そして承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇はついに挙兵した。
上皇が「北条義時追討の宣旨」を、全国に発したのは、翌5月15日の
ことで、京都守護の伊賀光季を攻め滅ぼしたのと同時であった。
「承久の乱」のはじまりである。



指切りは十年前の生ゴミに  蟹口和枝




「鎌倉殿の13」 承久の乱





         後鳥羽上皇と鎌倉幕府軍


「伊賀光季のちょっと泣かせるエピソード」


承久3年5月10日頃のことである。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府討伐を前
に、近臣の三浦胤義を「ちょっと来てくれないか」と、呼び出し、 
「鎌倉挙兵に際して、仲間が大いに越したことはない。
 京都守護職の両名は引き込めないか」
と、腹の内を晒した。(胤義は,三浦義澄の子で、三浦義村は兄になる)
時の京都守護職は、大江親広(大江広元の子)と伊賀光季である。
「大江はお召しに応じるでしょうが、伊賀は、北条の縁者ゆえ応じます
 まい。いずれにせよ形式的に召し出されて、応じなければ、討伐する
 大義名分が立ちましょう」
と、胤義は返答した。



戻っても進んでもそう変わらない  立蔵信子




その返答に後鳥羽上皇は、さっそく大江と伊賀の両名に使者を出した。
大江親広は、50騎ばかりの軍勢を率いて直ちに参上してきた。
「よう参った。鎌倉を討つにつき、京と鎌倉のいずれに与するか、
 今ここで申せ」
親広は朝廷トップの後鳥羽上皇に面と向かって「鎌倉につきます」とは
言えず、上皇に味方する旨の起請文をその場で書かされてしまった。



哲学はないが真面目に生きている   岡本余光



一方、伊賀光季は上皇の意図を察し、すぐには呼応せず慎重に回答した。
「畏まりました。ただし某(それがし)は、鎌倉の命によって、京都守
 護職を預かっているものですから、まずは鎌倉へ指示を仰いでから参
 ります」
<やはり胤義の申した通りか…>
と、苦々しく思いながらも上皇は、執こく光季に呼び出しをかけるよう、
胤義に命じた。
「特に変な意味ではないし、難しく考える必要はない。
 上皇が直々のお召しであるのだから、つべこべ言わんでさっさと参れ」
<変な意味ではない>と、
わざわざ言っている時点で、変な意味じゃなかった例しはない……。
ここで断れば、命がないと覚悟の上で、なおも光季は、拒んだ。
「では、まずはどんな意味であるのか詳しくお教えいただき、その上で、
 鎌倉の指示を受けて参上したく思います」
<伊賀光季め、一度ならず二度までも……>
怒り心頭に達した後鳥羽上皇は、胤義に光季を討てと命じた…のである。


イモタコナンキンに白紙委任状  田口和代



上皇の兵が攻めてくる情報を得た光季は、家来を集め「逃げてもいい」
と、説くも27人の忠臣は、光季と戦う覚悟をしめした。
また元服したばかりの14歳の息子・寿王(光綱)にも「生きて逃げ切
り、鎌倉に尽くしてくれ」と申し付けた。
しかし光綱は、
「弓矢をとる武士の子が、親や家臣が討たれようとしているのに逃げた
 とすれば、いくら幼いからといっても、誰も許してくれないでしょう。
 親を見殺しにした臆病者と指さされるのは、恥ずかしいことなので、
 是非、お供がしたいと存じます」
と、覚悟を語った。



白桃になりたいピーマンの一途  合田瑠美子



息子の覚悟に光季は、一緒に討死することを決め、家臣の治部次郎に命
じて、光綱に武具を着けさせて、討手が攻めてくるのを待った。
夜が明けると、後鳥羽上皇に命じられた800余騎が光季の宿所を取り
囲み、攻撃をしかけてきた。
光季の家臣たちはよく防戦したが、みな討死した。
邸に火をかけられた光季と光綱「今はこれまで」と言って、腹をかき
切って燃え盛る火の中へ飛び込んだ…、という。



二度とない今日という日が無為に去る  佐藤 瞳
                                           



「政子の大演説」





         政子の屋敷はこのようなものか



政子の屋敷は、鎌倉の鶴岡八幡宮の東側にあった。
今は住宅街になっていてなんの痕跡もないが、夫の頼朝の屋敷に比べて、
十分の一程度の広さしかなかったらしい。
5月19日正午、上皇挙兵の知らせが鎌倉に届き、政子のもとには、
上皇の密使から「鎌倉討伐の宣旨」が届けられた。
宣旨の知らせを聞いた武士たちは、ただちに政子の館に集まってきた。
それにしても、いまだかつて朝廷に面と向かって弓をひいたものはない。
真向から朝廷に歯向かうことは、許されないと感じる武士たちは、
いずれも動揺を隠せなかった。


爬虫類図鑑で武士の目を探す  酒井かがり



長い道のりを経て、ようやく勝ち得た武士の権利が、いま失われようと
している。 それを許してはならない。
尼御台は、事態の深刻を打破するために毅然として立ち上がり、館の前
に武士たちを集めて語りはじめた。
「政子の大演説」と、伝わるものである。
『皆心を一つにして承るべし。 これ最期の詞なり。
 故右大将軍朝敵を征罰して、関東を草創してよりこのかた官位といい、
 俸禄といい、その恩山岳より高く、溟渤(めいぼう)より深し、
 報謝の志浅からんや。
 しかるに今逆臣の謗(そしり)により、非議の論旨を下さる。
 名を惜しむ族は、早く秀康・胤義を討ち取りて、三代将軍の遺跡を全
 うすべし…』  (『吾妻鏡』)



あの人の煙を見てるいつまでも  丸山 進



【要約】
「皆心を1つにしてよく聞きなさい。これは私の最期の詞です。
 頼朝公が朝敵を征伐し、関東に幕府を創設して以来、皆の官位は高く、
 収入は大きくなった。
 その御恩は山よりも高く、海よりも深いものです。ところが上皇は今、
 逆臣の言葉に惑わされたか、追討の宣旨を下された。
 名を惜しむものは、即座に出陣して、朝廷に味方する侍や裏切り者を
 討ち取り、3代の将軍が築いたものを守り抜くのです」
「吾妻鏡」によると、政子の言葉が終わった時、武士たちは涙を流し、
命を捨てて、その恩に報いると誓い合ったという。


遠くから見守る女の心意気  生田頼夫




       承久の乱幕府軍進撃図



「政子の大演説」から3日後の5月22日から25日にかけて幕府軍は、
政子の甥・北条泰時を筆頭に時房、朝時、三浦義村、武田信光らを将と
して東海・東山・北陸の三道から京に進撃を開始した。
その軍勢は、19万といわれる大軍だった。
後鳥羽上皇は、3万の防衛線を配置する一方で、怨敵降伏の祈祷ばかり
行っていた…という。
仙堂御所では上皇は、幕府の勢力を聞きオロオロするばかり。
「話が違うじゃないか! 宣旨を出したら、たちどころに関東は従うと
 言ったではないか」
状況が把握できてていない側近は、上皇を宥めるのに四苦八苦する。
「奴らはただ…血迷って身のほどを忘れているだけです」
「しかし敵は…19万だぞ」
「うっ…数ばかり多くったって、院の威厳にかなうわけはありませんよ」
「尾張川に防衛線を張り、そこで追いかえしますから…」
などと側近は寝ぼけた言をくりかえしている。




恐ろしいイワンの馬鹿を越える馬鹿  ふじのひろし




             宇 治 川 の 戦 い



6月5日、幕府軍は、上皇側の第一の防衛線である尾張川をやすやすと
突破する。
さらに美濃の摩免戸(まめど)の防衛線をも、あっさり突破し、
13日には、上皇側の最後の防衛線である宇治川に到着していた。
が、宇治川には、思いもよらぬ敵が待ち構えていた。
大雨のあとの宇治川は、濁流で流れも激しく荒れていたのである。
「はたしてどうしたものか、待つか?…この勢いのままいくか?…」
と、慎重な北条泰時は、進軍することに煩悶した。
そんなところへ「私に先陣を…」と、佐々木信綱名乗りをあげた。
それに奥州の芝田兼能(かねよし)が続いた。
信綱隊と兼能隊の勇にも、宇治川の濁流は、勇猛な兵士を容赦しない。
襲い掛かる波に関政綱以下、900人余が流され溺死した、という。
次々と波にのみ込まれる兵士たちを見て、泰時は自責の念に駆られた。
しかし、無事に川を渡り切った兵士たちが次々に後鳥羽軍を蹴散らして、
宇治川の防衛線を突破してのけた。




過去形にすれば流れもおだやかで  荒井加寿




15日午前10時、ついに、幕府軍は京の都に侵攻。
上皇軍側の総大将の藤原秀康三浦胤義・山田重忠らは、最後の戦闘は、
後鳥羽上皇のいる御所でと考えた。
上皇と命をともにと考えたのである。 「東寺の戦い」である。
が、そこで後鳥羽上皇が、上皇の兵士たちにかけた言葉は、
「ここにいたら幕府軍が攻めて来る。お前たちはどっかに行け!」
というものだった。
その言葉にあきれかえった藤原秀康は、後鳥羽上皇を見限り、
三浦胤義・山田重忠らの兵は、それでも京の入り口・東寺に籠って最後
まで戦うことにした。
戦意の差もありなすすべもなく三浦胤義軍は敗走。
胤義は「太秦に住まう妻子の姿を一目見て、最期を…」と、考え太秦の
家に向かったが、そこには既に敵がおり木嶋神社の社に身を潜めたいた。
わずかな我が家への道をも閉ざされた胤義父子は、古くから仕える郎党
藤四郎頼信「自分たちの首を家まで届けてくれ」と言い、自害して
果てた。



裏も表も舌の根までも見せている  大葉美千代






                                           北条泰時京に入る




後鳥羽上皇は、比叡山の僧兵に援軍を求めたが、それも叶わず、敗北は
決定的となった。上皇は泰時に使者を出し、義時追討の宣旨」を取り消し、
同時に、自分の旗下で戦った「藤原秀康・三浦胤義らを追討」の宣旨を下
した。
倒幕計画の責任を彼らに推しつけ、自分だけ命乞いをしたのである。
「承久の乱」はわずか一ヵ月で終結。
8日後の6月23日、勝利の知らせが鎌倉に届いた。
「合戦無為にして天下静謐」
(大した合戦をするまでもなく、天下は治まった)と。
7月、後鳥羽上皇は、隠岐に順徳上皇は、佐渡に流され、
10月には、土御門上皇が土佐へ配流された。



葉の裏でしがみついてる雨蛙  真継久恵

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